2007/06/14

めちゃくちゃな愛 - 10人の聖なる人々その1 -

少し前になりますが、たらさんのコメントで書かれていた「10人の聖なる人々(リンク先はアマゾン)」を読んでいます。

それぞれ感動的なお話ですが、気になった言葉がゼノ修道士のお話に出てきた「めちゃくちゃな愛」です。この言葉は著者がインタビュー中にシスター西川から聞かれた言葉です。もともとある神父様が言われた「イエスの愛はフーリッシュでパッショネートだ」という言葉に対して、シスターが「このフーリッシュという言葉はね、直訳すれば馬鹿馬鹿しいとなるのでしょうね。でも、めちゃくちゃであると訳してもよいと思うんですよ」と言われたそうです。

この言葉は蟻の街で活躍したゼノ修道士にぴったりです。「馬鹿馬鹿しいほどの情熱を胸に、めちゃくちゃに動き回った」「ひたすらに目の前の仕事をこなした。愚直なまでの激しい情熱であった」という言葉以上に、「カワイソコドモ」のために奔走したゼノ修道士を表す言葉はないでしょう。

この言葉、この本に出てくる他の人、コルベ神父や、北原怜子さん、マザーテレサにも当てはまります。なぜなら、それは元々の言葉がイエス・キリストを表した言葉だからです。

頑固とか、犠牲とか、そんなありきたりの言葉ではないのでしょうね。自分の気持ちに正直に向き合うと、そうせざるをえないような強い気持ち、傍から見ればとんでもなく大変なことなのに、その行いで幸せを感じてしまうひたむきな愛。それこそが、人類を救う愛なんだと思います。

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2007/03/10

松居桃楼さんと『蟻の街の子供たち』

蟻の街のマリアと呼ばれた北原怜子さんの「蟻の街の子供たち」聖母文庫(聖母の騎士社)は北原怜子さんの書かれた手紙と、蟻の街の子供たちの作文から構成されています。

北原怜子さんは、長い手紙を突然書き出して、書き終わっても出さずにしまいこみ、最後に焼いてしまう癖があったようです。松居桃楼(まついとおる)さんの書かれた「あとがき」によるとこの本は、そんな手紙が何かの間違いで紙屑として蟻の街に運ばれたなかから、構成を決めた松居桃楼さんが運良く拾い出したものの一部です。北原怜子は絶対に不承知だったそうですが、周囲から「世の中のため、というより天主様のため」と言われて出版にこぎつけたようです。

やなぎや けいこ著「アリの町のマリア」(ドン・ボスコ, p.35)によると、松居桃楼さんは歌舞伎の脚本家で自身もシナリオを書かれていた方です。生活のために法律事務所で働いていた時に、「アリの会」立ち上げの相談を受け、アリの町に住まれるようになったそうです。ちなみに「アリの会」の名付け親でもあります。

松居桃楼さんは元々仏教に興味を持ち比叡山に登ったものの、僧や信徒のあり方に幻滅を感じて山を下りられたそうです。その後、キリスト教に興味を持たれましたが、またしても聖職者や信徒のあり方は理想とかけ離れていたようです。

そんな、松居桃楼さんの構成による「蟻の街の子供たち」は、北原怜子さんが松居さんの理想とするキリスト者への道をどのように歩んでいったかを、手紙を使って描いています。

北原怜子さんは蟻の街のマリアという「おり」の中に縛られることを嫌がった事があったようです。そのとき、松居桃楼さんは人間は天主様の描かれた演劇の俳優に過ぎず、蟻の街の女優が、演じている最中に『私は本当のマリアではありません』と言うのは茶番芝居だと言われた事があるようです。この本は、そんな蟻の街のマリアがどのように演じたかが書かれているともいえます。(以下のリンクは以前に書いた感想です)

この「蟻の街の子供たち」は、蟻の街の移転にも一役を買いました。そこには、生活の苦しい人たちのお話や、貧しく複雑な家庭の子供たちが北原怜子さんに見守られて、生活している様子が生き生きと描かれています。

北原怜子さんが同じ高さの目線で奉仕した姿に影響されたかのように、心がすさんでいた街の人たちも、教会を建て、ドラム缶のお風呂を作るなど、徐々に協力します。それに答えるように子供たちも、少しずつ自立し、他人へのやさしさを身につけて成長していく様子が描かれています。

また、北原怜子さんのお茶目な一面も描かれています。柔道の相手をして負けると明かりを消して逃げてしまう、入浴時に騒がしいので水をかけて黙らせる、といった様子が描かれていいます。私的な手紙だからこそのリアリティでしょう。

この本は比較的入手が容易ですので、アリの町をご存知の方も、ご存知でない方も、
ぜひお読みください。

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北原怜子の回心 - 蟻の街の子供たち その2 -

回心というとなんとなく一生に一度のような気がしていたのですが、灰の水曜日に「回心して福音を信じなさい」と言われます。大辞林 第二版(三省堂)によると、

あるきっかけで、従来の生き方を悔い改め、新しい信仰に目覚めること。宗教的思想や態度に明確な変化が生じ、新たな統一的自我が生まれる体験。

とあって、回心というのは何度でもありうるものなのでしょうね。

回心が何度も経験できるものであるとするなら、北原怜子さんは、ゼノ修道士と松居桃楼さんを通して、4度の回心をしています。

北原怜子さんは大学教授のお嬢様でしたが、人生とは何なのか、メルセス会のシスターに教えを請い、洗礼を受けました(1回目の回心)。

そして、ゼノ修道士から蟻の街の話を聞き奉仕を始めます。しかし、松居桃楼さんから偽善だと言われて自らバタヤになり、蟻の街の子供たちと共に屑を集めます(2回目の回心)。

結核の療養を終えて久しぶりに蟻の街に戻った際に、子供たちの成長に自分の居場所を見失うものの、アリの町にとらわれないフィリピン・モンテンルパの戦犯死刑囚のための活動に目覚めたます(3回目の回心)。

アリの町に代わりに来られた女性がバタヤの方と結婚することを聞き、それまでの、自分以外では子供の指導はできまい、蟻の街に飛び込んでバタヤになるだけで自分を捨てたことになる、といったおごりに気づき、蟻の街を去ろうと決めたとき(4回目の回心)。

北原怜子さんは、回心するたびに痛悔の念が強くなっています。これがキリスト教の深いところなのでしょうね。最初はわかったつもりえらそうにしていても、教えを理解すればするほど自分の罪深さがわかり、苦しくなってきます。

以前、入門講座で神父さまが「洗礼を受けたから幸せになれると思ってはいけない。もっと苦しくなる」と言われていましたが、こういうことを言われていたのでしょうね。

(反面、すべての出来事が恵みに感じられる、怒りや悲しみといった強い感情にとらわれなくなる、といった面もあるので差し引きプラスだと思っています。念のため。)

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2007/03/08

蟻の街のマリア聖堂 - カトリック潮見教会 -

Shiomi 出張が早く終わったので、カトリック潮見教会(カトリック東京大司教区の紹介)に聖体訪問してきました。

東京駅の長い乗換えに耐えてJR京葉線の潮見駅を降りて5分ほどのところ、上に十字の描かれたカトリック中央協議会の黒いビルの隣に潮見教会はあります。

Satoko 敷地の中を見渡すと、石碑の横に北原怜子さんの像が「蟻の街のマリア」と名づけられた聖堂の入り口を見守るようにたたずんでいます。足元には

われは主のつかいめなり、仰せの如くわれになれかし エリザベト怜子

と書かれています。これは、お告げの祈りにもなっている受胎告知の際の聖母マリアのことば(ルカ1・38)です。神の道具として生き抜いた北原怜子さんにふさわしい言葉ですね。

Cross 入って正面左に蟻の街の教会の十字架がありました。どこにでもありそうな材質、左右が不ぞろいでいかにもありあわせで作ったのような十字架です。でもこの十字架が、蟻の街の人たちに大きな恵みを与えたのだとおもうと、十字架に跪きたくなりました。

聖堂内(紹介ページ:リンク先は「カトリック報恩寺教会へようこそ」)は広くてゆったりとしています。左側には立派なピエタ像があり、聖母マリアが亡くなったイエスさまを抱いています。傍に聖ヤコブと思しき男性が立っていました。そして、後ろには路上生活者のための募金箱がありました。

壁にかけられた十字架の道行きのレリーフには北原怜子さんの姿も彫り込まれているそうですが、すっかり失念していました。いつか潮見教会でミサに与った際には、確認したいと思います。

帰りに玄関の十字架の横にある蟻の町の紹介を見ていて気づくことがありました。伝記を読む分には、移転が決まり、北原怜子さんが亡くなっておしまいでした。しかし、その後も蟻の街は移転し、教会を建て、新蟻の街の人々には様々な生活が続いていたんですね。

北原怜子さんは若くして亡くなられましたが、その意思は引き継がれて永遠のものとなりました。Wikipediaによると北原怜子さんを福者・聖人に叙しようという動きもあるそうです。

Jesus 帰りに隣のカトリック中央協議会のビルを見ると、復活されたイエスさまが見下ろされていました。

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2007/03/01

苦しいのは自分だけじゃない - キリストに救われた理由 -

これまで、なぜ教会に通うようになったかを聞かれたとき、「遠藤周作の『キリストの誕生』でキリストの受難を知り、自分の苦しみなどは大したことがないと思い、頑張ろうと思った」と言っていました。でも、なにか違うと感じていました。

月曜日のYoshi原作翼の折れた天使たち 第1夜『衝動』(リンク先はフジTV)を見て、その理由に気づきました(以下、ネタばれ注意)。

石原さとみさん演ずる主人公ユリは親の愛情を感じられず、手首を切ったことがあり、ビルからの飛び降りを何度も試みています。そこに現れた裕紀。この青年は白血病でしたが、どうせ無駄だと薬物療法を避けていました。

命を大事にするように諭す裕紀は、逆にユリに言われます。

「神さまに恥ずかしくないぐらい、精一杯生きているの!」

このひと言で、裕紀は薬物療法を決意します。そんなことも知らないユリは、愛情表現の方法を知らない親の言葉に傷ついて、自殺しようと再びビルの屋上に昇ります。病室から見ていた裕紀はユリを救いますが、その直後にユリの目の前で倒れてしまいます。裕紀は亡くなりましたが、ユリはようやく現実に向かい合うようになります。

このドラマ、心療内科に通っているユリが、そんなに簡単に前向きになれるのかとも思いました。しかし、その理由を考えると、昔の私に近いような気がしました。

まず、こう考えました。裕紀が死を目の前にしても頑張った。それを知ったユリは自分の苦しみなど大したことはない、と思ったのではないかと考えました。しかし、これは納得できません。身体の病気と、心の病気、どちらが苦しいかなんて、本人でもわからないですよね。

そこで思い出したのが、北原怜子著「蟻の街の子供たち」に出てきたお話です。ある集落に住む貧しい家族は、家も職も失い心中することを決意していたそうです。そして、子供たちの最期の思い出にと隅田川のボートに乗りました。大はしゃぎの子供たちをみて、殺すことが忍びないと奥さんが思っていると、目の前に墨田公園の集落に立ち並ぶ掘立小屋が目に入ったそうです。

「ああやって立派に生きぬいている人が、あるじゃありませんか。私たちだって、死んだ気になれば、なんとか立ち直ることができるでしょう」

奥さんがそう言って、ご主人に取りすがったというお話です。

この奥さん、子供がかわいそうだという気持ちももちろんあったでしょうけど、目の前の人たちに共感したんだと思います。それまで自分達だけが苦しいと思っていたのに、同じように苦しんでいる人が他にもいる。苦しいのは自分だけじゃないんだ。と、思ったのではないでしょうか。

はじめに書いたドラマのユリも同じように自分ほど苦しい人間はいないと感じていたのではないでしょうか。そして裕紀のことを知って、苦しいのは自分だけじゃないと感じたと思います。同じ苦しみを感じている人を知ることで、苦しみが軽くなったと思います。

そこまで考えて、ようやくわかりました。キリストの受難、特に遠藤周作さんの描くキリストは、惨めです。弟子に裏切られただけでなく、理解さえもしてもらえなかったのです。私は、キリストの姿を見て苦しみが和らいでいたのです。

それは他の不幸なお話でも良かったかもしれません。でも、キリストは単に不幸なだけではありません。人々を救おうと十字架にかかったのです。もちろん、私のためだけではないですが、私のためにも十字架にかけられたのです。

それは、私が神さまを知る2000年前に用意されていました。まさに「神がまずわたしたちを愛してくださった」(一ヨハネ4・19)のです。

もし、あなたが苦しみを抱えているなら、遠藤周作著「キリストの誕生」をぜひ読んでください。苦しみがすこし軽くなるかもしれません。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/02/17

聖コルベ神父と26聖人 - 天使のゼノさん -

ゼノさん、あなたは殉教をおそれますか。」とたずねたミキシミリアノ・マリア・コルベ神父(本文中ではマキシミリアン・コルベとされています)は、「わたしといっしょに二十六聖人の殉教の地である日本に行きましょう。」日本26聖人のお話をして、ゼノさんと共に日本に来られました(桑原一利著「日本二十六聖人の祈り 天使のゼノさん」pp.11-12,聖母文庫)。

あるとき、コルベ神父は二十六聖人の記録の中に、聖マチアスを見つけて深い感動を持って読んだ、と話されました。この聖マチアスは、逮捕者の名簿に載っていなかったのですが、別人の料理人マチアスがいなかったので身代わりになったそうです。コルベ神父は聖マチアスがヨハネ福音書(ヨハネ11・46-57など?)の証をしたと感動されていたのです。

料理人のマチアスについても、立派な人生だと語られました。

この人は、自分が選ばれなかったことを残念に思い、しばらく悲しみましたが、自分の身代わりになった聖マチアスのことを誇りに思い、彼の身代わりの愛を讃えることに、残りの生涯のすべてを費やしたのです。これもなかなか出来ることではなかったでしょう(pp.80-82)。

このように聖マチアスを語ったコルベ神父は、アウシュビッツで同じように身代わりになられました。(pp.121-122)

ナチスのアウシュビッツ強制収容所では、同じ部屋から脱走兵が出ると十人が餓死刑になります。コルベ神父のおられた14号棟から脱走兵が出て、10人が選ばれました。その中の一人フランシスコ・ガヨビニチェク氏は

「さようなら、かわいそうな妻、かわいそうな子供たち、孤児になるなよ。ああ、子供たちに会いたい。」

と叫びながら列に並び、泣きながら立っていました。すると、コルベ神父は疲労でフラフラでしたが、軍曹の前に進み出て言いました。

「わたくしは、カトリックの老いた司祭です。妻子ある、あの人の身代わりに、自分を連れて行ってください。」

こうして、コルベ神父は知らない囚人の身代わりになるという愛の行為で、囚人たちを永遠の命の中に導きました。また、

身代わりになったコルベ神父は、真っ裸にされ、食事と水のかわりに屈辱のみを与えられましたが、いつもきちんとした司祭らしい態度を守り、賛美歌を先唱し、祈りを捧げ、みなを最期まで祝福し、励ましました。地下室はまるで教会のようだったと言っています。

多くの囚人が2週間を過ぎると死ぬ中、肺結核と気管支炎を患っていたコルベ神父は3週間目まで生き長らえ、フェノール注射で殺されました。そのときも、とてもやさしい顔で注射をしたドイツ人の目をじっと見たそうです。

本文中には「自己犠牲」という言葉が書かれていますが、そんな言葉では表し難い愛を感じます。遠藤周作は「沈黙」の中で、踏み絵を踏もうとする神父に「踏むがよい」と言わせますが、そんな神の姿を、コルベ神父は見ていたのだと思います。

脱走者は1年ほどで収容所に戻り、処刑されたそうです。命を救われたフランシスコ・ガヨビニチェク氏も戦争が終わって家に帰ると、すでに子供たちは亡くなっていたそうです。なんと戦争は残酷なのでしょう。そんな中で、神がコルベ神父を通して示された愛はよけいに輝いて見えます。

ガヨビニチェク氏は93歳まで長生きされたそうです。会うすべての人にコルベ神父の愛を語り継いだそうです。そして、いつも

「自分が殺されて、優秀な司祭だった神父さまが生き残ったほうが、もっと多くの人を救えてよかったに違いない」

と、言われ、聖コルベ神父に祈られていたそうです。コルベ神父は亡くなられましたが、その愛は永遠に語り継がれました。

殉教した聖マチアスもすばらしいですが、殉教しなかった料理人マチアスもすばらしいと思います。同じように聖コルベ神父もすばらしく、ガヨビニチェク氏もすばらしい人です。

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2007/02/15

汚名を着せられるとき、あなたがたは幸い - 天使のゼノさん その1 -

桑原一利著「日本二十六聖人の祈り 天使のゼノさん」(聖母文庫)を読みました。26聖人の天使が出てきて、ちょとファンタジックな本です。

コルベ神父から日本二十六聖人の話を聞いて日本に来た修道士のゼノさんは、26聖人に守られながら日本で暮らします。聖母の騎士を発行するとき、コルベ神父の書かれたラテン語を大浦天主堂の梅木神父が日本語に訳そうと悪戦苦闘していると、ことばの天使 聖パウロ三木が現れてニューロンを操作します。

傍にいたゼノさんには言語野のニューロンを善意に移動させます。聖母の騎士は順調に発刊され、ゼノさんは言葉の発達は止まりますが、「マリアさまにお祈りタノミマース」と言いながら、良い行いをたくさんするようになりました。そんな感じで、事実とファンタジーを織り交ぜながら話が進みます。

戦争中は大変だったようです。そして、原爆投下によって長崎の町は壊滅状態になり、多くの人が亡くなりました。しかし、コルベ神父が選んだ土地、多くのキリシタンの骨が下に埋まっているとされた土地に建っていた修道会は、比較的小さな被害ですみました。

戦後になって、ゼノさんは「カワイソこども」をあつめて聖母の騎士園をはじめます。慈善事業を始めたゼノさんは、長崎県知事から孤児救済会長を命ぜられ、各地の孤児を集めました。

蟻の町の神父とも呼ばれていたゼノさんは、蟻の町のマリアと呼ばれた北原怜子さんと共にアリの町をはじめ色々なところで奉仕して、多くのマスコミにも取り上げられました。

そんなゼノさんに対して、マスコミを利用して寄付させるのは正しいことかと批判されました。「蟻の町に十字架」という教会を建て様としている記事が新聞に載ったときは、神父でもないのに、売名行為だと批判されました。空き瓶の回収や下着の配布でさえも偽善と批判されました。そんなとき、ゼノさんは言いました。

「あなた、そんなこと考える、自分かわいいからね。自分かわいいと他人にどう思われるか、気にするね。自分どう思われる、これ、関係ないよ。自分、まず、捨てなさい。カワイソこども、たっくさーんいます。ゼノ、死ぬひまもないくらい、いそがしいよ(p.169)。」

そんな元気なゼノさんでしたが、ゼノ少年牧場を設立するころには体が弱り、日本も変わってきました。ゼノさんだから協力したのにゼノさんが運営しない、ただで働かせてゼノさんは何もしない、売名行為だと批判された時には、

もう、自分の活躍の場はないのだろうか。日本は変わってしまったのだろうか。

と悩みました(p.266)。

ポーランドから言葉のわからない日本で奉仕し、帰る機会があるのに帰らずに、全国のボロのひと、カワイソこどもを数え切れないくらい助けたゼノさんは、外にも出られなくなり、ついに「ゼノ、頭、ボロなりました」

売名行為とさげすまれ、感謝の言葉のかわりに悪口を言われたゼノさんでしたが、さいごに幸せなひと時がやってきました。1981年教皇ヨハネ・パウロ2世が日本にやって来られたのです。東京カテドラル聖マリア大聖堂横のカトリックセンターで教皇に謁見したとき、周りの人たちはゼノさんが教皇とわかるかどうか心配だったようです。しかし、教皇が

「ゼノさん、長い間、貧しい人や、かわいそうな人を助けてくれて、ありがとう」

とゼノさんの手を握り、頭をなで、車椅子のまま抱きかかえるようにされると、ゼノさんは、

「パーパ、パパ、パーパ」

と、大きな泣き声をあげました(p.289)。その様子はTVで中継され、ゼノさんにお世話になった人、ゼノさんを知っていた人、そして蟻の街を描いた「星の降る街」を演じたタカラジェンヌたちもゼノさんに感謝の涙を流したのでした。

謁見の翌年、コルベ神父と長崎に上陸してちょうど52年の1982年4月24日、天使のようなゼノさんは、マリア様に抱かれて帰天されました。

この本を読んで、先日のミサの朗読箇所を思い出しました。

人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。(ルカ6・22-23)

アーメン

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/02/06

愛は、行為にあらわれるものです - アリの町のマリアを読み終えて -

やなぎやけいこ著「アリの町のマリア」ドン・ボスコ社を読んでいたとき、マザーの言葉が目に入りました。

愛は、愛するというだけでは
何も残すことができません。
それだけでは意味がないのです。
愛は、行為にあらわれるのです。
そしてその行為は奉仕です。
愛のほんとうの意味は、
神との結びつきからでなければ
わかることができません。
その神との結びつきから
家族への愛、あなたの周りの人たちへの愛、
貧しい人たちへの愛、
これらが自然に実を結ぶのです。
(「マザー・テレサ 日々のことば」女子パウロ会 p.33)

まるで、アリの町のマリア北原怜子さんのことを書いたような言葉です。今も世界中で多くの人が、さまざまな所で、色々な奉仕活動をされているのでしょうね。実践こそ愛、せめて身の周りの小さな奉仕からでもはじめようと思いました。

そういえば、映画「マザーテレサ」では、会議に高い水が出たことを問題にして、マザーが協会を解散してしまったことを思い出しました。マザーも北原怜子さんと同じように、隣人と同じ目線で接していた人だったんですね。

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マリアさまへの祈り - アリの町のマリア その5 -

メルセス会で洗礼を受け、ゼノ修道士との出会いから蟻の町に通うようになった北原怜子さんは、子どもたちだけでなく、心が必要だった蟻の町の人に愛を持って接しました。

その活動の影にはマリアさまへの祈りがありました。子どものバタ車(大八車)を押していて重さに負けそうになったときも(他の子どもたちが現れて手伝ってくれました)、子どもたちの机を買うためにくずを拾い始めたときも、旅行にいく約束をしたものの費用をためる期間がなかったとき(知り合いが空き缶を譲ってくれました)、マリアさまにお祈りをして乗り越えてきました。

このうち、もっとも感動的だったのは、机を買うために自ら一匹のアリとなってくず拾いをはじめたときのことです。近所の人に「なにも大学教授のお嬢さんが、くずひろいまですることはないのに」と言われたのです。誰だって後ろ指は指されたくありません。真っ赤になりながら北原怜子さんは「ああ、マリアさま、助けてください」と祈りました。すると、心が静かになり、恥ずかしさが消えたそうです(やなぎやけいこ著「アリの町のマリア 愛の使者 北原怜子」ドン・ボスコ社、p.107)。

余命があまりないと知らされて、北原怜子さんがアリの町に引っ越したときもそうでした。東京都が移転先の土地を斡旋してくれる話が持ち上がったのですが、購入金額に隔たりがあり交渉は難航しました。そのときも、北原怜子さんは祈り続けました。

「み旨ならば、アリの町が八号埋立地へ移れますように。そのためでしたら、わたくしの命も喜んでお捧げします。マリアさま、どうぞこの祈りを、天主さまにお取り次ぎください」(p.183)

風邪をこじらせてさらに具合が悪くなっても、ロザリオを手に北原怜子さんが祈り続けました。そして、ようやく交渉は合意しました。そのとき、都の担当部長の机には北原怜子さんが執筆した「蟻の街の子供たち」(聖母の騎士社) があったそうです。部長はこの本に感動し、関係者を説得してくれたのでした。

祈りは届きました。そして、その四日後、アリの町のマリア北原怜子さんは帰天されました。

人が苦しいときに救いをもたらすのは、すべてをゆだね、祈る心だと思います。それは、何もせず、ただ闇雲に祈るのではないでしょう。「人事を尽くして天命を待つ」と言いますが、すべては良きことであることを信じ、できるかぎりのことを行い、心から祈ることで救われるのだと思います。<')))><

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2007/02/03

ゼノ修道士 - アリの町のマリア その4 -

アリの町のマリアと呼ばれた北原怜子さんが蟻の町を知ったのは、ゼノ修道士(リンク先はWikipedia)と知り合ったことがきっかけでした。ゼノ修道士は日本全国をまわって困っている人を助けていましたが、たまたま北原怜子さんの家の近くを通ったさいに、サンタクロースのような神父様だと近くの人が呼んでくれたのです。それから北原怜子さんがゼノ修道士と共に蟻の町に通うようになりました。

一般の人にとっては司祭の叙階を受けたかどうかはわからないので、修道士なのに「ゼノ神父」と呼ばれていました。「心が必要なんだ」と言われたころには、新聞でも有名な存在でした。蟻の町の人々が、(東京都の土地だったので)追い出されないですむならと、新聞社に連絡するように言いました。

しかし、すでにゼノ修道士の記事は各社で掲載していたので、どこも取り合ってくれませんでした。そこで、蟻の町の人が「カトリック教会を建てる事になりましてね。その相談に、神父がここに来ているのです」と、でまかせを言ってしまいました。

そして「アリの町に十字架、ゼノ神父も一役」と言う記事が掲載されました。蟻の町の人にとっては、喜ぶべきことでしたが、ゼノ修道士にとっては大変なことでした。神父でもなく、ましてや司教の許可を得ているわけがありません。教会内では大騒ぎだったようです。

松居桃楼著「ゼノ死ぬひまない」によると、 そのことを知ったゼノ修道士は町の人と共に当時の土井大司教に会いに行かれたようです。必死になって釈明した町の人の横で恐縮するゼノ神父に、土井大司教は「ゼノ神父さま」「あなたこそ、神父と呼ぶにふさわしい」と今の活動を続けるように告げられたそうです。土井大司教のやさしさが感じられるお話ですね。

蟻の町への支援が広がる中で北原怜子さんは倒れましたが、その間に浅草教会の人によって蟻の町が支援されていました。それを見た北原怜子さんは、「自分がいなければ」と思っていたので、寂しさを感じました。

そんな様子に気づいたゼノ修道士がたずねました。北原怜子さんは自分の寂しさ、これまでやっていたことを認めてもらえなかった悔しさ、むなしさ、嫉妬、そしてそんなみにくい感情を持つ自分への嫌悪感を語りました。

ゼノ修道士は、自分も同じような気持ちを抱き、あまりの苦しさにもう修道院を去ろうとしたそうです。すると、修道院長だったコルベ神父から、苦しいときはマリア様に祈るように言われたそうです。

そして、自分にも色々な気持ちがあり、そんな時はマリア様に祈り、恵みをいただくことを伝えると、北原怜子さんは気分が晴れたようです。そしてゼノ修道士は「苦しいときは、これです」とロザリオを持ち上げて見せました。

蟻の町の神父とも呼ばれていたゼノ修道士ですが、蟻の町をはじめ日本中で奉仕活動をされていたほか、「ゼノ」少年牧場の設立、赤羽教会の土地購入に努力されたようです。書籍も、たくさんの伝記のほか、写真集、絵本がでています。桑原一利著「天使のゼノさん」(聖母の騎士社)には、日本に来られた際のお話が出ています。

上にも出てきたコルベ神父は、アウシュビッツ収容所で見知らぬ人の身代わりに餓死刑になったあのコルベ神父です。ゼノ修道士はポーランドのフランシスコ会系のグロドノ修道院で、コルベ神父から日本行きを告げられました。二十六聖人殉教の地である日本で、修道院を作り、聖母の騎士を出そうと誘われたようです。そして、総長から言われたので髭をのばして日本についてくるようにと言われました。

そして「はい、神父さま」と返事をして、二人でにマリア様にお祈りしていると、マリア様の後ろから二十六聖人が現れて、ゼノさんを招いているような気がしたそうです。その後、日本で聖母の騎士を発行後、戦時中も日本に残り、長崎で被爆し、戦後の日本中の困っている人を探して、日本をまわられていたようです。

2月5日は二十六聖人の祝日です。ゼノ修道士と二十六聖人に思いをはせて祈りたいと思います。

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