永井明著「聖アウグスチヌス」(サンパウロ アルバ文庫)を読みました。異教徒であった聖アウグスチヌス(リンク先はWikipedia)は、長い苦悩のあとに回心しました。やめたくてもやめられない人間の性(サガ)から抜け出し、今を良く生きる道を歩みだしたのです。
当時の北アフリカ
アウグスチヌス(354 - 430)は北アフリカ・ヌミジア地方で生まれました。当時の北アフリカは複数の宗教・思想が入り混じった地域だったようです。母モニカはクリスチャン、父パトリキウスは異教徒でした。そんな環境に生まれたアウグスチヌスは病気で苦しんだ際に洗礼を臨んだこともありましたが、洗礼を受けてから犯した罪は思い罰を受けるという当時の教会の伝承が信じられていたので、病気が回復すると、洗礼を受けませんでした。
(この考えは、いわゆる天国泥棒と言われるものに似てます。生きている間に悪いことをやるだけやって、死が迫ると洗礼を受けると言う生き方です。様々な誘惑の多い中、洗礼はなるべく早く受けて、犯した罪は赦しの秘跡によって、神のゆるしを頂くほうが良いと思います)
当時のアフリカには様々な宗教や思想がありましたが、アウグスチヌスはマニ教(リンク先はWikipedia)に惹かれました。マニ教の教義はユダヤ教、ゾロアスター教、キリスト教、グノーシス主義、さらに仏教、道教からも影響を受けています。
グノーシス主義(リンク先はWikipedia)というと、ダ・ヴィンチコードとともに話題になった外典福音書の一つであるユダの福音書などの基になった考え方です。wikipediaによると
グノーシス主義者のほとんどは、肉体の楽しみは邪悪なものだという考えに立って、禁欲と苦しい修行とを実践した。しかし少数の者たちは、肉体が邪悪なものなら汚さなければならないと主張して、(男色など)自由奔放な行動に出た。
とされています。グノーシス主義に影響を受けたマニ教も戒律に「日常生活に執着してはならない」とあり、道徳的な宗教ではなかったようです。
キリスト教への目覚め
マニ教徒だったアウグスチヌスは、快楽に目覚めてしまいます。愛人を作り、子供まで作ってしまいます。しかも、身分の違いから母親に反対され、のちに別れてしまいます。
理論派だったアウグスチヌスは、さわやかな雄弁をもってマニ教の伝道に努めていましたが、徐々に変化していきます。まずは、その理論に納得がいかなかったこと。そして、仲間だった友人が、病気の際に親が受けさせてくれたキリスト教の洗礼を喜んだこと。そしてダビドの詩編を語ったアンブロシウスの説教です。
このように徹底的に神様の前に平伏して罪のゆるしを願い求めたダビドにこそ、私たちは学ばなければならないでしょう。イエスが愛されたのは、私には罪を犯したことがない言って胸を張っているファリザイ人ではなく、罪人であるこの私をあわれんでくださいと泣き伏した女性や、税吏や、恵まれない人だったことを思い出してください。聖ペトロもそうでした。キリストが一ばん彼を愛されたのは、----主よ、私はあなたとともにどこまでも参ります、死でも牢獄でもと、張り切った勇敢なペトロではなく、----私はイエスなんか知りませんと、主を裏切った罪深いペトロだったのです。。。。
あなたがたは、聖書の外観につまづいてはなりません。聖パウロが言っているように『儀文は殺し、霊は生かす』のです。平凡なように見える聖書の文体の奥に込められた神の霊なる真理を発見しなければなりません。
この言葉は、アウグスチヌスの心を解きほぐし、明るい光を投げかけました。聖書に対する偏見と誤解が解けたのです。
運命的な回心
しかし、キリスト教の教えに目覚めたアウグスチヌスでしたが、回心にはいたりませんでした。アウグスチヌスはこう言っています。
正直なところ、私は女性を抱くことがゆるされなくなったとするなら、こんなみじめなことはないと考えていたのです
正しいとわかっているけれどもやめられない、そんな誰しもが抱く苦悩がアウグスチヌスにはありました。アウグスチヌスはこう告白しています。
神さまに「わが身の純潔を祈りながらも、心の底では、『純潔と節制をお与えください、けれども今すぐにでなく』」と反対のことを望む気持ちがありました。
かくして苦しみは増大し、肉の欲と真理との間で苦しみます。そして泣きながら
主よ、私はいつまでこんな苦しい状態にいなければならないのでしょうか?私をゆるし救ってくださるのは、いつですか?
と叫びました。すると、『とりて、読め!』『とりて、読め!』と子供たちの声が聞こえました。この声を神のみ声として従う覚悟で、近くになった聖書(聖パウロの手紙)を開きました。
夜は更けて、日は近づいた。だから闇に行われる業を捨てて、光のよろいをつけよう。昼のように、つつしんで行動しよう。酒盛、酔い、淫乱、好色、あらそい、妬みを捨てて、主イエス・キリストを着よ。よこしまな肉の欲を満たすために心を傾けることを止めよ(ローマ13・12)
そして、アウグスチヌスの心は光に包まれ、言いようのない平安に満たさました。まさに「求めよ、そうすれば与えられるだろう」(ルカ11・9)そのものの回心でした。
人は苦しみの中で、何とか自分の力で解決しようともがいてしまいがちです。しかし、真理の前で弱さを認め、憐れみを求めたとき、人は安らぎを得て、より強く生きていけるようになる。アウグスチヌスの回心は、そんな神との接し方を示しています。
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