私がイエスを神とする理由
mixiのとあるコミュで書いたコメント(いわゆる使い回し)です(一部修正)。
私が洗礼を受けたのは、キリスト教が煩悩を捨てるのではなく、それを受け入れ、ゆるしてくれるからだと思います。
仕事がうまくいかずに苦しんでいたときに父親が亡くなって、まず、家の宗派(仏教)の本を読みました。確かに良いお話が書かれていたのですが、なにかピンとこない、自分とは関係がないような感じがありました。
そのころ妻が教会に通いだしていて、私が死んだときの葬儀が仏式だと気持ちが入らないと言いましたので、少しぐらいは読んでおこうかと本を読みました。昔、エッセイを読んでいた遠藤周作の入門書「私のイエス」を読みました。そして、引き込まれるように「イエスの生涯」「キリストの誕生」を読みました。そして、それまでの苦しみから逃れることができました。
仕事がうまくいかないのは自分にも責任があると、うすうす感じながらも、認めることができませんでしたが、「キリストの誕生」を読んでようやく認めることができたのです。
人々に見捨てられ、弟子にも裏切られ、十字架を背負ったイエスは、最期の時も人々のゆるしを父に願い、共に処刑された犯罪者も救いました。
良いところも、悪いところもすべて受けとめて、ゆるしてくださる、その完全な姿は弟子たちの心に残り、神として復活しました。それまで使徒たちは、イエスの教えを理解できませんでしたが、キリストの復活後、教えを積極的に広めるようになりました。
使徒たちと同じように、私はイエスの姿によって、自分の傲慢さに気づかされました。
イエスが神であるというのは、キリスト教の定義する神であるということです。その定義をアーメン(そのとおり、その通りでありますように)と思えるかどうかだと思います。私は遠藤周作の現実的な解釈によって救われ、聖書を読んでニケア・コンスタンチノープル信条をアーメンと思うようになりました。もちろん聖書は誰が読んでも良いことが書かれていると思いますが、救いを求める気持ちがあるからこそ、聖書の言葉に救われるのだと思います。
たしかに信仰はタイミングだと思います。学生のころに私が遠藤周作を好きだったこと、妻がカトリックの学校を出たこと、父が亡くなったこと、他にも色々な偶然がありました。その偶然を神様のしるし、すべて良いことだと思うことが回心たと思います。現実に苦しむよりも神の愛を感じて幸せに生きたい、それが私がイエスを神とする理由です。
<')))><
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