2007/02/11

私がイエスを神とする理由

mixiのとあるコミュで書いたコメント(いわゆる使い回し)です(一部修正)。

私が洗礼を受けたのは、キリスト教が煩悩を捨てるのではなく、それを受け入れ、ゆるしてくれるからだと思います。

仕事がうまくいかずに苦しんでいたときに父親が亡くなって、まず、家の宗派(仏教)の本を読みました。確かに良いお話が書かれていたのですが、なにかピンとこない、自分とは関係がないような感じがありました。

そのころ妻が教会に通いだしていて、私が死んだときの葬儀が仏式だと気持ちが入らないと言いましたので、少しぐらいは読んでおこうかと本を読みました。昔、エッセイを読んでいた遠藤周作の入門書「私のイエス」を読みました。そして、引き込まれるように「イエスの生涯」「キリストの誕生」を読みました。そして、それまでの苦しみから逃れることができました。

仕事がうまくいかないのは自分にも責任があると、うすうす感じながらも、認めることができませんでしたが、「キリストの誕生」を読んでようやく認めることができたのです。

人々に見捨てられ、弟子にも裏切られ、十字架を背負ったイエスは、最期の時も人々のゆるしを父に願い、共に処刑された犯罪者も救いました。

良いところも、悪いところもすべて受けとめて、ゆるしてくださる、その完全な姿は弟子たちの心に残り、神として復活しました。それまで使徒たちは、イエスの教えを理解できませんでしたが、キリストの復活後、教えを積極的に広めるようになりました。

使徒たちと同じように、私はイエスの姿によって、自分の傲慢さに気づかされました。

イエスが神であるというのは、キリスト教の定義する神であるということです。その定義をアーメン(そのとおり、その通りでありますように)と思えるかどうかだと思います。私は遠藤周作の現実的な解釈によって救われ、聖書を読んでニケア・コンスタンチノープル信条をアーメンと思うようになりました。もちろん聖書は誰が読んでも良いことが書かれていると思いますが、救いを求める気持ちがあるからこそ、聖書の言葉に救われるのだと思います。

たしかに信仰はタイミングだと思います。学生のころに私が遠藤周作を好きだったこと、妻がカトリックの学校を出たこと、父が亡くなったこと、他にも色々な偶然がありました。その偶然を神様のしるし、すべて良いことだと思うことが回心たと思います。現実に苦しむよりも神の愛を感じて幸せに生きたい、それが私がイエスを神とする理由です。

<')))><

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2007/01/25

洗礼と洗礼名

そろそろ洗礼申込書を書く時期になったのですね。少し前に入門講座で習った洗礼名のお話を元にまとめておきます。

洗礼は、神さまの子どもになったお祝いです。家の中で父親を愛している限り守られるように、教会のメンバーになって天国の住人としての資格をいただき、生きる力をいただきます。洗礼を受けると、神さまによって清められます。洗礼は天国への関所の札のようなものです。

洗礼名は洗礼のときに授けられます。人は必ずどこかに所属し、名前がつけられ守られます。洗礼名は家族でなく、神さまからいただきます。戒名と同じように天国での名前です。戒名も元々は生きている間にもらったそうです。

さて、洗礼名は霊名とも呼び、誕生日の聖人や思い入れのある聖人の名前をいただきます。聖人カレンダー(中谷千絵さんのホームページ)あるいは聖人暦(リンク先はWikipedia)と呼ばれるもので、自分の誕生日の聖人を見てください。それ以外では、Wikipediaの著名な聖人一覧などで、探してください(他にも色々な聖人がおられます)。

通常は同性の聖人の名前をいただきますが、女性が「ヨセフィーヌ」(ヨセフの女性名)とさ
れることもあります。また、「無原罪のマリア」「アシジのフランシスコ」のような名称も可能です。

なお、成人洗礼の場合は、洗礼式と堅信式を一度に行うことが多いので名前はひとつのの方が多いです。わからないことは、神父様、代父母、シスターなどに相談してください。

ご参考までのこれまでの入門講座の記録と経験談をあげておきます。

入門講座の記録
カトリックの洗礼
水と霊によって新たに生まれる
罪の痛悔後に洗礼をうける
洗礼(罪に死にキリストに生きる)と入門式
堅信~按手により聖霊を受ける~
聖霊の働き
堅信の賜物

経験談
受胎告知と入門式
ミサと洗礼志願式
洗礼良いですよ~

| | コメント (11) | トラックバック (1)

2007/01/14

ミサの聖歌 - しおりのコツ -

Seika カトリックのミサで最初に戸惑うのが、聖歌の多さでしょう。大きな教会では聖歌隊の方が中心で一般信者があまり歌わないところもありますが、聖歌は祈りなのでわかるところだけでも歌いたいですよね。

教会によっては電光掲示板の所もありますが、私の所属教会では写真のようなボードで聖歌集の番号が示されています。 ここでは所属教会の主日ミサの場合を説明します(教会によっては表示が異なったり、週日(平日)のミサでは歌の数が少ないので聖歌の番号だけでなく何番を歌うかまで示される場合があります)。

聖歌集は2種類使います。横長で赤い(カバーがかかっていることもある)「典礼聖歌」と「カトリック聖歌集」(ともにリンク先はサンパウロ)です。写真では「聖」と書かれている閉祭の歌だけがカトリック聖歌集で、それ以外は典礼聖歌の番号を示しています(ごくまれに「p」と書かれているときはページを示しています)。

さて、典礼聖歌集のしおりの紐は4本しかありません。しかし、典礼聖歌は7曲(実は後述の2曲が隠れています)なので、ちょっとテクニックが必要になります。

「答」と書かれた答唱詩編、「ア」と書かれたアレルヤ唱は、聖堂の入り口で渡される「聖書と典礼」に載っていますので、しおりはいりません(週日のミサでは「聖書と典礼」がありませんので、気をつけてください)。

写真でわかるように「憐」と書かれたあわれみの賛歌と、「感」と書かれた感謝の賛歌はいつも続いていますので、どちらかにしおりを挟めばよいでしょう。じつは、203番のあわれみの賛歌のあとに、204番の栄光の賛歌が歌われ、205番の感謝の賛歌のあとに206番の平和の賛歌が歌われます。歌いながら、しおりを順にずらしていくのも良いでしょう。

この番号は変わることがありますが、連番であることはかわりません。また、歌詞は同じで式次第に載っていますので、式次第を見て歌われるのも良いでしょう。なお、降誕祭(クリスマス)前の待降節や復活祭(イースター)前の四旬節では栄光の賛歌は歌いません。

「典」あるいは「入」と示された開祭の歌は最初に開くので、しおりを別のところにはさんでおくのも良いでしょうね。

ミサが始まる前にこんな感じでしおりを挟んでおくと、初めての方でも戸惑わずに歌えると思います。これまであまり歌われなかった方も、一度挑戦してみませんか?

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2006/12/13

聖水をつけて十字を切る

お聖堂に入るときや帰るときに,聖水をつけて十字を切ることについて調べました.
ここでも何度か十字の切り方を紹介しました.なかなか良いお話だったのが,こころのともしびに載っていた「十字の切り方」です.キリストを思い描いて心を込める方法が印象的でした.

ミサでもうかがいました.父と子と聖霊の御名によってと十字を切るというお話です.これは聖書の中の「弟子たちを派遣する」(マタイ28・16-20)のお説教です.

大阪司教区典礼委員会の「Q&A」コーナーには,聖水盤の聖水で十字をきる行為によって、洗礼により生まれ変わった自分が神のみ前にいることをしっかりと自覚するためです。とされていて,信者が聖堂に入ったときにするように書いています.

でも,ミサの帰りにもする人もいますし,洗礼を受ける前からするようにいう方もおられます.なんとなく,納得いかないで調べてみると,サンパウロホームページのキリスト教質問箱には水の意味から十字を切ることが説明されています.読んでいただくとわかりますが,けっきょく洗礼を受けているか,ミサの帰りであるかよりも,神様のことを思って心から十字を切る事が大事なのでしょう.

ちなみに,サンパウロのキリスト教質問箱では,十字の切り方が東方諸教会(正教会)と左右の順番が逆になっていることも説明されています.分裂と関係あるとは思っていたのですが,カトリックが逆にしたのですね.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/11/03

祈りによる恵み -苦しみの中にも恵みはある-

人生の中には色々な苦しみがあります。信仰心があっても苦しいときは苦しいです。ただ、少しだけ違うのは、なにか問題がおきたときに心丈夫なのです。

信仰心がないときは、なかなか前向きに考えられず、何か憂さ晴らしをする、より不幸な状況と比較する、別のもので我慢する、といったことしかできませんでした。しかし、気分転換をしても、我慢をしても、現実は現実で変えようがありません。

神さまに出会ってから、少し変わりました。どんな苦しいことにも意味があり、乗り越えられない試練は与えられないのだから、この状況も何とか乗り越えられる。そう思うようになりました。

苦しいときは祈り、神さまとお話しします。お願いも一つの祈りですが、それだけではなくお話します。別に語りかけなくても元々ご存知なのですけど、とにかく思いのたけをお話します。人に対してお話しするのなら、知らず知らず身構えてしまって言わない事もありますが、元々ご存知の方にお話しするので、躊躇する必要はありません。

苦しみや悲しみ、そして願いをお話して、神さまと分かち合います。いろいろと話しているうちに、不思議と落ち着いてきます。今まで見えなかった現実が、徐々に整理され、現実をどう受け止めればよいかが少しずつ見えてきます。

時には、自分の思いが恥ずかしくなり、間違いに気づくこともあります。また、自分のことだけでなく、他の人のことをお願いしているうちに、自分が一緒になって苦しむのではなく、何かしないといけない気もしてきます。

どんなにお願いしても、かなわないこともたくさんあります。でも、祈り、ゆだねることで、苦しみに挫折せず、前向きに生きようとする心が芽生えてきます。それを私は祈りによる恵みだと思っています。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006/10/01

信者でなくても与えられるミサの恵み

洗礼を受けていなくても、教会のミサに出る(ミサを捧げるとか、ミサに与<あずか>ると言います)ことができます。はじめての場合は、日曜日のミサが良いでしょう(「ミサに行こう!」もお読みください)。日曜日のミサだと、聖書の朗読箇所を印刷した「聖書と典礼」という薄い冊子がもらえます。ミサの全貌を知るには式次第を借りたほうが良いですが、雰囲気を知るだけなら「聖書と典礼」と聖歌集(赤い本、黒い本、バインダー、楽譜と教会によって異なります) で良いでしょう。

ミサ(詳しくは「ミサ聖祭」をご覧ください)の中では、罪を告白し、聖歌をうたい、聖書朗読と神父様のお説教を聴きます。そのあと、奉納(献金)があり、いよいよ聖変化です。鐘が鳴らされ、パンが聖体(キリストのからだ)に、ぶどう酒が御血(キリストの血)に変わったことが、知らされます。この鐘は、昔ラテン語でミサが行われていたころの名残です。分からない言葉だと、ミサのどこをやっているかわからないので、もっとも大事なタイミングで「いま聖変化の瞬間ですよ」と鐘で告げられるのです。この鐘のおかげで、外国人でも安心してミサに与ることができます。

このあと、中央に列になって、信者は御聖体を(両形態の場合は御血も)いただきます。カトリックの洗礼を受けていない(かつ、プロテスタントから受け入れられたのでない)方は、御聖体を拝領するかわりに、神父様から祝福を受けることができます。

祝福を受ける際は、聖体拝領する方と共に中央の列に並びます。神父様の前に出たとき、手を合わせて軽く頭を下げます。すると、神父様が手を頭にかざし、「父と子と聖霊の祝福がありますように」あるいは「キリストの祝福」などのように言ってくださいます(もっと長い言葉のところもありますが失念しました)。

この祝福は神父様が行われる準秘跡です。キリストの愛弟子である十二使徒から2000年間続いたキリストの弟子である神父様によって、それぞれの方のために行われます。その行為は神父様がされているのですが、聖霊のはたらきを感じるほどにキリストの存在を感じるときもあります。ぜひ、ミサに与られたら、祝福を受けてください。

さて、ときどき洗礼を受けていないと聖体拝領できないことをご存知でなく、見よう見まねで拝領してしまう方があります。間違った後で神父様に相談された方の話によると、「恵みだと思いなさい」と言われたそうです。

入門講座でうかがった神父様のお話だと、間違って聖体拝領した人は必ず戻ってくる、つまり必ず洗礼を受けると言われているそうです。それほど、間違える人が多いと言うことなのでしょうね。そんなことなので、まちがって拝領した方も安心して、洗礼への道を歩んでください。

(わざと間違えないでくださいね。念のため)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/08/22

キリストの恵み

キリスト教は御利益(ごりやく)宗教ではありません。壺やお守りを買ったからといって願いがかなうわけではありません。

自分が幸せであると気づくこと、自分が傲慢であると気づくこと、それがキリスト教の恵みだと思います。

私の好きな「神がまずわたしたちを愛してくださった」(一ヨハネ4・19)言葉は、どんな苦境であっても、実はそれは幸せな状況であり、傲慢な自分の心が苦境だと思わせているかもしれないことを考えさせます。神に祈り続けたとき、本当の幸せが見えてくることもあります。

また、それは私たちが成長するために与えられた試練かもしれません。乗り越えられる試練だからこそ与えられているのかもしれません。すべてのこだわりや迷いをゆだねたときに安らぎが得られるのかもしれません。

こんな風に思うのは、私の信仰が強いからではありません。キリストが神かと聞かれたら、そう信じる、そう思いたい、とは言えても、間違いなくそうであるとは言えません。

でも、ひとつだけ確かなことは、人々を救おうとしたナザレのイエスは、人々にも、弟子にも裏切られましたが、恨み言のも言わず、人々のために祈って亡くなりました。

それは、愚かな行為かもしれません。逃げることも、言い逃れることもできたでしょう。でも、ちょっと考えてみてください。今感じている苦しみは、そんなに大きなものでしょうか?すべてを捨て誰かのために尽くしているでしょうか?

遠藤周作の「私のイエス」「イエスの生涯」は、惨めなイエスを描いています。本当の思いを理解されず、裏切られた人間イエスです。そして「キリストの誕生」では裏切った弟子たちの思いが描かれています。イエスの思いを理解せず、裏切ってしまった弟子たちの苦悩が描かれています。

愛を感じずに、自分の側からだけ考えて、怒り、悲しむことは、この弟子たちに似ています。私の思いは、そんなものではない、そうせざるを得ない、悪いのは私ではない、そう思うことは人間のサガです。でも、それがあるべき姿ではありません。

弟子たちは、イエスを失ってようやく気づきました。イエスが自分たちを愛してくださったこと、イエスの教えたかった愛が何であるか、自分たちはすでに幸せだったこと、抱いていた不満が傲慢であったこと。

そして、彼らはそれこそ神の愛であり、絶対的な愛を示してくださったイエスこそ、救世主キリストであると確信するようになりました。

どうしても怒りが抑えられないとき、人生がイヤになったとき、自分はなんとダメなんだと思ったとき、上記の遠藤周作の本を読んでみてはいかがでしょうか?

簡単に言ってしまうと、ポジティブに考えるということに過ぎないかもしれません。しかし、深い苦しみや悲しみに出会ったときは、絶対的な愛に出会うことが必要になると思います。それこそがキリストの恵みだと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006/06/11

父と子と聖霊と-十字の切り方(その2)-

今日のミサは三位一体の主日でした。福音朗読はマタイの福音書の結びの段落で「弟子たちを派遣する」(マタイ28・16-20)でした。

11人の弟子たちはイエス様が指示されたガリラヤの山に登ります。この山は山上の説教を行った山です。ガリラヤはなだらかな土地で、山といってもなだらかな丘のようなところです。

そして、弟子たちが出会ったイエス様は

すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。

と言われます。ここで、父と子と聖霊という言葉が出てきます。

カトリックでは、朝起きたとき、夜寝るときに「父と子と聖霊の御名によって、アーメン」と十字を切って、よい朝が迎えられたこと、一日が無事に過ごせたことを感謝してお祈りします。

この十字を切る動作は、いい加減にしてはいけません。丁寧に心を込めて行いましょう。おでこに手を当てて「父と」と言います。このときは、この世を作ってくださった神、われわれに自然を与えてくださった神に感謝します。

次にみぞおち(胸の下のへこんでいるところ)に手をあてて「子と」と言います。そして、御子であるキリストをお送りくださり、われわれを救ってくださったことに感謝します。

そして左肩と右肩に手をあてて「聖霊の御名によって」と言い、主が復活し聖霊を授けてくださったことに感謝し、手を合わせて「アーメン(そのとおりになりますように)」と祈ります。

十字の切り方に関しては、こころのともしびの記事を紹介しました。どちらも、心のこもる祈り方ですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/25

あなたも大切な人

この世に誰一人として大切でない人はいません。もし、あなたが逆境の中で苦しんでいて周りの人が全て悪い人に見えていても、もし、あなたが自分なんて生きている価値が無いと思っていても、その苦しみや悲しみを神様はわかってくださいます。

神様は「「見失った羊」のたとえ」(ルカによる福音書1・1-7)の羊飼いのように、迷った一頭の羊のために、一匹を見つけ出すまで捜し回られます。そして、見つけられたなら、その一頭を担いで帰り、皆と喜ばれます。

病を患う人に医者が必要であるように、悲しみや苦しみに打ちひしがれる人のために神様はおられます(マタイ9・12-13)。あなたが神様をどう思っているかに関わらず「神がまずわたしたちを愛してくださった」(一ヨハネ4・19)ことは、変えることができません。

人に言えない苦しみや悲しみも、神様になら聞いてくださいます。受け止めてくださいます。見守ってくださいます。全てをお話して、神様の声を聞いてください。神様の思いを感じてください。そうすれば、冷静に状況が見えてきて、きっと真の自由(対処法と感想)、心の平安がおとずれるでしょう。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/23

イエス・キリストは愛の神

キリスト教に少し興味をもたれた方へ。
イエス・キリストの生涯は、信じられない奇跡を起こした話ばかりではありません(その奇跡も、遠藤周作は現実的に語っています)。

イエス・キリストの生涯でもっとも大きな奇跡は、弟子である12使徒の活躍です。イエスが十字架にかけられるまで救世主とはどういう意味かを12使徒は理解していませんでした。弟子たちはイエスに命を捧げるといいながら、敵が攻めてくるとイエスを見棄てて逃げ出しました。しかし、イエスが十字架にかけられたあと、いくじなしの弟子たちはその意味を理解します。そして、まるで別人のように強い意志を持って、イエス・キリストの教えを世界に広げました。これこそまさに奇跡です。

イエス・キリストの言われる救世主というのは、原罪からの開放、心の自由と平安の獲得です。人は様々な出来事に、怒り、憎しみ、悲しみ、苦しみます。その理由の多くは、自己中心的な思いや考え、つまり「業」です。神の愛を信じ、その愛に生きることができるならば、業から開放され、真の心の自由が得られ、心に平安が訪れます。

このイエスの考えは、弟子たちは理解していませんでした。当時のユダヤで考えられていた救世主は、ローマと戦ってユダヤの国家をつくる人だと思われていたからです。弟子たちはエルサレムに入城し、最後の晩餐を迎えるときまで新体制について話していたほどわかっていませんでした。

もちろんユダヤの人々にも理解されていませんでした。奇跡を起こせば、人々は救世主だと言って集まります。そして、イエスがその平和主義的な考えをのべるとと、人々は離れていきました。そして、常に行動を共にしてその様子を見ていた12使徒であっても、イエスの考えを理解しませんでした。

弟子たちはイエスを理解していないだけでなく、いざと言うときにも裏切りました。しかし、イエスは彼らをゆるし、彼らを救うために自らの命を捨てられました。弟子たちの多くは保身のため処刑場に行きませんでしたが、処刑場でイエスが弟子たちにどんな悪口を言うかが気がかりでした。しかし、イエスは十字架にかかりながらも、決して弟子たちを悪く言いませんでした。

それだけではありません。十字架にかけた人々のゆるしを父なる神に請い、最期に神を賛美して亡くなられたのです。

イエスが何も悪口を言わないばかりか、人々のゆるしを乞った話を聞いて、イエスを裏切った弟子たちは、ようやくイエスの考えに気づきます。かれらの保身そのものが業にとらわれたものであり、イエスはその罪をも背負われたのです。イエスは、神の愛、完全なる愛を自身で示されたのです。そして、深い愛を知った弟子たちは、イエスこそ心の自由を与える唯一の神、キリストであると確信するのです。

このイエス・キリストが絶対的な愛を示されたことは、キリスト者にとって非常に重要です。ついつい業にとらわれがちな私たちが、イエス・キリストを思い浮かべることで、自身の罪深さを思い知らされるのです。そして、神の哀れみやゆるしを請う気持ちになるのです。

キリスト者は、神の道に生きることが求められます。しかし、それは容易なことではありません。人生にはさまざまな誘惑があり、それが業であるとわかっていても捨てられません。そこで、神にゆるしを請い、キリストの体といただき、少しでも神に近づこうとするのです。

私にとってのキリスト教は、このような「神の愛、愛の神」です。

参考文献:
遠藤周作著「キリストの誕生」「私のイエス」「イエスの生涯」「私にとって神とは」

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2006/03/18

神を信じる その2

理屈っぽいことを書きましたが、あまり神の存在や信仰の説明にはなっていなかったですね。なぜなら、神の存在を認めなくても、それなりには生活はできるからです。しかし、神を認めない生活はきびしく、つらいものです。

ctさんに紹介していただいた奥村一郎神父著『祈り』
では、サルトルを引用しつつ、神の存在を逆説的に説明しています。これもひとつの説明だと思います。でも「神を信じる」とはそんな難しい問題ではないと思います。

けっきょく、最終的に神を認めるかどうか?それだけだと思います。むかし、信仰の道に入ることを、新しい公理系の導入であると説明しました。いまも、そんな風に思っています。神様のいる世界が良いか、いない世界が良いか、それだけです。神様がいたらいいな、神様の愛を信じたい、神様にわかって欲しい、神様に救って欲しい、そんな気持ちが少しでもあるなら、すでに心の中に神は存在します。神に愛されていることを前提に物事を考え出したとき、神様の偉大なる恵みがそこに広がっているでしょう。

一人だけで生きているよりも、神と共に生きたい。その気持ちこそが、神を信じるということだと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/03/16

神を信じる

以前、信じるという事を考えましたが、今回は「神を信じる」を考えてみます。

良くある質問で「神様がいると信じるか?」と言うのがありますね。普段なら、主の祈りのように天におられるとか、もう少し現実的に心の中にいると答えてしまいますが、文字通り擬人的に捕らえるなら、私の思いとはちょっと違います。イエス・キリストは「わたしはある」(ヨハネ8・58ほか)と言われたので、この問いは「神様は存在するか」と言うことになります。では、その神様は何かと言うと、キリスト教では父と子と聖霊の三位一体で神としていますので、そのような神です。これは定義なので変えようがありません。

では、「初めに、神は天地を創造された」(創世記1・1)神とはどんな存在なのでしょうね。よく、科学を追及していくと、どんどん神の存在が見えてくるような話を聞きます。いろんな物理法則がE=mc^2に収れんするような、科学の究極のようなもの。宇宙のはじめのビッグバンがなぜ起こったかと言う、世の物事から今の科学でわかっているものを差し引いた「残り」のようなもの、それが私の神のイメージです。これだと、定義のようなもので信じるとは言えませんね。

そこで、私が何を信じているかというと「神の救いを信じる」と言うものです。これは、信じるというよりも、すでに体感しています。自分の業に苦しめられ、周りの人が全て悪人のように見えていたとき、遠藤周作の「キリストの誕生」で、まさしく救われました。自分の目からしか見ることができないときに、キリストは求めるべき姿を示してくださいました。そして、自分で自分を追い込めてしまう状況からようやく抜け出せました。

さて、神の道に生きようとするとき、障害となるのが「全ては神の恵み」かどうかです。人生の中でめぐり合うさまざまな困難がありますが、それもまた神の恵みなのかと言うことです。さまざまな困難を神の与えた試練と考えて乗り切られる方もあるでしょう。でも試練を恵みとはなかなか思えないですよね。

私の考える神の救いの中で、もっとも大きなものは「価値観(あるいは視点)の転換」です。遠藤周作の「深い河」には以下のようなことが書かれています。

私が考えたのは・・・・・・仏教で言う善悪不二でして、人間のやる所業には絶対に正しいと言えることはない。逆にどんな悪行にも救いの種がひそんでいる。何ごとも善と悪とが背中合わせになっていて、それを刀で割ったように分けてはならぬ。分別してはならぬ。(中略)そんな地獄世界にも神の愛を見つけられる。

確かに、苦しいときであっても、あるとき、価値観の転換が生じれば、それを恵みと考えることができると思います。これは偉大なる救いの一つでしょう。しかし、この価値観の転換は、そうたやすくない。やはり、目の前の苦しいことを恵みだとはなかなか思えません。

そんな風に思うとき、遠藤周作の「沈黙」MAGISに紹介されていた足跡という詩にあるような、そばで共に苦しんでくれたり、わかってくれる神のあり方が思い浮かびます。一方的に願うのではなく、気持ちを神に語りかけ、最後にゆだねる神です。そうすることで、神の愛を感じることができます。

私のイメージする神は、科学で解き明かせない大きなうねりのような働きです。全体としては神の御心のままに動いていますが、細かなところまで全てを個々人の望みどおりにするにはできません。でも、神様はそれをご存知で、神の愛を示すために人の子(イエス・キリスト)を遣わされたと思っています。

結局、わたしは全てが神の恵みだと「すぐ」には思えません。まずは、すべてを神にゆだね、やさしく手を握っていただき、救っていただくことしかできません。そして、心に落ち着いてきたとき、それが恵みに変わっていくと思っています。それが私流の「神を信じる」ということです。

苦しかったり、悲しかったら、一人で頑張らず、神と語れば良い、神と泣けば良い、神がその愛で受け止めてくれます。そうすれば、徐々に安らぎが得られ、とるべき道がきっと見えてくると思います。

(聖書の引用は日本聖書協会・新共同訳を利用させていただきました)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/03/10

赦しの秘蹟の受け方

勉強会のテーマのひとつめは「赦しの秘蹟の受け方」でした。
告解室(教会によっては赦しの秘蹟と書かれています)が在室と表示されているとき(教会によっては表示がないかもしれません)に聴罪司祭(つまり神父さま)がおられるときには、自由に入れます。ミサ前には告解室におられることが多いですが、平日などいつでも受けられます。(ミサのとき以外は電話などであらかじめ連絡しておく方が良いでしょう)。また、場所も特に告解室に限らず、神父様の部屋でも、外ででも良いそうです。

赦しの秘蹟の流れは、告解室に置いてありますが、以下のような流れになります。

司祭「回心を呼びかけておられる神の声に心を開いてください(別表現もあります)」

司祭
(または信者):(時間にゆとりがあれば神のことば(マタイ6・14-15あるいはルカ6・35-36)を読みます)

司祭
:「神のいつくしみに信頼して、あなたの罪を告白してください」

信者
:(罪を告白します。身分や前回の告白時期(半年前に告白しましたなど)を話します)

信者
:「きょうまでの主な罪を告白しました。ゆるしをお願いします」

司祭
:必要に応じて助言を与え、罪を悔い改めるようにすすめます。続いて祈りや平日ミサに出ることなど償いを指示します(すすめと償いの指示)

信者
:(罪の償いと生活の改善のためにすすめと償いの指示を受け入れます)

司祭
:「それでは、神のゆるしを求め、心から悔い改めの祈りを唱えてください」

信者
:「神よ、いつくしみ深くわたしを顧み、豊かなあわれみによってわたしのとがをゆるしてください。悪に染まったわたしを洗い、罪深いわたしを清めてください(詩51別表現もあります。痛快の祈りでも良い)」

司祭
:(ゆるしを求める人の上に両手(または右手)を延べて)「全能の神、あわれみ深い父は、御子キリストの死と復活によって世をご自分に立ち返らせ、罪のゆるしのために聖霊を注がれました。神が教会の奉仕の務めを通してあなたにゆるしと平和を与えてくださいますように。わたしは父と子と聖霊の御名によって、『あなたの罪をゆるします』」

信者
:「アーメン」

司祭
:「罪をゆるしてくださった神に感謝をささげましょう。喜びと平和のうちにお帰りください(別表現もあります)」

信者:「ありがとうございます」(告解室を出る)

神に感謝の祈りをささげ、指示された償いを果たします。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006/03/07

祈りと願い

教会に通う前のお祈りと言うと、お正月に神社に行った時ぐらいでしょうか。言いたいことだけ言って、だめでもともと、おみくじで運試しのような、まあ、気休めですね。

カトリックには畏敬の念と言うか、神の前で恐れ多いとか恥ずかしいと言う考えがあると思います。たとえばヨーロッパでは聖体に対する尊敬の気持ちから信者であっても聖体拝領しない方が多いとか、煉獄は神様の前に出る恥じらいであるというのもそういう気持ちだと思います。

そう思って、どのように祈りをすれば良いかを考えてみました。教会などの初心者向けの説明を読むと「祈りとは神と語ること」と書かれています。どうもお願いだけじゃないようです。そういえば、主の祈りでは「わたしたちの罪をおゆるしください」とお願いした後に、自分を振り返って「わたしたちも人をゆるします」と言いますね。

そこで、先日東京に行ったときに、こんなお祈りをしました。子どもたちが、今ちょうど受験なので「合格しますように」とお願いしました。でも、そのうちに、その願いが一方的でわがままな気がして「実力が発揮できますように」とお願いしました。でも、よく考えると、試験の結果はどうでも良くて「子どもたちは頑張った。どんな結果であっても、良い人生が送れますように」という気持ちになってきました。そのようにお祈りしていると、合格しても不合格でも「良く頑張ったね」と言ってやれそうな気がしました。

もりえさんのところの「りくちゃん」もお祈りしました。まずは「元気になりますように」。でも元には戻らないらしいしなぁ、と思って「少しでも長生きしますように」、でも苦しんだらかわいそうだし「幸せにすごせますように」、でも、もう「りくちゃん」はすでに幸せだから、やっぱり「少しでも長生きしますように」などとお祈りしていました。

お祈りする中で、お願いしたり、自分を振り返ったり、思いをめぐらしたり、そして最後は神様にゆだねることで、気持ちがどんどん落ち着いていき、なんとなく幸せな気持ちがしてきました。こんなお祈りも、たまには良いのではないでしょうか。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2006/03/06

十字の切り方

心のともしび2006年3月号に今井美沙子さんの「世界一簡潔で美しい」が載っています。これは著者の子どものときのお話で、「イエズスさまの十字架上のお苦しみを想像して、丁寧に十字を切りなさい」と教わられたそうです。そこで、以下のように考えられたそうです。

「父」と額に指をあてる時、イエズスさまの茨の冠で傷ついて血の流れた額を思い、「子」と指をあてる時には、イエズスさまの心臓が貫かれた苦しみを思い、「聖霊」という時、左手の釘、「御名によりて」という時、右手の釘を想像すると、あまりのお苦しみに自分の小さい心を重ね、涙が出てとまらなかった

そして、以下のようにも書かれています。

十字を丁寧に切ることのできる人は、他のことに対しても丁寧な気持ちで取り組むことができる。カトリック信者は十字を切ることが全ての基本であると教えられた。

先日お会いした晴佐久神父も十字の切り方が丁寧な方でした。SIGNISセミナーの司会をされた際に「父と、子と、、」と十字を切られたとき、特に「子と」のところで、間を空けてしっかりと言われたのが印象的で、自然と気持ちが入りました。

忙しいとどうしても形式的になりがちですが、なるべく丁寧に十字を切りたいと思います。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/02/28

カトリックに思う

以前、カトリックがプロテスタントかを選ぼうとして結局は導かれるままにカトリック教会に通うようになったことを書きました。洗礼を目前にして、勉強会で教えていただいたり、本を読んだりする中で、なんとなく感じてきたことを書いておきます。

カトリックとプロテスタントには聖像の扱いや十字を切るかなどいろいろ違いがありますが、やはり以前からも感じていたように神の子として生きる際の取り組み方に違いがあると思います。

たぶんそれは、カトリックが婚姻、ご聖体の聖変化、赦しが秘跡となっていて、教義全体がひとつの体系になっているのに対し、プロテスタントはプロテスタント教会の多くは「洗礼」と「聖餐(聖体)」のみを認めていることが多い(Wikipediaの「秘跡」より)からではないかと思います。

カトリックでは、離婚・中絶の禁止など神の子としてあるべき姿が網羅されているように思います。そのぶん、すべてを守りきれず、時にして過ちを犯してしまいますが、救ってもらえる仕組み(赦しの秘跡)が入っています(勉強会の記録参照)。

それに対してプロテスタントは、(教派にもよりますが)より現代的な考えを持つ分だけ、重要な事柄を限定し、それだけは必ず守るように心がけているような気がします。

やっぱり、それぞれに良いところがあって、良いほうを選ぶものではないように思います。

カトリックに関して、ここでもコメントをいただいているMAGISのctさんのWebに「カトリック学校の性教育」というページがあります。はじめてこれを読ませていただいたときには、京都のとある女子短大が俗に「鉄のパンツ」と呼ばれているのを思い出しました(下品ですみません)。正直なところ、厳しい、悪く言うと古い、感じがしました。でも、上記のようなカトリックにたいする印象をベースに考えると、人間としてあるべき姿を伝統的・体系的に示されていて、これがカトリックなんだなぁ、と思います。良いものは良い、悪いものは悪いことを明確に示した上で、人の過ちには寛容に接する。それがカトリックなんだと最近思っています。

などと考えていると、教義で選ばなくても、向き不向きがわかってきます。私は思い込みの激しく、過ちを犯しがちであるので、やっぱりカトリックのほうが向いているのかなぁ、などと思っています。

| | コメント (8) | トラックバック (1)

2005/10/17

心のともしび通信講座

某巨大掲示板で知ったのですが、早朝のラジオで有名な心のともしび通信講座が無料で受けられます。申し込んでみたところ、1週間ほどで本と共に薄い問題集が送られます。問題集に回答して郵送すると添削して返送してくれる方式です。まだ、あまり読んでいませんが、比較的やさしく書かれていて読みやすいです。ご興味のある方はどうぞ。

「暗いと不平を言うよりもすすんであかりをつけましょう」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/10/10

ミサに行こう!

カトリック教会のミサに興味を持たれた方へ
教会の扉はいつでも開いているので、結婚式・葬儀などでない限りは(教会にもよりますが)たいてい自由に入れます。でも、教会はお祈りをするところなので、ミサに参加してはどうでしょうか?一人でも参加できます(もちろん信徒の知り合いに一緒に行ってもらえれば心強い)。平日の朝にもミサはありますが、一般向けの日曜(教会によっては土曜の夕方にもある)が良いでしょう。別のイベントが直前にある場合は、それが終わり次第始まることがあるので、Webなどであらかじめ時間を調べておいて、少し早めに行く方が良いでしょう(できれば予め連絡したほうが良いでしょう)。

ミサの直前は扉が開いていて、人が入っていきますので、同じように入っていきます。お祈りをする際は、壁から小さな洗面器のように突き出した(自立式の灰皿のようなところもあります)聖水を指先に少し付け、額=>みぞおち=>左肩=>右肩と指を持って行き、最後に合唱します。よく分からなければ、資料を配っている人のところにいきます。

たいていは「年間第XX主日」と書かれたリーフレット「聖書と典礼」(聖書の解説も載っています)、その教会の情報誌がもらえます。慣れている人はこれだけでも良いのですが、初心者はこれだけではさっぱり分かりません。すくなくとも聖歌集(典礼聖歌)を借りましょう。資料を渡している人に「初めてで良く分からないのですが」というと、聖歌集の場所を教えてもらえるでしょうし、ミサの式次第を貸してもらえるかもしれません。式次第の順にミサは進んでいきますので、これがあるとミサがどのように進められるかが良く分かります(このほか、わたしの行っている教会では来月からカトリック聖歌集も歌うのでこれも借りる必要があります)。なお、聖歌は日によって異なるので、情報誌に順が載っていたり、どこかに歌順が書かれていたりします。キョロキョロするよりは聞いたほうが良いです。親切な方が多いので気軽に声をかけてみてください。

これだけのものを使ってミサは行われます。すでに洗礼を受けている人でも良く分からない人も居るぐらいですので、初めての人が完璧にできるわけありません。やさしい人に教えてもらえない限りは、無理に頑張らなくいほうが良いと思います。数回ミサに行けば雰囲気がわかります。半年ぐらい通えば聖歌集もあまり要らないくらいになるそうです。まあ、お祈りは気持ちのほうが大事ですので、心がこもっていれば「アーメン」だけでも良いと思います。

途中で奉納籠というものが回ってきます。これは献金のかごで、入れなくても良いです(が、気持ちだけ(資料代程度は)入れてはいかがでしょうか)。

ミサの終わりに聖体拝領があります。これは、最後の晩餐のときにイエスの肉体と血として、パンとぶどう酒を分けたことが起源になっています。人々の罪を背負っていけにえになったイエスに対する最も神聖な儀式ですので、洗礼を受けた方以外は拝領できません。

洗礼を受けていない方は、そのまま座っていても良いのですが、聖体拝領のかわりに神父さまの祝福を受けることができます。ほかの方と同じように列に並び、神父様の前で手を合わせ、軽く頭を下げると十字を切って頭に手を添えていただけます。もし、イエスに感銘を受けているなら、霊的な体験になるかもしれません(わたしはそうでした)。

わたしはまだ洗礼も受けていませんし、全体の流れを追うよりは、お説教や朗読、歌詞の中身に集中している段階です。神父様の書かれたこことかここのページも読んでみてください(もちろん地元の教会のホームページがあればそこも見てください)。教会によって少しずつ違うようですので、知り合いの信者の方についていくか、予め連絡するほうが良いかもしれませんね。いずれにしろ、イエス様はいつでも迎えてくださいます。

なお、某巨大掲示板によるとカトリックのミサでは個人情報を書かされることはあまりないようです。わたしの時もそうでした(勉強会は休みになった際に連絡をするからと電話番号だけ聞かれました)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/09/25

教会でのお祈り

カトリックでは、おでこ=>みぞおち=>左肩=>右肩の順に指で押さえて、「父と」=>「子と」=>「聖霊の」=>「御名(みな)において」と言い、手を合わせて「アーメン」と言います。教会の入り口には聖水があるので指先に少しつけてから、上の順にお祈りをします。来たときと帰るときにお祈りするように信者の方から教えていただきました(が、すべての人がやっているわけではありません。やっていたら帰る際に時間がかかって仕方がない、、、)

オーソドックス(東方正教会)では左右が逆だそうです(「入門キリスト教の歴史」)。以前、TVで世界最初の教会が紹介されていましたが、正教会なので後ずさりして教会から出て行くように言っていました。日本はどうなんでしょうね。

なお、プロテスタントは十字を切らない宗派が多いようですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/09/24

信じる

信じるってどういう意味でしょうね。

愛している人がいます。待ち合わせにきません。でも、その人を信じるって言いますよね。きっと来れない理由がきっとあると思うのも信じることですようね。

遠藤周作の「私にとって神とは」などには聖書の内容が実際にあったとは限らない。でも、それに相当する事実があったというように書かれています。これも信じると言うことなんでしょうね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)