2011/10/10

救われて6年

父の死をきっかけに遠藤周作さんの著作を通してキリストを知り、傲慢な自分の心が解き放たれて6年がたちました。

教会の入門講座を受ける中で、腑に落ちなかったのは

「洗礼を受けて楽になると思ったら大間違いだ!もっと苦しくなる。」

神父の言葉です。当時はその意味が良くわかりませんでした。今にして思えば、洗礼は神の国に入るよう努力する約束で、洗礼を受けたからと言ってそれがゴールではない。ということなのでしょう。

洗礼を受けることで罪は清められますが、罪を犯さない人にはしてもらえません。今まで通りただの人ですから、人のことをうらやましく思ったり、欲深かったり、他の人もしているのだから、などという思いは昔のままです。そんなときに、これはだめだ!これは神様の思いではない!などと気付いてしまうわけです。したくてもできないし、もし、判断を誤って罪を犯したなら、その時の自己嫌悪は相当なものです。

洗礼を受けて3年ぐらいはそんなことはありません。毎週教会に行って、いろいろ奉仕して、とにかくこれまでの生活を改めようとしますから、心配はありません。問題は3年を過ぎてからです。

かつて「信仰とは神様を1番におくことだ!」と教わったことがあります。もちろん、神様の思いは優先します。しかし、神様が与えられたチャンスと、共同体での奉仕を選ぶなら、どの内容にもよりますが私は前者を選びます。さらに、ミサに与ることや赦しの秘跡に与ることとなってくると、どんどん難しくなってきます。

また、自らの信仰告白をどうするかという問題もあります。人前で祈るがごとく常に表明するのか、周りの人を意識しながら、表明しないものの隠さないのか、人それぞれの状況や考え方によるでしょう。私は、普通に生きながらもキリスト者であること、表立っては信仰告白しないが遠慮もしないし、隠しもしないようにしています。

まあ、今までは自分の気持ち通りに生きていたものが、こんな風に色々と考えないといけなくなるのですから、そりゃ大変です。かつて、とあるシスターが「終身請願してしまったからしかたない」といった表現をされて、驚いたことがあります。でも、今ならなんとなくわかります。

私は、キリストの負けて洗礼を受けてしまったのです。私は「あなたに従いますと」神様と約束したのです。色々迷いや悩みがあっても、正しい道は神様の示す道だと知ってしまったのです。どんなに苦しくても、それ以外の道は選べないのです。なzなら、真理を知ってしまったのですから。

それは、楽な道ではありません。とても苦しい道です。でも、昔とは違う苦しみです。神様に負けた時のような、すがすがしい苦しみです。なんか損をした気持ちになることもありますが、その先に主の平和があることを知ってしまったのです。

人が神に従うことは苦しいですが、その先には喜びがあるのです。

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2008/08/08

手の合わせ方

教会に通い始めたころに一番戸惑ったのは、手の合わせ方です。仏教では手の平と手の平をぴったり合わせることが多いと思いますが、アメリカ映画などでは指を交互に合わせて食事の前に祈る姿が描かれています。

ミサでキョロキョロと見ていると、そんな人はほとんどいません。普通に合掌しているか、「祈りましょう」と言われても手を合わせていなかったりします。結局、好きなようにすればよいのでしょうね。

最近、ちょっと気になっているのが、所属教会のポルトガル出身の神父さまの合わせ方です。手の平の中央を離して指先を合わせるのですが、指と指の間を少し開けて、人差し指を口に持っていく祈り方です。手の平の間に神さまがいるような感じがして、ちょっとお気に入りです。

ちなみに、跪くときは、机の上で手を合わせると苦しいので、机の下の棚に置いて手を合わせると楽なようです。

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2007/02/11

私がイエスを神とする理由

mixiのとあるコミュで書いたコメント(いわゆる使い回し)です(一部修正)。

私が洗礼を受けたのは、キリスト教が煩悩を捨てるのではなく、それを受け入れ、ゆるしてくれるからだと思います。

仕事がうまくいかずに苦しんでいたときに父親が亡くなって、まず、家の宗派(仏教)の本を読みました。確かに良いお話が書かれていたのですが、なにかピンとこない、自分とは関係がないような感じがありました。

そのころ妻が教会に通いだしていて、私が死んだときの葬儀が仏式だと気持ちが入らないと言いましたので、少しぐらいは読んでおこうかと本を読みました。昔、エッセイを読んでいた遠藤周作の入門書「私のイエス」を読みました。そして、引き込まれるように「イエスの生涯」「キリストの誕生」を読みました。そして、それまでの苦しみから逃れることができました。

仕事がうまくいかないのは自分にも責任があると、うすうす感じながらも、認めることができませんでしたが、「キリストの誕生」を読んでようやく認めることができたのです。

人々に見捨てられ、弟子にも裏切られ、十字架を背負ったイエスは、最期の時も人々のゆるしを父に願い、共に処刑された犯罪者も救いました。

良いところも、悪いところもすべて受けとめて、ゆるしてくださる、その完全な姿は弟子たちの心に残り、神として復活しました。それまで使徒たちは、イエスの教えを理解できませんでしたが、キリストの復活後、教えを積極的に広めるようになりました。

使徒たちと同じように、私はイエスの姿によって、自分の傲慢さに気づかされました。

イエスが神であるというのは、キリスト教の定義する神であるということです。その定義をアーメン(そのとおり、その通りでありますように)と思えるかどうかだと思います。私は遠藤周作の現実的な解釈によって救われ、聖書を読んでニケア・コンスタンチノープル信条をアーメンと思うようになりました。もちろん聖書は誰が読んでも良いことが書かれていると思いますが、救いを求める気持ちがあるからこそ、聖書の言葉に救われるのだと思います。

たしかに信仰はタイミングだと思います。学生のころに私が遠藤周作を好きだったこと、妻がカトリックの学校を出たこと、父が亡くなったこと、他にも色々な偶然がありました。その偶然を神様のしるし、すべて良いことだと思うことが回心たと思います。現実に苦しむよりも神の愛を感じて幸せに生きたい、それが私がイエスを神とする理由です。

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2007/01/25

洗礼と洗礼名

そろそろ洗礼申込書を書く時期になったのですね。少し前に入門講座で習った洗礼名のお話を元にまとめておきます。

洗礼は、神さまの子どもになったお祝いです。家の中で父親を愛している限り守られるように、教会のメンバーになって天国の住人としての資格をいただき、生きる力をいただきます。洗礼を受けると、神さまによって清められます。洗礼は天国への関所の札のようなものです。

洗礼名は洗礼のときに授けられます。人は必ずどこかに所属し、名前がつけられ守られます。洗礼名は家族でなく、神さまからいただきます。戒名と同じように天国での名前です。戒名も元々は生きている間にもらったそうです。

さて、洗礼名は霊名とも呼び、誕生日の聖人や思い入れのある聖人の名前をいただきます。聖人カレンダー(中谷千絵さんのホームページ)あるいは聖人暦(リンク先はWikipedia)と呼ばれるもので、自分の誕生日の聖人を見てください。それ以外では、Wikipediaの著名な聖人一覧などで、探してください(他にも色々な聖人がおられます)。

通常は同性の聖人の名前をいただきますが、女性が「ヨセフィーヌ」(ヨセフの女性名)とさ
れることもあります。また、「無原罪のマリア」「アシジのフランシスコ」のような名称も可能です。

なお、成人洗礼の場合は、洗礼式と堅信式を一度に行うことが多いので名前はひとつのの方が多いです。わからないことは、神父様、代父母、シスターなどに相談してください。

ご参考までのこれまでの入門講座の記録と経験談をあげておきます。

入門講座の記録
カトリックの洗礼
水と霊によって新たに生まれる
罪の痛悔後に洗礼をうける
洗礼(罪に死にキリストに生きる)と入門式
堅信~按手により聖霊を受ける~
聖霊の働き
堅信の賜物

経験談
受胎告知と入門式
ミサと洗礼志願式
洗礼良いですよ~

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2007/01/14

ミサの聖歌 - しおりのコツ -

Seika カトリックのミサで最初に戸惑うのが、聖歌の多さでしょう。大きな教会では聖歌隊の方が中心で一般信者があまり歌わないところもありますが、聖歌は祈りなのでわかるところだけでも歌いたいですよね。

教会によっては電光掲示板の所もありますが、私の所属教会では写真のようなボードで聖歌集の番号が示されています。 ここでは所属教会の主日ミサの場合を説明します(教会によっては表示が異なったり、週日(平日)のミサでは歌の数が少ないので聖歌の番号だけでなく何番を歌うかまで示される場合があります)。

聖歌集は2種類使います。横長で赤い(カバーがかかっていることもある)「典礼聖歌」と「カトリック聖歌集」(ともにリンク先はサンパウロ)です。写真では「聖」と書かれている閉祭の歌だけがカトリック聖歌集で、それ以外は典礼聖歌の番号を示しています(ごくまれに「p」と書かれているときはページを示しています)。

さて、典礼聖歌集のしおりの紐は4本しかありません。しかし、典礼聖歌は7曲(実は後述の2曲が隠れています)なので、ちょっとテクニックが必要になります。

「答」と書かれた答唱詩編、「ア」と書かれたアレルヤ唱は、聖堂の入り口で渡される「聖書と典礼」に載っていますので、しおりはいりません(週日のミサでは「聖書と典礼」がありませんので、気をつけてください)。

写真でわかるように「憐」と書かれたあわれみの賛歌と、「感」と書かれた感謝の賛歌はいつも続いていますので、どちらかにしおりを挟めばよいでしょう。じつは、203番のあわれみの賛歌のあとに、204番の栄光の賛歌が歌われ、205番の感謝の賛歌のあとに206番の平和の賛歌が歌われます。歌いながら、しおりを順にずらしていくのも良いでしょう。

この番号は変わることがありますが、連番であることはかわりません。また、歌詞は同じで式次第に載っていますので、式次第を見て歌われるのも良いでしょう。なお、降誕祭(クリスマス)前の待降節や復活祭(イースター)前の四旬節では栄光の賛歌は歌いません。

「典」あるいは「入」と示された開祭の歌は最初に開くので、しおりを別のところにはさんでおくのも良いでしょうね。

ミサが始まる前にこんな感じでしおりを挟んでおくと、初めての方でも戸惑わずに歌えると思います。これまであまり歌われなかった方も、一度挑戦してみませんか?

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2006/12/13

聖水をつけて十字を切る

お聖堂に入るときや帰るときに,聖水をつけて十字を切ることについて調べました.
ここでも何度か十字の切り方を紹介しました.なかなか良いお話だったのが,こころのともしびに載っていた「十字の切り方」です.キリストを思い描いて心を込める方法が印象的でした.

ミサでもうかがいました.父と子と聖霊の御名によってと十字を切るというお話です.これは聖書の中の「弟子たちを派遣する」(マタイ28・16-20)のお説教です.

大阪司教区典礼委員会の「Q&A」コーナーには,聖水盤の聖水で十字をきる行為によって、洗礼により生まれ変わった自分が神のみ前にいることをしっかりと自覚するためです。とされていて,信者が聖堂に入ったときにするように書いています.

でも,ミサの帰りにもする人もいますし,洗礼を受ける前からするようにいう方もおられます.なんとなく,納得いかないで調べてみると,サンパウロホームページのキリスト教質問箱には水の意味から十字を切ることが説明されています.読んでいただくとわかりますが,けっきょく洗礼を受けているか,ミサの帰りであるかよりも,神様のことを思って心から十字を切る事が大事なのでしょう.

ちなみに,サンパウロのキリスト教質問箱では,十字の切り方が東方諸教会(正教会)と左右の順番が逆になっていることも説明されています.分裂と関係あるとは思っていたのですが,カトリックが逆にしたのですね.

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2006/11/03

祈りによる恵み -苦しみの中にも恵みはある-

人生の中には色々な苦しみがあります。信仰心があっても苦しいときは苦しいです。ただ、少しだけ違うのは、なにか問題がおきたときに心丈夫なのです。

信仰心がないときは、なかなか前向きに考えられず、何か憂さ晴らしをする、より不幸な状況と比較する、別のもので我慢する、といったことしかできませんでした。しかし、気分転換をしても、我慢をしても、現実は現実で変えようがありません。

神さまに出会ってから、少し変わりました。どんな苦しいことにも意味があり、乗り越えられない試練は与えられないのだから、この状況も何とか乗り越えられる。そう思うようになりました。

苦しいときは祈り、神さまとお話しします。お願いも一つの祈りですが、それだけではなくお話します。別に語りかけなくても元々ご存知なのですけど、とにかく思いのたけをお話します。人に対してお話しするのなら、知らず知らず身構えてしまって言わない事もありますが、元々ご存知の方にお話しするので、躊躇する必要はありません。

苦しみや悲しみ、そして願いをお話して、神さまと分かち合います。いろいろと話しているうちに、不思議と落ち着いてきます。今まで見えなかった現実が、徐々に整理され、現実をどう受け止めればよいかが少しずつ見えてきます。

時には、自分の思いが恥ずかしくなり、間違いに気づくこともあります。また、自分のことだけでなく、他の人のことをお願いしているうちに、自分が一緒になって苦しむのではなく、何かしないといけない気もしてきます。

どんなにお願いしても、かなわないこともたくさんあります。でも、祈り、ゆだねることで、苦しみに挫折せず、前向きに生きようとする心が芽生えてきます。それを私は祈りによる恵みだと思っています。

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2006/10/01

信者でなくても与えられるミサの恵み

洗礼を受けていなくても、教会のミサに出る(ミサを捧げるとか、ミサに与<あずか>ると言います)ことができます。はじめての場合は、日曜日のミサが良いでしょう(「ミサに行こう!」もお読みください)。日曜日のミサだと、聖書の朗読箇所を印刷した「聖書と典礼」という薄い冊子がもらえます。ミサの全貌を知るには式次第を借りたほうが良いですが、雰囲気を知るだけなら「聖書と典礼」と聖歌集(赤い本、黒い本、バインダー、楽譜と教会によって異なります) で良いでしょう。

ミサ(詳しくは「ミサ聖祭」をご覧ください)の中では、罪を告白し、聖歌をうたい、聖書朗読と神父様のお説教を聴きます。そのあと、奉納(献金)があり、いよいよ聖変化です。鐘が鳴らされ、パンが聖体(キリストのからだ)に、ぶどう酒が御血(キリストの血)に変わったことが、知らされます。この鐘は、昔ラテン語でミサが行われていたころの名残です。分からない言葉だと、ミサのどこをやっているかわからないので、もっとも大事なタイミングで「いま聖変化の瞬間ですよ」と鐘で告げられるのです。この鐘のおかげで、外国人でも安心してミサに与ることができます。

このあと、中央に列になって、信者は御聖体を(両形態の場合は御血も)いただきます。カトリックの洗礼を受けていない(かつ、プロテスタントから受け入れられたのでない)方は、御聖体を拝領するかわりに、神父様から祝福を受けることができます。

祝福を受ける際は、聖体拝領する方と共に中央の列に並びます。神父様の前に出たとき、手を合わせて軽く頭を下げます。すると、神父様が手を頭にかざし、「父と子と聖霊の祝福がありますように」あるいは「キリストの祝福」などのように言ってくださいます(もっと長い言葉のところもありますが失念しました)。

この祝福は神父様が行われる準秘跡です。キリストの愛弟子である十二使徒から2000年間続いたキリストの弟子である神父様によって、それぞれの方のために行われます。その行為は神父様がされているのですが、聖霊のはたらきを感じるほどにキリストの存在を感じるときもあります。ぜひ、ミサに与られたら、祝福を受けてください。

さて、ときどき洗礼を受けていないと聖体拝領できないことをご存知でなく、見よう見まねで拝領してしまう方があります。間違った後で神父様に相談された方の話によると、「恵みだと思いなさい」と言われたそうです。

入門講座でうかがった神父様のお話だと、間違って聖体拝領した人は必ず戻ってくる、つまり必ず洗礼を受けると言われているそうです。それほど、間違える人が多いと言うことなのでしょうね。そんなことなので、まちがって拝領した方も安心して、洗礼への道を歩んでください。

(わざと間違えないでくださいね。念のため)

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2006/08/22

キリストの恵み

キリスト教は御利益(ごりやく)宗教ではありません。壺やお守りを買ったからといって願いがかなうわけではありません。

自分が幸せであると気づくこと、自分が傲慢であると気づくこと、それがキリスト教の恵みだと思います。

私の好きな「神がまずわたしたちを愛してくださった」(一ヨハネ4・19)言葉は、どんな苦境であっても、実はそれは幸せな状況であり、傲慢な自分の心が苦境だと思わせているかもしれないことを考えさせます。神に祈り続けたとき、本当の幸せが見えてくることもあります。

また、それは私たちが成長するために与えられた試練かもしれません。乗り越えられる試練だからこそ与えられているのかもしれません。すべてのこだわりや迷いをゆだねたときに安らぎが得られるのかもしれません。

こんな風に思うのは、私の信仰が強いからではありません。キリストが神かと聞かれたら、そう信じる、そう思いたい、とは言えても、間違いなくそうであるとは言えません。

でも、ひとつだけ確かなことは、人々を救おうとしたナザレのイエスは、人々にも、弟子にも裏切られましたが、恨み言のも言わず、人々のために祈って亡くなりました。

それは、愚かな行為かもしれません。逃げることも、言い逃れることもできたでしょう。でも、ちょっと考えてみてください。今感じている苦しみは、そんなに大きなものでしょうか?すべてを捨て誰かのために尽くしているでしょうか?

遠藤周作の「私のイエス」「イエスの生涯」は、惨めなイエスを描いています。本当の思いを理解されず、裏切られた人間イエスです。そして「キリストの誕生」では裏切った弟子たちの思いが描かれています。イエスの思いを理解せず、裏切ってしまった弟子たちの苦悩が描かれています。

愛を感じずに、自分の側からだけ考えて、怒り、悲しむことは、この弟子たちに似ています。私の思いは、そんなものではない、そうせざるを得ない、悪いのは私ではない、そう思うことは人間のサガです。でも、それがあるべき姿ではありません。

弟子たちは、イエスを失ってようやく気づきました。イエスが自分たちを愛してくださったこと、イエスの教えたかった愛が何であるか、自分たちはすでに幸せだったこと、抱いていた不満が傲慢であったこと。

そして、彼らはそれこそ神の愛であり、絶対的な愛を示してくださったイエスこそ、救世主キリストであると確信するようになりました。

どうしても怒りが抑えられないとき、人生がイヤになったとき、自分はなんとダメなんだと思ったとき、上記の遠藤周作の本を読んでみてはいかがでしょうか?

簡単に言ってしまうと、ポジティブに考えるということに過ぎないかもしれません。しかし、深い苦しみや悲しみに出会ったときは、絶対的な愛に出会うことが必要になると思います。それこそがキリストの恵みだと思います。

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2006/06/11

父と子と聖霊と-十字の切り方(その2)-

今日のミサは三位一体の主日でした。福音朗読はマタイの福音書の結びの段落で「弟子たちを派遣する」(マタイ28・16-20)でした。

11人の弟子たちはイエス様が指示されたガリラヤの山に登ります。この山は山上の説教を行った山です。ガリラヤはなだらかな土地で、山といってもなだらかな丘のようなところです。

そして、弟子たちが出会ったイエス様は

すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。

と言われます。ここで、父と子と聖霊という言葉が出てきます。

カトリックでは、朝起きたとき、夜寝るときに「父と子と聖霊の御名によって、アーメン」と十字を切って、よい朝が迎えられたこと、一日が無事に過ごせたことを感謝してお祈りします。

この十字を切る動作は、いい加減にしてはいけません。丁寧に心を込めて行いましょう。おでこに手を当てて「父と」と言います。このときは、この世を作ってくださった神、われわれに自然を与えてくださった神に感謝します。

次にみぞおち(胸の下のへこんでいるところ)に手をあてて「子と」と言います。そして、御子であるキリストをお送りくださり、われわれを救ってくださったことに感謝します。

そして左肩と右肩に手をあてて「聖霊の御名によって」と言い、主が復活し聖霊を授けてくださったことに感謝し、手を合わせて「アーメン(そのとおりになりますように)」と祈ります。

十字の切り方に関しては、こころのともしびの記事を紹介しました。どちらも、心のこもる祈り方ですね。

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