半年ぶりにカトリック高円寺教会にうかがいました。たまたま第一土曜日に出張が入ったので、「おやじの会」に参加させていただいき、翌日にミサを捧げました。
前回おじゃました際は、初めてでもあること、また、なんとなく神様の声を聞いてしまう気がして、近くのビジネスホテルに泊まりましたが、今回は何も考えずに司祭館に泊めていただきました。
眠れなかったので、もし神様の声が聞こえたら「私はここにおります」だったっけ「聞いております」だったかとか、意味もなく考えていました。まあ、私なんかに聞こえるわけはないのですけど、、、。ちなみに正解は「どうぞお話しください。僕(しもべ)は聞いております。」(サムエル上3・10)です。
もちろん、何もなく朝を迎えました。やっぱり何もなかったと思うと安心したような、さびしいような気持ちでした。すると、外からは虫の声が聞こえてきました。ああ、こんな優しく静かなひと時は久しぶりだと思っていると、鳥のさえずりも聞こえました。こんな風に自然を感じるのも神様の恵みなのだろうと思っていると、急に風が吹きました。窓の外に植えられた木の枝が風を受け流すようにゆっくりとしなり、大きな弧を描いて元に戻りました。
前夜おやじの会では、高円寺のみなさんに教会のイベントで何が好きかをたずねてみました。所属教会で、何かやりたいと考えていたからです。みなさんの答えは、復活徹夜祭とクリスマスでした。ミサ以外ではLive Voiceだそうです。いずれにしても信仰に裏づけされた活動であるとのこと。そしてその言葉の後には、「でも」とか「大変」という言葉はつかなかったのが印象的でした。信仰に裏打ちされて、それが喜びであること、それが、答えなのでしょうね。
ミサの福音朗読は「昔の人の言い伝え」(マルコ7・1-23) でした。イエス様が見た目の律法主義を否定し、「悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」と、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など人の心の問題を指摘されたお話です。
お説教は神父様の反省の言葉から始まりました。これまで、何とか良くなるように、期待に答えたい、頑張ろう、私がやらないと、と忙しく働いてこられて、8月にフランスと無人島に行っておられたそうです。一ヶ月で体調も万全になられたようですが、それはこれまでの無理を感じさせる期間でもあったようです。
私たちも、日ごろの生活の中で、色々と苦労し、悩み、もがいていますが、それは外面を気にしているからではないのか、無理をしているのではないかという問いかけに、その少し前に見た、風を受け流す枝を思い出していました。
教会のこと、仕事のこと、家庭のこと、何も無理をする必要はない。すべてを受け止め、心に静かに問いかけながら、歩んでいけば良いということを教えられたような気がします。
さて、おやじの会での晴佐久神父のお話で心に残ったのは、典礼のやり方でなく、心が大事と言われたことでした。私は、所属教会では人に指示するでもなく好きにさせてもらって、よその教会では、みんなで捧げるのだからと周りに合わせてひざまづいたりしています。でも、そんな形よりも、どれだけ心が神様を向いているかを問われていたと思います。
今日のミサでは隣に女性の方が座られました。ミサの前に、大きさの違う「聖書と典礼」を見せられ「これは同じ内容ですか?」と聞かれました。基本的な質問に、てっきり未信者の方だと思いました。戸惑っておられたので、典礼聖歌のページ(ミサ曲の207-209のあたり)や、典礼聖歌の裏表紙に貼られた使徒信条の場所など、それなりに教えて差し上げました。
いよいよ、聖体拝領のとき「祝福の受け方はご存知ですか?」とたずねると、「実は信者なんです。あまりミサには出れなくて、、、」との返事、確かに主の祈りとかは普通にされていたので、学校などで経験はあるのかと思っていましたが、少なからずショックを受けました。
まあ、うちの教会でも入門式までミサに出なかった人もおられたし、人それぞれの事情もあるのでしょうね。
でも、その女性、お説教の間に、ウンウンとうなづいておられたのです。あまり経験のないミサで、しっかりと神父様のお話を吸収されていました。その姿を見て誰がとがめられるでしょう。いや、とっても美しい姿だと思いました。
この件で、「所属教会じゃないから」とか、「信者のくせに」と思ったら、ミサの中で心が神様に向くことはなかったでしょう。現状を受け入れて、可能な範囲で求められるものを与えたからこそ、その女性からも幸せを分けていただけ、恵みにあふれたひと時を過ごせました。
この2日間を振り返ると、前回は避けていた神さまの声を聞いたように思います。朝に聞いた虫の泣き声と鳥のさえずりの中で、風を受け流すようにしなった木の枝、それは私にとってまさに神の声だったと思います。
(引用は日本聖書協会 新共同訳)
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