2007/02/18

カナでの婚礼のように - 入門式・洗礼志願式 -

今日のミサでは、入門式と洗礼志願式がありました。説教では、福音朗読の内容が洗礼志願者への言葉であると述べられたあと、マリア様への祈りの起源とされるカナでの婚礼に触れられました。

「カナでの婚礼」(ヨハネ2・1-12)は、婚礼中にワインがなくなり聖母マリアが「ぶどう酒がなくなりました」と言われ、イエス・キリストが水をワインに変える、という初めての奇跡を行ったお話です。このとき世話役が言った

「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」

という言葉のように後になってどんどん信仰が深まるようにとのお話でした。

Ukon2 そして最後に玉造教会の修道院の傍にあった高山右近像に触れられました。この右近像は玉造教会の工事の際には、写真のように土に埋もれていたのですが、最近訪れた際はなくなっていました。どこにいったのかと思っていましたが、お話によると現在は修復中とのこと。この像は、十字架に見立てた剣を持っていて、修復した剣を見ると鳩がいたそうです。この右近像のように、キリストの教えは年を経るごとに新しい発見があるので、これからも深めていくようにとのこと。

Ukon 実は、同じ右近像が教会近くの城址公園にあります。この像にも鳩がいたかどうか、記憶がなかったのでミサの後に確認に行きました。良く見ると、たしかに十字架のイエスさまの頭の上に鳩がいます(クリックすると拡大します)。Hato 平和とは縁のないような戦国時代にあって、人間よりも神に従い、マニラに追放されても高山右近は信仰を捨てませんでした。そんな高山右近の持つ十字架の鳩は、これから洗礼を受ける方の心の平和の象徴なのかも知れませんね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/02/05

高山右近の列福申請と名誉毀損

ukon26 高山右近列福祈願ミサと講演会に行きました(写真は日本二十六聖人記念館所蔵の船越保武作高山右近像:配布資料より)。

レオ池長潤大司教主司式、北摂地区の司祭および有志の司祭の共同司式にて行われました。5人の神父様でのミサはただ「すごい」としか書けません。特にご聖体に手を差し出されるところでは、5人の神父様の手が(卑近な例で言うとバレーボールで「ファイト!オー」とするように)ご聖体にのび、神父様の祈りがご聖体に向かって集中しているようでした(聖体拝領できないのが残念)。なお、一番気になっていた「司祭とともに」はそのままで、「大司教とともに」とは誰も言っていませんでした:-)

お説教では列福の申請状況が説明されました。2年前から推進運動が進められていて、去年のミサでは、全体の盛り上がりと(殉教者でなく証聖者なので)2つの奇跡が必要だと述べられていたそうですが、どうも状況が変わったそうです。

以前は証聖者としての申請のままでと言われていましたが、担当されている神父様たちの今年のローマ訪問では、対応が変わったそうです。神学が変わって実際に追いやられ死亡した場合は殉教者と扱うようになってきたこと、奇跡がないことから、殉教者として申請しなおすように勧められたそうです。どうも、まだ時間がかかるようです。

そのほかの申請では、遠藤周作「銃と十字架」に描かれているペトロ岐部(リンク先は谷底ライオン)ら187人は列聖省の歴史部会の調査が済み、神学部会の調査に回るそうです。

ちなみに、世界で証聖者・殉教者あわせて400人ほどの列福申請があり、年間20人ほど認められるそうです。さらに、調査は申請順でなく、提出が少ない地域優先、聖職者より一般が多い、とのことで、高山右近に奇跡があれば遅くなる要素は無いそうで、ちょっと残念です。

講演会は「事実無根-高山右近に関する疑問について考える-」と題し、郷土右近研究家の権威である久保田典彦氏により行われました。久保田氏は阿武山福音自由教会で「右近研究」という資料を配布されている方で、教会を超えたエキュメニカルな講演でした。

事実無根でありながら、右近の名誉を傷つけるようなことが言われているとされたのは、

  • 主君を倒し高槻城を乗っ取った
  • 領地の社寺を焼き討ちした
  • 志津ヶ嶽で中川清秀を見捨てた
  • 妻以外に女性と子供があった

これらは、主に江戸時代の禁教令下の中でキリシタン大名の大番頭と言われた高山右近を政治的に批判するために言われたようです。講演では、フロイス神父のローマへの報告や高槻市の出している「新いにしえ物語」、関根和美「私の高山右近」などを挙げて説明されていました。「高山右近史話」と同じように、高山右近をキリスト者として高く評価され、研究を進められていることが良くわかりました。

講演のまとめとして聖書を引用され、「いいかげんに友人の証人となってはならない」(箴言24・28)といわれていました。

ミサと講演に、たくさんの方が来られいたのは、少し驚きでした。やはり、戦国時代にあって、キリスト者であり続けた高山右近は、倫理観を失いつつある現代において魅力的な人物なのでしょう。

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2006/02/03

高山右近列福祈願ミサ&講演会

poster2 来る2月5日(日)はカトリック教会の定める高山右近の命日です。2月5日(日)午後2時からカトリック高槻教会で「高山右近列福祈願ミサ」がレオ池長潤大司教主司式、北摂地区の司祭および有志の司祭の共同司式にて行われます。

また、ミサ終了後の午後3時30分~4時30分には、教会内にある右近会館2階大ホールにおいて「事実無根-高山右近に関する疑問について考える-」と題した講演会が行われます(参加費無料)。講師はキリシタン文化研究会員・高槻高山右近研究会員であり、郷土右近研究家の権威である久保田典彦氏です。

案内には以下のように書かれています。

講演会は右近列福に対する理解を深める良き機会でではないかと考えております。我が国におけるキリシタン初期時代の生き様を知り、信徒使徒職の鑑となり、当時のキリシタンの柱石と言われた右近を理解し、彼に少しでも近づければ幸甚だと考えます。

map みなさんも参加されませんか?
(行きたいけど、ミサは初めてなので付き合ってほしい方はご連絡ください)

ようやく宣伝にたどり着きました:-)

駅前にある地図を追記しました。駅からだと現代劇場の手前です(写りが悪くてすみません)

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高山右近こぼれ話

siroato1 カトリック高槻教会の近くには、城址公園があります。ここに私が知る中で最もかっこいい、西森正昭氏が1972年に作られた右近像があります。もともと市民会館前にあったようですが、現代劇場ができたためか、現在の場所に移設されています。ukon11 同じ像が、右近ゆかりの地であるマニラ・志賀町・高岡市そして高槻市の4箇所にあるそうです(さらに玉造教会にもありましたが小豆島に移設されました)。

siroato2 城址公園のそばには石垣が一部残っています。また、高槻教会との中間には墓地の跡が見つかっており、現在、石碑がたてられています。

kyoukai 高山右近は、茶道を究めていたようで、利休七哲の一人とされています。右近は茶道を通じて、キリスト者としての精神力を高めるとともに、茶道のつながりを宣教活動にも利用していたようです。

以前、神父さまから茶道で器を拭く茶道の所作は、ミサの中でカリスを拭く所作からきていると、教わりました。調べてみると、「茶道の所作、葬儀、結婚、檀家、夫婦同姓もキリスト教から」というページがあり、ちょっと驚きました。

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2006/01/26

高山右近記念聖堂-高山右近その6-

Kyokai ユスト高山右近高槻城内に建てた天主堂・聖堂のあった場所の近くにカトリック高槻教会があります。その聖堂は右近が帰天したマニラ郊外アンチポロにある聖母大聖堂に模して設計されていて「高山右近記念聖堂」と呼ばれています。

ukon10 教会の案内には以下のように書かれています。「第2次大戦後の1946年、当時の故田口芳五郎大司教は<高山右近顕彰碑>と<記念聖堂>の建立を計画されました。これには、郷土の誇りとして語り継がれてきたキリシタン大名ユスト高山右近を思い起こすことで、敗戦の痛手に打ちひしがれていた日本国民の心を癒し、希望を持って立ち上がる事が出来るようにとの祈りが込められていました。多くの人の祈りと尽力で建立計画から実に16年後の1962年にようやく完成したのです」

ukon9 ユスト高山右近逝去から350年、高槻の地に聖堂が復活しました。現在はそのとなりに右近会館があり、高山右近のレリーフが飾られ、その前には右近像が建てられていますています。ukon8

教会のパンフレットによると、建立が計画された1946年に同大司教は大阪府東部地区の布教をクラレチアン宣教会に委託されたそうです。このためか、北摂地方にはクラレチアン宣教会を母体とする啓光学園があるほか、maria2 カトリック高槻教会の隣接地には汚れなきマリアのクラレチアン宣教修道女会によって創立された高槻マリア・インマクラダ幼稚園がありモンテッソーリ教育が行われています。

annai なお、一見T字型の建物に見えますが、高山右近記念聖堂を空から見ると十字架になっています。中央の緑の丸い屋根のところです。

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2006/01/24

義人(ユスト)は永遠に記憶に残らん-高山右近その5-

「高山右近史話」はH. Cieslik神父が書かれており、高山右近のキリスト教的な生き様が詳しく書かれています。高山右近は洗礼名ユスト(Justo:義人、正義の人)にふさわしい一生でした。

正義に生きた高山右近キリスト教的福祉国家を樹立しましたが、その生涯において3度も財産よりもキリスト者であることを選びます。最初は信長を裏切らないため、2度目は秀吉の棄教の命令に従わないため、そして3度目は家康のキリシタン追放に従うためでした。

殉教の覚悟も3回しました。キリシタン禁令が出たとき、サン・フェリペ号没収事件(リンク先はWikipedia)のとき、そしてマニラに追放された際も殉教を覚悟します。右近はそれまでの戦(いくさ)での貢献や、キリシタンの大旦那といわれるほど大きな影響力を持つことから殺されませんでしたが、それは武士として国外追放という辱(はずかし)めを受けることになりました。

右近はこれらの判断の際にはキリスト者として如何にあるべきかだけを考えていたようです。追放されたマニラにおいても、国王級の歓迎をうけ、俸禄をキリスト者への愛として受け取るように言われましたが、右近は奉公することができないからと住むための家以外は望みませんでした。

マニラに到着して40日、1615年2月3日(5日あるいは4日という資料もある)、右近は熱病で亡くなります。帰天のニュースが町に広がると「一人の聖人が死んだ」「否、殉教者だ」と町は大騒ぎだったようです。盛大な葬儀をもってイエズス会聖堂に葬られます。葬儀の説教ではユスト高山右近の善徳と聖性について、「義人(ユストは)しゅろのごとく栄ゆ」(詩篇92・13) 、「義人(ユスト)は永遠に記憶に残らん」(詩篇112・6)、「義人(ユスト)に言え、汝はさいわいなり」(イザヤ3・10)と聖書を引用し語られたようです(引用場所は新共同訳にあわせました)。

平和な時代に生きているわたしたちでも、キリスト者として生きることは容易ではありません。戦国時代にキリスト者として生き抜いたユスト高山右近は、日々自らの業に苦しめられているわたしたちの、良き導き手であると言っても過言ではないと思います。

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2006/01/18

慈悲の所作は十四あり-高山右近その4-

「高山右近史話」によると、高山右近は、当時キリシタンが暗唱していた教理箇条にある「慈悲の所作」を実践し、その領地は福祉国家だったとされています。

この「慈悲の所作」は、当時の教理書「どちりいな・きりしたん」によると以下の七つの肉体的慈善業と七つの精神的慈善業に分かれていたようです。

色身にあたる七のこと
一には、飢えたる者に食を与ゆること、
二には、渇したる者に物を飲ますること、
三には、膚をかくしかぬる者に衣類を与ゆること、
四には、病人をいたはり見舞うこと、
五には、行脚の者に宿を貸すこと、
六には、とらはれ人の身を請くること、
七には、死骸を納むること、これなり。

スピリッツ(精神)にあたる七のこと
一には、人には異見を加ゆること、
二には、無知なる者に道を教ゆること、
三には、悲みある者をなだむること
四には、折檻すべきものを折檻すること
五には、恥辱を堪忍すること
六には、ポロシモ(隣人)の不足を赦すこと
七には、生死の人と、また我に仇をなす者のために、デウス(神)を頼み奉ること、これなり。

高山右近(と父)は領地内で福祉政策を行いました。4人の慈悲役を置き、他国から来たキリシタンに、宿、食事、衣類を与え、貧しい人なら何日でも世話をしたようです。また、寒い日には新しい着物と古い着物を着込んで城内歩き、貧しくて寒い思いをしている部下に会ったなら新しい着物を与えていました。そして妻に以下のように言っていたようです。

「もし、あなた自身の霊魂とあなたの子供たちのために神の慈悲を望むならば、自ら慈悲の所作をやりなさい。もし、貧者のために施すものがなければ、屋根の瓦をはぎ取り、それを売って貧者を覆いなさい」

当時、死者を葬る場合、身分の低い人たちがそれを引き取って焼いていたようです。しかし、貧しい人が亡くなった際にも右近らは自ら棺を肩に載せて運び、貴賎男女のキリシタンと共に丁重に葬ったようです。

このほか、戦死者の子や未亡人にも気を配るなど、右近の領地は福祉国家といってよいものだったようです。

本能寺の変で、織田信長が死去し、政治不安から日本各地で暴民が起こり略奪・暴行がどこにでも見られたときでも、右近の領地では平穏無事で、誰一人暴行を働かなかったようです。これは、領民のほとんどがキリシタンであったほか、右近の善政と模範が、領民の生活を保証し、絶対的信頼を得ていたためであったようです。

宗教と政治が結びつくことは、両者の腐敗を生じやすいなど、必ずしも良い面ばかりではないと思います。しかし、高山右近に関しては、非常に良い面が表れていたとおもいます。

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2006/01/17

戦国時代とキリスト教の倫理観

ukon9 高山右近その3です。「高山右近史話」を読んでいると、当時、なぜ砂地に水を撒くようにキリスト教が普及していったを考えさせられます。

下克上の時代にあって、高山右近のキリスト教的判断基準は、当時の思考法とかなり違っていたようです。本能寺の変で、明智光秀が信長を倒したとき、高右近は明智光秀の配下にあったので、明智光秀は高山右近が従うものと思っていたようです。しかし、高山右近の正義感では、明智光秀は無道ものの暴君にしか見えなかったようです。

その判断のミスにより、山崎の戦に破れた明智光秀は、本拠地の滋賀県坂本に戻ろうとする中、救いを求めた農民に金品を狙われて殺されます。その場面を当時のフロイス神父は「異教徒がこのような際に時間があれば名誉のために通常行う切腹さえもなし得なかった」と書簡に残しています。

この一連の流れで、当時の倫理観がいかにキリスト教的な倫理観とかけ離れていたかが解ります。

  • 嘘偽りのないことでなく、立身出世が正義
  • 一般人が人を救うことよりも、他人ものを欲している
  • 命よりも名誉を重んじる

このような時代に、正しく生きることを導いてくれるキリスト教は、我々の想像を超えて輝いていたのではないでしょうか。高山右近はあまり強制をせず、自由な決心を尊重していたそうですが、10年間でに領地約3万人の3分の2以上にあたる2万5千人がクリスチャンになったのは、このような背景からではないかと思います。

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福者と列福-高山右近その2-

ukon8 私の通う教会では、ミサの前に「ユスト高山右近の列福を求める祈り」を祈ります。

すべての人の救いを望まれる神よ、ユスト高山右近は、「全世界に行って、福音をのべ伝えなさい」というキリストのことばにこたえ、苦しむ人を支え、困難のうちにある人を助け、あなたへの愛をあかししました。また、世の権力に屈することなく福音に忠実に従う道を選び、すべての地位と名誉を捨て、幾多の困難をすすんで受け入れ、ついには異国へ追放されました。このように、あなたはユスト高山右近をとおして、すべての人に仕える者の姿を示してくださいました。
父である神よ、どうか私たちの祈りを聞き入れ、福音を力強くあかししたこの神のしもべを福者の列に加えてください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。  アーメン

(各自の意向を沈黙のうちに祈る)

父である神よ、現代に生きるわたしたちが、あなたの忠実なしもべユスト高山右近にならって、この世の力や誘惑に惑わされることなく生き、み名を知らない人びとに福音をあかしできるよう、ゆるぎない信仰と勇気で満たしてください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。  アーメン

(日本カトリック殉教者列福調査特別委員会認可)

ここに出ている「福者」(リンク先はWikipedia)とは、「死後その徳と聖性を認められた信徒に与えられる称号」で、この称号を受けることを「列福」というそうです。福者は聖人になる前の段階でもあり、聖人が博士なら福者は修士(博士前期過程)のような感じで、修士でおわる立派な方もおられますし、さらなる審査で博士までたどり着かれる方もおられるようです。

Laudateのキリスト教マメ知識によれば、福者の審査には3段階あるようです。「高山右近史話」によれば1634年にマニラで公式列福調査が行われ、1963年にローマ聖座の公文書に基づき列福調査が始まり、1971年に53,680人の署名がローマに送られているそうです。もうすこし、というところでしょうか?

poster 2月5日にカトリック高槻教会で行われる「高山右近列福祈願ミサ」(高山祭)では、これらの意味を考えながら捧げたいと思います。ミサ終了後は「事実無根-高山右近に関する疑問について考える-」という無料講演があり、それも楽しみにしています。

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2006/01/15

キリシタン大名高山右近(その1)

ukon4 フーベルト・チーリスク「高山右近史話」を読み始めました。まだ、はじめの方ですが、高山右近はなかなか立派な人物のようです。

戦国時代のお話ですので、下克上の事件も当然のように起こります。右近は直接主君の荒木村重に忠誠のしるしとして、妹と長男を人質に差し出していました。この荒木が織田信長に謀反をはかりました。忠義の精神からするともちろん荒木に命を捧げるべきですが、キリスト者としては不正に加担できない。人質のこともあり、悩んだ末に荒木側につきます。

すると、信長は神父を人質にします。そのような状況下で、父親は荒木川につくべきだと命がけで訴え、城の中は信長戦に備えます。そこに、別の神父が信長との和平を訴えに来ます。武士として、父親としてはもちろん荒木側、世の正義、キリスト者としては信長側、その葛藤は大変なものだったと思います。

そこで、右近が出した決断は、家督を父に譲り、出家すると言う決断でした。もし、右近が信長に投稿すれば、父は自害し、名誉や領地も失い、欲望のために決断したと考えられるでしょう。逆に荒木側につけば、神父の命を失うことになる。すべての人の命を救う方法として、利害関係に縛られる右近自身が責任者から外れると言うものでした。

信長の陣にたどり着いた右近は歓迎され、秀吉に信長に使えるように勧められますが、剃髪して教会に奉仕するとこれを断ります。翌日、信長から石高倍増、人質救出の努力を約束されます。

「小事を捨て大事を扶くる」とされたこの事件は、右近の洗礼名である正義の人聖ユストに恥じない、良心に従う行いでした。「高山右近史話」はこのお話を「まさに聖書の精神にのっとって、人間よりも神に従うべし(使徒4・19)」であると締めくくっています。

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