2008/06/23

わたしが暗闇で

土曜日の聖書の分かち合いは、シスターと神父さまが参加されるという贅沢な分かち合いでした。内容も盛りだくさんで、色々とためになったり、考えさせられたり、良いひと時を過ごしました。

聖書というのは不思議な読み物で、読むたびに色々なイメージがわいてきます。納得できる説明を聞いた後でも、自分の心には違う意味に響いてきます。

今回はこんな一節が響きました。

わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。(マタイ10・27)

神は「あしのともしび」のように、私たちの明かりです。しかし、キリストと出会う前の私はまさに暗闇でした。そこで聞いた神さまの救いの言葉を、恵みを受けた私は語らないといけないのでしょう。

ところで、どうしてブログを書いているか?聞かれたのですが、私にもよくわかりません。

ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイ10・8)

という言葉を知っていたわけでもなく、もちろんVocationというほどのものでもありません。ただ、伝えたいから書いています。

ところで、今日の福音で二人の聖人を思い出しました。

耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。(マタイ10・27)

分かち合いでは気づかずにミサで気づいたのですが、この言葉はブラザー・サン シスター・ムーンのアシジの聖フランシスコを思い出させます。この映画で、聖フランシスコは屋根の上に登り、小鳥に説教をしたのです。

「イエスの仲間であると言い表す」(マタイ10・32-33)では、聖イグナチオ・デ・ロヨラを思い出しました。「ある巡礼者の物語」p199によると、父なる神とイエス・キリストがイグナチオとその同志たちをイエスの友(Compañía)として選ばれたと悟ったので、修道会の名を「イエス友の会(La Compañía de Jesús )」と名付けられました。

聖書の書かれた頃はユダヤ教イエス派のような扱いだったので、仲間という扱いだったのだと思いますが、わたしも聖イグナチオのように仲間とされれば、どんなに幸せでしょうね。

私は特に隠しているわけではありませんが、社会生活の中では宣教活動はほとんどできていません。しかし、派遣を感じた時には今日の福音を思い出して勇気が出したいと思います。

<')))><

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008/05/25

信じない者はすでに裁かれている

先週の主日ミサの福音は妙に短かったですが、深い言葉でした。前日の聖書の分かち合いで読んだ際は、最後の

御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。(ヨハネ3・18)

という一節は心に響きました。高校の倫理社会で習っていましたから、キリスト教という言葉も、イエス・キリストという名前も知っていましたし、キリストがメシア(救世主)であることも知っていました。しかし、自分が救われるまでは、そのことを信じることができませんでした。

人を愛し、世を完成に導く神、苦しい出来事であってもすべてのことに意味がある。そう思えるまでの人生は、厳しいものでした。人生は自分で切り開くもの、どんなことがあっても自分で守るしかない。そう思っていると、苦しみはどんどん増して、もがき苦しみました。信じないことで、すでに裁かれていたのでしょう。

その前の節にはこうあります。

神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3・17)

ありがとうございます。神よ、あなたは万物の作り主、あなたを置いて誰の所に行きましょう。神に感謝!

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

<')))><

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008/04/21

見ていたが知らなかった弟子たち

土曜日は久しぶりの聖書の分かち合いでした。日曜のミサの福音「イエスは父に至る道」(ヨハネ14・1-12)を分かち合いました。すこし難しいお話でした。

いつもながら、イエス様のことを分かっていない弟子たちは、おとぼけを繰り返しています。イエスさまが「あなたがたは道を知っている」と言われれば、「わからない」と言い、「あなたがたは既に父を見ている」と言われれば、「お示しください」と言います。

確かにイエスさまの言われることも難しいです。三位一体の説明であるとされるこの福音では、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」つまり「イエスさま∈父」かつ「イエスさま∋父」、つまり「イエスさま=父」といわれているのです。のちの時代のアウグスチヌスも苦しんだという三位一体は弟子たちにも難しかったのでしょうね。

イエスさまのことばで最も気になるのは7節です。

「あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」

という言葉は、一見、言いなおしたようですが、父(でありイエスさま)である神を知るのは未来だけど、父(でありイエスさま)である神はすでに見ている。つまり、イエスさまが神であることを分かっていないと言われているのです。

そんな、神学的に重要なことが述べられている箇所で、なぜ、弟子たちはこうも理解が無いように描かれているのでしょうか。私には遠藤周作さんの解釈が思い出されました。つまり、イエスさまは、弟子たちに理解されないまま、耐えがたい孤独の中で亡くなられたことを聖書作家は強調しているのです。

かみさまとだらばにS神父様のラジオのお話が出ていました。イエスさまは神様であるのに、上からでなく我々のところ、谷間の下に降りてきてくださったというお話です。

「この世の現実に密着し一人一人の人生を見つめ出会いを求め
新たな人生を指し示すために、イエスは谷間に降り立ちました。
谷間に降り立つ十字架は永遠の命であり、「道」であるのです。

これほど、イエスさまを表したことばはないでしょう。イエスさまは、肉体的にも精神的にも傷つき、苦しまれることで、苦しみ、もがいている私たちの所に降りてきてくださったのです。小さな子供に話しかけるように、しゃがんで、私たちの目を見て語られたのです。

神であるイエスさまが多くを語られていたにもかかわらず、弟子たちはわかっていませんでした。イエスさまがユダヤの国を救う救世主と誤解し、ある時はお調子者のように、ある時は自分勝手で、時には「知らない」とまで言いました。受難の時でさえも、自分たちの身を守るために、どこかに隠れていたことでしょう。

しかし、受難後に復活されたイエスさまに出会うと、そんな弟子たちも変わりました。へなちょこだった弟子たちは死をも恐れず、世界中にイエスさまの教えを宣べ伝えたのです。遠藤周作さんは、これを復活の奇跡と呼んでいます。

現実的な解釈をされる遠藤周作さんは、奇跡はあったかもしれないし、比喩的な表現かもしれないと考えておられたようです。しかし、頼りない弟子たちが受難の後になると、突然力強く宣教を始めたのは間違いなく、それこそ奇跡だとされています。そのことを人々に知らせるためには、すでに使徒として尊敬されていた弟子たちであっても、過去のたよりない様子を描かざるを得なかったのでしょう。

この復活の奇跡のきっかけとなったイエスさまとの再会は、漁、移動、食事 といった日常的な行いの中での出来事です。わたしたちが日常の苦しみの中でイエスさまと出会ったように、弟子たちも日常生活の中で、本当のイエスさまに再会したのでしょう。

私たちは、すでに出会ったつもりではありますが、

「わたしは道であり、真理であり、命である」

と言われたイエスさまを見ているだけでなく、イエスさまの道を歩いていきたいと思います。

その道の基本は、復活祭の福音にあるようです。イエスさまが復活されたとき、墓の中は「空(カラ)」でした。復活信仰であるキリスト教の基本は、なんと「カラ」なんです。自分に対するこだわりを捨て「カラ」になってこそ、キリストの道に入ることができる、つまり「捨てることで得られる」ということなのでしょう。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/23

救い主を確認して喜ぶ

先週「喜びの主日」のミサの福音朗読は「洗礼者ヨハネとイエス」(マタイ11・2-11)でした。「喜びの主日」は、福音にあるようにイエスさまが救世主であることを確認し、お生まれになることを喜ぶ日です。

福音は、洗礼者ヨハネが弟子を介してイエスさまに尋ねるお話と、イエスさまが洗礼者ヨハネを預言者以上のものとされるお話でした。聖書の分かち合いで色々な意見が出たのは、この前半のところです。

洗礼者ヨハネはヘロデ王の結婚を非難したために捕らえられています。政治犯であるヨハネが連絡を取るのですから、イエスさまにも被害が及ぶ可能性があったのでしょう。

「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」

この言葉は、聖書に書かれた「来るべき方」すなわち救世主であるかを尋ねているのですが、よく考えると普通に「来るのは誰?」と聞いているだけなんですよね。それに対するイエスさまの答えもなかなか遠まわしな表現です。

「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

イザヤ書の内容に沿った言葉で、決して救世主とは言っていません。洗礼者ヨハネが、死を前にして「あなたこそ救世主なのですね」「そうだ」それだけのやり取りなのに、この長さです。これは、いつものイエスさまのことばのようにわかりやすくというよりも、敵の存在を意識した言葉なのでしょうね。そう思うと、ドキドキしませんか。

さて、なぜ洗礼者は確認したのでしょう。福音のヒントによれば、「自分の弟子たちの目をイエスに向けさせ、イエスのもとへ導くため」という説と、旧約の神のイメージを持っていたので「やはり洗礼者ヨハネは疑問に思った」の二つが挙げられています。

しかし、分かち合いでうかがった解釈が私には納得できます。人は最期の時に自分を振り返り、確認するというものです。イエスさまがゲツセマネで

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26・39)

と祈られたように、洗礼者ヨハネも道を整えたことを確認した上で、死を迎えたかったのだと思います。弟子を通して自分の理解が間違っていなかったと知った洗礼者ヨハネは、まさに「成し遂げられた」(ヨハネ19・30)という思いで死を迎えたのでしょう。

洗礼者ヨハネは知らせを聞いた時は、どんな気持ちだったのでしょう。第一朗読の

「歩けなかった人が鹿のように躍り上がる」(イザヤ35・6)

ように、また、映画「偉大な生涯の物語」で死んだラザロが生き返ったのを見て走り出した人のように、これまでにない喜びを感じたのだと思います。戯曲「サロメ」の題材といわれる不幸な死を迎える洗礼者ヨハネですが、最後は救世主を喜び、死を迎えたのでしょうね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/11

関係は愛 - 待降節黙想会 -

所属教会ではクリスマス前の待降節と、復活祭(イースター)前の四旬節に黙想会があります。午前中に講話をうかがって、午後からはゆるしの秘跡を受けます。今回はイエズス会の林神父に講話をお願いしました。

以前もお話をうかがいましたが、以前にも増して年齢を感じさせない軽快な語り口、サービス精神旺盛なお話は多くの方がメモを取り、かつてない盛り上がりでした。

お話は今年の流行語から始まりました。その中で、特に取り上げられたのは、「そんなの関係ねぇ」です。神父さまいわく、「そんなの関係ねぇ」は福音的でない要素を含むそうです。

ある生徒が先生に、「心はどこから来るのでしょう?」と尋ねたそうです。先生はそれを宿題にして何とか逃れた、いや、指導されたそうです。中高一貫校だったので、高校に上がってから、その生徒は先生に答えたそうです。「心は人と人の間にある」と。

聖書にも同じことが書かれています。「神の国はあなたがたの間にある」と。訳によっては「あなたたちの中にある」とも言われますが、人と人の関係の中にこそ、心があり、愛があり、神の国があるのです。

差別的なことに対して「そんなの関係ねぇ」という勇気は大事ですが、人と人の関係は大事にしたいものだと思いました。

お話のすべては書ききれませんが素晴らしい時間を過ごさせていただきました。

#お寺の掲示板で見られたこんなお話もありました。

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/10/21

気を落とさずに絶えず祈る

今日は聖書の分かち合いでした。「『やもめと裁判官』のたとえ」(ルカ18・1-8)はイエスさまがエルサレムに近づく中で、弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」を教えられます。

内容はルカ11章の「祈るときには」(ルカ11・1-13)と少し似ています。はじめは断られても、しつこく言うと根負けして願いがかなうというお話です。しかも、神さまは選ばれた人(神の助けを待ち望む人)のために「速やかに裁いてくださる」のです。神さまの裁きは死んだ時と最後の審判だけだと思いましたが、昼も夜も叫び求めていれば速やかに裁いてくださるのですね。

ところで、「気を落とさずに絶えず祈る」というのは、なかなか深い言葉ですね。気を落とさないというのは、受難に向けての言葉とも取れますが、素直にとると希望を失わずに祈るということなのでしょうね。

苦しくて祈りたいときは希望を失った時のようにも思います。しかし、それではだめなのでしょうね。どんな苦しみもいつかは恵みにつながるご計画である、祈りはきっと届く、そんな思いで絶えず祈ることが重要なのでしょうね。

「祈る」というのは「唱える」という言葉とは違います。念仏のように単に祈りの言葉を発するのではだめなのです。神を信じ、心から叫ばなければ、祈りは届かないのです。それは言葉を唱えるだけではありません。「生活即祈り」というように、生活そのものも祈りとしてささげることができるでしょう。

祈りが届いたとき、願ったことがそのままかなうとは限りません。しかし、必要なものは与えられ、「求めるものは何でも得られる」のです。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/08/19

目を覚まして社会の洗礼を受ける

昨日は茨木教会でミサに与り、そのあとに同じ個所を所属教会で分かち合いました。

福音は「分裂をもたらす(リンク先はJBS日本聖書協会)」(ルカ12・49)でした。説教では、海外から来られている神父さまと高山右近のお話をされました。海外から来られている神父さまは、神の御旨に従って骨をうずめる覚悟で日本に来られていますが、その親御さんは、必ずしも喜ばれているわけではありません。神父さまが海外に行くと言われたとき、引きとめたり、悲しまれることが多いようです。神の御旨に従うことは、愛する家族との間にも対立を生むものなのです。

高山右近の場合は豊臣秀吉と対立しました。2度にわたる禁教令によって、領地を捨てて小豆島に移り住み、さらには日本を捨ててマニラに移り住みました。信仰を捨てれば領主として残ることができましたが、神の御旨に従う道を選んだのです。対立を恐れずに御旨に従うことが必要なのです。

短い福音でしたが、聖書の分かち合いでは色々な色々なお話をすることができました。特に「対立」と言う言葉と「火」という言葉について、多くの意見を交換しました。

「対立」と言うとまるでアウグスティヌスの思想(リンク先はWikipedia)にはじまる「正戦論」のようにとらえてしまいそうになりますが、どうも違うようです。福音書はこのあと「時を見分ける」「訴える人と仲直りする」と続き、戦うのではなく、対立を生むことを覚悟するような意味合いのようです。

「火」は、ソドムとゴモラのイメージから、神さまに焼き尽くされるようなイメージを持ちがちです。しかし、福音にある「火」は、洗礼式のローソクのようなあたたかい「火」です。

その「火」は平和をもたらすための「火」ですが、異なる信仰をもつ人と妥協していれば平和を得ることはできません。対立を恐れずに常に目を覚まして置かなければなりません。そして時を待ち、平和の輪を広げていく、そのような教えが書かれているのだと思います。

先週の朗読箇所の最後のところには、こう書かれていました。

しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。(ルカ12・48)

真理を知らない人たちは罪深くはありませんが、真理を知ったものは、御旨にそむくことは許されないのです。

少数派の信仰者は社会の中で孤立しがちです。また、成人洗礼であるなら家庭の中でも孤立することもあるでしょう。しかし、どのような時も常に目を覚まし、イエスさまのように社会の洗礼を進んで受けることも必要なのかもしれません。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/08/05

そこに神様がいなければ空しい - マルタとマリア -

少し前になりますが、年間第16主日の福音朗読は「マルタとマリア」(ルカ10・38-42)でした。直前の入門講座、聖書の分かち合い、そしてミサ説教のすべてが同じ個所で、さらにこの箇所は遠藤周作さんの「イエスに邂った女たち」にも解説されています。

自分はマルタだとか、あるいはマリアだとか、分かち合うことが多いかと思いますが、今回のお話はそれぞれ興味深かったので、まとめておきます。 

1.マルタは裁いていた

お説教では、マルタがマリアに手伝うようにイエスさまにお願いしたことを、マルタはマリアのことを裁いていたとされました。マルタはイエスさまに話す前に、マリアのことを「少しは手伝って当然だ」と裁いていたのです。人と人は分かち合うことが大事なのです。

マルタは自分勝手な思いからマリアを裁きました。神様を信じながらも、その心は神さまの御心からはなれていたのでしょう。

2.勇気を出したマルタ

朗読箇所の最初にこう書かれています。

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。

この「すると」と言うのは、原著からの直訳なら「だがしかし」と言う意味だそうです。当時、男性が人を家に招くことがあっても、マルタのように女性が、男性を招くことはまれであったようです。そこで、原著では女性であるにもかかわらず、マルタは招いたと書いているようです。

だれが何と言おうとイエスさまを家に招きたかったマルタは、勇気を振りしぼって、イエスさまを招いたのでしょうね。そして、彼女なりに必死にもてなそうとしたのでしょう。

3.もっとも恵みをいただいたのはマルタ

このお話では、マリアが正しくてマルタが間違っているように読めます。しかし、マルタの行動を考えると、

  1. (イエスさまこそ神であるとして、)勇気を出してイエスさまを招いた
  2. 自分の気持ちをありのままにイエスさまに伝えた
  3. 神さまの声を聞くことができた

となります。

この流れは、私たちの祈りの姿に似ています。身勝手な思いから、本来とるべき行動がとれず、神に祈ります。それは、わがままな願いに違いないのですが、神さまを信じて祈ります。すると、そのうちに自分の間違いに気付きます。これこそが、信仰の恵みではないでしょうか?マルタは、私たち信者の姿なのかもしれません。

4.一生懸命に働くマルタ

入門講座で神父さまは、マルタの中に働く人たちの姿を映されました。マルタの神への思いは間違っていなかったはずです。しかし、一生懸命に働くなかで、いつしかその思いは薄れ、いつも間にか働くことが目的になっていました。

神父さまはそれは、会社であくせくと働く私たちの姿であると言われました。

「働くことは悪いことではない。しかし、そこに神様がいなければ空しい」

心に響く言葉でした。

5.困り果てていたイエスさま

最後に、遠藤周作さんの「イエスに邂った女たち」の、ちょっと変わった解釈を紹介します。それは、イエスさまが困り果てていたというものです。

マルタがもてなしの用意をしているのに、マリアは手伝おうとしない。そこで、マルタとマリアの言い争いが始まったというのです。そして、それはイエスさまを巻き込むようになってしまいました。そして、マルタは「手伝うように言ってください!」とあてつけがましく言うのです。

そして、間に挟まれて困ったイエスさまは、口やかましいマルタに辟易しながらも、マルタをなだめるために言われたというのです。この解釈が思い浮かんだ時、遠藤さんは噴き出したそうです。そりゃあ、気の強そうな二人の女性の言い争いに巻き込まれたら、イエスさまもたまりませんよね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/21

律法学者はなぜ反論できなかったか - 「善いサマリア人」の構造 -

今日の「聖書の分かち合い」が始まるまでに、先週の朗読箇所である「善いサマリア人」(ルカ10・25-37)について雑談していました。

「善いサマリア人」では、律法学者がイエスさまを陥れようとするのですが、不思議と反論しませんね~。という疑問です。その時の思いつきでお話したことが、評判がよかったので書いておきます。

この律法学者はイエスさまの行いを知っていたと思います。なので「どんな人も神の国には入れる」とか、「どんな人も隣人である」という回答を期待して質問をしていたと思います。

しかし、イエスさまに逆に質問され、神の国であるユダヤと敵対していたサマリア人を隣人と認めさせられ、間接的に隣人を愛さないユダヤ人よりもサマリア人が神の国には入れると認めさせられました。

律法学者にすれば陥れようとしたのに、逆にイエスさまに言わそうとした言葉を言わせられて、二の句が継げなかったのでしょうね。

<')))><

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/06/17

あなたの信仰があなたを救った

聖書の分かち合いは、いつもより賑やかでした。私のブログを見ていただいている方も来られていて幸せなひとときでした。今回もいつものように日曜の福音朗読箇所の「罪深い女を赦す」(ルカ7・36-50)を分かち合いましたが、内容が豊富すぎてまとめきれませんので、後から思い浮かんだイメージを書いてみます(勝手なイメージですので正当な解釈とはたぶんずれています)。

イエスさまがガリラヤのある町を訪れた時、律法を守る行いによって神の国に入れると信じるファリサイ派のシモンに望まれて一緒に食事をされました。ちいさな町はその噂でもちきりでした。罪深い女としてさげすまれていた女は、貧しい家の前で近くの女性たちが立ち話をするのを聞いて、居てもたっても居られなくなりました。噂によるとイエスさまはそれまでに数多くの奇跡を行われていたからです。

罪深い女はいつも一人でした。訪ねてくる男は客だけで、町中の人からはさげすまれ、話をしてくれる友人などありませんでした。イエスさまの事を知ったとき、女は「この人なら」と思ったに違いありません。今までの苦しみ、悲しみ、すべて分かってくださるに違いない。そう思っていました。

イエスさまがこの町におられる。そのことだけでも幸せでした。でも、あのイエスさまが近くにおられるならすこしだけでもお会いしたい、遠くからでも良いから一目だけでも見てみたい。そんな思いでいっぱいになりました。

でも私は罪深い身、直接会わせていただくことなどできないかもしれない。それでも会いたい。何としても会いたい。ゆるされるなら思いをすべてお話ししたい。そうだ、家にあるだけのお金で香油をかって、イエスさまの足におかけしよう。会えなくてもいいから香油を買おう。そう、あの方に会いに行くのだから、、、

あの方がおられる間にたどり着かないといけません。人目を避けて走っても、道行く人から罪深い女だと後ろ指をさされ、女は思わず顔をそむけてしまいました。どうしよう、やめようか。どうせ私の話など聞いてもらえないし、もしかするとすでに帰られたかもしれない。私は何のために走っているんだろう、そんな思いがよぎります。

でも女は思いました。今、走ることをやめて何になるんだ。私には何も失うものはない。そう、あの方しかないんだ。そんな思いで女は走りました。

ようやくたどり着きました。家の前に立ったとたんに、いままでの強い思いが一瞬消えました。これまでに、ファリサイ派の人たちに陰口をたたかれたこと、石を投げられたこと、さまざまな記憶がよみがえります。そして、女は大きく深呼吸をしました「主よ、み旨ならば会わせてください、、、」。

みすぼらしい姿をした女は、香油の壺を持って目立たないようにイエスさまの後ろから足もとに近寄りました。イエスさま、あれもこれもお話をしたい、これも話したい、すべてを打ち明けたい。そんな思いで胸がいっぱいになりました。でもイエスさまを目の前にすると、なぜか涙があふれてきました。女はすべてを捨ててイエスさまに会いに来ましたが、何も言うことはできませんでした。

「ああ、イエスさま!」何も言えませんでしたが、女はすべてをイエスさまにゆだねました。その瞬間、女はなぜか満たされました。まだ、何も言っていないのに満たされました。これまで誰にも話せなかった思いをゆだねた瞬間に満たされたのです。女はこれまで感じたことのない温かい気持ちに包まれ、もはや何もお話しすることはありませんでした。女はイエスさまにかかった涙を紙でぬぐい、足に接吻し、香油をかけました。

イエスさまはファリサイ派のシモンとなにやらお話をされましたが、やがて女にこう言われました。

「あなたの罪は赦された」
「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」

罪深い女は信仰ゆえにゆるされました。涙を紙で拭ったり、油をかけたという行為ではありません。できる限りのことをして、すべてをイエスさまにゆだねた瞬間にゆるされたのです。まさに信仰義認(リンク先はWikipedia)です。掟とか、ルールのような行いではありません。なにも駆け引きのない、神さまとの関係によって救われたのです。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/20

イエスを伏し拝んだ後、大喜びで - 聖書の分かち合い -

昨日の聖書の分かち合いでは、今日の福音朗読箇所である「弟子たちに現れる/天に上げられる」(ルカ24・46-53)を分かち合いました。短い文章ですが、そこには神であると確信した弟子たちの様子と、神さまの恵みが描かれていました。

今回の朗読箇所で最初に話題に上がったのは「大喜びで」というところでした。ここは、イエスさまが十字架にはりつけられた後に復活され、弟子たちと40日間過ごした後に天に昇られたところです。イエスさまがおられなくなるのに、弟子たちは喜んだのです。

これにはいくつかの理由が考えられます。一つ目はイエスさまが

わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい

と言われ、聖霊を贈られると約束されたことを喜んだからです。イエスさまが亡くなられて失望していたのに、復活され、約束されたのです。そのことを喜んだという解釈です。

また、それまで「亡霊を見ているのだと思った」(ルカ24・37)イエスさまが、天に昇られて、神さまだと確信したとも考えられます。弟子たちは、神さまはいたるところに遍在されていると知っていたので、物理的に近くにおられなくても、神さまであるならいつでも接することができます。神さまに会えたという気持ちが、喜びとなったのです。

ここで、聖書の構成を見てみると、この箇所は、イエスさまが言われたことやイエスさまがどなたであるかを理解しなかった弟子が描かれている「ルカによる福音書」と、弟子たちが聖霊を受けて(聖霊降臨)世界中に宣教を始めた様子を描いた「使徒言行録」のいわば「つなぎ」の部分になっています。

遠藤周作さんが、これこそ「奇跡」と言われたところです。理解せず、裏切った弟子たちが、突如、強い信仰をもって述べ伝えるようになったのです。よほど大きな出来事だったに違いありません。ご変容は一部の弟子しか見ていませんし、イエスさまのことも理解していない弟子は、復活されたイエスさまを見ても信用できませんでした。しかし、イエスさまが、手と足を見せ、さらに魚を食べて復活を証明し、そののちに昇天されたことで、ようやく神であることがわかったのです。

これまで、預言者あるいはただの先生と思っていた人が、神さまだったのですから、その驚きは相当なものだったのでしょう。親しみや愛着が、畏敬の念に突如変わったのです。だからこそ、

彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

のだと考えることができます。

さらに別のとらえ方もできます。40日というのは具体的な日数ではなく、「長い期間」を意味するそうです。日本でいう九十九里浜や九十九島のようなシンボリックな見方をすると、この箇所のもうひとつの意味を感じることができます。

当時の弟子たちはイエスさまを失って落ち込んでいました。イエスさまの教えを述べ伝える気力もありませんでした。弟子たちにはイエスさまが必要だったのです。そんな弟子たちだからこそ、イエスさまは必要な期間だけそばにおられた、と考えることができます。神から与えられたマナのように、必要なものは与えられたのです。だからこそ、弟子たちは満ち足りて、大喜びだったとも考えられます。

さっと読み飛ばしてしまいそうな内容でしたが、じっくりと分かち合うことで、短くとも中身の濃い福音となりました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/09

『チーズはどこへ消えた』と『タラントンのたとえ』

スペンサー・ジョンソン著「チーズはどこへ消えた」(扶桑社) を読みました。この本は6年前にブームになった本です。出版社の案内にはこう書かれています。

迷路のなかに住む、2匹のネズミと2人の小人。彼らは迷路をさまよった末、チーズを発見する。チーズは、ただの食べ物ではなく、人生において私たちが追い求めるもののシンボルである。

ところがある日、そのチーズが消えた!ネズミたちは、本能のままにすぐさま新しいチーズを探しに飛び出していく。ところが小人たちは、チーズが戻って来るかも知れないと無駄な期待をかけ、現状分析にうつつを抜かすばかり。しかし、やがて一人が新しいチーズを探しに旅立つ決心を・・・。

この本は、一度の成功体験にしがみついて状況の変化に対応できない小人と、成功をイメージすることで、過去を捨てる恐怖に打ち勝って新しい挑戦をはじめた小人の寓話。そして、それを聞いた人たちの議論が書かれています。

これを読んで気づいたのは、最近どうも気になっている「タラントンのたとえ」(マタイ25・14-30)と似ていることです。こちらは、こんなお話です。

ある人(神様)が僕(しもべ)にお金を預けます。人によって、5タラントン、2タラントン、1タラントンと預けられる金額が違いました。二人の僕たちは頑張ってそれを増やしてほめられます。しかし、1タラントンだけ預けられた僕は、無くしては大変だと増やそうとせず、(天国から)追い出されてしまいます。

追い出された僕はこんなことを言っていました。

『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

まるで過去を捨てることが怖く、最後まで新たな一歩を踏み出せなかった小人のような僕です。しかも、主人に「間違った認識をしている」ところも似ています。主人に

「それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった」

といわれてもしかたがありません。この僕は主人の求めていること、主人の寛容なこと、を認識できなかったのですね。「チーズは、、」の小人も、勝手に近くにまだあると思い込み、壁に穴を空けてチーズを探しました。自分勝手な思い込みはいけません。

タラントンのたとえでは、主人はこう言います。

「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

さらっと読むと「お金持ちは増やせるが、貧乏人はより貧乏になる」とも読めなくはないですが、もちろん違います。福音のヒントによると1タラントンというのは、20年分の賃金だそうです。そうすると、持っていないというのはお金じゃないようです。

「チーズは、、」の議論では、未来を不安がらず、将来の自分をイメージして、一歩を踏み出すことが大事だとされていました。これから考えると、「積極的な良いイメージ」を持っているかどうかで豊かになるかどうかが決まると考えることができます。

この「積極的な良いイメージ」って、キリストの教えで言うなら「信仰」ですよね。つまり、「必要なものは与えられる」「人生に無駄なものはない」と思えるかどうか、それが人生を豊かに生きられるかどうかの分岐点なのでしょう。

(どうです。似てるでしょ?)

<')))><

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/04/27

「わたしは漁に行く」

先週の聖書の分かち合いでは、日曜日の福音朗読箇所である「イエス、七人の弟子に現れる/イエスとペトロ」(ヨハネ21・1-19)を分かち合いました。

福音に満ちた個所の分かち合いもよいものですが、今回のようにミサで聞いただけではあまり深く考えられないところもなかなか良いものです。

今回の所を読んで最初に感じたのは、なんか変なのですよね。弟子になるときに「人間をとる漁師になる」(ルカ5・10)と言われて漁師をやめたペトロが、「わたしは漁に行く」と言い出して、それにほかの弟子たちがついていくのです。

そして、弟子になったときと同じように一晩中とれなかったのに、イエスさまの言葉に従うとたくさんの魚がとれます。(復活後に弟子が急に増えたことを表しているようにも思えますが、聖霊降臨の前なので素直な解釈でよいのでしょうね)

当時の弟子たちは、捕まえられる恐怖を感じながら、ひっそりと隠れるようにして生活していたんでしょうね。以前のように行く先々で食事をさせてもらえるわけもなく、食べ物も無くなっていたのかもしれません。

そこで、ペトロが昔取った杵柄で、兄貴分らしいところを見せようとしたのでしょうか。当時の漁は夜中に行われたので、人目を気にすることもなかったのでしょう。しかし、夜が明けても魚はとれません。ところが、岸辺におられたイエスさま(弟子たちはまだ気づいていない)に言われたとおりに網をうつと、153匹の魚が取れたのです(この153という数字に何か意味があるのでしょうか?)。

ヨハネが「主だ」と言うと、ペトロは上着を着て湖に飛び込みます。ここのところ、なぜ、服を着たか、なぜ、飛び込んだか、ちょっと気になります。飛び込んだのは、あと100メートルほどであっても、イエスさまの近くに少しでも早くたどり着きたいからでしょう。でも、そんなに早くたどりつきたいなら上着など着なくても良さそうなものです。やっぱり、主の前に出るときは気になるのでしょうか。

イエスさまの用意された炭火と魚、そして5つのパンと2匹の魚やご聖体をイメージさせるようなパンを食べたあと、イエスさまとペトロのやり取りがあります(一部抜粋) 。

「この人たち以上にわたしを愛しているか」
「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」
「わたしの小羊を飼いなさい」

「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」
「わたしの羊の世話をしなさい」

「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」
「わたしの羊を飼いなさい」

このように同じようなやり取りを3度しましたが、このときイエスさまが現れたのは3度目、また、イエスさまが捕らえられた時にペトロが否定したのも3度です。日本語では同じ「愛」という表現ですが、「福音のヒント」によると、イエスさまが2度尋ねられたのは「アガパオーagapao」で、ペトロが答えたのはすべて「フィレオーphileo」です。そして、イエスさまは3度目はペトロに合わせて「フィレオー」で問われました。

「アガパオー」は神の愛、すなわち無条件の愛で、「フィレオー」は友愛、ギブ・アンド・テイクの愛です(昔の記事)。つまり、「大切にしているか」と聞かれて「好きです」と控えめに答えていたので、3度目にイエスさまがペトロのところまで降りてきているような言い回しのようです(細かいことを言うと、子羊と羊、飼うと世話、が異なっていることも気になりますが、まあ、気にしないでおきましょう)。

今回の朗読箇所は、後から福音書に追加された所のようです。そう思って少し前を読むと、「本書の目的」(ヨハネ20・30-31)が書かれていて、確かにとってつけたような構成ですね。どうせ追記するなら、「本書の目的」の前に書き足せばよいようなものですが、潔い追記ですね。それだけ、それまでの福音書を大切にしたということなのでしょうね。

最後にペトロの逆十字の磔を予告されるような言葉があります。この言葉があらかじめ知られていて、現実になってから追記されたものであるかはわかりません。しかし、イエスさまがペトロを愛しておられたこと、「わたしに従いなさい」「わたしの羊を飼いなさい」という言葉にペトロが従ったことは、後の歴史が証明しています。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

<')))><

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2007/03/19

「放蕩息子」のたとえ - 聖書の分かち合い -

聖書の分かち合いでは、翌日の福音を分かち合います。今回は「『放蕩息子』のたとえ」(ルカ15・1-3,11-32)でした。このブログでも、ヘンリ・ナウエンの「放蕩息子の帰郷」を紹介してますが、今回は分かち合った際の様々な意見を元に私なりにまとめてみました。

節番号を見ていただくとわかりますが、途中が飛んでいます。この章は、ファリサイ派の人々と律法学者に、罪人と食事までしていると言われ、イエスさまが話された3つのたとえ話から構成されています。朗読箇所は、その最初の部分と3番目のたとえ話からできています。

このお話には、放蕩の限りを尽くし、食べるのにも困って罪のゆるしを願った弟息子、息子たちに財産を分け与えた後に、帰ってきた放蕩息子に走り寄って首を抱いて接吻した父親、そして父とともに家で暮らしていて、弟のための祝宴に怒った兄息子が出てきます。

これを最初の部分との関係から考えると、弟の放蕩息子は罪人、イエスさまが父親、ファリサイ派と律法学者が兄息子になるでしょう。これは、放蕩息子の「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」という言葉にも表れています。この天というのは、十戒の4番目「あなたは、父母を敬いなさい」ということでしょうけど、父に対する罪だけでも話は通じますので、罪人が放蕩息子であることを明確にする目的の表現なのでしょう。

弟の放蕩息子を詳しく見ると、とんでもない子供です。父親に財産の分け前を求めて、それを金に換え、遠い国で放蕩の限りを尽くします。兄の言葉によると、「娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って」来たのです。飢饉があったとはいえ、飢え死にしそうになって帰ってきたのです。

しかし、この放蕩息子は、世話をさせられていた豚のエサでも食べたいほどに飢えた時、我に返りました。罪を犯したことを認め、息子と呼ばれる資格のないことも認め、雇い人として食べ物を与えてもらうえるように、救いを乞いました。罪を痛悔し、すべてを父にゆだね、回心したのです。

放蕩息子はすべての希望を失いましたが、最後の最後に父を思い出したことで救われます。人は、自分勝手なときは神の存在に気づかず、一人で生きているつもりになります。しかし、どうしようもなくなった時には神の救いが必要なのです。マーガレットF.パワーズのあしあとの詩(リンク先はMAGIS)のように、いざと言うときには神さまに抱きかかえてもらうのです。

このような放蕩息子に対して父親は、まず、息子の言うとおり自由にさせます。そして、何年も息子の帰りを待って、帰ってきた息子を何も言わずに抱きしめます。父親だから当たり前だとも思いますが、現実を考えると難しい面もあります。もう一人の息子に悪いとか、他の子供の教育上良くないとか、本人のためにならないなどと言って、厳しく接してしまうかもしれません。

しかし、神さまの心は寛大です。どんな時でも、回心すればゆるしていただけます。これは、神さまでなければできない「ゆるしの心」なのでしょう。このような父は、神さまの姿であるとともに、私たちが理想とすべき姿でもあるのでしょうね。

一方、兄息子は身近な存在です。弟が財産を分け与えられたとき、

弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。

とあるので、この兄も財産をもらっているはずなのですが、怒って、家に入ろうとせず、父になだめられます。それに対して、兄はこう言います。

このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。

友人との宴会に子山羊の一頭もくれなかったのに、あなたのあの息子には子牛を与えるのかと、いかにも「自分はちゃんとやっているのに、あいつ(弟)だけずるい」とでも言いたげです。

この兄の言葉を良く見ると「仕えています」とあります。させていただくのではなく、義務としてしているのです。喜びを感じながら仕事をするでなければ、それは苦痛になります。だから、人にも優しくできなくなってしまうのでしょうね。

また、興味深いのは、兄は弟(放蕩息子)が帰ってきた時の様子を知らないのです。これには2つの見方ができます。兄が弟を見たときには、すでに良い服を着て、指輪をし、履物を履いていたかもしれません。兄が良い人であっても、弟の苦しみを知らなかったので、やさしくできなかった、というのがひとつ目の見方です。もうひとつの見方は、怒りが先に立って、やせ細った弟の様子を見ず、また、父の話に耳を傾けなかったと言う見方です。

これは、どちらが正しいと言うものではないでしょう。自分はきちんとしていると思う人ほど、他の人を裁こうとして、良く知ろうとしない、知らず知らずに上から物を見てしまう危険性があると言うことだと思います。父のようにはなかなかなれないのに、ついつい父になったつもりになります。そのことに気づく謙虚さがなければ、父には近づけないのでしょう。

「天国泥棒」という言葉もそうかもしれません。洗礼を受けないで放蕩の限りを尽くし、死の直前に洗礼を受けて天国に行くことをこう呼びますが、本当にその人のことを知った上で、言っているとは限りません。

教会においても同じです。洗礼を受けようとする方に教会は親切なので、すでに洗礼を受けている先輩方は、苦々しい思いをされることもあるでしょう。また、教会の活動に積極的な方は運営に追われていて、ミサにしか来れない方に不満を抱くかもしれません。職場や家庭など、人が複数いれば、相手のことを良く理解せずにやっかむことはよくある話でしょう。

そんなありがちな気持ちは、知らず知らずのうちに兄になりかけているのかもしれません。すべての人が、それぞれの状況にあわせて喜びのうちに活動し、お互いをゆるし、助け合う。そんな人間関係が、あるべき姿なのでしょうね。

父は、兄の言った「あなたのあの息子」を「お前のあの弟」に言い換えて言いました。

お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。

そう、私たちもかつては死んでいたのです。回心し、洗礼を受けることは、命をいただくことです。もうすぐ復活祭、新しい兄弟の誕生をともに祝いましょう。

分かち合いを終えて、以前紹介した「神さまの食卓」を思い出しました。この中で、ナザレのイエスと名乗る男は、神とマザー・テレサとヒトラーの位置関係を線を描いて説明します。神さまの位置に比べると、マザー・テレサもヒトラーもほとんど同じ位置にいると言いました。

だからといってあきらめてしまってはいけないのでしょうね。そんな偉大な神さまの姿を知っているからこそ、近づく努力ができ、未来に希望を抱けるのだと思います。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/02/20

人にしてもらいたいと思うこと - 聖書の分かち合い -

毎月第3土曜日の聖書の分かち合いでは翌日の福音朗読箇所を分かち合いますが、話題が途切れたり、時間が余ると、雑談や他の朗読箇所を読むなどしています。毎週の入門講座では、前後の短い時間だけしか交流できませんので、なかなか貴重な時間です。

先日の聖書の分かち合いは、最小構成人数:-)でしたので、他の朗読箇所を含めて分かち合うことができました。先日のミサの構成は、じっくり読むとなかなか味わい深いものでした。分かち合いの全貌というよりは、こんな風に深まった(つまり勝手な思い)です。

第1朗読の「ダビデ、サウルを寛大に扱う」(サムエル上26・2,7-9,12-13,22-23)は、下に書かれた関連箇所も読むと、なかなか緊迫した場面です。

サウルは神の滅ぼし尽くせという言葉にそむき、羊と牛の最上のものを残しました。主への供え物にしようとしたとサウルは弁明しますが、神はダビデを新しい王にします。そしてサウルはダビデの命を狙いました。

そんな中、ダビデとアビシャイは荒れ野で宿営しているサウルの枕元に近づきます。アビシャイは好機であるとサウルをしとめるように進言しますが、ダビデは

「殺してはならない。主が油を注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない。」

と枕元の槍と水差しを取って立ち去ります。この槍と水差しの神学的な意味はわかりませんが、少なくとも、殺そうと思えば殺せるのに殺さなかったことを示す意味があったのでしょう。

「聖書と典礼」では省略されていますが、この槍と水差しによってサウルとダビデは和解します。ここでダビデがサウルを殺していたなら、部下によって更なる争いが始まったかもしれません。しかし、ダビデの寛大な対応によって平和が訪れました。

第2朗読「復活の体」(一コリント15・45-49)は、さっと読むと良くわからない内容ですが、最後の一節である。

わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。

という言葉は、人が神のように生きるべきことを述べているのでしょう。この神の似姿とはどういう意味であるかが、福音朗読に描かれています。

福音朗読「敵を愛しなさい/人を裁くな」(ルカ6・27-38) は、

「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」

というショッキングな言葉から始まります。愛せないから敵であるし、憎むのに、キリストは愛せといわれます。そして、

「求める者には、だれにでも与えなさい」

と言われます。はっきり言ってやられっぱなしです。福音のヒントにあるように、現実問題として身を守ることも必要ですが、敵対していては争いは終わりません。第1朗読のように寛大な対応によってこそ、平和がおとずれます。

ここで話題になったのが、子供に対してこの福音をどう伝えるかです。喧嘩をしない今時の子供に敵は難しいでしょうし、いじめられている子供に敵をゆるせと言っていたなら解決にならないでしょう。

そこで気になったのが、この御言葉です。

人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。

この「人にしてもらいたいと思うこと」というのが重要なんでしょうね。「人にしてもらいたいと思うこと」は、「神にしてもらいたいこと」ではありません。神さまになら色々な望みをかなえて欲しいと思うかもしれませんが、人に対してはそんな無理な期待はしないでしょうし、対等の関係を望むでしょう。

借金まみれになっている人が、焼け石に水のようなお金を貸すことを望んだとしても、それは良いことではないしょう。本当に望んでいることは、借金地獄の日々からの解放だと思います。御言葉を律法的にとらえて、相手の状況を理解しないまま貸すのではなく、自己破産や借り換えなど、他の道を共に考えることが、「してもらいたいと思うこと」ではないでしょうか?

「人にしてもらいたいこと」とは、共感し、わかってもらうこと、だと思います。怒りにとらわれて殴ろうとしている人に、強がりでほおを突き出すのでなく「殴るなら殴ればよいが、理由を話してくれ」と話しかけることが、「人にしてもらいたいこと」ではないか、そう思いました。

「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」

人はついつい敵か味方かに分けてしまいます。敵と思っている人に歩み寄ることが大事なのでしょう。

学校のいじめを単純に考えると、いじめっ子といじめられっ子は敵同士に見えますが、両者の原因は愛情が不足しているためで、根は同じです。自分の存在に自信がないために存在を維持しようといじめたり、自分の存在に自信がないためにいじめを受け入れて居場所を作ろうとしてしまいます。実は敵でない関係なのです。そんな二人が、お互いに分かり合えないまま、御言葉を律法的に受け入れてはいけないと思います。

本当は、いじめ、いじめられる人たちと一見関係ない人たちが、敵かもしれません。いじめっ子やいじめられっ子の存在を認めて、家族や友人が愛さなければいけないのだと思います。

まあ、そんな感じで福音を読みながら、思い思いのことを言って分かち合っています。

今回、福音を分かち合って感じたのは、聖書は深く考えれば、多くの恵みが得られるということです。それは、今回の福音にも書かれていました。

「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

<')))><

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/01/21

あなたがたが耳にしたとき、実現した

聖書の分かち合いでは、翌日の福音の朗読箇所を分かち合います。ルールはただ一つ、他の人の発言をさえぎらないことです。他の人の意見をありのままに受け入れてから、自分の意見を言います。

「献呈の言葉/ナザレで受け入れられない」(ルカ1・1-4,4・14-21)では、ルカ福音書の冒頭部分のあと、40日間の断食の後にイエス様がナザレに戻られた際のお話が続きます。

「順序正しく」書かれたルカの福音書によるとイエス様はイザヤの預言から、

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

と語られます。この力強い宣言のあと、会堂の人々が注目する中、

「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」

と話し始められました。この最後の一文が力強いですね。特に「あなたがたが耳にしたとき」が印象的です。この後の話から類推すると、「耳にしたとき」と言うのは「イエスを受け入れ信じたとき」ということでしょう。

ミサの説教ではどのような内容で離されるかはわかりませんが、私ははじめの言葉よりもこの最後の言葉が重く感じます。油注がれしものと言う意味の救世主イエスに油を注ぐのは、私たち自身なのだということなのでしょう。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2007/01/17

手塚治虫の旧約聖書物語

サンパウロ書店でビデオを売っていて気になっていたアニメがありました。その「手塚治虫の旧約聖書物語」が、スカパー707chやケーブルTVの日本映画専門チャンネルで火曜日24時(水曜0時)から放送されています。

このアニメーションはイタリアの子供番組から“誰でも分かる聖書の入門アニメを”と依頼されたことをきっかけに製作されました。旧約聖書は、妙に簡単だったり、難しかったりで、なかなか読みにくいですが、30分の中にこれまでのダイジェストをいれるなどわかりやすくまとめられています。これまでにみた2回はこんな感じです。

ヤコブの子ヨセフは、ほかの兄弟よりもかわいがられていました。兄や両親がひれ伏す夢を話したことから、兄たちに井戸に捨てられ、隊商に売り飛ばされてエジプトに行きます。その後、ファラオの見た意味のわからない夢を解説したことから、高い地位を得ます。

ヨセフが夢を解釈したとおり、7年の豊作の後に飢饉がやってきます。その後色々あって、兄たちと仲直りしたときにヨセフは言います。「私をエジプトに来させたのは、兄さんたちでなく、神のご意思だったのです。エジプトにおこる飢饉を救うためだったのです」

若干、順序や表現が聖書と異なりますが、なかなか楽しめます。全26話のうち次回は第11話「モーセの誕生」です。視聴可能な方はぜひご覧ください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/01/13

神の国はあなたがたの間にある

聞いたことのある聖句でも、急に輝くことがあります。「神の国が来る」のはじめの2節(ルカ17・20-21)にこんな言葉があります。

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

先日、教会を語られた講話のなかで天国は死んでからのものではないとして、この「神の国はあなたがたの間にある」を聞いて、少なからずショックを受けました。西洋は個人主義で、社会をベースにした考え方は日本的なものだと思っていたからです。

日本の思想史研究を基に倫理学を展開した和辻哲郎という倫理学者がいます。彼の「自他不二」という考え方は、自分と他人は二つでない、「場」とでも言えるような「間柄」において一つであるというものです。人が人と関わるとき、対立するものでなく同じ場を共有するものであるという考え方です(のんちさんのコメントにあるように元々は仏教用語で、全ては均等とか、境界がないという意味のようです)

これまで、この「間柄」の概念は、日本的なものだと思っていましたが、「神の国はあなたがたの間にある」という言葉は、まさに「自他不二」の最高の状態を表しているではないでしょうか。

しかし良く考えると、和辻倫理学として習った「自他不二」が間柄というものを表しているのに対して、「神の国」は「間」にあると言っています。つまり、神の国は、仲間、地域、国、といったものにくくられた間柄、つまり環境や利害を共にする一体感のようなものではなく、人々の最高の場としての神の国を示しているのでしょう。

人はそれぞれに役割や立場という十字架を背負って生きています。そして、苦しみ、傷つき、悲しみ、喜び、生きています。役割や立場といった間柄ではなく、人と人として心を開いて、喜びも悲しみも分かち合う。そんな人と人の間に、神の国があるのではないでしょうか。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

| | コメント (9) | トラックバック (0)

2007/01/03

確かに未来はある

ちょっと良い聖句です。

確かに未来はある。あなたの希望が断たれることはない(箴言23・18)

厳しい言葉の中に突然現れるこの言葉に、未来への希望を力強く感じます。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/12/19

洗礼者ヨハネとイエス・キリスト

毎月第3土曜日に行われる所属教会の聖書の分かち合いでは,翌日の福音朗読箇所について思い思いのことを語り合います.

今回の福音朗読箇所は「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」(ルカ3・10-18)でした.ここで,洗礼者ヨハネは群集,徴税人,兵士に

  1. 下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ
  2. 規定以上のものは取り立てるな
  3. だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分