聖書の分かち合いでは、翌日の福音を分かち合います。今回は「『放蕩息子』のたとえ」(ルカ15・1-3,11-32)でした。このブログでも、ヘンリ・ナウエンの「放蕩息子の帰郷」を紹介してますが、今回は分かち合った際の様々な意見を元に私なりにまとめてみました。
節番号を見ていただくとわかりますが、途中が飛んでいます。この章は、ファリサイ派の人々と律法学者に、罪人と食事までしていると言われ、イエスさまが話された3つのたとえ話から構成されています。朗読箇所は、その最初の部分と3番目のたとえ話からできています。
このお話には、放蕩の限りを尽くし、食べるのにも困って罪のゆるしを願った弟息子、息子たちに財産を分け与えた後に、帰ってきた放蕩息子に走り寄って首を抱いて接吻した父親、そして父とともに家で暮らしていて、弟のための祝宴に怒った兄息子が出てきます。
これを最初の部分との関係から考えると、弟の放蕩息子は罪人、イエスさまが父親、ファリサイ派と律法学者が兄息子になるでしょう。これは、放蕩息子の「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」という言葉にも表れています。この天というのは、十戒の4番目「あなたは、父母を敬いなさい」ということでしょうけど、父に対する罪だけでも話は通じますので、罪人が放蕩息子であることを明確にする目的の表現なのでしょう。
弟の放蕩息子を詳しく見ると、とんでもない子供です。父親に財産の分け前を求めて、それを金に換え、遠い国で放蕩の限りを尽くします。兄の言葉によると、「娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って」来たのです。飢饉があったとはいえ、飢え死にしそうになって帰ってきたのです。
しかし、この放蕩息子は、世話をさせられていた豚のエサでも食べたいほどに飢えた時、我に返りました。罪を犯したことを認め、息子と呼ばれる資格のないことも認め、雇い人として食べ物を与えてもらうえるように、救いを乞いました。罪を痛悔し、すべてを父にゆだね、回心したのです。
放蕩息子はすべての希望を失いましたが、最後の最後に父を思い出したことで救われます。人は、自分勝手なときは神の存在に気づかず、一人で生きているつもりになります。しかし、どうしようもなくなった時には神の救いが必要なのです。マーガレットF.パワーズのあしあとの詩(リンク先はMAGIS)のように、いざと言うときには神さまに抱きかかえてもらうのです。
このような放蕩息子に対して父親は、まず、息子の言うとおり自由にさせます。そして、何年も息子の帰りを待って、帰ってきた息子を何も言わずに抱きしめます。父親だから当たり前だとも思いますが、現実を考えると難しい面もあります。もう一人の息子に悪いとか、他の子供の教育上良くないとか、本人のためにならないなどと言って、厳しく接してしまうかもしれません。
しかし、神さまの心は寛大です。どんな時でも、回心すればゆるしていただけます。これは、神さまでなければできない「ゆるしの心」なのでしょう。このような父は、神さまの姿であるとともに、私たちが理想とすべき姿でもあるのでしょうね。
一方、兄息子は身近な存在です。弟が財産を分け与えられたとき、
弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
とあるので、この兄も財産をもらっているはずなのですが、怒って、家に入ろうとせず、父になだめられます。それに対して、兄はこう言います。
このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。
友人との宴会に子山羊の一頭もくれなかったのに、あなたのあの息子には子牛を与えるのかと、いかにも「自分はちゃんとやっているのに、あいつ(弟)だけずるい」とでも言いたげです。
この兄の言葉を良く見ると「仕えています」とあります。させていただくのではなく、義務としてしているのです。喜びを感じながら仕事をするでなければ、それは苦痛になります。だから、人にも優しくできなくなってしまうのでしょうね。
また、興味深いのは、兄は弟(放蕩息子)が帰ってきた時の様子を知らないのです。これには2つの見方ができます。兄が弟を見たときには、すでに良い服を着て、指輪をし、履物を履いていたかもしれません。兄が良い人であっても、弟の苦しみを知らなかったので、やさしくできなかった、というのがひとつ目の見方です。もうひとつの見方は、怒りが先に立って、やせ細った弟の様子を見ず、また、父の話に耳を傾けなかったと言う見方です。
これは、どちらが正しいと言うものではないでしょう。自分はきちんとしていると思う人ほど、他の人を裁こうとして、良く知ろうとしない、知らず知らずに上から物を見てしまう危険性があると言うことだと思います。父のようにはなかなかなれないのに、ついつい父になったつもりになります。そのことに気づく謙虚さがなければ、父には近づけないのでしょう。
「天国泥棒」という言葉もそうかもしれません。洗礼を受けないで放蕩の限りを尽くし、死の直前に洗礼を受けて天国に行くことをこう呼びますが、本当にその人のことを知った上で、言っているとは限りません。
教会においても同じです。洗礼を受けようとする方に教会は親切なので、すでに洗礼を受けている先輩方は、苦々しい思いをされることもあるでしょう。また、教会の活動に積極的な方は運営に追われていて、ミサにしか来れない方に不満を抱くかもしれません。職場や家庭など、人が複数いれば、相手のことを良く理解せずにやっかむことはよくある話でしょう。
そんなありがちな気持ちは、知らず知らずのうちに兄になりかけているのかもしれません。すべての人が、それぞれの状況にあわせて喜びのうちに活動し、お互いをゆるし、助け合う。そんな人間関係が、あるべき姿なのでしょうね。
父は、兄の言った「あなたのあの息子」を「お前のあの弟」に言い換えて言いました。
お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。
そう、私たちもかつては死んでいたのです。回心し、洗礼を受けることは、命をいただくことです。もうすぐ復活祭、新しい兄弟の誕生をともに祝いましょう。
分かち合いを終えて、以前紹介した「神さまの食卓」を思い出しました。この中で、ナザレのイエスと名乗る男は、神とマザー・テレサとヒトラーの位置関係を線を描いて説明します。神さまの位置に比べると、マザー・テレサもヒトラーもほとんど同じ位置にいると言いました。
だからといってあきらめてしまってはいけないのでしょうね。そんな偉大な神さまの姿を知っているからこそ、近づく努力ができ、未来に希望を抱けるのだと思います。
(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)
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