2014/05/06

放蕩息子はなぜ出て行ったか?- アナと雪の女王を見て -

アナと雪の女王(公式HPストーリ)を見てきました。ネタバレご注意ください。

この映画を見て初めにイメージしたのはシザーハンズ(リンク先はYahoo!映画あらすじ)です。傷つけるつもりがないのに傷つけてしまう、いわゆる小罪を犯してしまうお話だと思いました。

構成の類似

全体の構成を思い返して印象的だったのは、雪の女王である姉エルサが帰ってきて、皆が大喜びした最後のシーンです。すこし前まで街の季節を冬にしてしまい、大迷惑を受けたはずなのに、みんなの女王が帰ってきたと大喜びするのです。

なかには快く思わない人もいました。しかし、そこには愛がなく、自分勝手な欲望によるものでした。

この映画の構成は放蕩息子のたとえ(ルカによる福音書15章11-32節)に良く似ています。親の財産を分けてもらい、家を出て行ったのに財産を使い果たして一文なしになった放蕩息子。とんでもない息子なのに、父親は大喜びで迎え入れます。その陰で、兄はやっかんだお話です。

映画の特徴

構成的には良く似ていますが、映画ではなぜ出て行ったかが詳しく描かれています。エルサは全てを凍らせてしまう禁断の力をコントロールできずに妹アナを傷つけ、それをきっかけに外界とのつながりを断絶します。

やがて戴冠の時期になり、恐る恐る人前に出たエルサは失敗してしまい、山に逃げ込みます。一人になったアナは、これまで我慢をしていたエルサは気兼ねなく禁断の力を使い、氷の城を作って自由を謳歌します。

しかし、その自由な行動によって、夏なのに街は雪だらけの銀世界になってしまいます。誰にも迷惑をかけないところで自由を謳歌していたはずなのに、知らぬ間に罪を犯していたのです。その罪を赦すことができたのは、真実の愛でした。

放蕩息子に当てはめてみる

聖書の方はとんでもない息子です。

弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 (日本聖書協会新共同訳 ルカ15:12-13)

このように、ひどい息子だったのに後で赦される、そのようなお話だと思っていました。しかし、雪の女王エルサをあてはめるとイメージが変わります。

もしかすると、言い出すまでの息子には耐え切れない思いがあり、我慢ができなくなり、ついに家を出たのではないか、その後に放蕩の限りを尽くしたのはその鬱積から解放されて、自分一人で生きていけると思ったからではないでしょうか?

わかったつもりで見ていた自分に気付く

放蕩息子は本当に悪かったのか、それを判断できるのは神様だけです。人は、どんなに知っているつもりでも、どうしても一面的な見方をしてしまうからです。

知らず知らず犯してしまう小罪、犯していたのはエルサや放蕩息子だけでなく、わかったつもりになっていた自分だったのかも知れません。

人を裁くなと言いますが、それは禁じられているからではなく、わかっていないからなのかもしれません。

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2010/12/19

しるしを求めよ

昨日は久しぶりに茨木教会でミサに与り、そのあと高槻教会で聖書の分かち合いに参加しました。

寒い時に温かいお茶をいただくと、だれでもホッとします。ミサで御聖体をいただくと。そんな「ホッ」を感じます。考えれば1ヶ月もミサに与れませんでしたが、それだからこそ余計に「ホッ」としました。

聖書の分かち合いでは、ミサの福音「イエス・キリストの誕生 」(マタイ1・18-24)を分かち合いました。いろいろな話題が出ましたが、一番印象に残ったのは

「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 」

というところです。本当に正しいなら、別れ後のマリアの後のことを考えるのではないかという意見がありました。これは、当時のユダヤの律法に照らして正しいということなのでしょうね。律法を守りながら、石打ちの刑にあわない形で別れるということなのでしょう。

もう一点、気になったのは天使が

「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

と、言った後に

『このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。』

とされていることです。ユダヤ人のために書かれたマタイ福音書が旧約聖書との関連を強調するなら、異なる名前を示す必要がないのではないか、と思いました。福音書の直前の部分では、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」として、旧約聖書の流れがなぞられていて、イエス・キリストこそ救世主であると強調されています。それなのに、なぜここで違う名前が語られるか、よく分かりませんでした。

そして気づいたのは、これがマタイ福音書の最初の章であるということです。そこでは、マタイ福音書の大切なメッセージがこめられていると思いました。

イエス・キリストこそ救世主である。ヨセフは律法を守る人だったが、天使がそれと異なる新しい答えを示した。それは律法を守ることではなく、「主は救い」という名をつけて民を罪から救うことだった。そして神が我々共におられた3年間の記録が、この書物である。

すごいと思いました。そして、第1朗読の言葉

「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」(イザヤ7・10-14)

にある「しるし」とは、奇跡であるだけでなく、神のご計画であり、それを示した書物が福音書だと思いました。

<茨木教会のミサの予定>
12/24(金) 19:00 主の降誕 夜半のミサ
12/25(土)  9:30 主の降誕 日中のミサ
12/25(土) 16:00 聖家族
12/26(日)  9:30 聖家族
12/26(日) 14:00 English Mass(英語のミサ)

(聖書の引用・リンクは、日本聖書協会 新共同訳)

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2010/09/15

「目の前のことだけを考えていた」

ドラマ「ホタルノヒカリ2」最終回で、主役のホタルが、おばあちゃんの愛に包まれていた子供の頃を思い出して言いました。

「目の前のことだけを考えていた」

聖書には

「明日のことまで思い悩むな。」(マタイ6・34)   

とありますが、これは

「愛を感じなさい。だいじょうぶ。目の前のことだけを考えなさい。」

ということなのだと思いました。

(聖書の引用は、聖書協会 新共同訳)

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2010/06/02

信仰によって義とされる

最近は中々ミサにも与れず、先日の久々のご聖体についついニコニコしてしまいました。

ミサにいけなくても聖書は読めます。毎日、タイトルや説明だけでも読んでいるサイトがあります。
先日は、信仰によって義とされる(リンク先は毎日聖書・本日も聖典なり)
で、信仰義認によって割礼がなくなったことを知りました。

割礼と言う行動によって義とされず、信仰によって義にされるのですね。なるほど。

神に感謝!

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2010/05/16

その名によって

その名は「イエス・キリスト」です。ナザレのイエスと呼ばれたその人は、ただ一人「救い主」と呼ばれました。

全ての人が回心して救われるように、人の責任にしてやれることをやりきっていない自分勝手な私が前向きになるために、その人は十字架につきました。

人それぞれの出会い方があり、人それぞれの回心があるでしょう。そして、人それぞれの救いがあり、恵みを受けるのでしょう。

その名は「イエス・キリスト」。

今日は最少人数での分かち合いでしたが、イエスの救いを感じました。

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2010/02/23

荒れ野の40日

四旬節第一主日のミサの福音は、荒れ野の40日間のお話でした。悪霊が断食をしているイエスに、食べること、権力を得ること、飛び降りて神を試すという誘惑をします。

これは、食欲、権力欲、現実逃避あるいは自殺といった人間の欲望についてのお話なのだと思います。しかし、聖書の分かち合いをしていると、それ以外にも気付くことがありました。

イエスはすでに洗礼を受けていました。直前の章は洗礼者ヨハネのお話で、イエスは洗礼を受けています。神に原罪はありませんが、いくら洗礼で罪が清められても、原罪は消えず、誘惑を受けてしまうと言うことを示しているのだと思いました。

また、受難に向けてあらかじめ解説しているのだと思いました。イエスの受難に関しては外典福音書などに各種の説が書かれています。しかし、荒れ野の話はそれを否定しているのです。

つまり、イエスの受難は自分のためでなく、権力欲でもなく、神を試すためでもなかったし、死ぬことが良いことだとも思っていたからでもない。そのことを荒れ野の話は示しているのだと思いました。

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2009/09/21

いちばん先になりたい者 その2

毎月第3土曜日は、日曜の福音を使って聖書の分かち合いです。人それぞれに、細かなところにこだわったり、全体の流れにこだわったりしながら、分かち合っています。

私が気になったのは「いちばん先になりたい者」です。だれが一番かではなく、人に使えるものになる。そんなことを思い浮かべていると、ある一人の人が思い浮かびました。「ああいう人を言うのだろうな」そう思ったときに、自分がその人の上から見ていることに気付きました。

考えてみると子供だって競争しますし、幼子のようなのはその人のほうかもしれません。それに比べて、いつしか神様のようになってしまっていた自分にぞっとしました。

福音の構成にこだわった意見では、人々の手に渡されるイエスは、大人にされるがままの子供と同じ、と言う意見です。受難のように厳しい現実を受け入れることが、キリストを受け入れることであり、父なる神を受け入れるということなのですね。

このように考えて、心理学とキリスト教とのつながりを感じました。心理学において自分や現実を受け入れることはとても大切だとされています。自分を受け入れられなければ、他人も受け入れることができないからです。

神は無から有(世界)を生み出しました。イエスは2000年も前に、それまで確立していなかった愛(アガペー)や心の課題を生み出しました。イエスはやはり神なんだと再認識しました。

そのほかには「わたしの名のために」というのはどういうことかと言う質問がありました。議論の結果、名はそのものや本質をあらわすと言うことで理解をしました。なんとなく気になったので「イエス」に意味は何かが気になったので調べると、「ヤハウェは救い」(Wikipedia)でした。「ヤハウェは救い」という名のためにと考えると、神の救いのために働くと言う意味もあるのかもしれませんね。

最後に、すこし驚いたのは、イエスはいちばんになりたいという思いを否定していないという意見でした。確かに「いちばん先になりたい者は」と、その気持ちを肯定されているようにも読めます。人間の持つ様々な気持ちを受け入れたうえで、どのように生きるべきかを教えられていたのですね。

受け入れることが、とても大切なことだと思えた一日でした。

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2009/08/26

「幸せのちから」と神様

DVD「幸せのちから」のカバーを見ると、父親と子供の写真が出ていることから、子供のために幸せを追求するお話かと思いました。実際、子供に対して「お前が幸せならパパも幸せだ」と言うシーンもあるのですが、それが主題ではないようです。

原題は「the PURSUIT of HAPPYNESS(幸せの追求:Yは原題どおり)」です。
トマス・ジェファソンの独立宣言に「生命、自由、幸福の追求、の権利」が書かれていて、幸せの権利ではなく、追求の権利となっています。主人公はこの言葉に苦しみながらも、次々と降りかかる不幸にくじけることなく、幸せを追求していきます。

このお話で印象的だったのが、父と歩きながら話した子供の話です。

ある日、男が溺れていました。
船が来て“助けようか?”
“いや 神を信じてる”
また別の船が来て“助けようか?”
“いや 神がお救いくださる”
彼は溺れ 天国へ
“神よ なぜ救わない”
“船を2隻 遣わしたぞ バカ”

神様はチャンスを与えているのに、幸せを追求していないと言うことなのでしょうね。

そういえば「働かざるもの食うべからず」という言葉がありますが、元々は聖書の言葉だそうです。

テサロニケの信徒への手紙二の「怠惰な生活を戒める」にこうあります。


「働きたくない者は、食べてはならない」(二テサロニケ3・10)

神に与えられた能力やチャンスを無駄にせず、

「あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。」(二テサロニケ3・13)

と、ひたむきに生きることが求められているのでしょう。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/08/24

永遠の命の言葉を信じ、従う

土曜日に与った茨木教会のミサの説教は、協同司牧である高槻教会の日曜の説教としてケファさんが記事にされていますので、ここでは土曜日の聖書の分かち合いで思ったことを書きます。

5000人にパンを分け与えたイエスは、先週の福音で

「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」(ヨハネ6・26)

そして

「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」(ヨハネ6・53)

といわれました。そして、今回は

「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(ヨハネ6・63)

と言われます。ここでの肉は、先週のキリストの体ではなく、霊と対立する言葉としての肉です。分かち合いで出た言葉で言うならば、「物理的な」という意味の肉です。

この「物理的な」という言葉で、ここまでの福音を振り返ると、大きな流れを感じます。イエスは5000人にパンを分け与えましたが、それは物理的な満足でなく、皆で分かち合うという心の満足を与えるつもりだったのでしょう。

そして、人の子の肉と血も物理的な意味ではなく、神の言葉(肉)を得て、そこに血を通わせるということなのでしょう。当時は血を取ることが禁じられていたにもかかわらず、人々の目を覚ますためにあえて言われたのかもしれません。

日本語の聖体はユーカリスチア、神を囲んで集まる、共同体という意味です。聖体拝領はコムニオン、集まっている、一致という意味だそうです。ついつい、聖変化したご聖体をいただく行為を喜んでしまいそうになりますが、そんな物理的なものではなく、神の元に集い、神と一致することが必要なのだ。そのように思いました。

今回の福音のタイトルは新共同訳では「永遠の命の言葉」、フランシスコ会訳では「ペトロの信仰宣言」です。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6・68-69)

と言ったペトロのように、神様から永遠の命の言葉を受け取り、信じ、従っていこうと思いました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/07/19

しばらく休むがよい


今日の短い福音(マルコ6・30-34)から、説教では「しばらく休むがよい」という言葉が取り上げられました。聖書のはじめに出てくるように、7日目に神様が休まれたことから安息日が定められました。

実際に安息日が定められたのは、ユダヤ人がエジプトで奴隷になっているときだと本で読みました。毎日の重労働で人々が順に倒れていくことから、労使の妥協で礼拝の日が定められたそうです。それは人間が決めたルールではありますが、聖書で神が定めた休みに基づくものでした。

考えてみると、説教ので語られた神の定めた休みを、しっかりと守っていないように思いました。休みの日も仕事のことを考えたり、作業をしたり、、、聖書の最初の教えでさえも守っていないことに気付いて、驚きました。仕事だけでなく、文化的な生活を送ることも神の定めたことだったのですね。

昨日の聖書の分かち合いでは、最後の一文が気になりました。飼い主のいない羊のような群集の有様をイエスが哀れみ、色々と教えられたところです。人が生きるためにはどのように生きるかが判っていなければなりません。どのように生きるべきか、それは神様の教えである、そのように読めました。

休むことをはじめとして、様々な教えが聖書にあります。ついついおろそかにしてしまいますが、教えを大切にすることが、豊かな人生を歩むためには必要なのでしょうね。

ところで、「あなたがただけで人里離れた所へ行って」とイエス様は言われましたが、なぜ「イエスは舟から上がり」と書かれているのでしょうか?興奮した弟子の話を聞くことに疲れたイエスが、弟子たちだけをどこかにやろうとしたのに、「まあ、そう言わずに」などと言われて一緒に行動したのでしょうか?それとも、別の船で違うところに行こうとしていたのでしょうか?それとも急に現れたという奇跡の話なのでしょうか?不思議に思ったのは私だけ?

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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