2008/08/12

神さまが置かれたところで咲きなさい - こころのともしびTV -

シスター渡辺和子のこころのともしびTVは、前シリーズと違って、いかに人生を生きるかを語られています。第5回「置かれたところで咲く」は、ナウエンの本で重くなった心をほぐしてくれました。

シスター渡辺は修道会に入られてすぐアメリカに派遣され、帰ってくると岡山の大学に派遣され、翌年には学長をされることになったそうです。まだ終身請願前なのに、これまでのアメリカ人学長の半分の年齢(36歳)で、卒業生でもなく、地元出身でもないのに大役をまかされたそうです。当時は、周囲からの風当たりも強く、大変苦労されたそうです。

「こんなはずじゃなかった」と苦しんだ末に、二人の神父さまに相談されたそうです。知り合いの神父さまは慰めるでもなく、

「あなたが変わらなければ、どこへ行っても何をしても同じだよ」

と、ナウエンの本に書かれているような言葉を言われたそうです。そのころのシスターは、みんなは何もしてくれないという「人に求める思い」にとらわれていたそうです。そこで、自分から与える人、あいさつし、お礼を言い、お詫びをし、人を褒める人間に変わったとき、周りの人も受け入れてくれるようになったそうです。

もう一人のベルギー人の神父さまは「神さまがお植えになったところで咲きなさい」という英語の詩をくださったそうです(シスターは「お植えになった」を「置かれた」と以下のように訳されました)。

神様が置かれたところで咲きなさい

置かれたところで咲きなさい
仕方がないと諦めるのでなく咲くのです
咲くということは、自分が幸せになり
周囲の人を幸せにすることです
咲くと言うことは、私は幸せなんだということを
周囲に示して生きることなのです

咲くと言うことは大変だけれども、そこに置かれている間はそこで咲くのだと教えられたそうです。それは、決して見事な咲き方でなく、自分なりに一生懸命咲かせればそれで良いのだということです。

ナウエンの本で苦しくなった私は「いつも喜んでいなさい」(一テサロニケ5・16)という言葉を忘れていたのかもしれません。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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変えることができるのは自分の心以外にない - ナウエンと読む福音書 その5 -

ナウエンの本は神の愛を切々と語りますが、時として厳しくもあります。「ナウエンと読む福音書」は、福音書の流れに従っているためか、神に従順と言いきれない私には少し厳しい感じがします。

そんな中で以下の箇所は、過去の自分を振り返らせ、やはり神に従うしかないと思わせます。

私たちは、他人についてあれこれ考えるのに大変な時間を費やします。周りの人や遠くの人について、くどくど意見を交換して心を乱し、変えねばならないのは何よりも自分の心であり、また変えることができるのは自分の心以外にない、という真理を無視してしまいます。(中略)イエスが私たちに語ることは、かつてヨハネについて尋ねたペテロへの返答と同じです。

「あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21・22)

わたしはイエスに対して負けを認めました。どんなに偉そうにしていても全然だめです。何も捨てることができていません。人との関係においてもどこか自分の側から見て立ち位置を決めてしまいます。

そんなかつての私、そして現在の私は、すべてイエスに見抜かれています。ナウエンは本の最後に、霊的生活は常に回心を求められ、葛藤や苦悩は、聖霊の新し命への促し、啓示であり、それは私たちを清めるための神の手段かもしれないとしています。そして、喜びにあふれたものであろうが苦痛に満ちたものであろうが、導かれるところへ従順におもむくしかない、なぜならすべての出来事は御父の家へと向かってたどる道の一部である、と言います。

ここに至って、私は少し苦しくなりました。たしかにそうなのですが、私の求めているものと何か違う、そんな気持ちが少しわきました。そして、それはすぐに与えられました。

(つづく)

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2008/08/06

真理の相互性 - ナウエンと読む福音書 その4 -

イエスに問われ、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16・16) と答えます。それを受けてイエスは「あなたは岩、わたしはこの上にわたしの教会を建てよう」(マタイ16・16)と返しました。

ナウエンは、このやり取りがローマ教皇の役割を説明するだけなら悲しすぎると言います。救いを必要であると告白せざるを得ない我々が、堅固な核となることを受け入れるべきで、御国の鍵はイエスを救い主とするすべての人のものだと述べています。そして、このことを、承認の相互性、真理の相互性と呼んでいます。

この「真理の相互性」という言葉はすごい言葉です。これまで多くの哲学者が神の存在証明を試みて失敗しましたが、この「真理の相互性」に基づけばそんな必要はありません。告白することによって神が存在するのです。そう「神は私たちの心の中におられる」のです。

そのように考えると、信仰が強ければ神は強くなり、信仰が弱ければ神も弱いのか、と思いがちですが、そうではないと思います。神を信じなかった私を救ってくださったように、神を必要とするならば、神は強く働きかけてくださる、そうに違いありません。

先にペトロが答えたのではなく、先に神が働きかえたので、ペトロは応えることができたのです。神の働きかけにきちんと答えることで、真理の相互作用が生まれるのです。

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2008/08/01

友人イエス - ナウエンと読む福音書 その3 -

ある神父さまが、聖書にならって「イエス」と呼び捨てにされていたとき、「イエス・キリスト」とか「イエスさま」と読んで欲しいとお願いされたそうです。呼び捨てにすることによって、心を痛める方がおられるならと「イエスさま」と呼ばれるようになったそうです。

わたしもそれに従って、「イエスさま」あるいは「キリスト」と呼んできました(キリストは救世主の意味なので敬称との判断です)。しかし、「ナウエンと読む福音書」に以下の聖書の引用がされていてハッとしました。

わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。(ヨハネ15・14-15)

私はニコデモのように、多くの捨てるべきものを捨てられないでいます。しかし、それが当たり前と思っていたかもしれません。イエス・キリストに従うと決めて洗礼を受けておきながら、自らを僕(しもべ)とすることで現実から逃れようとしていたのかもしれません。

そのことに気づいたからと言って、すべてが捨てられるわけではありません。しかし、イエス・キリストが「友」と呼んでくれるのに、僕であると逃げるわけにはいきません。これからは、少しでも教えに従うために「イエス」と呼ばせていただこうと思いました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/07/30

ナウエンと読む福音書 - レンブラントの素描と共に -

生前のヘンリ・ナウエンの延べ140冊の著作を集めて聖書の解説書風に再構成した新刊です。このブログでもナウエンを何度か紹介していますが、心の在り方や信仰についての言葉だけでなく、聖書についても心から語っていたのだと再認識しました。

この本も他のナウエンの書籍と同じく、少しずつ読むことが進められています。確かにゆっくりと読むと、さまざまな思いが浮かんできます。たとえば最初の「神のたどられた道」という章には、こうあります。

ときおりなら、貧しい人たちに気を配ることができるでしょう。でも、貧しい状態にまで身を落とし、貧しい人々と共に貧しくなることまではしたくありません。しかし、まさしくそれこそが、神を知るための手段としてイエスが選ばれた道なのです。

神であるにも関わらず身を落としてというだけではありません。一般の人間では到底できない、そんな行いなのです。ゼノさんと共に活躍したアリの町のマリアと呼ばれた北原怜子さんを思い出しました。

次の「福音の訪れ」という章では、受胎告知でのマリアさまの「お言葉どおり、この身に成りますように」が紹介されています。

私たちの内で働かれる神の愛への最も深い応答を一言で表すものとして、私はこの言葉にずっと耳を傾けています。神は私たちの生活が聖霊によって導かれるのを望まれますが、その準備はできているでしょうか。マリアと天使と共に単純にそこにとどまり、そこで語られた言葉、歴史の流れを変えた言葉に耳を傾けること、それが私に安らぎと憩いをもたらします。

この言葉に、人生に生じる様々な困難を思い浮かべました。どんな出来事も、マリアさまのように受け入れることができたなら、いや受け入れよう、そんな気持ちになりました。

洗礼者ヨハネにイエスさまが洗礼を授かるシーンでは、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」(マタイ3・17)のところで、本の冒頭の見開きにある言葉と重なりました。

福音書のメッセージの全容が示すものは、「イエスのようになる」ということです。

私たちは洗礼を受けた時、神に迎え入れられたことを思い出しました。神に愛されているという思い、それは次の章にある

イエスは真に自由でした。その自由は、自分は神に愛されている子であるという、霊的な気づきに根ざしていました。

につながります。これは、私たちの「心の自由」、苦しみ、悲しみ、怒りといった感情にとらわれない、いつも喜びに生きる「心の自由」を想起させました。

この本はゆっくりと、そして何度も読み直したい一冊になりそうです。

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2006/06/04

適切な距離を置くには

私の関わっているソフトウェア開発の仕事は、言われたとおりに動作する、いわば完全なコンピュータに、不完全な人間が挑戦する、神経をすり減らす仕事です。それでも、もの作りの魅力は大きく、プログラムが動いた際の感動は何物にも代えられません。

ソフトウェア開発と言うと一人でコツコツとオタクのようなイメージがあるかもしれませんが、実際は要求を聞いたり、予算や期間に合わせて調整するなど、お客さまとのコミュニケーションが多い仕事でもあります。

また、社内においても、多くの人で手分して協調作業をしたり、必要となる経費の調整をするなど、通常のビジネスマンと同等以上のコミュニケーションが必要になる仕事です。

このような仕事の特性から、ソフトウェア開発者のニュースサイトには、カウンセリングの記事が少なくありません。@ITにも「ストレスと上手に付き合うために-ITエンジニアにも重要な心の健康-」という連載があり、最新の記事では「全員に認めてもらえなくてもいい」と題して、パワーハラスメントの記事が書かれています。

パワーハラスメントに関しては記事の方を見て頂くとして、私が気になったのは最後の文章です。

 「付き合いにくい人」と仕事上接触しなければならないときは、このようにして心の距離を上手に取りましょう。同時に、近づかない、必要最低限しか話さない、会議のときは離れて座るなど物理的な距離も取るようにし、大切なあなた自身を守っていきましょう。

この文章を読んでヘンリ・ナウエンの「心の奥の愛の声」を思い出しました。この本で、ヘンリ・ナウエンもこのように言っています。

  • 自分の愛の限界を定めること(p.23)
  • 他人の限界を理解すること(p.27)
  • こちらの内面生活に、いつ、だれを立ち入らせるかは、こちらが決めなければいけない(p.99)

これらは、人との距離を保つということです。上のカウンセリングの記事もナウエンも、(自分を含めて)個人を尊重して、適切な距離を置けと言っていると思います。

これはその通りで、世の中で完全な人間はそういませんから、自分は自分、他人は他人、そう割り切って生きるしかないのかもしれません。でも、そんな大人になるのは、さびしいような気もします。

人は弱いところがあって、完全にはなれません。自分もそうですし、ほかの人もそうでしょう。それは、二人が同じ方向を向いているときも同じで、競ってしまったり、わずらわしくなったり、思いが違ってくることもあるでしょう。

それでは、やはり、さびしい思いをしなければいけないかというと、そうではないと思います。ちょっと視点を変えればよいと思います。自分の中から相手を見るのでなく、少し離れて見ることだと思います。自分の捕らわれている気持ちや、ほかの人の思いを包み込んで優しく見守る、そんな視点が必要だと思います。

そのために、自分をわかってくれる存在、自分を愛する完全な存在、必要なものを常に与えてくださる存在、道を示してくださる存在、そんな存在が必要なのなのだと思います。

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2005/11/30

ナウエンの側にいる神

ナウエン心の奥の愛の声を読み終えました。
ナウエンは友人の裏切りから友情の破綻に苦悩し、生き続けることや神への信仰に不安を感じるほどでした。ナウエンは苦しみの中から神のもとへ帰ります。自分を振り返り、人との関係を考え、霊的指導を受けながらコミュニティに根を下ろします。そしてようやく神への信仰と自分を取り戻していきます。

ナウエンは心の傷を振り返りながら語ります「傷はみな、友達に怪我をさせられた子供だと考えることだ。子供がわめきちらして仕返しをしようとしているかぎり、傷はつぎつぎに増える。だが親にやさしく抱きしめてもらった子どもは痛みにも耐えて、相手のところへ行って赦し、新たな関係を築くのである。自分にやさしくすること。そして心を愛情ぶかい親に仕立て傷を負ったまま生きていくのだ」

心の傷は時間によって痛みがなくなっても、消えることはありません。ナウエンは神の愛情を感じながら、自分を大事にし、神の名によって考え、語り、行動できるようになりました。そんな、ナウエンに神の声は、こう聞こえます。

「私はあなたを愛している。私はあなたの側にいる。もっと私の側にきて、私の存在があたえる喜びと心の平安を味わってほしい。私はあなたに新しい心と精神をあたえたい。私の口で語り、私の目で見、私の耳で聞き、私の手で触れたい。私のものは、すべてあなたのものだ。ただ私を信じて、私をあなたの神にしてほしい」

やはり神様はいつも側にいてくれるのですね。信じれば、それを感じ、生まれ変わることができる。この本はナウエンの体験を通して、それを感じさせてくれました。

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2005/11/28

自分の苦しみは人類の苦しみ

生きていると苦しいときがたくさんあります。

若いときは自分の気持ちに忠実に生きられたのに、年をとるとどうもいけません。色々なしがらみや、立場もあり、必ずしも思ったことをしていない自分があります。でも、若いときもそれなりに苦しかったですね。自分の心をわかってもらえない苦しみは、年齢に関係なくありますし、自分の能力に絶対の自信を持っている人もそんなにはいませんしね。

ナウエン心の奥の愛の声を読んでいると、こんな苦しみが楽になりますね。「私たちが苦しむのは、特定のとき、特定の場所で、だれかに傷つけられたからなのだ。疎外されたとか、棄てられた、役立たずだと言った気持ちも、もっと具体的なじじつにねざしているのである」としている独自の苦しみは、イエスの苦しみによく当てはまると書いています。

自分の苦悩にとらわれ、怒り、恨み、復讐心さえもってしまいますが、自分独自の苦悩が人類の苦悩の一部であることを悟るときに癒されるとナウエンは言います。その悟りこそ、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(ルカ23・34)という、具体的でありつつも、全人類の痛みでした。表面的な自分の痛みから目を転じ、自分もかかわっている人類の痛みに目を向ければ、自分の苦悩も耐えやすくなります。全人類の苦しみに比べれば、自分の苦悩は「軽い荷物」「軽いクビキ」(マタイ11・30)です。

先日のミサで朗読をされた方は、泣きながら読まれていました。人それぞれ色々な苦しみがあると思います。うまく書けませんが、上の文章を書きながら見つけた有名な聖書の一文を書いておきます。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11・30)。

今後ともよろしくお願いします>アッバ

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2005/11/22

友人との距離

ナウエン心の奥の愛の声を読んでいると、友人とのことを考えさせられます。
学生のころ悩みを打ち明けてくれた友人たち、何年か経って久しぶりに会うと彼女と別れていたり、離婚していたり、、、。昔の感覚で、ついつい「どうして?」と聞いてしまいます。でも、まあ言いにくいこともあるのか、昔のようには言ってくれませんよね。いまでこそ、わかったように書いていますが、その時はやっぱりいやな感じがしますよね。

ナウエンは友人との関係から苦しみ、そこから抜け出そうとこの本の元になった日記を書きました。そこには、いくつかの教訓が書かれています。うまくまとめられないので、私の考えを書きます。

  • 共同体の中に住みながらも、自分の独自の世界を持つ
  • 人の愛は進んで受け入れても、自分が与える愛に答えてくれることを期待しない
  • 程よい距離感を維持して自分を守ること

そう、自分も人に言えないことがあるように、友人にも私の知らない友人の世界があります。なにも期待せず、与えるだけのつもりでいれば、幸せな関係が得られると思います。

このような関係は、インターネットでも同じですよね。もしかすると、より重要かもしれません。コメントに返事を期待したり、トラックバックに変な思いをめぐらせたり、、、。mixiだと、もっと悩ましいこともあったりします。

傷つきかけたとき、相手が自分をどう思っているかを考えると、どんどん深みにはまっていきます。そんなとき、相手にも独自の世界があり、守るものがあると思えば、気が楽になります。コメントに頑張ってコメントしようとすると、時間をかけても書けなかったり、変に形式的になったり、、、。程よい距離感が大事なんですよね。難しいですけど、、、

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2005/11/13

信仰の道に入るということ

ナウエン心の奥の愛の声を読みながら信仰について考えました。
ナウエンは友人の裏切による苦しみから、信仰への道をふたたび歩みだすのですが、この本に書かれたナウエンの変化から、数学的なイメージがわいてきました。

宗教が無くとも生きていくことは可能です。人生を歩み経験を積むことで、さまざまな定理を手に入れることができます。そして、多くの定理の中から、誰もが知らず知らずのうちに価値観やポリシーなどの公理を、帰納的に導き出しています。

しかし、この公理系はもろく、かつて経験したことの無い出来事によって、現在の公理系と矛盾する定理を見つけてしまうことがあります。このようなとき、人は自らの人生の経験が否定され、人生そのものを否定してしまいたくなるほど苦しみます。

信仰とはこのような時に役立つ、新たな公理系ではないでしょうか?この公理系は心の中にぽっかり空いた穴に合わせることのできる不思議なリングです。リングですから中央には決して証明できない大きな穴が空いているのですが、そのリングにつかまっている限り、それ以上は落ち込むことのないものです。

しかし、これまでの経験で得た定理は、新しい公理系で必ずしも成立しません。信仰を得るだけでなく。新しい公理に基づいて一つずつ検証し、修正していかなければなりません。新しい公理系を中心に一つ、また一つと積み上げていくのです。

この本を読んでいて、信仰の道に入るということは、このようなものではないかと思いました。

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