2006/06/04

適切な距離を置くには

私の関わっているソフトウェア開発の仕事は、言われたとおりに動作する、いわば完全なコンピュータに、不完全な人間が挑戦する、神経をすり減らす仕事です。それでも、もの作りの魅力は大きく、プログラムが動いた際の感動は何物にも代えられません。

ソフトウェア開発と言うと一人でコツコツとオタクのようなイメージがあるかもしれませんが、実際は要求を聞いたり、予算や期間に合わせて調整するなど、お客さまとのコミュニケーションが多い仕事でもあります。

また、社内においても、多くの人で手分して協調作業をしたり、必要となる経費の調整をするなど、通常のビジネスマンと同等以上のコミュニケーションが必要になる仕事です。

このような仕事の特性から、ソフトウェア開発者のニュースサイトには、カウンセリングの記事が少なくありません。@ITにも「ストレスと上手に付き合うために-ITエンジニアにも重要な心の健康-」という連載があり、最新の記事では「全員に認めてもらえなくてもいい」と題して、パワーハラスメントの記事が書かれています。

パワーハラスメントに関しては記事の方を見て頂くとして、私が気になったのは最後の文章です。

 「付き合いにくい人」と仕事上接触しなければならないときは、このようにして心の距離を上手に取りましょう。同時に、近づかない、必要最低限しか話さない、会議のときは離れて座るなど物理的な距離も取るようにし、大切なあなた自身を守っていきましょう。

この文章を読んでヘンリ・ナウエンの「心の奥の愛の声」を思い出しました。この本で、ヘンリ・ナウエンもこのように言っています。

  • 自分の愛の限界を定めること(p.23)
  • 他人の限界を理解すること(p.27)
  • こちらの内面生活に、いつ、だれを立ち入らせるかは、こちらが決めなければいけない(p.99)

これらは、人との距離を保つということです。上のカウンセリングの記事もナウエンも、(自分を含めて)個人を尊重して、適切な距離を置けと言っていると思います。

これはその通りで、世の中で完全な人間はそういませんから、自分は自分、他人は他人、そう割り切って生きるしかないのかもしれません。でも、そんな大人になるのは、さびしいような気もします。

人は弱いところがあって、完全にはなれません。自分もそうですし、ほかの人もそうでしょう。それは、二人が同じ方向を向いているときも同じで、競ってしまったり、わずらわしくなったり、思いが違ってくることもあるでしょう。

それでは、やはり、さびしい思いをしなければいけないかというと、そうではないと思います。ちょっと視点を変えればよいと思います。自分の中から相手を見るのでなく、少し離れて見ることだと思います。自分の捕らわれている気持ちや、ほかの人の思いを包み込んで優しく見守る、そんな視点が必要だと思います。

そのために、自分をわかってくれる存在、自分を愛する完全な存在、必要なものを常に与えてくださる存在、道を示してくださる存在、そんな存在が必要なのなのだと思います。

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2005/11/30

ナウエンの側にいる神

ナウエン心の奥の愛の声を読み終えました。
ナウエンは友人の裏切りから友情の破綻に苦悩し、生き続けることや神への信仰に不安を感じるほどでした。ナウエンは苦しみの中から神のもとへ帰ります。自分を振り返り、人との関係を考え、霊的指導を受けながらコミュニティに根を下ろします。そしてようやく神への信仰と自分を取り戻していきます。

ナウエンは心の傷を振り返りながら語ります「傷はみな、友達に怪我をさせられた子供だと考えることだ。子供がわめきちらして仕返しをしようとしているかぎり、傷はつぎつぎに増える。だが親にやさしく抱きしめてもらった子どもは痛みにも耐えて、相手のところへ行って赦し、新たな関係を築くのである。自分にやさしくすること。そして心を愛情ぶかい親に仕立て傷を負ったまま生きていくのだ」

心の傷は時間によって痛みがなくなっても、消えることはありません。ナウエンは神の愛情を感じながら、自分を大事にし、神の名によって考え、語り、行動できるようになりました。そんな、ナウエンに神の声は、こう聞こえます。

「私はあなたを愛している。私はあなたの側にいる。もっと私の側にきて、私の存在があたえる喜びと心の平安を味わってほしい。私はあなたに新しい心と精神をあたえたい。私の口で語り、私の目で見、私の耳で聞き、私の手で触れたい。私のものは、すべてあなたのものだ。ただ私を信じて、私をあなたの神にしてほしい」

やはり神様はいつも側にいてくれるのですね。信じれば、それを感じ、生まれ変わることができる。この本はナウエンの体験を通して、それを感じさせてくれました。

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2005/11/28

自分の苦しみは人類の苦しみ

生きていると苦しいときがたくさんあります。

若いときは自分の気持ちに忠実に生きられたのに、年をとるとどうもいけません。色々なしがらみや、立場もあり、必ずしも思ったことをしていない自分があります。でも、若いときもそれなりに苦しかったですね。自分の心をわかってもらえない苦しみは、年齢に関係なくありますし、自分の能力に絶対の自信を持っている人もそんなにはいませんしね。

ナウエン心の奥の愛の声を読んでいると、こんな苦しみが楽になりますね。「私たちが苦しむのは、特定のとき、特定の場所で、だれかに傷つけられたからなのだ。疎外されたとか、棄てられた、役立たずだと言った気持ちも、もっと具体的なじじつにねざしているのである」としている独自の苦しみは、イエスの苦しみによく当てはまると書いています。

自分の苦悩にとらわれ、怒り、恨み、復讐心さえもってしまいますが、自分独自の苦悩が人類の苦悩の一部であることを悟るときに癒されるとナウエンは言います。その悟りこそ、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(ルカ23・34)という、具体的でありつつも、全人類の痛みでした。表面的な自分の痛みから目を転じ、自分もかかわっている人類の痛みに目を向ければ、自分の苦悩も耐えやすくなります。全人類の苦しみに比べれば、自分の苦悩は「軽い荷物」「軽いクビキ」(マタイ11・30)です。

先日のミサで朗読をされた方は、泣きながら読まれていました。人それぞれ色々な苦しみがあると思います。うまく書けませんが、上の文章を書きながら見つけた有名な聖書の一文を書いておきます。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11・30)。

今後ともよろしくお願いします>アッバ

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2005/11/22

友人との距離

ナウエン心の奥の愛の声を読んでいると、友人とのことを考えさせられます。
学生のころ悩みを打ち明けてくれた友人たち、何年か経って久しぶりに会うと彼女と別れていたり、離婚していたり、、、。昔の感覚で、ついつい「どうして?」と聞いてしまいます。でも、まあ言いにくいこともあるのか、昔のようには言ってくれませんよね。いまでこそ、わかったように書いていますが、その時はやっぱりいやな感じがしますよね。

ナウエンは友人との関係から苦しみ、そこから抜け出そうとこの本の元になった日記を書きました。そこには、いくつかの教訓が書かれています。うまくまとめられないので、私の考えを書きます。

  • 共同体の中に住みながらも、自分の独自の世界を持つ
  • 人の愛は進んで受け入れても、自分が与える愛に答えてくれることを期待しない
  • 程よい距離感を維持して自分を守ること

そう、自分も人に言えないことがあるように、友人にも私の知らない友人の世界があります。なにも期待せず、与えるだけのつもりでいれば、幸せな関係が得られると思います。

このような関係は、インターネットでも同じですよね。もしかすると、より重要かもしれません。コメントに返事を期待したり、トラックバックに変な思いをめぐらせたり、、、。mixiだと、もっと悩ましいこともあったりします。

傷つきかけたとき、相手が自分をどう思っているかを考えると、どんどん深みにはまっていきます。そんなとき、相手にも独自の世界があり、守るものがあると思えば、気が楽になります。コメントに頑張ってコメントしようとすると、時間をかけても書けなかったり、変に形式的になったり、、、。程よい距離感が大事なんですよね。難しいですけど、、、

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2005/11/13

信仰の道に入るということ

ナウエン心の奥の愛の声を読みながら信仰について考えました。
ナウエンは友人の裏切による苦しみから、信仰への道をふたたび歩みだすのですが、この本に書かれたナウエンの変化から、数学的なイメージがわいてきました。

宗教が無くとも生きていくことは可能です。人生を歩み経験を積むことで、さまざまな定理を手に入れることができます。そして、多くの定理の中から、誰もが知らず知らずのうちに価値観やポリシーなどの公理を、帰納的に導き出しています。

しかし、この公理系はもろく、かつて経験したことの無い出来事によって、現在の公理系と矛盾する定理を見つけてしまうことがあります。このようなとき、人は自らの人生の経験が否定され、人生そのものを否定してしまいたくなるほど苦しみます。

信仰とはこのような時に役立つ、新たな公理系ではないでしょうか?この公理系は心の中にぽっかり空いた穴に合わせることのできる不思議なリングです。リングですから中央には決して証明できない大きな穴が空いているのですが、そのリングにつかまっている限り、それ以上は落ち込むことのないものです。

しかし、これまでの経験で得た定理は、新しい公理系で必ずしも成立しません。信仰を得るだけでなく。新しい公理に基づいて一つずつ検証し、修正していかなければなりません。新しい公理系を中心に一つ、また一つと積み上げていくのです。

この本を読んでいて、信仰の道に入るということは、このようなものではないかと思いました。

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2005/11/07

心の中に復活したイエス

ナウエン心の奥の愛の声の続きです。
自分の愛に限界を定め、次に神のもと(新しい国)へ向かったナウエンは、少しずつ失いつつあった自我を拡大していきます。自分の心を見つめなおし、共同体に錨をおろして、孤独とも付き合います。

次に、私たちが幼いころに失った存在の一部を考えます。自我を確立するには、「完全にみとめられた」と言う気持ちが必要です。幼子のように、思いやり深く、上品でやさしく、心遣いに富む自我を基盤にしなければなりません。

そこでナウエンは、不安に満ちた、一度も認められたことのない自我の中にイエスを見つけます。弱い自我は、自分に歓迎されない限り取り戻せません。けちくさく不安な自分の自我を、「まだだ」と思ってしまいます。そこで、幼子のような心を持ち、忍耐し、寂しさと付き合い、自我の逃亡をさけ、自我から学ぶのです。すると、イエスが自分の心の中に生きていて、必要なものを与えてくださることを知るでしょう。

ちょうど本の半分ぐらいのところで、心の中のイエスが見つかりました。心の中にイエスが生きている。この感覚をみなさんも持たれているのではないでしょうか?私は、遠藤周作の本を何冊か読んでいる間に、この感覚を持ちました。イエスの生涯を弟子たちの目で考えると、裏切った人々の罪を自ら背負い、人々のために赦しを請い、神を賛美し亡くなったイエス。その存在に、汚れきった自分の心を洗われたような気持ちがしました。遠藤州作風に言えば、これがイエスの復活なのでしょう。

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2005/11/02

信仰による自我の確立

ナウエン心の奥の愛の声の続きです。
自分の愛に限界を定めることで、他人の愛にも限界のあることが許容できるようになりました。そして、これまでの生活(古い国)から抜け出して神のもと(新しい国)へ向かいます。

この流れを私なりに考えてみました。

はじめに考えたことは、他人との間に距離を置いただけでは、自分の存在意義を確認できないので、孤独から逃れるために、神への信仰を利用するのかと 考えました。しかし、神との付き合い方は、すがるようなものではありません。認められたい、褒められたい、好意をもたれたい、といった動機や行動は、欲求 は増えるばかりで完全に満たされることはないからです。

神がすべてを満たす愛を与えてくださることを信じ、神の栄光のため行動すれば、心の中で神の平安を知り、そこから安らぎが得られるようになります。これは、孤独から逃れるというよりは、神のために生きることで、自分を見つけ出そうとしています。

ここで気づいたのは、この流れはアドラー心理学に似ています。アドラー心理学では、まず、現状を認識させて悪くならないようにします。つぎに、根本原因であるアイデンテイティを取り戻すために、現状でのプラス要素を見つけだして伸ばします。

アドラー心理学は問題行動を起こす児童などに用いられます。アドラー心理学は、友達、先生、家族などから、腐ったみかんのように扱われて、アイデン テイティを失った事が原因と考えます。そんな子供に対し、現状を冷静に認識させ、本人が問題行動を避けようととった対処法や、(問題となっていない)友 人、先生、家族の愛をプラス要素として考えて少しずつ伸ばしていきます。

しかし、社会人の場合にはうまくいくとは限りません。問題はある程度の対処を行った結果、より複雑になっています。しかも、友人であってもプライバ シーには踏み込めず、家族とも、複雑な関係、責任感、心配をかけられない、などから、深い迷路に迷い込んでしまっているからです。

そこで唯一頼れるのが、神なのかもしれません。放蕩息子の帰郷によればナウエンも幼いころから父と葛藤があったようです。そこにさら に積み重ねられた友情の破綻によって、深い迷路に迷いこんだようです。そこで、まず迷路を認識することで、さらに悪くなることを防ぎました。次にプラス要 素として唯一選べたのは、絶対的な愛を持つ神、という流れになっていると思います。

(まだ、1/3ぐらいですが、この程度ではまだまだ書きたりません。もっと深くて、良い話がたくさんあります。可能な範囲で書いていきますので、しばらくお付き合いください)。

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2005/10/30

自分の愛の限界を定める

ctさんのコメントにあった 心の奥の愛の声を読み出しました。
この本は、作者のナウエンの日記です。ナウエンが人生でもっとも心を開いた友人から受けた、心の深い傷から立ち直る際の記録です。ナウエンはそれまでの生活を離れて、二人の導き手から霊的な指導を受けます。この本には、その指導を通じて、ナウエンが感じた信仰生活上の規則が書かれています。

規則と書くと難しそうですが、この本はナウエンが自身に宛てたメッセージです。ナウエン自身は、規則なので順に読む必要はないと書いていますが、それは大きな間違いです。この本の内容は、ナウエンの心の投影でもあります。順に読むことで、よくできたSF映画のように、ナウエンの心の「うねり」を感じることができます。

今読んでいるあたりの「うねり」は愛の限界です。神の愛は限界がなく、それに基づく人の愛も永遠であると考えても良く、いずれはそうなるかもしれません。しかし、人の愛は限界があります。他人に愛を求めるとき、ついつい無限の愛を求めてしまいます。しかし、いずれ「これはしてあげられません」と言われてしまうのです。自分の愛に限界を定めることで、相手の愛が制限付であることを許容できるのです。そして、さまざまな欲求を抑えたときに無償の愛を与えられるのです。

どうもナウエンは心を開きすぎ、自分が無限の愛を与えることで、相手からも無限の愛を期待したようです。しかし、それは長くは続かず破綻しました。そして指導を受けるうちに、ある程度の距離をとることの必要性を感じたようです(続く、、、たぶん)。

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2005/10/15

放蕩息子の帰郷~父への道

ナウエンはついに進むべき道にたどり着きます。
放蕩息子になり、兄になり、自身の罪を振り返ったナウエンは、父である神の愛に救われます。そして、帰郷することは、父への道であることに気づきます。父を否定し、そのもとから離れていた、放蕩息子であり兄であったナウエンの心は、回心し父の愛に包まれます。父の愛は絶対的で比較しない愛です。その父の元に帰ることは、自身も父になっていくと言うことを意味していました。

司教であるナウエンにもそれは険しい道です。神の愛を身に着けるには、嘆き、赦し、惜しみない愛が必要です。そして、心の渇望が父の家で満たされることを信じた時に、兄弟の心は父に変容していきます。

その後、父への道を歩むためにナウエンは、知的ハンディのある人たちのコミュニティに入ります。そこで彼を迎えたのは、彼らの純真な父のような愛でした。

この本のタイトルである放蕩息子の帰郷の絵を書いたレンブラントは、放蕩息子のような人生の最後にこの絵を描いたそうです。そして作者でカトリック神父のナウエンも神の道にありながら、長らく父(実の父と神)から心は離れ、最後にこの絵にたどり着きました。さらに翻訳者の片岡牧師も翻訳中にシンガポールに着任し、すい臓がんでなくなります。この本にかかわった方のそれぞれの人生の最後にたどり着いたのは、まさに神への帰郷でした。

何回かに分けてこの本の紹介と感想を書いてきましたが、最後は、この片岡牧師の言葉で締めくくるべきでしょう「信徒のみでなく、牧会や司牧にあたる教派を超えた日本の教職者にとって、深い慰めと霊的方向を本書が示してくれるだろう」

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2005/10/13

比較をしない父の愛

レンブラントの描く放蕩息子の父は、レンブラントであり、神でもあります。
年老いて目はよく見えないが、慈悲深い心の目で帰ってきた息子を確認し、左手は父のように力強く息子を覆い、右手は母のように上品に優しく置かれている。父は自分の子供たちが自由であることを望み、放蕩息子が家を出ることもその愛ゆえに、苦しみが生まれることを知りつつも許してしまう。また、兄が父の絶対的な愛を信じず、口先だけで父をたたえることで苦しみを感じても、父であるがゆえに無理に自分を愛させることはしない。この父は、誰もを愛する父であり、「お気に入りの息子」などと言う、子供を比較するような言葉は存在しない。兄は放蕩息子と自分を比較して嫉妬したが、父はあまりに両者をとも愛しているので、兄に気を使って、祝宴を遅らせることなど思いつかない。

ナウエンによると、この父の愛は、マタイの福音書にあるぶどう園の労働者のたとえ話にも示されています。十一時間働いた労働者も遅く来た人にも同じように報酬を与えてしまう愛です。時間の長短に関係なく同じ心遣いを受けることで、ぶどう園で過ごした人々は大いに喜ぶと思うほど、純真な愛です。地主(神)は言われます「お前はわたしの気前のよさをねたむのか」と。

ナウエンは回心へのへの大きな招きが隠されていると言います。「自分自身に対する低い評価から見るのではなく、神の愛の目を通して見る必要がある」と。「最小のものから最大のものを獲得しようとするように神をみなすので、ねたんだり、腹を立てたり、うらんだりする。神のまなざしをもって世界を見ることができたなら、うまく行動したかに応じて子を愛す父でなく、すべてを与え、すべてを赦す父、その見方に気づいたなら、ただただ、深い感謝でしかあり得ない」と。

ナウエンの考えるイエスの生涯と説教の全体は、神の無尽蔵で、限りないこうした母性愛、父性愛を示し、わたしたちの生活のあらゆる部分をその愛によって導いてもらう生き方を示すものです。日々の苦しみから逃れるには、神の絶対的な愛が必要なのですね。

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2005/10/12

恨みではなく感謝を選択する (放蕩息子の兄の話)

ナウエンの放蕩息子の帰郷も中盤になり、兄の心情が語られます。
放蕩息子の弟が父から譲り受けた財産を使い果たして帰りますが、父は温かく迎えます。それを知った兄は怒って家に入ろうとしない。父が出てきてなだめるのですが、兄は父に仕えてきたのに子山羊一匹ももらえず、弟が父の身上を食いつぶして帰ると肥えた子牛を与えたと、父に不満をぶつけます。父は兄も弟も大事であることを告げます。

ナウエンが心を奪われたレンブラントは、この兄を父と弟のそばに描いています。納得のいかないような表情ではあるものの、そこには可能性を示すような光が差しています。

このように不満と恨みを抱く兄をナウエンは「裁き、非難、怒り、恨み、ねたみ、嫉妬、こそが人間の心をひどく毒し、深刻な害を与えるのだ」と述べています。従順でまじめで法をまもり、懸命に働き、自己犠牲をいとわない事を善いことと思う心と、不満は結びつき、寛容であろうとすればするほど怒りに捕われてしまう。無私でありたいと願えば願うほど、人に愛されたいと思ってしまう。

このような苦境に陥ったとき、すべてはぎこちなくなる。すべてが疑わしくなり、自信過剰になり、計算高くなり、難癖をつけたくなる。そこには信頼がなく、反発し、意見を勘ぐり、しぐさの裏を読もうとしてしまう。

ナウエンはこのような状況から自力では抜け出せず、闇はかえって深くなるとしています。神父(司祭)であるナウエンは神の絶対的な愛を信じて、神の下に帰郷すべしと言います。そう、この兄の解釈はナウエンのこれまでの苦しみでもあるのです(実は、わたしもこの闇に捕われていたので、この苦しみと救いを身にしみて感じます)

さらに、ナウエンは信じるだけでなく、感謝が必要だとしています。「わたしのもの」、「あなたのもの」ではなく「人生は賜物」と考え、恨みではなく感謝を選択すべしだと言います。意識的に不満ではなく感謝を選択する修練を積むのです。非難しようとあら探しをしているときでさえ、その人の善さや美しさを話すと言う選択ができるといいます。

神を感じない人でも、それほど闇が深くないなら、感謝の選択で救われるかもしれません。しかし、「わたしのイエス」や「キリストの誕生」で示される弟子の心から、イエスの絶対的な愛を感じることは、きっと心を癒してくれると思います。

(なお、この兄がイエスの姿だという解釈も示していますが、長くなるのでやめておきます。上の説明も簡略化しすぎていますので、ぜひ本で読んでください)

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2005/10/09

がんばりすぎていませんか?

自分がしなければ!」そう思っていませんか?あるいは放蕩息子の帰郷の作者のように「わたしはだめだ。成功の梯子(はしご)を登りつめ、あることを成し遂げ、自分の素晴らしさを手に入れる以外、ましな人間になることはできない」と思っていませんか?一人で生きていると思うことは傲慢です。放蕩息子の帰郷ではナウエンがカトリックの司祭なので神の家に帰ることが解決策のように書いていますが、サブタイトルのように「父の家に立ち返る物語」としても良いと思います。人は一人ではありません。家族、友達、あるいは何らかの神のような存在(阿弥陀仏やご先祖様でも)あらゆるものが、あなたを気遣っています。

肩の力をぬいて、周りの人の気持ちを感じてみませんか?考えるのではだめです。あなた中心の考えはあなたの気持ちです。考えずに共感してください。もし、周りの気持ちに共感できないときは「わたしのイエス」など遠藤周作のキリスト教関係の本を読んでみることをお勧めします。

父の愛、神の愛は条件付ではありません。XXができていたならというものでなく、絶対的なものです。罪を犯していればいるほど、より深く愛してくれるでしょう(ただし人間は不完全なので、同じ罪人(つみびと)を見るような優しい目で見てください)。

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2005/10/08

放蕩息子のイエス

放蕩息子の帰郷を読み出してまだまだ半ばですが、同名の絵に対する作者の数多くの解釈のうち、面白いものをひとつ紹介します。

父の元を去って人間界に降り、愛を与え続け、最後には罪人として裁かれたイエス。服も破れ、ぼろぼろのサンダルはかかとがなくなっている。最期のときに父を賛美したその頭は赤子のように薄くなっている。神の国に帰ってきたイエスを父は温かく迎えます。その様子は神に救いを求める人間の様でもるというものです。

この話からキリスト教を考えると、家族の愛が宗教の根底にあるように思います。親からの独立を願い、反発し、時には悪いこともする。でも、そこには何をしようとも常に見守っていてくれる親の存在。それこそ人が求める神の姿でもあるのでしょう。

しかし、子供として、親として、絶対的な愛を信じ、絶対的なやさしさを持ち続けることは難しいですよね。分かってもらえなかったり、勝手な将来を考えたり、子も親も一人の人間であるがゆえの苦しみがあります。

キリストの誕生に見られる遠藤周作のキリスト観では、イエスの最後を弟子たちが思い続けることで宗教が確立していきます。それまでイエスを支持していた民衆や弟子たちの裏切りに、最期のときまで文句ひとつ言わず、人々の赦しを求めながら父である神をたたえ続けたイエス。人として見ていると理解不可能なその行動は、弟子や私たちに絶対的な神の愛を今も示しています。

神のようにはなかなか行動できませんが、自らの身をもって示したイエスの最期を考えると神の愛がほんの少しだけ自分の中にあるような気がしてきます。

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2005/10/07

ひとりで生きる苦しさ

ヘンリ・ナウエンの「放蕩息子の帰郷」を読み始めました。この本は聖書を題材にした同名の絵画を見た作者が、人生を振り返って、自身の罪と神の愛を再認識するお話です。

聖書のお話は、親に財産の生前分与をさせ、その金で家を飛び出して散財し、その先に待っていたのは1文無しの豚以下の生活でした。食べ物に困り、ついに暖かい親を思い出し、息子であることを捨てて、労働者(奴隷)として雇ってもらおうと家に帰ります。帰ってきた息子は、死んできた息子が生き返りかえってきたと、父親に温かく迎えられます。これは、何があっても暖かく受け止めてくれる神の愛を示しているお話です。ナウエンは自身のことを、最初は弟(家出した息子)に当てはめ、次にひがむ兄と考え、最後に父に当てはめて、自身の生活に思いをめぐらします。

まだ、3分の1ほどしか読めていませんが、プロローグを過ぎると切実な告白が始まります。まずは弟の話からの思いを「どうしてあの人はわたしを傷つけ、わたしを拒みわたしを気遣ってくれないのかと思い煩う。それと意識しないうちに、他人の成功、孤独感、この世から自分は虐待されているのではないかという思いで、あれこれ気に病む。自分でも分かっていながら、金持ちになれたら、権力が手に入ったら、有名になれたらとよく夢想する」と述べています。これこそ罪ですよね。

さらに「わたしは、人から嫌われたり、非難されたり、のけ者にされたり、仲間はずれにされたり、無視されたり、迫害されたり、殺されたりするのをとても恐れている。そのため、自分を守る作戦を絶えず練って、それによって、自分に必要な、受けても当然と思える愛を確保しようとする」と述べています。これは、わたしが苦しんでいた状況であり、アドラー心理学で問題行動児がアイデンティティを確保できていないとする状況と同じです。

ナウエンはこれらを「自分が神(父)にとって大切な存在である」ことを確信できず、「父の家から離れ『遠い国(神から離れた世界)』に住むことを選ぶ」原因としています。

このような自分中心に生きる罪の苦しさから離れるには、「愛」が必要です。アドラー心理学では家族や学校に愛を求め、本人に自信を持たせます。宗教では神に愛を求め、神の愛を人に与えます。アドラーのいない2000年前にあってキリストは、人々が神のように子供や隣人に接することを求め、また、神の愛を隣人に与えることで、これらの苦しみから人々を救おうとしたのだと、考えさせられました。

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