2008/06/14

私にとって神とは - 遠藤作品について -

この辺で遠藤周作さんの作品について、考えを述べておこうと思います。

遠藤周作さんは信仰を捨てようとしたことがあります。でも、捨てられなかった。これってすごいことだと思います。捨てようとするには、それなりの思いがあったはずです。信仰を持っていた自分をやめ、信仰のない自分にしようというのですから、よほどの思いがあったのだと思います。

しかし遠藤氏にとって信仰は、やめようという強い想いよりもさらに大事なものだったのです。「これは困ったことだ」と思われたでしょう。

こんな遠藤氏は「深い河」に出てくる神父に似ています。すべての被造物に神を感じた神父は、汎神論的だとされて教会を去ります。しかし、彼は信仰を捨てることができず、ガンジス川に向かう途中で生き倒れになった人を看取るという、愛の実践を行うようになります。

遠藤氏はキリスト教を仕立て直したなどと気取って書いていますが、その実は必死だったと思います。自分が捨てられない神の姿を聖書や書籍に求め、ようやく自分をクリスチャンだと言えるキリスト像を見つけたのだと思います。

遠藤氏がなぜ信仰を捨てようとしたのかはわかりません。しかし、当時のキリスト教に対する意見を読むと、想像はつきます。遠藤氏が捨てようとしたキリスト教は、エリートやハイソサエティという言葉がふさわしい人の宗教、凛とした、厳しい宗教でした。そこでは、どんな時も救ってくださる神ではなく、律法的な厳格な神の姿がありました。

青年時代にフランスに留学した遠藤氏は、厳しいカトリック教会に明治時代の文学者の作り上げた厳格なキリスト教を見たのだと思います。それは、遠藤氏にとって信仰とは何かを考えさせるきっかけになったでしょう。

「ルーアンの丘」に留学の後期に書いた日記が載っています。私はそのテレビ番組を見ました。留学生活半ばで結核にかかり入院、そして大学を卒業しないまま帰国します。その最後にフランソワーズという女性が出てきます。

このときの結核は帰国後も遠藤氏を襲います。死を目前にした病床で、遠藤氏と関わり人生が変わった人のことを思い出したということが、別の本に書かれています。それはこのフランソワーズだと思います。フランソワーズとは帰国の際に別れたはずだったのですが、後に日本に遠藤氏を追いかけてきたようです。でも、一緒にはなれませんでした。

死を目前にして遠藤氏は自分は救われないと思ったでしょう。このときも、もしかすると棄教も考えたかもしれません。

しかし、看護師の手を通して、神は遠藤氏に救いを与えました。死の恐怖の中で絶望を感じ、どうしようもない自分と理想の自分とのギャップによる苦しみが、彼に追い打ちをかけたのです。しかし、苦しむ遠藤氏の手をそっと握ってくれる看護師の手に安らぎを感じました。そして、どんなにダメな自分であっても救いをもたらす神を感じたのです。

遠藤氏は明治時代の厳格なものでなく、カジュアルなキリスト教と書かれていますが、その信仰は軽いものではありません。捨てかけていた信仰ではなく、遠藤氏を救った捨てられない信仰を育てたものだからです。

たぶん遠藤氏は、必死になって文献を読み、新しい信仰を築いたのだと思います。玉ねぎの皮を剥くように、これまでの信仰の殻を一枚ずつ剥いでいくと、目に見えない愛という神との関係のみが残ったのだと思います。そして、最後に残った辛子種のような愛を中心に信仰を築いたのでしょう。

遠藤氏の書籍は神学ではありません。もちろん、神学的なことに触れたり、神学について語ったりしていますが、それは遠藤氏が自身の信仰を語っているだけです。

わたしはこんな遠藤氏、すなわち自分の中の神の姿を、自分の能力を生かして語る姿を素晴らしいと思います。プロテスタントは万人司祭と言って、聖書の解釈は昔から自由とされてきました。これに対してカトリックは、聖書を翻訳しないことなどによって聖書解釈を聖職者が独占していました。

第2バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」にこんな言葉が書かれています。「人間は皆、適当な手段によって、賢明に、自分の良心の正しい、そして真の判断を形成するために、宗教に関する真理を探究する義務と権利を持っている」(第2バチカン公会議公文書全集, p.244, 南山大学監修)。この公会議以降、カトリックは変わりました。

私の好きな教会の集いに、聖書の分かち合いがあります。翻訳された聖書を読み、自由に語り合います。神さまとの出会いが人それぞれであるように、信仰も人それぞれです。たまには、何気ない一言で傷つけたり、傷つけられたりしますが、最後には神さまの大きな恵みが感じられます。

遠藤氏の作品は、神を愛する一人の人間として、本や雑誌を通して分かち合いをしているのだと思います。理論による神でなく、人を介した思いによって福音を広げているのです。これは、私がインターネットを介して分かち合いをしているのと同じです。

自ら「沈黙」のキチジローだという遠藤氏の作品は、私の心にとても響きます。そして、私はこう思うのです。

良く生きるためだけに神がいるのではなく、生きる勇気を与えるためにこそ神がいる

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2007/10/25

冷静に見ていなかった - 働きマン -

このブログを書き始めて2年(と1ヶ月)になります。そのきっかけを何度か書きましたが、どことなく納得していないものがありました。それが先週のTVドラマ「働きマン(リンク先は公式サイト)」をなにげなく見ていてようやくわかりました。

「働きマン」はどことなく「アリーmyラブ(リンク先はFOX)」をほうふつさせるような働く女性のお話です。菅野美穂さん演ずる松方は「働きマン」になって一生懸命に働きますが、人とぶつかってばかりいます。一方、釈由美子さん演ずる野川は、女性らしくうまくやって仕事をこなしています。そんな野川を松方は批判的に見ます。

一見、ちやほやされているように見える野川ですが、実は陰で人並み以上に努力していました。そのことを知った松方は

「人のせいにして、努力していなかった」

と、反省します。ふたりはようやく打ち解けたとき、野川は自分のことを振り返って、自分の過去を振り返って、こう言います。

「ぶつかってばかりいて、冷静に見ていなかった」

この言葉は考えさせられます。努力するだけではだめなんですよね。

人は客観的・合理的に物事を考えているつもりでも、いつのまにか感情にとらわれてしまいます。推論に過ぎないことを「そうに違いない!」などと思い込み、自分で自分を追い込んでしまいます。

「働きマン」の松方は頑張ることが必要だと、思い込んでいるんですよね。でも、頑張るだけではだめなんです。いくら頑張ったってダメなときはダメ、どうにもならない。そこで、どんなに頑張ってもどうにもなりません。思い込みをやめて、冷静に物事をとらえないとだめなんですよね。

私が信仰の道に入ったのは、こんなことが原因だったと思います。遠藤周作さんの「イエスの生涯」「キリストの誕生」を読んで、今までの自分が傲慢であったことに気付きました。そこには「自分の苦労なんて大したことはない」「自分の一方的な見方だった」という2つの思いがありました。

「自分の苦労なんて大したことはない」というのは、イエスさまの受難との比較です。人類を救うための運命とはいえ、誰にも理解されないまま、十字架にかかられました。その苦しみを考えれば、どんな苦労も大したことはありません。それをこの世の終わりのように、誰かに怒ったり、自分を責めたりすることはないのです。

「自分の一方的な見方だった」というのは、遠藤周作さんの著作ならではの恵みだったと思います。捕えられたイエスさまの身を案じつつも自身の安全を考え、十字架に架けられたときにも自分たちのことを何と言われるかを心配する。誰しもの心にある暗い部分を持つ弟子たちと、それをわかった上で愛されたイエスさまとの対比は、自分の考えが一方的であることに気づかせてくれました。

そんな弟子たちにも3日後に変化がおこりました。心の中にイエスさまが復活し、弱虫だった弟子たちが、死をも恐れぬ使徒に生まれ変わります。それこそ、奇跡というべき変化です。そのような変化は、聖書では聖霊降臨まで間となっていますが、遠藤さんはしばらくかかったと書かれています。

ここのところは、あまりよくわかっていなかったのですが、最近、何となくわかるようになりました。私は、遠藤さんの本でキリストに出会い、復活と聖霊降臨のような衝撃を受けたつもりでした。しかし、私の実態は、たいして変わっていないのですよね。

少しずつ、少しずつ、あっちに行ったり、こっちに行ったり、苦しんだり、悲しんだり、そして喜びを感じながら、神様に近づいていくのでしょうね。苦しみもいつか恵みと感じられると信じて、批判せず、怒らずに、しみじみとやっていこうと思います。

色々なことがありましたが、いや、色々なことがあったからこそ、神さまのご計画に感謝しています。

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2007/10/14

神の似姿 - 聖フランシスコ「太陽の賛歌」 -

神の似姿というと(創世記1・26)で

神にかたどって創造された(日本聖書協会 新共同訳)

とされる人間のことが思い浮かびます。この表現、以前から違和感がありました。ギリシャ神話か日本神話にあるような、多神教的なイメージを抱いてしまったり、進化した宇宙人が遺伝子操作で作りだすといったSF的なイメージを抱いてしまいます。

このようなイメージは多神教的です。Good News Collectionにあるように神様が唯一絶対でないと、欠点をイメージしてしまい、どうもいけません。では、この「似姿」とはなにか?それが以前からの疑問でした。

川下勝著「アッシジのフランチェスコ」(清水書院、pp.167-172)に「太陽の賛歌」(リンク先はLaudate)が載っています。この太陽の賛歌はGood News Collectionにあるように、晩年の聖フランシスコが「死」というものを「姉妹」として讃えている点が特徴的です。この賛歌の中にも「似姿」という言葉が出てきます。

太陽は美しく、
  偉大な光彩を放って輝き、
  いと高いお方よ、
  あなたの似姿を宿しています。

これには衝撃を受けました。「太陽が似姿を宿している」という神って何なのでしょう。内部で核融合を起こしている「光源」や「熱源」あるいは「磁気嵐」が神だというのでしょうか?きっと、そんな物理的なことは決して表していないのでしょう。すると、何だというのでしょうね。

色々と思いを巡らしていると、ある言葉が思い浮かびました。

「神は愛」

すなわち、「似姿」とは、愛を実体化したものと考えることにしたのです。

神を信じるというのは、この世の出来事は偶然ではなく、完成に向けた神のご計画によるものであるとすることです。世の中を科学的にどんどん分解していけばいくほど、よくできていることがわかってくるといいます。最先端の科学者は神の姿を感じるといいます。

陽子の周りを電子がまわって原子になり、原子が集まり分子になり、分子が集まって物質ができ、色々な物質があつまって星になり、そして大きな星を小さな星が回ってまるで原子のように惑星系や恒星系になっています。すべてのことがよくできているのです。

私が生まれたことも、妻と結婚したことも、父が亡くなったことも、遠藤周作に出会ったことも、洗礼を受けたことも、すべてのことに意味があり、すべては良い方向に向かっているのです。

すべての物が被造物で、被造物は神の愛を実体化しているのです。

鳥や自然を愛した聖フランシスコは、すべての被造物に、いや、死をも含めたすべてのものに、愛そのものである神を感じていたのでしょう。

(この記事を考えているうちに、遠藤周作さんの「深い河」に出てくる神父さまは、聖フランシスコがモチーフなのではないかと思うようになりました)

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2007/04/29

「世界像の危機」と「わたしにとって」

この「私にとって」という言葉、最近、気になっていました。実は、この言葉はすごく哲学的なのです。

知り合いに、とあることのお礼にと西研著「大人のための哲学授業―「世界と自分」をもっと深く知るために」(大和書房,2002)(リンク先はアマゾン)をいただきました。哲学の本なんて、生まれてはじめて10年ほど前に読もうとしたある本で挫折して以来です。ちょっと変わったお礼ですが、せっかくいただいたので読んでみると、この本は楽しく読めました。

この本は哲学とは何かを述べています。哲学の必要性を述べるべく最初のところで「世界像の危機」という言葉が出てきます。この本の著者や私の若かったころは「“後発近代”的世界像」というものがありました。日本は欧米に劣っているから、追いつけ追い越せ、頑張れば幸せになれる、そんなだれしもが抱く物語ともいえる世界像が、いまは解体しているんですよね。

しかし、今なら普通にしていても、だれもが学校で学べ、仕事があり、ほどほどの生活ができます。生きる意味とか、やりがいとか、ついつい見失ってしまいそうな、そんな時代だからこそ、哲学が必要だとこの本は言っています。

この本では、哲学は世界像とそれをつくりだして生きている人間について考える学問で、

「哲学とは、理詰めで考えを述べ合うことによって、お互いに考えを普遍性のあるものに鍛えていこうとする、一種のゲームである」

とされています。絶対的なものはないから、みんなで合意をとれるような考え方を求めているのです。前半では哲学の外観が語られ、後半では世界像を変えた近代学問から始まり、デカルト、ヒューム、カント、フッサール、ハイデガーが説明されています。

近代哲学には、主観的事実と客観的事実の問題(主客一致の問題)があるそうです。自分があるから世界があるのか、世界があるから自分があるのか、ということです。カント以前はこれが「わたしにとって」のイギリス経験論と、「それ自体として」大陸合理論に分かれていました。これを、カントは「物自体」は認識できず、主観に現れた「現象」のしか認識できない、つまり客観性は意識の内部にあるとしました(説明が悪くてすみません。本には詳しく書かれています)。

近代は現代の日本と同じように、(教会中心だった)世界像が壊れた時代でした。科学の進歩によって、それまでの世界像が崩れた世界において、ある時は哲学者は神の存在を証明し、カントは存在することも存在しないことも証明できないとしました(そして、現代になってニーチェが神様に甘えるなという意味での言葉「神は死んだ」に至ります)。結局、現代のように目標をを失いがちな世の中にあっては、絶対の真理は確信できず、普遍的な「私にとって」の世界像を考えるということになります。

中世や昭和のように安定した世界像を誰もが受け入れられた時代は幸せだったかもしれません。でも、いまや世界像は崩壊し、個人個人が世界像を作り上げなくてはならなくなりました。上記の本は、そこで哲学が必要だとしていますが、それはとても厳しい道です。どんなに頑張っても、お金、地位、エゴといった現代的な世界像、すなわち原罪に負けそうになるからです。

私はもう、あの苦しい時に戻りたくありません。神様に救われた経験を元に、自分の世界像を作りたいと思います。

遠藤周作さんは「私にとって神とは」という本で、キリスト教を自分に合うように仕立て直しました。これは遠藤さんだけの問題でなく、現代に生きる私たちも自分の世界とキリスト教の整合性を取ることは大きな問題なのだと思います。それぞれの人生の経験をもとに、生きる力となるような「神」を認識することが必要になるのです。

しかし、「私にとって」という言葉は、客観的に見ていないという面あります。真実を知らず、自分の思いだけで神さまを見てしまう可能性もあります。キリスト教を正しく理解したうえで、自分の世界像への取り込みが必要になるのでしょう。

遠藤さんが言われるように100%の信仰というのはなく、信仰は90%あるいは99%の疑いと、少しの希望だと思います。それは、最後には神様がついている、乗り越えられない試練はない、というもっとも重要な希望なのだと思います。その一点だけを守ることができれば、主の平和が訪れると信じています。

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2007/03/01

苦しいのは自分だけじゃない - キリストに救われた理由 -

これまで、なぜ教会に通うようになったかを聞かれたとき、「遠藤周作の『キリストの誕生』でキリストの受難を知り、自分の苦しみなどは大したことがないと思い、頑張ろうと思った」と言っていました。でも、なにか違うと感じていました。

月曜日のYoshi原作翼の折れた天使たち 第1夜『衝動』(リンク先はフジTV)を見て、その理由に気づきました(以下、ネタばれ注意)。

石原さとみさん演ずる主人公ユリは親の愛情を感じられず、手首を切ったことがあり、ビルからの飛び降りを何度も試みています。そこに現れた裕紀。この青年は白血病でしたが、どうせ無駄だと薬物療法を避けていました。

命を大事にするように諭す裕紀は、逆にユリに言われます。

「神さまに恥ずかしくないぐらい、精一杯生きているの!」

このひと言で、裕紀は薬物療法を決意します。そんなことも知らないユリは、愛情表現の方法を知らない親の言葉に傷ついて、自殺しようと再びビルの屋上に昇ります。病室から見ていた裕紀はユリを救いますが、その直後にユリの目の前で倒れてしまいます。裕紀は亡くなりましたが、ユリはようやく現実に向かい合うようになります。

このドラマ、心療内科に通っているユリが、そんなに簡単に前向きになれるのかとも思いました。しかし、その理由を考えると、昔の私に近いような気がしました。

まず、こう考えました。裕紀が死を目の前にしても頑張った。それを知ったユリは自分の苦しみなど大したことはない、と思ったのではないかと考えました。しかし、これは納得できません。身体の病気と、心の病気、どちらが苦しいかなんて、本人でもわからないですよね。

そこで思い出したのが、北原怜子著「蟻の街の子供たち」に出てきたお話です。ある集落に住む貧しい家族は、家も職も失い心中することを決意していたそうです。そして、子供たちの最期の思い出にと隅田川のボートに乗りました。大はしゃぎの子供たちをみて、殺すことが忍びないと奥さんが思っていると、目の前に墨田公園の集落に立ち並ぶ掘立小屋が目に入ったそうです。

「ああやって立派に生きぬいている人が、あるじゃありませんか。私たちだって、死んだ気になれば、なんとか立ち直ることができるでしょう」

奥さんがそう言って、ご主人に取りすがったというお話です。

この奥さん、子供がかわいそうだという気持ちももちろんあったでしょうけど、目の前の人たちに共感したんだと思います。それまで自分達だけが苦しいと思っていたのに、同じように苦しんでいる人が他にもいる。苦しいのは自分だけじゃないんだ。と、思ったのではないでしょうか。

はじめに書いたドラマのユリも同じように自分ほど苦しい人間はいないと感じていたのではないでしょうか。そして裕紀のことを知って、苦しいのは自分だけじゃないと感じたと思います。同じ苦しみを感じている人を知ることで、苦しみが軽くなったと思います。

そこまで考えて、ようやくわかりました。キリストの受難、特に遠藤周作さんの描くキリストは、惨めです。弟子に裏切られただけでなく、理解さえもしてもらえなかったのです。私は、キリストの姿を見て苦しみが和らいでいたのです。

それは他の不幸なお話でも良かったかもしれません。でも、キリストは単に不幸なだけではありません。人々を救おうと十字架にかかったのです。もちろん、私のためだけではないですが、私のためにも十字架にかけられたのです。

それは、私が神さまを知る2000年前に用意されていました。まさに「神がまずわたしたちを愛してくださった」(一ヨハネ4・19)のです。

もし、あなたが苦しみを抱えているなら、遠藤周作著「キリストの誕生」をぜひ読んでください。苦しみがすこし軽くなるかもしれません。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/02/11

私がイエスを神とする理由

mixiのとあるコミュで書いたコメント(いわゆる使い回し)です(一部修正)。

私が洗礼を受けたのは、キリスト教が煩悩を捨てるのではなく、それを受け入れ、ゆるしてくれるからだと思います。

仕事がうまくいかずに苦しんでいたときに父親が亡くなって、まず、家の宗派(仏教)の本を読みました。確かに良いお話が書かれていたのですが、なにかピンとこない、自分とは関係がないような感じがありました。

そのころ妻が教会に通いだしていて、私が死んだときの葬儀が仏式だと気持ちが入らないと言いましたので、少しぐらいは読んでおこうかと本を読みました。昔、エッセイを読んでいた遠藤周作の入門書「私のイエス」を読みました。そして、引き込まれるように「イエスの生涯」「キリストの誕生」を読みました。そして、それまでの苦しみから逃れることができました。

仕事がうまくいかないのは自分にも責任があると、うすうす感じながらも、認めることができませんでしたが、「キリストの誕生」を読んでようやく認めることができたのです。

人々に見捨てられ、弟子にも裏切られ、十字架を背負ったイエスは、最期の時も人々のゆるしを父に願い、共に処刑された犯罪者も救いました。

良いところも、悪いところもすべて受けとめて、ゆるしてくださる、その完全な姿は弟子たちの心に残り、神として復活しました。それまで使徒たちは、イエスの教えを理解できませんでしたが、キリストの復活後、教えを積極的に広めるようになりました。

使徒たちと同じように、私はイエスの姿によって、自分の傲慢さに気づかされました。

イエスが神であるというのは、キリスト教の定義する神であるということです。その定義をアーメン(そのとおり、その通りでありますように)と思えるかどうかだと思います。私は遠藤周作の現実的な解釈によって救われ、聖書を読んでニケア・コンスタンチノープル信条をアーメンと思うようになりました。もちろん聖書は誰が読んでも良いことが書かれていると思いますが、救いを求める気持ちがあるからこそ、聖書の言葉に救われるのだと思います。

たしかに信仰はタイミングだと思います。学生のころに私が遠藤周作を好きだったこと、妻がカトリックの学校を出たこと、父が亡くなったこと、他にも色々な偶然がありました。その偶然を神様のしるし、すべて良いことだと思うことが回心たと思います。現実に苦しむよりも神の愛を感じて幸せに生きたい、それが私がイエスを神とする理由です。

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2006/10/12

10年後に復活した遠藤周作

先月の29日で遠藤周作さんが亡くなられて十年になりましたが、遠藤周作さんの未発表の新作が発売されました。その名も

十頁だけ読んでごらんなさい。十頁たって飽いたらこの本を捨てて下さって宜しい。

まるで、バナナの叩き売りのようなタイトルです。この本は、狐狸庵山人シリーズのさきがけのような本です。手紙の書きかたについて遠藤周作が語りかけます。普通のタイトルを付けるなら「手紙を書くときのちょっとしたこと」とでも言うべき内容です。

本文には、遠藤周作さんらしい楽しい語り口で、手紙を書く際に考えるべきことが書かれています。さらに、病人と苦しみを分かち合う話など、相手のことを思いやる遠藤周作さんの優しさがあふれています。

この本は、昭和35年に遠藤周作さんが結核で入院された際に、家族の生活を思って書かれたそうです。しかし、出版社の労働争議の影響もあってか、原稿が行方不明になってしまいました。それが、今になって見つかり、急遽、出版されることになりました。

2度目の入院中で、精神的にもつらい中、なんとか売れる本にするために、これまでに得た技術や、のちに書かれた他の本に書かれている内容も織り込まれています。まさにバナナのたたき売りです。きっと、どなたでも楽しく読めると思います。

しかし、最も感動的なのは、あとがきです。遠藤周作さんの昔話やイメージがあふれていて、今もそこに遠藤さんがいるかのように感じます。遠藤周作さんは、キリストの復活を、残った弟子たちの心の中に復活したと書かれていました。そして、遠藤周作さん自身も帰天10年目にして復活されたようです。

最後に、あとがきから少し引用させていただきます。

本書を読み終えて、遠藤氏が晩年、敬愛していたマザー・テレサの「神は私たちが小さいことに大きな愛をこめて行うようにと創られました。たいせつなのは、どれだけたくさんのことや偉大なことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです」という言葉が私には思い起こされた。本書は手紙の書き方を語りながら、実は人生に本当に大切なことは何かを教えてくれているのではなかろうか。

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2006/10/09

落ちそうなサンダルと蜘蛛の糸

カトリック吹田教会の聖堂内右側には絶えざる御助けの聖母がありました。このイコンに描かれたイエスさまのサンダルは紐一本で繋がれて、今にも落ちかけています。

レデンプトール会の説明によると、この落ちそうなサンダルは、

かろうじてイエスの足にぶら下がっているサンダルは、私たちの魂の象徴です。これはたった一本の紐でもよいから、キリストにつながれていれば必ず救われるということを表しています。

と説明されています。これを読んで、なんとなく芥川龍之介の「蜘蛛の糸」(リンク先は青空文庫)を思い出しました。

「蜘蛛の糸」はお釈迦さまが、地獄に落ちた泥棒を救おうとされるお話です。極悪な泥棒でしたが、一度だけ蜘蛛の命を助けた事がありました。このことを思い出されたお釈迦様が蜘蛛の糸で泥棒を助けてやろうとします。蜘蛛の糸でこの泥棒が逃げ出そうとすると、下から他の悪人たちが同じように上ってきます。泥棒は、これに気づいて、この糸は俺のものだから他の罪人は降りるように叫ぶと、糸がぷつりと切れました。

善い行いをした人であっても、自分だけが救われれば良いという業(ごう)にとらわれた考えを持っていると救われない。人としてどうあるべきかを考えさせる作品です。

その目指すところはキリスト教とよく似ていますね。しかし、よく読むとキリスト教では考えにくいところがあります。一つは信仰義認(リンク先はWikipedia)でないこと。もちろん、善い行いは重要ですが、そこには信仰が必要です。罪を痛悔し、心を改めて、神を信じて、祈ることが必要です。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(ルカ18・17)のです。

また、一生の中の思ったことがあるのではなく、最期の瞬間に良い心でなければいけません。罪を重ねるのではなく、日々の罪をゆるしていただきながら、その時を待つのです。「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マルコ13・33) と言われています。

最後に、蜘蛛の糸は切れましたが、人と神さまとのつながりは切れません。人が切ったと思っていても、実は抱きかかえられている。そんな「足跡」(リンク先はMAGIS)のような優しさをキリスト教に感じています。

とはいうものの、遠藤周作の「深い河」にあるように、他の宗教の中にも神の姿を見ることもあります。ただ、私を、やさしく、強く、いつであろうと抱きしめて下さるのは、イエス・キリストだと思っています。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/09/17

あの方

先日の詩「あの方と共に」を書いた背景をお話します。
洗礼を受けて一番最初に驚いたのは、聖体拝領の際に言う「アーメン」でした。ミサの中で何度も言うこのことばは、「その通り」とか「そうなりますように」という意味ですが、聖体拝領では、神父様あるいは奉仕者が「キリストのからだ」と言われた後に、「アーメン」と言って御聖体を受け取ります。

つまり、イエス様が「わたしの体である」と言われた(リンク先はMAGIS)ように、御聖体はパンでなくキリストのからだであると認めるのです。あるいは「そうなりますように」と祈るのです。そして、キリストのように生きられますようにと願うのです。

いつかそのことを書こうと思っていたところ、「まず、力を抜くこと」や「しみじみ教」で紹介した晴佐久神父の「星言葉」(女子パウロ会)のあとがきに、こんな文章を見つけました。

ぼくは、カトリックの神父である。当然、神を信じている。

しかし、神ということばには人それぞれのさまざまな宗教的イメージがつきまとっているために、ぼくが幼いころから慕い、親しんでいる「あのおかた」をいい表すのにはふさわしくないと、いつも感じている。

この星を生み育て、今も創造し続けている、いのちの源。このぼくを生み育て、今も愛しているまことの親。それを安易にひとこと「神」と呼んでしまうのでは、そのすばらしさをみんなと分かち合えないような気がする。

この部分に衝撃を受けました。遠藤周作が深い河でキリスト教を嫌う友人のために「玉ねぎ」と呼び、私がよく分からない詩に書いた「あの方」を、晴佐久神父は、安易に呼べないとされているのです。十戒の第二戒である「神の名をみだりにかたってはいけない」が思い出されました。

しかし、晴佐久神父は十戒に定められているからではなく、神を信じ、神を敬い、神を愛すからこそ安易に「神」とは言えないのです。そうです。「星言葉」には、神の愛が満ち溢れていますが、神とは書かれていません。だからこそ、余計に神の愛を感じるのです。

ということで、聖体拝領での思いは「あの方」しか表せないと思い、詩にしてみました。

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2006/08/22

キリストの恵み

キリスト教は御利益(ごりやく)宗教ではありません。壺やお守りを買ったからといって願いがかなうわけではありません。

自分が幸せであると気づくこと、自分が傲慢であると気づくこと、それがキリスト教の恵みだと思います。

私の好きな「神がまずわたしたちを愛してくださった」(一ヨハネ4・19)言葉は、どんな苦境であっても、実はそれは幸せな状況であり、傲慢な自分の心が苦境だと思わせているかもしれないことを考えさせます。神に祈り続けたとき、本当の幸せが見えてくることもあります。

また、それは私たちが成長するために与えられた試練かもしれません。乗り越えられる試練だからこそ与えられているのかもしれません。すべてのこだわりや迷いをゆだねたときに安らぎが得られるのかもしれません。

こんな風に思うのは、私の信仰が強いからではありません。キリストが神かと聞かれたら、そう信じる、そう思いたい、とは言えても、間違いなくそうであるとは言えません。

でも、ひとつだけ確かなことは、人々を救おうとしたナザレのイエスは、人々にも、弟子にも裏切られましたが、恨み言のも言わず、人々のために祈って亡くなりました。

それは、愚かな行為かもしれません。逃げることも、言い逃れることもできたでしょう。でも、ちょっと考えてみてください。今感じている苦しみは、そんなに大きなものでしょうか?すべてを捨て誰かのために尽くしているでしょうか?

遠藤周作の「私のイエス」「イエスの生涯」は、惨めなイエスを描いています。本当の思いを理解されず、裏切られた人間イエスです。そして「キリストの誕生」では裏切った弟子たちの思いが描かれています。イエスの思いを理解せず、裏切ってしまった弟子たちの苦悩が描かれています。

愛を感じずに、自分の側からだけ考えて、怒り、悲しむことは、この弟子たちに似ています。私の思いは、そんなものではない、そうせざるを得ない、悪いのは私ではない、そう思うことは人間のサガです。でも、それがあるべき姿ではありません。

弟子たちは、イエスを失ってようやく気づきました。イエスが自分たちを愛してくださったこと、イエスの教えたかった愛が何であるか、自分たちはすでに幸せだったこと、抱いていた不満が傲慢であったこと。

そして、彼らはそれこそ神の愛であり、絶対的な愛を示してくださったイエスこそ、救世主キリストであると確信するようになりました。

どうしても怒りが抑えられないとき、人生がイヤになったとき、自分はなんとダメなんだと思ったとき、上記の遠藤周作の本を読んでみてはいかがでしょうか?

簡単に言ってしまうと、ポジティブに考えるということに過ぎないかもしれません。しかし、深い苦しみや悲しみに出会ったときは、絶対的な愛に出会うことが必要になると思います。それこそがキリストの恵みだと思います。

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2006/05/27

やすらぎへの道-気づきによって「真実の私」になる-

以前紹介した月刊『カトリック生活』に柳田神父が連載されている「日常に響く霊性を求めて」、その29回「不条理と神の愛(5)」を読みました。

この記事で述べられているのは、上座仏教の瞑想を修めた井上ウィマラさんの説明にヒントを得て

「エゴの私」は本当の自分以外のものを自分とみなしてしまうが、私たちが目覚めるべき「真実の私」は本来何ものでもなく「神の愛に満たされた無」である

というイメージを、大空と雲にたとえられています。真実の私は大空のように「透き通っていて静々しく、また穏やかで自由そのもの」とされています。そして「心に生じてくる怒りや悲しみ、不安やイライラ、有頂天や満足などの感情、またやるせなさやわびしさなどの気分、さらに思い込みや決めつけなど、こころの落ち着きや自由を奪ってしまう動きを、大空に湧き上がってくる雲」とされています。

この雲をうまくやり過ごすことができれば、本来の自分を取り戻せます。しかし、エゴの根本にある執着から、「雲に捉われ、それを自分とみなしてしまうことが無意識のうちに生じて」しまいます。そして「自由は奪われ、穏やかな心を取り去ってしまいます」

ここで、2つのことが言われています。一つ目は、素早く雲の存在に気づくために大空から雲を見つめるようにすることです。湧き出したばかりの小さな怒りの雲に素早く気づいてやり過ごします。怒りから離れて絶えず自分を大空に戻すことができれば、どんな雲や嵐(エゴの私)であっても、より大きい大空(真実の私)で包むことできます。そして、怒りと一つになることを避けることができます。

二つ目は、こんな感情(怒りなど)を起こしてはいけないと考えないことです。悪い感情を持った自分を否定的に見てしまうからです。心の中に生じた怒りをあるがままに見つめて、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ」(マタイ5・45)る神の心、すなわち内なる心に対して、「敵を愛しなさい」に象徴される隣人愛によって雲を取り除きます。

この雲に気づかせるもの、それは光です。暗闇の中では、雲と空の区別がつきません。心の中に神の光をあてることで、雲を雲として見分けることができます。

私にとってのキリスト教は、この光のイメージそのものです。かつて、仕事がどうもうまくいかないとき、問題のある人に目が向いてしまいました。そして、その人の責任だという憎しみに捕らえられ、心の中には真っ暗な嵐が吹き荒れていました。そして、苦しみの中でしだいに嵐は大きくなり、その状況を放置する周囲の人にまで怒りを感じてしまいました。心の中は、もう台風のような暴風雨でした。

そんな中でめぐり合った遠藤周作の「キリストの誕生」は、心の中に優しい光を差し込みました。そう、まさに雲の切れ目からさしてきた光でした。本を読み終えたとき、暴風雨の中で固く縮まっていた心に、急に何か光のようなものが入ってきて、幸福感と共に心が緊張から開放されました。

現実的に考えると、感動でドーパミンが活発になって、光のようなイメージを感じたのだと思います。しかし、それは普通の感動とは違う、暖かく力強い何かを感じました。私はこれを聖霊に満たされたと勝手に思っています。

キリストの恵みには様々なものがあると思います。しかし、「エゴの私」に捉われていた私に光を射し、「真実の私」によってそれをやさしく包み込むことができた、すなわち、心の自由が得られたことは、何物にも変えがたい恵みだと思っています。

この光に向かって進むこと、それが私にとっての「やすらぎへの道」なのです。

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2006/05/23

イエス・キリストは愛の神

キリスト教に少し興味をもたれた方へ。
イエス・キリストの生涯は、信じられない奇跡を起こした話ばかりではありません(その奇跡も、遠藤周作は現実的に語っています)。

イエス・キリストの生涯でもっとも大きな奇跡は、弟子である12使徒の活躍です。イエスが十字架にかけられるまで救世主とはどういう意味かを12使徒は理解していませんでした。弟子たちはイエスに命を捧げるといいながら、敵が攻めてくるとイエスを見棄てて逃げ出しました。しかし、イエスが十字架にかけられたあと、いくじなしの弟子たちはその意味を理解します。そして、まるで別人のように強い意志を持って、イエス・キリストの教えを世界に広げました。これこそまさに奇跡です。

イエス・キリストの言われる救世主というのは、原罪からの開放、心の自由と平安の獲得です。人は様々な出来事に、怒り、憎しみ、悲しみ、苦しみます。その理由の多くは、自己中心的な思いや考え、つまり「業」です。神の愛を信じ、その愛に生きることができるならば、業から開放され、真の心の自由が得られ、心に平安が訪れます。

このイエスの考えは、弟子たちは理解していませんでした。当時のユダヤで考えられていた救世主は、ローマと戦ってユダヤの国家をつくる人だと思われていたからです。弟子たちはエルサレムに入城し、最後の晩餐を迎えるときまで新体制について話していたほどわかっていませんでした。

もちろんユダヤの人々にも理解されていませんでした。奇跡を起こせば、人々は救世主だと言って集まります。そして、イエスがその平和主義的な考えをのべるとと、人々は離れていきました。そして、常に行動を共にしてその様子を見ていた12使徒であっても、イエスの考えを理解しませんでした。

弟子たちはイエスを理解していないだけでなく、いざと言うときにも裏切りました。しかし、イエスは彼らをゆるし、彼らを救うために自らの命を捨てられました。弟子たちの多くは保身のため処刑場に行きませんでしたが、処刑場でイエスが弟子たちにどんな悪口を言うかが気がかりでした。しかし、イエスは十字架にかかりながらも、決して弟子たちを悪く言いませんでした。

それだけではありません。十字架にかけた人々のゆるしを父なる神に請い、最期に神を賛美して亡くなられたのです。

イエスが何も悪口を言わないばかりか、人々のゆるしを乞った話を聞いて、イエスを裏切った弟子たちは、ようやくイエスの考えに気づきます。かれらの保身そのものが業にとらわれたものであり、イエスはその罪をも背負われたのです。イエスは、神の愛、完全なる愛を自身で示されたのです。そして、深い愛を知った弟子たちは、イエスこそ心の自由を与える唯一の神、キリストであると確信するのです。

このイエス・キリストが絶対的な愛を示されたことは、キリスト者にとって非常に重要です。ついつい業にとらわれがちな私たちが、イエス・キリストを思い浮かべることで、自身の罪深さを思い知らされるのです。そして、神の哀れみやゆるしを請う気持ちになるのです。

キリスト者は、神の道に生きることが求められます。しかし、それは容易なことではありません。人生にはさまざまな誘惑があり、それが業であるとわかっていても捨てられません。そこで、神にゆるしを請い、キリストの体といただき、少しでも神に近づこうとするのです。

私にとってのキリスト教は、このような「神の愛、愛の神」です。

参考文献:
遠藤周作著「キリストの誕生」「私のイエス」「イエスの生涯」「私にとって神とは」

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2006/04/25

お祈りはキリストとの闘い

このブログで何度か取り上げた遠藤周作沈黙(1回目2回目3回目4回目5回目ポエム)ですが、遠藤周作著「「深い河」をさぐる」には、ジョンストン神父が英訳された「沈黙」を読んだアメリカの修道女からの手紙が紹介されています。

その手紙によると「沈黙」はお祈りの本だそうです。この女性によると、祈りとはキリストとの闘いで、ペトロはイエスを拒み、トマス、マグラダのマリア、パウロにもあり、そして最後にキリストの前にひざまづいた。それがお祈りの生活で、「沈黙」の主人公ロドリゴは最後まで信仰があった。そして、キリストとの闘いもあった。と書かれていたようです。

確かに、この世的なことでキリストから離れ、苦しみ、ゆだねる(Commitment to Jesus Christ)と言うのは祈りの形のひとつだと思います。

さて、最近を振り返ってみると、奥村一郎著『祈り』(その1その2)を読んでいたら、勉強会もテーマが祈りになって(その1その2その3)、人間にとっての宗教の話だと思っていた「「深い河」をさぐる」でも「祈り」の話になって、お導きと言うか、大いなる意思というか、この本の表現だと「集合的無意識」を感じています。

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2006/03/23

遠藤周作「深い河」

この本は遠藤周作の宗教観が詰まっています。この小説では、様々な人物がそれぞれの思いを抱いて、ガンジス河のほとりに向かいます。それぞれの人物の経緯とインドでの経験の中で、カトリックのクリスチャンである遠藤周作の宗教観が述べられています。

別の本で、厳しい自然からユダヤ教がうまれ、ナザレの恵まれた自然からキリスト教が生まれたと述べていた遠藤周作は、この本ではガンジス河を題材に宗教観を展開します。友人の井上洋治神父の留学生活や日本におけるキリスト教の考え方をも踏まえたその内容は、純文学でありながら従来の遠藤周作のキリスト教の書籍を超えた宗教性を持っています。

従来から遠藤周作の言っているキリストの復活の解釈を、この本のテーマのひとつである転生として語っています。

神やキリストという言葉を聞きたがらない友人に、神父でありながらヒンズー教の人々を助けている登場人物は、キリストを玉ねぎと称して

「玉ねぎが殺された時」
(中略)
「玉ねぎの愛とその意味とが、生き延びた弟子たちにやっとわかったんです。弟子たちは一人残らず玉ねぎを見棄てて生き延びたのですから。裏切られても玉ねぎは愛し続けました。だから彼ら一人一人のうしろめたい心に玉ねぎの存在が刻みこまれ、忘れられぬ存在になっていったのです。弟子たちは玉ねぎの生涯の話をするために遠い国に出かけました」
(中略)
「以来、玉ねぎは彼等の心のなかに生きつづけました。玉ねぎは死にました。でも弟子たちのなかに転生したのです」

さらに、神がすべてのものを包み込む存在であることを以下のように述べています。

「神とはあなたたちのように人間の外にあって、仰ぎ見るものではないと思います。それは人間の中にあって、しかも人間を包み、樹を包み、草花をも包む、あの大きな力です」

「神は色々な顔を持っておられる。ヨーロッパの教会やチャペルだけでなく、ユダヤ教徒にも仏教の信徒の中にもヒンズー教徒の信者にも神はおられると思います」

そしてガンジス河からも神の愛を語ります。

「ガンジス河を見るたび、ぼくは玉ねぎを考えます。ガンジス河は指の腐った手を差し出す物乞いの女も殺されたガンジー首相も同じように拒まず一人一人の灰をのみこんで流れていきます。玉ねぎという愛の河はどんな醜い人間もどんなよごれた人間もすべて拒まず受け入れて流れます」

そして、ガンジー語録集からすべての宗教に関して以下の引用をしています。

「私はヒンズー教徒として本能的にすべての宗教が多かれ少なかれ真実であると思う。すべての宗教は同じ神から発している。しかしどの宗教も不完全である。なぜならそれらは不完全な人間によって我々に伝えられてきたからだ」

この引用には、強い信仰を持つ遠藤周作が、人の心を描く作家として他の宗教をどう考えているかが表れています。

上に引用したように神父に玉ねぎと言わせた、愛を感じることのできない登場人物がガンジス河に沐浴する際には、人が宗教を信じる背景を語らせます。

「しんじられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です」
(中略)
「その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い河の苦しみ。そのなかにわたくしもまじっています」

どろどろの苦しみや悲しみをすべて受け止めてくれる神と、それに身をゆだねる人間の関係を、暗くよどみ、死者の灰も流れているガンジス河に入る人間の心から描いていると思います。

最後にマザー・テレサの「死を待つ人の家」を作った修道女たちが、行き倒れの人を介抱する姿に対する質問で、人にとって信仰とは何かを示します。

「何のために、そんなことを、なさっているのですか」
「それしか・・・・・この世界で信じられるものがありませんもの。わたしたちは」

純文学として描きながらも、遠藤周作の宗教観がふんだんに盛り込まれた「深い河」は、キリスト教信者だけでなく、あらゆる読者に神の存在を感じさせるような作品だと思います。そして、その背景には、遠藤周作の神への強い信仰と深い愛を感じました。

(ある程度遠藤周作や井上神父の作品を知っていると、より深く楽しめると思います)

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2006/01/28

遠藤周作「海と毒薬」

人は弱いものですね。悪いことをしてしまったとき、わるいなぁとは思っても、本当に反省しているのか自分でも分からなくなるときがあります。

あなたが電車の席に座っていると、おばあさんが乗ってきます。席を譲ろうかと考えるものの、タイミングを逃して譲り損ねます。おばあさんの背中を見ながら後悔するものの、他の人が席を譲ったり、次の駅でおばあさんが降りた瞬間に、反省のかけらも残っていません。

身の回りに幸せそうな人がいます。うらやましかったり、ねたましかったり、思っています。その人にちょっと不幸なことが置きました。あなたは「かわいそうに」と思えますか?それとも「ざまあみろ」ですか?

こんなことは、どこにでもあるかもしれません。でもそれが、人の命にかかわることだったらどうですか?戦争中で、誰もがいつどこで死んでもおかしくない時代に、いつしか逆らいがたい立場にいて、実験のために人を殺す。あなたは反省できますか?

キリスト教入門講座でよく聞くことばで、「人はついつい罪を犯してしまう」と言う言葉があります。それが人間であり、だからこそ、キリストへの信仰が必要だと思います。

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2006/01/12

遠藤周作恐るべし

そう、遠藤周作は作家だった。ついついそれを忘れていました。安岡章太郎氏によると、遠藤周作の兄は優等生だったので、不必要に劣等生ぶるところがあったそうです。この記述を読んでから、遠藤周作に「やられた!」と思う様になりました。

遠藤周作には「イエス巡礼」というキリスト教絵画によってイエスの生涯をたどる本があります。この本は、イエスの生涯のエッセンスにキリストの誕生のさわりを加えたような本ですが、「イエスの生涯」とはどうも雰囲気が違います。確かに書いているイエスの解釈にさほど違いはないのですが、イエスの生涯のような過激さがなく、せいぜい復活は蘇生でないとしている程度です。

最近知ったのですが、「イエスの生涯」というのは、フランソワ・モーリヤックが人間イエスを書いた小説のタイトルでもあるようです。わざわざ同じ名前を使っているところがまず怪しい。しかも、遠藤周作の「イエスの生涯」の最後には、これがすべてではないとしています。

「私にとって神とは」を読むと、なんどか信仰を捨てかけたが捨てられなかったこと、聖書学の成果によって、聖書に書かれたイエスの言葉に、本当の言葉でないものが含まれるていると知ったときにショックを受けたこと、そのショックを聖書作家の思いを考えることで、信仰を失わなかったこと、が書かれています。

以前、読んだときは「それで、こういう考え方をしたんだ」と思いましたが、どうもそれだけではないと思います。遠藤周作が悩んだとき、どうしても捨てられないもの、捨てられないものの説明として成り立つもの、それ以外、に分けたうえで、捨てられないものの説明として成り立つものを小説にまとめたのではないでしょうか?

つまり、遠藤周作は捨てられないもの、すなわち、神の愛、愛の神が訴えたかった。そのときに遠藤周作がどのように考えているかは置いておき、場合によってはそれまでの言葉の定義を変えてでも、その説明として成り立つもので表現した、と思います。

実は以前から、遠藤周作の本には不明な記述がありました。奇跡について現実的な説明をしておきながら、最後に奇跡があったことも否定できない様なことが書かれているのです。特にルルドの泉に関しては奇跡が確認されていると説明しています。昔はこれを他の信者への心遣いかと思っていました。

遠藤周作の立場になって考えてみると、遠藤周作は神を信じていたが、それを失う危機があった。今までの考えをリセットし、少なくとも信仰を失わない理屈を考えた。でも、その理屈が絶対かどうか、それ以外の解釈が正しいかは気にしない。いずれにせよ信仰が維持できることが大事だった。ということなのかと思います。

そして、遠藤周作は作家です。信者でない人にも説明できる理屈を考えたのですから、人に伝えたくて仕方ありません。理屈を理論に化粧直しして、伝えたいこと(神の愛、愛の神)を中心に話を展開したのだとおもいます。

私が遠藤周作に「やられた!」と思うのは、こういったところです。遠藤周作は深い信仰があったが、そのすべては作品に書いていない。遠藤周作の考えのうち、合理的に説明できるところだけ作品にし、合理的なものだけだよという意味で、名前を「イエスの生涯」とした、そんな気がしています。そんな遠藤周作の作品によって、私は、導かれ、気づいたら、合理的に説明できる世界から抜け出して、信仰が深まっていました。「遠藤周作恐るべし」そんな気がしています。

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2006/01/11

我等なぜいま宗教を問うのか-人が神になってはいけない-

安岡章太郎氏と井上洋治神父の「我等なぜキリスト教徒となりし乎(か)」より(その3)。
この本はキリスト教の普及を目指していると思いますが、その背景に、故遠藤周作と共に社会的な危機を乗り切りたい、そんな気持ちを感じました。

この本が出版された1999年は破防法適用を逃れたオーム真理教が布教活動を強化したため、団体規制法・被害者救済法が成立した年です。松本サリン事件が94年、麻原被告の裁判が96年からですから、まだ事件の余韻が残っているころです。

著者らが信じているカトリックでなくとも(もちろんカトリックが良いと思われているのですが)、他にもまともな宗教はあっただろうに。そんな気持ちが感じられます。あの事件は、宗教に無関心な若者が増える中で、図らずも宗教の必要性を社会に示しました。

遠藤周作は熱心な信者でしたが、キリスト教をもっと日本人にあったものに仕立て直しました。聖書だけでなく、歴史や聖書学に関するものも調べ、事実といえないものはそう認めたうえで、聖書作家の伝えたい事、すなわち信者にとっての真実をもとにイエス・キリストを描きました。発表当初は批判を受けたものの、その努力は徐々に実を結んでいたようです。

しかし、あの事件は遠藤周作やその友人だった著者らに大きなショックを与えたに違いありません。なぜ、そこに我々が関与できなかったのか、そんな気持ちが感じられます。遠藤周作の著作では、「宗教は人を助けるものではないのか?」という問いに対して、「(キリスト教に関する戦争は)信者(という人)がやったことで宗教がやったものではない」としていました。しかし、この本ではそのことには触れずに、遠藤周作よりもさらに踏み込んだ意見が書かれています。概要をまとめると

宗教は深層意識に根ざしている人間の行き方なので、なるほどそうですかとはならない。「自分が真理なら他は間違いである」という考えに陥りやすい。真理と誤謬という2分法ではなく「相手を尊敬する」ことで解決の糸口は見つかる。しかし、もっと深刻で厄介なのが、宗教の対立の前に、民族の対立が先行している場合である。イングランドとアイルランドの場合は、やられている方はやっつけているものとは、違った宗教で対抗したいという思いが、生存本能の根幹で働いている。

ローマカトリックとギリシャ正教の考え方の違いは、その根っこに言語の違いがあり、やり合っていた。自分たちの考えを基準にスタンダードをにして、相手のスタンダードを認めるという共生以外にはない。

宗教は無我であるべきだが、宗派が排他性を持つはいたらないところがあって「我」が露出しているからである。宗教は潜在意識、深層意識に根ざしているので、止めようとしても止まらない。この欲求をうまくリードしていかなければ、これからも色々な宗教が次から次へと登場するだろう。いずれにしろ、宗教は自由に入ったり、出たりできる自由が重要である。

自分が生きているというよりも何か大きなものに生かされている、それが仏教にもキリスト教にも共通の宗教感覚である。しかし、今の世の中にあるのは人間中心主義の考え方である。パウロの書簡にある決定的な人間の罪とはただ一つ「自分で自分の義を立てる」(ローマ10・3)ことで、人間が神の座につくこと、それこそが大罪である。

と述べられています。

思えば、宗教と関わるきっかけが少ないのですよね。私も妻が興味を持っていたから、遠藤周作の本を読んだわけで、そうでなければ今の私はないでしょう。町を歩いていると、新宗教のほうが頑張って勧誘していますから、投網にかかる人も多いのでしょう。変な運動をして新宗教と同一視されても困りますので、せめて興味をもたれた方がやめてしまわないように情報発信していきたいと思っています。

すでに売り切れのお店が多いですが、livedoorブックスで新品を売っているようです(本当に在庫があるかは未確認)。

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2006/01/09

遠藤周作はイエス像を「沈黙」で本来の形に戻した

安岡章太郎氏と井上洋治神父の「我等なぜキリスト教徒となりし乎(か)」より(その2)。
この二人の対談は実質的に故遠藤周作との鼎談(ていだん)で、遠藤を語りつつ、キリスト教のあり方を考えさせてくれますてくれます。

遠藤周作の「沈黙」が発表されたとき、

  • 思想的には疑問が残る
  • 神の声がきこえないということは、信仰がないということである
  • 殉教者たちには神の声を聞いたが、フェレイラやロドリゴには、沈黙していたということは、この二人の(廃教した)司祭ははじめから信仰を持っていなかったのではないだろうか
  • 作品そのもののなかでも神は沈黙しているかのようだ

と「遠藤にも信仰がないということである」とでも言いたいような批判を受けたようです。

安岡章太郎氏はこれに対して、司祭には神の声が届かなかったが、信仰がなかったわけではなく、声がきこえることと信仰の問題とは別であるとしています。

一方、井上洋治神父は「一番問題になったのは、やはりロドリゴが踏み絵を前にしたときにイエスが、踏むがいい、といったところでした」と当時の状況を述べ、「棄教していいなどとイエスに言わせるのは論外である」という聖職者や信者の意見に、『ルカによる福音書」22章でペトロが3度イエスを知らないと言ったときに、イエスは振り向いてペトロをじっと見つめられた。そのまなざしが、踏み絵を踏もうとした時のロドリゴ神父を見つめたイエスのまなざしであるとされています。

イエスはペトロに対して言動を予告するも、それを止めもせず、怒りもせずに許しており、そのような弱者の行為を許すイエスを描いているということです。井上神父によれば、ヨーロッパのキリスト教というのは旧約聖書と新約聖書の非連続性を少しあいまいにしてきたので、どうしても旧約に縛られて、裏切りなどという行為が許せないとされています。

西アジアに起源のあるキリスト教がヨーロッパに渡って、教えそのものが叱咤激励型になってしまい、殉教者を賛美し、そうでない人間をだめな弱者として裁いていくようになった。本来のイエスの教えは、母性原理に基づく、すべてを許し、愛を与えるものに他ならない。遠藤周作の「沈黙」は、本来のイエス像に戻したとされています。

それゆえに、すでに変容しているイエス像を本当のイエスの姿と信仰している人から、反発をうけた。最初は大変な風当たりだったが、少しずつ受け入れられるようになり、今ではかなり認められている。といわれています。

殉教は賛美すべき行為だと思います。しかし、遠藤周作や井上神父が生きられた戦時中はキリストを信じているものが、天皇陛下万歳と言わされた時代です。その時代に二重生活で苦しんだ信者の方々を、神は許してくださっていると思います。これは、同様の二重生活をしている我々サラリー(ウー)マンのキリスト教信者もおなじでしょう。

ちなみに、井上神父は「旧約聖書から脱皮を」と提唱されて朝日新聞に記事が書かれる(リンク先は今を生きることば)など、少々過激ではありますが、仏教の教えとの関連からキリスト教を説明されるなど、いかにキリスト教を日本に根付かせるか、尽力されている方だと思います。

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2006/01/08

原罪と狩猟民族

安岡章太郎氏と井上洋治神父の「我等なぜキリスト教徒となりし乎(か)」より。
この本は『「敬虔なキリスト教徒」の皆さんから眉をしかめられていて、なおかつイエス・キリストへの信仰心は敬虔な人以上に大変あつい「不良信徒」の遠藤周作』と縁のあった二人が、故遠藤周作との思い出を織り交ぜながらキリスト教を語っています。

この中で遠藤周作の代父で洗礼を受けた安岡章太郎氏はキリスト教の難しいところとして「復活」と「原罪」をあげています。復活に関しては、以前ここにも書いた遠藤周作の解釈である「キリストが弟子たちの心に復活した」としています(これを井上神父は、もっと深く、認識の場の象徴としての「からだ」であり、神の懐によみがえる、つまり神の記憶に残ることであるとしています)。

気になったのは原罪の解釈です。安岡氏はアメリカでの経験から遊牧民族が食物を得るために、いつも動物を殺していること、つまり羊を屠殺して生贄を供える儀式と関係していると考えられたようです。しかし、井上神父いわく、原罪は「業」で人間の醜さ、人間の闇の深さとされます。それによって安岡氏は、また考え込んでしまうと書かれています。

安岡氏は「業」を意識的なものと考えているので、混乱しているんだと思います。意識せず、知らず知らずのうちに犯してしまう「罪」、それが「業」であり、原罪だと思います。生きていくための当たり前の行為としての屠殺は、人が生きているとついつい犯してしまう罪に似ていると思います。

(注:この本はすでに完売しているようで、古本でないと入手できません。私はアマゾンのマーケットプレイスで入手しました)

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2005/11/19

あなたは踏み絵が踏めますか?

16世紀にキリスト教徒が弾圧されていたころ、キリストを刻んだ踏み絵によって、キリシタンの判別が行われました。踏み絵を踏まないものは邪教徒として、断罪されるのです。

遠藤周作沈黙を読んでいると、唯物論的な神への信仰によって踏めないようにも読めます