私にとって神とは - 遠藤作品について -
この辺で遠藤周作さんの作品について、考えを述べておこうと思います。
遠藤周作さんは信仰を捨てようとしたことがあります。でも、捨てられなかった。これってすごいことだと思います。捨てようとするには、それなりの思いがあったはずです。信仰を持っていた自分をやめ、信仰のない自分にしようというのですから、よほどの思いがあったのだと思います。
しかし遠藤氏にとって信仰は、やめようという強い想いよりもさらに大事なものだったのです。「これは困ったことだ」と思われたでしょう。
こんな遠藤氏は「深い河」に出てくる神父に似ています。すべての被造物に神を感じた神父は、汎神論的だとされて教会を去ります。しかし、彼は信仰を捨てることができず、ガンジス川に向かう途中で生き倒れになった人を看取るという、愛の実践を行うようになります。
遠藤氏はキリスト教を仕立て直したなどと気取って書いていますが、その実は必死だったと思います。自分が捨てられない神の姿を聖書や書籍に求め、ようやく自分をクリスチャンだと言えるキリスト像を見つけたのだと思います。
遠藤氏がなぜ信仰を捨てようとしたのかはわかりません。しかし、当時のキリスト教に対する意見を読むと、想像はつきます。遠藤氏が捨てようとしたキリスト教は、エリートやハイソサエティという言葉がふさわしい人の宗教、凛とした、厳しい宗教でした。そこでは、どんな時も救ってくださる神ではなく、律法的な厳格な神の姿がありました。
青年時代にフランスに留学した遠藤氏は、厳しいカトリック教会に明治時代の文学者の作り上げた厳格なキリスト教を見たのだと思います。それは、遠藤氏にとって信仰とは何かを考えさせるきっかけになったでしょう。
「ルーアンの丘」に留学の後期に書いた日記が載っています。私はそのテレビ番組を見ました。留学生活半ばで結核にかかり入院、そして大学を卒業しないまま帰国します。その最後にフランソワーズという女性が出てきます。
このときの結核は帰国後も遠藤氏を襲います。死を目前にした病床で、遠藤氏と関わり人生が変わった人のことを思い出したということが、別の本に書かれています。それはこのフランソワーズだと思います。フランソワーズとは帰国の際に別れたはずだったのですが、後に日本に遠藤氏を追いかけてきたようです。でも、一緒にはなれませんでした。
死を目前にして遠藤氏は自分は救われないと思ったでしょう。このときも、もしかすると棄教も考えたかもしれません。
しかし、看護師の手を通して、神は遠藤氏に救いを与えました。死の恐怖の中で絶望を感じ、どうしようもない自分と理想の自分とのギャップによる苦しみが、彼に追い打ちをかけたのです。しかし、苦しむ遠藤氏の手をそっと握ってくれる看護師の手に安らぎを感じました。そして、どんなにダメな自分であっても救いをもたらす神を感じたのです。
遠藤氏は明治時代の厳格なものでなく、カジュアルなキリスト教と書かれていますが、その信仰は軽いものではありません。捨てかけていた信仰ではなく、遠藤氏を救った捨てられない信仰を育てたものだからです。
たぶん遠藤氏は、必死になって文献を読み、新しい信仰を築いたのだと思います。玉ねぎの皮を剥くように、これまでの信仰の殻を一枚ずつ剥いでいくと、目に見えない愛という神との関係のみが残ったのだと思います。そして、最後に残った辛子種のような愛を中心に信仰を築いたのでしょう。
遠藤氏の書籍は神学ではありません。もちろん、神学的なことに触れたり、神学について語ったりしていますが、それは遠藤氏が自身の信仰を語っているだけです。
わたしはこんな遠藤氏、すなわち自分の中の神の姿を、自分の能力を生かして語る姿を素晴らしいと思います。プロテスタントは万人司祭と言って、聖書の解釈は昔から自由とされてきました。これに対してカトリックは、聖書を翻訳しないことなどによって聖書解釈を聖職者が独占していました。
第2バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」にこんな言葉が書かれています。「人間は皆、適当な手段によって、賢明に、自分の良心の正しい、そして真の判断を形成するために、宗教に関する真理を探究する義務と権利を持っている」(第2バチカン公会議公文書全集, p.244, 南山大学監修)。この公会議以降、カトリックは変わりました。
私の好きな教会の集いに、聖書の分かち合いがあります。翻訳された聖書を読み、自由に語り合います。神さまとの出会いが人それぞれであるように、信仰も人それぞれです。たまには、何気ない一言で傷つけたり、傷つけられたりしますが、最後には神さまの大きな恵みが感じられます。
遠藤氏の作品は、神を愛する一人の人間として、本や雑誌を通して分かち合いをしているのだと思います。理論による神でなく、人を介した思いによって福音を広げているのです。これは、私がインターネットを介して分かち合いをしているのと同じです。
自ら「沈黙」のキチジローだという遠藤氏の作品は、私の心にとても響きます。そして、私はこう思うのです。
良く生きるためだけに神がいるのではなく、生きる勇気を与えるためにこそ神がいる
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