2010/12/27

ヨブ記を書く - 瀬戸内寂聴さんの語る遠藤周作さん -

NHKこだわり人物伝で、瀬戸内寂聴さんが遠藤周作さんのことを語られました。遠藤さんに神父を紹介されながらも仏門に入った寂聴さんを、何も言わずに受け入れられたそうです。

そんな寂聴さんが奥様から聞かれた話として、死への不安を抱える遠藤周作さんのことを語られました。

70歳で長時間の手術を受け、術後の苦しみの中で、遠藤周作さんはこう言われたそうです。

「ただ、ただ、一生懸命に小説を書いていただけだ。それなのにどうして神様はこんなつらい病気をを与えたのだろう」

妻の順子さんはこういわれたそうです。

「ヨブを見て御覧なさい。神様はあなたにヨブを書かせるためにこの病気を与えたかもしれない。」

ヨブというのは信仰のあついヨブのことが書かれたヨブ記のことで、何度も苦しい目に合いながらも、神への信仰を貫いたことで知られています。遠藤さんはそう言われて

「そうか、呼ぶがあった。俺は、これからヨブを書くぞ!」

と言われ、元気になられたそうです。ヨブ記で元気になる遠藤さんの信仰もすごいですが、慰めたりせずに前向きにならせた奥さんもすごいですね。寂聴さんは最後にこう言われました。

「結局それは書けませんでしたけどね。」

これは事実ですが、真実は違うと思います。遠藤周作は復活を人の心の中に死んだ人が生き返ることだと言っていました。遠藤周作さんはヨブ記を書くことはできませんでしたが、寂聴さんの心の中にヨブ記を書いたのだと思います。そして遠藤さんは、それを聞いた人たちの心の中に永遠に生き続けているのだと思います。

人生にはいろいろな苦しみがあります。時には耐え難いことも起こります。私には遠藤周作さんのような立派な証を残せないかもしれません。でも、自分なりのヨブ記をただ、ただ一生懸命に書くことが、私なりの証なのだと思いました。

<')))><

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/06/14

私にとって神とは - 遠藤作品について -

この辺で遠藤周作さんの作品について、考えを述べておこうと思います。

遠藤周作さんは信仰を捨てようとしたことがあります。でも、捨てられなかった。これってすごいことだと思います。捨てようとするには、それなりの思いがあったはずです。信仰を持っていた自分をやめ、信仰のない自分にしようというのですから、よほどの思いがあったのだと思います。

しかし遠藤氏にとって信仰は、やめようという強い想いよりもさらに大事なものだったのです。「これは困ったことだ」と思われたでしょう。

こんな遠藤氏は「深い河」に出てくる神父に似ています。すべての被造物に神を感じた神父は、汎神論的だとされて教会を去ります。しかし、彼は信仰を捨てることができず、ガンジス川に向かう途中で生き倒れになった人を看取るという、愛の実践を行うようになります。

遠藤氏はキリスト教を仕立て直したなどと気取って書いていますが、その実は必死だったと思います。自分が捨てられない神の姿を聖書や書籍に求め、ようやく自分をクリスチャンだと言えるキリスト像を見つけたのだと思います。

遠藤氏がなぜ信仰を捨てようとしたのかはわかりません。しかし、当時のキリスト教に対する意見を読むと、想像はつきます。遠藤氏が捨てようとしたキリスト教は、エリートやハイソサエティという言葉がふさわしい人の宗教、凛とした、厳しい宗教でした。そこでは、どんな時も救ってくださる神ではなく、律法的な厳格な神の姿がありました。

青年時代にフランスに留学した遠藤氏は、厳しいカトリック教会に明治時代の文学者の作り上げた厳格なキリスト教を見たのだと思います。それは、遠藤氏にとって信仰とは何かを考えさせるきっかけになったでしょう。

「ルーアンの丘」に留学の後期に書いた日記が載っています。私はそのテレビ番組を見ました。留学生活半ばで結核にかかり入院、そして大学を卒業しないまま帰国します。その最後にフランソワーズという女性が出てきます。

このときの結核は帰国後も遠藤氏を襲います。死を目前にした病床で、遠藤氏と関わり人生が変わった人のことを思い出したということが、別の本に書かれています。それはこのフランソワーズだと思います。フランソワーズとは帰国の際に別れたはずだったのですが、後に日本に遠藤氏を追いかけてきたようです。でも、一緒にはなれませんでした。

死を目前にして遠藤氏は自分は救われないと思ったでしょう。このときも、もしかすると棄教も考えたかもしれません。

しかし、看護師の手を通して、神は遠藤氏に救いを与えました。死の恐怖の中で絶望を感じ、どうしようもない自分と理想の自分とのギャップによる苦しみが、彼に追い打ちをかけたのです。しかし、苦しむ遠藤氏の手をそっと握ってくれる看護師の手に安らぎを感じました。そして、どんなにダメな自分であっても救いをもたらす神を感じたのです。

遠藤氏は明治時代の厳格なものでなく、カジュアルなキリスト教と書かれていますが、その信仰は軽いものではありません。捨てかけていた信仰ではなく、遠藤氏を救った捨てられない信仰を育てたものだからです。

たぶん遠藤氏は、必死になって文献を読み、新しい信仰を築いたのだと思います。玉ねぎの皮を剥くように、これまでの信仰の殻を一枚ずつ剥いでいくと、目に見えない愛という神との関係のみが残ったのだと思います。そして、最後に残った辛子種のような愛を中心に信仰を築いたのでしょう。

遠藤氏の書籍は神学ではありません。もちろん、神学的なことに触れたり、神学について語ったりしていますが、それは遠藤氏が自身の信仰を語っているだけです。

わたしはこんな遠藤氏、すなわち自分の中の神の姿を、自分の能力を生かして語る姿を素晴らしいと思います。プロテスタントは万人司祭と言って、聖書の解釈は昔から自由とされてきました。これに対してカトリックは、聖書を翻訳しないことなどによって聖書解釈を聖職者が独占していました。

第2バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」にこんな言葉が書かれています。「人間は皆、適当な手段によって、賢明に、自分の良心の正しい、そして真の判断を形成するために、宗教に関する真理を探究する義務と権利を持っている」(第2バチカン公会議公文書全集, p.244, 南山大学監修)。この公会議以降、カトリックは変わりました。

私の好きな教会の集いに、聖書の分かち合いがあります。翻訳された聖書を読み、自由に語り合います。神さまとの出会いが人それぞれであるように、信仰も人それぞれです。たまには、何気ない一言で傷つけたり、傷つけられたりしますが、最後には神さまの大きな恵みが感じられます。

遠藤氏の作品は、神を愛する一人の人間として、本や雑誌を通して分かち合いをしているのだと思います。理論による神でなく、人を介した思いによって福音を広げているのです。これは、私がインターネットを介して分かち合いをしているのと同じです。

自ら「沈黙」のキチジローだという遠藤氏の作品は、私の心にとても響きます。そして、私はこう思うのです。

良く生きるためだけに神がいるのではなく、生きる勇気を与えるためにこそ神がいる

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/10/25

冷静に見ていなかった - 働きマン -

このブログを書き始めて2年(と1ヶ月)になります。そのきっかけを何度か書きましたが、どことなく納得していないものがありました。それが先週のTVドラマ「働きマン(リンク先は公式サイト)」をなにげなく見ていてようやくわかりました。

「働きマン」はどことなく「アリーmyラブ(リンク先はFOX)」をほうふつさせるような働く女性のお話です。菅野美穂さん演ずる松方は「働きマン」になって一生懸命に働きますが、人とぶつかってばかりいます。一方、釈由美子さん演ずる野川は、女性らしくうまくやって仕事をこなしています。そんな野川を松方は批判的に見ます。

一見、ちやほやされているように見える野川ですが、実は陰で人並み以上に努力していました。そのことを知った松方は

「人のせいにして、努力していなかった」

と、反省します。ふたりはようやく打ち解けたとき、野川は自分のことを振り返って、自分の過去を振り返って、こう言います。

「ぶつかってばかりいて、冷静に見ていなかった」

この言葉は考えさせられます。努力するだけではだめなんですよね。

人は客観的・合理的に物事を考えているつもりでも、いつのまにか感情にとらわれてしまいます。推論に過ぎないことを「そうに違いない!」などと思い込み、自分で自分を追い込んでしまいます。

「働きマン」の松方は頑張ることが必要だと、思い込んでいるんですよね。でも、頑張るだけではだめなんです。いくら頑張ったってダメなときはダメ、どうにもならない。そこで、どんなに頑張ってもどうにもなりません。思い込みをやめて、冷静に物事をとらえないとだめなんですよね。

私が信仰の道に入ったのは、こんなことが原因だったと思います。遠藤周作さんの「イエスの生涯」「キリストの誕生」を読んで、今までの自分が傲慢であったことに気付きました。そこには「自分の苦労なんて大したことはない」「自分の一方的な見方だった」という2つの思いがありました。

「自分の苦労なんて大したことはない」というのは、イエスさまの受難との比較です。人類を救うための運命とはいえ、誰にも理解されないまま、十字架にかかられました。その苦しみを考えれば、どんな苦労も大したことはありません。それをこの世の終わりのように、誰かに怒ったり、自分を責めたりすることはないのです。

「自分の一方的な見方だった」というのは、遠藤周作さんの著作ならではの恵みだったと思います。捕えられたイエスさまの身を案じつつも自身の安全を考え、十字架に架けられたときにも自分たちのことを何と言われるかを心配する。誰しもの心にある暗い部分を持つ弟子たちと、それをわかった上で愛されたイエスさまとの対比は、自分の考えが一方的であることに気づかせてくれました。

そんな弟子たちにも3日後に変化がおこりました。心の中にイエスさまが復活し、弱虫だった弟子たちが、死をも恐れぬ使徒に生まれ変わります。それこそ、奇跡というべき変化です。そのような変化は、聖書では聖霊降臨まで間となっていますが、遠藤さんはしばらくかかったと書かれています。

ここのところは、あまりよくわかっていなかったのですが、最近、何となくわかるようになりました。私は、遠藤さんの本でキリストに出会い、復活と聖霊降臨のような衝撃を受けたつもりでした。しかし、私の実態は、たいして変わっていないのですよね。

少しずつ、少しずつ、あっちに行ったり、こっちに行ったり、苦しんだり、悲しんだり、そして喜びを感じながら、神様に近づいていくのでしょうね。苦しみもいつか恵みと感じられると信じて、批判せず、怒らずに、しみじみとやっていこうと思います。

色々なことがありましたが、いや、色々なことがあったからこそ、神さまのご計画に感謝しています。

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/10/14

神の似姿 - 聖フランシスコ「太陽の賛歌」 -

神の似姿というと(創世記1・26)で

神にかたどって創造された(日本聖書協会 新共同訳)

とされる人間のことが思い浮かびます。この表現、以前から違和感がありました。ギリシャ神話か日本神話にあるような、多神教的なイメージを抱いてしまったり、進化した宇宙人が遺伝子操作で作りだすといったSF的なイメージを抱いてしまいます。

このようなイメージは多神教的です。Good News Collectionにあるように神様が唯一絶対でないと、欠点をイメージしてしまい、どうもいけません。では、この「似姿」とはなにか?それが以前からの疑問でした。

川下勝著「アッシジのフランチェスコ」(清水書院、pp.167-172)に「太陽の賛歌」(リンク先はLaudate)が載っています。この太陽の賛歌はGood News Collectionにあるように、晩年の聖フランシスコが「死」というものを「姉妹」として讃えている点が特徴的です。この賛歌の中にも「似姿」という言葉が出てきます。

太陽は美しく、
  偉大な光彩を放って輝き、
  いと高いお方よ、
  あなたの似姿を宿しています。

これには衝撃を受けました。「太陽が似姿を宿している」という神って何なのでしょう。内部で核融合を起こしている「光源」や「熱源」あるいは「磁気嵐」が神だというのでしょうか?きっと、そんな物理的なことは決して表していないのでしょう。すると、何だというのでしょうね。

色々と思いを巡らしていると、ある言葉が思い浮かびました。

「神は愛」

すなわち、「似姿」とは、愛を実体化したものと考えることにしたのです。

神を信じるというのは、この世の出来事は偶然ではなく、完成に向けた神のご計画によるものであるとすることです。世の中を科学的にどんどん分解していけばいくほど、よくできていることがわかってくるといいます。最先端の科学者は神の姿を感じるといいます。

陽子の周りを電子がまわって原子になり、原子が集まり分子になり、分子が集まって物質ができ、色々な物質があつまって星になり、そして大きな星を小さな星が回ってまるで原子のように惑星系や恒星系になっています。すべてのことがよくできているのです。

私が生まれたことも、妻と結婚したことも、父が亡くなったことも、遠藤周作に出会ったことも、洗礼を受けたことも、すべてのことに意味があり、すべては良い方向に向かっているのです。

すべての物が被造物で、被造物は神の愛を実体化しているのです。

鳥や自然を愛した聖フランシスコは、すべての被造物に、いや、死をも含めたすべてのものに、愛そのものである神を感じていたのでしょう。

(この記事を考えているうちに、遠藤周作さんの「深い河」に出てくる神父さまは、聖フランシスコがモチーフなのではないかと思うようになりました)

<')))><

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/04/29

「世界像の危機」と「わたしにとって」

この「私にとって」という言葉、最近、気になっていました。実は、この言葉はすごく哲学的なのです。

知り合いに、とあることのお礼にと西研著「大人のための哲学授業―「世界と自分」をもっと深く知るために」(大和書房,2002)(リンク先はアマゾン)をいただきました。哲学の本なんて、生まれてはじめて10年ほど前に読もうとしたある本で挫折して以来です。ちょっと変わったお礼ですが、せっかくいただいたので読んでみると、この本は楽しく読めました。

この本は哲学とは何かを述べています。哲学の必要性を述べるべく最初のところで「世界像の危機」という言葉が出てきます。この本の著者や私の若かったころは「“後発近代”的世界像」というものがありました。日本は欧米に劣っているから、追いつけ追い越せ、頑張れば幸せになれる、そんなだれしもが抱く物語ともいえる世界像が、いまは解体しているんですよね。

しかし、今なら普通にしていても、だれもが学校で学べ、仕事があり、ほどほどの生活ができます。生きる意味とか、やりがいとか、ついつい見失ってしまいそうな、そんな時代だからこそ、哲学が必要だとこの本は言っています。

この本では、哲学は世界像とそれをつくりだして生きている人間について考える学問で、

「哲学とは、理詰めで考えを述べ合うことによって、お互いに考えを普遍性のあるものに鍛えていこうとする、一種のゲームである」

とされています。絶対的なものはないから、みんなで合意をとれるような考え方を求めているのです。前半では哲学の外観が語られ、後半では世界像を変えた近代学問から始まり、デカルト、ヒューム、カント、フッサール、ハイデガーが説明されています。

近代哲学には、主観的事実と客観的事実の問題(主客一致の問題)があるそうです。自分があるから世界があるのか、世界があるから自分があるのか、ということです。カント以前はこれが「わたしにとって」のイギリス経験論と、「それ自体として」大陸合理論に分かれていました。これを、カントは「物自体」は認識できず、主観に現れた「現象」のしか認識できない、つまり客観性は意識の内部にあるとしました(説明が悪くてすみません。本には詳しく書かれています)。

近代は現代の日本と同じように、(教会中心だった)世界像が壊れた時代でした。科学の進歩によって、それまでの世界像が崩れた世界において、ある時は哲学者は神の存在を証明し、カントは存在することも存在しないことも証明できないとしました(そして、現代になってニーチェが神様に甘えるなという意味での言葉「神は死んだ」に至ります)。結局、現代のように目標をを失いがちな世の中にあっては、絶対の真理は確信できず、普遍的な「私にとって」の世界像を考えるということになります。

中世や昭和のように安定した世界像を誰もが受け入れられた時代は幸せだったかもしれません。でも、いまや世界像は崩壊し、個人個人が世界像を作り上げなくてはならなくなりました。上記の本は、そこで哲学が必要だとしていますが、それはとても厳しい道です。どんなに頑張っても、お金、地位、エゴといった現代的な世界像、すなわち原罪に負けそうになるからです。

私はもう、あの苦しい時に戻りたくありません。神様に救われた経験を元に、自分の世界像を作りたいと思います。

遠藤周作さんは「私にとって神とは」という本で、キリスト教を自分に合うように仕立て直しました。これは遠藤さんだけの問題でなく、現代に生きる私たちも自分の世界とキリスト教の整合性を取ることは大きな問題なのだと思います。それぞれの人生の経験をもとに、生きる力となるような「神」を認識することが必要になるのです。

しかし、「私にとって」という言葉は、客観的に見ていないという面あります。真実を知らず、自分の思いだけで神さまを見てしまう可能性もあります。キリスト教を正しく理解したうえで、自分の世界像への取り込みが必要になるのでしょう。

遠藤さんが言われるように100%の信仰というのはなく、信仰は90%あるいは99%の疑いと、少しの希望だと思います。それは、最後には神様がついている、乗り越えられない試練はない、というもっとも重要な希望なのだと思います。その一点だけを守ることができれば、主の平和が訪れると信じています。

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/03/01

苦しいのは自分だけじゃない - キリストに救われた理由 -

これまで、なぜ教会に通うようになったかを聞かれたとき、「遠藤周作の『キリストの誕生』でキリストの受難を知り、自分の苦しみなどは大したことがないと思い、頑張ろうと思った」と言っていました。でも、なにか違うと感じていました。

月曜日のYoshi原作翼の折れた天使たち 第1夜『衝動』(リンク先はフジTV)を見て、その理由に気づきました(以下、ネタばれ注意)。

石原さとみさん演ずる主人公ユリは親の愛情を感じられず、手首を切ったことがあり、ビルからの飛び降りを何度も試みています。そこに現れた裕紀。この青年は白血病でしたが、どうせ無駄だと薬物療法を避けていました。

命を大事にするように諭す裕紀は、逆にユリに言われます。

「神さまに恥ずかしくないぐらい、精一杯生きているの!」

このひと言で、裕紀は薬物療法を決意します。そんなことも知らないユリは、愛情表現の方法を知らない親の言葉に傷ついて、自殺しようと再びビルの屋上に昇ります。病室から見ていた裕紀はユリを救いますが、その直後にユリの目の前で倒れてしまいます。裕紀は亡くなりましたが、ユリはようやく現実に向かい合うようになります。

このドラマ、心療内科に通っているユリが、そんなに簡単に前向きになれるのかとも思いました。しかし、その理由を考えると、昔の私に近いような気がしました。

まず、こう考えました。裕紀が死を目の前にしても頑張った。それを知ったユリは自分の苦しみなど大したことはない、と思ったのではないかと考えました。しかし、これは納得できません。身体の病気と、心の病気、どちらが苦しいかなんて、本人でもわからないですよね。

そこで思い出したのが、北原怜子著「蟻の街の子供たち」に出てきたお話です。ある集落に住む貧しい家族は、家も職も失い心中することを決意していたそうです。そして、子供たちの最期の思い出にと隅田川のボートに乗りました。大はしゃぎの子供たちをみて、殺すことが忍びないと奥さんが思っていると、目の前に墨田公園の集落に立ち並ぶ掘立小屋が目に入ったそうです。

「ああやって立派に生きぬいている人が、あるじゃありませんか。私たちだって、死んだ気になれば、なんとか立ち直ることができるでしょう」

奥さんがそう言って、ご主人に取りすがったというお話です。

この奥さん、子供がかわいそうだという気持ちももちろんあったでしょうけど、目の前の人たちに共感したんだと思います。それまで自分達だけが苦しいと思っていたのに、同じように苦しんでいる人が他にもいる。苦しいのは自分だけじゃないんだ。と、思ったのではないでしょうか。

はじめに書いたドラマのユリも同じように自分ほど苦しい人間はいないと感じていたのではないでしょうか。そして裕紀のことを知って、苦しいのは自分だけじゃないと感じたと思います。同じ苦しみを感じている人を知ることで、苦しみが軽くなったと思います。

そこまで考えて、ようやくわかりました。キリストの受難、特に遠藤周作さんの描くキリストは、惨めです。弟子に裏切られただけでなく、理解さえもしてもらえなかったのです。私は、キリストの姿を見て苦しみが和らいでいたのです。

それは他の不幸なお話でも良かったかもしれません。でも、キリストは単に不幸なだけではありません。人々を救おうと十字架にかかったのです。もちろん、私のためだけではないですが、私のためにも十字架にかけられたのです。

それは、私が神さまを知る2000年前に用意されていました。まさに「神がまずわたしたちを愛してくださった」(一ヨハネ4・19)のです。

もし、あなたが苦しみを抱えているなら、遠藤周作著「キリストの誕生」をぜひ読んでください。苦しみがすこし軽くなるかもしれません。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/02/11

私がイエスを神とする理由

mixiのとあるコミュで書いたコメント(いわゆる使い回し)です(一部修正)。

私が洗礼を受けたのは、キリスト教が煩悩を捨てるのではなく、それを受け入れ、ゆるしてくれるからだと思います。

仕事がうまくいかずに苦しんでいたときに父親が亡くなって、まず、家の宗派(仏教)の本を読みました。確かに良いお話が書かれていたのですが、なにかピンとこない、自分とは関係がないような感じがありました。

そのころ妻が教会に通いだしていて、私が死んだときの葬儀が仏式だと気持ちが入らないと言いましたので、少しぐらいは読んでおこうかと本を読みました。昔、エッセイを読んでいた遠藤周作の入門書「私のイエス」を読みました。そして、引き込まれるように「イエスの生涯」「キリストの誕生」を読みました。そして、それまでの苦しみから逃れることができました。

仕事がうまくいかないのは自分にも責任があると、うすうす感じながらも、認めることができませんでしたが、「キリストの誕生」を読んでようやく認めることができたのです。

人々に見捨てられ、弟子にも裏切られ、十字架を背負ったイエスは、最期の時も人々のゆるしを父に願い、共に処刑された犯罪者も救いました。

良いところも、悪いところもすべて受けとめて、ゆるしてくださる、その完全な姿は弟子たちの心に残り、神として復活しました。それまで使徒たちは、イエスの教えを理解できませんでしたが、キリストの復活後、教えを積極的に広めるようになりました。

使徒たちと同じように、私はイエスの姿によって、自分の傲慢さに気づかされました。

イエスが神であるというのは、キリスト教の定義する神であるということです。その定義をアーメン(そのとおり、その通りでありますように)と思えるかどうかだと思います。私は遠藤周作の現実的な解釈によって救われ、聖書を読んでニケア・コンスタンチノープル信条をアーメンと思うようになりました。もちろん聖書は誰が読んでも良いことが書かれていると思いますが、救いを求める気持ちがあるからこそ、聖書の言葉に救われるのだと思います。

たしかに信仰はタイミングだと思います。学生のころに私が遠藤周作を好きだったこと、妻がカトリックの学校を出たこと、父が亡くなったこと、他にも色々な偶然がありました。その偶然を神様のしるし、すべて良いことだと思うことが回心たと思います。現実に苦しむよりも神の愛を感じて幸せに生きたい、それが私がイエスを神とする理由です。

<')))><

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2006/10/12

10年後に復活した遠藤周作

先月の29日で遠藤周作さんが亡くなられて十年になりましたが、遠藤周作さんの未発表の新作が発売されました。その名も

十頁だけ読んでごらんなさい。十頁たって飽いたらこの本を捨てて下さって宜しい。

まるで、バナナの叩き売りのようなタイトルです。この本は、狐狸庵山人シリーズのさきがけのような本です。手紙の書きかたについて遠藤周作が語りかけます。普通のタイトルを付けるなら「手紙を書くときのちょっとしたこと」とでも言うべき内容です。

本文には、遠藤周作さんらしい楽しい語り口で、手紙を書く際に考えるべきことが書かれています。さらに、病人と苦しみを分かち合う話など、相手のことを思いやる遠藤周作さんの優しさがあふれています。

この本は、昭和35年に遠藤周作さんが結核で入院された際に、家族の生活を思って書かれたそうです。しかし、出版社の労働争議の影響もあってか、原稿が行方不明になってしまいました。それが、今になって見つかり、急遽、出版されることになりました。

2度目の入院中で、精神的にもつらい中、なんとか売れる本にするために、これまでに得た技術や、のちに書かれた他の本に書かれている内容も織り込まれています。まさにバナナのたたき売りです。きっと、どなたでも楽しく読めると思います。

しかし、最も感動的なのは、あとがきです。遠藤周作さんの昔話やイメージがあふれていて、今もそこに遠藤さんがいるかのように感じます。遠藤周作さんは、キリストの復活を、残った弟子たちの心の中に復活したと書かれていました。そして、遠藤周作さん自身も帰天10年目にして復活されたようです。

最後に、あとがきから少し引用させていただきます。

本書を読み終えて、遠藤氏が晩年、敬愛していたマザー・テレサの「神は私たちが小さいことに大きな愛をこめて行うようにと創られました。たいせつなのは、どれだけたくさんのことや偉大なことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです」という言葉が私には思い起こされた。本書は手紙の書き方を語りながら、実は人生に本当に大切なことは何かを教えてくれているのではなかろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/10/09

落ちそうなサンダルと蜘蛛の糸

カトリック吹田教会の聖堂内右側には絶えざる御助けの聖母がありました。このイコンに描かれたイエスさまのサンダルは紐一本で繋がれて、今にも落ちかけています。

レデンプトール会の説明によると、この落ちそうなサンダルは、

かろうじてイエスの足にぶら下がっているサンダルは、私たちの魂の象徴です。これはたった一本の紐でもよいから、キリストにつながれていれば必ず救われるということを表しています。

と説明されています。これを読んで、なんとなく芥川龍之介の「蜘蛛の糸」(リンク先は青空文庫)を思い出しました。

「蜘蛛の糸」はお釈迦さまが、地獄に落ちた泥棒を救おうとされるお話です。極悪な泥棒でしたが、一度だけ蜘蛛の命を助けた事がありました。このことを思い出されたお釈迦様が蜘蛛の糸で泥棒を助けてやろうとします。蜘蛛の糸でこの泥棒が逃げ出そうとすると、下から他の悪人たちが同じように上ってきます。泥棒は、これに気づいて、この糸は俺のものだから他の罪人は降りるように叫ぶと、糸がぷつりと切れました。

善い行いをした人であっても、自分だけが救われれば良いという業(ごう)にとらわれた考えを持っていると救われない。人としてどうあるべきかを考えさせる作品です。

その目指すところはキリスト教とよく似ていますね。しかし、よく読むとキリスト教では考えにくいところがあります。一つは信仰義認(リンク先はWikipedia)でないこと。もちろん、善い行いは重要ですが、そこには信仰が必要です。罪を痛悔し、心を改めて、神を信じて、祈ることが必要です。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(ルカ18・17)のです。

また、一生の中の思ったことがあるのではなく、最期の瞬間に良い心でなければいけません。罪を重ねるのではなく、日々の罪をゆるしていただきながら、その時を待つのです。「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マルコ13・33) と言われています。

最後に、蜘蛛の糸は切れましたが、人と神さまとのつながりは切れません。人が切ったと思っていても、実は抱きかかえられている。そんな「足跡」(リンク先はMAGIS)のような優しさをキリスト教に感じています。

とはいうものの、遠藤周作の「深い河」にあるように、他の宗教の中にも神の姿を見ることもあります。ただ、私を、やさしく、強く、いつであろうと抱きしめて下さるのは、イエス・キリストだと思っています。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/09/17

あの方

先日の詩「あの方と共に」を書いた背景をお話します。
洗礼を受けて一番最初に驚いたのは、聖体拝領の際に言う「アーメン」でした。ミサの中で何度も言うこのことばは、「その通り」とか「そうなりますように」という意味ですが、聖体拝領では、神父様あるいは奉仕者が「キリストのからだ」と言われた後に、「アーメン」と言って御聖体を受け取ります。

つまり、イエス様が「わたしの体である」と言われた(リンク先はMAGIS)ように、御聖体はパンでなくキリストのからだであると認めるのです。あるいは「そうなりますように」と祈るのです。そして、キリストのように生きられますようにと願うのです。

いつかそのことを書こうと思っていたところ、「まず、力を抜くこと」や「しみじみ教」で紹介した晴佐久神父の「星言葉」(女子パウロ会)のあとがきに、こんな文章を見つけました。

ぼくは、カトリックの神父である。当然、神を信じている。

しかし、神ということばには人それぞれのさまざまな宗教的イメージがつきまとっているために、ぼくが幼いころから慕い、親しんでいる「あのおかた」をいい表すのにはふさわしくないと、いつも感じている。

この星を生み育て、今も創造し続けている、いのちの源。このぼくを生み育て、今も愛しているまことの親。それを安易にひとこと「神」と呼んでしまうのでは、そのすばらしさをみんなと分かち合えないような気がする。

この部分に衝撃を受けました。遠藤周作が深い河でキリスト教を嫌う友人のために「玉ねぎ」と呼び、私がよく分からない詩に書いた「あの方」を、晴佐久神父は、安易に呼べないとされているのです。十戒の第二戒である「神の名をみだりにかたってはいけない」が思い出されました。

しかし、晴佐久神父は十戒に定められているからではなく、神を信じ、神を敬い、神を愛すからこそ安易に「神」とは言えないのです。そうです。「星言葉」には、神の愛が満ち溢れていますが、神とは書かれていません。だからこそ、余計に神の愛を感じるのです。

ということで、聖体拝領での思いは「あの方」しか表せないと思い、詩にしてみました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)