2011/03/21

あなたの神である主を試してはならない

先週は久しぶりに入門講座に顔を出しました。

昨日の福音を分かち合いました。イエス、ペトロ、ヤコブ、ヨハネが山に登ると、イエスの姿が輝いたお話です。このお話は、直前の死と復活の予告に続くもので、モーセとエリアと話すことで、イエスがこれまでの律法と預言を引き継ぎ完成させる預言された救い主であることを示すものです。

イエスは最後に

「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」(マタイ17・9)

と弟子たちに命じられました。これは、神様を試さないためだそうです。イエスは進んで死に、復活を試すことはありませんでした。荒れ野で40日間の断食をされた際にイエスは

『あなたの神である主を試してはならない』(マタイ4・7)

と言われたように、イエスは神を試すことはありませんでした。このお話を聞いて、いままで、うまく説明できなかったあることが説明できるようになりました。それは、死を善とするグノーシス派の解釈で、イエスがユダに

「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(ヨハネ13・27)

と言われたのは、イエスが死をを求めたのだというものです。

荒れ野の話を聞いて、神を試さないイエスが自ら死を求めることはないと思いました。

考えてみると、人間は勝手な思いで、神を信じなかったり、試したりしてしまいます。

最近見た映画「セレンディピティ」は、偶然出会った二人が、再び出会うという偶然を求める映画です。偶然にたよるのでなく、求めなければ願いはかなわないと思いました。そんな感想と共に、そもそも、運命なら再び偶然があるはず、という神様を試す行為が苦労を招いたのではないかとも思いました。

勝手な願いで祈って、それがかなうことをを勝手に期待するのは、神様を試しているように思います。それよりも現状を受け入れて、願いがかなうように努力することがとても大切なのだと思いました。

いま、東日本は大変なことになっています。息子は千葉県の液状化地域にいます。関西にいる私には被災者の方にはもちろんのこと、息子にもほとんど何もできません。祈るしかないのかと思ってしまいます。

しかし、神様を試してはいけないと思います。小さなことでもできることはあるはずです。神様もきっと言われるでしょう。

「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(ヨハネ13・27)

(聖書の引用は日本聖書協会・新共同訳)

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2010/06/24

「よし」

今日は久しぶりに入門講座に参加しました。

神父が多忙なため、みんなで創世記のはじめのところを分かち合いました。聖書の中でも私が好きなところです。何もないところで「光あれ」と栄光を示された後に、世界を順に作られていきます。そして「よし」といわれます。

この「よし」でわかるように、神様は世界を完成に向けて作られました。だから「人生に無駄なものは何もない」ですし、「乗り越えられない試練はない」のです。これは私にとって、とても大切な信仰です。世界が流れていて、誰かが助けてくださるのではなく、世界が完成に向かっていてその中に私の人生があるのです。

そこでは、たとえ苦しい出来事であっても、それには意味があります。いつかそれが役に立つのです。だから乗り越えられない試練もありません。もちろん失敗するかもしれませんが、そのことも私の人生にとっては、大切な出来事なのです。

この「よし」は、ようやくできたときの「よし!」ではないと思います。英会話でこまめに「Good!」とさらりと言うように、「そう、そう、その感じ」「いいぞ、いいそ」のような「よし」だと思います。

私の人生でも、苦しいときもやってきます。でも、へこたれるわけにはいきません。その苦しみには意味があり、喜びにつながるからです。そして、もしどうしようもなく疲れたなら、そっと耳を澄まします。

きっと、「よし!、その感じ、もう少し!」と聞こえるはずです。

神に感謝!

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2009/03/28

人の子が栄光を受ける時

所属教会の入門講座に時々休みながらも3年半ほど通いました。仕事帰りに通っていたのですが、残念ながら4月からは仕事の関係で通えなくなりました。最後の入門講座も、日曜の福音「ギリシア人、イエスに会いに来る/人の子は上げられる(ヨハネ12・20-33)」(リンク先は日本聖書協会、聖書が読めます)を分かち合いました。

この福音には「時」という言葉が何度か出てきます。イエスの3年間の公生活の中で有名なのは、「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・14-20)にある

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)

ということばでしょう。また、「カナでの婚礼」の言葉も有名です。

イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2・4)

日曜の福音では、ついにこの時が近づきます。

イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12・23)

これは、主が上げられ復活される時です。不条理な運命を受け入れることで、永遠の生命に生きる時なのです。

ついに私の時も満ち、入門講座は卒業です。自らの運命を受け入れて社会に派遣されるのです。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/02/19

とらわれびとに解放を告げる

水曜日の入門講座では、カトリックのカテキズム(要理、教理、教えとも言います)を本とDVDで勉強した後に、日曜日の「聖書と典礼」を用いて御言葉を味わいます。

アレルヤ唱は歌わないのですが、ちょっと気になりました。

アレルーヤ♪アレルーヤー♪
貧しい人に福音を とらわれびとに解放を告げるため
神はわたしをつかわされたアレルーヤー♪アレールヤ♪

今日のカテキズムでは罪について学びました。そしてDVDのなかで「愛が平和をもたらす」という話がありました。人は悪いことをすると、心がとらわれて平和でなくなります。ミサの中で「思い、言葉、行い、怠りで」罪を犯したと言いますが、そのような時は荒んで、落ち着きがなく、重く、苦しい状態になります。

逆に良いこと、つまり神さまの思いである愛に従う行いをしたなら、やさしく、穏やかで、明るく、楽しい気持ちになります。愛によって、罪にとらわれた状態から平和な状態に解放されるのです。

日々、いろいろな出来事に心は穏やかでなくなり、ついつい罪を犯しそうになります。しかし、どんな時も神の愛を思い起こし、心の平和を取り戻したいと思います。

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2009/02/04

ミサは参加することに意義がある

ここのところ地区の使徒養成講座に出ています。先日は「目からウロコシリーズ」の来住(きし)神父のお話を伺いました。

お話しの中で最も印象的だったのは「ミサは参加することに意義がある」という言葉でした。「参加することに意義がある」と聞くと、とにかく出れば良いと義務的な感じで考えてしまいます。しかし、近代オリンピックの提唱者であるクーベルダン男爵のこの言葉は、「take a point」つまり、役割を引き受ける、一役買う、という意味だそうです。

ミサに参加するときは、能動的に参加する必要があります。朗読や聖歌などの役を引き受けるだけでなく、会衆の一人として祈りを引き受ける必要があるのです。

昔のミサは背面ミサと言われ、神父が背中を向けていました。会衆の先頭、槍の穂先として神父は父なる神に祈っていたのです。それは今も変わりません。そして、聖霊の交わりの中で、私たちのイエス・キリストによってアーメンと言うように、聖霊と共に、イエス・キリストによって父なる神に祈ります。イエスが父に祈るとき、心を合わせると「父よ」と呼べます。聖霊によらなければ「父よ」と祈れないのです。

ついついミサに義務的に参加しがちです。しかし、積極的にミサという祈りの空間で、父への祈りの役割を担ったなら、きっと素晴らしいミサになるでしょう。自ら進んで準備をし、自らを捧げれば、神との契約は更新され、キリストとの絆はより強くなります。そして、日常生活の中で、キリスト者としての識別と選択の力が与えられるのです。
(後日、「自らを捧げる」について書く予定です)

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2009/01/12

洗礼 - イエスとの出会いと派遣 -

ピンチヒッターの松浦司教による堅信の勉強会の記録です(メモを元に再構成していますので間違いがあれば筆者であるさかばの責任です)。

堅信の勉強会では洗礼のほかいくつかの項目を学びますが、みんな救いというゴールに向かっているという大きな流れの中で理解することが大切です。聖書と言うのは、元々イスラエルの人によって神と人間との関係が書かれたものです。かつてのイスラエルでは神殿に神がいると信じられていました。しかし、侵略されてバビロンに強制的に移住させられてしまいました。

神さまのいると信じていた神殿から離れて、苦しんだイスラエルの人々は過去を振り返りました。そして、自分たちの苦しみがどこから来たのか、それは神が自分たちに与えた罰なのか、あるいは、何か悪い者から来たのか、などと考えました。そこで分かったのは、詩編の8章にあるように私たちが信じる神は、私たちを救おうとする神であったということです。

神は人が苦しむことを望まれません。親が子供を愛するように神は人間を愛されます。親は子を愛しますが、子は親から離れて苦しみ、親はそれを悲しみます。それが聖書の序文である創世記の1章から11章です。これは実際にあった事を書いたのではなく、いろいろな事を信仰の目で書いたものです。

人間は、子供が親から離れるように、自ら神の恵みから出たのです。地獄の表現として炎に焼かれるような描写がありますが、人間は自分から炎にはいったのです。そんな人間の苦しみに対して神は駆け寄ってくれると信じて、人々は救い主を待ちました。

しかし、人々は攻め込んでくる国から自分たちを守るという現世的な救いを考えていたので、救世主が送られるまでに時間がかかりました。救い主は神との距離を近づけるために現れたのです。

救世主であるイエス・キリストは、神と人の間にあった壁を取りました。聖霊降臨は神が地上に来たことを示します。イエスの昇天は、イエスが神の国に戻った事を示すのではなく、神と人の一致を示しています。洗礼は神との壁を取り去ったイエスと一つになることです。神の国への扉を開けるのです。

人に対して心を開くことが、神と一つになることです。神と人の関係は1対1ではありません。神と私(人)、そしてあなた(他の人)で三角形を作っています。人と人が近付けば神との距離も近付きます。そして一つになることができるのです。それが神の国に入ることであり、永遠の命を得ることです。

洗礼は7つの秘跡の一つです。秘跡とは「秘」見えないものが、「跡」見えるしるしになるものです。その秘跡には二つの意味があります。

松浦司教が司祭のころ、教会におられるとある女性が尋ねてきたそうです。その女性は事情があって中絶をしたそうです。本人も納得していたはずでしたが、小さな命を奪った自分には生きている意味がないと自殺しようとしたそうです。中絶は心も身体も傷つけたのです。

その女性は自分の罪がゆるされるかとたずねました。司教は

「人を赦すことができるのは神様だけで私にはわからないが、心の底から悲しみ、苦しんで『ごめんなさい』と言えば、神さまは必ず赦してくださる、そう信じている」

とお話しされたそうです。赦しと言うのは、あった事を無かったことにするのではない。命を、人を大切にする生き方が大切だと説明されると、その女性は少し前向きになったそうです。

ゆるしと言うものは世界にいっぱいあります。秘跡を通じて一歩踏み出すと、イエスと出会えるのです。秘跡の一つ目の意味は「イエスと出会う」という意味です。「洗礼」は、一生イエスと暮らすという意味です。

秘跡の二つ目の意味は「派遣」です。ゆるしてくれる神と出会い、人をゆるせるようになる、受け入れられるようになります。人を大切にすると、人が愛を感じます。それが派遣です。洗礼、堅信、結婚などすべて派遣です。

病者の塗油という秘跡があります。すべての人間が死にますが、死の直前に受けるのが病者の塗油です。信者だけがこの秘跡にあずかれるので、恵みを受けるだけだと思いがちですが、これも派遣です。

人には人間関係など多くの苦しみがありますが、人の苦しみの代表が病気なので、秘跡になっています。病者の塗油は、病人をゆるし、励まします。病者の塗油を受けるとき、隣のベッド人など、すべての人の苦しみと共に恵みを受けたなら、病者の塗油は派遣になります。

秘跡は、キリストと出会うこと、そして派遣されること、その二つの意味があるのです。

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2008/12/05

正義と平和は抱きあう

入門講座では日曜のミサの「聖書と典礼」を用いてみ言葉を味わっています。答唱詩編は詩編85・9-14からでした。この中に

いつくしみとまことはめぐり合い、
正義と平和は抱きあう

という言葉がありました。また、「神は平和を約束される」と書かれた節の解説には、こう書かれています。

旧約聖書における「平和」は単に争いや戦いがない状態を指すのではなく、「欠けるもののない状態」を表す。不正な力によって表面的な平穏さが保たれているような状態は「平和」とは言えない。それゆえ、平和は「正義」と切り離すことができない。

満たされた状態、それが平和なのですね。信仰によって苦しみを耐えるのではなく、苦しみの中でもそれが正義であることを見出して、あるいは正義につながると信じることで満たされる。そのことを神様は約束されているのでしょう。

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2008/11/23

王であるキリスト

King 今日は教会暦の最後の主日である「王であるキリスト」です。ちょっとお疲れ気味なこともあって、自宅に近い王たるキリスト カトリック桂教会でミサに与りました。

カトリック教会の1年は、クリスマス前の「待降節」から始まって、今日の「王であるキリスト」で終わります。「待降節」はキリストの誕生を祝うクリスマスまで、キリストの誕生を待ち望むということで、1年の初めにふさわしいですが、「王であるキリスト」がなぜ最後かはわかっていませんでした。

今日の説教で、キリストが王座に就いたのは十字架にかかられたときだとされて、納得しました。十字架の上に書かれたのは「INRI」(リンク先はWikipedia)すなわち「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」なので、イエスの生涯の最初と最後になっているのですね。

「王であるキリスト」と言っても世俗的な王ではなく、私たちの心を愛で満たす王です。十字架にはりつけられたことを受難と言いますが、キリストは受け身ではありませんでした。処刑を避けることも出来ましたが、逃げませんでした。愛のために十字架にかかったのです。

福音は「すべての民族を裁く」(マタイ25・31-46、リンク先は聖書協会)でした。週末の時にキリストが羊と山羊に分けると言うお話です。入門講座で教わった内容によると、羊は下草しか食べませんが、山羊は畑を荒らしたり、気に登って葉を食べるなど悪さをするようです。そのような知識があると分かりやすいたとえ話なのでしょうね(ちなみに、肉は山羊の方がおいしいそうです)。

週末と言うと怖いイメージがありますが、人に優しくしたことは、神に優しくしたこととして神の国に入れるという、希望のお話です。創世記にアダムが罪を犯して人は死を与えられましたが、キリストは死によって愛の王となり、神の国での永遠の命を与えてくださるのです。

教会暦は受胎告知は神と人間の愛という縦の関係で始まり、人と人との愛という横の関係終わるのです。縦の愛を中心になりがちだった神の教えが、横の愛を大切にしたキリストの教えによって完成したということなのでしょう。

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2008/11/19

持っている人はさらに与えられて豊かになる

日曜日の福音は「タラントンのたとえ」(マタイ25・14-30)でした。すでに何度か取り上げているお話ですが、読むたび、考える旅に新しい発見があります。ぜひ聖書協会の全文を読んでみてください。

主人(神さまのことをたとえている)が旅に出るときに3人の僕(しもべ)にお金を預けます。同じ内容が書かれた「ムナのたとえ」(ルカ19・11-27)では「商売をするように」と言われているので、主人は増やすことを期待していたようです。僕の力(この文脈で行くと商売の能力でしょうか)に合わせて5タラントン、2タラントン、1タラントンが渡されました。

5タラントン渡された僕と2タラントン渡された僕はお金を増やしました。しかし、1タラントンを渡された僕は、主人が厳しい方だから恐ろしくなって地面に埋めていてお金を増やすことができませんでした。主人はそんなことを知っていたのか、銀行に預けた方がよかったのに、と僕の1タラントンを取り上げて暗闇に追い出しました。

このお話には不思議なところがいくつかあります。まず、タラントンとは何か、力とは何か、厳しい主人であることを「知っていたのか」という表現、そして「持っている人はさらに与えられて豊かになる」と言う意味です。

タラントンは当時の貨幣価値で20年分の給料を示すお金の単位です。タレントの語源で、能力とか神さまからの恵みというとらえ方が一般的なようです。「力にあわせて」とありますが、「ムナのたとえ」では同じ額が渡されているので、その人が必要な量だけ、しかも今の貨幣価値で1億円(平均寿命を考えるともっと多いかもしれません)と言うのですから、十分に与えられたのです。

僕たちの力を信じて大金がわたされたのですが、1タラントンを渡された僕は失敗することが怖かったようです。旧約聖書に出てくる神様は、時として残酷です。悪いものを皮膚病にしたり、町を破壊したりしています。僕が「知っていた」というのは、そんな神さまからイメージするような厳しい主人だったのでしょう。

しかし神様は、桂教会で歌われた典礼聖歌183番(リンク先は典礼聖歌・詩編をうたう)にあるように「罪の重荷にうちひしがれても、あなたはすべてをゆるしてくださる」というような、慈愛に満ちているのです。神を恐れながら人生を歩むことはないのです。

持っている人はさらに与えられて豊かになる

とは、「あなたの信仰があなたを救った」と同じような意味、すなわち正しい信仰を持っていることを指しているのではないでしょうか?

この与えられた恵みは物質的なものではなかったかもしれません。タラントンと言うのは英語でいうタレントを表します。能力は使えば使うほど向上します。しかし、1タラントンを預かった僕は、それを理解していませんでした。人より少ないから、努力するのが嫌だから、失敗するのが嫌だから、というように色々な理由をつけて行動を起こさなかったので、神の与えたチャンスを逃したのでしょうね。

入門講座の分かち合いで、タラントンは「愛」だと言う人がおられました。愛は使えば使うほど増えるからです。タラントンが愛であるなら、最後に追い出されたことも容易に理解できます。そして、最後の

持っている人はさらに与えられて豊かになる

と言う言葉も、「愛を」と言う言葉を最初につけると、より意味が深くなると思います。いかがでしょうか?

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/10/03

善を定めたイエス・キリスト

水曜日はいつもの入門講座でした。この講座のカトリック要理を学ぶ時間ではドン・ボスコ社の「カトリック入門」というDVDを使います。以前、地上波TVの「心のともしび」にも出演されたガエタノ・コンプリ神父(リンク先はWikipedia)がお話をされていて、とてもわかりやすい内容です。

先日は3章の「悪、歴史」を見ました。この中でガエタノ神父は

「神様しか定められない善と悪を定めようとするのは傲慢です。」

と言われました。ときどき聞くことのある「裁くことができるのは神様だけ」という言葉と意味は同じなのですが、妙に心に響きました。

人はついつい自分勝手な価値観で、物事を考えたり、人を批評してしまいます。そして、何気ない一言であっても、その人との関係や、その人の調子、あるいは行き違いによって、傷つけたり、苦しめたりしてしまいます。そして、そのことに気づいたとき、傷つけた自分の傲慢さに苦しむのです。

考えてみると、イエス・キリストは新しい掟として社会の「善」を定めました。そして、自由や平等、愛といった価値観は(若干ゆがめられた時もありましたが)社会に広がりました。それこそ、神の御業だと思います。

イエス・キリストは、奇跡を起こしたからではなく、旧約聖書に書かれていたからでもなく、善を定めたからこそ、イエス・キリストは「神」と言えるのかもしれません。

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