2008/04/26

なぐさめる神

久しぶりに入門講座に出ました。入門講座では日曜日の「聖書と典礼」を用いて分かち合いをしています。

日曜の福音の中で、「弁護者」という言葉が出てきますが、「聖書と典礼」によると弁護者とは言語(アラム語)で「パラクレートス」そばに呼ばれたものという意味だそうです。

神父様によると、これはギリシャ語なら「PARACLASE」、ラテン語なら「PARACLITUS」、これらはラテン語の「CONSOLATOR」と同じ意味で「なぐさめる」という意味だそうです。

神さまはいつもそばにいてくれるだけでなく、慰めてくれていたのですね。

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2007/12/21

あなたはわたしの支え

久しぶりに入門講座に参加しました。入門講座では初めに「聖霊への祈り」(リンク先はLaudate「聖霊の続唱」) を祈ります。比較的長い祈りなので、これまでは淡々と唱えていただけでした。しかし、一か月以上も休んでいたのに温かく迎えていただいたあとに最後のこんな言葉を読んでいたら、目頭が熱くなりました。

あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。
あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、
終わりなく喜ぶことができますように。
アーメン。

そして、いつものように日曜の福音「イエス・キリストの誕生」(マタイ1・18-24)の説明をうかがっていると、イエスさまの名前が二つ出てきます。

イエス(ヘブライ語でヨショア):主は救う
インマヌエル:神は我々とともにおられる

忙しかったり、疲れていたり、心はなかなか神様に向きませんでしたが、神様はいつもそばにいて、応援してくださっていたのですね。

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2007/10/11

安心して行きなさい

入門講座で、日曜日の第一朗読箇所のある「列王記下巻」の5章を読みました。朗読箇所はエリシャの言葉に従ってヨルダン川に身を浸して皮膚病がいやされたナアマンが感謝し、贈り物をしようとしたものの断られ、今後、主ヤーヴェ以外に捧げものをしないと誓うお話です。

5章全体を読むと、このあと従者ゲハジがナアマンを追いかけ、贈り物を自分のものにしたところ、エリシャはお見通しでゲハジと子孫は皮膚病になってしまうというお話です。ここのところは以前にも読んだことがあるのですが、今回は気になるところを見つけました。

「僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。
ただし、この事については主が僕を赦してくださいますように。わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。そのとき、わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません。わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように。」
エリシャは彼に、「安心して行きなさい」と言った。

このお話を読んで、少し感動しました。第2バチカン公会議以降、他の宗教を尊重するようになったとはいえ、葬儀以外でほかの宗教施設に出向くことには何となく抵抗がありました。しかし、すでに旧約聖書において、他の宗教施設での儀礼的な行為は、ゆるされていたのですね。

今後は初詣に誘われても、安心して行けますね(ちょっと気が早い?)。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/09/27

デウス=ゼウス - キリシタンの言葉 -

きょうの入門講座の余った時間で、長崎の教会のビデオを見ました。途中で、キリシタンのお話が出てきて、遠藤周作さんの本などで見たことのある「デウス」「オラショ」などの言葉が出てきました。そこで、ポルトガル人でヨーロッパの言葉に堪能な神父様が、言葉の解説をしてくださいました。

オラショ(ORATIO)
ラテン語の「祈り」。ポルトガル語ならORACAO。

パードレ(PADRE)
ポルトガル語の「神父」。父の意味なので英語のfatherと同じですね。

デウス(DEUS)
ポルトガル語の「神」。何となく似ているので確認すると、ギリシャ神話に出てくる「(大神)ゼウス」と同じだそうです。多神教のある神の名前が「神」を表すとは少し驚きです。フランシスコ・ザビエルが日本に来た際に、このデウスを仏教用語の「大日(如来)」と訳して混乱したそうですが、定義の異なる「ゼウス」が語源なら「大日」でも良かったのではないかと言うのは暴言でしょうか?

日本語になったポルトガル語には、ビードロ(VIDRO)、天ぷら、コップなどがあります(このほかにもカステラ、金平糖、カルタもそうですね)。

また、ギリシャ語は他の言語の語源になっていることが多く、biology(生物学)、philosophy(哲学)などもそうです。philosophyはフィロ(友)+ソフィア(知識)という意味で、このフィロ(友)とポ(馬)で12使徒のフィリポという言葉ができているそうです。

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2007/08/05

そこに神様がいなければ空しい - マルタとマリア -

少し前になりますが、年間第16主日の福音朗読は「マルタとマリア」(ルカ10・38-42)でした。直前の入門講座、聖書の分かち合い、そしてミサ説教のすべてが同じ個所で、さらにこの箇所は遠藤周作さんの「イエスに邂った女たち」にも解説されています。

自分はマルタだとか、あるいはマリアだとか、分かち合うことが多いかと思いますが、今回のお話はそれぞれ興味深かったので、まとめておきます。 

1.マルタは裁いていた

お説教では、マルタがマリアに手伝うようにイエスさまにお願いしたことを、マルタはマリアのことを裁いていたとされました。マルタはイエスさまに話す前に、マリアのことを「少しは手伝って当然だ」と裁いていたのです。人と人は分かち合うことが大事なのです。

マルタは自分勝手な思いからマリアを裁きました。神様を信じながらも、その心は神さまの御心からはなれていたのでしょう。

2.勇気を出したマルタ

朗読箇所の最初にこう書かれています。

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。

この「すると」と言うのは、原著からの直訳なら「だがしかし」と言う意味だそうです。当時、男性が人を家に招くことがあっても、マルタのように女性が、男性を招くことはまれであったようです。そこで、原著では女性であるにもかかわらず、マルタは招いたと書いているようです。

だれが何と言おうとイエスさまを家に招きたかったマルタは、勇気を振りしぼって、イエスさまを招いたのでしょうね。そして、彼女なりに必死にもてなそうとしたのでしょう。

3.もっとも恵みをいただいたのはマルタ

このお話では、マリアが正しくてマルタが間違っているように読めます。しかし、マルタの行動を考えると、

  1. (イエスさまこそ神であるとして、)勇気を出してイエスさまを招いた
  2. 自分の気持ちをありのままにイエスさまに伝えた
  3. 神さまの声を聞くことができた

となります。

この流れは、私たちの祈りの姿に似ています。身勝手な思いから、本来とるべき行動がとれず、神に祈ります。それは、わがままな願いに違いないのですが、神さまを信じて祈ります。すると、そのうちに自分の間違いに気付きます。これこそが、信仰の恵みではないでしょうか?マルタは、私たち信者の姿なのかもしれません。

4.一生懸命に働くマルタ

入門講座で神父さまは、マルタの中に働く人たちの姿を映されました。マルタの神への思いは間違っていなかったはずです。しかし、一生懸命に働くなかで、いつしかその思いは薄れ、いつも間にか働くことが目的になっていました。

神父さまはそれは、会社であくせくと働く私たちの姿であると言われました。

「働くことは悪いことではない。しかし、そこに神様がいなければ空しい」

心に響く言葉でした。

5.困り果てていたイエスさま

最後に、遠藤周作さんの「イエスに邂った女たち」の、ちょっと変わった解釈を紹介します。それは、イエスさまが困り果てていたというものです。

マルタがもてなしの用意をしているのに、マリアは手伝おうとしない。そこで、マルタとマリアの言い争いが始まったというのです。そして、それはイエスさまを巻き込むようになってしまいました。そして、マルタは「手伝うように言ってください!」とあてつけがましく言うのです。

そして、間に挟まれて困ったイエスさまは、口やかましいマルタに辟易しながらも、マルタをなだめるために言われたというのです。この解釈が思い浮かんだ時、遠藤さんは噴き出したそうです。そりゃあ、気の強そうな二人の女性の言い争いに巻き込まれたら、イエスさまもたまりませんよね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/07/16

あなたを必要とする人が隣人、あなた周りの人すべてが隣人

昨日のミサは「善いサマリア人」(ルカ10・25-37)でした。入門講座の内容とともにまとめておきます。

ルカ9・51にあるようにサマリア(今のパレスチナ)で、イエスさまはエルサレムに向かう決意を固められていました。その後、エリコを経由してエルサレムに向かわれたようです。このエリコはヨショアが攻め落としたところで、城壁の周りを行進してトランペットを吹くと城壁が壊れたとされています。

エリコは死海の近くでイエスさまが40日間断食された「誘惑の山」に近いところで、海抜マイナス250mのオアシスのある低い土地です。一方、エルサレムは高い土地にあり、エリコからは上り坂、エルサレムからは下り坂になります。

「善いサマリア人」のお話は、そんなエリコとエルサレムの間の坂道のお話です。エルサレムからエリコヘ下る途中で追いはぎにあった人に対して、祭司やレビ人は道の向こう側を通りましたが、あるサマリア人は宿屋に連れて行って介抱しました。

サマリア人は、マザー・テレサと同じ行いをしました。宗教の異なるインド人であっても貧しい人に近づいて、世話をして、隣人となりました。

10人の聖なる人々」によれば、マザーテレサの死を待つ人の家には、道端で死にかけている人々が運び込まれていたそうです。助からないとわかっていても、体についたウジを一匹ずつ辛抱強くつまみあげ、顔や体をきれいに洗い、「あなたは必要な人だ。決して一人ではないのだ」(p.323)と知らせていたそうです。マザーにとって十字架のイエスが苦しみである「孤独の内にみじめに死ぬこと」こそ、耐えられない不幸だったようです。

説教の中で神父さまはこう言われました。

「あなたを必要とする人が隣人、あなた周りの人すべてが隣人」

すべての人が必要とされているから、すべての人が隣人なのでしょう。

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2007/07/08

神に解放され平和を得る

今日の聖書朗読箇所は少し難しいです。
ます、第1朗読の「栄光の顕現」(イザヤ66・10-14c)は、3冊あるイザヤの預言書の3冊目の最後の部分です。バビロン捕囚から解放された後の、慰めの言葉です。このなかでエルサレムのことを「彼女」としていますが、同じようにイスラエル国民を「恋人」と呼ぶこともあるようです。これは、神様が愛されていることを表しています。イスラエルは罪を犯してバビロンに送られましたが、神様は愛し続けられたのです。

福音朗読の「七十二人を派遣する」(ルカ10・1-12,17-20)は、イエスさまが72人の弟子を派遣されるお話です。ペトロ学と言われるマタイによる福音書やマルコによる福音書では、12人の派遣のみが書かれていますが、パウロ学と呼ばれるルカによる福音書では、12人の派遣と72人の派遣が書かれています。これは、マタイ書がユダヤ人のために描かれたのに対して、ルカ書はユダヤ人と異邦人のために書かれているからで、ユダヤ人への12人の派遣だけでなく、72人の異邦人への派遣も描く必要があったようです。

ルカ書ではイエスさまが72人を派遣しますが、その宣教の中で「平和」が重要なキーワードです。この平和と言うのは、「あなた方の願う平和」(ルカ10・6)です。世界中で悪いことをしている人間に対して、父なる神は子であるイエスさまを派遣され、人々を悪霊(サタン)から「解放」し、神の国に平和を伝えたのです。同じように、イザヤ書ではバビロンの僕であった国民をエルサレムに「解放」しましたこの「解放」が、神様の恵みです。だからこそ、「財布も袋も履物も」(ルカ10・4)持って行く必要がないのです。そこで、第2朗読の「結びの言葉」(ガラテヤ6・14-18)では、神様を信じることで十分であり、十字架が大切だとされているのです。

ところで、第2朗読の「新しく創造される」(ガラテヤ6・15)というのは、パウロの中心的なアイデアだそうです。父である神が世界を作られ、子であるイエスさまが人間を作り直されるのです。イエスさまによって、悪いことをする人間を清めるのです。

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2007/07/05

ミサ = mission

「ミサは義務です!」、、、なんていう話ではなく、ミサの語源のお話です。
Wikipediaにも書かれているようにミサの語源は、ミサの最後にある閉祭の挨拶「行きましょう主の平和のうちに!」のラテン語「Ite, missa est」(ミサを終わります。行きましょう)という言葉の「missa」に由来しています。

しかし、英語でミサは「Mass」で、ミサ以外の意味はありません。これがどうも気になっていました。今日の入門講座で神父さま(日本語勉強中)が「宣教、mission」と言われて、ピンときました。この「missin」が、語源となったラテン語の「missa」をルーツとする英語だったのです。

そういえば、閉祭の挨拶の前には「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように」と派遣の挨拶が行われますね。すごく納得しました。

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2007/07/01

私にとっての秘跡 - 入門講座の宿題 -

出張で入門講座を休んでいる間に宿題が出たと教えていただきました。これまでだと、聖書を読んでおく程度だったのですが、今回はちょっと違います。

1、あなたにとって秘蹟とは?
2、あなたにとって御聖体とは?

秘跡やご聖体の意味なら勉強会の記録を読み返せばよいのですが、「あなたにとって」と言われれば考えねばなりません。

1、あなたにとって秘蹟とは?

そうですね。「信じれば恵みが得られるもの」だと思います。そういう時期だからと、痛悔もせずに赦しの秘跡を受けても、恵みは得られないと思います。

2、あなたにとって御聖体とは?

神様に近づくためにいただくものです。「キリストのからだ」と言われたときに「アーメン」(そのとおりでありますように)というのがうれしいです。神様に近づいたからと言っても、いつもよい行いばかりできるわけではありませんが、良い行いをしようという元気をいただいています。

こんなところでどうでしょうね。

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2007/06/25

祭日>祝日>(主日)>記念日 - 洗礼者ヨハネの誕生 -

体調が悪いのに今週は4日ほど出張があるので、今日のミサはお休みしました。同じ内容を、入門講座でもやっていますのでそちらをまとめておきます。

イエスさまのご誕生のお話は、4つの福音書のうちマタイとルカのみが書いています。マタイは聖ヨセフのお話を中心に描いていますが、今日のルカ福音書は聖母マリアを中心に描いています。

福音朗読「洗礼者ヨハネの誕生/ザカリアの預言」(ルカ1・57-66,80)では、洗礼者ヨハネが生まれ、父ザカリアが「この子の名はヨハネ」と書いたとたん、予言どおりザカリアは口がきけるようになったお話です。

ルカ福音書を1章のはじめから読むと、46節からの「マリアの賛歌」と67節からの「ザカリアの預言」が同じように神を賛美していることがわかります。マリアさまは受胎告知の後に、ザカリアは名前を決めて預言が成就されたときに神を賛美します。

聖書と典礼の構成を見ると、第1朗読でのイザヤの預言では洗礼者ヨハネのことが、神の僕イスラエルとして描かれています。また、第2朗読では洗礼者ヨハネもイエスのことを救い主だと認めていたことが書かれています。

今日は祭日でしたが、これは洗礼者ヨハネが一番の預言者であり、主の道を準備したからです。殉教者の記念日は一般に亡くなられた日を祝いますが、洗礼者ヨハネは、誕生と殉教の両方を祝います。そして、聖母マリアがイエスさまを身ごもらった6ヶ月前にエリザベトが洗礼者ヨハネを身ごもったことから、イエスさまの先駆者としてヨハネの誕生を祭日として、記念日である殉教日よりも大きな祝い(祭日)になっています。

AzTak's Web Siteにあるカトリック教会のカレンダーによると、

祭日、祝日、記念日とは、 キリストやマリアや聖人の祝祭日を祝う際に、 その重要度によって区別する際に用いる名称です。 祭日が最も重要で、前日の「晩の祈り」から始まります。 次に祝日が重要ですが前日から祝うことはありません。 記念日には義務で祝うものと 司式者の判断で任意に祝うものとがあります。 こうした祝祭日には固有の聖書朗読箇所が選ばれていたり、 特別な祈願が準備されたりしています。 また同じ祭日でも、 キリストの祭日と他の聖人の祭日とでは当然のことながら、 キリストの祭日のほうを優先して祝うなど、 典礼暦のどの日を優先的に祝うかについての 細かい規則が定められています。

とされています。このほかにも、祭日は日曜日でも祝われますが、主日と記念日が重なると主日が優先されるといったルールがあります。詳しくは「ミサ典礼書の総則と典礼暦年の一般原則」に書かれているようです。

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2007/06/19

神さまと仲良し

先日の入門講座で、神父様がこう言われました。

「秘跡はイエスさまと仲良くなること」

この言葉を考えながら「友達の詩」を聞いていると、イメージが広がりました。「イエスの服に触れる女」(マルコ5・25-34)は触れるだけでもいやされると思い、「罪深い女」はそばにいるだけで泣き出しました。ザアカイは一目だけでも見ようと木に登り、イエスの言葉に回心しました。

それに比べて、私たちは恵まれています。秘跡を通じて、罪をゆるされ一体になり病気の時も癒されます。神さまと仲良くする方法はいろいろと用意されています。

しかし、ついつい神さまに寄りかかってしまって、関係を悪くしてしまいます。そばにいて、必要な時は抱きかかえてくれる(リンク先はMAGIS)のに、望みがかなわないと不満を抱いてしまいます。

もっと純粋に神様を愛することができれば、もっともっと仲良くできるのでしょうね。深い河の青年(神父)のように笑われて馬鹿にされようと、マザーテレサのように神さまの道具として共に歩むことができれば、きっと幸せなのでしょうね。

これまで「クリスチャン」と言う言葉が少し恥ずかしかったのですが、これからは「神さまと仲良しです」と言ってみようかなと思いました

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2007/06/16

いつくしみのルカ書 - ミサと聖書 -

入門講座ではいつものように日曜の朗読箇所を読みました。

福音朗読の「罪深い女を赦す」(ルカ7・36-50)では、罪深い女が涙でイエスさまの足をぬらし、髪の毛でぬぐい、足に接吻し、足に香油を塗りました。そしてイエスさまは「あなたの信仰があなたを救った」とその女を許されたお話です。

第一朗読の「ナタンの叱責」(サムエル下12・7-10,13)では、イスラエルの王であるダビデが、ウリヤの妻を奪い、子供を身ごもらせ、ウリヤを戦場で死なせたことを、ナタンに叱責された後に、神にゆるされるお話です。

このように、第一朗読と福音朗読は同じ罪を許されるお話です。カトリックではA年、B年、C年と3年周期で聖書の主要なところを朗読します。第1朗読はどの年も同じですが、年間主日の福音朗読は、A年がマタイによる福音書、B年がマルコによる福音書、C年がルカによる福音書で、四旬節などがヨハネによる福音書を朗読します。

A年のマタイによる福音書は、ユダヤの改宗者に向けて書かれていて、ユダヤ人にとっての新しい契約が書かれています。B年のマルコによる福音書は異邦人に向けて書かれていて、ペトロや弟子たちを通じて求道者に説明しています。

今はC年でルカによる福音書が読まれています。ルカは医者でギリシャ人で、すべての人に向けて書かれています。放浪息子のたとえに代表されるようないつくしみの福音書です。マタイ・マルコ・ルカはAC60~80年に書かれましたが、ルカによる福音書からいつくしみの改革が行われました。ヨハネによる福音書はAC100年ごろのもので、復活のお話が多く書かれています。

第一朗読のお話には続きがあり、ダビデとウリヤの妻との間にできた子は亡くなります。ダビデの罪が許されたのにその子は死んだのです。このことを神父様に質問したところ、罪を犯すと心に傷(怪我)ができるとのことで、罪はゆるされても悪いことをすると償いが必要であるということなのでしょう。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/06/09

キリストの聖体

入門講座も3回目となり、新しい神父ざまの持ち味が徐々に出てきました(勝手に評価してすみません)。

今回の入門講座も日曜日の福音朗読箇所の前後「十二人を派遣する/ヘロデ、戸惑う/五千人に食べ物を与える」(ルカ9・1-17)を読みました。イエスさまは2匹の魚とともに5つの「パン」を裂いて配り、5千人を満たされました。

この「パン」というのは、アジアでのコメと考えると良いようです。ユダヤの人にとってパンというのは、毎日ワインとともにいただくものです。

パンは労働の糧(かて)であり、汗です。また、パンの原料である小麦の作り方も、文化と大きくかかわり、技術の進歩によって作り方が変わってきました。「パン」は人間の生活なのです。

ミサでは「感謝の典礼」で、奉納行列の後に「パンを供える祈り」が唱えられます。

神よ、あなたは万物の造り主、ここに供えるパンは、あなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、私達のいのちの糧となるものです。

ミサは最後の晩餐を表したものです。命の糧であり、人間の生活である「パン」が聖霊によって「キリストの聖体」になるのです。

ここで、神父様が「星の王子さま」を読まれました。狐が金色の髪をした王子様に語るシーン(リンク先はTBS|新訳・星の王子様、読まれた本と若干異なります)です。

キツネはパンを食べないので、麦畑を見ても気がふさぐだけでしたが、仲良くしてくれたなら、王子の美しい金の髪を金色の麦で思い出し、麦の風音も素晴らしいものになるだろうと言いました。

これは、ご聖体と同じです。私たちはパンを見てキリストを思い出すのです。詩のように聖書を読めば、新しい意味を感じることができます。その意味で聖書は心の糧です。ミサもパンを見てキリストを思い出す心の糧です。

狐が「君がいなくても麦を見て思い出す」といったように、イエスさまがおられなくても、パンを見てキリストを思い出します。パンは体、ワインは血であり、人間の生活です。キリストの生活を思い出し、キリストの愛を思い出すのです。だから、秘跡とされているのです。

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2007/05/31

死に打ち勝つ強い愛

今日の入門講座は、三位一体の主日の福音(ヨハネ16・12-15)を中心にヨハネ16章を読みました。

神さまの神秘は、神の子である「イエス」、イエスの父である「父」、そして心理の霊、弁護者、その方、イエスの愛、イエスの霊と呼ばれる「聖霊」で、三位一体と呼ばれます。

父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。

とあるように、父がイエスさまを送られ、イエスさまは父と聖霊について語られました。そして聖霊は人々に真理を悟らせ、イエスさまにに栄光を与えます。教会の愛は聖霊で、聖霊がなければ教会は存在しません。聖霊は教会の心であり、愛の家族です。

イエスさまは33年の人生のうちの3年間、宣教のための公生活をされました。ユダヤにとって年長者(先輩)は大事なので30年過ごし、3年間伝えて亡くなられました。

「悲しみが喜びに変わる」(ヨハネ16・16-24)に、こう書かれています。

「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」

これは、イエスさまが亡くなられること、心の中で生きておられるようになることを示しています。イエスさまの死を悲しみ、そして復活を喜ぶのです。

ここで、子供のころからミッション系の学校に通われていた方から質問が出ました。イエスさまは幻でなく、本当に復活されたのかと(小学校の3年まで、幻として教えられていたそうです)。

そこで、「イエス、七人の弟子に現れる」(ヨハネ21・1-14)をよみました。

弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。

とあるように、イエスさまは幻でなく、本当に復活されたのです。

また、「イエスとトマス」(ヨハネ20・24-29)では、トマスは

「わたしの主、わたしの神よ」

と言いました。これは、

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

と、イエスさまが言われたように手やわき腹の傷を見ただけでなく、傷を見てイエスさまの強い愛を感じたからです。イエスさまは愛によって十字架の死に打ち勝たれたのです。想像や幻でなく、本当に人間だったイエスさまは、本当に復活されたのです。

強い愛は永遠の命なのです。

今日の入門講座は神父様の準備も万全で、良かったです。最後に土曜日に演奏会がある高槻市音楽団管楽部の方のトランペットでアヴェ・マリアまで聴くことができました。これもお恵みでしょうね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/05/24

永遠の命は霊ではない

今日から、新任の神父様の入門講座が始まりました。

ルカ11章を読んで、質問の出たところをお話ししていただきました。質問が出たのは「人々はしるしを欲しがる」(ルカ11・29-32)でした。ここはよくわかりませんでした。

イエスさまは、人々がしるし(奇跡)を欲しがるが、しるしはヨナのしるしだけであるとされ、人の子もしるしとなるとされたお話です。

このヨナというのは、ヨナ書の1章と2章にあるように、海が荒れてる責任を押し付けられて海に投げ込まれた預言者ヨナが、魚に食われたものの3日後に助かるお話です。

このことを元にマタイによる福音書では

ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる(マタイ12・38-42)

とされているように、ヨナとイエスさまの受難と復活のお話だけが「しるし」だということです。

ここで、永遠の命と復活の質問が出ました。神父様の答えは

イエスさまの復活と、世界の終り(最後の審判)の復活は同じ(5/27追記)、ユダヤの考え方は、死後も新しい命でそのままで、ギリシャのファンタズマ(霊)とは違う。

とのことでした。神父様はポルトガルの方で、日本語があまり得意ではありません。言葉が得意でないと、最も本質的なことだけを言われるのでしょう。この言葉を聞いて、ようやくキリスト教がわかったような気がしました。

キリスト教は輪廻転生がない宗教です。それは単に1回だけか繰り返すかと考えていました。でも、死後に霊であるか、そのままかという違いがあったのですね。

霊という考え方を発展させると、人間が仮の姿であるという考え方である二元論になります。異端の呼ばれる宗教はこの「二元論」につながることが多いようです。

有名なところでは、ダ・ヴィンチ・コードで有名になった外典福音書(正典と外典の説明)を記したとされるグノーシス主義があります。また、アウグスチヌスのころはマニ教、アッシジのフランシスコの頃はカタリ派というように、さまざまな形であらわれていました。

二元論のルーツの一つは、ギリシャのプラトンまでさかのぼることができます。そう、高校で習った哲学者のプラトンです。プラトンは、真の存在はイデア界にあり、この世(現実界)はその影にすぎないと考えました。人間は真の姿を見ることはできず、理性によってのみイデアを認識することができるとしました。

ここで異端につながって危険なのは、この世は劣った存在であると考えることです。創造主を劣った神であると考えたり、真面目に生きても仕方がないと享楽的になったり、この世を否定した上でイデアを認識しようと過酷な修行に走るなど、さまざまな問題が生じます。

これに対して、キリスト教で重要なものは、この世が素晴らしいものであるということです。この世は劣ったものではなく、創造主が「良しとされた」(創世記10,12,18,21,25,31)素晴らしいものである。ということが救いになります。

この世は神の国が完成するまでの物語なので繰り返しはなく、作られたものはそのままなのです。そう思って考えてみると、イエスさまは亡霊ではなく体のあることを示されました(ルカ24・39)し、使徒信条にも「からだの復活」とあることが重要であると思えます。

さらにこの考えを広げると、遠藤周作さんが受難後に弟子たちの心に復活したイエスさまとされていたのも、霊のようなものではなくイエスさまそのものということになります。それは、「言は神であった」(ヨハネ1・1)とされている三位一体の神そのもの、すなわち、イエスさまの言葉が弟子たちの心に復活したに違いありません。

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2007/04/03

「意向」、「ごりやく」、「情け」、「奉仕」

入門講座で「意向」について教わりました。

ミサのはじめに「今日のミサはXXさんの意向で、、」と言われるときがありますね。この「意向」とは、何かのためや、誰かのために、自分がしている、あるいは、捧げているいるものだそうです。

(ちょっと脱線)

所属教会近くのお寺に「利益(りえき)」と「利益(りやく)」が説明されていました。

利益(りえき):自分のためになるもの
利益(りやく):他人のためになること

つまり、仏教で言う「ごりやく」とは「誰かの幸せのために何か良き事をして、幸せになった誰かを見てあなたが神仏からいただく幸せ」だそうです。そういえば、

情けは人のためならず、巡り巡って我がのため

とも言いますね。信仰に関わらず、人にやさしくすることはとても大事なのでしょう。

(元に戻って)

人のための行為は「奉仕」という言葉になります。「奉仕」で注意しないといけないのは、「おごり」の気持ちが入りがちであることです。「施しをするときには(マタイ6・1-4)には、こう書かれています。

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。

だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。

施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

人のためにする良い行いは、人知れず、そっとするものなのですね。そうすれば神さまが、愛を巡らせて、報いてくださるのです。

#こんな記事もたまにはゆるしてください。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/03/15

涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる

今日の入門講座では、教会の祈り(聖務日課)の一部を行いました。
2グループに分かれ、詩編126と127を各グループが交互に読みます。その後、典礼聖歌178番を交互に歌いました。交互に読むことで、聞く祈りと、語る祈りの両方を行うことができます。教会の祈りは時の祈りとも言われ、決まった時刻に行われます。困ったときにだけ集中して祈るのではなく、定期的な祈りは信仰にとって大事なことです。

この祈りの中で、こんな言葉がありました。

涙と共に種を蒔く人は
喜びの歌と共に刈り入れる。
(詩編126・5)   

これは、苦しい中にあっても希望を持ち、イエスさまについていくなら、困難に打ち勝てるということを示しています。最近は楽をして儲けるような風潮がありますが、命はそんなに簡単なものではなく、苦しい中にあってもこつこつと生きる事しかできません。

苦しくても希望を失わない、それが喜びを得る秘訣のようです。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/03/05

一歩をふみだす明かり - 四旬節について -

入門講座は四旬節のお話でした。
復活祭前の40日(日曜日を入れると46日)と定められている四旬節は、節制して日ごろのことを振り返る期間です。様々な苦しみが私たちの中にありますが、聖書は慰めの言葉であり、希望に満ちた言葉です。

「『実のならないイチジクの木』のたとえ」は、3年もの間、実のならない木が切られようとしますが、「もう一年まってください、肥やしをやってみます」と、実りのときを待ってもらえるお話です。この3年間はイエスさまの公生活(弟子たちとともに神の言葉を語られた期間)を表しています。そして、実は、よろこび、お恵みの心、なぐさめ、を表します。つまり、神さまの恵みが得られなくて「もうだめだ!」とおもっても、もうちょっと頑張ってみようと思うお話です。

苦しいときであっても、必要なものは与えられます。「マナ」(出エジプト16・1-22)では、奴隷だったイスラエルの民がエジプトから逃れたものの食べ物に困っていました。そこで、

主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる」

そしてマナが与えられました。

夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。

イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。

この霜のようなものがマナで、必要以上に集めても翌日になると溶けましたが、6日目に安息日の分を含めて2倍集めたなら翌日になっても溶けませんでした。

そして「契約のしるし」(ヨショア5・9-12)では、彼らが土地の産物を食べ始めると、マナはなくなりました。

このように、必要なときに、必要な分だけ与えられます。主の祈りで「日ごとの糧を今日もお与えください」と言いますが、その日に必要な糧を望むのです。

放蕩息子のたとえ(ルカ15・11-32)で、親からもらった財産を放蕩の限りをつくして使い果たした息子は、息子ではなく雇い人の一人にしてもらおうと親元に帰りますが、

『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』

と暖かく迎え入れられました。人が自分の力でやってゆけないとき、困難なときにいただく恵みが信仰なのです。

また、「私もあなたを罪に定めない」(ヨハネ8・1-11)は罪の女とも言われるお話で、姦通の罪を犯した女性が石打からすくわれるお話です。反省した人々が帰りやすいように地面に何かを書かれながら

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

といって、石打をしようとしている人々に考えを改めさせます。そして、

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」

と言って、ゆるし、清められました。

四旬節は、現状を受け入れながら、やる気を取り戻り、信仰を再生する季節です。現実は苦しい逆境の中にあっても、心の中で解決するのです。

四旬節第二主日の福音朗読箇所「イエスの姿が変わる」(ルカ9・28-35)は、キリストの御変容の箇所です。ここで、

「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」

とされているのは、イエスさまについていく幸せを示しています。

信仰は、典礼聖歌に出てくる「あしのともしび」のような道の光です。一歩を踏み出すための灯りなのです。

「信仰」(ヘブライ11・1-3)にこうあります。

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

郵便ポストに出すときのように疑わず、電車に乗るときに時刻表を持っていれば安心するように、「これに聞け」とされたイエスさまについていきましょう。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/02/26

祈ることで救われる

先日の入門講座で神父さまがこんなことを言われてました。

「お百度参りというのは、やっているうちにあきらめる気持ちになることだ」

お百度参りをはじめるときは、ある強い願いを持ってはじめます。そして100回もすると、これだけやればと納得し、ダメでも諦めがつくようになると言うことです。そういう素朴な信仰も大事であると言うお話でした。

キリスト教の祈りでも、同じような面があると思います。仮に神さまが信じられなくても、

「もし、神さまがおられるなら、願いを聞き入れてください」

とお祈りすることで、不思議と自分の気持ちが落ち着いてきます。これは、お百度参りと同じ効果でしょう。

神さまの愛を信じることができるなら、あるいは信仰の恵みを願うなら、さらに救われます。

「御旨ならば、願いを聞き入れてください」

そう祈ります。神さまはすべての人を愛し、良い方向に導かれる、すべてのことは意味があると信じるなら、この祈りは救いをもたらします。

人の願いの中には、わがままな気持ちが含まれていることが多いでしょう。それを何でも神さまに聞いてもらおうという気持ちと、こんなことが御旨であるわけがないと思う気持ちが、心の中で揺れ動きます。やっぱり叶えてほしい。でも、無理だろう。そんな思いが渦巻く中で、心静かに待とう、やるだけはやった、ダメでも別の道がある、など冷静に自分を見直せるようになり、心に平安が訪れます。

すべての人の心の中に、神さまがおられると思います。神さまに祈り続ければ、きっと答えてくださいます。わがままだって良いのです。どんな気持ちも受け止めて、良き方向を示してくださいます。自分の心を神さまにさらけ出して祈れば、きっと光が見えてくるはずです。

そうそう、あまりにもわがままなお願いのときは、マリア様に取り次いでいただくように祈るのもおすすめです。

過去の記事
神が信じられない方へ
祈りと願い
求めるものは何でも得られる
マリア様へのお祈りができました‐カトリック神田教会‐
アフリカの主の祈り

書籍
神との一致(奥村一郎著『祈り』)
祈りのかたちとブログ(奥村一郎著『祈り』その2)
お祈りはキリストとの闘い(「「深い河」をさぐる」)

入門講座の記録
祈り(勉強会編)
祈り(勉強会編の続き)
主の祈り
全幅の信頼による祈り その1
全幅の信頼による祈り その2
聖母マリアへの祈り
ロザリオの祈り

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2007/02/22

信仰、希望、愛 - 灰の水曜日 -

昨日は灰の水曜日でした。四旬節(リンク先はカトリック中央協議会)が始まりました。ミサは朝7時だけなので、ちょっと早起きをしてでかけました。大斎日・小斎日にゆるされている朝食も食べずに行きましたが、眠くてせっかくのお説教も良く覚えていません。ということで、夜の入門講座のお話を中心にまとめてみました。

クリスマス前後の待降節と降誕説は、神が人となる命の誕生をお祝いするもので、待降節には4本のローソクを立てます。復活祭(イースター)前後の四旬節と復活節は人が神、つまり、イエスがキリストであることを信じるお祝いです。四旬節は主日を除いて40日あります。この40と待降節のローソクの4という数字は試練と忍耐を表します。

復活節では、聖霊降臨により大きなローソクに火をつけます。この火は、聖霊降臨によって神さまが根付くまで灯されます。

(一コリント13・13)には、こう書かれています。

信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

この言葉から、イエスさまを覚めた目で見ていないか、知恵に頼っていないか、イエスさまとの関わりの中で希望を持っているか、イエスさまの愛にならっているか、を考えなくてはなりません。

神さまなら何とかしてくれる、自分が100%悪いときでも何とかしてくれる、そんな信仰が大事です。自分の力によってではなく、教えていただいた喜びを感じましょう。

「自分ではなく隣人を喜ばせる」(ローマ15・1)では、「忍耐と慰めの源である神」とされています。忍耐と慰めから、希望を得るのです。洗礼の水は死を表します。プロテスタントのある宗派は、水の中に身体をつけますが、水の中で死に、神の子として生まれ、希望に生きるのです。

カテキズム(公教要理)には、「聖徒の交わり」が載っています。キリストの聖体との一致のほか、聖なる人々との交わりの意味があります。それは、この世を旅する信徒だけでなく、罪の償いを果たしつつある死者や、天国に入った幸いな人びとも交わりに加わっています。この祈りによって神と聖人たちは、私たちの祈りを聞いてくださいます。

生きている人なら、人の弱みを言いふらすこともありますが、諸聖人になら自分の悪いことも包み隠さず言うことができます。人は体裁を保とうとして表裏ができるので、本当のことが言えず、孤独になってしまいます。心を開いて打ち明けられる人は少ないからです。亡くなった愛ある人になら、自分の考えを打ち明けて、すべてをまかせることができます。打ち明けて、打ち明けて、納得するまでとことん打ち明ければ、そこに希望が見出せるでしょう。

灰の水曜日のミサでは、回心のしるしとして頭か額に灰をかける「灰の式」という典礼があります。去年の枝の主日祝別していただいたソテツの葉から作られた灰を頭にかけ、額に十字を書いていただきます。

「回心して福音を信じなさい」と言われて灰を受けます。私は人よりも回心すべきと思われたのか、かなり多めにいただきました。ミサが終わっったときに灰が残っていると言われ、ついついはらってしまいましたが、はらわずに自然に落とすほうが良いそうです。

灰の水曜日と聖金曜日は大斎・小斎の日です。肉を食べず、1回は普通、朝食ともう一回は軽く(2分の1とか3分の1とか言われているそうです)食べて良いそうです。悩んだのは朝のミサです。そんなに律法的に考えなくて良いと思いましたが、ミサを朝食としておきました。前日はカーニバルがわりのFat Tuesdayでしたが、さすがに夜の入門講座の時間になると、血糖値が下がっているようでした。

何かを我慢して、四旬節愛の献金にまわせるように過ごせれば、信仰が深まり、希望が見出せ、愛に生きることができるのでしょう。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/01/27

宗教は魂の料理

人は食べなくては死にます。といっても、おいしく料理して食べたいものです。おいしく食べるには、作り方などを工夫して食べなくてはなりません。

宗教は魂の料理です。自分という命が幸せと思えるように、自分の心を料理することが信仰です。幸せだなぁと自分で思う心を見つけるのです。体のため、自分のために料理を作るように、魂も上手に料理しましょう。

ある人は幸せと思うことでも、別の人は不幸と思います。自分一人で幸せに生きられるなら、宗教はいりません。人は誰かに頼りたいものです。神さまに頼ったときに幸せと思えるのです。

失敗したとき、哀れなとき、弱っているとき、非難されたとき、神様が守ってくれると思う心が大事です。仕事を失う、家族を失うなど、自分ではどうしようもないとき、神の中に力を見出すのです。聖書の言葉を知り、祈りを唱えることで、自分を取り戻せたら、最高の人生です。

人生には、苦いこと、酸っぱいこと、辛いこと、がありますが、程よい味、うまみを感じられる味、後から納得できる味、に変えてくれるのが信仰なのでしょうね。

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2007/01/25

洗礼と洗礼名

そろそろ洗礼申込書を書く時期になったのですね。少し前に入門講座で習った洗礼名のお話を元にまとめておきます。

洗礼は、神さまの子どもになったお祝いです。家の中で父親を愛している限り守られるように、教会のメンバーになって天国の住人としての資格をいただき、生きる力をいただきます。洗礼を受けると、神さまによって清められます。洗礼は天国への関所の札のようなものです。

洗礼名は洗礼のときに授けられます。人は必ずどこかに所属し、名前がつけられ守られます。洗礼名は家族でなく、神さまからいただきます。戒名と同じように天国での名前です。戒名も元々は生きている間にもらったそうです。

さて、洗礼名は霊名とも呼び、誕生日の聖人や思い入れのある聖人の名前をいただきます。聖人カレンダー(中谷千絵さんのホームページ)あるいは聖人暦(リンク先はWikipedia)と呼ばれるもので、自分の誕生日の聖人を見てください。それ以外では、Wikipediaの著名な聖人一覧などで、探してください(他にも色々な聖人がおられます)。

通常は同性の聖人の名前をいただきますが、女性が「ヨセフィーヌ」(ヨセフの女性名)とさ
れることもあります。また、「無原罪のマリア」「アシジのフランシスコ」のような名称も可能です。

なお、成人洗礼の場合は、洗礼式と堅信式を一度に行うことが多いので名前はひとつのの方が多いです。わからないことは、神父様、代父母、シスターなどに相談してください。

ご参考までのこれまでの入門講座の記録と経験談をあげておきます。

入門講座の記録
カトリックの洗礼
水と霊によって新たに生まれる
罪の痛悔後に洗礼をうける
洗礼(罪に死にキリストに生きる)と入門式
堅信~按手により聖霊を受ける~
聖霊の働き
堅信の賜物

経験談
受胎告知と入門式
ミサと洗礼志願式
洗礼良いですよ~

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2006/12/09

愛(アガペー)が欠けている現代社会

入門講座で,どんな人にもある3つの心を教わりました.

祈りの心(アガペー):相手優先の心です.一方通行でお返しを求めない心で,夫婦に必要なそれでも良いと言う心です.

商売の心(フィリアン):友情の心です.ギブ・アンド・テイクの商売のようなお互い様の心です.

強盗の心
(エロス):求める心です.自分中心に考える奪う心です.

愛にはアガペーとエロスがあると倫理・社会で教わった人も多いでしょう.神父様はキリストの受難で説明をされました.

「十字架につけられる」(ルカ23・39-43)では,キリスト(救い主:メシア)と共に十字架にかけられた犯罪人が,「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言います.すると,もう一人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました.するとイエス・キリストは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われます.

この犯罪人が救われたことに対して,犯罪者の家族のように愛のある人なら,好意的に「良かった」と思えるでしょう.これが祈りの心(アガペー)です.犯罪者なのにゆるされるなんて不平等だ「甘い」と思うなら,商売の心(フィリアン)です.また,被害者であるなら,犯罪を犯しておいて「ゆるせない」と思うでしょう.それが強盗の心(エロス)です.

このお話をうかがって,アダルト・チルドレンのことを思い出しました.アダルト・チルドレンは条件付きの愛情などによって心に傷を負った人です.アダルト・チルドレンを3つの心にあてはめて考えていると,現代社会の問題に気付きました.

私たちのように戦争を知らない世代は,自由や権利に敏感です.子どもと親の関係も上下関係から対等になり,友達のような関係になりました.そこでの心は,自然と商売の心になっているのではないでしょうか?

戦争が終わって欧米から自由と権利を輸入したときに,アガペーの輸入を忘れたような気がします.もちろん現代の欧米にも同じような病があります.それも元々あったアガペーが,ビジネス主義や形式主義によって失っているのだと思います.これまでになかった問題が多く発生する現代社会は,アガペーが欠けているんだと思います.

最近,かつての秩序ある日本を取り戻そうとする動きがあります.確かに昔の方が良い面もあったと思います.しかし,それは上下関係や思想が良かったのではありません.かつての上下関係にはアガペーがありました.師弟関係にあるなら,師匠は役割や仕事としてではなく優しさから面倒を見ていたでしょう.また,昔は知らない人であっても,苦しんでいるなら声をかける優しい文化がありました.取り戻すのは昔の仕組みや思想ではなく,そんなアガペーの心なのでしょう.

では,アガペーの心は何で取り戻せるのでしょうか?キリスト教のように苦しみを感じる人に対して,アガペーを与えられる宗教であるなら,それも一つの答えでしょう.しかし,欧米の状況を見るなら,それは原理主義に走る可能性のある信仰心を育てることではなく,愛(アガペー)を実践する心が必要なのだと思います.

このように考えると,映画の「ペイ・フォワード」のような愛(アガペー)を広める運動が,現代社会を変えるような気がしています.

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/11/29

クリスマスはプレゼントをする日

クリスマスというと、サンタさんにプレゼントをもらえる日だと思っていましたが、聖家族(サクラダ・ファミリア)を思い出して、プレゼントをする日だそうです。

クリスマスは馬小屋でキリストの生まれた日ですが、そのときには、こんなことがありました。

羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(ルカ2・20)

また、占星術の学者が幼子イエスを探し当てて

彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2・11)

とあります。世話をしていた赤ちゃんにいずれ世話になるように、いつも一緒にいてくださる神の誕生を賛美して、祈りと言うお世話をすれば、いつかお世話をしてくださいます。

神さまを好きになると幸せになれます。そして、そのご利益を忘れずに祈ることが重要です。しかし、そのご利益を自分だけのものにするなら、それはご利益宗教になってしまいます。求めるだけでなく、出すこととバランスをとることが重要です。クリスマスには羊飼いのように「おめでとう」と言い、学者のようにプレゼントをしましょう。

このプレゼントは、神様の喜ばれるものだと思います。馬小屋に敷き詰めるワラとして日曜学校で集められるマッチのようなものでしょう。良い行いをしたら、マッチを一本そこに置きます。そして、クリスマスまでに、イエスさまが風邪をひかないように、馬小屋をマッチでいっぱいにするのです。

そういえば、小テレジアもおなじようなことをしていました。初聖体の日にイエスさまに花束を捧げましょうという代母の言葉に従って、「イエスさまに捧げる犠牲」「イエスさまに捧げる」を何回したかをノートにつけました。このノートは初聖体までにいっぱいになっていました。

今年はイエスさまに喜んでいただけるクリスマスプレゼントができますように、、、

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/11/25

釣鐘のような神

学生のころに好きだった司馬遼太郎著「竜馬がゆく」では、幕末の薩摩藩を代表して薩長同盟を結び、勝ち目のない西南の役で仲間のために命を投げ出した西郷隆盛を、「小さくたたけば小さく鳴り、大きくたたけば大きく鳴る」釣鐘のようだと書かれていました。先日の入門講座では、イエス様がそんな西郷隆盛のように感じられました。

入門講座では、水曜日の福音朗読箇所である「『ムナ』のたとえ」(ルカ19・11-27)には、「その言葉のゆえにお前を裁こう」という言葉が出てきます。このたとえは、以前ここでも紹介したタラントンのたとえと同じで、主人から預かったお金を増やした僕はほめられ、増やさなかった僕が怒られるお話です。神様の恵みを生かし、増やさなければいけないというお話ですが、この増やさなかった僕への言葉がよく分かりませんでした。

今回の入門講座では「あなたの信仰があなたを救った」(ルカ8・48)と並べて説明されました。「『ムナ』のたとえ」で厳しい言葉をかけられた僕は、主人を怖い人だと思っていたので、「わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか」と言われたのです。

「『ムナ』のたとえ」の僕のように神さまを怖いと思えば厳しくなり、娘への救いを求めたヤイロのように万能だと思えば救