2012/02/19

東日本大震災被災者のための祈り

今日ミサに与ったカトリック河原町教会では「東日本大震災被災者のための祈り」が祈られています。

あわれみ深い神さま、
あなたはどんな時も私たちから離れることなく、
喜びや悲しみを共にして下さいます。
今回の大震災によって苦しむ人々のために
あなたの助けと励ましを与えてください。
私たちからもその人たちのために犠牲をささげ、
祈り続けます。
そして、一日も早く、
安心で安らかに憩うことができますように。
主キリストによって。アーメン。
母であるマリアさま、
どうか私たちのためにお祈りください。アーメン。

今日の答唱詩編では「神は私を救われる。その慈しみをたたえよう」と歌いました。

アーメン

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011/01/09

だいじょうぶ

NHKの朝の連続TVドラマ「てっぱん」の中の言葉です。駅伝ランナーが足をけがして落ち込んでいるところを「だいじょうぶ」と主人公が励ましていました。

どうしようもない時に声をもらうなら、どんな言葉がうれしいでしょうか?

「頑張って!」そんな言葉をかける人もいるでしょう。少し前向きな時に言われたなら嬉しいかもしれませんが、どうしようもないときに言われるとつらいかもしれません。頑張りたくても頑張れないので苦しいのですから、、、。

「あなたなら大丈夫!」そんな言葉もあるでしょう。子供の時なら素直に聞けたかもしれません。でも、たとえ家族であっても「何がわかっているんだ!」そんな気持ちを抱いてしまうでしょう。

ドラマでは何も考えず「だいじょうぶ」そう言っていました。なぜとか、どうしてとか、そんなことは関係ありません。とにかく「だいじょうぶ」そんな脳天気な気持ちが落ち込んでいるときには必要なのです。

今日は河原町教会で久しぶりにミサに与りました。福音では、洗礼者ヨハネからイエス・キリストが洗礼を受け、

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3・17)

と言う声が、天から聞こえました。これは、イエスが救世主であることを示しているそうです。

晴佐久神父の「だいじょうぶだよ」という本がありますが、この「だいじょうぶ」という気持ちを抱けるのは、神様の恵みです。すべての物事には意味があり、世界を完成させるための神様の意思です。無駄に苦しいことはなく、それは喜びにつながるものです。

年をとるといろいろな苦しみがあり、ドラマの主人公のように純粋な気持ちで「だいじょうぶ」とは思えません。でも、神様の存在を認めることができるなら、ぎりぎりのところで「だいじょうぶ」と思えます。

たいした信仰ではありませんが、私にとっては大切な信仰です。

(聖書の引用は、日本聖書協会 新共同訳)

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/08/30

神様に任せなさい

今日は河原町でミサに与りました。司教の霊名のお祝いもかねたミサでした。
司教は高齢なこともあって、これが最後のミサかもしれないと祈りを込めて捧げますと言われ、最近亡くなられた聖職者の方たちのことを語られていました。

実は私も、会社で同期入社だった女性が亡くなられたことを最近知り、ショックを受けていました。1年ほど前に子供を亡くした心労が大きかったのだろうと聞きました。今日のミサの中で、霊魂の平安をお祈りしました。

今日の福音「昔の人の言い伝え」(マルコ7・1-8,14-15,21-23)の最後に

「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

という言葉がありました。この福音を受けてか、イクトウスという機関紙にも、こんな言葉がありました。

 愛する皆さん
 決して自分で復讐してはいけない
 復讐は神様に任せなさい

人との関係の中で、私たちは様々な良くない思いを持ってしまいます。でも、そんなものは神様に任せておいて、主の平安のうちに生きろと言うことなのでしょう。

亡くなられた女性は、私のかつての上司と職場結婚しました。正直なところ、あまり好きな上司ではありませんでした。でも、そんな思いは神様に任せて、悲しみくれているかつての上司のために、心の平安が訪れますようにとお祈りしました。

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/08/16

食べたのに死んでしまった

土曜日の聖母被昇天祭は所属教会に、日曜日は桂教会でミサに与りました。

土曜日の説教は心理学者のエリック・フロム(エーリッヒ・フロム)のお話でした。彼は愛するには配慮、責任、尊敬、知識が必要だと述べているそうです。

相手との関わりの中で、配慮がなければ愛することはできません。大事な人に義務でなく、優しさや配慮する責任があります。尊敬とは「再び人を見る」という意味です。その人のユニークさを大事にしなければなりません。知らない人は大事にしにくいです。大事でなければ、知ろうと思いません。

アガペーは自己中心でなく、献身的で、奉仕の愛です。全てをゆるし、哀れみを持ち、母の優しさ、無償の愛です。

といったお話でした。日曜のミサでは、福音「イエスは命のパン」(ヨハネ6・51-58)から

「先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。」

という天からマンナが降ってきたお話を受けたと思われるみことばを取り上げられ、それは食べただけで奉仕しなかったからだとされました。

2つの説教を聞いて、

「言は神であった。」(ヨハネ1・1)

という言葉を思い出していました。パンが神の肉、言葉であるなら、それを食べるとは信じることだと思います。そして血は肉に通うものですから、血を飲むことは信仰に基づいて行うことではないかと思いました。

イエスの言葉をいただき、それに従う。それが永遠の命、すなわち愛だと思いました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/08/04

後悔よりも感謝と希望

先週に引き続いて、日曜は河原町教会でミサに与りました。前のほうに座ると2階から噴出す冷風が寒いので、後ろのほうに座ると、ちょうど良い感じの涼しさでした。朗読の中では、第1朗読「マナ」(出エジプト16・2-4、12-15)に考えさせられました。

神さまに助けられてようやくエジプトから脱出できたましたが、人々は食事が少ないので「死んだ方がましだった」と不平を言いました。エジプトに居た頃なら肉やパンが食べられた、とモーセたちを責めます。神様は天からパンを降らせて、人々に与えました。

このときの人々は、エジプトから出てきたことを後悔し、それをモーセの責任にしました。この人たちはその後、どうしたのでしょうね。うずらの肉を食べ、マナ(パン)を食べ、それでも「腹いっぱい食べられたのに」と満足しなかったかもしれません。現実を受け入れず、過去をふりかえり、不満を言い続ける、、、そんな生き方は不幸だと思います。

一方のモーセは幸せです。現実のさまざまな苦難を受け入れて、感謝しているからです。あり余るほどの食事ではありませんが、必要な食事があることに感謝しました。そして神に感謝して、いつかたどり着くであろう約束の地に希望を抱きます。

人生の中で、色々なことが起こります。後悔することもあるでしょう。でも、現実を受け入れることができたなら、何とか生きていくことは可能だと思います。それは、とても厳しいことかもしれません。でも、そんなぎりぎりの恵みであっても、感謝することが未来につながります。

厳しい現実を変えることは難しくても、自分の心は変えることができます。どんな状況であっても、腐らず、あきらめず、ただ前に向かって生きることができたなら、いつか感謝の気持ちがわいてくるでしょう。そして、いつか希望の光が見えてくるのだと思います。

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/07/26

願うのではなく聞くことから始まる

今日は電車に乗り遅れたので、それでも間に合う河原町教会のミサに与りました。ミサ曲が7番からのものだったので、いつもと違って荘厳な感じがしました。

今日の福音は「5つのパンと2匹の魚」の話でした。第1朗読と詩編も福音に沿った神から食べ物が与えられるというものでした。特に詩編の解説を読むと「いのちのかてを豊かに恵まれる」というのは新共同訳では「ときに応じて食べ物をくださいます」とされていて、苦しくても不満を言うことなく、その時が来るのを待たないといけないと思っていました。

しかし、説教では、神に願うのではなく神の言葉を聞き従うようにと語られました。

第一朗読「エリシャの奇跡」(列王記下4・42-44)で「主は言われる」とあるように、奇跡は神の言葉だから実現することを話されました。人はついつい期待しますが、期待通りでなく、言葉通りになるように祈らなければなりません。

そして第二朗読「キリストの体は一つ」(エフェソ4・1-6)で「平和のきずなで結ばれて」とあるように、キリストのきずな、すなわち神の中で実現するのです。願うのではなく、聞くことから始まります。神の言葉をもっと知らなければなりません。

第3朗読のヨハネによる福音書は奇跡をしるしとして書いています。「五千人に食べ物を与える」(ヨハネ6・1-15)はパンを増やした奇跡の話というよりは、その後の「イエスは命のパン」とつながる話です。キリストにつながることで満たされるお話です。

勝手に作り上げた神ではなく、神のみ言葉を聞くことが大切です。都合が悪いことも聞き、キリストがしてほしいように生きることが大切です。

自分の望みばかりを祈るのではなく、時がくるまで神の望むように生きなければならないのでしょうね。

神に感謝!

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/07/19

しばらく休むがよい


今日の短い福音(マルコ6・30-34)から、説教では「しばらく休むがよい」という言葉が取り上げられました。聖書のはじめに出てくるように、7日目に神様が休まれたことから安息日が定められました。

実際に安息日が定められたのは、ユダヤ人がエジプトで奴隷になっているときだと本で読みました。毎日の重労働で人々が順に倒れていくことから、労使の妥協で礼拝の日が定められたそうです。それは人間が決めたルールではありますが、聖書で神が定めた休みに基づくものでした。

考えてみると、説教ので語られた神の定めた休みを、しっかりと守っていないように思いました。休みの日も仕事のことを考えたり、作業をしたり、、、聖書の最初の教えでさえも守っていないことに気付いて、驚きました。仕事だけでなく、文化的な生活を送ることも神の定めたことだったのですね。

昨日の聖書の分かち合いでは、最後の一文が気になりました。飼い主のいない羊のような群集の有様をイエスが哀れみ、色々と教えられたところです。人が生きるためにはどのように生きるかが判っていなければなりません。どのように生きるべきか、それは神様の教えである、そのように読めました。

休むことをはじめとして、様々な教えが聖書にあります。ついついおろそかにしてしまいますが、教えを大切にすることが、豊かな人生を歩むためには必要なのでしょうね。

ところで、「あなたがただけで人里離れた所へ行って」とイエス様は言われましたが、なぜ「イエスは舟から上がり」と書かれているのでしょうか?興奮した弟子の話を聞くことに疲れたイエスが、弟子たちだけをどこかにやろうとしたのに、「まあ、そう言わずに」などと言われて一緒に行動したのでしょうか?それとも、別の船で違うところに行こうとしていたのでしょうか?それとも急に現れたという奇跡の話なのでしょうか?不思議に思ったのは私だけ?

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/06/14

「子どもの祈り」と「十戒」

桂教会では、ミサや集会祭儀の時に「子どもの祈り」を唱えます。

とても長いお祈りです。どうしてこんなに長いのかと思っていたのですが、プリントをいただいて、モーセの十戒(リンク先はWikipedia)が中に含まれていることに気付きました。以前、MAGISさんが書かれていたようにカトリックでは置き換えられることの多い、第二戒の偶像崇拝もわかりやすい祈りになっています。子供たちにとってとても良いお祈りだと思いました。

   + 子どもの祈り +

イエス様、ごミサにあずかれたことを 感謝します。

世界の全ての人が 平和になるようにしてください。
病気の人、つらい気持ちでいる人を 助けてください。
私たちの家の人、ご近所の人、学校の皆に、お恵みをお与えください。
私たちが、神様のよい子になれるよう、導いてください。

私たちは、神様だけを 神様として 敬います。
私たちは、いつも神様に向かって お祈りします。
私たちは、神様のお名前を 大切にします。
私たちは、日曜日を 神様の日として お祈りと 人に親切にする日とします。
私たちは、お父さん お母さん おじいさん おばあさんを 大切にします。
私たちは、人を傷つけたり 人のいやがることをしません。
私たちは、からだを 神様の神殿として 大切にします。
私たちは、人の物を とったり こわしたりしません。
私たちは、うそをつきません。
私たちは、むやみに 物をほしがりません。

マリア様、今週も私たちが、あなたのように、美しい心で、よい子でいることができるよう、見ていてください。アーメン。

   +   +   +

いかがでしょうか?

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

流れのほとりの木のように - 桂教会の集会祭儀 -

今日は桂教会の集会祭儀に参加しました。集会祭儀と言うのは、ミサと違って神父様がおられず、信者たちだけで祈ります。このため聖変化がなく、もちろん御血の拝領もありません。信者たちで祝い、御言葉を味わい、あらかじめ用意された御聖体をいただくのです。なんとなくキリシタン時代の信者が信仰を守る姿を思い浮かべたりして、結構好きです。

集会祭儀の入祭の歌は典礼聖歌153番「流れのほとりの木のように」でした。

流れのほとりの木のように
神に従う人は実をむすぶ

神の定められた流れに従うならば、時が来れば実を結ぶことができる。認め難い現実も受け入れて、ただ誠実に生きることが実を結ぶことにつながる。そんな思いが浮かぶ歌でした。

神父の説教にあたるお話は「勧めのことば」になります。世の中に数多くある検定の中には聖書検定なるものもあるそうです。そして、その初級には、福音書の数や新約聖書の文書の数を問う問題があるそうです。

簡単な質問であってもついつい間違えてしまうもので、以前、奥村神父の黙想会で「主とは誰か?」と問われて「神さま」と答えてしまったお話をされました。ミサの中で「私たちの主、イエス・キリストによって」といつも言っているのに間違えてしまった。聖母マリアへの祈りも出てこないことがあったと、信仰の薄さを語られて謙遜されていました。

そして、あるミサの中で神父が真剣に祈られていたことを取り上げられ、「私たちの主、イエス・キリストによって」と祈ることの大切さを語られていました。

拝領の歌は典礼聖歌96番でした。所属教会では聖水による祝福を受ける際に良く歌うのですが、御聖体をいただいた後に

この水を受けた すべての人は 
救いの喜びに 声あげて歌う 
アレルヤ アレルヤ

と歌うのも良いものですね。救いの喜びを今日も感じることができました。

神に感謝!

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/06/06

神の愛に希望を置く

今日は茨木教会のミサに与りました。
福音は「弟子たちを派遣する」(マタイ28・16)でした。説教ではイギリスの無神論者たちが行った広告のお話から始まりました。これは、Good News Collectionの「『たぶん神はいない』というイギリスのバスの広告」で書かれていたお話のようです。「神はいない、だから人生を楽しもう」という広告に対して、私たちは福音にあるように「父と子と聖霊の名によって洗礼」を受けました。私たちのそばには、いつも神さまがおられるのです。というお話でした。

このお話を聴きながら、答唱詩編を歌いながら涙を流してしまったことを思い出しました。

 神の注がれる目は神をおそれる者に
 神の愛に希望をおく者の上に

この歌詞を読んで、感動的とは思いませんか。神の愛に希望を置くものには神の目が注がれている、いつもそばにいる神が、苦しいときも悲しいときも、じっと見ていてくれている。だから、希望を失わない、だいじょうぶだ!そんな気持ちがこみ上げてくるのです。

実はその思いにも理由があります。今月号の心のともしび機関紙のテーマは「光」でした。良いお話ばかりなのですが、その中でも橋本勲神父の「あなたがたは世の光(リンク先で全文読めます)」に感動したからです。

聖書のはじめの「光あれ」という言葉は、世界の出発点出の光で、太陽や月の光でなく、世界の内側にともされた光だそうです。それはすべてのものが本来持っている光です。

ですから新約聖書も「あなたがたは明るく振る舞って、光る者になりなさい」というのではなく「あなたがたは世の光である」(マタイ5・14)と、明確に断言し、宣言しています。

これはエッセイストの三宮麻由子さんが「内なる光に気付けば(リンク先で全文読めます)」にも書かれています。ゲーテのように「もっと光を」と外から光を得ようとしなくても、一人一人の内なる光、神さまに与えられた光をしっかり見つめれば良いのだと思います。

でも言葉ではわかっていても、自信のないときもあります。そこで今日の答唱詩編です。自分の光を見失いそうなときでも、神の愛に希望をおけば神は見ていてくださる。そう歌いながら涙したのです。さらに説教では「いつもそばにいてくださる」とまで言われたのです。これだけ心強い言葉が揃えばもう何もいうことはありません。

「必要なものは与えられる」強くそう思ったミサでした。

神に感謝!

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (1)

より以前の記事一覧