2008/06/08

愛であっていけにえではなく

昨晩、信仰義認のことを書いて、遠藤氏の「沈黙」の話を書きました。すると今日の朗読で出てきた言葉は、

わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく
神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。(ホセア6・6)

沈黙の神父は、この言葉を実践したようにも思えます。

今日は近くの教会で共同祭儀でした。講話では、福音書を書いたマタイが神と出会って食事をした(食事は救いの意味がある)ことの解説。そして、我々はファリサイ派のように、ルールを守ってさえいれば良いと思いがちとの指摘がありました。

信仰は形(行い)ではなく、心なのだと思いました。神の前にあって、行いに対する義務感は不要、愛だけが必要なのでしょう。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/04/13

私たちは羊飼い

今日は時間がないので、近くの桂教会で共同祭儀に与ってきました。京都ではブロック単位の共同司牧が行われていて、毎月の第何週かによって、ミサ、共同祭儀、ブロックミサが行われています。

共同祭儀では神父さまがおられず、信者だけで祭儀を行います。このため、聖変化(パン->御聖体、葡萄酒->御血の変化)がなく、すでにあるご聖体が用いられます。両形態(葡萄酒もいただける祭儀)ではないので少しさびしいですが、手作り感と、説教の代わりに行われる講和が率直で親しみやすい場合が多く、ミサ同様に恵みを感じます。

今日の講話は福音朗読の「『羊の囲い』のたとえ」(ヨハネ10・1-10)について話されました。ミサの中でもよく歌われるような内容ですが、良く読むと2つのことに気が付きます。

一つ目はイエスさまが、ファリサイ派に話されていたことです。私たちは、神さまの教えにしたがっているつもりで、知らない間にファリサイ派になっていないか、振り返る必要があります。

もう一つは、イエス・キリストが門であることです。ずっと、イエス・キリストは良い羊飼いだと主ていましたが、羊飼いでなく門なのです。この答えは、第2朗読の「召し使いたちへの勧め」(2・20b-25)の最後にあります。

あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

私たちは羊でなく羊飼いだということです。

日頃の生活の中で神様に救いばかりを求めてしまいますが、人を救うことが求められていたのですね。

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2008/01/12

信仰のあかし - カトリック河原町教会夜のミサ -

先週の「主の公現」は「エピファニ」と呼ばれ、もともとのクリスマスだそうです(福音のヒントによると「輝き出ること」という意味のようです)。ヨーロッパの東の方(正教会などの東方諸教会)では今もクリスマスとされているそうです。実は寝坊をしてしまい、所属教会の9時半のミサはもちろんのこと、河原町教会の10時のミサ、長岡教会の11時のミサにも間に合いませんでした。そこで、クリスマスの飾りの残る河原町教会の18時半のミサに与りました。朝のミサに比べると歌が少なくてちょっと残念でしたが、良いお話とご聖体の恵みがいただけて幸せでした。

福音は「占星術の学者たちが訪れる」(マタイ2・1-12)でした。東方で見た星からユダヤの王(イエスさまのこと)を知った占星術師たちが、ヘロデ王を尋ねたお話です。メシア(救世主)の誕生を知った占星術師たちは喜び、ひれ伏し、贈り物をささげました。一方、ヘロデ王は、メシアの誕生を不安に思い、探し出して殺そうとしました。

説教では、創世記のお話から始まりました。神は「光あれ」(創世記1・3)と言われました。このあと「光と闇を分け」(創世記1・3)とあるので、太陽を作られたことを示すのではなく、と神の栄光を示されたことを表しているようです。

私たちは栄光の鏡です。光と受け、自分を通して神の栄光を世に示します。それが「信仰のあかし」です。神の恵みを受けとめて、努力することが求められているのです。

福音の中では、神の子の誕生という恵みに対して、ヘロデ王は不安になり、地位や既得権を守ろうとしました。一方、博士たちは喜びました。神の恵みに対して私たちに求められるのはどちらの対応でしょうか?私たちの行いは信仰のあかしなのです。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/09/24

薄くても恵みがいっぱい

今日はひさしぶりに河原町でミサに与りました。河原町教会のホスチアは少し薄めなのですが、恵みはたっぷり詰まっていました。

福音の朗読箇所はショート版の「『不正な管理人』のたとえ」(ルカ16・10-13)でした。短く読まれたとはいえ、やはり難しい内容です。説教では福音が難しい時の対処法を話されました。「聖書と典礼」にある「集会祈願」「奉納祈願」「共同祈願」を嫁とのことでした。たしかに「まことの豊かさ」「恵みを味あわせてください」「真理と正義をたえず求めながら、行動することができますように」と書かれていて、よくわかります。

今回の所は、入門講座でも分かち合いました。やはり、前半が気になります。「福音のヒント」によると、不正な管理人は主人のお金を貸すときに借用証書に多めの金額を書かせて差額を自分のものにしていたようです。割引債(リンク先はWikipedia)のようなものですね。

これは金利分を先に払っているだけで、利息を取っていることに違いはないのですが、当時のユダヤでは利息を取ることができないので、方便としてこうしていたようです。イスラム(リンク先は教えて!gooイスラム銀行とは)や宗教改革前のキリスト教(リンク先はキリスト教と利息取得)も同じようです。

この不正な管理人はばれそうになって、うまくやるんです。利息を取っていないように証書を書きなおさせます。それは、

管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。

という思いからでしたが、主人は「抜け目のないやり方をほめ」ました。これは、

神と富とに仕えることはできない。

というお話です。

「いつも目を覚ましていなさい」と言われますが、「あとから来た者に追い越され」とも言われます。そして、今日の福音は「やばい!」と思ってやり直して褒められる。というものです。どんなに悪いことをしていても、改めれば赦されるというのは、神の愛の大きを示しているのでしょう。

このお話は、なんとなく「天国泥棒」という言葉を思い出させます。これはアウグスチヌスの時代にもあったもので、自由気ままに生きておいて、死の直前に洗礼を受けるというものです。死に瀕したアウグスチヌスに家族は洗礼を受けさせようとしましたが、病気が治ると洗礼をやめちゃったのですよね。そして、真理に目覚めるまでアウグスチヌスの洗礼はお預けになります。

でも、本当に自分の罪深さに気づいたなら、三浦綾子さんのように洗礼を受けたくて居ても立ってもいられなくなるんですよね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/09/10

十字架を背負ったお地蔵様

今日のミサの福音朗読は「弟子の条件(ルカ14・25-33)」(リンク先はJBS日本聖書協会)でした。エルサレムに近くなるにつれて、自分の十字架を背負う、途中で挫折しない、自分の持ち物を一切捨てる、というようにお話がどんどん厳しくなってきました。

信仰の道が途中で挫折しないためには、神に祈り、御旨を知り、喜びに生きることが重要なのでしょう。そのようなことを思っていると、大阪カトリック時報の記事を思い出しました。

記事によると、兵庫県加西市では背中に十字架が刻まれたお地蔵さまが見つかっているそうです。それも複数の場所から千体以上見つかっているようです。十字架地蔵研究のホームページによれば、明治時代のクリスチャンの分布と十字架地蔵の分布が一致していて、十字架地蔵は隠れキリシタンによるものと考えられているようです。

今の日本では少数派であるものの、命がけでなくとも信仰を維持できます。しかし、使徒の時代や、隠れキリシタンの時代には、すべてを捨てる覚悟でなければ信仰を守ることができなかったのですね。信仰のしるしである十字架をお地蔵様の背中に隠し、自らの背負った十字架を守り抜いたのでしょう。

当時の人たちはどんな気持ちだったのでしょうね。日々命の危険を感じながらも、「今日も一日無事に過ごせました」と感謝と喜びの中で祈っていたのでしょうか。きっと、何もかも捨てて、信仰に生きたからこそ、その喜びが得られたのでしょうね。

以前、神父様からうかがった言葉を思い出しました。

「信仰とは、神様を一番に置くこと」

この言葉が、少しわかったような気がします。

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2007/08/19

目を覚まして社会の洗礼を受ける

昨日は茨木教会でミサに与り、そのあとに同じ個所を所属教会で分かち合いました。

福音は「分裂をもたらす(リンク先はJBS日本聖書協会)」(ルカ12・49)でした。説教では、海外から来られている神父さまと高山右近のお話をされました。海外から来られている神父さまは、神の御旨に従って骨をうずめる覚悟で日本に来られていますが、その親御さんは、必ずしも喜ばれているわけではありません。神父さまが海外に行くと言われたとき、引きとめたり、悲しまれることが多いようです。神の御旨に従うことは、愛する家族との間にも対立を生むものなのです。

高山右近の場合は豊臣秀吉と対立しました。2度にわたる禁教令によって、領地を捨てて小豆島に移り住み、さらには日本を捨ててマニラに移り住みました。信仰を捨てれば領主として残ることができましたが、神の御旨に従う道を選んだのです。対立を恐れずに御旨に従うことが必要なのです。

短い福音でしたが、聖書の分かち合いでは色々な色々なお話をすることができました。特に「対立」と言う言葉と「火」という言葉について、多くの意見を交換しました。

「対立」と言うとまるでアウグスティヌスの思想(リンク先はWikipedia)にはじまる「正戦論」のようにとらえてしまいそうになりますが、どうも違うようです。福音書はこのあと「時を見分ける」「訴える人と仲直りする」と続き、戦うのではなく、対立を生むことを覚悟するような意味合いのようです。

「火」は、ソドムとゴモラのイメージから、神さまに焼き尽くされるようなイメージを持ちがちです。しかし、福音にある「火」は、洗礼式のローソクのようなあたたかい「火」です。

その「火」は平和をもたらすための「火」ですが、異なる信仰をもつ人と妥協していれば平和を得ることはできません。対立を恐れずに常に目を覚まして置かなければなりません。そして時を待ち、平和の輪を広げていく、そのような教えが書かれているのだと思います。

先週の朗読箇所の最後のところには、こう書かれていました。

しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。(ルカ12・48)

真理を知らない人たちは罪深くはありませんが、真理を知ったものは、御旨にそむくことは許されないのです。

少数派の信仰者は社会の中で孤立しがちです。また、成人洗礼であるなら家庭の中でも孤立することもあるでしょう。しかし、どのような時も常に目を覚まし、イエスさまのように社会の洗礼を進んで受けることも必要なのかもしれません。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/07/10

平和を祈り、恵みをいただく

日曜は桂教会の集会祭儀に与りました。ここの教会の内装は、照明や窓の障子など(リンク先はHoly Ring)、どことなく和風な感じがお気に入りです。

集会祭儀では神父さまがおられないので、聖変化(パンと葡萄酒が御聖体と御血になること、鐘が鳴らされます)とお説教がありません。信者たちで祭儀が行われ、聖櫃に保存された御聖体が用いられ、信者による講話があります。

今回でまだ2回目の集会祭儀ですが、神父さまに比べると福音の構成など、まじめな説明が多いように思います。今回の講話も朗読箇所の章の構成というまじめな説明からはいられましたが、後半はなかなか考えさせられました。今回の朗読箇所「七十二人を派遣する」(ルカ10・1-12,17-20)とその前にある12人を派遣する話の比較をされたのです。

72人の派遣は、二人ずつであること、平和を祈ったこと、が異なります。二人ずつと言えば、シスターたちが外に出られる時がそうだったようですね。これは、何かの際に二人でないと、昔の法律では証明にならなかったからだと聞いたことがあります。講話では病人の方に御聖体を持っていくときのことが思い浮かぶと言われていました。

平和を祈ったことに関しては、ミサとの類似性を語られました。福音の中では、『この家に平和があるように』(ルカ10・5)と言い、食事を共にし、病気を癒し、『神の国はあなたがたに近づいた』(ルカ10・9)と言います。同じようにミサの中では、平和の挨拶を行った後に、御聖体を拝領し、祝福を受け、「主の平和のうちに」と派遣されます。

まず平和を祈ってから恵みをいただくということが大事なのでしょうね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/06/18

罪に気付き、幸せに気づけば、平和が訪れる

Kitano_1 今日は午後から大阪市内で用事があったので、梅田の北野教会でミサにあずかりました(写真は聖体訪問のときのもの)。神父様のホスチアが大きいことを期待していたのですが、普通のサイズでした。でも、光の当たったホスチアにキリストの意味である「XP」(リンク先はWikipedia)のマークが一瞬見えた時、感動して声を上げそうになりました。

お説教では罪とゆるしについて語られました。昔は告解(ゆるしの秘跡)を2週間に一度するようにと言われて、子どもたちは「お兄ちゃんを3回たたきました」「お母さんに逆らいました」なんて告白していたそうです。そして、時には「罪を犯していません」などと告解をしない子供もいたそうです。

でも、これは罪の考え方が違うそうです。何をしたかではなく、心の中に罪がある。だから人間は罪を犯さずには生きていけない。罪に気づいていないだけとのこと。

福音朗読の「罪深い女を赦す」(ルカ7・36-50)でもそうです。ファリサイ派のシモンは、自分は罪を犯さずに生きているが、この女は罪を犯していると考えていたようです。しかし、シモンも罪を犯していたのに気付かなかっただけなのです。罪に気づいていればもっと神を愛せたのに「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と言われてしまったのです。

土曜日の聖書の分かち合いでも、シモンのように人を批判する心がどうして起きるかが話題になりました。人はもっと幸せになろうとして、自分を守ります。そして、ついつい人を批判して自分の地位を高めようとしてしまうのだと話しあいました。自分が十分に幸せであることに気付けたら、そんな思いを抱かずに、人にやさしくできると思います。

自分の罪に気づき、すでに幸せであることに気づけたなら、もっと神を愛し、平和な心ですごせるのだろう。そう思いました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/05/27

聖霊を受けて自由意思による選びをする

今日は聖霊降臨の主日でした。所属教会の第2ミサは地区大会のためにお休みで、黄砂のためか体調も悪いので、今日は何もしない安息日にしようかとも思いましたが、近くの桂教会でミサにあずかりました。ここのお御堂は打ちっぱなしのコンクリートながら、窓に障子があってどことなく和風で落ち着いた雰囲気です。

聖霊降臨の主日にあわせて、入祭の歌は典礼聖歌5番「あなたのいきを」(リンク先は典礼聖歌・詩編をうたう)でした。

あなたの いきを おくってください
すべてが あらたに なるように

そのために毎週、ミサに与るのですよね。

説教は聖霊についてのお話でした。神父様の子供の頃のご家庭のお話の後、ご兄弟の家庭が大変なことになっているとのお母様の電話に「私は家庭のことはわかりませんから、どうぞご自由に」とお話しされているのことでした。淡々とした口調に思わず笑ってしまいましたが、この言葉が今日のお話のポイントでした。

聖霊はさまざまなところで働いています。ルカによる福音書、使徒言行録、ローマへの手紙などに、たくさん書かれています。特に、ルカによる福音書社会、経済、政治、身体、精神、霊的な恵みについて書かれています。

聖霊による洗礼を私たちは受けました。神の子として、「アッパ」(幼児語でお父さん:ローマ8・15)と呼び、聖霊を受けて自由意思による選びをするならば、6つの恵みを感じて、幸せになることができます。

これは、逆のこともいえます。多くの恵みを得ていても、単に上昇志向だけで、自分中心の考えにとらわれて、自身のタラントンを生かさないならば、幸せになれないということでもあります。

聖霊を感じ、選びを大切にしましょう

行くときの疲れも消え、一週間分の元気をいただきました。

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2007/04/05

福音宣言する教会 - 聖香油のミサ -

一度は行ってみたかったので、フレックスタイムを活用して大阪カテドラルに行ってきました。

聖香油のミサは、司教さまが聖香油を聖別(祝福)されるミサですが、司教区の司祭全員(司祭団)による、司祭の約束の更新もあります。大阪中の神父さまが左右に分かれて前に座られた様子は、なかなか壮観でした。また、司教様がミトラ(司教冠)、司教杖(牧杖)をされた姿も、伝統を感じました。

聖香油のミサでは、求道者の油、志願者の油、病者に塗る油、であるサクラクリスマ(聖香油)として、オリーブ油とバルサムで聖別されます。聖香油の「香」は良い影響をあたえる意味で、「油」は腐食しないで長持ちし、浸透する、豊かに注がれる様に、毒されないといった意味があり、聖霊の賜物の多様性を示しています。

説教では、第2バチカン公会議から信徒の意識が変わった事をお話されました。昔は、教会のことをすべて神父さまが行っていました。しかし、第2バチカン公会議以降は、信徒も牧者、宣教者であることが再確認され、神父様とともに、あるいは信徒だけで、病人にご聖体を配ったり、集会祭儀を行うようになってきました。

もちろん、今日のミサで約束を更新された司祭は、牧者の中の牧者、宣教者の中の宣教者ですが、信徒も牧者であり、宣教者であり、共同体の一員だとされました。

そして、高円寺教会におられる晴佐久神父の話題が続きました。晴佐久神父は高円寺に異動されて4年ですが、毎年、90人から100人超に洗礼を授けられています。その晴佐久神父が最近よく使われる「福音宣言」という言葉を紹介されました。

福音宣言は、福音の必要な人に、「もう大丈夫」「あなたも愛されている」と宣言する事だそうです。帰ってから検索してみると、たしかにカトリック新聞はじめ多くのところでお話されていて、昨年の復活の主日の説教(リンク先は福音の森)でも、

神は今も働いておられます。すべての人を愛しているから。ご自分の愛のわざを実現させております。今日ここに集まった皆さんはそのことを宣言するためにこの聖堂から出発いたしましょう。

と言われています。司教様は、教会の一員として福音宣言することを、信徒に求められました。

閉祭のときには、いつものように「父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように」と派遣の祝福を受けました。そしてミサの語源である「行きましょう。主の平和にうちに(ラテン語でIte, missa est)」とあいさつをされました。この"missa"というのも派遣の意味なんですよね。

こうして信徒たちは、自分たちが感じ、信じた神の愛を福音宣言すべく、派遣されました。ミサでは、御聖体をいただくことに気持ちが行きがちですが、神の言葉を聞き、派遣されることが、ミサなのですね。

(来年は叙階式を狙っています。。。)

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2007/03/25

昔のことを思いめぐらすな

ミサでは3つの朗読が読まれます。たまに、その構成に関心することがあります。今日のミサもそうでした。

第一朗読の(イザヤ43・16-21)では、こんな言葉が出てきます。   

初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。
見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。

第2朗読の「キリストを信じるとは/目標を目指して」(フィリピ3・8-14)には、こう書かれています。

なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

そして福音朗読の(ヨハネ8・1-11)では、こう書かれています。

イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

そう、すべて、過去のことではなく、これから始まる未来のこと考えるように書かれているのです。洗礼や回心に向けて、過去の痛悔は必要です。しかし、それにいつまでもとらわれるのではなく、未来に向けて踏みだすことが重要なのでしょう。

説教では、神父さまの幼稚園の園長時代のお話から始まりました。年少さんではしゃがんで目の高さで話をし、年長さんになると小学校で戸惑わないように高い位置から話をするそうです。そして、今日の朗読のイエス様も初めは許しを請う罪人のようにかがんでおられました。そして、人々を諭すときには身を起こしました。そしてかがんだ後に身をおこして、姦通の罪を犯した女性に、上述のように言われたのです。人を裁いたり、攻撃するような判断をするのではなく、共感することが重要です。そういうお話でした。

これは、人に対してだけでなく、聖書に関してもそうではないでしょうか。聖書を読むと、これはどういう意味だろうと、色々と考えてしまいます。そして、ついつい、これは寓話だとか、現実的でないと考えてしまいがちです。しかし、聖書に書かれた言葉に少しでも共感したのなら、その感動を大事にすべきではないでしょうか。

今日、共感した言葉は「希望」を感じさせる言葉でした。また一週間、振り返らずに前に進むことができます。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/03/04

祈れば神さまの顔を見ることができる

ちょっと疲れていましたので、日曜には体調を回復すべく土曜日のうちに茨木教会のミサに与りました。上智大学の外人の神父様(お名前を失念しました。すみません)が来られていて、一味違うお説教を聞かせていただきました。

茨木教会周辺の道路は一方通行なので、タクシーでは少しはなれたところに降ろされることがあるようです。この辺りだと降ろされた神父様は周囲の方に尋ねられたものの、あっちだ、こっちだと、なかなかたどり着けず、あきらめて東京に帰ろうかと思っていると、ようやく親切な人にめぐり合ったと、ぎりぎりで来られました。

お説教では、ぎりぎりになったいきさつお話され、それとも関係するとして、答唱詩編の「神よあなたの顔の光を、わたしたちの上に照らしてください」を引用して、お話されました。

四旬節というと犠牲といわれますが、あるときのミサで、毎日ミサに出るように言われたそうです。それ以来、神父様はミサを欠かしておられないそうです。毎日ミサに出る、あるいは、毎日15分祈れば神さまの顔を見ることができると、神様の顔を見て洗礼を受けられた二人の方のお話をされました。

一人目の方は熱心な信者さんの知り合いで、寝ているときに光の中に人が立っているのを見られたそうです。翌日、信者の方と教会に行くと、ステンドグラスの中に同じ顔を見つけたそうです。そして、神父様にお願いして普通よりも短い期間で洗礼を受けられたそうです。

もう一人の方は、ある教会で十字架の前で祈っていると、十字架が迫ってきたそうです。この方も、普通よりも短い期間で洗礼を受けられたそうです。

お二人とも、神さまの顔を見て幸せになられたということだと思います。そして、最後に毎日ミサに出ましょう。それも犠牲のひとつですと言われていました(3月5日追記)。

お説教が終わった時は、道に迷ったお話との関係が良くわかりませんでしたが、良く考えると、道に迷って最後に助けてくださったのは、神さまだったということなのでしょうね。

なにげない偶然のような出来事も、祈ることで神さまの恵みになる。そんな信仰を語られたのだと思いました。

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2007/01/09

迎えられ、派遣される

月曜は主の洗礼のミサでした。洗礼というと、水によって罪が消えることを思い浮かべがちですが、迎え入れる意味もあります。洗礼によって人は迎え入れ、また迎え入れられます。そして、人と人が洗礼によってつながります。

洗礼の行われる入信式では、堅信の塗油も行われます。この油によって、司祭、預言、王の権限が与えられ私たちは派遣されます。

司祭は、人を迎え、人と人をつなぐことが仕事です。預言とは神の言葉を預かり実践することです。王は、支配することが仕事です。人を支え、心を配るのだそうです。

福音朗読(ルカ3・15-16/21-22)の後半「イエス、洗礼を受ける」には、こう書かれています。

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

こんな声が聞こえるように、キリスト者として生きて生きたいものです。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/12/17

足の裏に感謝! - カトリック河原町教会 -

061217kawaramati_naka ミサの説教にも色々なパターンがあります.朗読箇所の説明,朗読に関係ないお話,朗読を関係する別のお話,,,今日のお説教は,キリストの解説とたとえ話でした.

ヨハネがもっと優れた人と言ったキリストは,それまでこの世の恵みを与えていた神を,心の恵みを与えるものに変えました.それは,十字架にかかることで人々の償いをするものでした.

人が生きている中で,すべての体重は足の裏にかかっています.冷たい風の当たる顔も,足がすべての体重を支えていてくれるからです.顔はついついそのようなことを忘れてしまいます.

人々の罪を背負ったキリストは,私たちの足の裏です.足の裏がなくては生きていけず,感謝をしなければ足の裏に顔向けができません.

若干の脚色しまっていると思いますが,なかなか面白いたとえ話でした.信仰がなくても現代社会の基盤がキリストの教えに立脚していることは誰もが認めることでしょう.

061217kawaramati_soto1 お祭り気分になりがちなクリスマスですが,しばしの間,キリストに思いをはせることができました.

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2006/12/05

玉造教会でのロザリオの祈り

金曜日は色々と祈りたいことがあって、玉造教会でミサに与りました。今回は仕事が早く終わったので、ミサ前(18時半から)のロザリオの祈り(リンク先はカトリック高槻教会の扉)に間に合いました。

これまでは所属教会のミサ前に少しだけ祈ったり、寝る前に主の祈りと天使祝詞を祈ったり(ロザリオの祈りではないですねぇ)もしましたが、ロザリオの祈りを一環祈ったのは初めての経験でした。

なぜか前回よりも人が少なくて、先唱を頼まれましたが、(経験が少ないので)さすがに辞退させていただいて、お祈りを始めました。ロザリオの祈りは、知っているお祈りを繰り返すので、退屈するかと思っていました。しかし、静かな聖堂で祈っていると、退屈どころか祈りたかった事柄がどんどん浮かんできます。最初のうちは小さな声で唱えましたが、気持ちが入るとしっかり祈ることができました。

また機会があれば、今度はロザリオを持って行き、共に祈らせていただこうと思います。

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2006/12/02

「心の調律」ペトロ神父のミサ - 茨木教会 -

待降節第一主日は所属教会のミサと黙想会の予定でしたが、お付き合いでカトリック茨木教会でミサに与りました。金曜日も玉造教会でミサに与りましたので3日連続、聖週間以来です。

さて、ミサは祈りの園を主宰されているペトロ神父(リンク先は明るい日々を送るには)と主任司祭の共同司祭で行われました(祈りの園には、ミサに与れないときの霊的聖体拝領などの祈りや、テレホンサービスの案内がありますのでぜひご覧ください)。

説教は「心の調律」について。神戸の教会で聖体訪問された際に、たまたまパイプオルガンが調律されていたそうです。はじめは落ち着いて祈れないと思われたそうですが、そのうちに心の調律に気づかれました。

心の調律では、絶対的な音である神さまに心を合わせます。日々の生活の中で少しずつずれていった心を、黙想して一音、一音、神さまに一致させていきます。幸せを辞書で調べると「仕合せ」と書かれています。神様に仕え、心を合わせることが幸せなのです。

今日から教会では新年です。何もないかのように終わりは始まりにつながりますが、心を調律してきれいな心で始めましょう。

ミサの後の黙想会には出られませんでしたが、明日は所属教会で心の調律をしてきます。

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2006/11/26

王であるキリスト

今日はB年最後の主日ミサ「王であるキリスト」です。カトリックはA,B,Cの3年で朗読箇所が一巡するので、来週からはC年の待降節が始まります。日曜に用事があったので、おとなりの茨木教会の夕方のミサに与りました。

ミサの最初に歌う入祭の歌が良いですよね。「栄光は世界におよび、すべてを超えて神は偉大」まさに、キリストこそ王であるとする歌です。

今日の福音朗読は「ピラトから尋問される」(ヨハネ18・33b-37)でした。この中で、キリストは「お前がユダヤ人の王なのか」と質問されますが、「わたしの国は、この世には属していない」と答え、さらに問われると、

わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。

と言われます。お説教では、この世の王でないことに注目されました。「もし、キリストがユダヤの王であると言ったなら、2000年後にミサに集まることもなかったでしょう。」う~ん,、確かにそうですよね。

「もし、キリストがユダヤの王であったなら、その国は100年も持たなかったでしょう。」これもそうですよね。キリストの国が、シーザーやナポレオンの国であったなら、2000年も持つわけありません。

伝えられたものが真理であり、永遠のものであるからこそ、2000年経ったいまでも国の完成を目指して人々が教会に集うのでしょう。私も真理に生きたいと思います。

おまけ:
キリストの「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」という言葉を聞いて、書きかけていた昨日の記事を思い浮かべました。

カトリック茨木教会のクリスマス予定:
24日は朝9時30分に待降節第4主日ミサ、19時30分に主の降誕前晩ミサ、翌25日は朝9時30分に主の降誕ミサがあります。Mass(English) 18:00(25th, Dec.)

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/11/12

不正な管理人のたとえ - カトリック玉造教会 -

最近お休みだったり、忙しかったりで入門講座に行けなかったので、ちょっとガス欠気味でした。そこで、カトリック玉造教会の金曜夜7時にあるミサに与りました。夜型の私にとって、平日朝のミサはなかなか難しいものがありますが、夜7時なら仕事が少し早く切り上げられば、何とか間に合います。

金曜の夜のミサは、大聖堂の左前方角の小聖堂であります。小聖堂と言っても200席ぐらいはあり、小聖堂だけで一つの教会並です。左手にはフランシスコ・ザビエルを描いた大きなステンドグラスがありますが、夜なのであまりよく見えませんでしたが、帰りに外から見ると中の明かりできれいでした(リンク先はHOLY RING)。

小聖堂のすべての席には、折りたたみ式の跪き台があります。イグナチオ教会のように全員が跪くのでもなく、赤羽教会のように跪く人がそろって跪くのでもなく、聖変化のときだけ跪く人や、ずっと跪くひとなど、それぞれの思いのままに跪く様子が大阪的で良かったです。

金曜日の夜なので土曜日のミサになるのかと思っていたのですが、朗読は金曜日のミサの「不正な管理人のたとえ」の前半(ルカ16・1-8)でした。このお話はなかなか難解です。平日のミサでは、教会によっては神父様がコメントされることもありますが、今回はありませんでした。これは、なんとしても自分なりに理解しなければなりません。

このお話は、主人の財産を無駄遣いしていた管理人が、主人にばれたことから

管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ

と考えて、主人の借金をしている人の証文の金額を少なく書き直させます。これを知った主人は

この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。

インターネットで見ていると、難しいお話として紹介されています。しかも、色々な解釈がありました。

  • 最後の一節から「危機感を持って生きよ」
  • ザアカイ、放蕩息子などが示す神の姿から、富に執着しなくなったときにすくわれる
  • 主人は神なので恵みをたくさん受けてさらに他人のために生きる、仲間、共同体を大切にしましょう
  • 私たちの奉仕や献金も聖なる神の前では不正であり「不正にまみれた富で友達を作りなさい、ミサに主体的に参加しなさい」と言われている
  • 「人が人をゆるし、人と人とが友として和解すること」を勧めている

それぞれ納得させられたり、考えさせられたりした。私はこれらを読んでいて、外国のお金持ちが急に社会貢献する様子を思い出しました。欧米の人たちは、キリストの教えが深層心理に埋め込まれていて、会社を興し、どんどん大きくしてお金持ちになり、人々から疎ましがられると、急に寄付をしだすお金持ちです。(神に比べると)不正な富をためることが急に怖くなるのでしょうね。

そして最後に思ったのは、いずれにせよ人は罪を犯さずには生きていけないと思いました。せめて意識して犯す大罪を避け、なるべく良く生きて最後の審判で赦していただけそうな小罪(意識していない罪)程度で済むように生きていきたいです。そのためには、自分のことだけでなく、周囲の人にも気をかけるような生き方が必要なのだと思いました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/10/24

不幸も恵みに - カトリック長岡教会 -

日曜日はカトリック長岡教会で共同祭儀を捧げました。

実は寝坊をしてしまいました。朝起きたらいつもは電車を降りて教会に向かっている時刻でした。福音朗読にも間に合いそうにありませんでした。風邪だったので、前日は早く寝るつもりでしたが、寝付けないのでブログを書いていたら余計に遅くなってしまったのです。

ミサはもうやめようかと思いましたが、何事も恵みだと考えようと思いなおし、「カトリック教会・情報ハンドブック」を広げてみました。そこで見つけたのが長岡教会でした。すこし遅めの11時からなので、それからでも余裕で間に合いました。

聖堂内に靴を脱いであがると、2階まで吹き抜けていて聖堂内は明るく開放的でした(リンク先はHoly Ring、写真あり)。100席ほどの広さながら小さい子供さん用に親子礼拝室もありました。

聖堂内の右手には信徒の方が作られた聖歌番号を示す電光掲示板と、木彫りの優しいマリア様(ちょっと和風)、そして正面にはぐったりとした磔のイエスさまの十字架がありました。中ほどに座りながらきょろきょろしていると、おじさんは少ないので目立つのか「初めてですか?」と声をかけていただきました。なんだか家庭的な雰囲気で、なじんでしまいました。

Nagaoka_1声をかけていただいた方に教会の案内と写真入の葉書を頂きました。その中に、聖堂外の十字架の中央に描かれた模様の説明がありました。この模様が結構不思議で、万博公園の太陽の塔のデザインのようにも見えます。実はこれは、カトリックの教義をあらわしています(以下、案内より引用)。

聖霊の炎(赤い炎)が全世界の教会(金色の楕円形)に注がれ(金色の3本の線)復活のキリスト(XP)の救いの恵みがすべての人々に及び、最後の審判(金色のはかり)をへて神の国の完成にいたるのです。

これらのすべての恵みの源は、キリストの十字架上の犠牲死(下のシンボリックな十字架)であり、その十字架のかたわらに聖母マリア(緑色の像)をはじめ弟子や婦人(紫の像)がかこみ、それぞれの役割を象徴しています。

一番下は魚でイクトウス(ギリシャ語)つまり神の御子・救い主イエス・キリストをあらわしています。

そういえば、コンピュータ関係の用語でXP(リンク先はWikipedia)とつけられたものが最近多いのですが、救い主という意味もあったんですね。なるほど。

長岡京市は、平安京に都が移る前に平城京から遷都されていた長岡京のあったところです。また、先日のNHK「その時時代が動いた」で紹介された細川ガラシャ(リンク先はCUMC1972の広場)が嫁いだ勝龍寺城のあったところです。勝龍寺城公園につながる道はガラシャ通りと名づけられ、11月のガラシャ祭りでは行列が巡行します。

明智光秀の娘であった細川ガラシャ(玉)は本能寺の変のあと、幽閉され外にも出られませんでした。しかも、夫は側室を持つなど、耐え難い運命をたどります。そのような中で、ガラシャはキリスト教に出会い、前向きに生きました。

NHKの「その時時代が動いた」では「神はいかなるときも愛と慈悲の心で人々を見守っている」とキリスト教が説明されていました。細川ガラシャにとって、とんでもない不幸でしたが、その不幸もキリスト教によって恵みとなったのでした。

そんな長岡の地で、私の寝坊もこの日は恵みとなりました。(^_^;

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2006/10/08

フォークミサ - カトリック吹田教会 -

Suita 今日は吹田教会でフォークミサを捧げてきました。建てられて2年にもならない聖堂内は、すっきりした外観からは想像できない木のぬくもりと、やさしい光に包まれていました。内部の様子などは写真で見る吹田教会(下のほうをクリックしてください)をご覧ください。

Suitacross フォークミサは、確かにフォークでした。ギターに合わせてカナダのゴスペル(歌詞は日本語)のほか、主の祈りも歌いました(主の祈りは歌詞が口語訳だったので、ちょっと戸惑いました)。大まかに言うと、所属教会の「子供と共に捧げるミサ」の大人版ギター生演奏付きといった感じでした。

聖体拝領の歌を歌い終わったあとのエレクトーンとギターの伴奏は、なかなか良い雰囲気でした。フォークミサもなかなか良いものですね。

Suitamarie 今日の福音朗読は「離縁について教える/子供を祝福する」(マルコ10・2-16)でした。聖書の分かち合いで読んだところでした。お説教はシンプルかつユーモアにあふれたもので、男の骨から女が作られたと言うことは、男と女も同じと言うこと。お相撲さんにおっぱいがあるのはなぜ?と聞いた子供がいたが、男も女も同じ人間で使うかどうかが違うだけ。

色々と深く考えたりもした朗読箇所でしたが、すっきりと暖かい気持ちになりました。

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2006/09/24

運命を受け止めてアイデンティティを得る - カトリック茨木教会 -

今日は朝からバタバタすることがわかっていたので、昨日の夕方にお隣の教会でミサを捧げました。ここ数日、1年を振り返って何を囲うかと思っていたら、ミサの最初に神父様(兼任で所属教会の主任司祭でもあります)のお言葉が、タイトルの言葉でした。

キリストはその運命を受け入れて、神のアイデンティティを得ました。皆さんも、目の前にある運命を受け止めて、アイデンティティを得ましょう。

アイデンティティ、日本人にはあまりなじみのない言葉です。エキサイトの大辞林 第二版 (三省堂)によると

ある人・物が他の人・物と異なってもっている独自性。同一性。

とされています。また、福音朗読「再び自分の死と復活を予告する/いちばん偉い者」(マルコ9・30-37)のあと、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」という言葉を受けて、こういわれました(かなり要約)。

人に見せる必要はなく、自分の道を歩むため、キリストを信じるものとしてすべきことをしましょう。

人生には色々なことがあります。それを受け止めること、努力すること。人の認めてもらうためでなく、自分のためでもなく、自分がそうあるために行動する。そういう生き方を考えさせられました。

このお話を聴いてむかし見た「聖衣(Robe)」に出てきた足の不自由な女性を思い出しました。足が不自由なことを悲しまず、「足が悪くても幸せであることが示せる」と前向きに生きた女性です。色々な難しいこと、悲しいことがあっても、そのことを前向きに捉え、その経験があるからこそできる「自分だけの何か」を見つけたいと思います。

久しぶりに行った茨木教会(リンク先はHOLYRING)では、洗礼を受けてからはじめてミサを捧げました。所属教会と同じく両形態(両形式)でしたが、ホスチアがちょっと変わっていました。所属教会は白くて、えびの入っていない海老満月をやわらかくしたようなホスチアですが、茨木教会は、すこし褐色が入っていて、十字の形に膨らみがある少し硬めの香ばしいホスチアでした。福岡や東京ではこのホスチアが多いように思いますが、同じ教区でいただけるとは思いませんでした。

茨木教会は、横に広い御聖堂なので説教台の前の列に座ると、神父様のすぐ近くでお説教を聴くことができます。目の前で「受け止める」と言われ、洗礼名をヨセフにしたことを思い出し(関口教会の受けとめるヨセフ像)、気持ちを新たにすることができました。

ミサの時間が少し変わっていたので、講座の案内と共に写真を撮っておきました。
Ibarakia Ibarakib

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2006/09/04

高円寺教会で聞いた神の声

Koenji 半年ぶりにカトリック高円寺教会にうかがいました。たまたま第一土曜日に出張が入ったので、「おやじの会」に参加させていただいき、翌日にミサを捧げました。

前回おじゃました際は、初めてでもあること、また、なんとなく神様の声を聞いてしまう気がして、近くのビジネスホテルに泊まりましたが、今回は何も考えずに司祭館に泊めていただきました。

眠れなかったので、もし神様の声が聞こえたら「私はここにおります」だったっけ「聞いております」だったかとか、意味もなく考えていました。まあ、私なんかに聞こえるわけはないのですけど、、、。ちなみに正解は「どうぞお話しください。僕(しもべ)は聞いております。」(サムエル上3・10)です。

もちろん、何もなく朝を迎えました。やっぱり何もなかったと思うと安心したような、さびしいような気持ちでした。すると、外からは虫の声が聞こえてきました。ああ、こんな優しく静かなひと時は久しぶりだと思っていると、鳥のさえずりも聞こえました。こんな風に自然を感じるのも神様の恵みなのだろうと思っていると、急に風が吹きました。窓の外に植えられた木の枝が風を受け流すようにゆっくりとしなり、大きな弧を描いて元に戻りました。

前夜おやじの会では、高円寺のみなさんに教会のイベントで何が好きかをたずねてみました。所属教会で、何かやりたいと考えていたからです。みなさんの答えは、復活徹夜祭とクリスマスでした。ミサ以外ではLive Voiceだそうです。いずれにしても信仰に裏づけされた活動であるとのこと。そしてその言葉の後には、「でも」とか「大変」という言葉はつかなかったのが印象的でした。信仰に裏打ちされて、それが喜びであること、それが、答えなのでしょうね。

ミサの福音朗読は「昔の人の言い伝え」(マルコ7・1-23) でした。イエス様が見た目の律法主義を否定し、「悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」と、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など人の心の問題を指摘されたお話です。

お説教は神父様の反省の言葉から始まりました。これまで、何とか良くなるように、期待に答えたい、頑張ろう、私がやらないと、と忙しく働いてこられて、8月にフランスと無人島に行っておられたそうです。一ヶ月で体調も万全になられたようですが、それはこれまでの無理を感じさせる期間でもあったようです。

私たちも、日ごろの生活の中で、色々と苦労し、悩み、もがいていますが、それは外面を気にしているからではないのか、無理をしているのではないかという問いかけに、その少し前に見た、風を受け流す枝を思い出していました。

教会のこと、仕事のこと、家庭のこと、何も無理をする必要はない。すべてを受け止め、心に静かに問いかけながら、歩んでいけば良いということを教えられたような気がします。

さて、おやじの会での晴佐久神父のお話で心に残ったのは、典礼のやり方でなく、心が大事と言われたことでした。私は、所属教会では人に指示するでもなく好きにさせてもらって、よその教会では、みんなで捧げるのだからと周りに合わせてひざまづいたりしています。でも、そんな形よりも、どれだけ心が神様を向いているかを問われていたと思います。

今日のミサでは隣に女性の方が座られました。ミサの前に、大きさの違う「聖書と典礼」を見せられ「これは同じ内容ですか?」と聞かれました。基本的な質問に、てっきり未信者の方だと思いました。戸惑っておられたので、典礼聖歌のページ(ミサ曲の207-209のあたり)や、典礼聖歌の裏表紙に貼られた使徒信条の場所など、それなりに教えて差し上げました。

いよいよ、聖体拝領のとき「祝福の受け方はご存知ですか?」とたずねると、「実は信者なんです。あまりミサには出れなくて、、、」との返事、確かに主の祈りとかは普通にされていたので、学校などで経験はあるのかと思っていましたが、少なからずショックを受けました。

まあ、うちの教会でも入門式までミサに出なかった人もおられたし、人それぞれの事情もあるのでしょうね。

でも、その女性、お説教の間に、ウンウンとうなづいておられたのです。あまり経験のないミサで、しっかりと神父様のお話を吸収されていました。その姿を見て誰がとがめられるでしょう。いや、とっても美しい姿だと思いました。

この件で、「所属教会じゃないから」とか、「信者のくせに」と思ったら、ミサの中で心が神様に向くことはなかったでしょう。現状を受け入れて、可能な範囲で求められるものを与えたからこそ、その女性からも幸せを分けていただけ、恵みにあふれたひと時を過ごせました。

この2日間を振り返ると、前回は避けていた神さまの声を聞いたように思います。朝に聞いた虫の泣き声と鳥のさえずりの中で、風を受け流すようにしなった木の枝、それは私にとってまさに神の声だったと思います。

(引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/08/15

カトリック高宮教会 - 聖母の被昇天 -

Takamiya1西鉄高宮駅の近くにあるカトリック高宮教会でミサを捧げました。

1951年フランシスコ会修道院(神学校)とともに一般信徒(49人)への司牧のために教会が設立されました。このため、当時は神学生と彼らを指導する神父様が多くおられ、フランシスコ会系の司祭を多く育てています。

とホームページにあるとおり、十字架もアシジの聖フランシスコに語りかけたといわれるサン・ダミアーノの十字架です。ミサの前の祈りにも聖フランシスコの平和の祈りがあり、終戦記念日でもある今日にふさわしい祈りをすることができました。

聖堂の前方と左右にアシジの聖フランシスコの生涯と聖書物語のステンドグラスがある明るい教会(リンク先はHOLY RING)でした(教会ホームページには解説があります)。

福音朗読は「マリア、エリサベトを訪ねる」(ルカ1・39-56)でした。「神の母聖マリア」というのはイエスさまを生んだだけではなく、そう信じることで神の母となること。自身を「はしため」と呼ぶマリアさまによって、われわれと神様の壁が取り払われました。

そして、現在の世の中の問題が自分中心の考えによって生じています。欲望、不満、ねたみ、などが戦争やモラルの崩壊をもたらしていて、そのような考えでは永遠の命ではなく死による死しか得ることができません。自分中心ではなく「はしため」として生きる必要があるとのお説教はいろいろと考えさせられました。

高宮教会は地図で見ると、西鉄高宮駅正面の歩道橋につながる道とその北側の道の間にあるように見えます。まあ、何とか行けるだろうと地図も持たずに行くと、どんどん坂道が急になり道に迷ってしまいました。

Takamiya2 教会の周辺は木に覆われていて屋根の十字架がよく見えません(敷地内の無線のアンテナは見えます)。なるべく北側の道を通られたほうがよいでしょう。木の陰から聖像(聖フランシスコでしょうか)がお出迎えしてくれます。

Takamiya3 近くに福岡司教区が経営する高宮カトリック幼稚園がありました。外から見える聖母子像には「よいこのともだちイエズスさま、よいこのかあさまマリアさま」と書かれています。ほっとするような言葉ですね。 マーガレットF.パワーズのあしあとの詩(リンク先はMAGIS)を思い出しました。

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2006/08/14

浄水通教会・大名町教会 - コルベ神父 -

Josui 九州に滞在しています。今朝は、浄水通教会でミサを捧げてきました。

ステンドグラスのきれいな聖堂で、朝のミサを捧げていると、右側のステンドグラスから朝日が射し込んできました(聖堂内の様子:「福岡の教会」上段中央)。今日は聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者