2008/06/29

信徒たちの宣教

今日は聖ペトロ聖パウロ使徒の祝日で、共同司式をされた3人の外人の神父さまたちは赤いストラをされていました。所属教会の共同司祭と新宮教会のグレッグ神父は母国を離れて日本に宣教に来られており、もう一人はポーランドからパプア・ニューギニアに宣教されておられるキリス神父です。

パプア・ニューギニアではなかなか厳しい環境で、靴をはかず、週に一度食事ができるかどうかの人が多いようです。キリス神父も体重が30kgも減ったそうです。

日曜日に祝われることの少ない「聖ペトロ聖パウロ使徒の祝日」の第一朗読は、「使徒たちの宣教」として聖ペトロが第2朗読は聖パウロが読まれました。グレッグ神父による説教では、宣教についてお話しされました。宣教に必要なのは「回心」で、それは歩んでいる道を変えること、そして、キリストのことがよくわかることだそうです。

パウロは神を信じない人の価値観を認め、宣教しました。宣教には、信じない人に「神を信じなさい」というハードな宣教と、向こうから信じさせるソフトな宣教があります。私たちがキリスト教の価値観で生きることが宣教になります。日ごろの生活は宣教のチャンスなのです。

私たちは聖パウロやキリス神父のような宣教はできません。それは、才能(タラントン)が違うからです。私たちは私たちの方法で宣教をすれば良いのでしょうね。

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2008/06/15

われらに平安を与えたまえ

わたしは家族から脳天気と言われています。確かに何があろうと結構平気です。自分は大丈夫という変な自信があるのでしょうね。

実はここのところ色々なことがあり、本来ならへこむところなのに、いつもどおり脳天気に過ごしていました。でも、ミサの中で「我等に平安を与えたまえ」と歌ったら、もう駄目でした。さまざまな思いが私の中に駆け巡り、涙が出そうになりました。

でも、そのすこしあと、聖体拝領で「ひせきにこもりて」(リンク先はカトリック教会の祈りとしらべ)を歌うと不思議に落ち着きました。この歌の2番で、ともにおられる神を感じ、救われたのでしょうね。色々な事が起こる人先生の中で、感情が爆発しないうちに、自分の感情を深く感じることができました。やっぱりミサは良いですね。

神に感謝!

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2008/06/02

しかけられた網からわたしを助け出してください

日曜日のミサで最も心に響いたのは答唱詩編でした。

聖書と典礼から引用させていただくと、

神よ、あなたは私の岩、わたしのとりで、
あなたのいつくしみによってわたしを導き出し、
しかけられた網からわたしを助け出してください。
あなたはわたしの のがれ場。

人生の様々な出来事の中で、傲慢な自分を戒め、未来への光を照らしてくださる神。たとえ何もかも失っても、最後に残る希望の光。その光で目の前の苦しみを照らせば、きっと明日が開けてくる。祈ること、そこから未来が始まるのでしょうね。

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2008/05/25

ご聖体のよろこび

今日は「キリストの聖体」の祭日です。
福音朗読は「イエスは命のパン」(ヨハネ6・51-58)でした。この中で、

生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。

とキリストの体、つまりご聖体が天から降ってきたパンであると言われます。これに合わせて第1朗読は「神の賜る良い土地/主を忘れることに対する警告」(申命記8・2-3,14b-16a)で、モーセがエジプトから脱出し食糧不足に陥った際にマナが与えられたことを振り返るお話でした。

ご聖体は明日を生きるための命の糧です。説教では、神父さまが病者の塗油をされた際のお話でした。死を目前にされたお年寄りがご聖体をいただいた時、お釈迦さんのようなきれいな顔をされたそうです。最後の時であっても幸せを感じられるご聖体は、その方にとって恵みそのものだったのでしょうね。

昔書いた詩「あの方と共に」を思い出しました。家族には評判が良くなかったのですが、良かったら読んでください(ちょっと恥ずかしいですけど)。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/05/11

父や母と話すように

今日のミサは子供とともに捧げるミサなので、入祭の歌は「神さまがわかるでしょ」(リンク先は聖歌・賛美歌・ゴスペルソングMIDI)でした。一番は自然から神さまを感じるという歌詞なのですが、先日の妻との会話を思い出しました。引っ越して少し日あたりが良くなった喜びを感じた妻が、「神さまのおかげね」と言ったのです。

確かに神さまのお陰で良い家に巡り合えたと思います。でも、妻が出張のついでに実家に帰っている間に、販売開始を見つけて資料をもらい、どの家が良いかを検討し、写メールで妻と連絡を取り合い、申込金を銀行からおろして、誰よりも早く申し込んだのは私です。「まず俺に感謝しろよ!」と思ったのをふと思い出して微笑んでいました。

すると、そのすぐ後に神父様が言われました。「皆さん、神聖な祭りを祝う前に、私たちの犯した罪を認めましょう。」 また、神様にやられました。傲慢な私ですが「わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。」といつもの回心の言葉に気持ちが入りました。

今日は聖霊降臨の主日で、神さまが復活後に聖霊が弟子たちに降り注ぎ、教会が始まった日とされています。第一朗読は「聖霊が降る」(使徒言行録2・1-11)で、炎のような舌が分かれ分かれに現れて聖霊に満たされたお話です。

以前、こころのともしびTVで見た解説によれば、舌の形は「しゃべる」、火は「愛」を現し、愛の心を持って弟子たちがイエスさまのみ教えを人々に伝えることができる恵みを、聖霊によって与えられられたということを意味しているそうです。

説教の中では、神父さまの経験を話されました。クリスマスの頃に教会に来ている子どもに神父さまが「おりこうさんですね」と言われると、子供が「心が咲いた!」と言ったそうです。思いもよらない素敵な言葉に神父さまは驚かれたそうです。クリスマス前で神さまのために良い行いをしようとしていて嬉しかったので、そんな言葉が出たようです。

その後、神父さまが各地を異動され、またその教会に戻られた際に、大きくなった当時の子供と合われたようです。そして、その方は「子供のころに覚えていたたくさんのお祈りの言葉を失くしてしまいました。」と言われたそうです。教会に長い間行かない間に、お祈りの言葉を忘れてしまったのです。

神父さまは「お父さんやお母さんにお話しするときは、何も考えないでしょう。お父さんやお母さんにお話しするように、神様にお祈りすれば良いのですよ」と言われたそうです。すると、その方は聖母子像の前で涙を流しながら20分間祈られたそうです。

きっと色々なことがあったのでしょうね。「あしあと」(リンク先はMAGIS)の詩の神さまのように、聖霊はいつもそばで応援してくれているのでしょうけど、ついつい頑張ってしまうのですよね。でも、心を開けば、いつでも神さまは答えてくださるんだと思いました。

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2008/05/04

いつもあなたがたと共にいる

24 先日、上牧にある二十四節記というところに行きました。ロハスというのはこういう雰囲気を言うのでしょうか、欧州の田舎をイメージした建物には、雑貨屋さん、喫茶店、レストランなどがありました。窓辺の席でフレンチプレス(コーヒープレスともいうらしい)でいれたコーヒーをいただくと、やさしい香りとさわやかな風で幸せな気分になりました。

Frenchpress 何もかも忘れてボーっとしていましたが、ふとイスを見ると十字のマークが目に入りました。

今日のミサの福音朗読は「弟子たちを派遣する」(マタイ28・16-20)、マタイによる福音書の最後のところです。イエスさまが昇天される前に弟子たちに

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」

と弟子たちを派遣されました。そして、最後にこう言われます。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

これは、ヘブライ語で「インマニュエル」というそうです。椅子の十字架のように、私たちが気がつかないだけで、神さまはいつもそばにいてくださるのですね。

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2008/05/03

恐れるな。語り続けよ。黙っているな。

今日は所属教会で初金ミサでした。神父様お二人の共同司式によるちょっと贅沢なミサでした。

福音朗読は「悲しみが喜びに変わる」(ヨハネ16・20-23a)でした。イエスさまの受難で悲しむが、復活によりその悲しみは喜びに変わると宣言されたお話です。どんな悲しみの中にあっても「喜びに変わる」という期待があれば、前向きに生きていくことができます。日常の苦しみが大きければ大きいほど、喜びもきっと大きなものであるというキリスト者への希望の言葉だと思います。

ところで、第一朗読は、「コリントで/パウロ、アンティオキアに戻る」(使徒言行録18・9-18) でした。朗読の最初はこんな言葉から始まります。

ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。(略)」

ブログネタは あるのに身構えてしまい、なかなか書けない時があります。また、入門講座や聖書の分かち合いでお祈りする時も、祈りの言葉は浮かんでいるのに、うまく言えなかったりもします。

神さまが、そんな私に直接語られたような気がしました。もっと素直に、神様にゆだねればよいのでしょう。身構えたり、思い悩むことなく、もっとストレートに自分の思いを語れば良いのでしょうね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/04/29

わたし自身を現す

日曜のミサの続きです。ミサの第1朗読は堅信の元になったお話でした。先週、今でいう助祭に選ばれた7人のうちの一人であるフィリポ(リンク先はWikipedia)がサマリアで洗礼を授け、エルサレムからやってきたペトロとヨハネが手をかざすと人々は聖霊を受けました。

この手をかざす(按手)というのは聖霊を授ける意味があり、洗礼式で代父母が肩に手を置くのも聖霊が働くようにしているそうです(知らずにやっていました:-)。ちなみに、Wikipediaによると、ミサで祝福を受けるのは神に祈っている(祝福)のだそうです。

福音朗読は「聖霊を与える約束」(ヨハネ14・15-21)でした。この中でイエスさまは、「みなしごにはしておかない」、ご自身の代わりに新しい弁護者として聖霊を一緒にいるようにしてくださると約束されます。そして、最後に

「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

と言われます。この言葉を聞いて、私が救われた時のことを思い出しました。当時、仕事に苦しんでいた私は責任逃れをしていました。もっと私自身にもうまくやる方法があったのに、主たる原因ではないこともあってそれを認めていなかったのです。

遠藤周作さんの「イエスの生涯」や「キリストの誕生」を読む中で、私はイエス・キリストと弟子たちに共感し、愛しました。すると、かたくなだった私の心がほぐれたのです。

パパ(教皇)の回勅にあるように「神は愛」だったのです。救いを求めていた私は、神を知り、愛し、愛されることで救われたのです。私の中に何かが入ってきたような感じがして、私はそれを勝手に聖霊だと思っています。神さまが自身を現してくださったのです。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/04/28

善をおこなって苦しむほうが、悪を行って苦しむよりはよい

今日のミサの第2朗読は「正しいことのために苦しむ」(一ペトロ3・15-18)でした。このなかの17節が心に響きました。

神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。

洗礼を受ける前に神父様に言われた言葉を思い出しました。

洗礼を受けたら楽になると思ってはいけない。もっと苦しくなる。

その時はよくわからなかったのですが、今なら何となくわかります。人間は、いや、少なくとも私はダメダメです。普通に生きているだけで、いろいろな罪を犯してしまいます。良いことをしたつもりでも、自分の中にある傲慢な気持ちが見えてしまいます。

でも、苦しくても洗礼を受けて良かったと思っています。少しでもより良い方向が見えるからです。ほんの少しだけ、ちょっとだけ良いことをする。そこには苦労が伴うかもしれませんが、良いことをしたという喜びがあります。

洗礼を受けることで楽になるわけではありませんが、みこころに従った時は暖かいような、幸せな気持ちになるんですよね。やっぱり、洗礼良いですよ~

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/04/06

キリストの復活

復活節第3主日だった今日は「エマオで現れる」(ルカ24・13-35)が読まれました。イエスさまが復活されたからこそ、聖書を知って心が燃えるのだと思いました。

ミサが進み聖変化でホスチアがご聖体になったとき、ふと「ご聖体はキリストのからだ、つまりキリストそのものになるのだから、聖変化でいつもキリストは復活しているのではないか」と思いました。

そのすぐあと、神父さまが「信仰の神秘♪」と歌われ、皆でこう歌いました。

主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるま~で~♪

イエスさまは2000年前に復活されただけでなく、ミサのたびに復活されていたのだとおもいました。だから、私たちの心は燃えるのですね。

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2008/03/28

契約の更新

主の御復活おめでとうございます。
この時期の「契約の更新」と言うと、聖香油のミサで行われる神父様たちの「契約の更新」が有名ですが、先日の復活徹夜祭は、私にとって信者の契約の更新の日でした。

去年の復活徹夜祭では、洗礼を受けた際のことが思い出されて胸が熱くなりました。そして、復活徹夜祭は洗礼を思い出す時なのだと思いました。しかし、今年になると、洗礼の時のこと熱く思いだすことよりも、神さまの復活を強く感じました。

洗礼を受けて2年もたつと、日常と信仰生活の折り合いをつけるようになります。以前なら少々の無理があっても、ミサや入門講座に出ていました。しかし、無理なことが続くわけもなく、自分なりの基準で出る時と出ないときを決めています。入門講座では「神さまを一番に置くことが信仰」と教わりましたが、神さまがゆるして下さるとわかっているからこそ、甘えることもできるんだと思っています。

復活徹夜祭と復活祭は神さまの「復活」を祝うのですが、この「復活」を実感して信仰を続ける決意をすることが私の思う契約の更新です。復活といっても教義にあるような肉体の復活の実感ではなく、遠藤周作さんの言われるような心の中での復活です。

信者として生きていると、ミサのときや祈りの時には間違いなく神さまを思い出すのですが、あまり実感できないことがあります。もちろん、聖書の言葉や聖歌から神さまの存在は感じるのですが、神様からの語りかけのようなものがあまり感じられません。

「沈黙」の主人公の神父のように、神の語りかけを待ち望み、お祈りしているのかもしれません。きっと必要な時には答えてくださると信じながら、日々神に語りかけているのです。

今年の復活徹夜祭では、代父をさせていただきました。洗礼を受けた皆さんは神様の愛を実感して幸せそうでした。そして、誰よりも近くで洗礼を見た後に、ふっと神さまが語りかけられたような気がしました「みんな同じように愛しているよ」と。神さまは私の中でも復活されたのです。そんな実感があり、心の中があたたかくなりました。

今年の復活徹夜祭は、神さまの愛を感じ、洗礼志願者とともに「信じます」と誓う場でした。わたしは、契約を更新しました。

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2008/03/19

十字架につけたのは私です

受難の主日であった先日のミサでは涙がにじみました。イエスさまが裁かれる模様(マタイ27・11-54、リンク先はJBS日本聖書協会)が福音朗読で読まれたのですが、神父さまのほか、二人の朗読奉仕者が読みます。その途中で、ミサの参加者が「十字架につけろ!」とイエスさまを裁くのです。

この「十字架につけろ!」という言葉を読むと私の胸が熱くなります。私を苦しみから救ってくださったのは、十字架にはりつけられたイエス様ですが、そのイエスさまが十字架にかけられたのは私の罪深さです。

私の苦しみは、自分の思いにとらわれて、自分の側からしか世の中を見れなかった苦しみでした。人類の罪を一身に背負われたイエスさまは、私の罪をも背負ってくださいました。だからこそ、私は救われたのだと思います。

神さまは時間と空間を超越した存在です。2000年前に私のために十字架にかけられたイエスさまを思うと、「十字架につけろ!」と言うたびに胸が熱くなるのです。

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2008/03/13

ヤーウェ・イルエ ~四旬節黙想会に参加して~

所属教会の四旬節黙想会はイエズス会の平林冬樹神父をお招きし、「現代に息づく188殉教者の霊性」と題して行われました。

「殉教」とは、「殉職」が仕事のために命を失うように、教えのために命を失うことですが、もともとのことばは“martyria”「証し」という意味です。つまり、「殉教」は神への信仰・希望・愛の証しであり、また、神の愛に応えることです。キリスト教は主の死と復活から生まれたように、苦しみを乗り越えることで喜びを得ることはキリスト教の本質です。愛を実践することはキリスト教の証し、つまり殉教なのです。

188殉教者の時代の教会、大浦天主堂のマリア像の前に現れるまで200年間潜伏していたキリシタン、そして現代の教会にいたるまで、日本の教会は400年以上の歴史があり、その根底にはキリスト教としての一貫性があります。そのような中で、188殉教者はキリシタン時代からの日本のキリスト教会のアイデンティティであるといえます。

188殉教者の霊性から、現代に生きる私たちが学ぶことはたくさんあります。殉教者はその死に方だけでなく、その生き方も私たちへのメッセージです。彼らは家庭を基礎とし、共同体を運営し、地域に貢献しました。福祉事業を通じて地域に貢献して人々に感謝されていました。殉教の際にも「彼らは悪いことをしたから処刑されるのではない」と言われました。

当時は司祭が不足していたようですが、40歳以下は叙階させず、勉学と祈りが重視されていました。豪胆かつ柔軟であった当時の司祭・修道者たちは、捧げつくし、道を示す人だったようです。

188殉教者は、イエスの十字架以外に人間の真のいのちへの道はないことを証しました。また、日本人が元来持つ「忠実さ」の徳をキリストの価値観に高めました。これは「熱心に」ではなく、「たんたんと、ひたむきな」信仰です。理不尽な命令に従うことにより、人間の尊厳である信教と良心の自由を守り抜きました。

このようなお話の後、次の列福運動の対象であるユスト高山右近のお話になりました。豊臣秀吉の禁教令に逆らったために国外追放され、マニラで亡くなった高山右近は、もともと殉教者として申請されました。しかし、殉教ではなく、証聖者(殉教していない福者・聖人)として再申請するように指示されました。この証聖者として列福するには、奇跡が必要となり、このことが右近の列福の最大の障害となりました。その後、なぜか最近になって殉教者として申請するように指示されたそうです。

その背景には、どうもコルベ神父の影響があるようです。それまでは殉教の定義は厳しいもので、信仰を守るために亡くなっていることや、島原の乱のように闘っていないことなどが決められていたようです。しかし、コルベ神父が列聖される際に、ヨハネ・パウロ2世の希望により殉教者として扱われました。コルベ神父は、イエスの教えである「友への愛」を証ししたとして、殉教者とされたのです。このため、コルベ神父の列聖式は赤と白の両方のバラが飾られたようです(通常の列聖式では、証聖者は白のバラ、殉教者は赤いバラを飾ります)。キリシタンの時代から大浦までの270年間の礎となった高山右近も、このような流れから、殉教者として扱うことが可能になったようです。

このお話は私にとって驚きでした。日本で「聖母の騎士」を創刊したコルベ神父は、(北原怜子さんとアリの街を支援し、宝塚歌劇にもなった)ゼノ修道士を日本に誘うときに、26聖人の殉教を話されたようです。そう、所属教会(高槻)の守護聖人である26聖人です。そんなコルベ神父が高槻城主であった高山右近の列福を後押ししているのです。

私の好きな「ヤーウェ・イルエ」(神は備えて下さる)という言葉があります。神さまを知ったことも、殉教の機会を与えられたことも、さまざまな出会いも、すべての物事には意味があり、神様が備えて下さったのだと思います。そして、26聖人の殉教に興味を持ったコルベ神父の列聖によって、高山右近の列福の可能性が高くなったのも、やはり神さまが備えて下さったのだと思います。

私が厳密な意味で殉教することはないかもしれませんが、神様が備えて下さったことを喜び、淡々とひた向きな信仰を守り、愛を証ししていきたいと思いました。

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2008/02/26

色々な出会い

日曜のミサの福音は「イエスとサマリアの女」(ヨハネ4・5-15,19b-26,39a,40-42)でした。説教では、「袖振りあうの多生の縁と言いますが」とイエスさまと出会ったサマリアの女がイエスさまと出会い、主であると知ったお話から、出会いを大切に人の役に立つ事をとお話しされました。

この日は洗礼志願式(四旬節第一主日に入門式だったのでずれています)でした。私は初めての代父として一応お役に立っているつもりですが、これも神さまとの出会いがあったからこそです。

カトリックで洗礼を受けたのは新幹線でシスターにお会いしたからで、入門講座に通いだしたのは当時の主任司祭に誘われたから、今の教会に通ったのは妻が先に通っていたから、そしてキリスト教に興味を持ったのは遠藤周作の本を読んだから、、、、

たどっていけば限りなく、偶然のような当然のようなことが続きます。その中には、一見、不幸に思えることや苦しいこともたくさんありました。でも、どんなことにも意味があり、今につながっていたのだと思います。

これからの人生の中でも苦しいことはたくさんあるに違いありません。しかし、それもきっと意味のあることだと思います。

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2008/02/17

好きになるのではなく、愛することが求められている

ここ何週間かで、最も印象に残った言葉です。
イエスさまは「汝の隣人を愛しなさい」と言われましたが、好きになりなさいとは言われていません。人それぞれ苦手な食べ物があるように、どうしても好きになれない人がいます。イエスさまは嫌いな人を好きになれとは言われていません。嫌いでも良いから、その人を認めて愛するのです。

ミサの後の要理の時間でこんな話を聞きました。あとで、食べ物で考えるとイメージが広がります。嫌いな食べ物が料理に入っていたら、毛嫌いするように分ける人がいますが、好きな人に任せるとか、そもそも注文しないとか、嫌いな食べ物がより生きる方法があると思います。

人との付き合いにつかれることも多々ありますが、無理に好きになろうとせず、しみじみと受け入れ、その人が生かせるような優しさを持ちたいものです。

書きたいことが色々あるのですが、公私ともに忙しく、体調もあまりよくないので、ペースが落ちています。気長に見てやってください。

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2008/01/27

神の美しさを仰ぎ見る

ここのところ忙しくてあまり書けませんでした。先週のミサも書きたいのですが、先に、最近の出来事を考えさせられた今日のミサのことを書くことにします。

今日のミサの答唱詩編で、こんな言葉がありました。

わたしは神に一つのことを願い求めている。
生涯、神の家を住まいとし、
あかつきとともに目ざめ、
神の美しさを仰ぎ見ることを

これを聞いて、もう一つ(仕事関係の人向け)のブログにも書いたこんな富士山を思い出しました。

Fuji080125_2

そして福音朗読は、「ガリラヤで伝道を始める/四人の漁師を弟子にする」(マタイ4・12-23)でした。洗礼者ヨハネが捕えられたことを知ったイエスさまが、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝え始められたお話と、最初の弟子がイエスさまにしたがったお話です。

このとき、イエスさまは、

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」

と言われるのですが、私にもそんな出来事がありました。

代父を依頼されました(パチパチ)。イエスさまに負けて2年半、このブログを通して、求道者の方と共に洗礼を受け、色々な方との出会いがありました。去年は洗礼のきっかけを作ることもできました。洗礼の際には喜びに満たされたのですが、女性の方だったので代母にはなれず、ちょっとさみしい思いがありました。

今回は入門講座の知り合いですが、こんなうれしいことはありません。こんな私でも、イエスさまが道具として使ってくださったのですね。「聖書と典礼」6ページに、こう書かれていました。

キリストの光に照らされるわたしたちが、喜びをもって福音をのべ伝えていくことができますように。

誕生日にメッセージをくださった皆さん、ありがとうございました(まとめてのお礼ですみません)。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/01/14

聖霊は私たちの内にいる神

昨日、今年初めての所属教会のミサに出ました(遅すぎですね。反省!)。福音は「イエス、洗礼を受ける」(マタイ3・13-17)でした。イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けると、天が開き、神の霊が鳩のように下ってきて、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえたお話です。

この神の霊というのは、聖霊のことです。神父さまによると「聖霊は私たちの内にいる神」です。「天におられる私たちの神よ」と言いますが、神さまはいつも私たちの中にもいてくださるのです。

ミサの中で、以前も紹介した「神さまがわかるでしょ」(リンク先は聖歌・賛美歌・ゴスペルソングMIDI)を歌いました。この2番はこんな歌詞です。

ある時は涙ぐみ いつの日が夢にみた
心には愛もなく 過してる時がある
じっと祈った時も ただ祈っていた時も
ほら君もわかるでしょ 神さまがわかるでしょう

苦しくて耐えがたい時も、心の内なる神さまが助けてくださるのでしょうね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/12/31

聖家族は模範

昨日のミサは聖家族の祝日でした。福音朗読は「エジプトに避難する/エジプトから帰国する」(マタイ2・13-15,19-23)、私の霊名の聖ヨセフが出てくる数少ないお話の一つです。

聖ヨセフにあらわれた天使のお告げに二度従うお話で、まずイエスさまとマリアさまを連れてエジプトに逃れ、次にヘロデ王の死後にナザレに戻ります。聖ヨセフは血の繋がっていないイエスさまを子供として愛し、思いやりと優しさで家族を守ったのです。

閉祭の歌はカトリック聖歌集291番「かなしみうれいhttp://hosanna.romaaeterna.jp/hymn/seika200/sei291.html」(リンク先はカトリック教会の祈りとしらべ)でした。

悲しみ憂いに イエズス マリア ヨゼフ♪
慰めを賜え イエズス マリア ヨゼフ♪
痛み患らいに イエズス マリア ヨゼフ♪
み力を賜え イエズス マリア ヨゼフ♪

と聖家族に祈る歌です。家族を守るためイスラエルの民のように移り住んだ聖家族。悲しみや憂い、痛みや患いも、聖家族にならって家族の愛で乗り切りたいものです。

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2007/12/25

キリストのミサ

Xmas2 主のご降誕おめでとうございます。

今日のミサは「ご降誕祭」。ミサ中で洗礼式も行われ、まさにキリストのミサ(Christ mas)でした。

ミサでは、第2朗読「健全な教え」(テトス2・11-14)が心に残りました。

実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。

どうしても捨てられない現世的な欲望、それを改めさせるためにイエスさまは生まれました。日々の苦しみから救うのは、イエス・キリストなのです。毎年、ろうそくの煙にむせながらも、キリストのミサに与るのは、この恵みを感じたからなのでしょう。

説教の中では「平和とは、秩序の静けさ」という言葉がありました。傲慢な気持ちを捨て、秩序を守ることができればそこに平和が訪れるのでしょう。人生の苦しみを感じ、絶望の淵に会った時、それを救ってくれたのはキリストでした。秩序は人を苦しめますが、それを認めることで苦しみは和らぎ、新しい道が見えてくることもあるのです。

クリスマスなので、もっと色々と書きたいです。しかし、先ほどまで仕事をしていたので、今日はこれぐらいにしておきます。皆様、良いクリスマスをお過ごしください。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/12/24

ともにおられる神

今日のミサの福音は「イエス・キリストの誕生」(マタイ1・18-24)でした。主人公は、私が霊名をいただいたヨセフです。ヨセフの夢に天使があらわれ、マリアと結婚して子供にイエスと名付けなさい、その名は「インマヌエル」つまり「神は我々とともにおられる」と呼ばれる、と言います。

説教を聞いて気づきましたが、マタイの福音書は、今日の「神は我々とともにおられる」から始まり、

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28・20)

で終わっています。イザヤ書に予言されたとおり、神のひとり子は生まれ、罪をあがない、いたる所に偏在する存在となり、われわれとともにおられるのです。

Xmas1_3 4つのアドベントキャンドルに火がともりました。いよいよ明日は降誕祭ですね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/12/23

救い主を確認して喜ぶ

先週「喜びの主日」のミサの福音朗読は「洗礼者ヨハネとイエス」(マタイ11・2-11)でした。「喜びの主日」は、福音にあるようにイエスさまが救世主であることを確認し、お生まれになることを喜ぶ日です。

福音は、洗礼者ヨハネが弟子を介してイエスさまに尋ねるお話と、イエスさまが洗礼者ヨハネを預言者以上のものとされるお話でした。聖書の分かち合いで色々な意見が出たのは、この前半のところです。

洗礼者ヨハネはヘロデ王の結婚を非難したために捕らえられています。政治犯であるヨハネが連絡を取るのですから、イエスさまにも被害が及ぶ可能性があったのでしょう。

「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」

この言葉は、聖書に書かれた「来るべき方」すなわち救世主であるかを尋ねているのですが、よく考えると普通に「来るのは誰?」と聞いているだけなんですよね。それに対するイエスさまの答えもなかなか遠まわしな表現です。

「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

イザヤ書の内容に沿った言葉で、決して救世主とは言っていません。洗礼者ヨハネが、死を前にして「あなたこそ救世主なのですね」「そうだ」それだけのやり取りなのに、この長さです。これは、いつものイエスさまのことばのようにわかりやすくというよりも、敵の存在を意識した言葉なのでしょうね。そう思うと、ドキドキしませんか。

さて、なぜ洗礼者は確認したのでしょう。福音のヒントによれば、「自分の弟子たちの目をイエスに向けさせ、イエスのもとへ導くため」という説と、旧約の神のイメージを持っていたので「やはり洗礼者ヨハネは疑問に思った」の二つが挙げられています。

しかし、分かち合いでうかがった解釈が私には納得できます。人は最期の時に自分を振り返り、確認するというものです。イエスさまがゲツセマネで

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26・39)

と祈られたように、洗礼者ヨハネも道を整えたことを確認した上で、死を迎えたかったのだと思います。弟子を通して自分の理解が間違っていなかったと知った洗礼者ヨハネは、まさに「成し遂げられた」(ヨハネ19・30)という思いで死を迎えたのでしょう。

洗礼者ヨハネは知らせを聞いた時は、どんな気持ちだったのでしょう。第一朗読の

「歩けなかった人が鹿のように躍り上がる」(イザヤ35・6)

ように、また、映画「偉大な生涯の物語」で死んだラザロが生き返ったのを見て走り出した人のように、これまでにない喜びを感じたのだと思います。戯曲「サロメ」の題材といわれる不幸な死を迎える洗礼者ヨハネですが、最後は救世主を喜び、死を迎えたのでしょうね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/12/11

待降節は準備の時 - お腹を見て反省 -

日曜のミサの福音朗読は、「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」(マタイ3・1-12)でした。
洗礼者ヨハネは、イエス・キリストの公生活の前に道を整えて準備しました。クリスマスまでの期間、私たちもその準備をしなければなりません。

洗礼者ヨハネは人々に洗礼を授け、人々を悔い改めさせました。自分中心の生活を見直して、神様中心の生活を遅らせたのです。人はともすれば自分中心に暮らしてしまいます。正しいことをするだけで良いのに、人によく思われようと人の目を気にしてしまいます。

神は世界の完成に向けて、ひとり子をこの世に使わせてくださいました。その喜びの時に向けて今一度、生活を見直す必要があります。

「主の祈り」には、「日ごとの糧をお与えください」という言葉があります。もちろん、自分が生きていくための「糧」を望むのですが、貧しい人のために祈るという面もあります。

心のともしびの先月のラジオの、阿南孝也さんの「日々のつとめ」を読んで、私は心苦しくなりました。悪いことをしているつもりはなかったのですが、知らず知らずのうちに犯していた罪を反省しました(詳しくはリンク先を読んでください)。

クリスマスまでの期間、暴飲暴食を慎みたいとは思うのですが、忘年会やら何やらでどうもいけません(明日もカラオケが、、、)。せめて、お腹を見て反省したいと思います。

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2007/12/06

カトリックは優先席

先日のミサの福音は「目を覚ましていなさい」(マタイ24・37-44、リンク先は聖書協会)で、黙想会に来られたイエズス会の林神父の司式でした。少し前に事故にあわれて、松葉杖をついての説教は「サンキュー事故」の説明で始まりました。

神父さまは、信号をあまり見ずに車が止まってくれたので、渡ろうとされたようです。すると、車の横からバイクが来てぶつかられたそうです。車に「サンキュー」と言って轢かれるので、「サンキュー事故」と呼ぶそうです。

福音とは少しずれていましたが、飛び出したら危険だと、経験を元に子供たちに注意されたので、小さな子供たちも真剣に聞いていたようです。林神父にとっては、事故も意味のあることだったのでしょう。

事故から少し日が経っていたものの、移動される前日は足がひどく痛かったそうです。ほかのお祈りを御受難会に依頼される際に、自分のことで申し訳ないがと言いつつ、神父さまの足のこともお願いされたところ、キャンセルしたいほどの痛みが朝にはひいていたそうです。御受難会のお祈りは通じたようです。

そんな林神父がこられる途中の電車で、松葉杖をついているからと席を譲ってくれる方がおられたそうです。しかし、そばにおじいさんがいたので二人で譲り合われたようです。すると、そばに程よい年頃の女性がいて、一瞬譲ろうとしたものの、なんとその女性は眠りだした、というか狸寝入りを決め込んだそうです。

このことを通じて、林神父は思われたそうです。

「カトリックは優先席」

カトリックにいることで神の国に入れる。しかし、福音に

「目を覚ましていなさい」

とあるように、常に愛を実践しなければならないとのこと。こんなお話は、はじめてです。ユーモアのあるとても楽しい説教でした。

実は、その翌日のこと。私が電車に乗っているとお年寄りが二人乗ってこられました。はじめの方は、元気そうなおばあさん。この人なら譲らなくてもよいだろうとやり過ごし、次のキャスター付きのカバンを重そうに持つ、おじいさんに席を譲ろうとしました。まさに、福音の実践のつもりでした。

すると、おじいさんのそばに立っていたおばあさんが何も気にせずに、軽く礼を言って座っちゃいました。「あなたじゃなくて、おじいさんに」とでも言いたいところでしたが、あっけにとられて何も言えませんでした。

電車を降りられる様子では、どうも夫婦だったようです。電車の席を自分のもののように考えて、誰が座るかを決めようとした私が傲慢だったのでしょうか?それとも、どこの夫婦も同じようなもの、、、という神様のメッセージだったのでしょうか?

はかり知れない神さまの御旨が分かるわけありませんが、福音は生活の中で生きるものなのだと思いました。

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2007/11/27

回心すればゆるされる

典礼暦の最後の主日ミサは「十字架につけられる」の後半(ルカ23・35-43:リンク先はJBS日本聖書協会)でした。

十字架につけられたイエスさまは、民衆、兵士、そして、隣で十字架にかかる在任からも侮辱され、笑われました。そのとき、もう一人の罪人が、たしなめたあと、

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」

といいました。

説教を聞いて気づいたのですが、この男は罪を犯して処刑を受ける身です。「罪を犯した者は神の国には入れない」と言われても仕方のない身です。しかし、イエスさまは神に対して謙虚なこの男に対し、

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

と罪をゆるし神の国に招かれたのです。

このお話を聞いて、先週のミサ後に行われた司教さまとの質疑応答を思い出しました。信徒との交流を図るために司教さまが自由な質問を受けられたのです。

そこで出た質問にこんなものがありました。それは、ミサに出られなかったベトナムの人をミサに連れてくると、ミサを休んだあとは赦しの秘跡をうけないとご聖体をいただけないと、その人は祝福を受けていた。私たちはそんな風に考えずにご聖体を受けて恵みを頂いている。ぜひ、ベトナムの人にもご聖体の恵みを受けさせたいが、どうすればよいか?というものでした。

司教さまの回答は、

昔は日本も、「ミサに出ないという大罪を犯した」ということで、ゆるしの秘跡をうけなければご聖体を頂かなかった。ゆるしの秘跡は神さまに許していただくという非常にありがたい恵みであるが、ミサでご聖体を頂くためにゆるしの秘跡を受けるということは、ゆるしの秘跡をミサの準備の手続きという低いものにしてしまう。

そこで、第2バチカン公会議以降、ミサの初めに回心することでご聖体にあずかることができるようになった。ぜひ、ベトナムの方の気持ちを大切にすると共に、回心の祈りで良いと伝えてあげてください。神さまは、ご聖体を頂くことで一致できることを、喜んでくださいます。

といった内容でした。

罪人であってもゆるしてくださる神は、回心すればゆるしてくださいます。そう思うと、幸せな気持ちになりました。

(おまけ)
司教さまによると、ミサに遅刻しそうなときは電車の中ででも「全能の神と、兄弟の皆さんに告白します、、、、」と回心すればよいとのこと。実はこの日、たまたま遅刻して、電車の中で同じことをしていたので、ホッとしました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/11/25

人生の目的

たしか、アリの町のマリアと呼ばれた北原怜子さんが信仰の道に入ったきっかけになったシスターのことばにも「人生の目的」という言葉がありました。これまで「幸せになること」が人生の目的だと思っていたのですが、先日のミサで新しい定義を知りました。

体調を崩して2週間ぶりのミサは松浦悟郎補佐司教の司式でした。福音朗読は「神殿の崩壊を予告する/終末の徴」(ルカ21・5-19)でした。終末についてのイエスさまの説教を記した福音を受けた説教は、終末と聞いて起こしてしまう二つの(まちがった)行動についてのお話から始まりました。

一つ目は「恐怖を感じて不安になる」という、カルト的な宗教にありがちな終末観によるものです。カルト的な宗教はXXに最後の時が来ると言って人々の恐怖をあおり、何とか自分だけでも救われたいと思う人々を集めます。

司教が学校でミサをささげられていた頃、突然、学生さんたちが増えたそうです。理由を聞くと、XXに世界が終るといわれているのでミサに来たとのこと。そんな自己中心的な理由はともかく人の増えたことを喜んでおられたそうですが、その時期を過ぎるといつもの人数に戻ったそうです。

もう一つは、どうせ救われないならと自暴自棄になるというもののです。死んだら終わりと考えて、今が良ければよいと好き勝手な行動をとってしまうのです。

しかし、キリスト教の考え方は違います。終末というのは完成のときなのです。たとえこの世が終わっても、なにも恐れることはありません。この世が終わっても命は終わらず、神のもとで生き続けます。神の作られたこの世がようやく完成の時を迎えるのです。何も恐れることはありません。

神様の目的がこの世の完成であるように、人生の目的は「神との関係の完成」です。人間は神様から離れて罪深い生活をしてきましたが、神様の意志に従い、神さまとの関係を完成するのです。

冒頭で「新しい定義」と書きましたが、「幸せになること」と「神との関係の完成」は、同じことを別の表現で表しているだけなのかもしれません。人の幸せは傲慢な生き方にあるのではなく、愛のある生き方こそ幸せなのですから、、、

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2007/11/06

金持ちのザアカイは必死に救いを求めていた

日曜の福音は「徴税人ザアカイ」(ルカ19・1-10)でした。以前にも記事を書きましたが、今回は新しいイメージが広がりました。

説教では、神父様が「ザアカイはお金持だったが、財産の半分を貧しい人に与え、神の愛を実践して救われた」という主旨のことを言われました。この言葉を聞いて、ザアカイは最初から必死であったことに気付きました。

背が低く、罪深い人ということからみすぼらしいイメージを持っていましたが、ザアカイがお金持であると考えると、イメージが変わります。きっと良い服を着て、良い靴を履き、立派な革のベルトや貴金属を身につけて、税金を払わない人に高慢な態度をとっていたのでしょうね。そんなザアカイが、イエスさまを一目見ようとイチジクの木に登ったのです。

作業服ならいざ知らず、高価なものを身につけた人が、普通なら木に登るなんてしないですよね。せいぜい何かを台にする程度で、なりふり構わずに木に登るというのは相当な思い、救われたいという思いがあったのでしょうね。

そんなふうに必死に救いを求めるザアカイだからこそ、神様の目にとまり、救いを得ることができたのでしょうね。

求めなさい。そうすれば、与えられる。
(ルカ11・9、日本聖書協会 新共同訳)

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2007/10/31

神さまを必要としない人

先日のミサは「『ファリサイ派の人と徴税人』のたとえ」(ルカ18・9-14)でした。このお話では、ファリサイ派の人と徴税人の二人が祈るために神殿に上ります。ファリサイ派の人は自分の正しさを述べ、清い生活が送れていることを感謝します。一方、徴税人は『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と神に自分への憐れみを求めます。イエスさまは、へりくだった徴税人を義とされます。

散髪をしてジョージ・マイケル(古すぎ?)のように精悍になった神父さまの説教では、「ファリサイ派の人は神を必要としなかった」と語られました。この言葉はショッキングでした。ファリサイ派の人は神様への感謝を語りながらも、ルールを守ればよいと決め付け、他人を裁き、自分は正しいと考えて、一人で生きていたのです。

思い起こすと、神さまに出会う前の私はファリサイ派の人とあまり変わりませんでした。自分は頑張っている、うまくいかないのは人の責任、私は正しい、そんな感情がいつの間にかありました。しかし、そんな考え方はいつまでも続きません。

物事に「良いこと」と「悪いこと」があるなら、それは同じことの表裏にすぎません。きっと、いつか反対のことが起こります。ある確率でラッキーな出来事が起こるなら、同じ程度の確率でアンラッキーなことが起こるはずです。良いことがあった時に神に感謝するなら、悪いときには神さまを恨むのでしょうか?

世界の完成に向かって計画されているなら、すべては良いこと、恵みに違いありません。ものごとには意味があり、人は簡単に物事を判断すべきではありません。徴税人のように人に批判され、苦しみながら生きることにも意味があるに違いありません。それを知らずに人を裁くことは、知らず知らずのうちに神さまを裁いているかもしれません。

禁じられたことをしないだけでなく、幼子のように純粋な心を持たなければなりません。定められた行いの実践よりも、神の愛を感じ、愛に生きることが重要です。自分を中心において世界を見るのではなく、神さまの愛を中心に世界を見なければならないのでしょう。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/10/23

聖モニカは祈り続けた

昨日のミサの福音朗読は「『やもめと裁判官』のたとえ」(ルカ18・1-8)でした。説教では、聖アウグスチヌスの母である聖モニカ(リンク先はWikipedia)のお話をされました。

聖モニカの亭主は異教徒、息子のアウグスチヌスもマニ教を信じていました。そのような中で、モニカは息子の時が来るまで祈り続けました。ようやく、モニカが亡くなる1年前にアウグスチヌスは洗礼を受けました。モニカが亡くなった後、アウグスティヌスは司教、そして教会博士になり、その後のキリスト教・欧州に多大な影響を与えました。子供のための絶え間ない祈りは神に届き、やがて大きな力になったのですね。

ところで、昨日の福音には「神など畏れない」が2回も出てきます。ユダヤ教国家であるので、きっと裁判官は律法に基づいて判決を出していたはずです。信仰を持たないまま律法で裁くとは、ファリサイ派以上にとんでもない裁判官ですね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/10/16

苦しみは恵み、感謝は救い

日曜の福音朗読は、さらっと読むと、わかったような、わからないようなお話でしたね。
皮膚病(かつてらい病と呼ばれたハンセン氏病らしい)の人たちをイエスさまは癒されたのですが、サマリア人だけが感謝して帰ってきました。

イエスさまは

「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」

といわれますが、サマリア人に対して

「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

と言われます。この言葉は、イエスさまが奇跡をおこなわれた際によく言われる言葉ですが、信仰によって皮膚病が治ったのでしょうか?ほかの人(ユダヤ人)も皮膚病が治っているのですからどうもおかしいです。救われたというのは皮膚病のことではないように思います。

自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来たサマリア人は、イエスさまの足もとにひれ伏して感謝しました。実はこの感謝こそが救いなのではないでしょうか?

サマリアはアッシリアに征服されて異教を強制されました。その様子は「イエスとサマリアの女」(ヨハネ4・1-32)で5人の夫(宗教)とたとえられ、今の連れ添っている男も本当の夫(宗教)ではないとイエス様に言われるようです。

本当の神様を知らないサマリア人は、皮膚病を直してもらった喜びだけでなく、本当の神様に出会った喜びから、大声で神を賛美し、感謝したのでしょうね。

日曜日の説教では、運動会での親のお話を二つされまし