2016/03/20

あなたは人類にへりくだりを教える

今日から聖週間。四旬節のイースター前の一週間です。

ミサでは会衆がイエスを救うのではなく盗賊のバラバを救えと叫び、最後に「十字架につけろ!」と叫びます。

人は勝手な思いから好き勝手なことをしてしまいます。しかし、人間である限り、間違いを犯し、人を傷つけてしまうことがあります。

福音にこうありました。

「人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る」(ルカ23・30)

また、キリストに救いを求める犯罪者にこうも言いました。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23・43)

人が自分だけが正しいと思わず、互いを認め、素直な気持ちで接し合えたなら、そこが楽園になるのでしょうね。

アーメン(そうなります様に)

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2015/01/12

ヨハネから洗礼を受けられた

昨日の福音は、キリストが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられるお話でした。河原町教会の説教では「ヨハネが『わたしは、かがんで履物のひもを解く値打ちもない』と言ったように、神であるイエス様は洗礼を受ける必要はなかったが、謙遜して我々と同じように洗礼を受けられた」とお話しされました。

生まれながらにして神、それはキリスト教主流派で大切にされている点です。キリスト教の最初の異端であるネストリウス派(リンク先はWikipedia)は、キリストの人格を認めているからです。

ネストリウス派は中国に渡って景教と呼ばれ、仏教に影響を与えたと言われます。それはそれで良い事だと思うのが、私が仏教や神道でなく、キリスト教を信じたのは、遠藤周作の著作を読んで「キリストに負けた」と思ったからです。人が高みにたどり着く事や神になる事がベースにあるのではなく、自分は足りていないものである事を認めたところから始まるホッとする、心の安らぎを感じたからです。

キリストは人間である洗礼者ヨハネから洗礼を受けられましたが、それは罪を清めるためでなく謙遜であった。その説明にキリストの恵みを思い出しました。

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2014/08/24

パンくず

先週のミサではマタイ15・21~28のカナンの女がキリストにすがりついて、イスラエルでなくても犬の様にこぼれたパン屑ならと神様の恵みをいただくお話でした。

この日は幼児洗礼式もあって、赤ちゃんが洗礼の恵みをいただいていました。我々もこぼれたパンのようなお恵みのお裾分けにあずかって幸せな気持ちになりました。

先日の5つのパンと2匹の魚のお話では、みんなでパンを分けた後にかご一杯のパンくずが残ったとされていました。パンと魚をわけた人々は、洗礼式に立ち会った私達のように幸せで満たされたということなのでしょうね。

IT関係でパンくずというと、Webページの上の方にある

   TOP > アクセス > 地図

という風にホームページからその画面までの経路を示す表示のことを言います。

これは、グリム童話『ヘンゼルとグレーテル』から来たそうですが、ミサ中は「青い鳥」だったっけなどと考えていました。

今日のミサはマタイ16・13-20のペトロがキリストをメシアと呼ぶお話で、説教ではペトロのその後の行動でわかるように、この信仰はペトロが得たのではなく、神様が与えたもので、それは私達がミサに集まる恵みを与えられたのと同じだと説明されました。

ひとは自分の人生をコントロールしていると思って、うまくいけばついつい自信過剰になり、失敗すれば自分はダメだと思います。でも、人生は与えられたものなので、未来を信じて今を誠実に生きていればそれで良いのだと思いました。

さて、上に書いたWebページのパンくずですが、それを辿るとホームページに戻れます。幸せは探さないと行けないものではなくて、青い鳥のように身近なところにすでに与えられているものなのでしょうね。気負ったり、落ち込んだりすることなく、目の前にあることを誠実に果たせばそれでよいのでしょう。

あっ、そういえばグリム童話でしたね。この間違いもお恵みなのでしょう。

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2014/08/03

哀れみ=compassion(同情)

今日のミサの福音(マタイ14・13-21)は5つのパンと2匹の魚で2000人以上を満たしたお話でした。数式で表すとこんな感じです。

  5 + 2 > 2000

#こういうTシャツを作ったと、シスターから聞きました。

このお話は過去にも書いた(その1その2)ので、わかっていたつもりです。しかし、説教を聞いて驚きました。

前半に出てくる「大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」の「憐れみ」は「compassion」だと説明されました。「compassion」はコンパチに通じる言葉で、同じ心を持つと言う意味だそうです。

憐れむと聞くと、上からかわいそうに思うイメージがあったのですが、そうではなく、神様が同じ心を持たれたのです。

いつも傍におられる神様は、遠くから気の毒に思うのではなく、迷子の子供に話すように目の高さにしゃがんで、共に悲しんでくださるのだと思いました。

5つのパンと2匹の魚のお話は、少ない食べ物で5000人を満たされた奇跡のお話です。でも、共に悲しんでくださる神様を知ることで、心がいっぱいになったのだと思いました。

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2013/05/26

希望はわたしたちを欺くことがありません

ここのところ仕事に疲れ果てて、日曜はゆっくりしていました。ようやく土曜日が休める様になり、(日曜はゆっくりしたいので)土曜の夕方のミサに出かけました。

ミサの第2朗読では「希望はわたしたちを欺くことがありません」(ローマ5・5)と読まれ、福音朗読では「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16・13)と読まれました。

ヨハネによる福音書には、この後に「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8・32)という私の好きな言葉があります。それを思い出していると、色々な不満が消えたように思いました。

物事がうまくいかないとき、ついつい不満を感じます。それは現在の状況に対してなのですが、やはりその状況は人が生み出したものです。

その状況をどうするか。ありがちなのは「愚痴」。ストレス発散には一定の効果がありますが、問題は解決してくれません。「希望」がないからです。

そこで、私たちを欺かない「希望」とは何かを考えました。それは問題を解決できるという「希望」です。「神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17・20-21)という聖句とあわせて考えると、不満を言うのではなく、現状についてもっと話し合って共通の認識を持つこと。そして共に歩む事が進むべき道なのではないかと思いました。

福音朗読の続きに「また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」 (ヨハネ16・13)とあるように、希望を持つにはどうすれば良いか、どうすれば豊かな人生を送れるのか、「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(同上)のは、聖書の言葉だと「希望」を感じることができたのでした。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2012/12/24

「恐れるな」

主のご降誕おめでとうございます。

クリスマスはキリストの誕生を祝う日です。誕生日ではありません。とある神父が言われるには、ベツレヘムでも12月は寒いそうです。ちなみに12月25日は元々ミトラ教のお祭りの日で、キリスト教が吸収したそうです。

今日のミサの福音では天使が「恐れるな」(ルカ2・14)と喜びの時を告げました。この「恐れるな」という言葉、聖書に出ているのはここだけではありません(他にもあります)。

新しい事が始まるとき、過去の事が終わります。これまでは当たり前だった事が当たり前でなくなり、これまで知らない新しい事が始まります。

人生には色々な変化があります。仕事の担当が変わる。部署が変わる。役職が変わる。会社を変わる。色々あるでしょう。それらは、とても恐ろしく感じられる物かもしれません。

しかし、人生が神様に与えられたものならそれは苦しみだけではないと思います。きっと、その先に喜びが用意されているのだと思います。

もしかすると、新しい環境で失敗するかもしれません。だからといって、新しい環境から逃げたり、腐ったりしては何も学ぶ事ができません。

乗り越えられない試練は与えられないと言います。乗り越えられるから試練が与えられる。失敗しても、それを肥やしにできるから試練が与えられるのです。

目の前には色々な出来事が待ち構えています。そこで、神様は言われています「恐れるな」と。

今日の福音の最後にはこう書かれています。

「いと高きところには栄光、神にあれ、
 地には平和、御心に適う人にあれ。」
(ルカ2・14)

神様を認めて、自分中心の考え方を改める事で、心に平和が訪れるのでしょうね。

今日のミサで、気づかされたと思ってここまで書きました。調べてみると、4年前にもこの最後の言葉を書いていました

神様にいつも助けていただいている事を再認識しました。

「きょう私たちのために救い主が生まれた」
(今日ののアレルヤ唱、共同祈願より)

アーメン。クリスマスおめでとうございます。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2012/09/16

わたしは顔を硬い石のようにする

仏教には「犀の角のようにただ独り歩め」と独立して生きていく事が理想だと語られています。今日の第1朗読(イザヤ50・5-9a)の「わたしは顔を硬い石のようにする」はその事を一瞬思い浮かばせました。

しかし、この受難のシーン思い浮かばせる言葉のあとには、キリスト教らしい言葉が続きます。

「わたしの正しさを認める方は近くいます。」
「見よ、主なる神が助けてくださる。」

私たちの神様は、そばにいて、私たちを認め、助けてくださいます。どんなに苦しい時も、信仰を失わなければ怖い者はありません。「乗り越えられない試練は与えられない」と心から思えるのです。

しかし、そんな私たちが最もおそれないといけない言葉が福音にありました。

「神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ8・33)

という傲慢さ、それは神様に向かう心と反対の思いなのだと思いました。

誰もが幸せを求めますが、自分勝手ではいけません。社会に貢献して、人の役に立つこと、日頃の行いを通して御旨に従うものでなければ、試練を乗り越えることはできないのではないでしょうか?

(引用は日本聖書協会・新共同訳)

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2011/07/31

神様のパンをいただく

今日は久しぶりに河原町教会のミサに与りました。福音は「五千人に食べ物を与える」(マタイ14・13-21)でした。ここでも何度か取り上げた「5つのパンと2匹の魚」と呼ばれているお話です。

5000人もの人に与える食事がなかったけれども、イエス様が5つのパンと2匹の魚を分けると、みんなが満腹になり、残ったパンくずは12の籠をいっぱいにするほどでした。

神父様によると、聖書にはミサの元になった最後の晩餐の伏線がいくつかあって、このお話はその一つだそうです。分けられたパンは、どちらかというとインド料理等で出る「ナン」のようなもっちりとしたもので、割るとか割くというよりはちぎるようなイメージだったそうです。

そのお話を聞いていて、具体的に考えてみました。5つのパンを5000人に分けたのですから、1つのパンを1000人で分けたことになります。普通のナンだと軽そうですが、パン1斤分ぐらいなら数100g、1本なら1kg、1000人で分けたなら一人0.5-1gぐらいになります。1円玉が1gですから、大体ホスチアと同じぐらいになります。

そのように考えていると、イエス様から直接パンを分けていただくような気がしてきました。今日いただいたご聖体は、いつもより幸せな味がしました。

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2011/03/06

すべての掟と法を忠実に守らねばならない

人生には色々な悩み、苦しみ、迷いがあるでしょう。そんなときに、信仰はとても心強いものだと思います。今日のミサの第1朗読は、神様からのシンプルな答えでした。

私があなたに授けるすべての掟と法を忠実に守らねばならない(申命11・32)

なにも悩むことはありません。人生で迷ったなら、神様の教えを思い起こせば良いのです。苦しみの中で助けてくれたのが神であり、それをきっかけに信仰を持ちました。神様の愛は永遠なのだから、いつでもそれに甘えればよいのです。頼ればよいのです。そのことを再認識しました。

福音朗読でもこう読まれました。

わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(マタイ7・24-25)

人生の指針は神様の言葉なのですね。

(聖書の引用は日本聖書協会・新共同訳)

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2011/02/13

しかも快く忠実にそれを行うことができる

今朝は帰省してた息子が東京に戻るので出遅れてしまい、ミサに行こうか、行くとしたらまだ間に合う教会に行こうか、と少し悩みました。しかし、そんなふうに悩んだ時は所属教会と決めているので、考えるのをやめてミサに向かいました。

聖堂に入ってすぐに始まった聖書朗読は、こんな言葉で始まりました。

その意志さえあれば、お前は掟を守り、
しかも快く忠実にそれを行うことができる。(シラ15・15)

ミサにあずかることは掟です。疲れているとき守らななくても罪悪感は感じませんが、ミサに与った時はとても心地良いものです。

主は、不信仰であれとは、だれにも命じたことはなく、
罪を犯すことを、許されたこともなかった。(シラ15・20)

何も考えず、神に従うだけで良いのだ、そう思っていると答唱詩編では

かみよあなたのことばはわたしのあしのともしび

と、私の好きな心に響く歌詞でした。さらに福音は

しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。(マタイ5・34)
                  :
あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、
悪い者から出るのである。(マタイ5・37)

自分勝手に物事を決めつけて裁くのではなく、神の言葉を素直に聞く、それが心に平和をもたらすのでしょうね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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