2013/12/15

人生は心の鏡

聖書で私の最も好きなお話はタラントンのたとえです。能力に関係なく誠実に生きなさいと教えるお話と理解しています。この中で、あまり響かないところが神様を怖がる部分です。

マタイによる福音書/ 25章 24-25節(日本聖書協会・新共同訳)
ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

この部分は神様を怖がってはいけないと理解していましたが、いろいろな出来事を考えると、この主人とは人生ではないかと思いました。

人生の状況を与えられたのは神様であっても、その状況を理解するのは私達自信です。色々と苦しい状況が起きますが、それを苦しいと思うのは私達であって、神様がそう思わせたわけのではないのです。

映画「ブルース・オールマイティ」にあるように、神様は場を与えるだけで、そこで感じる思いは私達のものです。

今の状況を苦しいと思ったり、無理だと思うのも仕方のない事ですが、それは、そう思ってしまうからです。しみじみ教のように人の思いや行動をしみじみと、そのままに受け止めることができたなら、それは別の思いに変わります。

あーもうやってられない。それは、私の思いです。なんでこんな目に、やめたやめた、ひどい奴だ!、なんとかしろよ、お前の責任だろ、すべて私の思いです。

そんな思いの中でに思い出したのは、タラントンのたとえです。上の聖句の後に出てくるのは、こんな言葉です。

マタイによる福音書/ 25章 26節(日本聖書協会・新共同訳)
主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。…

この僕は、勝手にそう思っていただけに違いありません。なのに主人は「知っていたのか」と言います。それは僕の感じていた思いだからです。

でもその思いは、主人の思いに関係なく勝手に感じていたのではないでしょうか。失敗の経験で、ぐうたらに過ごす事の間違いに気付かせようとしたのかもしれませんし、厳しい状況を与える事で、立ち向かえるような人間に成長することを期待していたかもしれません。

今の状況を、そう思わせているのは私自身だ。私の歩んできた道のりを、再び確認しました。もう大丈夫です。

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2012/02/18

教会のブログとツイッター

もともとfacebookのとあるグループに書いた記事ですが、せっかくなのでここにも載せておきます。

私は成人洗礼です。遠藤周作を通してキリスト教に出会った時に「心のさかば」と言うブログを始めました。それまでもソフトウェア関係のことを書いたブログは持っていたのですが、信仰のことだけを書きたかったので、別のブログにしました。キリスト教の本ことや、入門講座の記事を書いているうちに読者がぼちぼち増えるようになりました。

入門講座を探す際や、出張の際に色々な教会を巡る際に、教会の情報を公開することの重要性を感じました。そこで、所属教会の神父に相談したところ、教会の権威を使わなければよい旨のことを言われました(私は公式でないと明示すれば良いと解釈しました。実際、ミサの与り方などに関しては神学的なコメントもあり、そのスタンスは重要でした)。

そこで、インターネットで教会のことを紹介するブログ「カトリック高槻教会の扉」を始めました。この名前は、あるプロテスタントのクリスチャンが、「高槻教会に行こうと思ったけれども扉が立派過ぎては入れなかった」と書かれていたので、「扉なら私が開けましょう」と言う思いからです。

それが7年ぐらい前の話です。教会内で公式にやろうかともほんの少しは思いました。しかし、それまでのブログの経験から、素早く情報発信することの重要性を感じていましたので、手間がかかり、情報発信が遅れるとの判断から、非公式にしました。非公式ではありますが、公式ホームページがないので教会紹介サイトやイグナチオ教会からもリンクされています。

そうこうする間にツイッターが流行りだし、ブログをしていたココログを更新した際に、連携したつぶやきができるようになったので、ツイッターで@ukons_doorを始めました。つぶやきは、ブログでミサなどの情報を更新した際や福音的なつぶやきのリツイート(自分のフォロアー向けに再公開すること)です。最近はブログを更新する暇がない時に単独でつぶやいたりもしています。

この一連の流れで、多くの人脈を得ることができました。カトリックの方には「心のさかば」を読んでいただいた方も多く、「カトリック高槻教会の扉」をしてしばらくすると、ブログの知り合いだったMr. Good NewsさんからSIGNIS JAPAN(カトリックメディア協議会:バチカン系の組織)のセミナーに呼ばれたりもしました。

そこで高円寺教会の人たちと知り合い、高円寺教会の「おやじの会(1回目2回目)」という集まりにも参加しました。まあ、実態は飲み会のようなものですが、当時の晴佐久神父も参加されたり、信者への間口を広げる場になっていました。

Twitterでは、そんなブログの付き合いとは別に、軽いつながりを持っています。京都で開催されたマザーテレサ展のつぶやきをすると片柳神父がフォローしてくださいました。そのほかにも高槻教会の名前からか、お会いしたこともないカトリックの方がフォローしてくださっています。

教会のブログやTwitterは、福音宣教などという思いよりはタラントンのたとえの実践です。自分にできることを実践している、ただそれだけです。入門講座やミサで感動したなら、それを自分のためにもまとめておいたら、他の人にも喜んでもらえたということです。

Twitterというのは基本が公開で、友人であるかは関係なく興味のある人が眺めるものです。興味のある有名人をフォローしたら、その人が日ごろどのように考えているか、脳みその中をのぞくような感覚を感じることができます。

そのうちに聞きたいことが出てくれば、メンション(@ユーザ名を付けたつぶやき)で聞いてみれば良いと思います。そこから有意義な情報が得られたり、場合によっては知り合いになることもあるでしょう。IT業界では各種勉強会が盛んで、メンションで講師依頼が行われることも多々あります。

実際、私の関わるIT系の勉強会の企画がTwitter上で進められているうちに「あとXXさんがいたら完璧だ」というので、それをつぶやきにコピー&ペースト(非公式リツイートと言います)して、そのXXさんにメンションを送ったところ、たまたま出張が重なって参加してただけたことがありました。

類は友を呼ぶ言いますが、情報発信すると人が集まります。まずは聞く側で初めて、リツイートやつぶやきを少しずつすればよいと思います。私の妻は、かなりITが苦手な人なので、携帯だけでTwitterしています。ほとんどつぶやかず、良い言葉を見つけたらリツイートしているだけですが、いろんな有名人にフォローされていたりします。そんな楽しみ方もアリかと思います。

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2010/09/05

「やすらぎへの道」始めます

神の恵みを感じて5年がたちました。その喜びからブログをはじめました。最初の頃は、入門講座の内容や、初心者だからこそ感じる事柄を書いていました。そして感動の洗礼のあとも続け、徐々に日々の出来事や新しく気付いたことを書くようになりました。

しばらくすると、自分がどのようにキリスト教と折り合いをつけるかが重要になり、私にとってのキリスト教を語りました。

そして最近は忙しくなり、信仰心はそのままのつもりですが、ミサに行くこともままならず、入門講座や分かち合いに参加することも難しくなりました。そのような中で、ブログの更新も少なくなっています。

少ない時間の中で、どう神さまの道具になるかを考えていたとき、マザーテレサの召命の話を思い出しました。シスターになるかどうかの悩んでいたときに、神父の「喜びを感じるならそれが召命」という言葉に従い、マザーは神の道具になりました。

私も所属教会の中で本来すべきことがありますし、日曜のミサや分かち合いも大切です。しかし、私だからこそできること、喜びを感じること、役に立てること、色々考えたところ、ある結論に至りました。

それは、私が喜びを感じたこと、学んだこと、生きる糧になったことを、他の人に伝えることが一番大切だということです。最初の頃のような新鮮なことは書けませんし、折り合いをつけようとしていた頃のオリジナリティも少ないと思います。しかし、いまだからこそ語れる「程よいキリスト教の説明」ができると思うのです。

もちろん、先輩方に比べると知識も大したことはありませんし、間違いもあるでしょう。でも、私は、読者に「もうだいじょうぶですよ」と伝えたいのです。

カテゴリの名前は「安らぎへの道」です。「あなたに話したい」 、とか「だいじょうぶだよ」という書名の利用や、「喜びへの道」あるいは「福音への道」など安らぎの先にあるものも考えました。しかし、私が伝えるべき大切なものは「安らぎ」だということで、ブログのサブタイトルである「安らぎへの道」をカテゴリ名にします。ほかの記事と区別すべく記事には[入門]とつける予定です。

ぼちぼちしか書けませんが、優しく見守ってください。

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2009/01/29

自分を受け入れる

神さまに出会う前の自分を思い起こすと、自分を受け入れることができなくて苦しんでいたように思います。

もともと私は毒舌で、批判をする割に言い訳をするようなところがありました。どこかの元総理ではないですが、自分自身では物事を客観的に見ているつもりでした。

しかし、仕事がうまくいかなくなるとストレスがどんどん溜まって、自分が壊れていきました。聞くところによるとストレスがたまった時に人間は大まかに二つのタイプに分かれるそうです。一つは自分を責めて抑うつ状態になるタイプ、もう一つは責任を人の所為(せい)にするパーソナリティ障害(かつての人格障害)タイプです。私は後者のようでした。

実際、自分よりも他の人が原因でうまくいかなかったことも事実だったので、自分の対処が不十分なことには目をつぶり、その人が悪いという思いに囚われていました。

その時に、なんだかんだあってイエス・キリストの受難の話を読んで、ようやく、やるだけのことをやっていなかった自分を認めることができました。

一人で生きなければいけないという強迫観念が自分を追い込み、自分の悪いところを見ないようにしていなかったのだと思います。でも、それは自分のことを愛していなかったのだと思います。

愛するということは、すべてを受け入れることです。自分の良い面も悪い面も素直な気持ちで見つめるのです。自分のプライドが傷つくかもしれません。自分の大切にしていた考えを否定するかもしれません。でも、大丈夫なんです。

私が生まれる2000年前にもっと受け入れがたい現実を受け入れた人がいます。その人は自分のためでなく、他の人のために受け入れました。その人は私のためにも受け入れてくれました。だから、私は一人ではありません。だから、大丈夫なのです。

自分を受け入れることができて、愛するということがわかったように思います。家族というものについて、私はどうも役割という考えが強すぎました。父という役割、夫の役割、妻の役割、母の役割、子供の役割、そんな風に考えると、うまく愛せません。

自分も家族も同じです。「もっとこうすべきだ」とか、「今のうちに言っておかないと」、「言ってあげるのが本人のためだ」などという思いが強いと人が見えなくなります。ありのまま、素直にその人を見て、わかろうとする。現状を認めてあげる。それが大切なんだと思っています。

いまはとても楽な気持です。神様にも家族にも感謝しています。

 

(近年は、典型的うつ病やパーソナリティ障害のほか、適応障害等多くの病気がうつ病と診断されるようです。私は素人ですので、詳しくは専門サイトを確認してください。また、自分で変だと思われた方は専門家に相談してください。)

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2009/01/18

イエス・キリストとの出会い

今日の福音は「最初の弟子たち」(ヨハネ・35-42:リンク先は聖書協会)でした。最初の弟子であるヨハネとアンデレ、そしてペトロがイエスと出会うお話です。特にヨハネとアンデレが「」出会ったのは「午後四時ごろのことである」とされています。説教では、この出会いについて話されました。

出会いは生きる上で大切なことです。それを忘れてはいけません。特に大切な人との出会いは、いつのことであるかまで忘れることはありません。ヨハネとアンデレが出会ったのは午後4時でした。

また、大切な人と出会ったなら、それを家族や友人に話すでしょう。イエスに出会ったヨハネはシモンに話しました。そして、シモンもイエスに出会い「ペトロ」という名前を与えられるようになりました。

サウロも復活されたイエスさまと出会い、「パウロ」という名前を与えられ、使徒と共に弟子になりました。

互いの出会い、幸せとの出会い、神の子であるイエス・キリストとの出会い。共に住み、学校のように学びました。私たちの学校は心にあります。

イエスの学校は教会です。秘跡を受け、聖霊を受け、ご聖体を受け、平和を分け合い、兄弟姉妹と分かち合います。イエスとの出会いの体験は、心の中で兄弟姉妹と分かち合い、共に祝うという体験ができるのです。それは宝くじに当たるよりも意味があります。教会にいるこの瞬間が、私たちの大切な生活です。

ヨハネとアンデレはイエスとの出会いを一生忘れませんでした。それは午後四時ごろでした。今でも覚えられています。

神よ、聖霊で満たし、世界が平和であるように、私たちをひとつにしてください。

(メモを元に再現したつもりですが、間違いがあればお許しください)
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私と神さまとの出会いは何度か書いてきました(最初2回目高円寺)が、やはり最初の出会いは忘れられません。

キリスト教に興味を持って何冊かの本を読んだ後、夜中に一人でキリストの誕生を読んでいました。すると、それまで苦しんでいたものが消えて、急に心が軽くなりました。辛くて、辛くて、押しつぶされそうだった心が、急に楽になりました。

自分の罪深さと言えば表現が美しすぎるかもしれません。自分の間違いをようやく認める事ができたのです。傲慢であることを当たり前のように考えていた自分を、ようやく理解できたのです。

神がまずわたしたちを愛してくださった」(一ヨハネ4・19)

私の大好きな言葉です。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/08/01

友人イエス - ナウエンと読む福音書 その3 -

ある神父さまが、聖書にならって「イエス」と呼び捨てにされていたとき、「イエス・キリスト」とか「イエスさま」と読んで欲しいとお願いされたそうです。呼び捨てにすることによって、心を痛める方がおられるならと「イエスさま」と呼ばれるようになったそうです。

わたしもそれに従って、「イエスさま」あるいは「キリスト」と呼んできました(キリストは救世主の意味なので敬称との判断です)。しかし、「ナウエンと読む福音書」に以下の聖書の引用がされていてハッとしました。

わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。(ヨハネ15・14-15)

私はニコデモのように、多くの捨てるべきものを捨てられないでいます。しかし、それが当たり前と思っていたかもしれません。イエス・キリストに従うと決めて洗礼を受けておきながら、自らを僕(しもべ)とすることで現実から逃れようとしていたのかもしれません。

そのことに気づいたからと言って、すべてが捨てられるわけではありません。しかし、イエス・キリストが「友」と呼んでくれるのに、僕であると逃げるわけにはいきません。これからは、少しでも教えに従うために「イエス」と呼ばせていただこうと思いました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/05/05

信仰ではなく救いを求めて

私が教会に行ったのは、救いを求めていたからです。世の中には、良い死を迎えるために信仰を求められる方や、結婚相手の信仰を知るためや、興味から、など、さまざまな目的で教会に来られるでしょう。

しかし、教会というのは「信仰のための場」である前に「救いの場」でなければいけないと思います。教会に来て救われないなら、どこに行けば救われるというのでしょうか。マザー・テレサのように、信仰や思想に関係なく人格を認め、苦しみを和らげる行いが必要だと思います。

先日の黙想会での赦しの秘跡で、こんなことがありました。カトリックの洗礼を受けていない方が二人も来られたのです。もちろん、ゆるしの秘跡を受けることはできませんので、神父様にお話を聞いていただきました。多くの方のゆるしの秘跡でお疲れの神父さまに申し訳なかったのですが、教会の救いの業はそんなところから始まるのではないでしょうか?

私は神様を信じていませんでしたし、人間に信仰が必要だとも思っていませんでした。しかし、救われて、恵みを感じたことから、信仰に喜びを感じるようになりました。私のような人間に神の教えを広めるには、まず救われなくてはならないのです。信仰の形を押し付けるのではなく、受け入れることが大事だと思います。

でも、それが難しいのでしょうね。人によってバザーなどのイベントが好きだったり、教理が好きだったり、分かち合いが好きだったり、ただひたすら祈るなど、求めるものが人によって異なります。分かち合いが良いといっても、何げなく言った一言で、誰かを傷つけることもあります。

結局、神さまとの関係を大切にすること、神の教えを実践すること、そして、ミサと祈りをを大切にすることしかないのでしょうね。教会を一番に置くのではなく、自分と神さまの関係を一番に置くことが、教会を救いの場とするのではないでしょうか。

私信:放蕩娘さんお帰りなさい。いつでも戻ってきてください。

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2007/10/25

冷静に見ていなかった - 働きマン -

このブログを書き始めて2年(と1ヶ月)になります。そのきっかけを何度か書きましたが、どことなく納得していないものがありました。それが先週のTVドラマ「働きマン(リンク先は公式サイト)」をなにげなく見ていてようやくわかりました。

「働きマン」はどことなく「アリーmyラブ(リンク先はFOX)」をほうふつさせるような働く女性のお話です。菅野美穂さん演ずる松方は「働きマン」になって一生懸命に働きますが、人とぶつかってばかりいます。一方、釈由美子さん演ずる野川は、女性らしくうまくやって仕事をこなしています。そんな野川を松方は批判的に見ます。

一見、ちやほやされているように見える野川ですが、実は陰で人並み以上に努力していました。そのことを知った松方は

「人のせいにして、努力していなかった」

と、反省します。ふたりはようやく打ち解けたとき、野川は自分のことを振り返って、自分の過去を振り返って、こう言います。

「ぶつかってばかりいて、冷静に見ていなかった」

この言葉は考えさせられます。努力するだけではだめなんですよね。

人は客観的・合理的に物事を考えているつもりでも、いつのまにか感情にとらわれてしまいます。推論に過ぎないことを「そうに違いない!」などと思い込み、自分で自分を追い込んでしまいます。

「働きマン」の松方は頑張ることが必要だと、思い込んでいるんですよね。でも、頑張るだけではだめなんです。いくら頑張ったってダメなときはダメ、どうにもならない。そこで、どんなに頑張ってもどうにもなりません。思い込みをやめて、冷静に物事をとらえないとだめなんですよね。

私が信仰の道に入ったのは、こんなことが原因だったと思います。遠藤周作さんの「イエスの生涯」「キリストの誕生」を読んで、今までの自分が傲慢であったことに気付きました。そこには「自分の苦労なんて大したことはない」「自分の一方的な見方だった」という2つの思いがありました。

「自分の苦労なんて大したことはない」というのは、イエスさまの受難との比較です。人類を救うための運命とはいえ、誰にも理解されないまま、十字架にかかられました。その苦しみを考えれば、どんな苦労も大したことはありません。それをこの世の終わりのように、誰かに怒ったり、自分を責めたりすることはないのです。

「自分の一方的な見方だった」というのは、遠藤周作さんの著作ならではの恵みだったと思います。捕えられたイエスさまの身を案じつつも自身の安全を考え、十字架に架けられたときにも自分たちのことを何と言われるかを心配する。誰しもの心にある暗い部分を持つ弟子たちと、それをわかった上で愛されたイエスさまとの対比は、自分の考えが一方的であることに気づかせてくれました。

そんな弟子たちにも3日後に変化がおこりました。心の中にイエスさまが復活し、弱虫だった弟子たちが、死をも恐れぬ使徒に生まれ変わります。それこそ、奇跡というべき変化です。そのような変化は、聖書では聖霊降臨まで間となっていますが、遠藤さんはしばらくかかったと書かれています。

ここのところは、あまりよくわかっていなかったのですが、最近、何となくわかるようになりました。私は、遠藤さんの本でキリストに出会い、復活と聖霊降臨のような衝撃を受けたつもりでした。しかし、私の実態は、たいして変わっていないのですよね。

少しずつ、少しずつ、あっちに行ったり、こっちに行ったり、苦しんだり、悲しんだり、そして喜びを感じながら、神様に近づいていくのでしょうね。苦しみもいつか恵みと感じられると信じて、批判せず、怒らずに、しみじみとやっていこうと思います。

色々なことがありましたが、いや、色々なことがあったからこそ、神さまのご計画に感謝しています。

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2007/10/14

神の似姿 - 聖フランシスコ「太陽の賛歌」 -

神の似姿というと(創世記1・26)で

神にかたどって創造された(日本聖書協会 新共同訳)

とされる人間のことが思い浮かびます。この表現、以前から違和感がありました。ギリシャ神話か日本神話にあるような、多神教的なイメージを抱いてしまったり、進化した宇宙人が遺伝子操作で作りだすといったSF的なイメージを抱いてしまいます。

このようなイメージは多神教的です。Good News Collectionにあるように神様が唯一絶対でないと、欠点をイメージしてしまい、どうもいけません。では、この「似姿」とはなにか?それが以前からの疑問でした。

川下勝著「アッシジのフランチェスコ」(清水書院、pp.167-172)に「太陽の賛歌」(リンク先はLaudate)が載っています。この太陽の賛歌はGood News Collectionにあるように、晩年の聖フランシスコが「死」というものを「姉妹」として讃えている点が特徴的です。この賛歌の中にも「似姿」という言葉が出てきます。

太陽は美しく、
  偉大な光彩を放って輝き、
  いと高いお方よ、
  あなたの似姿を宿しています。

これには衝撃を受けました。「太陽が似姿を宿している」という神って何なのでしょう。内部で核融合を起こしている「光源」や「熱源」あるいは「磁気嵐」が神だというのでしょうか?きっと、そんな物理的なことは決して表していないのでしょう。すると、何だというのでしょうね。

色々と思いを巡らしていると、ある言葉が思い浮かびました。

「神は愛」

すなわち、「似姿」とは、愛を実体化したものと考えることにしたのです。

神を信じるというのは、この世の出来事は偶然ではなく、完成に向けた神のご計画によるものであるとすることです。世の中を科学的にどんどん分解していけばいくほど、よくできていることがわかってくるといいます。最先端の科学者は神の姿を感じるといいます。

陽子の周りを電子がまわって原子になり、原子が集まり分子になり、分子が集まって物質ができ、色々な物質があつまって星になり、そして大きな星を小さな星が回ってまるで原子のように惑星系や恒星系になっています。すべてのことがよくできているのです。

私が生まれたことも、妻と結婚したことも、父が亡くなったことも、遠藤周作に出会ったことも、洗礼を受けたことも、すべてのことに意味があり、すべては良い方向に向かっているのです。

すべての物が被造物で、被造物は神の愛を実体化しているのです。

鳥や自然を愛した聖フランシスコは、すべての被造物に、いや、死をも含めたすべてのものに、愛そのものである神を感じていたのでしょう。

(この記事を考えているうちに、遠藤周作さんの「深い河」に出てくる神父さまは、聖フランシスコがモチーフなのではないかと思うようになりました)

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2007/04/14

携帯用URL

少し前から、以下のURLをアクセスすると携帯電話で見ることができるようになりました。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast?blog_id=157819&user_id=138594
まだ、β版だそうです。少々不具合があるかもしれません。

PC用画面の左下には、QRコード(2次元バーコード)と携帯にメールを送るためのリンクがありますので、ご利用ください。

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