2008/05/05

信仰ではなく救いを求めて

私が教会に行ったのは、救いを求めていたからです。世の中には、良い死を迎えるために信仰を求められる方や、結婚相手の信仰を知るためや、興味から、など、さまざまな目的で教会に来られるでしょう。

しかし、教会というのは「信仰のための場」である前に「救いの場」でなければいけないと思います。教会に来て救われないなら、どこに行けば救われるというのでしょうか。マザー・テレサのように、信仰や思想に関係なく人格を認め、苦しみを和らげる行いが必要だと思います。

先日の黙想会での赦しの秘跡で、こんなことがありました。カトリックの洗礼を受けていない方が二人も来られたのです。もちろん、ゆるしの秘跡を受けることはできませんので、神父様にお話を聞いていただきました。多くの方のゆるしの秘跡でお疲れの神父さまに申し訳なかったのですが、教会の救いの業はそんなところから始まるのではないでしょうか?

私は神様を信じていませんでしたし、人間に信仰が必要だとも思っていませんでした。しかし、救われて、恵みを感じたことから、信仰に喜びを感じるようになりました。私のような人間に神の教えを広めるには、まず救われなくてはならないのです。信仰の形を押し付けるのではなく、受け入れることが大事だと思います。

でも、それが難しいのでしょうね。人によってバザーなどのイベントが好きだったり、教理が好きだったり、分かち合いが好きだったり、ただひたすら祈るなど、求めるものが人によって異なります。分かち合いが良いといっても、何げなく言った一言で、誰かを傷つけることもあります。

結局、神さまとの関係を大切にすること、神の教えを実践すること、そして、ミサと祈りをを大切にすることしかないのでしょうね。教会を一番に置くのではなく、自分と神さまの関係を一番に置くことが、教会を救いの場とするのではないでしょうか。

私信:放蕩娘さんお帰りなさい。いつでも戻ってきてください。

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2007/10/25

冷静に見ていなかった - 働きマン -

このブログを書き始めて2年(と1ヶ月)になります。そのきっかけを何度か書きましたが、どことなく納得していないものがありました。それが先週のTVドラマ「働きマン(リンク先は公式サイト)」をなにげなく見ていてようやくわかりました。

「働きマン」はどことなく「アリーmyラブ(リンク先はFOX)」をほうふつさせるような働く女性のお話です。菅野美穂さん演ずる松方は「働きマン」になって一生懸命に働きますが、人とぶつかってばかりいます。一方、釈由美子さん演ずる野川は、女性らしくうまくやって仕事をこなしています。そんな野川を松方は批判的に見ます。

一見、ちやほやされているように見える野川ですが、実は陰で人並み以上に努力していました。そのことを知った松方は

「人のせいにして、努力していなかった」

と、反省します。ふたりはようやく打ち解けたとき、野川は自分のことを振り返って、自分の過去を振り返って、こう言います。

「ぶつかってばかりいて、冷静に見ていなかった」

この言葉は考えさせられます。努力するだけではだめなんですよね。

人は客観的・合理的に物事を考えているつもりでも、いつのまにか感情にとらわれてしまいます。推論に過ぎないことを「そうに違いない!」などと思い込み、自分で自分を追い込んでしまいます。

「働きマン」の松方は頑張ることが必要だと、思い込んでいるんですよね。でも、頑張るだけではだめなんです。いくら頑張ったってダメなときはダメ、どうにもならない。そこで、どんなに頑張ってもどうにもなりません。思い込みをやめて、冷静に物事をとらえないとだめなんですよね。

私が信仰の道に入ったのは、こんなことが原因だったと思います。遠藤周作さんの「イエスの生涯」「キリストの誕生」を読んで、今までの自分が傲慢であったことに気付きました。そこには「自分の苦労なんて大したことはない」「自分の一方的な見方だった」という2つの思いがありました。

「自分の苦労なんて大したことはない」というのは、イエスさまの受難との比較です。人類を救うための運命とはいえ、誰にも理解されないまま、十字架にかかられました。その苦しみを考えれば、どんな苦労も大したことはありません。それをこの世の終わりのように、誰かに怒ったり、自分を責めたりすることはないのです。

「自分の一方的な見方だった」というのは、遠藤周作さんの著作ならではの恵みだったと思います。捕えられたイエスさまの身を案じつつも自身の安全を考え、十字架に架けられたときにも自分たちのことを何と言われるかを心配する。誰しもの心にある暗い部分を持つ弟子たちと、それをわかった上で愛されたイエスさまとの対比は、自分の考えが一方的であることに気づかせてくれました。

そんな弟子たちにも3日後に変化がおこりました。心の中にイエスさまが復活し、弱虫だった弟子たちが、死をも恐れぬ使徒に生まれ変わります。それこそ、奇跡というべき変化です。そのような変化は、聖書では聖霊降臨まで間となっていますが、遠藤さんはしばらくかかったと書かれています。

ここのところは、あまりよくわかっていなかったのですが、最近、何となくわかるようになりました。私は、遠藤さんの本でキリストに出会い、復活と聖霊降臨のような衝撃を受けたつもりでした。しかし、私の実態は、たいして変わっていないのですよね。

少しずつ、少しずつ、あっちに行ったり、こっちに行ったり、苦しんだり、悲しんだり、そして喜びを感じながら、神様に近づいていくのでしょうね。苦しみもいつか恵みと感じられると信じて、批判せず、怒らずに、しみじみとやっていこうと思います。

色々なことがありましたが、いや、色々なことがあったからこそ、神さまのご計画に感謝しています。

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2007/10/14

神の似姿 - 聖フランシスコ「太陽の賛歌」 -

神の似姿というと(創世記1・26)で

神にかたどって創造された(日本聖書協会 新共同訳)

とされる人間のことが思い浮かびます。この表現、以前から違和感がありました。ギリシャ神話か日本神話にあるような、多神教的なイメージを抱いてしまったり、進化した宇宙人が遺伝子操作で作りだすといったSF的なイメージを抱いてしまいます。

このようなイメージは多神教的です。Good News Collectionにあるように神様が唯一絶対でないと、欠点をイメージしてしまい、どうもいけません。では、この「似姿」とはなにか?それが以前からの疑問でした。

川下勝著「アッシジのフランチェスコ」(清水書院、pp.167-172)に「太陽の賛歌」(リンク先はLaudate)が載っています。この太陽の賛歌はGood News Collectionにあるように、晩年の聖フランシスコが「死」というものを「姉妹」として讃えている点が特徴的です。この賛歌の中にも「似姿」という言葉が出てきます。

太陽は美しく、
  偉大な光彩を放って輝き、
  いと高いお方よ、
  あなたの似姿を宿しています。

これには衝撃を受けました。「太陽が似姿を宿している」という神って何なのでしょう。内部で核融合を起こしている「光源」や「熱源」あるいは「磁気嵐」が神だというのでしょうか?きっと、そんな物理的なことは決して表していないのでしょう。すると、何だというのでしょうね。

色々と思いを巡らしていると、ある言葉が思い浮かびました。

「神は愛」

すなわち、「似姿」とは、愛を実体化したものと考えることにしたのです。

神を信じるというのは、この世の出来事は偶然ではなく、完成に向けた神のご計画によるものであるとすることです。世の中を科学的にどんどん分解していけばいくほど、よくできていることがわかってくるといいます。最先端の科学者は神の姿を感じるといいます。

陽子の周りを電子がまわって原子になり、原子が集まり分子になり、分子が集まって物質ができ、色々な物質があつまって星になり、そして大きな星を小さな星が回ってまるで原子のように惑星系や恒星系になっています。すべてのことがよくできているのです。

私が生まれたことも、妻と結婚したことも、父が亡くなったことも、遠藤周作に出会ったことも、洗礼を受けたことも、すべてのことに意味があり、すべては良い方向に向かっているのです。

すべての物が被造物で、被造物は神の愛を実体化しているのです。

鳥や自然を愛した聖フランシスコは、すべての被造物に、いや、死をも含めたすべてのものに、愛そのものである神を感じていたのでしょう。

(この記事を考えているうちに、遠藤周作さんの「深い河」に出てくる神父さまは、聖フランシスコがモチーフなのではないかと思うようになりました)

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2007/04/14

携帯用URL

少し前から、以下のURLをアクセスすると携帯電話で見ることができるようになりました。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast?blog_id=157819&user_id=138594
まだ、β版だそうです。少々不具合があるかもしれません。

PC用画面の左下には、QRコード(2次元バーコード)と携帯にメールを送るためのリンクがありますので、ご利用ください。

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2007/02/11

私がイエスを神とする理由

mixiのとあるコミュで書いたコメント(いわゆる使い回し)です(一部修正)。

私が洗礼を受けたのは、キリスト教が煩悩を捨てるのではなく、それを受け入れ、ゆるしてくれるからだと思います。

仕事がうまくいかずに苦しんでいたときに父親が亡くなって、まず、家の宗派(仏教)の本を読みました。確かに良いお話が書かれていたのですが、なにかピンとこない、自分とは関係がないような感じがありました。

そのころ妻が教会に通いだしていて、私が死んだときの葬儀が仏式だと気持ちが入らないと言いましたので、少しぐらいは読んでおこうかと本を読みました。昔、エッセイを読んでいた遠藤周作の入門書「私のイエス」を読みました。そして、引き込まれるように「イエスの生涯」「キリストの誕生」を読みました。そして、それまでの苦しみから逃れることができました。

仕事がうまくいかないのは自分にも責任があると、うすうす感じながらも、認めることができませんでしたが、「キリストの誕生」を読んでようやく認めることができたのです。

人々に見捨てられ、弟子にも裏切られ、十字架を背負ったイエスは、最期の時も人々のゆるしを父に願い、共に処刑された犯罪者も救いました。

良いところも、悪いところもすべて受けとめて、ゆるしてくださる、その完全な姿は弟子たちの心に残り、神として復活しました。それまで使徒たちは、イエスの教えを理解できませんでしたが、キリストの復活後、教えを積極的に広めるようになりました。

使徒たちと同じように、私はイエスの姿によって、自分の傲慢さに気づかされました。

イエスが神であるというのは、キリスト教の定義する神であるということです。その定義をアーメン(そのとおり、その通りでありますように)と思えるかどうかだと思います。私は遠藤周作の現実的な解釈によって救われ、聖書を読んでニケア・コンスタンチノープル信条をアーメンと思うようになりました。もちろん聖書は誰が読んでも良いことが書かれていると思いますが、救いを求める気持ちがあるからこそ、聖書の言葉に救われるのだと思います。

たしかに信仰はタイミングだと思います。学生のころに私が遠藤周作を好きだったこと、妻がカトリックの学校を出たこと、父が亡くなったこと、他にも色々な偶然がありました。その偶然を神様のしるし、すべて良いことだと思うことが回心たと思います。現実に苦しむよりも神の愛を感じて幸せに生きたい、それが私がイエスを神とする理由です。

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2007/01/08

あきらめから始まる未来

ちょっとイメージしてみてください。

  • ナップザックに色々な大きさの荷物を詰めるとき、効率よく入るにはどうすればよいですか?
  • たくさんのお客さんを訪問するとき、効率よくまわるにはどうすればよいですか?

この二つの問題は、情報の世界では「ナップザック問題」「巡回セールスマン問題」といって、最適な答えを求めるには時間がかかると知られている問題です。

荷物を最も効率良く詰めるには、全ての組み合わせ(正確に言うと順列)を計算しないと最適なものがわからないからです。お客さんをまわる際もお客さんの順番によって、移動時間が異なるので全てを計算しないと最適な答えはわかりません。

組み合わせにならない問題だと数が増えても大丈夫ですが、上にあげたような問題だと荷物やお客さんの数が増えると計算しなければいけない数(計算量)が爆発的に増えます。でも、出発時間までには詰め込まないといけません。さあ、どうしましょう?

答えは「あきらめる」ことです。最適な答えをあきらめて、ほどほどであきらめることです。ナップザックなら大きいものから詰めるとか、セールスなら区域を分けてから、その中で答えを求めるのです。また、一人で計算しないで、手分けするのも良い方法ですね。

ここ何十年かでコンピュータの世界は急速に発達しました。その背景に、この「あきらめる」べき問題がわかったということがあります。オセロや将棋などのボードゲームや、通信のデータを守るための暗号化技術など、様々な発展がありました。

人間の苦しさの一つに理想が高すぎたり、自己解決にこだわりすぎるというものがあると思います。一度あきらめてみるのも良いかもしれません。

私がこのブログを始めたのも、自己解決を「あきらめる」ことから始まりました。

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2006/09/24

キリストに負けて1年

このブログをはじめて、気がつけば9月21日で1年になっていました。
あらかじめ用意されていたかのような道を歩んで、カトリックに入信し歩んできました(このブログについてを逆順に読んでください)。特に選んだわけではなく、祝福され、御聖体をいただいて歩んできました。振り返ってみると「やはり、必要なものは与えられる」と思います。

きっかけは苦しみでした。人の苦しみはどこから来るのか、それは人の心からでした。人に認めてもらいたい、人より上に行きたい、幸せになりたい、許せない、負けたくない、自分のものにしたい、楽をしたい、、、、そんな気持ちを誰しもが抱きます。しかし、それは「おごり」だったのです。

自分の人生が思い通りになる。そんな考えが根底にあったのでしょう。頑張ればなんとかなる。その能力が自分にはある。何とかしてみせる。そんな思いがどこかにありました。でも、なんでも自由になるのは神さまだけです。神さまでない限り、物事が自由になるわけありません。そのことを認めることで、苦しみから解放されました。

聖アウグスチヌスが回心したときに「ぼくは、お母さんに負けましたよ」と言うと、母のモニカは「おまえはお母さんに負けたのではなく、神様に負けたのですよ。神様に負けたときに、人間は、初めてこの世に勝つことができるのです」と言いました(永井明著「聖アウグスチヌス」サンパウロ、p.166)。

物事の中心を自分に置かずに神様に置く、そのことが心の平安をもたらしてくれました。神さまに負けること、そうか、それだけだったんだ。そんな思いがします。かつては、信仰を持つことは「負け」だと考えていました。そうです。思い切って負けたんです。負けを認めたのです。そのときの気持ち良さは、言葉に表せません。

でも、やっぱり負け惜しみとでも言うか、負け切れていない自分もあります。今でも、色々あると難しい。ついつい怒りの気持ちや、許せない気持ちが生じます。そんな時でも、一人じゃないから頑張れます。

「そんなことをしていると、神様が見てて罰があたる」と言いますが、そんな神さまではありません。もともと、私のおろかさなどはお見通しです。その上で「沈黙」で描かれた神さまのように、やさしく見守ってくださいます。神さまに見守られているからこそ、自分の過ちを認めることができます。

「どちらにしようかな、天の神様の言うとおり♪」関西ではそんな風にものを選んだりします。巡礼を始めたころの聖イグナチオのようなこの言葉も違います。「運を天にまかせる」とか「なるようになる」ではないのです。

自分の位置で、自分の能力で、すべきことをする。それだけです。ただ、このすべきことは自分の思いからでなく、神さまに御心を尋ね、求め、聴いて、行うのです。無理をしたり、頑張りすぎるのでもありません。できること、すべきことをする。そのことがようやくわかってきたような気がします。

神さまに負けてようやく1年ですが、やっぱりまだまだです。まだまだの間、このブログは続きます。

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2006/09/08

自分を一番におかない - 逆説の戒律 -

「達観」と言う言葉がありますが、これほど難しい言葉はありません。より広い視野で全体を見渡しているつもりでも、自分の考えに捕らわれて、なかなか達観できるものではありません。

うまくいかないときに問題を見つけることは比較的容易にできますが、解決することは容易ではありません。良かれと思ってしたことも、なかなかうまくいきません。

先日、逆説の戒律を知りました。これはマザーテレサが書いたとして紹介されることが多いようですが、ケント・キース博士が書いた言葉だそうです。

人々はしばしば不合理で、無分別で、自己中心だったりします。
それでも、彼らを愛しなさい。

良い事をしても、人々はあなたに自分勝手な隠れた
動機があるのだろうと非難するでしょう。
それでも、良い事をしなさい

こんな出だしで始まるこの言葉は、確かにマザーテレサの自己からの解放の祈りやマザーに影響を与えた聖フランシスコの平和の祈りにつながるものを感じます。

うまく行くようにすることが目的だったのに、評価されないとついつい反発してしまいます。でも、うまくいかないのは自分がうまくやらなかったからなのですよね。

自分が評価されたいと思うように、ほかの人が自己中心的なのは当たり前です。それはそれとして受け入れて、うまくいくように考える必要があります。

でも、これが難しい。特に責任を持つべき立場だと、問題を遠ざけることもできず、どうしてよいか困ってしまいます。この一年、色々と悩み、考え、感じました。

そしてたどり着いたは、「自分を一番におかない」ことです。自分を中心においたまま考えるのではなく、自分より上に絶対の存在を認めることです。そうすれば、自分の小ささが見えて、ようやく前に進むことができます。逆説の戒律のおわりにはこう書かれています。

あなたと、あなたを傷つける人々との関係は、
そもそもどうでもいいことだったのです。
結局大事なことは、あなたと神様との間の関係だったからです。

教会に通い始めて1年、ブログを書いて1年、記事もついに300本になりました。最初のころの情熱は消え、必要なことを冷静に考えるようになりました。しかし、たどり着くところは今も変わりません。

神に感謝!

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2006/05/27

やすらぎへの道-気づきによって「真実の私」になる-

以前紹介した月刊『カトリック生活』に柳田神父が連載されている「日常に響く霊性を求めて」、その29回「不条理と神の愛(5)」を読みました。

この記事で述べられているのは、上座仏教の瞑想を修めた井上ウィマラさんの説明にヒントを得て

「エゴの私」は本当の自分以外のものを自分とみなしてしまうが、私たちが目覚めるべき「真実の私」は本来何ものでもなく「神の愛に満たされた無」である

というイメージを、大空と雲にたとえられています。真実の私は大空のように「透き通っていて静々しく、また穏やかで自由そのもの」とされています。そして「心に生じてくる怒りや悲しみ、不安やイライラ、有頂天や満足などの感情、またやるせなさやわびしさなどの気分、さらに思い込みや決めつけなど、こころの落ち着きや自由を奪ってしまう動きを、大空に湧き上がってくる雲」とされています。

この雲をうまくやり過ごすことができれば、本来の自分を取り戻せます。しかし、エゴの根本にある執着から、「雲に捉われ、それを自分とみなしてしまうことが無意識のうちに生じて」しまいます。そして「自由は奪われ、穏やかな心を取り去ってしまいます」

ここで、2つのことが言われています。一つ目は、素早く雲の存在に気づくために大空から雲を見つめるようにすることです。湧き出したばかりの小さな怒りの雲に素早く気づいてやり過ごします。怒りから離れて絶えず自分を大空に戻すことができれば、どんな雲や嵐(エゴの私)であっても、より大きい大空(真実の私)で包むことできます。そして、怒りと一つになることを避けることができます。

二つ目は、こんな感情(怒りなど)を起こしてはいけないと考えないことです。悪い感情を持った自分を否定的に見てしまうからです。心の中に生じた怒りをあるがままに見つめて、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ」(マタイ5・45)る神の心、すなわち内なる心に対して、「敵を愛しなさい」に象徴される隣人愛によって雲を取り除きます。

この雲に気づかせるもの、それは光です。暗闇の中では、雲と空の区別がつきません。心の中に神の光をあてることで、雲を雲として見分けることができます。

私にとってのキリスト教は、この光のイメージそのものです。かつて、仕事がどうもうまくいかないとき、問題のある人に目が向いてしまいました。そして、その人の責任だという憎しみに捕らえられ、心の中には真っ暗な嵐が吹き荒れていました。そして、苦しみの中でしだいに嵐は大きくなり、その状況を放置する周囲の人にまで怒りを感じてしまいました。心の中は、もう台風のような暴風雨でした。

そんな中でめぐり合った遠藤周作の「キリストの誕生」は、心の中に優しい光を差し込みました。そう、まさに雲の切れ目からさしてきた光でした。本を読み終えたとき、暴風雨の中で固く縮まっていた心に、急に何か光のようなものが入ってきて、幸福感と共に心が緊張から開放されました。

現実的に考えると、感動でドーパミンが活発になって、光のようなイメージを感じたのだと思います。しかし、それは普通の感動とは違う、暖かく力強い何かを感じました。私はこれを聖霊に満たされたと勝手に思っています。

キリストの恵みには様々なものがあると思います。しかし、「エゴの私」に捉われていた私に光を射し、「真実の私」によってそれをやさしく包み込むことができた、すなわち、心の自由が得られたことは、何物にも変えがたい恵みだと思っています。

この光に向かって進むこと、それが私にとっての「やすらぎへの道」なのです。

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2006/02/28

カトリックに思う

以前、カトリックがプロテスタントかを選ぼうとして結局は導かれるままにカトリック教会に通うようになったことを書きました。洗礼を目前にして、勉強会で教えていただいたり、本を読んだりする中で、なんとなく感じてきたことを書いておきます。

カトリックとプロテスタントには聖像の扱いや十字を切るかなどいろいろ違いがありますが、やはり以前からも感じていたように神の子として生きる際の取り組み方に違いがあると思います。

たぶんそれは、カトリックが婚姻、ご聖体の聖変化、赦しが秘跡となっていて、教義全体がひとつの体系になっているのに対し、プロテスタントはプロテスタント教会の多くは「洗礼」と「聖餐(聖体)」のみを認めていることが多い(Wikipediaの「秘跡」より)からではないかと思います。

カトリックでは、離婚・中絶の禁止など神の子としてあるべき姿が網羅されているように思います。そのぶん、すべてを守りきれず、時にして過ちを犯してしまいますが、救ってもらえる仕組み(赦しの秘跡)が入っています(勉強会の記録参照)。

それに対してプロテスタントは、(教派にもよりますが)より現代的な考えを持つ分だけ、重要な事柄を限定し、それだけは必ず守るように心がけているような気がします。

やっぱり、それぞれに良いところがあって、良いほうを選ぶものではないように思います。

カトリックに関して、ここでもコメントをいただいているMAGISのctさんのWebに「カトリック学校の性教育」というページがあります。はじめてこれを読ませていただいたときには、京都のとある女子短大が俗に「鉄のパンツ」と呼ばれているのを思い出しました(下品ですみません)。正直なところ、厳しい、悪く言うと古い、感じがしました。でも、上記のようなカトリックにたいする印象をベースに考えると、人間としてあるべき姿を伝統的・体系的に示されていて、これがカトリックなんだなぁ、と思います。良いものは良い、悪いものは悪いことを明確に示した上で、人の過ちには寛容に接する。それがカトリックなんだと最近思っています。

などと考えていると、教義で選ばなくても、向き不向きがわかってきます。私は思い込みの激しく、過ちを犯しがちであるので、やっぱりカトリックのほうが向いているのかなぁ、などと思っています。

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2006/02/21

ブログと家の教会

kojimachi Luke8488さんのカトリック高円寺教会ANNEXにも紹介されているシグニス・ジャパン(日本カトリックメディア協議会)主催のセミナー第5回『インターネットが拓く新・福音宣教』がイグナチオ教会でありました。

ctさんのブログにあるように(リンク先はMAGIS)キリスト教とインターネットの関係を興味深く聴くことができました。講演の後に行われたブログに関するパネルディスカッションでは、このブログも紹介させていただきました(あんなのでよかったかどうか、、、)。

セミナーに参加して思ったのは。キリスト教の基盤は共同体であり、コミュニケーションが重要であること。ctさんが紹介されたように、ブログを通して多くの分かち合いが可能であることです。このブログにおいても、共感していただいたり、間違いを教えていただいたり、多くのコミュニケーションをとらせていただいてきました(ありがとうございます)。

懇親会(公式なほうだけですが)で、Good News Collectionのmrgoodnewsさんから、神父様による入門講座もよいが、信者による入門講座も成果をあげている、とのお話をうかがいました。そのときは、社内研修などでも、初心者同士のほうがわからないところがわかるからなぁ、などと思っていましたが、後で考えると、初期のキリスト教の活動に似ているのではないかと思い出しました。

以前、ここでも取り上げた鹿嶋春平太著「キリスト教のことがおもしろいほどわかる本」によると、シナゴーグがユダヤ教に使われていたころ、「家の教会」という形態で集会が行われたそうです。これは、信徒の家で数人から十人の集会を行い、12使徒のほか、執事7人、さらに70人の協力者が各家庭をたずねて回ったそうです(そういえば、クォ・ヴァディスでも、ちょうどよいタイミングで聖パウロがたずねて来ていました)。これは聖職者だけでなく、信徒も協力し宣教に努める最初の形態だと思います。

この「家の教会」はよく考えると、ブログにけっこう似ています。神を求める人たちがそれぞれのブログに集まっています。そこでは聖職者も大歓迎ですが、信徒たちがお互いに助け合ったり、分かち合ったりしている。

昔は、物理的な制約で近くの人が集まったのでしょうけど、今はインターネットによって、同じ悩みや価値観を共有できる人が、世界中からあつまって集会ができる。ブログをそんな風に考えると、ブログでの分かち合いは、信仰を深めてお互いに助け合うために非常に有効ではないかと思いました。

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2006/02/08

真の自由~十字架の死と復活のもたらす恵み~

「こんなひどい結果はあの人のせいだ」そう思うとき、すでに真の自由を失っています。

月刊『カトリック生活』に柳田神父が2004年1月から「日常に響く霊性を求めて」を連載されています。第11回の「十字架の死と復活のもたらすもの」は、まさに私がキリストを必要とした理由が書かれています。

この記事では「十字架の死と復活のもたらす恵みの一つは真の自由です」とされ、イエス・キリストの「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8・32)、パウロの「キリストは私たちを自由の身にしてくださったのです」(ガラテヤ5・1)を引用されています。

ここで言う「真の自由」とは、したいことをする自由ではなく、本当にすべきことをする自由で、建前の私や正直な私のレベルではなく、真実の私において生きられる自由のことです。

エゴと結びついた心の動きによって、自己防衛的になったり、責任転嫁したり、惨めさに閉じこもたりするとされ、心の奥底の神の恵みである真の自由に近づく方法(めぐみへの協力)として、エゴと結びついた心の動きに気づき、引き離す事が書かれています。

怒りは大きくなると怒りに自分が取り込まれてしまい、感情を爆発させてしまいます。そのような状況に陥る前に、怒りの感情に気づき、そこから自分を引き離すのです。

強い思い込みも真の自由への妨げとされています。「私がダメだから」「あの人のせいだ」と言うような考えが生じた場合にも、直ちにそのような決めつけをおこなっている自分に気づいて、そこから距離をとるべきです。

気づいて距離をおく方法は、「私はそのような思い込みから自由である」「私は決してダメではない、真実の私にある安らぎや喜びが本当の私の姿だ」「このような決めつけから私は自由である。このひどいと感じられる原因が本当はどこにあるのか、落ち着いて丁寧に見つめてみよう」と言い聞かせてゆくとされています。

そして、以下のように締めくくられています。

困難な状況の中で、積極的で建設的な選びをすることはチャレンジです。けれども、このチャレンジを究極的に可能にしてくれるものこそ、復活の恵みとしての内なる神のもとにある自由なのです。

この記事を読んで、私の思っているキリストの恵みを再認識しました。この恵みは、人々のために十字架にかけられ、恨みごとを言うどころか、人々の許しを神に請ったイエスの愛によって、教えられ、救われ、励まされる恵みだと思います。

うまくいかないとき、人はその弱さ、エゴから、ついつい「悪いのは私ではない」と思ってしまいます。そんなとき、キリストを思い浮かべ、自らとのギャップを考えると、如何に自分が小さいか、まだまだやらなければいけないことがたくさんあることに気づかされます。

逆に惨めさを感じるときには、イエスの愛を思い浮かべて生きる元気を得ることができます。十字架の死は人類すべてのために捧げられた大きな愛であり、今も私たちに注がれています。誰も私の味方はいない、もうやっていけない、そう思うとき、少なくとも、神は愛してくれている。その気持ちを持てれば、苦しみは一人だけのものでなく、ほかの人も同じように苦しんでいること、苦しみは勝手な決めつけであることがわかります。

私にとって毎週のミサは、そんな神を思い、自らを振り返るひと時です。

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2006/01/16

モンテッソーリ教育とバカの壁

モンテッソーリ教育をご存知でしょうか?
独特の教具を使うことが目立ちますが、子供の成長に合わせた環境の提供が特徴だと思います。子供の成長過程にある感覚、運動、言語などの「敏感期」に、人格が成長できるような「活動の周期」がとれるように環境を整えることにあると思います。

人格が成長できるような「活動の周期」とは、自由選択、仕事、集中、正常化、の4段階で、自由に取りかかり、継続し、全力を傾け、できたーというような流れです。子供のころ、ブロックの上を平均台のように渡ることを繰り返したり、砂場で山を作って崩すなど、同じような行動をとっていた記憶はありませんか?そのうちに親から「いい加減にやめろ!」と怒られて、それでも続けたりしませんでしたか?これが活動の周期です。

「好きこそ物の上手なれ」と言いますが、興味を持った内容は、子供に限らず集中でき、能力も向上します。でも、大人になればなるほど、「ほどほど」でやめちゃいますよね。それがいわゆる「バカの壁」だと思います。子供のときは、平均台のプロを目指すかのごとく、自分の能力の限界まで遊び続けられたのに、どこかで自分に枠をはめ途中でやめてしまうのですよね。

ブログはこの点は、優れものです。面倒なところが少ないので集中できますし、必要ならブログを分けて好きなことだけを書くことができます。「求道中」という敏感期に、とことん集中して、成長できます。ただ、惜しいのは敏感期にある特定の内容に集中すると、興味のない読者は離れていってしまう可能性があることです。

ということで、敏感期にある内容に記事が偏りがちなことをあらかじめお詫びしておきます。しばらくすると正常化しますので、少し間をあけていただけると元に戻っていると思います。そうそう、何かが敏感期にはまっても、ミサと勉強会の記事は書き続けるつもりです。よろしくお願いします。

(参考文献:相良敦子「ママ、ひとりでするのを手伝ってね!」ほか)

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2005/12/14

主の道に通ずる入り口~さかば編~

私の場合は遠藤周作の本がきっかけでしたが、はじめの頃は教派を選ぼうとしていました。
父が亡くなって法事が色々と続いていたころ、妻が洗礼を受けると言い出していたんです。当時、専業主婦から兼業主婦になる中で、それなりに悩みがあったのでしょう。もともと妻はカトリックの学校を出ていて、職場もカトリックと縁があったので、教会に救いを求めたのでしょうね。私の方は宗教にはまったく縁の無い方で、特定の宗教を差別するわけにもいかず、強く賛成もしないが、反対もしない、そんな感じでした。

法事があると私が死んだ際の葬儀の話題になったりします。妻は仏教だと実感がわかないと言っていました。死んだらそれまでだし、葬儀は喪主が決めればよいと考えていましたので、教会でもどこでも好きにして良いと言っていました。父の死をきっかけに、仏教を少しだけ勉強していましたが、宗教は気持ちを込める儀式以外のなにものでもなかったのです。

仏教のことだけを勉強していたのですが、そんな風に言っていた妻に悪いかなぁと、ほんの少しだけ思い、キリスト教の本を読みました。宗教の本はどれも重いので、エッセイを読んだことのある遠藤周作の本にしました。始まりはそれからでした。私もそれなりに悩みもあり、当時はストレスでつぶれそうになって大きな声を出してしまうこともありました。そんな状況で、遠藤周作の「私のイエス」を読んだのです。

この「私のイエス」では、イエスの苦しむ姿が描かれています。当時のイスラエルでは、独立国家を造る救世主が求められていました。イ エスは、民衆だけでなく、弟子たちからもその教えの意味することを理解されず、苦しみながら人々の罪を背負ったイエスが描かれています。この本を読んでい ると、不思議と自分の苦しみがどんどん小さくなりました。そして、いつしか尊敬の気持ちが生まれました。

この「私のイエス」は「イエスの生涯」をベースにその続編である「キリストの誕生」の内容から構成した入門書です。イエスの姿に感動した私は、つぎに「イエスの生涯」と「キリストの誕生」を読みました。「キリストの誕生」 に描かれていたのは、イエスを裏切った使徒たちの姿でした。彼らは保身のために、イエスを裏切りました。命を大事にして宣教することと、常に師匠の側にい ることはどちらも重要なことです。しかし、彼らは命を選んだその罪を感じ、苦しみます。そしてその深い苦しみの中から、イエスの教えたかったことが何で あったのか、彼らは見つけ出すのです。そのとき、イエスは神イエス・キリストとして彼らの中に復活します。

キリスト教では意識せずに犯す罪を小罪といいますが、私の苦しみはこの小罪であると気づきました。自分の中では正しいことをしているつもりでも、知らず知らず人を傷つけてしまう。それを見つけたとき、私は神を感じ、神を必要としました。そう、道ありきの主人公が洗礼を受けたときのように、まさに居ても立ってもいられない状況でした。

そうなると、今度は教会を決めないといけません。信仰は個人のものと思っていましたので、きっかけを作った妻がカトリックであることはあまり気にし ませんでした(ごめんなさい)。まずは入門キリスト教の歴史を読んで教派の勉強を始めました。高校の授業ではキリスト教は宗教改革かザビエルぐらいしか出 てこなかったので、このころは、プロテスタントにも結構興味がありました。三浦綾子道ありきや、内村鑑三キリスト教問答なんかも読みました。私は社外のコミュニティ活動もしているので、お酒を飲めない教派はちょっとつらいなぁとか、ストイックなところは魅力であるものの、これまでの経緯からあんまり頑張りすぎるとよくないかなぁ、そんなことを思っていました。

また、遠藤周作の「私にとって神とは」を見ていると、東方教会(正教会)は神の愛、愛の神が他の教派よりも強調されて いるように書かれていて、結構興味がありました。でも、教会が少し遠いので、一度、出張の際にニコライ堂に行こうとしたこともありました。たまたま、記念 日のミサがある日で何とか出たいと思ったのですが、ミサが2時間ほどかかるとのこと。仕事での出張なので断念しました。

そうこうしているときも、妻はカトリックの教会に行っていました。文献を色々見ていると、カトリック教会は私の認識と異なっているようでした。一つ は第2バチカン公会議以降のエキュメニズムによって他の教派だけでなく、他の宗教に関しても友好的になっていること、ミレニアムに際して途上国支援を訴え て効果があったこと、カトリックも自身で宗教改革を行っていたこと、など良い面も感じていたので、とりあえずカトリック教会についていきました。まあ、見 学のような感じですね。

実は若いころ、妻とクリスマスのミサに行ったことがあります。ニュースでやっているようなロウソクをたくさん灯した、きらびやかなイベントを期待し ていたのですが、ミサはおごそかで、さっぱりわかりませんでした。途中で回ってくる「献金かご」の意味がわからずに止めてしまい、注意される、そんな感じ でした。

でも、イエスを知ってから初めて行ったミサは感動的でした。私が感動したイエスが、たくさんの人から感謝され、その気持ちを歌っているのです。歌詞 に感動して、すこし涙ぐむほどでした。聖体拝領の祭に祝福を受けられると聞いて、もちろん受けました。2000年続いてきた神様の恵みを受けたときは、自 分に信仰心があることをしっかりと確認しました。

でも、神父様に勉強会に誘われたときは、少し迷いました。ほかの教派も知りたかったからです。でも、あの遠藤周作が通ったカトリックだし、勉強することが洗礼志願にはならないので、次の水曜日から仕事の帰りに通うようになりました。

上に書いた、ニコライ堂の件はこのころのことです。出張前のミサのとき、妻に知り合いのシスターを紹介されました。まさにニコライ堂に行こうと思っ ていた出張の日に、そのシスターも東京に行くといわれていました。世間話として「新幹線でお会いするかもしれませんね」と言っていたと思います。そして出 張の当日、なんと新幹線のホームにシスターがおられました。私は驚きのあまり避けるように新幹線に乗りました(失礼なことをしてすみません)。でも、偶然 はそれだけではありませんでした。指定を取った同じ車両のほんの少し前にシスターが座られていたのです。私は挨拶をしてから言いました「導かれているかも しれませんね」

このあと、いろいろと考えました。神を求めていたのに、いつの間にか神の導きを避けているのではないか?そう考えると、知らず知らず不遜なことをしているような気がしてきました。そういえば、妻の代母になる方が言われていました「神様はいつでも迎えてくださるのよ」

神様のお導き、遠藤周作風に言うと「背中を押される感じ」に気づいてからは、世の中が変わりました。実はエキュメニズムを知ってから聖母像が聖堂に あることが気になっていましたが、ザビエルがマリアさまに日本をささげたと知って納得することにしました。また、役割として見ていた神父様が、日増しに大 きく見えてきたのもこのころです。勉強会に通い始めたころは、洗礼も教派間にある程度の互換性があるから受けようかなどと考えていましたが、今は教派は気 にならなくなりました。そして、とうとう入門式を迎えます。

結局、私は何も選択しませんでした。なぜかほかの教会には行けず、カトリック教会には縁がありました。それぞれに良さを持つ教派を選ぶことは、わた しには難しかったです。私が必要としたのは神で、教理ではなかったのです。まあ、色々ありましたが、結果的にはカトリックで良かったと思っています。

最後に、私の霊名(洗礼名・堅信名)は「ヨセフ」にしました。性格的にはパウロとか、コンピュータ関係なので守護聖人のイシドロとか、神父様がパウ ロで私の誕生日の聖人がパウロの弟子だとか、色々考えました。でも、自分の考えに固執せず、受け入れることが目標なので、この名前にしました。神に感謝!

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2005/09/21

キリスト教との出会い

仕事がうまくいかなかったんですよ。悪い人はいないんですけど、体制や旗振り役に問題があって、ストレスたまりまくりでした、、。いっぱいいっぱいになると、攻撃的になり、ぎゃーぎゃー言ってしまうんですよね。自分の役割やゴールだけを合理的に考えてもぜんぜんうまく行かないのです。まあ、周りも見かねたのか、負担の少ない体制に変えてくれたりしたのですが、わかっていない人が考えたものはうまくないのですよねぇ。

そんな時に父が亡くなりました。だから宗教に頼ったと言うわけでもなかったのですが、お葬式を挙げると宗教が絡みますよね。うちは浄土宗で、何も知らないで葬式をあげるのもないかと思って、本を読んでみたりしました。一方、家内はどちらかと言うとカトリックですから、公平にちょっと読んでおこうかと、むかし「ぐうたら・・・」で知っていた遠藤周作の本を古本屋で探してきたのです、興味本位で。

宗派に関係なく、キリスト教信者ってすごく固い意思を持っている雰囲気がありますよね。これまでに出会ったひとは優しくて尊敬できる人が多かったですが、心の奥で落ち着いているような感じがして、私に理解できない神様を信じる人はすごいんだなぁ、私には無理だと思っていました。

でも、少なくとも遠藤周作は違ったのですよ。「私のイエス」や「私にとって神とは」に書かれている作者は、母親に連れられて教会に「遊びに」行っているうちに、なんとなく洗礼をうけ、自分の感覚にあわないキリスト教に苦しんでいたのです。その中で、イエスの本当に言いたかったことは何かを自分なりに考え、小説家の目を通してキリスト教を仕立て直していたのです。そこで、遠藤周作が得たキリスト教は弟子をはじめとする人間の罪を一人で背負いながらも、恨み言を言わず、最後まで人々の救済を神に願う「愛」だったのです。

井上神父の「日本とイエスの顔」に寓話と書かれている聖書は、真実とされることを書いたものでなく、私たちに訴えかける内容を間接的に示したものだったのです。そこで示されるものは人の罪そしてでした。私が苦しんできていたものを考えると、確かに私にとって正当な理論でしたが、そこには愛のない、業というべきものでした。その後も遠藤周作の本を読むと、私の罪が良くわかりました。

人の気持ちを考えろ!って言いますよね。でも、遠藤周作の「イエスの生涯」と「キリストの誕生」を読んでいると共感するという言葉がわかったような気がします。霊的な経験とでもいうべきショックを受けました。内村鑑三の定義なら、すでに信者になったのかもしれません。

このようなことで、いつもまにかキリスト教の本を読むようになりました。せっかくの機会ですので、ミサや勉強会にも参加していくつもりです。

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