2007/02/23

仮想エルサレム巡礼 - 十字架の道行き -

今日は四旬節最初の金曜日なので、所属教会で十字架の道行の信心をしました。

所属教会では四旬節の毎金曜日に十字架の道行きの信心があり、四旬節中に一度はするように言われています。とは言っても、実際は四旬節が始まったばかりと言うこともあって、有志一同ぐらいの人数です。日曜のミサには出るべきですが、全員が来られたら収まりがつかなくなるのと同じように、なるべくそうしましょうということなのでしょうね(ミサと違って、自宅でもできますし)。

上のリンクにも書きましたが、この十字架の道行きの信心は、元々エルサレム巡礼が起源です。カトリック桂教会の説明にある写真のようにイエス・キリストの足跡をたどっていたものが、今の形のような仮想(といってもコンピュータではない)巡礼になったようです。

去年十字架の道行きの信心をさせていただいた(ゼノさんが関わられたという)赤羽教会のように床がじゅうたんではないので、思い思いに跪く事はできませんが、14の絵を巡りながらイエス・キリストの受難に思いをめぐらし、祈りました。

十字架の道行はイエス・キリストの死に直面することです。信心が始まる前には、色々と考えてしまいます。病気の人、手術した人、怪我をした人、そして心が苦しい人、知るかぎりのたくさんの方々のことを祈りました。

そして、十字架の道行の信心が終わって、さらに祈りました。イエス・キリストの死が、多くの人たちの幸せにつながりますように、、、

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2007/01/21

見劣りする部分をいっそう引き立たせ

今日のミサのことばの典礼では、神の言葉との出会いが描かれていました。第一朗読の「ネヘミヤの祈り」(ネヘミヤ8・2-415-6,8-10)は、バビロンから帰国した人々によって神殿が再建され、人々が律法に再び触れた喜びが描かれています。第2朗読の「一つの体、多くの部分」(一コリント12・12-30)は、一つのキリストのからだであり補い合うべきだという言葉が教会の人々に示されます。そして福音朗読の「献呈の言葉/ナザレで受け入れられない」(ルカ1・1-4,4・14-21)では、ナザレでのイエス・キリストの最初の言葉が描かれています。

このうち、もっとも印象的だったのは第2朗読でした。各自の能力や役割の優劣を論じ合うコリントの教会に当てたこの手紙に、キリスト者としてどうあるべきか、教会はどうあるべきかを考えさせられました。

神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

タラントンの教えのように、手は手として、耳は耳として、与えられた能力を活かすほか、お互いに補い、苦しみ、喜べと書かれています。そして「ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要」とされています。さらに、こう書かれています。

神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。

皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。

教会では色々な方が奉仕されています。典礼、掃除、建物管理、広報、バザー、などなど。時間や能力の問題で、悪いと思いつつも、私にはできないことばかりです。しかし、この言葉は勇気を与えてくれます。はたから見て見劣りする信者であっても、神様はそれをいっそう引き立たせて体を組み立ててくださるのでしょう。

どうしても目の前の課題に追われ、ついつい教会の運営に目がいきがちです。しかし、無理をすることなく、それぞれの能力に合わせて奉仕しろということなのでしょう。私も無理な活動をすることなく、私に可能なことの中で最も引き立つ活動を続けることにします。神様は全てご存知なのですから、、

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/01/05

わたしに従いなさい - 初金ミサ -

今日は今年最初の初金ミサでした。毎月最初の金曜日に行われます。恥ずかしながら、所属教会で与るのは今日が初めてでした。

女子パウロ会のキリスト教マメ知識によると

この信心のはじまりは、聖女マルガリータ・マリア・アラコックにイエス・キリストがご出現になり、「罪の償いのために、9か月間続けて、毎月の最初の金曜日に、ミサにあずかり聖体拝領をすれば、罪の中に死ぬことはなく、イエスの聖心に受け入れられるであろう」とお約束なさったことに由来しています。

だそうです。

福音朗読は「フィリポとナタナエル、弟子となる」(ヨハネ1・43-51)でした。

最初の弟子たちと出会った後、キリストはフィリポに会われ「わたしに従いなさい」といわれます。そして

フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」

しかし、ナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と信じないので、直接キリストに会って、「ラビ、あなたは神の子です」と弟子になるお話です。

お説教では、年明けの神様の言葉は、会社での新年の訓示のようなものである、とされていました。そういえば、第1朗読は「互いに愛し合いなさい/神への信頼」(一ヨハネ3・11-24)でした。

言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(一ヨハネ3・18)

神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。(一ヨハネ3・20)

新年の御言葉が、心に響きました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/01/01

幼子はイエスと名付けられた

あけましておめでとうございます。

今年は、教会のミサで新年を迎えました。所属教会には鐘がないので、いつも少しさびしい思いをしています。しかし年に一度、大晦日だけは違います。教会に向かう途中、新年を知らせる鐘が鳴り響いています。そう、近くにお寺が3つもあって、除夜の鐘が競うように鳴り響きます。鈍い音ではありますが、少し遠回りするだけなので、ミサの始まりを知らせる鐘と思って聞きながら通っています(実は帰るときも、まだ鳴っていました:-)。

今日は神の母聖マリアの祭日で、世界平和の日でもあります。福音朗読は「羊飼いと天使」(ルカ2・16-21)でした。お説教では、幼子を見つけた羊飼いのように、人々に鑑みられない職業でありながらも、天使の言葉を聞き神を賛美した素直さを持つこと。平和の祈りにあるように、

慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを

というような謙虚さを持つことで、世界に、日本に、家庭に、そして心に平和がおとずれるとされました。素直で謙虚な気持ち、この一年、持ち続けていたいものです。

今日の福音朗読の箇所は、クリスマスとほとんど同じです。しかし、最後の一節が含まれています。

八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

今日はクリスマスから8日目です。救い主にイエス(神は救う)と名づけられた日です。

今年もよろしくお願いします。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/12/31

すべて心に納める - 聖家族の祝日 -

今日は聖家族の祝日です。福音朗読では「神殿での少年イエス」(ルカ2・41-52)が読まれました。エルサレムへの旅の帰りに、はぐれてしまった少年イエスは、神殿で学者たちと質疑応答をしていました。

「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」

という母マリアに、

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」

とイエスさまは答えられますが、両親にはイエスの言葉の意味が分かりませんでした。そして、

母はこれらのことをすべて心に納めていた。

とあります。説教では、この様子から親のあり方が語られました。子どもに何かあると、ついつい親は、子どもに問題を見つけようとします。

しかし、子どものほうがよくわかっているのかもしれません。このときのイエス様もわかってもらえないと感じられたでしょう。

不完全な親が、成熟していない子どもに接するには、神のような愛ですべてをあるがままに受け入れなければなりません。マリア様のように、すべて心に納めなければなりません。

聖家族は、私たちのお手本なのですね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/12/24

教会ホームページを考える

かつて、求道中にSIGNIS JAPANセミナーにお邪魔した時から、教会のホームページが気になっていました。

とりあえず勝手サイトを立ち上げているので、やるかやらないかの議論からだと思いますが、とりあえず考えたことをまとめてみました

興味をお持ちの方のご意見をお聞かせいただければ幸いです。

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2006/12/19

洗礼者ヨハネとイエス・キリスト

毎月第3土曜日に行われる所属教会の聖書の分かち合いでは,翌日の福音朗読箇所について思い思いのことを語り合います.

今回の福音朗読箇所は「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」(ルカ3・10-18)でした.ここで,洗礼者ヨハネは群集,徴税人,兵士に

  1. 下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ
  2. 規定以上のものは取り立てるな
  3. だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ

一番目こそ愛を感じるものの,二番目と三番目は当たり前のことですよね.当時はそんなに乱れていたんでしょう.また,これまでのことを悔い改めて,救いの道を与えようとしているとは思うのですが,なんとなく心よりも行いに目が言っているように思います.

そして洗礼者ヨハネは,イエス・キリストについてこう述べます.

「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

難しいですね.洗礼者ヨハネより優れた方というのはイエス・キリストでしょう.履物のひもを解く値打ちもないというのは,神を表していて「神様の食卓」に出てきたような神様と人間の対比の言葉でしょう.

次の「聖霊と火」というのは,マルコによる福音書では「聖霊」とのみ書かれているので,単に聖霊と捉えてよいでしょう.「箕(み)」と言うのは,脱穀する際に殻と実を分けるもので,全体では終末のことを表しているようです.

ここでイメージを膨らませると,先ほどの行いとの対比で,心の問題を捉えているようにも思えます.すると,火で焼き払われるのは心の罪のようにも思えます.

また,時代を考えると,異端とされた宗教にも思えます.人の命を大事にせず,現世を享楽的に生きる宗教を焼き払ったのかもしれません.

さらには,皇帝ネロがローマの街を焼き払い,それをキリスト教徒がやったとしたことも思い浮かびます.ローマ人を悪としたのでもないですし,ネロが洗礼者ヨハネの言葉を知って責任転嫁したのでもないでしょうけど,なんとなくイメージが重なります.

常識的な解釈は福音のヒントを読むと載っていますが,こんな風に色々と思いをめぐらすと,聖書の言葉が心に染み込んできます.そして,そこに浮かぶ思いは,それぞれ人のキリスト観の反映でもあります.それぞれの人に色々な思いがあり,それぞれの心にキリストの姿を見ます.存在そのものの神,いたるところに偏在する神の様々な姿を分かち合う,それが聖書の分かち合いなのだと思います.

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/12/11

クリスマスの準備

待降節第2主日の今日は,2本目のろうそくに灯がともりました.カトリック中央協議会にもアドベントキャンドルが登場です(ちょっと遅れてますけど).

説教では,教会の暦からお話が始まりました.カトリックの大きなお祭りは復活祭(イースター)と降誕祭(クリスマス)で,それぞれ四旬節と待降節という準備期間があること.復活祭はキリストの死が伴うこと,年によって日が変わることから,一般にはクリスマスの方が良く祝われているそうです.

クリスマスに向けての準備としては第2朗読でキリストの日に備えるとされている

知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。(フィリピ1・9-10)

そしてそれは,福音朗読の

主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ(ルカ3・4)

につながるものです.

今日は2回目の朗読奉仕でした.担当した第1朗読の長いこと,長いこと,淡々と読むしかありません.直前の緊張感は前回よりはましになったものの,朗読箇所が開かれていないので,あせって会釈を忘れました.

しかも読み進めると,あらかじめ読んでおいた「聖書と典礼」と文章が違います,ふり仮名を追いながら少しずつあせるうちに,ついつい読み間違えました.これも神様の与えられた試練なのでしょうか.前回のようにかまなかっただけでもましなので,前向きに恵みだと思っておきましょう.

Umagoya 先週から聖堂には馬小屋が登場しました.今年はさらにパワーアップして星空が登場しました(本当は右も光っているのですが,手ブレのないものはこれしかありませんでした).左の奥の4本のろうそくがアドベントキャンドルです.クリスマスまであと2週間,今から楽しみです.

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2006/12/04

罪を背負ってイエス・キリストは生まれた - 待降節黙想会と告悔 -

昨日のミサの後は、待降節黙想会でした。黙想会では講話のあと共同回心式、個別のゆるしの秘跡(告悔:告白、懺悔ともいう)が行われました。

講話では、マタイの1章のはじめにある「イエス・キリストの系図」に出てくる4人の女性を中心に、アブラハムからの出来事が語られました。そしてその歴史にある近親相姦をはじめとする罪をキリストは背負って生まれてこられました。

私たちも生活の中での罪を背負いながら生きています。その罪は「ゆるしの秘跡」(説明4つの段階受け方)でゆるされます。

共同回心式ではミサのときのように、「わたしは、思い、ことば、行ない、怠りによってたびたび罪を犯しました、、、」と回心の言葉を述べ、個別のゆるしの秘跡では3箇所に分かれて赦しの秘跡を受けました。

前任の主任司祭が言われていましたが、知らない神父さまの方が告白しやすいのか、主任司祭の列がやっぱり短く、その終わりのほうに並びました。

順番が来るまで40分ほどありましたが、この時間が良かったです。最初のうちは、どんな風に話そうかなどと考えていたのですが、そのうちに痛悔の念が沸いてきます。色々と思いをめぐらしていると、聖堂に光が差したり、かげったり、自然と心も落ち着いてきます。

しかし、いよいよ順番が近づくと「やっぱり、やめておこうか」などという気持ちもわいてきます。しかし、徐々にこの機会を逃してはいけないと気持ちが固まります。

部屋に入ると横を向いた神父様がおられます(ここで神父さまの方を向いて座ります。同じように横を向いてはいけません。念のため)。ちょっと心配していたのですが、ゆるしの秘跡を受ける際の言葉が紙に書いてありました。ひとまず安心して告白ししましたが、その後がいけません。どこをやっているか一瞬わからなくなって神父さまに教えていただいて、無事に父と子と聖霊の赦しを受けることができました。

ゆるしの秘跡で罪は赦されますが、償いは残ります。神父様に告げられた償いのお祈りをした後、しばらく聖堂内に残りました。しかし、人の少なくなった聖堂の寒いこと!我慢ができなくなったので家路に着きました。

初めてのゆるしの秘跡でしたが、とても良いものでした。落ち着きと言うか、安らぎが感じられました。

今回は臨時の告悔室での告白でした。ゆるしの秘跡に場所は関係ないのですけど、次回はぜひ告悔室で受けたいものです。そして、カーテンを開いて告白したいと思っています。

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2006/12/03

終わりと始まり

今日のミサの福音朗読は「人の子が来る/目を覚ましていなさい」(ルカ21・25-28,34-36)でした。

キリストは終わりのときに人の子が来て我々を解放すること。放縦(勝手気まま)や深酒や生活の煩いで心が鈍くならないようにして、そのときに備えていつも目を覚ましておくこと祈るように言われます。

説教では、この終わりの時は父なる神のみがご存知で私たちにはわからないこと。そして終わりのときとはそれぞれの人にもあり、死を迎えるときや戦争や震災にあうときでもあり、そのときがいつ来ても良いように、とのことでした。

何度か見聞きしたお話ですが、なぜか坂本龍馬をイメージしました。高校時代に大好きだった坂本龍馬は、死ぬときは前のめりに死にたいと考え、薩長同盟や大政奉還、5か条の御誓文の元になる船中八策などを大きな仕事を終え、郵便汽船三菱会社(後の日本郵船株式会社)の元となった海援隊を世界の海援隊にすると夢を語った後に、暗殺されました。

そんな前のめりに死んだ坂本龍馬のように、常によりよく生きること、信仰を通して気をつけておくことが必要なのでしょう。

今日からは待降節、馬小屋が用意され、一本目のロウソクに灯がともりました。新年が始まり、これから4週間キリストの誕生を待ち望みます。そんな今日、所属教会に新しい方が通いだしました。

教会に通いだすときの情報が少なくて困った経験から始めたブログも、少しはお役に立てたようです。様々な始まりにつながるお導きを与えてくださった「神に感謝!」

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