2007/02/23

仮想エルサレム巡礼 - 十字架の道行き -

今日は四旬節最初の金曜日なので、所属教会で十字架の道行の信心をしました。

所属教会では四旬節の毎金曜日に十字架の道行きの信心があり、四旬節中に一度はするように言われています。とは言っても、実際は四旬節が始まったばかりと言うこともあって、有志一同ぐらいの人数です。日曜のミサには出るべきですが、全員が来られたら収まりがつかなくなるのと同じように、なるべくそうしましょうということなのでしょうね(ミサと違って、自宅でもできますし)。

上のリンクにも書きましたが、この十字架の道行きの信心は、元々エルサレム巡礼が起源です。カトリック桂教会の説明にある写真のようにイエス・キリストの足跡をたどっていたものが、今の形のような仮想(といってもコンピュータではない)巡礼になったようです。

去年十字架の道行きの信心をさせていただいた(ゼノさんが関わられたという)赤羽教会のように床がじゅうたんではないので、思い思いに跪く事はできませんが、14の絵を巡りながらイエス・キリストの受難に思いをめぐらし、祈りました。

十字架の道行はイエス・キリストの死に直面することです。信心が始まる前には、色々と考えてしまいます。病気の人、手術した人、怪我をした人、そして心が苦しい人、知るかぎりのたくさんの方々のことを祈りました。

そして、十字架の道行の信心が終わって、さらに祈りました。イエス・キリストの死が、多くの人たちの幸せにつながりますように、、、

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2007/01/21

見劣りする部分をいっそう引き立たせ

今日のミサのことばの典礼では、神の言葉との出会いが描かれていました。第一朗読の「ネヘミヤの祈り」(ネヘミヤ8・2-415-6,8-10)は、バビロンから帰国した人々によって神殿が再建され、人々が律法に再び触れた喜びが描かれています。第2朗読の「一つの体、多くの部分」(一コリント12・12-30)は、一つのキリストのからだであり補い合うべきだという言葉が教会の人々に示されます。そして福音朗読の「献呈の言葉/ナザレで受け入れられない」(ルカ1・1-4,4・14-21)では、ナザレでのイエス・キリストの最初の言葉が描かれています。

このうち、もっとも印象的だったのは第2朗読でした。各自の能力や役割の優劣を論じ合うコリントの教会に当てたこの手紙に、キリスト者としてどうあるべきか、教会はどうあるべきかを考えさせられました。

神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

タラントンの教えのように、手は手として、耳は耳として、与えられた能力を活かすほか、お互いに補い、苦しみ、喜べと書かれています。そして「ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要」とされています。さらに、こう書かれています。

神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。

皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。

教会では色々な方が奉仕されています。典礼、掃除、建物管理、広報、バザー、などなど。時間や能力の問題で、悪いと思いつつも、私にはできないことばかりです。しかし、この言葉は勇気を与えてくれます。はたから見て見劣りする信者であっても、神様はそれをいっそう引き立たせて体を組み立ててくださるのでしょう。

どうしても目の前の課題に追われ、ついつい教会の運営に目がいきがちです。しかし、無理をすることなく、それぞれの能力に合わせて奉仕しろということなのでしょう。私も無理な活動をすることなく、私に可能なことの中で最も引き立つ活動を続けることにします。神様は全てご存知なのですから、、

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/01/05

わたしに従いなさい - 初金ミサ -

今日は今年最初の初金ミサでした。毎月最初の金曜日に行われます。恥ずかしながら、所属教会で与るのは今日が初めてでした。

女子パウロ会のキリスト教マメ知識によると

この信心のはじまりは、聖女マルガリータ・マリア・アラコックにイエス・キリストがご出現になり、「罪の償いのために、9か月間続けて、毎月の最初の金曜日に、ミサにあずかり聖体拝領をすれば、罪の中に死ぬことはなく、イエスの聖心に受け入れられるであろう」とお約束なさったことに由来しています。

だそうです。

福音朗読は「フィリポとナタナエル、弟子となる」(ヨハネ1・43-51)でした。

最初の弟子たちと出会った後、キリストはフィリポに会われ「わたしに従いなさい」といわれます。そして

フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」

しかし、ナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と信じないので、直接キリストに会って、「ラビ、あなたは神の子です」と弟子になるお話です。

お説教では、年明けの神様の言葉は、会社での新年の訓示のようなものである、とされていました。そういえば、第1朗読は「互いに愛し合いなさい/神への信頼」(一ヨハネ3・11-24)でした。

言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(一ヨハネ3・18)

神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。(一ヨハネ3・20)

新年の御言葉が、心に響きました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/01/01

幼子はイエスと名付けられた

あけましておめでとうございます。

今年は、教会のミサで新年を迎えました。所属教会には鐘がないので、いつも少しさびしい思いをしています。しかし年に一度、大晦日だけは違います。教会に向かう途中、新年を知らせる鐘が鳴り響いています。そう、近くにお寺が3つもあって、除夜の鐘が競うように鳴り響きます。鈍い音ではありますが、少し遠回りするだけなので、ミサの始まりを知らせる鐘と思って聞きながら通っています(実は帰るときも、まだ鳴っていました:-)。

今日は神の母聖マリアの祭日で、世界平和の日でもあります。福音朗読は「羊飼いと天使」(ルカ2・16-21)でした。お説教では、幼子を見つけた羊飼いのように、人々に鑑みられない職業でありながらも、天使の言葉を聞き神を賛美した素直さを持つこと。平和の祈りにあるように、

慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを

というような謙虚さを持つことで、世界に、日本に、家庭に、そして心に平和がおとずれるとされました。素直で謙虚な気持ち、この一年、持ち続けていたいものです。

今日の福音朗読の箇所は、クリスマスとほとんど同じです。しかし、最後の一節が含まれています。

八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

今日はクリスマスから8日目です。救い主にイエス(神は救う)と名づけられた日です。

今年もよろしくお願いします。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/12/31

すべて心に納める - 聖家族の祝日 -

今日は聖家族の祝日です。福音朗読では「神殿での少年イエス」(ルカ2・41-52)が読まれました。エルサレムへの旅の帰りに、はぐれてしまった少年イエスは、神殿で学者たちと質疑応答をしていました。

「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」

という母マリアに、

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」

とイエスさまは答えられますが、両親にはイエスの言葉の意味が分かりませんでした。そして、

母はこれらのことをすべて心に納めていた。

とあります。説教では、この様子から親のあり方が語られました。子どもに何かあると、ついつい親は、子どもに問題を見つけようとします。

しかし、子どものほうがよくわかっているのかもしれません。このときのイエス様もわかってもらえないと感じられたでしょう。

不完全な親が、成熟していない子どもに接するには、神のような愛ですべてをあるがままに受け入れなければなりません。マリア様のように、すべて心に納めなければなりません。

聖家族は、私たちのお手本なのですね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/12/24

教会ホームページを考える

かつて、求道中にSIGNIS JAPANセミナーにお邪魔した時から、教会のホームページが気になっていました。

とりあえず勝手サイトを立ち上げているので、やるかやらないかの議論からだと思いますが、とりあえず考えたことをまとめてみました

興味をお持ちの方のご意見をお聞かせいただければ幸いです。

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2006/12/19

洗礼者ヨハネとイエス・キリスト

毎月第3土曜日に行われる所属教会の聖書の分かち合いでは,翌日の福音朗読箇所について思い思いのことを語り合います.

今回の福音朗読箇所は「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」(ルカ3・10-18)でした.ここで,洗礼者ヨハネは群集,徴税人,兵士に

  1. 下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ
  2. 規定以上のものは取り立てるな
  3. だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ

一番目こそ愛を感じるものの,二番目と三番目は当たり前のことですよね.当時はそんなに乱れていたんでしょう.また,これまでのことを悔い改めて,救いの道を与えようとしているとは思うのですが,なんとなく心よりも行いに目が言っているように思います.

そして洗礼者ヨハネは,イエス・キリストについてこう述べます.

「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

難しいですね.洗礼者ヨハネより優れた方というのはイエス・キリストでしょう.履物のひもを解く値打ちもないというのは,神を表していて「神様の食卓」に出てきたような神様と人間の対比の言葉でしょう.

次の「聖霊と火」というのは,マルコによる福音書では「聖霊」とのみ書かれているので,単に聖霊と捉えてよいでしょう.「箕(み)」と言うのは,脱穀する際に殻と実を分けるもので,全体では終末のことを表しているようです.

ここでイメージを膨らませると,先ほどの行いとの対比で,心の問題を捉えているようにも思えます.すると,火で焼き払われるのは心の罪のようにも思えます.

また,時代を考えると,異端とされた宗教にも思えます.人の命を大事にせず,現世を享楽的に生きる宗教を焼き払ったのかもしれません.

さらには,皇帝ネロがローマの街を焼き払い,それをキリスト教徒がやったとしたことも思い浮かびます.ローマ人を悪としたのでもないですし,ネロが洗礼者ヨハネの言葉を知って責任転嫁したのでもないでしょうけど,なんとなくイメージが重なります.

常識的な解釈は福音のヒントを読むと載っていますが,こんな風に色々と思いをめぐらすと,聖書の言葉が心に染み込んできます.そして,そこに浮かぶ思いは,それぞれ人のキリスト観の反映でもあります.それぞれの人に色々な思いがあり,それぞれの心にキリストの姿を見ます.存在そのものの神,いたるところに偏在する神の様々な姿を分かち合う,それが聖書の分かち合いなのだと思います.

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/12/11

クリスマスの準備

待降節第2主日の今日は,2本目のろうそくに灯がともりました.カトリック中央協議会にもアドベントキャンドルが登場です(ちょっと遅れてますけど).

説教では,教会の暦からお話が始まりました.カトリックの大きなお祭りは復活祭(イースター)と降誕祭(クリスマス)で,それぞれ四旬節と待降節という準備期間があること.復活祭はキリストの死が伴うこと,年によって日が変わることから,一般にはクリスマスの方が良く祝われているそうです.

クリスマスに向けての準備としては第2朗読でキリストの日に備えるとされている

知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。(フィリピ1・9-10)

そしてそれは,福音朗読の

主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ(ルカ3・4)

につながるものです.

今日は2回目の朗読奉仕でした.担当した第1朗読の長いこと,長いこと,淡々と読むしかありません.直前の緊張感は前回よりはましになったものの,朗読箇所が開かれていないので,あせって会釈を忘れました.

しかも読み進めると,あらかじめ読んでおいた「聖書と典礼」と文章が違います,ふり仮名を追いながら少しずつあせるうちに,ついつい読み間違えました.これも神様の与えられた試練なのでしょうか.前回のようにかまなかっただけでもましなので,前向きに恵みだと思っておきましょう.

Umagoya 先週から聖堂には馬小屋が登場しました.今年はさらにパワーアップして星空が登場しました(本当は右も光っているのですが,手ブレのないものはこれしかありませんでした).左の奥の4本のろうそくがアドベントキャンドルです.クリスマスまであと2週間,今から楽しみです.

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2006/12/04

罪を背負ってイエス・キリストは生まれた - 待降節黙想会と告悔 -

昨日のミサの後は、待降節黙想会でした。黙想会では講話のあと共同回心式、個別のゆるしの秘跡(告悔:告白、懺悔ともいう)が行われました。

講話では、マタイの1章のはじめにある「イエス・キリストの系図」に出てくる4人の女性を中心に、アブラハムからの出来事が語られました。そしてその歴史にある近親相姦をはじめとする罪をキリストは背負って生まれてこられました。

私たちも生活の中での罪を背負いながら生きています。その罪は「ゆるしの秘跡」(説明4つの段階受け方)でゆるされます。

共同回心式ではミサのときのように、「わたしは、思い、ことば、行ない、怠りによってたびたび罪を犯しました、、、」と回心の言葉を述べ、個別のゆるしの秘跡では3箇所に分かれて赦しの秘跡を受けました。

前任の主任司祭が言われていましたが、知らない神父さまの方が告白しやすいのか、主任司祭の列がやっぱり短く、その終わりのほうに並びました。

順番が来るまで40分ほどありましたが、この時間が良かったです。最初のうちは、どんな風に話そうかなどと考えていたのですが、そのうちに痛悔の念が沸いてきます。色々と思いをめぐらしていると、聖堂に光が差したり、かげったり、自然と心も落ち着いてきます。

しかし、いよいよ順番が近づくと「やっぱり、やめておこうか」などという気持ちもわいてきます。しかし、徐々にこの機会を逃してはいけないと気持ちが固まります。

部屋に入ると横を向いた神父様がおられます(ここで神父さまの方を向いて座ります。同じように横を向いてはいけません。念のため)。ちょっと心配していたのですが、ゆるしの秘跡を受ける際の言葉が紙に書いてありました。ひとまず安心して告白ししましたが、その後がいけません。どこをやっているか一瞬わからなくなって神父さまに教えていただいて、無事に父と子と聖霊の赦しを受けることができました。

ゆるしの秘跡で罪は赦されますが、償いは残ります。神父様に告げられた償いのお祈りをした後、しばらく聖堂内に残りました。しかし、人の少なくなった聖堂の寒いこと!我慢ができなくなったので家路に着きました。

初めてのゆるしの秘跡でしたが、とても良いものでした。落ち着きと言うか、安らぎが感じられました。

今回は臨時の告悔室での告白でした。ゆるしの秘跡に場所は関係ないのですけど、次回はぜひ告悔室で受けたいものです。そして、カーテンを開いて告白したいと思っています。

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2006/12/03

終わりと始まり

今日のミサの福音朗読は「人の子が来る/目を覚ましていなさい」(ルカ21・25-28,34-36)でした。

キリストは終わりのときに人の子が来て我々を解放すること。放縦(勝手気まま)や深酒や生活の煩いで心が鈍くならないようにして、そのときに備えていつも目を覚ましておくこと祈るように言われます。

説教では、この終わりの時は父なる神のみがご存知で私たちにはわからないこと。そして終わりのときとはそれぞれの人にもあり、死を迎えるときや戦争や震災にあうときでもあり、そのときがいつ来ても良いように、とのことでした。

何度か見聞きしたお話ですが、なぜか坂本龍馬をイメージしました。高校時代に大好きだった坂本龍馬は、死ぬときは前のめりに死にたいと考え、薩長同盟や大政奉還、5か条の御誓文の元になる船中八策などを大きな仕事を終え、郵便汽船三菱会社(後の日本郵船株式会社)の元となった海援隊を世界の海援隊にすると夢を語った後に、暗殺されました。

そんな前のめりに死んだ坂本龍馬のように、常によりよく生きること、信仰を通して気をつけておくことが必要なのでしょう。

今日からは待降節、馬小屋が用意され、一本目のロウソクに灯がともりました。新年が始まり、これから4週間キリストの誕生を待ち望みます。そんな今日、所属教会に新しい方が通いだしました。

教会に通いだすときの情報が少なくて困った経験から始めたブログも、少しはお役に立てたようです。様々な始まりにつながるお導きを与えてくださった「神に感謝!」

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2006/12/02

「心の調律」ペトロ神父のミサ - 茨木教会 -

待降節第一主日は所属教会のミサと黙想会の予定でしたが、お付き合いでカトリック茨木教会でミサに与りました。金曜日も玉造教会でミサに与りましたので3日連続、聖週間以来です。

さて、ミサは祈りの園を主宰されているペトロ神父(リンク先は明るい日々を送るには)と主任司祭の共同司祭で行われました(祈りの園には、ミサに与れないときの霊的聖体拝領などの祈りや、テレホンサービスの案内がありますのでぜひご覧ください)。

説教は「心の調律」について。神戸の教会で聖体訪問された際に、たまたまパイプオルガンが調律されていたそうです。はじめは落ち着いて祈れないと思われたそうですが、そのうちに心の調律に気づかれました。

心の調律では、絶対的な音である神さまに心を合わせます。日々の生活の中で少しずつずれていった心を、黙想して一音、一音、神さまに一致させていきます。幸せを辞書で調べると「仕合せ」と書かれています。神様に仕え、心を合わせることが幸せなのです。

今日から教会では新年です。何もないかのように終わりは始まりにつながりますが、心を調律してきれいな心で始めましょう。

ミサの後の黙想会には出られませんでしたが、明日は所属教会で心の調律をしてきます。

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2006/11/29

クリスマスはプレゼントをする日

クリスマスというと、サンタさんにプレゼントをもらえる日だと思っていましたが、聖家族(サクラダ・ファミリア)を思い出して、プレゼントをする日だそうです。

クリスマスは馬小屋でキリストの生まれた日ですが、そのときには、こんなことがありました。

羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(ルカ2・20)

また、占星術の学者が幼子イエスを探し当てて

彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2・11)

とあります。世話をしていた赤ちゃんにいずれ世話になるように、いつも一緒にいてくださる神の誕生を賛美して、祈りと言うお世話をすれば、いつかお世話をしてくださいます。

神さまを好きになると幸せになれます。そして、そのご利益を忘れずに祈ることが重要です。しかし、そのご利益を自分だけのものにするなら、それはご利益宗教になってしまいます。求めるだけでなく、出すこととバランスをとることが重要です。クリスマスには羊飼いのように「おめでとう」と言い、学者のようにプレゼントをしましょう。

このプレゼントは、神様の喜ばれるものだと思います。馬小屋に敷き詰めるワラとして日曜学校で集められるマッチのようなものでしょう。良い行いをしたら、マッチを一本そこに置きます。そして、クリスマスまでに、イエスさまが風邪をひかないように、馬小屋をマッチでいっぱいにするのです。

そういえば、小テレジアもおなじようなことをしていました。初聖体の日にイエスさまに花束を捧げましょうという代母の言葉に従って、「イエスさまに捧げる犠牲」「イエスさまに捧げる」を何回したかをノートにつけました。このノートは初聖体までにいっぱいになっていました。

今年はイエスさまに喜んでいただけるクリスマスプレゼントができますように、、、

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/11/26

王であるキリスト

今日はB年最後の主日ミサ「王であるキリスト」です。カトリックはA,B,Cの3年で朗読箇所が一巡するので、来週からはC年の待降節が始まります。日曜に用事があったので、おとなりの茨木教会の夕方のミサに与りました。

ミサの最初に歌う入祭の歌が良いですよね。「栄光は世界におよび、すべてを超えて神は偉大」まさに、キリストこそ王であるとする歌です。

今日の福音朗読は「ピラトから尋問される」(ヨハネ18・33b-37)でした。この中で、キリストは「お前がユダヤ人の王なのか」と質問されますが、「わたしの国は、この世には属していない」と答え、さらに問われると、

わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。

と言われます。お説教では、この世の王でないことに注目されました。「もし、キリストがユダヤの王であると言ったなら、2000年後にミサに集まることもなかったでしょう。」う~ん,、確かにそうですよね。

「もし、キリストがユダヤの王であったなら、その国は100年も持たなかったでしょう。」これもそうですよね。キリストの国が、シーザーやナポレオンの国であったなら、2000年も持つわけありません。

伝えられたものが真理であり、永遠のものであるからこそ、2000年経ったいまでも国の完成を目指して人々が教会に集うのでしょう。私も真理に生きたいと思います。

おまけ:
キリストの「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」という言葉を聞いて、書きかけていた昨日の記事を思い浮かべました。

カトリック茨木教会のクリスマス予定:
24日は朝9時30分に待降節第4主日ミサ、19時30分に主の降誕前晩ミサ、翌25日は朝9時30分に主の降誕ミサがあります。Mass(English) 18:00(25th, Dec.)

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/11/20

しあわせなひと

今日の答唱の歌詞が心に響きました。

しあわせなひと
かみのめぐみをうけ
そのよろこびにいきるひと

(典礼聖歌集98番)

神さまの恵みは常に受けていると思いますが、それを感じるのはやはり苦しみの中でしょう。今日の福音朗読は「人の子が来る/いちじくの木の教え/目を覚ましていなさい」(マルコ13・24-32)でした。昨日の聖書の分かち合いで用いたところです。天地が滅びても神様の言葉は滅びず、最後の時にはキリストが現れます。

今日のお説教では、教戒師もされている神父様が会われた死刑囚の方が、洗礼を望まれたお話がありました。後は死を待つだけになったとき、これまでのことを反省して、天国への道を望まれたのです。絶望に包まれたとき、キリストが現れたのです。

同じ死刑囚でも、話を聞かない人、罪を認めない人、色々な方がおられるそうです。しかし、この方は反省し、最期の時をよりよく生きようと思われたのです。

常に恵みを受けていても、その喜びを感じるのは一瞬で、常に喜びを感じることはなかなかできません。しかし、この死刑囚の方は、教えを聞いて徐々に変わられたそうです。最期の時に、恵みを受けて喜びを感じられたのでしょうね。

反省し、きれいな心になったからこそ、喜びに生きることができるのでしょう。日々の生活に恵みを感じられないのは、心が汚れているのかもしれません。日ごろのを悔い改めて、もっと素直に恵みを感じたいと思います。

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2006/11/19

「人生に無駄なものはない」理由

所属教会では日曜日のミサの後に、15分間のカトリック要理のお話があります。短時間で良いお話が聞けるので、ミサに与ったときはいつも聞いています。先日のお話の中では、「人生に無駄なものはない」という言葉が出てきました。遠藤周作さんの本にも『人生には何ひとつ無駄なものはない』という作品があり、前から気になる言葉でした。

これまでの人生を振り返って考えてみると、まさにそのとおりだと思います。人生には幸せなことだけではなく、苦しいこともたくさんあります。一見、人生の無駄に見えるそんな苦しみも、その苦しみを経験したからこそわかることもあります。

そんなことから、私はこの言葉の理由を神さまは私たちを愛してくださっているのからだと考えていました。私たちを愛してくださっているのだから、すべて良いことである。苦しみもまた、恵みである。そう思っていました。

今回の要理のお話では、創世記と黙示録はセットで読まないといけない。神さまが作られたこの世界は、画家が作品を描くときと同じである。画家が完成を目指す際に無駄なことをするわけがない。だから、私たちの「人生に無駄なものはない」とのことでした。

これまで、色々なことがあっても、それに耐えて、頑張らないといけないと思っていました。しかし、色々なことがあるからこそ、それを受け入れ、かみ締め、人生の糧にして生きていける。そういうことだと思いました。

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天地が滅びても希望はある

今日の聖書の分かち合いでは、いつものように明日の朗読箇所「人の子が来る/いちじくの木の教え/目を覚ましていなさい」(マルコ13・24-32)をわかちあいました。

太陽は暗くなり、/月は光を放たず、
星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。

から始まるこの朗読箇所は、この世の終わり、終末のお話です。選ばれた人、つまり、教えを信じるものが集められます。頑張る必要はなく、選び集めて下さるのです。そして、そのときに人の子が戸口に立つこと、そのときは父だけがご存知なことが語られます。

読んでいるうちに、このお話は人の苦しみを描いているように読めてきます。この世の光が全てなくなるような状況で現れる一筋の光、それは回心したパウロの目から鱗のようなものが落ちたように、新しい世界の始まりのようなものでしょう。

どんなに苦しい状況であっても、

はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。

とされているように、天地がなくなるようなとんでもない状況になるまで、まだまだ希望があります。そして、

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない

とあるように、天地がなくなっても神様の言葉だけはなくなりません。苦しみが深ければ深いほど、神さまの言葉は輝き、私たちを救ってくれるのだと思います。

おまけ:
ちょっと面白いのが、父なる神とキリストの関係です。父に遣わされた神であるキリストですが、世界の終わりの時を知りません。しかし、世界が終わるときまた遣わされのですね。三位一体の神の役割分担がちょっと垣間見れた気がしました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/11/14

さびしい律法学者

日曜日のミサの福音朗読は「律法学者を非難する/やもめの献金」(マルコ12・38-44)でした。前半は、律法学者が服装や挨拶されること、教会の上席、宴会の上座を望み、やもめの家を食い物にし、見せかけの祈りをすることをキリストが非難されます。後半は、一人のやもめが100円ほどのお金を賽銭箱に入れたことをキリストが「誰よりもたくさん入れた」とほめられるお話です。

後半のお話が有名ですが、説教では前半の律法学者について語られました。いわく、外見にとらわれている律法学者は「さびしい」とのこと。その言葉に心打たれました。外見にとらわれることは、業(ごう)であり、傲慢であると思っていましたが、それは寂しいことだったのです。

人より上に見られたい、人に認めてほしい、自分は優れた人間だ、そんな思いは、さびしい思いだったのです。そう、別に勝つことが人生の目的でないのです。人生の目的は幸せになることです。頑張っても頑張っても満たされないのは、目的が間違っているからです。

律法学者はたぶん優秀なのでしょう。人よりも知識が豊富で、人よりも美しい祈りをするのでしょう。そして、徐々に地位も高くなったのでしょう。しかし、いつになっても欲望は果てしなく、いつになっても満たされないのです。

地位が高くなったとき、気付けば友人はおらず、まわりには媚びる人しかいないかもしれません。ちょっとした失敗で、立場を失うかもしれません。これまで友人と思った人が、厳しく責め立てるかもしれません。

そんな状況をさびしく思ったとき、満たされたいと思ったとき、そのときこそ全ての人を愛で包んでくれる神が必要とされるときなのでしょう。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/11/06

隣人愛と幼児洗礼式

今日の福音朗読は「最も重要な掟」(マルコ12・28b-34)でした。「聖書と典礼」の要約に「あなたの神である主を愛しなさい。隣人を愛しなさい」とあるように、律法学者に問われ、キリストは、神を愛すること、そして

隣人を自分のように愛しなさい

と言われました。

この愛というのは、信仰の基本です。キリストの教えを聞いて、良い考えかただと思って洗礼を受けるのではなく、神の愛を信じて洗礼を受けるのです。

神さまが愛してくださるから、神を愛し、隣人を愛することができるのです。

このお説教を聴いて、高校の倫理社会で、イエスの博愛主義とかイエスの隣人愛とか習ったことを思い出しました。「アガペー」という無条件の愛で「エロス」とは対極をなすものです。当時は、人に優しくすることのようなイメージで捉えていました。

しかし、信仰に基づく愛は少し違いました。人に優しくするのは同じですが、先に神に愛されているのです。だから、神さまを愛し、人を愛することができる。そんな風に思います。

神様に言われたからでもなく、「情けは人のためならず、巡り巡って我がのため」でもなく、してもらったようにする、してほしいようにする、それがイエスの隣人愛だと思います。

でも、難しいですよね。親切のつもりがおせっかいだったり、かえっておせっかいじゃないかと思って親切にできなかったり、自分のことのように思って行動しても、感じ方は人それぞれですからね。

今日のミサは所属教会に関わるすべての死者の安息を求める意向で捧げられたためか、ミサ終了後に幼児洗礼式が行われました。この洗礼式だけは難しく考えることはありません。自分のことのように喜べば良いだけです。

水をかけられて、赤ちゃんは泣いていましたが、神父様によると人は生まれるときに泣くもので、泣いた瞬間に神に愛され愛するものとして生まれ変わったのでしょう。

隣人愛の実践は、なかなか難しいですが、かかわりのあった人に祈ることはできます。その祈りが、きっと隣人愛につながると思っています。

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2006/11/05

湖畔の聖母 カトリック大津教会

Ohtsu 3日は初金曜日(リンク先は司教の日記)だったので、ミサを捧げようと計画を練りました。所属教会で初金を捧げたこともないのですが、普段は行けないカトリック大津教会に行くことにしました。

Massカトリック大津教会は、主日ミサは9時からなので、私のところから行くはなかなか難しいのですが、金曜日のミサは10時からなので少し頑張れば間に合います。

ここのところ疲れていたので、寝坊したら所属教会の初金と決めていたのですが、無事に起床、というか仕事に出かける妻に起こされて、予定通り大津教会に向かいました。

大津教会はJR(または京阪)膳所駅から歩いて5分程度のところにあります。このあたりは大阪・京都に通う方も多く、JR京都駅から15分程度でたどり着きます。JR膳所駅の手前の琵琶湖(北)側にきれいに光る青い瓦が見えますが、そこが大津教会です。駅を出て京阪の踏切を越えて三叉路を左に行くと、教会への近道となる階段が現れます。

ミサを捧げるつもりでしたが、なぜかお休みでした(残念!)。教会の方に恐縮されながら、お祈りをさせていただきました。親切に対応していただいた上に、パンフレット代わりに絵葉書まで頂きました。

この絵葉書の下には「カトリック大津教会は1940年、故バーン司教によって献堂されました」と書いてありました。バーン司教はカトリック高野教会の初代司祭で、戦時中に幽閉、強制送還、戦後には国内で尽力されたあと、韓国で、共産軍に捕らえられ殉教された方です(カトリック高野教会の訪問記に少し詳しく書いています)。

聖堂内は明るく奥行きがあります(リンク先はHoly Ring)。300人以上は余裕で入れそうな各席には跪き台があり、私の所属教会にはなくなってしまった跪き台を使って、久しぶりにお祈りをしました。人前で跪くのはちょっと恥ずかしいですが、聖堂が貸切状態でしたので、ゆっくりと跪けました。ミサは捧げられませんでしたが、これもお恵みなのでしょう。

聖堂中央にはリアルな磔のイエス様の十字架、左に聖ヨセフ像、右には聖母マリア像があります。よくみていると、どの像も少し面長の精悍な顔立ちです。ちょっと気になってこれらの3つの聖像と、高野教会の十字架聖ヨセフ・聖母マリア像と比べてみるとそっくりでした。神父さまや宣教会の考えが反映されているのでしょうね(この段落のリンク先はHoly Ring)。

Bernadette そうそう忘れてはいけないのが、ルルド前の聖ベルナデッタです。普通に小さいルルドのまえに、何かあると思って回ってみると立派な聖ベルナデッタ像でした。聖ベルナデッタと共にお祈りできるようになっているのでしょうね。

Googleマップで少し縮小すると琵琶湖が見えるので、近くのなぎさ公園を散策しました(京都教区時報2000年4月号に載っている教会の生い立ちよると、昔は聖堂の位置から琵琶湖の水面を完全に見渡せたそうです)。湖畔にはヨットや観光船も見え、のんびりとしたひと時を過ごしました。そのあと、浮城の県立琵琶湖文化館の前を通って大津駅に抜けましたが、長い上り坂なので膳所に戻ったほうが楽だったと思います。

Biwako_1

滋賀県はキリシタン時代にセミナリオ(神学校)のあった所で、キリスト教との関係の深い土地です。戦前から琵琶湖畔にあり、人々の心のよりどころであった大津教会をたずねて、そんな歴史を思い出しました。

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2006/10/22

すべての人の僕になりなさい

土曜日に行われる「聖書の分かち合いの集い」では、翌日の福音朗読箇所を分かち合います。今日の朗読箇所は「ヤコブとヨハネの願い」(マルコ10・35-45)です。

イエスさまが3度目の死と復活を予告されたあと、エルサレム入城前のお話です。ヤコブとヨハネがイエスさまの前に進み出て「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」と言います。どうも受難と復活の意味がよく分からないのか、現世的な栄光を期待しているようです。

イエスさまは、先週の「金持ちの男」と同じように、その意思を確認されてから間違いを諭されます。

あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

この言葉は、なかなか深い言葉です。神さまでもありません。良い人でもありません。すべての人に仕えるのです。

神さまに仕えていると思っていても、それは神さまの願いではありません。神さまの考えを思い、行動することが求められています。良い人だけに仕えるのも違います。悪い人にも仕えなくてはなりません。

では、この仕えるとか僕(しもべ)というのはどういう意味なんでしょう。市民の僕(しもべ)とか、公僕(こうぼく)という言い方がありますが、どうも仕えてもらっている実感がありません。しかし、悪い人にも仕えるのですから、仕えるとは単純に言うことを聞くのでもないでしょう。悪いからといって排除せずに弱い人と考えて、より良い道を考えるのでしょう。

この僕という文字を見ると、幕末を思い出します。いまや子供が主に使う「僕(ぼく)」という言葉は、勤皇の志士たちが天皇の僕としてみな平等であるという意味で使っていました。もともと奴隷と主人に仕えるものの意味である僕は、欧米の思想とともに平等の象徴として使われました。当時の身分の低い人たちにとってそれは福音でした。しかし、それは真の意味で平和を得るための言葉ではありませんでした。

誰かにひれ伏すものでもなく、支持団体の利益を守るのでもなく、国家や思想の実現のためでもなく、すべての人の「僕」として神の考えを思い実行すること。それが、キリストの言葉でした。

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2006/10/15

お金持ちより「心」持ち

ミサの福音朗読は「金持ちの男」(マルコ17-30)でした。十戒にある掟を守ってきた金持ちの男が、イエスさまに永遠の命を受け継ぐ方法を尋ねると、

「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」

と言われました。お金持ちはくさんの財産を持っていたので、この言葉に気を落として、悲しみながら立ち去りました。

わたしたちには難しいお話です。少ないとはいえ、財産を捨てて修道者にならなければ永遠の命を得られないのですから。そんな思いを抱いていると、神父さまが、これは家族愛を考えるとわかると言われました。

家族が病気になったとき、あなたはどうしますか?大事な家族だから、全財産を投げ打って、治療費を出すでしょう。結婚をしようと思ったとき、恋人のためならなんでもする、結婚できるなら何でも捨てると思ったでしょう。それが、愛にすべてを捧げる修道者の神への愛だそうです。

このような「愛」が弱くなったとき、我が出てきます。恋人のためと思っていた心はどこかにいって、自分の欲望のために生きてしまいます。家族に不満をもち、わがままを言います。そんな弱い心のわたしたちは、「心」持ちを目指すべきだそうです。

お金持ちになるには、お金を貯めなくてはなりません。なるべく使わずに、貯めようとします。一方、「心」持ちになるは愛を実践しなければなりません。心は使えば使うほど豊かになります。心を使い、愛を実践すして「心」持ちになること、それが永遠の命への道ということなのでしょう。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/10/13

ザアカイの回心

入門講座は以前も紹介した「徴税人ザアカイ」(ルカ19・1-10)でした。このお話で、ザアカイ(「純粋」という意味)は回心します。

聖書の中には、3つの悪の象徴が出てきます。心の悪として姦通あるいは姦淫(ヨハネ8・3-11)、体の悪として重い皮膚病(ルカ17・11-19)、そして社会の悪としてイスラエル人なのにローマの税金を集める徴税人を描いています。

徴税人ザアカイは徴税人の頭で、金持ちでした。もちろん、お金に対する執着も相当あったでしょう。そんな、ザアカイは背が低かったので、イエスがどんな人か見ようとイチジクの木に登ります。

イエスさまはそんなザアカイの家に泊まると言われます。人々は「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」と非難します。するとザアカイは「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」と言いました。

この大きな変化は、まさに奇跡だと思います。盲人(ルカ18・35-43)や皮膚病(ルカ17・11-19)を癒されたことと同等、いやそれ以上の奇跡だと思います。物理的な奇跡は、医学的な知識があったとか、偶然、寓話といった見方もできますが、このザアカイのお話は、たぶん実際にあったお話でしょう。

では、なぜザアカイは心が入れ替わったのでしょうか?

これまで、イスラエル人の敵として徴税人のザアカイは、つらい日々を送ってきたのでしょう。そして、イエスさまのうわさを聞いて、自分もなんとか救われたいと思っていたのではないでしょうか?たとえ、話が聞けなくても良い、せめて姿だけでも拝見したい。そんな気持ちでイチジクの木に登ったのだと思います。

すると、姿を見ることができただけでなく、声をかけてくださった。しかも、泊まりたいとまで言われました。なんとありがたいことでしょう。これまで、ほかの人にはかけられたことのない優しい言葉に、ザアカイはまさに夢心地です。なんてすばらしいお方だと思ったでしょう。

しかし、人々は、そんなイエスさまを非難します。なぜならザアカイが「罪深い男」だからです。これまで感じたことのない優しさをあたえてくれたキリスト・イエスが、自分のために非難されたのです。

そのとき、ザアカイの心には光がさしたのだと思います。好きな人が非難されただけなら、非難した人を批判するだけで良いでしょう。しかし、ザアカイはそのときの問題だけでなく、これまでの問題の原因に気づきました。今までは、非難されたのは他の人に問題があると思っていましたが、実は自分自身に問題があったということに気づいたのです。

人々から非難され続けたザアカイの心は、かたくなになっていましたが、イエスさまの言葉に癒されたザアカイは感謝の気持ちでいっぱいになっていました。感じたことのないあたたかい気持ちに包まれて、ザアカイもようやく素直になれました。そして、ついに心を入れ替えることができたのです。

イエスさまは言われました「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」

この話にあるような、ちょっとした言葉から希望が生まれ、信仰が始まるのでしょう。

(聖書の引用部分は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/10/08

フォークミサ - カトリック吹田教会 -

Suita 今日は吹田教会でフォークミサを捧げてきました。建てられて2年にもならない聖堂内は、すっきりした外観からは想像できない木のぬくもりと、やさしい光に包まれていました。内部の様子などは写真で見る吹田教会(下のほうをクリックしてください)をご覧ください。

Suitacross フォークミサは、確かにフォークでした。ギターに合わせてカナダのゴスペル(歌詞は日本語)のほか、主の祈りも歌いました(主の祈りは歌詞が口語訳だったので、ちょっと戸惑いました)。大まかに言うと、所属教会の「子供と共に捧げるミサ」の大人版ギター生演奏付きといった感じでした。

聖体拝領の歌を歌い終わったあとのエレクトーンとギターの伴奏は、なかなか良い雰囲気でした。フォークミサもなかなか良いものですね。

Suitamarie 今日の福音朗読は「離縁について教える/子供を祝福する」(マルコ10・2-16)でした。聖書の分かち合いで読んだところでした。お説教はシンプルかつユーモアにあふれたもので、男の骨から女が作られたと言うことは、男と女も同じと言うこと。お相撲さんにおっぱいがあるのはなぜ?と聞いた子供がいたが、男も女も同じ人間で使うかどうかが違うだけ。

色々と深く考えたりもした朗読箇所でしたが、すっきりと暖かい気持ちになりました。

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2006/10/07

人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ること

入門講座で読んだ「コヘレトの言葉」です。

何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時/保つ時、放つ時
裂く時、縫う時/黙する時、語る時
愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
人が労苦してみたところで何になろう。
わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。
わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と
(コヘレトの言葉 / 3章 1-12節)

手前のところまでは、人の生死は、神様に従うほかないとの意味だそうです。そのすぐ下を読んで、最後の一節がとても気に入りました。与えられた命の中で、喜び楽しんで生きる。それが神に示された言葉であると思うと、とても気持ちが楽になりました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/10/05

役割の中で神様に向かう - ミサの心得 -

今日の入門講座で、神父様がおっしゃいました。

「演じてはいけない」

司祭や朗読などの奉仕者は、ミサの中で演じるのではなく、役割の中で神様と向かわなくてはならない。とのこと。

そういうことだったのか、心に響きました。消えてしまった記事にコメントするのは反則かもしれませんが、先日のMAGISであったミサでの歌い方の議論、ここからもリンクしているので見られた方もおられると思います。なんとなく分かるものの、私にはピンときませんでした。しかし、今日のひと言で、すっきりしました。

私も先日の聖書の朗読で、うまく読もうとしていました。結果は何度も詰まって大失敗。ほかの人に聞かせるのでもなく、自己満足でもなく、いつものように神様と向かいあって、同じ教会の兄弟と共に捧げるべきだったんですね。反省しています。

ちなみに、聖変化の時に鳴らす鐘(鈴?)は、「エマオで現れる」(ルカ24・30-31)にある

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

という箇所の目が開くことを示しているそうです。う~ん、まだまだ学ぶことが多いようです。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/10/02

信徒による宣教 - 年間第26主日 B年 -

今日は小さき花の聖テレジア(リンク先はWikipedia)の記念日でもありました。 アヴィラの聖テレジア教会博士(大テレジア)と区別するために小テレジアとも呼ばれます(リンク先はこころのお散歩)。「祈りをもって宣教したテレジアは、宣教の保護者」(リンク先は聖人カレンダー)として知られています。

今日の第1朗読ではモーセが「主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」(民数記11・29)と言い、第2朗読では、イエスの名を用いて悪霊を追い出しているものをやめさせようとした弟子に、イエスさまが「やめさせてはならない(中略)。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」(マルコ9・39-40)と言われます。

福音書はこのあと、ちょっと恐ろしい表現が続きますが、宣教するものをつまづかせてはいけない、それだけ神の国はすばらしいという意味だそうです。まさに、小テレジアの日にふさわしい朗読ですね。

さて、去る9月29日で遠藤周作さんが帰天されて十年になったそうです。私がキリスト教に興味を持ったのは遠藤周作さんの「私のイエス」。