2008/06/16

教会の刷新

教会関係の集まりで「福音宣教推進全国会議」(NICE)を知りました。第1回からちょうど20周年(リンク先はカトリック中央協議会)になるこの会議は、第2バチカン公会議(リンク先はWikipedia)を受けて第1回は「開かれた教 会づくり」、第2回は「家庭」をテーマにして行われました。

この会議で検索すると興味深いページが見つかりました。祐川神父教会の刷新を目指してというページです。ここには小教区の活動で感じる様々なことが明確に書かれています。

また、このページで紹介されている「意識の転換について」というページは、第2バチカン公会議後の信徒にとって大事なことが書かれていると思いました。

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2007/03/24

正典と外典

このブログでも外典福音書のテレビ番組を紹介しましたし、ダ・ヴィンチ・コードもナグ・ハマディ文書を用いて話を展開しています。これらが外典であるのは間違いないところですが、旧約聖書の続編も外典と呼ばれることがあります。

日本聖書協会の「SOWER No.29」の特集は「『ユダの福音書』は聖書なのか? 正典のなりたちと外典・偽典」です。この中で正典と外典が説明されていました。

この記事によると、「外典」とは「正典」に含まれないと言う意味です。しかし、外典と呼ばれるものは、旧約聖書と新約聖書で性格が大きく異なります。

旧約聖書
ユダヤ教の正典は90年頃のヤムニア会議で今の旧約聖書三十九書と定められました。これには続編が含まれておらず、旧約外典というと続編のことをさします。旧約聖書続編十三書は、七十人訳という古代ギリシャ語の旧約聖書に含まれていた文書です(Good News Collectionによるとバビロンの捕囚以降に地中海周辺に移り住んだユダヤ人のために作られたようです)。

キリスト教では、教派において続編の扱いが異なります。新約聖書に引用されている旧約聖書の聖句が七十人訳聖書のものだったこと、ヘブライ語からの翻訳過程にも霊感が働いていたと語り継がれていたことから、続編も正典性を認める傾向があったそうです。

宗教改革後、この続編の扱いが教派によって異なるようになります。Wikipediaによれば、

マルティン・ルターがヘブライ語本文から聖書を訳した際に、ヤムニア会議の定めたテキストと、カトリックが使っていたラテン語聖書との異同に気付いた。ルターはこれを外典と位置付けた。

とされています。プロテスタントでは「正典と同等ではないが、読めば有益な書」「読むことは推奨されるが、教義の基礎としてはならない書」とされ、続編は「旧約外典」とされています。

一方、カトリックでは、16世紀の宗教改革以降に続編中の十書を「第2正典」とし、東方正教会もその一部を正典としています。なお、聖公会はプロテスタントに分類されますが、続編十三書すべてを礼拝で用います。

このほかにも七十人訳に含まれなかった「エノク書」「ヨベル書」「アダムとエバの生涯」などの古代ユダヤ文献があります。これらは、「旧約偽書」と呼ぶそうです。

新約聖書
新約聖書は2世紀中盤のマルキオンという人が新約関係の文書をまとめた「マルキオン聖書」(後に異端とされる)から、新約正典制定に向かうようになったようです。その後、「ムラトリ正典目録」やオリゲネスによる一覧などが正典の原型になり、4世紀後半のアタナシオスによる「第三九復活祭書簡」以降に新約二十七書が正典と認められるようになりました。

「ユダの福音書」「トマスによる福音書」「フィリポの福音書」「マリアの福音書」などは新約外典に分類されます。この外典という言葉は「隠されたもの(ギリシャ語のアポクリファ)」にあてはめられた訳語です。旧約外典の外典もアポクリファの訳語です。しかし、旧約外典が正典視されてきたのに対し、新約外典は排除された文書です。

後に異端とされる集団において、このアポクリファという言葉は「資格のある者だけに読むことが許された秘義の書」という意味で用いられたようです。それが後にキリスト教の「正統」が確立していく過程で、「異端の書」「偽書」という否定的な意味に転化したそうです。

これらの新約外典はグノーシス主義の書物です。グノーシスとは「認識」を意味するギリシャ語です。SOWER No.29 p.6には、以下のように書かれています。

天上での救いに至る奥義を「知る」ということで、その奥義を天の至高神のもとから地上にもたらしたのがキリストであるとされます。その際、天地創造の神は下級の神とされ、その神によって造られた人間は肉体に閉じ込められていますが、至高神の痕跡を持っているがゆえに至高神の使いがもたらす「認識」によって救われるとされます。

つまり、唯一の神を否定し、肉体を悪としています。グノーシス主義と関係するものとしてはアウグスチヌスの時代にはマニ教が普及していました。肉体を悪とするために、厳格な教えに結びつく反面、肉体が悪なら汚さないといけないとして享楽的な行動に結びついていたようです。

このほかにも、1世紀末から2世紀中葉に成立されたという「クレメンスの手紙」「イグナティウスの手紙」「ディダケー」などの「使徒教父公文書」があります。これらは、正典の外にはありますが、異端書ではなく排除されていません。Wikipediaによれば、

内容に問題はなく使徒の著作でないことのみが問題とされた使徒の弟子(「使徒教父」とよばれる。)による文書

だそうです。

SOWERは日本聖書協会のWebページでPDFが公開されています。今回、引用させていただいたNo.29もいずれ公開されると思いますので、ぜひお読みください。

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2007/02/11

私がイエスを神とする理由

mixiのとあるコミュで書いたコメント(いわゆる使い回し)です(一部修正)。

私が洗礼を受けたのは、キリスト教が煩悩を捨てるのではなく、それを受け入れ、ゆるしてくれるからだと思います。

仕事がうまくいかずに苦しんでいたときに父親が亡くなって、まず、家の宗派(仏教)の本を読みました。確かに良いお話が書かれていたのですが、なにかピンとこない、自分とは関係がないような感じがありました。

そのころ妻が教会に通いだしていて、私が死んだときの葬儀が仏式だと気持ちが入らないと言いましたので、少しぐらいは読んでおこうかと本を読みました。昔、エッセイを読んでいた遠藤周作の入門書「私のイエス」を読みました。そして、引き込まれるように「イエスの生涯」「キリストの誕生」を読みました。そして、それまでの苦しみから逃れることができました。

仕事がうまくいかないのは自分にも責任があると、うすうす感じながらも、認めることができませんでしたが、「キリストの誕生」を読んでようやく認めることができたのです。

人々に見捨てられ、弟子にも裏切られ、十字架を背負ったイエスは、最期の時も人々のゆるしを父に願い、共に処刑された犯罪者も救いました。

良いところも、悪いところもすべて受けとめて、ゆるしてくださる、その完全な姿は弟子たちの心に残り、神として復活しました。それまで使徒たちは、イエスの教えを理解できませんでしたが、キリストの復活後、教えを積極的に広めるようになりました。

使徒たちと同じように、私はイエスの姿によって、自分の傲慢さに気づかされました。

イエスが神であるというのは、キリスト教の定義する神であるということです。その定義をアーメン(そのとおり、その通りでありますように)と思えるかどうかだと思います。私は遠藤周作の現実的な解釈によって救われ、聖書を読んでニケア・コンスタンチノープル信条をアーメンと思うようになりました。もちろん聖書は誰が読んでも良いことが書かれていると思いますが、救いを求める気持ちがあるからこそ、聖書の言葉に救われるのだと思います。

たしかに信仰はタイミングだと思います。学生のころに私が遠藤周作を好きだったこと、妻がカトリックの学校を出たこと、父が亡くなったこと、他にも色々な偶然がありました。その偶然を神様のしるし、すべて良いことだと思うことが回心たと思います。現実に苦しむよりも神の愛を感じて幸せに生きたい、それが私がイエスを神とする理由です。

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2007/02/08

ゆめ、現実、希望

子供のころ、誰しもが夢を抱きます。TVのヒーロー、スポーツ選手、大統領、パイロット。まあ、人それぞれで色々な夢があるでしょう。人によっては夢が実現しますが、多くの人は途中であきらめます。

働かないと生きていけませんから、どこかで妥協して現実にあわせるわけです。やりたいことではなく、できることをするとか、「割り切った」とか、「大人の判断」とか、色々なことばで自分を言いくるめるわけです。

でも、なんだかんだ言っても、やっぱり何かに期待しているもんですから、不満は溜まるわけです。これって何なんでしょうね。

実は求めているものが違うのでしょうね。カッコいいとか、ちやほやされるとかいう理由で選んだことでも、夢をあきらめてお金になるからとはじめたことでも、そのこと自体が目的でなく、きっと幸せになれると心のどこかで思ったから選んでいるのでしょうね。割り切ったとか言いながら、お金があれば幸せになると思っているのです。

でも、幸せはそこにないかもしれません。夢が実現したなら更なる夢を抱きます。割り切って仕事をしていても、昇格したいとか、同僚と仲良くしたいとか、なにか満たされないものがあって不満が溜まるのです。もっと、もっと、と人間の欲望は果てしなく、限りがありません。欲望は、人間が成長するための力にもなりますが、時には人間を束縛して苦しめます。

不幸だと思っている時も、幸せを捨てているだけなのかもしれません。もう希望がないというときも、まだまだ希望があるのに見ようとしていないのかもしれません。責任が自分にないと人を批判するときも、自分の原因に目をつぶっているのかもしれません。

キリストの受難と復活には、希望へのメッセージが込められています。あなたがどんなに不幸状況であっても、仲間に裏切られ、民衆に裏切られ、さげすまれ、犯罪者として亡くなったイエスは、その傷を癒し、近くにある幸せを探す力を与えてくれるでしょう。

あなたがもうだめだと思うときでも、処刑しようとする人々のゆるしを神に請い、共に処刑される犯罪者を天国に導いたイエスは、どんなに希望がなくなったときでも心は自由であり、人間は豊かな心を抱けるのだという希望を与えます。

あなたがすべてが終わったと思うときでも、死を迎えた後に復活し、使徒たちの心によみがえり、人類の希望の光として生き続けたキリストは、努力が実らなかったと思えることも無駄ではなく、すべてのことに意味があり、良き行いは人々を幸せにするという希望を示します。

本当に欲しいものが幸せであるなら、きっと信仰が救ってくれるでしょう。

参考:遠藤周作著「キリストの誕生」「イエスの生涯」「私のイエス」

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2007/01/27

宗教は魂の料理

人は食べなくては死にます。といっても、おいしく料理して食べたいものです。おいしく食べるには、作り方などを工夫して食べなくてはなりません。

宗教は魂の料理です。自分という命が幸せと思えるように、自分の心を料理することが信仰です。幸せだなぁと自分で思う心を見つけるのです。体のため、自分のために料理を作るように、魂も上手に料理しましょう。

ある人は幸せと思うことでも、別の人は不幸と思います。自分一人で幸せに生きられるなら、宗教はいりません。人は誰かに頼りたいものです。神さまに頼ったときに幸せと思えるのです。

失敗したとき、哀れなとき、弱っているとき、非難されたとき、神様が守ってくれると思う心が大事です。仕事を失う、家族を失うなど、自分ではどうしようもないとき、神の中に力を見出すのです。聖書の言葉を知り、祈りを唱えることで、自分を取り戻せたら、最高の人生です。

人生には、苦いこと、酸っぱいこと、辛いこと、がありますが、程よい味、うまみを感じられる味、後から納得できる味、に変えてくれるのが信仰なのでしょうね。

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2007/01/24

アフリカの主の祈り

アフリカの主の祈り(リンク先はWikiForJ)をご存知でしょうか?(一部抜粋)

もしあなたが 神の子として生きていないならば、「父よ」とは言わないでください。

もしあなたが 自分のエゴイズムの中に 閉じこもっているとすれば、「私たちの」とは言わないでください。
            :
もしあなたが 貧しい人々のパンのために働かないなら、「私たちの今日の糧をお与えください」とは言わないでください。
            :
もしあなたが 兄弟姉妹に対する憎しみを味わっているとすれば、「私たちの罪をお赦しください」とは言わないでください。
            :
もしあなたが 主の祈りのことばを 真剣に受け取っていないなら、決して「アーメン」とは言わないでください。

通常の主の祈りが願いであるなら、アフリカの主の祈りは形だけの信仰を認めない叫びのようにも聞こえます(リンク先の英語も見てください)。

ミサで主の祈りを唱えるときは形式的になりがちですが、アフリカの主の祈りをちょっと思い出して祈ってみようと思います。

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2007/01/18

感情にとらわれること - 悪霊と悪魔 -

映画「妖怪大戦争」を見ました。案内にはこう書かれています。

日本各地では、突然子供が消えたり、恐ろしい化け物が人間を襲ったりする事件が多発していた。それは、この世に恨みをもつ悪霊たちの仕業だった。黒幕は古代先住民族の怨念が蘇った魔人・加藤保憲。加藤は、人間に捨てられた機械などの廃棄物の怨念と日本古来の妖怪たちとを、大怨霊ヨモツモノの力で混ぜ合わせ、新種の悪霊《機怪》を作り出していった。そして、加藤の手先となった鳥刺し妖女・アギによって、日本全国の妖怪たちは捕獲され、《機怪》に姿を変えていくのだった。

そして、東京を舞台として妖怪対悪霊の戦いが始まります。ここでのポイントは「うらみ」です。黒幕の魔神加藤とは、帝都大戦にも出てくる加藤保憲(リンク先はWikipedia)です。この加藤も、うらみにとらわれています。

日本の悪霊の特徴は、人が魔人になったり、機械が機怪になったり、変質するところですね。同じように感情にとららわれたものといえば、宮崎アニメにもよく出てきますし、変わったところでは、カネゴン(リンク先はWikipedia)という怪獣もいます。カネゴンはお金への執着から人間がガマ口ような顔を持つ怪獣になってしまうお話です。

聖書の中では、「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」(マルコ5・1-20)というお話があります。このお話に出てくる汚れた霊に取り付かれた人は、つながれた鎖を引きちぎり、足枷まで砕き、

彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。

とあります。そして、イエスさまが名をたずねると

「名はレギオン。大勢だから」

と言い、その霊は豚に移されるものの、豚の群れは湖に入って死んでしまいます。そして、

人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。

このお話は難解ですが、先日お会いした林神父が一つの解釈を教えてくださいました。 悪霊の名前「レギオン」は元々ローマ軍団(リンク先はWikipedia)をさします。すると、この人はローマ兵に家族あるいは大事な人を殺されるか、辱められたと考えられます。そして、悲しみや恨みにとらわれていたのではないかと考えられるのです。

当時は、悪霊の名前を言い当てて、たとえば「サタン!」というように叫ぶと、出て行くという考えがあったそうです。そして、イエス様はローマ軍団を悪霊として豚に移し、さらに追い出してしまったのです。だからこそ、ローマを恐れる人々に出て行くようにいわれたのです。

まるで歌舞伎のような風刺劇ですね。この中でも、やはり気になるのは感情にとらわれた人です。感情にとらわれて、叫んだり、自傷行為をしているのです。

キリスト教では悪魔という表現もあります。「堕天使」と言われるように、神様に特別の力を与えられたものの、神さまを裏切った天使です。キリスト教がヨーロッパに定着する際に、それまでにの異教の神々が悪魔になった(リンク先はWikipedia)ようです(一部の神は天使や妖精になりました)。

Fatima 悪魔に関してはファティマの聖母(リンク先は女子パウロ会)に触れなくてはなりません(写真は玉造教会)。 Wikipediaには聖母マリアのメッセージの一つとしてこう書かれています。

悪魔と地獄の現存:多くの人々が悪魔によって地獄へ導かれている。七つの大罪などの罪、特に肉欲の罪から回心しないままでいることにより人は地獄へ行く。ここには、悪魔の所作が働いている。

七つの大罪とは傲慢(高慢)、嫉妬、暴食(食欲)、色欲、怠惰、貪欲(強欲)、憤怒
で、七つの罪源とも呼ばれる感情です。さらにWikipediaの「悪魔」に出てくるファティマの聖母に関する説明には、こう書かれています。

21世紀初頭、ヨハネ・パウロ2世は、「ファティマの聖母の言葉は、悪魔のわなに陥らないよう、改心を求めて私たちの人間性に訴えかけている」と述べ、戦争・民族浄化・麻薬汚染・中絶など惨事が悪の犠牲者を多く生み出していること、善と悪の戦いは(20世紀だけのものではなく)今日も続いていることから、社会は破壊を免れるために伝統的な価値観に立ち戻る必要がある、と述べている。

最近の身勝手な戦争や悲惨な事件を見ていると、悪霊や悪魔として語り継がれてきた「感情にとらわれることは悪である」という伝統的な価値観が失われつつある気がします。

人は感情にとらわれると、他人や自分を色眼鏡で見てしまいます。客観的なつもりでも自分を中心に考えてしまいます。否定的でなく冷静に、自分を見直す必要があると思います。それこそが「愛(アガペー)」の始まりなのだと思います。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/01/16

抱きしめる教会

佐々木正美著「抱きしめよう、わが子のぜんぶ - 思春期に向けて、いちばん大切なこと
」では、

『抱きしめる』ことは、どんな愛情表現よりも伝わります。(p.118)

とした上で、

子どもの話を聞いてあげることは、心を抱きしめるということ」(p.136)

と書かれています。そして、こんな風に書かれています。

人はだれかに全面的に受け入れてもらえることで安心して自立していけるのです。全面的に受け入れてもらえるということは、ありのままの自分を認めてもらうと言うことです。(p.156)

自分が信じている人から、愛されている、評価されているという実感を得られると、子どもは自信をもつことができます。(p.96)

この本は、思春期の子どもを持つ親に向けての本ですが、思春期にありがちな、不安、迷い、悩み、といった感情は、人である限り一生ついていくものではないでしょうか。

外で疲れて、「ただいま~」と帰ってきたとき、父から離れ疲れ果てた放蕩息子を迎える父のように、ありのままの自分を受けとめてくれるそんな場所が人には必要です。

洗礼を受ける前にSIGNIS Japanセミナーに参加したとき、少し驚く光景を見ました。ある女性が何年ぶりかのシスターを見つけて駆け寄ったのです。その女性とシスターは抱き合って、今にも泣きそうなぐらいに喜んでいました。そのときは、驚いたものの、今となってはうらやましく思います。

人には安らぎを感じられる家が必要です。家庭であるかぎり兄弟げんかもあるでしょうけど、疲れて帰ってきたときに抱きしめてもらえるのは、やっぱり家である教会なのでしょうね。

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2007/01/13

メシは天

イエズス会の林神父のお話をうかがう機会がありました。
「目標を持ちましょう」という言葉から始まりました。正確に言うと「自分の目標を持たないと人に使われるぞ」です。

目的がなく、今生きていればというような生き方をしている人と付き合ったら損です。教会でもそんな人がいます。それは「生活教」というもので、何かにつけて「生活がかかっているから」と言う方です。説教で「余ったものを分けるのではない」と聞くと、良いお話だと言うものの、いざ実践となると「生活がかかっているから」と思考停止になってしまいます。

また、自分の目標を持たないと、国益教という国の目標のために使われてしまうかもしれません。国策が神の目をつむこともあります。自由のために目標を持ちましょう。

カトリック詩人の金芝河(キムジハ)の詩に「メシは天」(リンク先は 霊性センターせせらぎ、全文が載っています)があります。

メシは天であります
独りでは天にいけないように
メシは分かちくらうもの

この詩は、メシを分けるところに天国、すなわち神の国があると言っています。自分の食べるものを分け合う中に神の国があると言っています。

イエスさまが「神の国はあなたがたの間にある」と言われたように、天国は死んでからのものではありません。この神の国と反対のものが、人の良いことを喜べない心である嫉妬心です。"We care, We share"の心が大事です。神の国はすでにあなた方の間に始まっているのです。

ミサで行う聖体拝領は、「メシは天」の実現でもあるのでしょうね。

(この後、教皇ベネディクト十六世の回勅「神は愛」に触れられました。本をまだ読めていないので、また、いずれ、、、)

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2006/12/30

諸人こぞりて(もろびとこぞりて)

去年のミサの記事のコメントでMAGISのctさんに教えていただいた、フォーライフレコードの「クリスマス」(リンク先はamazon)を買って、今年の待降節はずっと聞いていました。

このCDは小室等、吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげるのフォーライフ創立者4人が75年に製作したクリスマスアルバムです。力を入れたわりに売れ行きが悪く、フォーライフを経営危機に陥れたいわくつきのアルバムです。

このCDの12曲目に吉田拓郎さんの「諸人こぞりて」が入っています。「諸人こぞりて」というと普通は「主はきませり♪」を美しく繰り返すのですが、このCDの吉田拓郎さんは最初から最後まで力強く歌い上げます。通勤途中に聞いていても、その力強い歌い方に聞き惚れてしまいます。

ご存知のように、こんな歌詞です(CDにはこの曲の歌詞が載っていないのでカトリック聖歌集654(1-4番)からの引用です) 。

諸人こぞりて むかえまつれ 久しく待ちにし
主はきませり 主はきませり 主は 主はきませり

悪魔のひとやを うちくだきて 捕虜をはなつと 
主はきませり 主はきませり 主は 主はきませり

この世の闇路を 照らしたもう たえなる光の
主はきませり 主はきませり 主は 主はきませり

しぼめる心の 花を咲かせ めぐみの露おく
主はきませり 主はきませり 主は 主はきませり

Wikipediaの解説によると「悪魔のひとや」は「悪魔の人牢」だそうです。待ちに待った主が来られた、悪魔から解き放ち、世を照らし、心に花を咲かせてくださる、と主が来られたことを喜ぶ歌なんですね。

この詩を読んでいると、映画「偉大な生涯の物語」を思い出します。死んでいたラザロがよみがえった時、人々は「ハレルヤ(主をほめたたえよ)」と大騒ぎになります。神さまのと出会ったとき、その存在に気づいたときの喜びは、駆け出したくなるほど大きなものなのです。だからこそ「主はきませり」「ハレルヤ」と繰り返されるのでしょうね。

今年のクリスマスは、この曲で準備万端でした。心の中の神の存在に喜びを感じていたからこそ、色々なことがあっても「よかったぁ」と思えたのでしょう。

(あまり聞きすぎると、ミサの最中に太い声で歌いそうになるのでお気をつけください、、、)

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2006/12/13

聖水をつけて十字を切る

お聖堂に入るときや帰るときに,聖水をつけて十字を切ることについて調べました.
ここでも何度か十字の切り方を紹介しました.なかなか良いお話だったのが,こころのともしびに載っていた「十字の切り方」です.キリストを思い描いて心を込める方法が印象的でした.

ミサでもうかがいました.父と子と聖霊の御名によってと十字を切るというお話です.これは聖書の中の「弟子たちを派遣する」(マタイ28・16-20)のお説教です.

大阪司教区典礼委員会の「Q&A」コーナーには,聖水盤の聖水で十字をきる行為によって、洗礼により生まれ変わった自分が神のみ前にいることをしっかりと自覚するためです。とされていて,信者が聖堂に入ったときにするように書いています.

でも,ミサの帰りにもする人もいますし,洗礼を受ける前からするようにいう方もおられます.なんとなく,納得いかないで調べてみると,サンパウロホームページのキリスト教質問箱には水の意味から十字を切ることが説明されています.読んでいただくとわかりますが,けっきょく洗礼を受けているか,ミサの帰りであるかよりも,神様のことを思って心から十字を切る事が大事なのでしょう.

ちなみに,サンパウロのキリスト教質問箱では,十字の切り方が東方諸教会(正教会)と左右の順番が逆になっていることも説明されています.分裂と関係あるとは思っていたのですが,カトリックが逆にしたのですね.

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2006/12/08

待降節におすすめの本 - 神様の食卓 -

未来を知ることのできないfirefoxのおかげで気づきませんでしたが,「森の中の部屋」(リンク先は新ブログ)が最近gooに引越しされました.そのの引越し前のブログに書かれていた「神様の食卓」を読みました.

あるとき,主人公にナザレのイエスからの招待状が届きます.また,友人のいたずらだろうと思いながらも,主人公はレストランに向かいます.いずれ,壁の影かトイレから友人が出てくると思いながら,イエスと名乗る男と食事を始めますが,友人の姿がありません.

主人公は話に少しずつ引き込まれていきます.母であるマリアさまことなどもすらすらと話すイエスですが,疑いを抱く主人公はイエスを試します「このぶどう酒を水に変えられますか?」.そして,そのときイエスが取った行動は,,,,,

まあ,そんなスリル(?)はごく一部で,神さまのあり方がイエスの口を通して語られます.聖書のように「えっ」と思わせて,なるほどと納得させる.そんな語り口がとってもイエスさまです.なぜか,心が温まります.

最初はいたずらと思っていたイエス様との食事でしたが,実はすべてに意味があったのです.詳しく書きたいですが書けないので,ぜひ読んでみてください.待降節にふさわしい一冊だと思います.

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2006/12/01

「祈る」と「考える」

「祈る」と「考える」は似てますが違います。
祈る」と言うのは神様にお話をすることです。「天におられるわたしたちの父よ」と言いますが、空の上の宇宙におられるわけでもなく、私たちの心の中に神さまはいます。だから「祈る」というのは自分の心と語ることになります。

一方、「考える」というのも、自分で自分に問いかけることです。なので、言葉の意味は似ています。でも、すごく違うのですよね。

「考える」ときは、自分の思いの肯定から始まり、その思いを正当化しながら、理屈を展開するわけです。この「考える」と言うのは、危険な時もあります。自分の思いが正しいとは限りませんし、仮に正しくてもどんどん膨らんで行き過ぎてしまいます。

自分が間違ってないと思えば、問題が生じるのは周囲の責任になってしまい、反省と言うものを忘れて怒りが膨らみます。逆に、自分が悪いと思えば、どんどん自分を追いつめてしまって悩んだり苦しんだりしてしまいます。

これに対して「祈る」と言うのは、恵みにつながります。祈るときは、自分の心の中に神を感じ、思いのすべてを打ち明けます。お願いしたり、憐れみを求めたり、ゆだねたり、、、、。神さまにはお見通しなんだから隠す必要もありません。

すると、怒りでも、悲しみでも、苦しみでも、とがらなくなります。ピリピリした感じがなくなって、やさしく包まれたような、なでられたような、、、。そうすると、自分の思いを冷静に見ることができるようになります。「自分にも悪いところがあったなぁ」とか、「まあ、しょうがないから次はうまくやろう」、「苦しいのは自分だけじゃない」とか。

そんな風に心が落ち着いたとき、なんとなく神さまの存在を感じるんですよね。

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2006/11/25

釣鐘のような神

学生のころに好きだった司馬遼太郎著「竜馬がゆく」では、幕末の薩摩藩を代表して薩長同盟を結び、勝ち目のない西南の役で仲間のために命を投げ出した西郷隆盛を、「小さくたたけば小さく鳴り、大きくたたけば大きく鳴る」釣鐘のようだと書かれていました。先日の入門講座では、イエス様がそんな西郷隆盛のように感じられました。

入門講座では、水曜日の福音朗読箇所である「『ムナ』のたとえ」(ルカ19・11-27)には、「その言葉のゆえにお前を裁こう」という言葉が出てきます。このたとえは、以前ここでも紹介したタラントンのたとえと同じで、主人から預かったお金を増やした僕はほめられ、増やさなかった僕が怒られるお話です。神様の恵みを生かし、増やさなければいけないというお話ですが、この増やさなかった僕への言葉がよく分かりませんでした。

今回の入門講座では「あなたの信仰があなたを救った」(ルカ8・48)と並べて説明されました。「『ムナ』のたとえ」で厳しい言葉をかけられた僕は、主人を怖い人だと思っていたので、「わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか」と言われたのです。

「『ムナ』のたとえ」の僕のように神さまを怖いと思えば厳しくなり、娘への救いを求めたヤイロのように万能だと思えば救ってくださいます。そして、遠藤周作の沈黙のように愛にあふれた方だと思えば愛をくださいます。厳しい状況におかれたときも、 自分の求める愛にあふれた神の姿を心に描き、祈り求めて生きたいと思いました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/11/23

成長に必要なキリストの愛

アダルト・チルドレンという言葉をご存知でしょうか?
Wikipediaの説明によると一般成人の6~7割が広義の意味でアダルト・チルドレンで、自覚もせず大して苦にもしていない人々が大多数だそうです。しかし、一部は心的ダメージが強くメンタルケアが必要とされます。メンタルケアの現場では、

幼少時代から親(血縁上の親とは限らない)から正当な愛情を受けられず、身体的・精神・心理的虐待を受け続けて成人し、社会生活に対する違和感があったり子供時代の心的ダメージに悩み、苦しみをもつ人々の総称

とされています。そして、条件付きの愛情、虐待、共依存が関連しています(詳細はWikipediaの説明をご覧ください)。

このうち、条件付きの愛情というのは親にとって耳の痛い話です。子どもを少しでも成長させようという親心から、「XXができたらYYしてあげるからね」と、にんじんを子どもの目の前にちらつかせて、頑張れ、頑張れとやってしまいがちです。

そのような状況が続くと、親に束縛されて育ち、疑いを持ちやすく、うそをつき、批判的で、人に評価されたがり、過剰な責任感と無責任、衝動的な行動、などの特徴を持つ人間になってしまいます。

ここでキリスト教を考えると、キリストは無条件の愛だと思います。啓示や契約を考えると、XXすれば恵みが得られるというようなものもありますが、キリストの公生活を振り返ると、無条件の愛を感じます。

前にここで書いたザアカイの回心もその一例でしょう。キリストを見ようとしただけで、キリストに言葉をかけかれ、回心することができました。

また、放蕩息子のたとえは、親の財産を生前贈与させておいて、使い果たして戻ってきた息子をやさしく迎える話です。勤勉な息子を愛するだけでなく、放蕩息子であっても、いや、放蕩息子だからこそ、やさしく迎えるのです。

かつてモンテッソーリ女史の成長するために愛が必要という言葉を紹介しましたが、アダルトチルドレンを知ったことで、その思いがより強くなりました。

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2006/11/03

祈りによる恵み -苦しみの中にも恵みはある-

人生の中には色々な苦しみがあります。信仰心があっても苦しいときは苦しいです。ただ、少しだけ違うのは、なにか問題がおきたときに心丈夫なのです。

信仰心がないときは、なかなか前向きに考えられず、何か憂さ晴らしをする、より不幸な状況と比較する、別のもので我慢する、といったことしかできませんでした。しかし、気分転換をしても、我慢をしても、現実は現実で変えようがありません。

神さまに出会ってから、少し変わりました。どんな苦しいことにも意味があり、乗り越えられない試練は与えられないのだから、この状況も何とか乗り越えられる。そう思うようになりました。

苦しいときは祈り、神さまとお話しします。お願いも一つの祈りですが、それだけではなくお話します。別に語りかけなくても元々ご存知なのですけど、とにかく思いのたけをお話します。人に対してお話しするのなら、知らず知らず身構えてしまって言わない事もありますが、元々ご存知の方にお話しするので、躊躇する必要はありません。

苦しみや悲しみ、そして願いをお話して、神さまと分かち合います。いろいろと話しているうちに、不思議と落ち着いてきます。今まで見えなかった現実が、徐々に整理され、現実をどう受け止めればよいかが少しずつ見えてきます。

時には、自分の思いが恥ずかしくなり、間違いに気づくこともあります。また、自分のことだけでなく、他の人のことをお願いしているうちに、自分が一緒になって苦しむのではなく、何かしないといけない気もしてきます。

どんなにお願いしても、かなわないこともたくさんあります。でも、祈り、ゆだねることで、苦しみに挫折せず、前向きに生きようとする心が芽生えてきます。それを私は祈りによる恵みだと思っています。

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2006/10/26

神さまの弱点 - 小テレジア(その2) -

やなぎやけいこ著「イエスの小さい花 -リジューの聖テレーズの生涯-」の続きです。

聖テレーズが生きた19世紀後半のカトリック教会では、苦行を積んで功徳を積み、正義の神と取り引きするという考え方が一般的でした。聖テレーズは生まれたときから体が弱く、鞭を使うような、当時のカルメル会の厳しい苦行は御旨でないと考えたようです。

そこで、聖テレーズは遠藤周作のような愛の神、いつくしみの神、すなわち、結果よりも意向を見てくださるような神の母性を感じていたようです。それは、こんな言葉で語られています。

階段の上に「ママ」がいるとき、階段の下にいる幼い子どもは、どうにかして「ママ」の所へ行きたいと、小さい片足を上げる。だが、高すぎる階段には昇れずに、転んでしまう。それでも、幼い子は何回でも同じことを繰り返す。「ママ」のそばに行きたくて、しかたがないからである。すると、「ママ」はたまらなくなって階段を駆け降り、幼い子を腕に抱き上げて、階段を登ってくれる。テレーズの知っている神は、この「ママ」のような神であった。

どんな過ちをしても、
「ごめんなさい。もうしないから、許してください」
と心から言いさえすれば、神は必ず許してくださる。「取り引き」の材料はいらない。だから彼女は、空っぽの手で神の前に出ることを恐れない。それどころか、その空っぽの手を、いとおしくさえ思う。空っぽであればあるほど、神の恵みを多く受けられると思うからである。(p.124)

聖テレーズは、このような無限の神の愛を感じていました。聖テレーズが修練長のとき、ある修練女が、ゆるしの秘跡を受けても、同じ過ちを何度も繰り返すと打ち明けたとき、テレーズはこんな風に言いました。

「だいじょうぶ。神さまは全能ですけれど、一つだけ弱点がおありになるの。それは『忘れっぽい』ということです。あなたが『ごめんなさい』と心から言ったら、以前にあなたのしたことなど、すっかり忘れておしまいになるの。だから、心配しないで。さあ、イエスさまに『ごめんなさい』のキスをなさい」(pp.134-135)

キリストのように生きようと、自分に厳しくすることもすばらしいことです。でもそれは大変難しいことです。もし、素直にさえなれたなら、日常の生活の中での自分の過ちや弱さを認めることはできるでしょう。そして、すべてを神にゆだねることができたなら、思い悩むこともなくなり、人はようやく安らぎを得ることができるのだとと思います。

神に頼らずに、一人で頑張ることを前提にするなら、なぜうまくいかないだろう、もっと頑張らないと、結果を出さないと、なんてダメなんだ、と考えてしまいます。そこには苦悩しかありません。

しかし、神の愛を信じていたなら、きっとうまくいく、見守られているのだから落ち着いて行動しよう、やろうとすることが大事なんだ、ダメでもわかってもらえる、そう思えます。それが、小さき花の与えられた恵み、主の平安に包まれた生活だと思います。

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2006/10/19

教会の一致と平和 - 聖アウグスチヌスの思想 -

聖アウグスチヌスの続きです。Wikipediaによると

アウグスティヌスの思想的影響はキリスト教にとどまらず、西洋思想全体に及んでいるといっても過言ではない。

とされているほど、のちの西洋の思想に影響を与えました。アウグスチヌスの思想は、前回紹介した回心に基づくもので、Wikipediaには以下のように書かれています。

アウグスティヌスは人間の意志を非常に無力なものとみなし、神の恩寵なしには善をなしえないと考えた。
しかし、忘れてはならないのはこのようなアウグスティヌスの思想の背景には、若き日に性的に放縦な生活を送ったアウグスティヌスの悔悟と、原罪を否定し人間の意志の力を強調したペラギウスとの論争があったということである(ペラギウス論争といわれる一連の論争はキリスト教における原罪理解の明確化に貢献している。)。

プロテスタントにつながる思想

このアウグスチヌスの考え方は、プロテスタントに繋がっています。ルターは聖アウグスチノ修道会(リンク先はWikipedia)から出ていますし、カルヴァンの予定説(リンク先はWikipedia)や罪深さを強調するジャンセニスム(リンク先はWikipedia)も影響を受けています。

聖イグナチオが自らの意思で心の中の神の声を聞いたのに対して、Wikipediaの予定説の解説では

その人が神の救済に与れるかどうかは、予め決定されており、この世で善行を積んだかどうかといったことではそれを変えることはできないとする
    :
救済に与れるかどうか全く不明であり、現世での善行も意味を持たないとすれば、虚無的な思想に陥るほかないように思われるが、実際にはそうではない。プロテスタントの信仰を持った人は自分こそ救済されるべき選ばれた人間であると考え、救済された証しを得るために現世での職務に励んだのである。

とされていて、その後の資本主義の発展に寄与した(リンク先はWikipedia)背景が書かれています。

このほかにも、アウグスチヌスの思想は東方教会との分裂のきっかけ(リンク先は新しき中世)にもなったと言われています。

アウグスチヌスの考えが、教会内の派閥争いや、免償符(いわゆる免罪符)に代表される教会の腐敗という時代的背景と重なって、分裂を導いたようです。

しかし、私はその考えを単純に問題があるとみなすことを望みません。なぜなら、当時は司祭を信者が選ぶなど、鹿嶋春平太さんの本にも書かれているようなプロテスタント的な運営も見られ、分かれるまでは色々な考えや運営方法を持ちながらもうまくやっていたからです。

教会に問題がない時代には、様々な考えを許容して、教会は一致していました。わたしは、そこに感動するとともに希望を感じました。

正戦論

最後に、アウグスチヌスの思想の中でどうしても触れなければならないのが、正戦論(リンク先はイエズス会社会司牧センターの「カトリックと戦争」)です。ヒッポの司教であったアウグスチヌスは、様々な宗教の迫害に逢い、「条件によって戦争を肯定する」と意見を取ったのだと思われます。

しかし、この考えは徐々に拡大解釈され、のちの十字軍や近年の戦争に見られるように、自衛の名目で土地を奪い合う様になってしまいました。

この悲しむべきことが、人類を導くことにも繋がったともいえます。後のイグナチオアッシジのフランチェスコといった聖人は、こういった戦争の中で生まれたからです。また、上記の「カトリックと戦争」に、

第2次世界大戦以降から(中略)、カトリック教会は戦争を断罪し、世界平和のために全力を尽くすようになった

とされているように、人間が過ちを繰り返しながらも、自身の力で学びとることに繋がったという見方もできます。

そのような歴史に思いをめぐらすと、自由意志を与えられながらも仲間で殺しあう人間の愚かさを悲しむとともに、優しく見守り続けながらも導いてくださる御旨を強く感じます。

御国がきますように

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2006/10/17

求めるものは与えられる - アウグスチヌスの回心 -

永井明著「聖アウグスチヌス」(サンパウロ アルバ文庫)を読みました。異教徒であった聖アウグスチヌス(リンク先はWikipedia)は、長い苦悩のあとに回心しました。やめたくてもやめられない人間の性(サガ)から抜け出し、今を良く生きる道を歩みだしたのです。

当時の北アフリカ

アウグスチヌス(354 - 430)は北アフリカ・ヌミジア地方で生まれました。当時の北アフリカは複数の宗教・思想が入り混じった地域だったようです。母モニカはクリスチャン、父パトリキウスは異教徒でした。そんな環境に生まれたアウグスチヌスは病気で苦しんだ際に洗礼を臨んだこともありましたが、洗礼を受けてから犯した罪は思い罰を受けるという当時の教会の伝承が信じられていたので、病気が回復すると、洗礼を受けませんでした。

(この考えは、いわゆる天国泥棒と言われるものに似てます。生きている間に悪いことをやるだけやって、死が迫ると洗礼を受けると言う生き方です。様々な誘惑の多い中、洗礼はなるべく早く受けて、犯した罪は赦しの秘跡によって、神のゆるしを頂くほうが良いと思います)

当時のアフリカには様々な宗教や思想がありましたが、アウグスチヌスはマニ教(リンク先はWikipedia)に惹かれました。マニ教の教義はユダヤ教、ゾロアスター教、キリスト教、グノーシス主義、さらに仏教、道教からも影響を受けています。

グノーシス主義(リンク先はWikipedia)というと、ダ・ヴィンチコードとともに話題になった外典福音書の一つであるユダの福音書などの基になった考え方です。wikipediaによると

グノーシス主義者のほとんどは、肉体の楽しみは邪悪なものだという考えに立って、禁欲と苦しい修行とを実践した。しかし少数の者たちは、肉体が邪悪なものなら汚さなければならないと主張して、(男色など)自由奔放な行動に出た。

とされています。グノーシス主義に影響を受けたマニ教も戒律に「日常生活に執着してはならない」とあり、道徳的な宗教ではなかったようです。

キリスト教への目覚め

マニ教徒だったアウグスチヌスは、快楽に目覚めてしまいます。愛人を作り、子供まで作ってしまいます。しかも、身分の違いから母親に反対され、のちに別れてしまいます。

理論派だったアウグスチヌスは、さわやかな雄弁をもってマニ教の伝道に努めていましたが、徐々に変化していきます。まずは、その理論に納得がいかなかったこと。そして、仲間だった友人が、病気の際に親が受けさせてくれたキリスト教の洗礼を喜んだこと。そしてダビドの詩編を語ったアンブロシウスの説教です。

このように徹底的に神様の前に平伏して罪のゆるしを願い求めたダビドにこそ、私たちは学ばなければならないでしょう。イエスが愛されたのは、私には罪を犯したことがない言って胸を張っているファリザイ人ではなく、罪人であるこの私をあわれんでくださいと泣き伏した女性や、税吏や、恵まれない人だったことを思い出してください。聖ペトロもそうでした。キリストが一ばん彼を愛されたのは、----主よ、私はあなたとともにどこまでも参ります、死でも牢獄でもと、張り切った勇敢なペトロではなく、----私はイエスなんか知りませんと、主を裏切った罪深いペトロだったのです。。。。

あなたがたは、聖書の外観につまづいてはなりません。聖パウロが言っているように『儀文は殺し、霊は生かす』のです。平凡なように見える聖書の文体の奥に込められた神の霊なる真理を発見しなければなりません。

この言葉は、アウグスチヌスの心を解きほぐし、明るい光を投げかけました。聖書に対する偏見と誤解が解けたのです。

運命的な回心

しかし、キリスト教の教えに目覚めたアウグスチヌスでしたが、回心にはいたりませんでした。アウグスチヌスはこう言っています。

正直なところ、私は女性を抱くことがゆるされなくなったとするなら、こんなみじめなことはないと考えていたのです

正しいとわかっているけれどもやめられない、そんな誰しもが抱く苦悩がアウグスチヌスにはありました。アウグスチヌスはこう告白しています。

神さまに「わが身の純潔を祈りながらも、心の底では、『純潔と節制をお与えください、けれども今すぐにでなく』」と反対のことを望む気持ちがありました。

かくして苦しみは増大し、肉の欲と真理との間で苦しみます。そして泣きながら

主よ、私はいつまでこんな苦しい状態にいなければならないのでしょうか?私をゆるし救ってくださるのは、いつですか?

と叫びました。すると、『とりて、読め!』『とりて、読め!』と子供たちの声が聞こえました。この声を神のみ声として従う覚悟で、近くになった聖書(聖パウロの手紙)を開きました。

夜は更けて、日は近づいた。だから闇に行われる業を捨てて、光のよろいをつけよう。昼のように、つつしんで行動しよう。酒盛、酔い、淫乱、好色、あらそい、妬みを捨てて、主イエス・キリストを着よ。よこしまな肉の欲を満たすために心を傾けることを止めよ(ローマ13・12)

そして、アウグスチヌスの心は光に包まれ、言いようのない平安に満たさました。まさに「求めよ、そうすれば与えられるだろう」(ルカ11・9)そのものの回心でした。

人は苦しみの中で、何とか自分の力で解決しようともがいてしまいがちです。しかし、真理の前で弱さを認め、憐れみを求めたとき、人は安らぎを得て、より強く生きていけるようになる。アウグスチヌスの回心は、そんな神との接し方を示しています。

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2006/10/09

落ちそうなサンダルと蜘蛛の糸

カトリック吹田教会の聖堂内右側には絶えざる御助けの聖母がありました。このイコンに描かれたイエスさまのサンダルは紐一本で繋がれて、今にも落ちかけています。

レデンプトール会の説明によると、この落ちそうなサンダルは、

かろうじてイエスの足にぶら下がっているサンダルは、私たちの魂の象徴です。これはたった一本の紐でもよいから、キリストにつながれていれば必ず救われるということを表しています。

と説明されています。これを読んで、なんとなく芥川龍之介の「蜘蛛の糸」(リンク先は青空文庫)を思い出しました。

「蜘蛛の糸」はお釈迦さまが、地獄に落ちた泥棒を救おうとされるお話です。極悪な泥棒でしたが、一度だけ蜘蛛の命を助けた事がありました。このことを思い出されたお釈迦様が蜘蛛の糸で泥棒を助けてやろうとします。蜘蛛の糸でこの泥棒が逃げ出そうとすると、下から他の悪人たちが同じように上ってきます。泥棒は、これに気づいて、この糸は俺のものだから他の罪人は降りるように叫ぶと、糸がぷつりと切れました。

善い行いをした人であっても、自分だけが救われれば良いという業(ごう)にとらわれた考えを持っていると救われない。人としてどうあるべきかを考えさせる作品です。

その目指すところはキリスト教とよく似ていますね。しかし、よく読むとキリスト教では考えにくいところがあります。一つは信仰義認(リンク先はWikipedia)でないこと。もちろん、善い行いは重要ですが、そこには信仰が必要です。罪を痛悔し、心を改めて、神を信じて、祈ることが必要です。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(ルカ18・17)のです。

また、一生の中の思ったことがあるのではなく、最期の瞬間に良い心でなければいけません。罪を重ねるのではなく、日々の罪をゆるしていただきながら、その時を待つのです。「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マルコ13・33) と言われています。

最後に、蜘蛛の糸は切れましたが、人と神さまとのつながりは切れません。人が切ったと思っていても、実は抱きかかえられている。そんな「足跡」(リンク先はMAGIS)のような優しさをキリスト教に感じています。

とはいうものの、遠藤周作の「深い河」にあるように、他の宗教の中にも神の姿を見ることもあります。ただ、私を、やさしく、強く、いつであろうと抱きしめて下さるのは、イエス・キリストだと思っています。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/10/06

キリストのめぐみ(続き)

人との出会い

めぐり合い

分かち合い

心の平安

安らぎ

人を思う心

真理

永遠の命

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キリストの恵み

苦しい自分よりも、さらに低く苦しい姿を示してくださる恵み

苦しみを共に分かってくださる恵み

人類の歴史の中で、愛を示してくださった恵み

苦しみの意味を考えることで、苦しみを恵みに変えてくださる恵み

どうしようもない苦しみのとき、抱きかかえてくださる恵み

良き姿を示してくださる恵み

自分の弱さを教えてくださる恵み

わがままな私を反省させてくださる恵み

罪深い私をゆるしてくださる恵み

命を与えてくださった恵み

そして、なによりも生きる勇気を与えてくださる恵み

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2006/10/01

信者でなくても与えられるミサの恵み

洗礼を受けていなくても、教会のミサに出る(ミサを捧げるとか、ミサに与<あずか>ると言います)ことができます。はじめての場合は、日曜日のミサが良いでしょう(「ミサに行こう!」もお読みください)。日曜日のミサだと、聖書の朗読箇所を印刷した「聖書と典礼」という薄い冊子がもらえます。ミサの全貌を知るには式次第を借りたほうが良いですが、雰囲気を知るだけなら「聖書と典礼」と聖歌集(赤い本、黒い本、バインダー、楽譜と教会によって異なります) で良いでしょう。

ミサ(詳しくは「ミサ聖祭」をご覧ください)の中では、罪を告白し、聖歌をうたい、聖書朗読と神父様のお説教を聴きます。そのあと、奉納(献金)があり、いよいよ聖変化です。鐘が鳴らされ、パンが聖体(キリストのからだ)に、ぶどう酒が御血(キリストの血)に変わったことが、知らされます。この鐘は、昔ラテン語でミサが行われていたころの名残です。分からない言葉だと、ミサのどこをやっているかわからないので、もっとも大事なタイミングで「いま聖変化の瞬間ですよ」と鐘で告げられるのです。この鐘のおかげで、外国人でも安心してミサに与ることができます。

このあと、中央に列になって、信者は御聖体を(両形態の場合は御血も)いただきます。カトリックの洗礼を受けていない(かつ、プロテスタントから受け入れられたのでない)方は、御聖体を拝領するかわりに、神父様から祝福を受けることができます。

祝福を受ける際は、聖体拝領する方と共に中央の列に並びます。神父様の前に出たとき、手を合わせて軽く頭を下げます。すると、神父様が手を頭にかざし、「父と子と聖霊の祝福がありますように」あるいは「キリストの祝福」などのように言ってくださいます(もっと長い言葉のところもありますが失念しました)。

この祝福は神父様が行われる準秘跡です。キリストの愛弟子である十二使徒から2000年間続いたキリストの弟子である神父様によって、それぞれの方のために行われます。その行為は神父様がされているのですが、聖霊のはたらきを感じるほどにキリストの存在を感じるときもあります。ぜひ、ミサに与られたら、祝福を受けてください。

さて、ときどき洗礼を受けていないと聖体拝領できないことをご存知でなく、見よう見まねで拝領してしまう方があります。間違った後で神父様に相談された方の話によると、「恵みだと思いなさい」と言われたそうです。

入門講座でうかがった神父様のお話だと、間違って聖体拝領した人は必ず戻ってくる、つま