2010/08/21

トイレの神様からミサの構成を考える

今日、いつもの病院の待合室で、植村花菜さんが「トイレの神様」を歌われるのを見ていて、ふと気付きました。順番は違うもののトイレの神様とミサの構成は似ています。まずはトイレの神様はこのような構成になっています。

  • おばあちゃんと住んでいたことの想起
  • おばあちゃんの言葉を思い出す「トイレをピカピカにしたら、女神がべっぴんさんにしてくれる」
  • 買い物のこと、責めたこと、ぶつかったこと、一人暮らししたこと
  • 人を傷つけ、大切なものをなくしたことの反省
  • おばあちゃんの病気、おばあちゃんを求める気持ち
  • 亡くなったおばあちゃんの気持ちを考える
  • ちゃんと育ててくれた、恩返ししていない、良い孫じゃなかったのに待ってくれた
  • 感謝、反省、真実への目覚め
  • そしておばあちゃんの言葉を信じてべっぴんさんになれるという希望
  • おばあちゃんのことばを守る気持ちと実践
  • 最後に感謝

これらを見ると、昔のできごとの想起から、感謝、反省、真実への目覚め、希望につながっています。そして最後に感謝で締めくくっています。

一方、ミサの構成は以下のようになっています。

ミサはすでに真理を知っている信者の集まりですので始めに反省をしていますが、大まかな流れは同じです。だからどちらも大切な人を思って感謝することで、感動して未来への希望を持つことができるのですね。

もし、ミサに与(あずか)られたことがないなら、ぜひ近くのカトリック教会行ってみて下さい信仰がなくてもかまいません。きっと恵みがあるはずです。

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2010/02/23

復活体験

今日は英神父を迎えての黙想会でした。明快な説明で、言葉がどんどん入り込んでいくようなお話でした。心に残ったキーワードを挙げると

悪霊は娘の姿
悪霊や悪魔と言うと怖いイメージがありますが、ある映画では優しい娘の姿で描かれていたそうです。人がついつい心を許し、安易な方向へ流れてしまう。そんな弱さに悪霊は入り込むのでしょう。


「義」という文字は「羊」と「我」からできていて、「我」はノコギリの意味があるそうで、全体でいけにえの意味があるそうです。正義とは犠牲になることだったのですね。

垂れ幕
イエス・キリストがなくなったとき、エルサレムの神殿の垂れ幕が真ん中から裂けましたが、それは神の領域と人間の領域の境界がなくなったことを示しているそうです。

エルサレムの神殿には定められたラビのみ、しかも年に1回しか入れない神の領域があるそうです。もしもの時も助けられないので、足に鈴を付け鈴が鳴らなくなったら体に結ばれたロープをひっぱってもらうというルールがあるほど、神聖な領域だそうです。しかし、その領域をさえぎっている垂れ幕が、イエスの死によって裂けたのです。

復活体験
キリストの死は、他の宗教でも認められている歴史上の事実です。キリスト教が他の宗教と異なるのは、復活を信じている点です。復活を事実だと示すことはできませんが、復活の前後で弱かった弟子たちがイエスの証人となる信じる弟子に変化していることがわかります。

この復活体験は私たち一人一人にもあります。イエスの復活によって、死、罪、孤独は滅ぼされ、代わりに命、恵み、神の同伴(仏教で言う同行二人)が与えられます。

この復活体験、私は洗礼を受ける前に感じました。苦しみが去り、安らぎが訪れ、勇気が与えられました。今も忘れられません

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2009/12/20

準備の時を大切に!

洗礼を受ける前、早く洗礼をしてくれないものかともどかしい思いをしていました。私は短いほうなので半年ほどですが、本来ならば1年と言われている洗礼への準備期間、首を長くされている方も多いのではないでしょうか?

今年の待降節に入ったころ、ふと思い出しました。洗礼を受ける前は、カトリックの典礼暦(リンク先はWikipedia)が待降節から始まることも不思議に思っていたことを。神様の生まれたクリスマスからなら毎年同じ日だし、わかりやすいはずなんです。でも、キリストが生まれる前から始まっているのですよね。

そして、気付いたのはカトリック(というか多くのキリスト教)は、準備の時を大切にしていることです。四旬節も復活祭(イースター)の準備ですし、キリスト自身も40日間荒れ野で準備されている。洗礼者ヨハネもそうでしたね。

良く考えてみると、旧約聖書の期間も準備期間ですし、聖書的には地球ができたとき、ユダヤ教と考えると紀元前2000年頃から準備されているのですね。

そんな風に思い巡らしていると、私たちの人生も準備なのではないかと思えてきました。いつか訪れる再臨のとき、神様と会えるときのために準備しているのですよね。

いつも目を覚ましていなさい」(ルカ21・34-36、リンク先は日本聖書協会)

準備のときである今を大切に生きることが、神様の教えなんですね。

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2009/06/14

「子どもの祈り」と「十戒」

桂教会では、ミサや集会祭儀の時に「子どもの祈り」を唱えます。

とても長いお祈りです。どうしてこんなに長いのかと思っていたのですが、プリントをいただいて、モーセの十戒(リンク先はWikipedia)が中に含まれていることに気付きました。以前、MAGISさんが書かれていたようにカトリックでは置き換えられることの多い、第二戒の偶像崇拝もわかりやすい祈りになっています。子供たちにとってとても良いお祈りだと思いました。

   + 子どもの祈り +

イエス様、ごミサにあずかれたことを 感謝します。

世界の全ての人が 平和になるようにしてください。
病気の人、つらい気持ちでいる人を 助けてください。
私たちの家の人、ご近所の人、学校の皆に、お恵みをお与えください。
私たちが、神様のよい子になれるよう、導いてください。

私たちは、神様だけを 神様として 敬います。
私たちは、いつも神様に向かって お祈りします。
私たちは、神様のお名前を 大切にします。
私たちは、日曜日を 神様の日として お祈りと 人に親切にする日とします。
私たちは、お父さん お母さん おじいさん おばあさんを 大切にします。
私たちは、人を傷つけたり 人のいやがることをしません。
私たちは、からだを 神様の神殿として 大切にします。
私たちは、人の物を とったり こわしたりしません。
私たちは、うそをつきません。
私たちは、むやみに 物をほしがりません。

マリア様、今週も私たちが、あなたのように、美しい心で、よい子でいることができるよう、見ていてください。アーメン。

   +   +   +

いかがでしょうか?

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2009/03/28

「貧者の一灯」と「やもめの献金」

仏教の説法に「長者の万灯より貧者の一灯(リンク先は日本辞典)」というものがあります。お釈迦さんが来られるからと金持ちは1万もの灯篭をともし、貧乏な老婆はなけなしの(物乞いしたとか、髪の毛を売ったという説もあります)お金で一つの灯篭をともしました。すると金持ちの明かりは明け方には燃え尽きていたのに、老婆の明かりはさらに輝きを増していたというお話で、わずかでも真心のこもったものが尊いというお話です。

このお話は、以前ここの勉強会の記録にも書いた「やもめの献金(リンク先は日本聖書協会、本文が読めます)」と似ています。こちらは、貧しいやもめ(未亡人)が献金する様子を見たイエス・キリストが、

「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12・43-44)

と言われるお話です。これは、福音のヒントにあるように生活のすべてを差し出したことを、神はわかられているのです。

このような目で貧者の一灯を読むと、キリスト教との違いに気づきます。貧者の一灯では、なぜ明け方でも灯りが灯っていたのかが書かれていません。聖書の中の話なら「カナでの婚礼」(ヨハネ2・1-12)のように、神さまの力によって奇跡がおきますが、貧者の一灯では書かれていません。たぶん、世の中の道理としてその事実を悟るのでしょうね。

これに対して「やもめの献金」では、全知全能の神が介在します。誰もわかってくれないほんの少しのお金ですが、「生活費を全部入れた」と神はわかってくださるのです。それは、どんな人間であっても、その存在を喜び、受け入れ、愛してくださる神です。

この二つの話は、ともに量ではなく、心だという点で一致しています。しかし、そのことを知るだけでなく、神に思いをめぐらして幸せに満たされるという点がキリスト教らしいと思います。

もちろん、仏教にも慈悲という言葉はありますし、慈悲によるという解釈も可能でしょう。一度、「貧者の一灯」という言葉で検索してください。そこには、さまざまな解釈があります。本来の意味と異なる解釈は容易に見つけることができますが、慈悲に結びつく言葉は、なかなかありません。それは、根底にあるメッセージが異なるからだと思います。

全知全能の神は世界を造られ、完成に導かれている。すべては良いもので、私もあなたも良いものである。神はすべてを受け入れて愛してくださる。だから私たちも他の人を大切にして受け入れ、愛し合うことができる。そんなキリスト教の根底にあるメッセージを、私は「福音(Good news)」だと思います。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/03/21

急いで助けに来てください

復活祭(イースター)前の四旬節に、一度はするようにといわれている十字架の道行きは、元々はエルサレムでイエスの受難の道のりをたどるという信心でした。それがエルサレムの治安の悪化に伴って、エルサレム以外の土地でも行われるようになりました。

洗礼を受けた年から十字架の道行きの信心をしていましたが、感じ方は毎年違うものですね。以前は「信仰の弱い私を助けてください。」という言葉が響いていました。信仰の入り口で、戸惑っていたのかもしれません。

今年は、最初の言葉が響きました。

「神よ、わたしを力づけ、」
「急いで助けに来てください。」

いつもそばにいてくださる神というのは理解しているつもりです。しかし、言いようのない気持ちで心がいっぱいになったとき、心が神様から離れています。この言葉は、神を擬人的に、素直な心の叫びを表現しています。

全知全能の神ですから、そんな私の気持ちなんてお見通しです。でも、気持ちを素直に表現すると、心の中につかえていたものが消えたような気がしました。

わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(マタイ11・29)

まだまだ学ぶことがあるようです。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/07/27

ニーチェに現代人の苦悩を見る - 「キリスト教は邪教です!」の感想 -

ニーチェ(リンク先はWikipedia)の「アンチクリスト」の現代語訳「キリスト教は邪教です!」を読みました。ニーチェと聞くと凄く難しいような気がしますが、この本は訳が読みやすくエッセイのように読むことができます。刺激的なタイトルと文体に興味を持って買ってしまいました。

この本を読む際には、時代背景を考慮すると良いと思います。フランス革命から100年がたち、フランスでは厳格な政教分離が確立していました。一方、ニーチェの生まれたプロイセン王国の国家宗教はキリスト教(ルター派)でした。このため、周辺国との戦争やカトリック教会への抑圧政策が行われていました。

当時はエキュメリズム(リンク先はWikipedia)といった考えもなく、宗教・教派間で対立していた時代です。また、非ユークリッド幾何学(リンク先はWikipedia)がようやく生まれた時代でした。

そんな時代のニーチェは、宗教、特にキリスト教に頼らずに生きていくことを勧めています。いわく、同情の宗教であり生き残れないはずの低レベルの人間を世の中にあふれさす。イエスの教えをゆがめ、うそで塗り固めた。敵に屈服する方が一番良い選択だと考えるようになったときに生まれた宗教。平等主義は悪魔の思想。科学と対立するので戦争を起こす。などなど、言いたい放題です(書ききれません)。

これらの思想は、ニーチェの「権力への意志」や実存主義につながる利己主義の肯定、向上心といった言葉で表せると思います。しかし、「坊主憎けりゃ袈裟までも」的な語り口は、それ以上の憎しみを感じさせます。

子供のころに牧師であった父を失った悲しみなのか、教会への失望なのか、持論へのこだわりなのか、尋常ではない必死さすら感じました。

実は、この作品を描いたあと、ニーチェはほどなく発狂します。その原因は、梅毒、脳腫瘍、狂気の哲学によってもたらされた精神的失調など、諸説あるようですが、私はその書きっぷりにニーチェの苦悩を感じてしまいました。

ニーチェは科学は正しいと思っているようです。しかし、答えは一つではありません。人はついつい科学的に証明されたものが正しく、唯一の答えだと思いがちですが、そんなことはありません。統計処理で判定したなら、一定の危険率(はずれの確立)を含みますし、ユークリッド幾何学は一つの答えですが、非ユークリッド幾何学という別の答えも存在します。ニーチェの「権力への意志」が答えだとしても真理ということはなく、唯一の答えではないと思うのです。

この本の巻頭の「訳者から」には、多くの戦争に関わった米国のことが、この本によって腑に落ちるだろうとされています。確かにそんな面もあるかと思いますが、原理主義的な宗教はキリスト教に限らず、危険なものではないでしょうか。

キリスト教には色々な教派、グループがあり、無教会主義などというものまで存在します。教会も持たない人たちまでが、戦争を求めると言うのでしょうか。カトリックや他の教派にも宗教的包括主義をとるものがあるのに、訳者の言葉もニーチェと同じく一面的だと思いました。

ニーチェの思想が社会を変えたことは間違いないと思います。間接・直接的にキリスト教と政治の癒着が少なくなり、個人の自由が尊重されるようになったのでしょう。実存主義の先駆者として、その後の哲学に大きな影響を与え、カトリックのエキュメニズムを宣言した第2バチカン公会議にも間接的に影響を与えたかもしれません。

しかし、ニーチェの考え方は厳しすぎます。(時代背景から必要だったのでしょうけど)神を否定し、聖書学によらないパウロ批判を行い、ルターまで否定しています。ニーチェの視点で向上心を持たないものをすべて敵視し否定する態度に、現代人の苦悩に通じるものを感じました。

現代社会は常に拡大成長が求められ、会社でも出世を目指すことが前提で仕組みが作られています。つねに頑張れ、頑張れ、負け犬になるな、そんな厳しさをこの本に感じました。人間は誰もが失敗を犯します。失敗したときは負けを認め、心の平安を求めたいというのが人間のありのままの姿ではないでしょうか?

人生の価値は一つではありません。人生には様々な答えがあり、それらのバランスを取って生きていくことが大事なのだと思いました。

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2008/07/18

アジアの諸宗教との対話 - 社会に福音を -

日本のような宣教国においては、どのように他の宗教と関わりを持つかは重要です。カトリックでは、第2バチカン公会議(リンク先はWikipedia)以降、東方教会、プロテスタントをはじめ、他の宗教とも対話を進めています。

しかし、他の宗教を認めて対話するということは、キリスト教もいくつかある一つの宗教のようにも考えることが可能で、信仰の躓きになってしまう危険性があります。他の宗教をどのようにとらえ、どのように対話するかは重要です。

第2バチカン会議を受けて行われたシノドス(世界代表司教会議)のあと、日本において開かれた福音宣教推進全国会議(NICE)の資料として発行された「社会に福音を」(カトリック中央協議会)の中にそのヒントを見つけました。これは現代アジアにおける福音宣教というシノドス文書です。その中の「アジアの諸宗教との対話」から一部(p.92)を引用すると、

この対話において、私たちは神の救いのご計画の営みの内にある意義深い、はっきりした要素として宗教的伝統を受け入れ、その中にある深い精神的倫理的意義と価値観を認識し、尊ぶものである。それは何世紀にもわたって、先祖の宗教体験の、そして現在でも、彼らの心の崇高な望みの真の表現であり、観想と祈りの憩いの場でもある。そして、それぞれの国の文化と歴史を形作る助けとなってきた。

それなら、どうして、それら諸宗教に対し、敬意を払わないでいることができようか。神がそれらの宗教をとおして、人々をご自身へと導かれようとしたのだということを認めないでおられようか。

つまり他の宗教は私たちの信じる神のご計画のうちであり、他の宗教との対話は神を探究する共同作業であるということのようです。

私は、勝手に他の宗教の神仏は天使だと考えていましたが、当たらずとも遠からじといったところでしょうか。

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2008/06/16

教会の刷新

教会関係の集まりで「福音宣教推進全国会議」(NICE)を知りました。第1回からちょうど20周年(リンク先はカトリック中央協議会)になるこの会議は、第2バチカン公会議(リンク先はWikipedia)を受けて第1回は「開かれた教 会づくり」、第2回は「家庭」をテーマにして行われました。

この会議で検索すると興味深いページが見つかりました。祐川神父教会の刷新を目指してというページです。ここには小教区の活動で感じる様々なことが明確に書かれています。

また、このページで紹介されている「意識の転換について」というページは、第2バチカン公会議後の信徒にとって大事なことが書かれていると思いました。

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2007/03/24

正典と外典

このブログでも外典福音書のテレビ番組を紹介しましたし、ダ・ヴィンチ・コードもナグ・ハマディ文書を用いて話を展開しています。これらが外典であるのは間違いないところですが、旧約聖書の続編も外典と呼ばれることがあります。

日本聖書協会の「SOWER No.29」の特集は「『ユダの福音書』は聖書なのか? 正典のなりたちと外典・偽典」です。この中で正典と外典が説明されていました。

この記事によると、「外典」とは「正典」に含まれないと言う意味です。しかし、外典と呼ばれるものは、旧約聖書と新約聖書で性格が大きく異なります。

旧約聖書
ユダヤ教の正典は90年頃のヤムニア会議で今の旧約聖書三十九書と定められました。これには続編が含まれておらず、旧約外典というと続編のことをさします。旧約聖書続編十三書は、七十人訳という古代ギリシャ語の旧約聖書に含まれていた文書です(Good News Collectionによるとバビロンの捕囚以降に地中海周辺に移り住んだユダヤ人のために作られたようです)。

キリスト教では、教派において続編の扱いが異なります。新約聖書に引用されている旧約聖書の聖句が七十人訳聖書のものだったこと、ヘブライ語からの翻訳過程にも霊感が働いていたと語り継がれていたことから、続編も正典性を認める傾向があったそうです。

宗教改革後、この続編の扱いが教派によって異なるようになります。Wikipediaによれば、

マルティン・ルターがヘブライ語本文から聖書を訳した際に、ヤムニア会議の定めたテキストと、カトリックが使っていたラテン語聖書との異同に気付いた。ルターはこれを外典と位置付けた。

とされています。プロテスタントでは「正典と同等ではないが、読めば有益な書」「読むことは推奨されるが、教義の基礎としてはならない書」とされ、続編は「旧約外典」とされています。

一方、カトリックでは、16世紀の宗教改革以降に続編中の十書を「第2正典」とし、東方正教会もその一部を正典としています。なお、聖公会はプロテスタントに分類されますが、続編十三書すべてを礼拝で用います。

このほかにも七十人訳に含まれなかった「エノク書」「ヨベル書」「アダムとエバの生涯」などの古代ユダヤ文献があります。これらは、「旧約偽書」と呼ぶそうです。

新約聖書
新約聖書は2世紀中盤のマルキオンという人が新約関係の文書をまとめた「マルキオン聖書」(後に異端とされる)から、新約正典制定に向かうようになったようです。その後、「ムラトリ正典目録」やオリゲネスによる一覧などが正典の原型になり、4世紀後半のアタナシオスによる「第三九復活祭書簡」以降に新約二十七書が正典と認められるようになりました。

「ユダの福音書」「トマスによる福音書」「フィリポの福音書」「マリアの福音書」などは新約外典に分類されます。この外典という言葉は「隠されたもの(ギリシャ語のアポクリファ)」にあてはめられた訳語です。旧約外典の外典もアポクリファの訳語です。しかし、旧約外典が正典視されてきたのに対し、新約外典は排除された文書です。

後に異端とされる集団において、このアポクリファという言葉は「資格のある者だけに読むことが許された秘義の書」という意味で用いられたようです。それが後にキリスト教の「正統」が確立していく過程で、「異端の書」「偽書」という否定的な意味に転化したそうです。

これらの新約外典はグノーシス主義の書物です。グノーシスとは「認識」を意味するギリシャ語です。SOWER No.29 p.6には、以下のように書かれています。

天上での救いに至る奥義を「知る」ということで、その奥義を天の至高神のもとから地上にもたらしたのがキリストであるとされます。その際、天地創造の神は下級の神とされ、その神によって造られた人間は肉体に閉じ込められていますが、至高神の痕跡を持っているがゆえに至高神の使いがもたらす「認識」によって救われるとされます。

つまり、唯一の神を否定し、肉体を悪としています。グノーシス主義と関係するものとしてはアウグスチヌスの時代にはマニ教が普及していました。肉体を悪とするために、厳格な教えに結びつく反面、肉体が悪なら汚さないといけないとして享楽的な行動に結びついていたようです。

このほかにも、1世紀末から2世紀中葉に成立されたという「クレメンスの手紙」「イグナティウスの手紙」「ディダケー」などの「使徒教父公文書」があります。これらは、正典の外にはありますが、異端書ではなく排除されていません。Wikipediaによれば、

内容に問題はなく使徒の著作でないことのみが問題とされた使徒の弟子(「使徒教父」とよばれる。)による文書

だそうです。

SOWERは日本聖書協会のWebページでPDFが公開されています。今回、引用させていただいたNo.29もいずれ公開されると思いますので、ぜひお読みください。

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