2011/05/07

震災に思う - 生きるためのひとこと -

関西からははるかに離れた東日本での地震、津波、放射能ですが、同僚の住まいや神戸のお客さんのビルがこわれ、知り合いのお母さまが半年後に亡くなるなどという経験をし、そして今回は、息子が液状化地域に住んで東京に務めている私にとって、衝撃的な映像や技術信仰の崩壊は、心を雑巾のように絞られたような気持の日々でした。

亡くなられた方のご冥福をお祈りすると共に、非難されている皆さんのご健康をお祈りいたしいます。

さて、今回の色々な出来事の中で、神様はなぜこんなむごいことをされるのだろうと思われた方も多いと思います。教皇の言葉にあるように神様の真意は我々にはわかりません。ただ、神様は私たちと共にきっと悲しまれていると思えるだけです。

色々なニュースを見る中で、ある一冊の本を思い出しました。それは晴佐久神父の「生きるためのひとこと」という本にある「ありえない」という節です。ポンペイの遺跡の山側に広がった市街地を見て語られたあとにこう書かれています。

いうまでもなく、人間の「ありえない」ほど、あてにならないものはない。よく天災で大勢の人が命を落としたりすると「神はなぜこんな残酷なことをなさるのか」などと言う人がいる。しかし、現場の事情を正確に知れば、それらはすべて人災であることがよくわかる。「そんな雨が一度に降るなんて、ありえない」「そんな大きな津波がここにくるななて、ありえない」。人びとは傲慢にもそう思い込んで用意せず、過去の経験に学ぼうとしない。むしろ神は、そんな災害から守るためにこそ、人間に愛と知恵を授けたのではなかったか。

今回の甚大な被害を無駄にせず、未来を切り開くのは私たち自身なのだと思います。現実を受け入れて、何ができるのか、何をなさないといけないのか、思いを巡らしたいと思います。

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2010/11/19

みことばフォトブック

自然の中に偉大な神の姿を感じることはないでしょうか?

日本聖書協会のみことばフォトブックは、そのような社員とみことばが一冊になっています。

特に何も考えずに、私は38ページを最初に見ました。そこには、畏れを感じるような景色と共に神の言葉がありました。

神よ、天の上に高くいまし
栄光を全地に輝かせてください。
(詩編 57編 6節)   

震えるような感動を覚えました。

(聖書の引用は、日本聖書協会 新共同訳)

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2010/10/11

遠藤周作さんの魅力

私が洗礼を受けるきっかけは遠藤周作さんの作品でした。最初の出会いは、学生の頃にTVのCMで狐狸庵先生と紹介されていた頃です。「ぐうたら」という言葉が多用される多くのエッセイを読んでいました。

時は流れ、父が亡くなり仏式で葬儀を終えて、妻が言いました「仏教だと気持ちが入らない」と。死んでしまった後のことですから私は何でも良かったのですが、当時、妻がカトリック教会に通いだしていたので、ちょっと興味がわきました。

インターネットでちょっと検索して、遠藤周作さんの入門書、解説書があることを知りました。読んでみると、これまでのイメージが変わりました。カトリックというと

  • ハイソサエティ
  • 敬虔な
  • 凛とした

というイメージがあるのですが、なんとなく、深く考えず、洗礼を受け、ゆるしの秘跡(いわゆる懺悔:ざんげ)でも「あの喧嘩のことは覚えざる罪な」とか、なんか適当というか、まざにぐうたらな感じがあります。

なんじゃそりゃと思いながらも、わかった気がしないので「イエスの生涯」や「キリストの誕生」を読み進めて、ついに神様を感じてしまいました。

人間というのは大したもんじゃないのですね。自分勝手で、何も分かっていないし、悪いことばかりしているし、十二使徒と言われる聖人たちも、神様を感じるまでは最初は大した信仰を持っていなかったのです。

それに対比して、イエスははじめからキリスト(救世主)だった。最初から最期まで完全だった。その行いに勝る人間は誰一人いなかった。

そこで気付いたのです。自分ではしっかりやっているつもりでも、大してできていなかった。間違いを犯していた。でも、そんな私でも、最初から神は愛してくださった。

そのことにようやく気付いたのです。それは遠藤さんの信仰のありかたでした。誰がなんと言おうと譲れない信仰です。カトリックにしろ、プロテスタントにしろ、戦争のときはごまかしていたし、誰だって他人に言えないことがある。そのつもりがなくても、人を傷つけてしまうことがある。でも、神様はそばにいる。愛してくださる。

その信仰は、私を救いました。ついつい自分を守ろうとする自分の傲慢さに気付かされました。神と比べれば、私は何もできていなかった。とわかったのです。

人は色々な間違いをするが、どんなことも神様はゆるしてくださる、共に悲しんでくださる。それは、遠藤作品の主なメッセージです。それは遠藤さんの人生にもあった大きな過ち、人を傷つけずに生きられない人間の性、そのことを神を通して知ることによってのみ感じられる救い。カトリックとか、プロテスタントとかではなく、神との直接の関係がそこにあるのです。

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2010/07/11

キリスト教とは何か。 - pen別冊 -

ここのところ何かと忙しかったので、今日は家でゆっくりしています。

さて、昨日書店でコンピュータ雑誌を見ていると、横の棚に「キリスト教とは何か。」という大きな雑誌がありました。

中にはキリスト教の芸術品がたくさん載っています。

かつての主任司祭の入門講座で絵画を用いられていましたが、それを思い出します。マリアを崇拝するなどという表現もありますが(正しくは崇敬)、一般にどう見られているかを知るとか、あるいは気にせずに絵だけを楽しむと言うのもありだと思います。

ミサ与れなくても、こういう本があると癒されますね。

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2010/05/26

ルシファーの話 - 聖☆おにいさん5巻 -

今回も楽しく聖☆おにいさん5巻を読みましたが、ルシファーの話は知りませんでした。

調べてみると、これはいくつかの説を組み合わせたもののようです。

- 大天使ミカエルとルシファーは双子
- ルシファーは元大天使長でサタンと同じ
- 大天使ミカエルは堕天使サマエルと争った
- 堕天使サマエルはサタンと同じ
- 大天使ミカエルは赤い竜と争った(黙示録)
- 赤い竜はサタン

これらをあわせると、

- ルシファはミカエルと双子で、争った

となるようです。

ちなみに、

- ルシファーは明けの明星の意味

だそうで、聖書のペトロの手紙二1章19節では、

- 明けの明星がイエス・キリストをさす

という解釈をするそうです。

そうすると、

- ミカエルとイエスが双子で、、、、

などと言うことはありません。たぶん。

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2010/02/28

当たり前のことを当たり前に - 聖ヨセフ -

3月19日は聖ヨセフの祝日、3月は聖ヨセフの月です。私の霊名の成人でもあります。聖ヨセフは「沈黙の聖人」とも呼ばれているそうです。以前、もし私が母親だったらと娘に尋ねた際に「寡黙な母親はいやだ」と言われた私にとってふさわしい霊名ですね。当事、あまり知らなかったのに、よく選んだものです。

心のともしび機関紙3月のテーマは「聖ヨゼフ」。森田直樹神父の「聖ヨゼフの行き方に学ぶ」(リンク先の心のともしびで全文が読めます)という記事が載っていました。

「神の恵みは、特別な人や、特別な役割を背負った人たちにだけ与えられるのではなく、地道に自らの役割を黙々と果たし、当たり前のことを当たり前に行った、この聖人のような人たちにも、豊かに注がれていることを、聖ヨゼフの生涯は、現代の私たちに語りかけていると思う。

兎角、脚光を浴びる人たちだけが注目される現代社会であるが、人間としての生き様は、もっと地道なものであり、日常の何気ない生活の中に豊かに注がれている神の恵みとともに、当たり前のことを当たり前に果たす姿にあることを、この聖人は私たちに教えてくれている。」

当たり前のことをできているかと我が身を振り返ると、決してできていません。良かれと思ってすることが、人を傷つけたり、迷惑をかけていることもあります。何気ない一言や行動で、相手に不快感を与えていることもあるでしょう。

当たり前のこと。それは、とても難しいことのように思います。でも、そんな私であっても、心の中のあの方は見守ってくれているのです。恐れず、あせらず、ただ真摯に生きていくことが大切なのでしょうね。

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2010/02/10

なぜならすでに - 「あるものさがし」と「君の可能性」 -

キリスト教はご利益宗教ではない。どんなに祈って神様に聞き入れてもらっても、わがままな思いが実現することはない。

Good News Collectionにこんな記事があった。

「ないものねだり」より「あるものさがし」

人は生まれたときからすでに神様に愛されている。たくさんの恵みも与えられている。自分は不幸だと嘆くのは、与えられている幸せに気付かないだけなのかもしれない。

そんなことを思っていると、障がい者が働く喜びを得られるように支援をしているプロップステーションのメールマガジン「メール de ナミねぇ 【第85号】
に、ナミねぇと原口総務大臣の対談が載っていた。

当時小学生の大臣に、ある先生が『君の可能性』(斎藤喜博著)という本をくださり、魂が乾いていた大臣は「私の中にも無限の可能性があるんだ」と教えられたそうである。

「ある」と言うことに気付けば、幸せが得られるのである。

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2009/11/30

人は考えた通りの人生を送ります

心のともしび機関紙に載っていた植村高雄さんの言葉です。

人は考えた通りの人生を送ります。
暗いと思えば暗い人生を、
明るいと思えば明るい人生を歩みます。

先日、このことを感じる出来事がありました。私の苦手なお客さん、どうもうまくいきません。その方とうまくいっている方からアドバイスをもらって、思い浮かべたのは「タラントンのたとえ」でした。

この「タラントンのたとえ」(マタイ25・14-30、リンク先は日本聖書協会)の中で、

『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

という言葉、まさにそのときの私でした。何も怖がる必要は無いのに、勝手に怖がってトラブルを起こしていました。

自分の人生は、自分で決めるものです。神の与えた人生をまじめに歩みさえすれば、何も不安に思う必要は無いのでしょうね。人生を決めるのは自分のなのですから。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/08/20

「人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないから」

フョードル・ドストエフスキー著『悪霊』に
人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないから」(リンク先は日経ビジネスオンライン)
という言葉が出てくるそうです(海外文学をほとんど読まない人なので、この言葉も、聖書が引用されていることも知りませんでした)。

みなさんはどんなときに幸せを感じるでしょうか?

私は、仕事を終えて暑い中を帰ってきて、シャワーを頭から浴びたときですね。人によっては、朝日を浴びたときとか、安売りの商品を買えたときとか、仕事の後のビールとか、子供の笑顔とか、甘いものを食べたときとか、何気なく買ったお弁当がおいしかったとか、色々あるでしょうね。

幸せって、そんな風に多様なものだと思います。自分で勝手に幸せだと思えばそれでよいのですが、ついつい別のものを気にしてしまいます。これで良いのだろうかとか、人に認められたいとか、色々と考えて幸せが見えなくなってしまいます。

特に近年は、価値観が単純になったがために幸せが感じられなくなっていないでしょうか?お金とか、人並みの生活とか、勝ち組とか負け組みとか、それが本当に求めている幸せなのでしょうか?

シャワーの幸せを感じられない時期がありました。仕事が忙しくて睡眠不足だったので、夜のシャワーをあきらめてシャワーを朝に変えていたからです。別に朝でも「ほっ」とできればよいのでしょうけど、遅刻しないように急いで浴びるので、どうもいけません。やっぱり、ほかの事を忘れて浴びないといけないようです。

最近は時間がないなら、体を洗わずにシャワーを浴びます。家族からはカラスの行水などと言われますが、これだけは譲れません。なぜなら、それが私の幸せだからです。人には無意味な一瞬でも、その一瞬の幸せで元気になれるからです。

だれもが愛されて生まれてきました。だれもの命に意味があります。人生に幸せがないはずはありません。きっと小さな幸せがいっぱいあるはずです。みなさんも見失いかけていた幸せを見つけ出してください。

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2009/07/18

だって神様だもの

なぜ、イエス・キリストは神であるか?

神は全能であり、無から有を生み出すもの。愛を失い、律法に生きていた人間に、愛という概念を生んだのはイエス・キリストであり、だから神である。そんな風に考えたりしていたのですが、先日の子どものミサでやられました。「だってイエスさまは、かみさまだもの♪」。なるほど、何も考える必要はない、ただそれだけのことなのですね。

子どものミサで、フォーク風の歌が歌われることには色々な意見があるようですが、このストレートな表現に時々「はっ!」とさせられます。なので、「これはこれで良いかな」と思っています。

江島正子著「モンテッソーリの宗教教育」によれば、子どもが成長の中で特定の時期に特定のものに興味を持つ時期(これを敏感期という)があり、この敏感期に適した仕事を提供してやれば、子どもはその反復作業を通じて集中し、秩序正しい生活を送るとされています。そして、宗教の敏感期もあるとされていて、子どものミサは子供の宗教観育成に役立つものかもしれませんね。

この敏感期ですが、私は大人にもあると思っています。ある日突然に興味を持って、吸い込まれるようにその道を走ってしまうことってありますよね。そう思っているからこそ、色々な歌や、色々な説教に出会って、色々な感動をしたいと思います。

「だって神様だもの」という一言に感動してしまうのは、私が子供なだけなのかもしれませんけど、、、

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