2008/04/14

神さまの所為にした僕

心のともしびTV(番組の動画を見ることができます)の第20回「神の賜物の用い方」は、ここでも何度か紹介した「タラントンのたとえ」(マタイ25・14-30)でした。

これは、神さまからの賜物(能力)をタラントンと言うお金にたとえたお話です。ある人(神様)が僕(しもべ)にお金を預けます。人によって渡される金額は違うのですが、僕たちは頑張ってそれを増やしてほめられます。しかし、1タラントンだけ預けられた僕は、無くしては大変だと増やそうとせず、(天国から)追い出されてしまうというお話です。

この最後の能力を生かさなかった僕ですが、ちょっと理解に苦しむことを言っています。主(神さま)は怖い人だから無くしては大変だと思った、と言うのです。神さまを誤解してはいけないと言うお話かと思っていたのですが、心のともしびTVの井上神父によれば、これは「投影」で、自分の責任を神さまになすりつけているのだそうです。

Wikipediaによれば、投影は「欲求不満などによって適応が出来ない状態に陥った時に、不安が動機となって行われる自我の再適応のメカニズム」である防衛機制の一つで、「自己が抱いている他人に対しての不都合な感情を、相手が自分に対して抱いていると思うこと。」だそうです。自分の抱く不安感を神さまに当てはめ、だってあなたもなくしたら困ると思っていたでしょう、と責任逃れをしているのです。

考えてみると、人間が殺しあっているだけなのに「神さまはどうして平和を与えられないのか」とか、勉強しなかっただけなのに「不公平だ」などと考えてしまいがちです。

望みがかなわなくても「気が楽で良いや」と前向きに、どんなに苦しいことも恵みと考えて明るく生きてたいと思います。だって、そう信じることができれば「だいじょうぶ」なのですから、、

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2007/11/30

愛だけが憎しみを消す - 3年B組金八先生 -

今シーズンは昔のヒューマン路線に戻った金八先生、たまたま見ていると今回は差別のお話でした。会ったことのない黒人の父をもつ生徒が差別を受けます。そんなとき、英語の授業で、母親が子守歌代わりに聞かせてくれたキング牧師の"I have a dream"(リンク先はキング牧師の部屋)を聞きます。この演説は差別のない社会を訴えるもので、金八先生の授業によって差別を受けた生徒は自信を取り戻します。

そんなに素直な子供ばかりじゃないだろうとか、色々な意見もあるかと思いますが、差別を受けた子供が、父親に対する気持ちを英語弁論大会で語るところは、なかなか感動的でした。

さて、金八先生の授業では、こんな言葉も出てきました。

憎しみは憎しみを生む。愛だけが憎しみを消す。

これは、本当だと思います。人は憎しみを感じると、さらに憎しみが増し、普通にしていれば問題のないばあいでも、ついつい対立してしまいます。すると相手も対立によって憎しみを抱き、溝はどんどん深くなっていきます。

憎しみなんて持たない方が良いです。相手の人の個性をしみじみと感じながら、ほんの少しだけ優しい気持ちを抱けたなら、きっと気持ちが楽になるはずです。

人と人の関係は憎しみでは悪くなるだけ、でも、愛があれば悪くない関係への第一歩が始まるはずです(相手のことを考えて、踏み込まない、近づきすぎないというのも愛のうちです)。

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2007/07/11

しいたげられた人々「レ・ミゼラブル」

リノ・ヴァンチュラ主演「レ・ミゼラブル」(リンク先はamazon:もっと安ところもあるようです。私はレンタルしました:-)のDVDを見ました。

日本語では「ああ無情」などと訳されていますが、字幕によると「しいたげられた人々」という意味のようです。時代は皇帝の時代から民主主義に移ろうという時代で、自由との戦いが背景にあります。

主人公のジャン・バルジャンは元囚人で、泊まるところがありませんでした。人々に冷遇されたのち、ようやく教会に泊まることができました。当時は人々の信仰心が薄れていた時代ですが、神父は人につくすことに躊躇のない人でした。身の回りのものはどんどん人に与え、価値のあるものは銀の蜀台と食器ぐらいしかありませんでした。

ジャン・バルジャンは親切にしてもらいましたが、食器を盗みます。ジャン・バルジャンを捕らえた警官たちは、神父にジャン・バルジャンが盗んだことを告げます。すると神父は、食器は与えたもので、「どうして蜀台も持っていかなかったのか」と言い、ジャン・バルジャンは逮捕を免れます。

予想外の対応に驚くジャン・バルジャンは「この蜀台は人のために使いなさい」と神父に告げられ、その後の人生が大きく変わります。行き違いで再び追われる身になりますが、名前を変えて工場を興し財産を築き、市長と言う名誉も得ます。

そんなジャン・バルジャンでしたが、知らぬ間に人の人生を狂わせてしまいます。一つは別の人間がジャン・バルジャンとして逮捕されたこと、もう一つは娘の養育費を払うために働いていた女性を、ちょとしたトラブルでクビにし、転落の人生を歩ませてしまったことです。

ジャン・バルジャンは間違えられた男を救うために名乗り出ますが、娘を連れ戻すために逃亡します。しかし、女性が亡くなり、警察に追われながらもジャン・バルジャンは娘を引き取って、逃亡生活を送ります。

民主主義運動が活発になる中、ジャン・バルジャンを追う私服警官は革命グループにとらえられますが、ジャンバルジャンは私服警官を救います。敵であるはずの私服警官の命を救ったジャン・バルジャンは、ようやく心の自由を得ることができました。

このお話は、神父の優しさに救われ、蜀台という十字架を背負ったジャン・バルジャンが、自由への道を歩むドラマです。罪を犯したものは虐げられますが、心を改めることでやがて自由が得られるということなのでしょう。

このお話には、極悪な宿の主人が出てきます。この男は、娘を預かり、養育費として母親から金をむしり取ります。そして、引き取りにきたジャン・バルジャンからも金を出させます。さらに商売がうまくいかないときにジャンバルジャンを見つけると、殺して金を奪おうともします。最後の最後まで、金に汚い人生を歩みます。

この男は、人に優しくされても、その優しさに付け込むだけで、心を改めません。いつまでも、罪を犯し続け、心は荒み、自由が得られません。

回心したジャン・バルジャン、いつまでも回心できない宿の主人、あなたなら、どちらの人生を選びますか?そんな問いかけが、このドラマに隠れているように思いました。

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2007/06/30

運命ではなく神の摂理を信じる - こころのともしびYV -

先日の心のともしびYVでは、「神のはからい」でした。神は、宇宙万物を作り、治め、保つことを願われます。特に、人間に対して慈悲の心で心身に対するすべてのことをはからってくださります。これを「神の摂理」と呼びます。「神の摂理」の解説として「思い悩むな」(マタイ6・28-34)が読まれました。一部を抜粋します。

明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。
    :
『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
    :
明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

人はついつい将来のことを心配してしまいます。しかしそれは、無駄な心配、とりこし苦労なのでしょう。

「運命」という考え方はよくありません。運命観は「これは運命なのだから、、、」という諦めにつながります。得体のしれない、人間には逆らえない力だとあきらめ、悲観的な生き方をしてしまいます。

「神の摂理」を信じるなら、すべてを神に任せ、今日一日の義務を果たせば、生活の苦労を思い悩むことはありません。良い方向に進めてくださる神の御旨を信じれば良いのです。「あなた方に平和があるように」と言われたように、私たち自身も神の恵みである「平和」をいただく権利があるのです。

ローマの信徒への手紙8章28節には以下のように書かれています。

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

苦しい時にそれを喜ぶことは難しいですが、信仰のまなざしをもって見るならば、苦しみでさえ、悪いことでさえ、神様は素晴らしい善を引き出すことができると信頼することができるのです。そのことは、時がくればやがて知ることができます。人間は苦労して種をまき、作物を育てます。そして苦労が峠を過ぎて収穫の時になれば喜びを知り、神の計画であったと感謝するのです。

信仰のまなざしをもって、神の摂理を信じれば、耐え忍び、希望を持って生きることができるのです。神様は人間を愛されていますので、災いのための災いではありません、取り越し苦労をしてはいけないのです。

しかし、どんなに祈っても願いがかなわないことがあります。しかし、与えられなかったことが神の御旨なのです。願いがかなわないときは、知らず知らずのうちに神のみ旨を追求させていただいたことになるのでしょう。

「神の摂理」を信じる生き方の根本には、神様と人間との信頼関係があります。それは、信頼的信仰とでもいうべきものをもって生きることを意味しています。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/06/24

天ぷらを食べてキリストを思う

TVで天ぷらの特集をやっていました。この番組によると、

  • 天ぷらはポルトガル語の肉を食べない日の意味
  • この日に食べたものが、さつま揚げ(つけ揚げ)のようなものだった
  • これが東京で江戸前の海産物を揚げるようになり全国に伝わった

とされていました。肉を食べない日というと、四旬節の小斎日が頭に浮かびます。そこで調べてみると、ポルトガル語あるいはスペイン語の、斎時あるいは斎日、調味料、寺院(揚げ物を食べていたらしい)、などの諸説があるようです(知泉が詳しいです)。天ぷら屋さんのホームページでは、ポルトガル語の「四季の斎日」説が比較的多いようです。

四季の斎日というのは小斎日のことで、昔は季節の初め(6月、9月、12月、そしてレント(四旬節)の第1週目)の3日間に肉を断っていたようで、このときにワカサギなど魚介類の天ぷらなどを食べていたようです。

これ以外の説では、東京天ぷら料理会は「四旬節」(復活祭前の40日間)が語源だとして、以下のように書かれています。

「てんぷら」の語源ですが、キリスト教の宗教用語で四句節のことを、「クアトロ・テンプラシ」と言います。この四句節には、キリスト教の信者はキリストの受難をしのび、節食したり、肉を食べない習わしがありました。四句節に肉を避け、魚のフライなどを食べるこの習慣が、日本のキリシタンの間にも広まり、いつしか「クアトロ・テンプラシ」から転じて、魚の揚げ物料理のことを「てんぷら」と呼ぶようになったといわれています。

ちなみに、四季の斎日も「クアトル・テンポラ」で、どちらかというよりは、どちらにも含まれる「小斎日」が語源のようです。

天ぷらを食べるときは、キリストを思うときなのですね。

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2007/06/23

おれ田舎もんやけん、ようわからんけど

テレビで武田鉄矢さんとお母さんの故イクさんの特集をやっていました。なぜか小学生のころから武田さんが好きだったので、楽しく見ていました。そして、なんとなく金八先生の有名なシーンを思い出しました。

不良の子供に対して教頭たちが、腐ったミカンは外に出さないとみんな腐ってしまうと言います。それに対して、金八先生が子供たちはミカンじゃない、血の通った人間だと怒るシーンです。

当時の武田鉄矢さんは、「母に捧げるバラード」以降大きなヒットのない中、山田洋次監督に「幸せの黄色いハンカチ」の助演に抜擢されました。高倉 健さん、賠償 千恵子さん、桃井 かおりさんといったそうそうたる俳優との共演作を皮切りに、演技の道に入ってすぐのころでした。

「幸せの黄色いハンカチ」では、桃井かおりさんをナンパするときにチェーンに引っ掛かってこけるシーンがありました。このシーンでは山田洋次監督から、演技をしようとせずに思い切り転ぶようにと言われるほど、まさに体当たりの演技で、共感を呼ぶ俳優さんでした。

そんな武田さんが、子供たちはミカンじゃないというシーンをうまく言えなかったそうです。いつもなら「あんたねぇ~!」と思いっきり怒鳴るところなのでしょうけど、どうも納得いかなかったのでしょう、監督さんに言葉を追加させてもらったそうです。

それが

「おれ田舎もんやけん、ようわからんけど」

でした。このシーンでは、金八先生は涙目になりながら、思いを訴えかけたのです。

人は思いを伝えようとしても、横あるいは上からでは、うまく気持ちが出せない時があるのですね。そんな時は「自分は大したものではないけれども、どうかわかってください」というへりくだった、諦めにも似た気持ちになることで、ようやく本当の自分の思いを示せるのでしょう。深い思いというものはそうしなければ表に出ないのでしょうね。

祈りとつながるものを感じました。

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2007/06/04

後(のち)の世について - こころのともしびTV -

第24回を迎えた心のともしびYVで、ハヤット神父の「カトリックの教え」のシリーズが最終回を迎えました。タイトルは後の世についてです。

人は肉体と霊魂を持っています。霊魂は肉体の命の源です。霊魂が肉体から離れると、肉体は亡くなって腐敗しますが、霊魂は死んだり腐敗しません。霊魂が肉体から離れると、後の世で永遠に生きます。

天国は神の愛と永遠の幸せに満ちています。霊魂は神を愛し、み旨に従った、けがれのない霊魂だけが入れます。地獄はその反対で、憎しみと苦しみに満ちています。神のみ旨に背いて、愛を持たず、罪の汚れに満ちている霊魂です。

煉獄は苦しみのところですが、地獄でなく、永遠でもありません。神を愛しているがいくらかの罪の汚れがあって、天国にまだ入れないのです。煉獄の苦しみによって罪の汚れが清められ、清められてから天国に入ります。

後の世においては私審判と公審判(いわゆる最後の審判)と言われる2つの審判が行われます。死んだときに私審判を個人的に受けて、天国か地獄か煉獄に入ります。そして、世の終わりに公の審判があります。その時に煉獄は亡くなり、みな天国に入ります。

そしてイエスさまはすべての人々を集めて、公にお裁きになります。このときの様子を、イエスさまは羊と山羊にたとえられました。ユダヤでは羊と山羊を一緒に飼いますが、公審判のときには羊を右(救われる人)、山羊を左(救われない人)に分けられるのです。

「すべての民族を裁く」(マタイ25・31-46)にあるように、兄弟の困っているときに親切にした人は永遠の命に、困っているときに助けなかった人は火の国(地獄)に入ります

ハヤット神父は、天国でご両親と再会されること、そして視聴者の皆さんと会うことを楽しみにして、番組を終わられました(次回から所属教会の井上神父が「聖書に学ぶ」というシリーズを担当されます)。

わたしも教えに従って、羊さんチームに入りたいです。

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2007/05/26

正面から向き合い跪く - モリー先生との火曜日 -

跪く(ひざまずく)という行為は、膝をついて自らを低くしてかしこまる(相手を敬い、恐縮し感謝する)行為です。それは、正面から相手と向き合わなければできません。

「モリー先生との火曜日」をDVDで見ました。主人公のミッチはあくせく働くスポーツコラムニストです。結婚を望む彼女がいますが、なかなかその気になりません。

ある時、TVで大学の恩師であるモリー先生の姿をTVに見つけます。モリー先生は食べることとダンスが好きで、スポーツ観戦で「一番!一番!」とみなが声を合わせて応援していると、急に立ち上がり「2番じゃだめなのか?」と語りかけるような根っからの先生でした。

しかし、元気だったモリー先生は筋萎縮性側索硬化症にかかりました。足から順に動かなくなり、最後には命をなくす難病です。TVを見たミッチはすぐにでも会いたかったのですが、卒業以来いちども顔を出していなかったからです。いつもたくさんの電話をかけているミッチでしたが、モリー先生にはなかなか電話をかけられませんでした。

彼女に促され、ようやくモリー先生と再会したミッチは、先生、いや先生の死とどう向き合えば良いかわかりません。そんなミッチを見て、毎週火曜日にモリー先生の授業が始まりました。

「死を恐れるのは、幸せに生きていないから」と語るモリー先生に、死、恐れ、家族、結婚、許し、人生の意味などの様々な授業を受けます。そしてミッチは徐々に変わっていきました。「モモ」に出てくる灰色マントに追われていたミッチでしたが、やがて仕事よりも自分の人生に向き合うようになります。

モリー先生は難病で苦しんでいましたが、この映画は人の死でお涙をちょうだいするお話ではありません。死ぬことよりも今をどう生きるかを考えさせてくれます。死んでいくモリー先生よりも、新しい生き方を見つけるミッチの姿に涙が出ます。

この映画の中で最も美しいシーンは、ミッチが彼女にプロポーズするシーンです。結婚する気もなく、彼女をないがしろにしていたミッチは、「愛することを恐れるな」というモリー先生の言葉に従ったものの、時すでに遅く、一度はふられます。しかし、愛することを恐れないミッチは、彼女の愛を取り戻していきます。そして、ようやく海辺でのプロポーズにたどり着きます。

夕日の中でシルエットの二人、ミッチがひざまづき指輪を渡します。このときのミッチには、愛への恐怖などありません。彼女にきちんと向き合って、彼女に託したのです。

この彼女との関係に結構考えさせられました。生活を維持するということに必死になって、家族に向き合っていない自分が見えてきました。敬い、感謝しているだろうか、大事なことを見失って、愛することを怖がっているのではないか、幸せな生き方はしていないのではないか、そんな気がしました。

正面から向き合うことが大事なのは、何事も同じでしょう。愛を恐れることをやめ、正面から向き合ったとき、人は跪くことができるのだと思いました。

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2007/05/18

自分の気持ちに素直になる - 天使にラブ・ソングを2 -

前作が結構楽しめたので、「天使にラブ・ソングを2」(リンク先はYahoo!映画)を見ました。前作はコメディとして楽しめる映画でしたが、今回は青春映画です。前作でお世話になったシスターに請われて、デロリス(ウーピー・ゴールドバーグ)はシスター姿で高校の音楽教師として活躍します。

とんでもない生徒たちに、デロリスも手こずりますが、聖歌隊を作ることでクラスが落ち着きだします。しかし、歌が好きなリタ(ローリン・ヒル)は母親の反対もあって参加しようとしません。そこで、デロリスはリルケ「若き詩人への手紙」を手渡してこう言います。 

ある作家志望の男が彼に作品を送ったの。リルケの返事は“作家になれるかなど聞くな”、書くことが何より好きなら君はすでに作家だ。

母親に逆らえなかったリタでしたが、やがて自分の心に従って、聖歌隊に参加します。自分の気持ちに素直になることで、後悔のない未来が開ける、そんなメッセージをこの映画から感じました。

比較的単純なストーリですが、何といっても「歌が良い」です。自然を見て神をたたえる歌詞や、幸せを感謝する歌詞、そして透きとおる歌声、神を賛美するラップ。ちょっと疲れた時に、こういった映画はいかがでしょうか?

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2007/05/05

ホテル・ルワンダ

昨日は初金でした。でも、花粉か黄砂かわかりませんが、どうも体調が悪いのでホテル・ルワンダを見ながら自宅にいました。

この映画はル1994年にワンダ首都キガリで起きたフツ族とツチ族の内戦に巻き込まれたホテル支配人ポールのお話です。多数派のフツ族と少数派のツチ族には、あまり大きな違いはありません。ルワンダを支配したベルギーの入植者が、身長が高く上品な者をツチ族と呼び、鼻の幅と肌の色の薄いものを選んでツチ族として味方につけただけです(Wikipediaのルワンダ紛争の記事によると農耕民族と遊牧民族という違いがあるようです)。

当然のように支配者がいなくなると、フツ族(に分類されたもの)はクーデターを起こして政権をとります。そこでツチ族はルワンダ愛国戦線(RPF)を組織し、これに対してフツ族は政府軍とは別に民兵を組織します。3年間の内戦のあと、大統領はRPFと和平協定を結びますが、その直後に死亡します。

民兵たちはツチ族が大統領を殺したとして、ツチ族の虐殺を始めます。いわゆる「ルワンダ紛争」です。それまでののどかな風景が一変して、あちこちに死体が転がっています。民族紛争なので、治安維持に入っている国連軍も一方だけには加担できず、大量虐殺が横行します。映画「猿の惑星」で「猿は猿を殺さない」という言葉がありましたが、この映画の人間たちは、まさに猿以下です。

フツ族であるポールの妻はツチ族でした。ポールは家族だけを救うつもりでしたが、避難民を見捨てられず、ホテルはさながら難民キャンプのようになります。TVのレポータも入っていて虐殺の状況を伝えるのですが、誰も助けにきてくれません。世界の人たちは、「『恐いね~』と言って、ディナーを食べている」だけだったのです。

混乱する状況の中、唯一の希望は国連軍でしたが、ようやく来た国連軍は外国人だけを助け出そうとします。「助けて!娼婦にされるか殺されるだけ、、」という女性を助けることもできず、お金をすべて渡して詫びようとするレポータ。子どもとともに逃げるつもりだった外国人シスターから引き離される子供たち、、、。

この状況で、家族だけは救うと決心していたポールが、なかなかやるんですよね。カッコ良くはないですが、過去の人脈とわいろを駆使して、ホテルに残された人々をなんとか助けようとします。ポールを含む一部の人たちだけの出国許可が出た時も、妻を外国に脱出させて自分は残ろうとします。しかし、その車も襲われて、、、(以下自粛、ぜひ見てください)

映画の舞台となったルワンダは、Wikipediaによると82%がキリスト教徒で、聖母被昇天やイースターの祝日がある国です。キリスト教の国であっても、それが思想や行動に生かせなければ、人々は争い、殺しあう現実があるのですね。

「バベルの塔」(創世記11・1-9)では、天まで届く塔を造ろうとした傲慢な人間たちの言葉を、神さまはバラバラにされました。ルワンダ紛争は、支配者が意図的に作った民族対立がルーツになりました。傲慢な人間は神の心を理解しないまま、神のような行動をとって過ちを起こしたのです。おろかな人間は、いつになれば神の心に近づくことができるのでしょうか?

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2007/05/01

キリスト者は積み重ね

プロポーズ大作戦」という昔のバラエティのような名前のドラマは、高校の同級生である吉田礼(長澤まさみさん)の結婚式で、主人公の岩瀬健(山下智久さん)が妖精(三上博史さん)に出会って、吉田礼と結婚できるように高校生活をやり直すというお話です。教会で式を挙げるのだから、妖精でなく天使にしてほしいところですが、笑いあり、人情ありで、それなりに楽しめます。

毎回、披露宴の写真の場面に戻って、少しずつ人生をやり直すのですが、今回の妖精の「遠回りかもしれないが、確実に好感度は増した」という言葉は少し考えさせられました。まあ、一度のやり直しで結婚相手が変わってしまうとドラマが続かないからでもあるのでしょうけど、確かに人の心はそんなに簡単に変わるものではないと思いました。

教会に通いだして、誰もが言ってほしい言葉は「最近、変ったね」という言葉ではないでしょうか。教会に通い、洗礼を受けて、考え方は大きく変わったはずです。でも、本人が思うほどには、なかなか認めてもらえないのではないでしょうか。

キリスト者として生きていくことは、積み重ねなのでしょうね。教会で通って考えが変わったなんて、今までの人生を自分中心に突っ走っていたものが、ほんのちょっと、そう、せいぜい1度ぐらいでしょうか、ちょっと向きが変わったにすぎないのでしょうね。別の方向に向いたとほかの人にもわかるようになるには、何度も、何度も、本人にとって驚くような回心が必要なのでしょうね。

逆に教会の方から、驚くような言葉をかけられることがあります。「熱心」という言葉です。「敬虔」と言われるよりは恥ずかしくないのですが、これってなにか違うのですよね。見た目は熱心な人と変わらないかもしれませんが、心の中は「ダメダメ」です。

以前、聖書の分かち合いで「放蕩息子のたとえ」を分かち合ったとき「人はついつい兄になってしまう」と言われる方に、すかさずに「そうですか、私なんてダメダメですよ」と言ってしまったほどです。

この「ダメダメ」感があるからこそ、教会に行こうと思うんですよね。まだまで駄目だと思って神さまにゆるしを乞い、良い方向にちょっとだけ向きを変える。ミサのそのひとときが1週間の元気をくれるのですよね。今週はミサに行きます。

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2007/04/19

ソドムとゴモラ

ソドムとゴモラ」(リンク先は紀伊国屋書店)を見ました。この映画は原題が「アブラハム」とされているだけあって、ソドムとゴモラはあまり描かれておらず、アブラハムが神の召命を受けてカナンに旅立つところ(創世記19章)からイサクを生贄にしようとするところ(創世記22章)までが描かれています。

アブラハムの半生が描かれているのに、「ソドムとゴモラ」というタイトルにするのは、破壊されるソドムとゴモラの街を振り返ってしまったロトの妻が石になるシーン(創世記19章)が、日本人の神様のイメージだからなのでしょうか?

創世記の有名なシーンが描かれていて、何気なく見ていると、「あっ、知ってる、知ってる」で終わってしまう映画です。ミサと同じように、知っている内容でも、新しい発見をすべく、じっくり味わってください。

クライマックスは、アブラハムがサラとの間にようやく授かった息子イサクを、神さまの言葉に従って生贄にしようとするシーンです(創世記22章)。そこに至るまでの状況描写がよくできていて、クライマックスを盛り上げています。たとえば、女奴隷ハガルとの子供の出産のとき(創世記16章)には落ち着いていたアブラハムが、イサクのときにはそわそわして取り乱します。イサクが大きくなると、星座を教えては覚えが良いと喜びます。

また、羊を生贄にする手順をイサクに教えるシーンも効果的でした。まず、足を縛り、横たわらせておいて、ナイフで羊の首を切ります。これと同じようにイサクを生贄にするときにも、イサクの手をアブラハムが縛るのです。その時のイサクはじっとしていて、意味を理解してだまっているんですよね。

そして、いよいよ首にナイフを持って行った時に、神さまが止めます。その時のアブラハムはまさに歓喜、心から喜びました。神様にすべてをゆだねたアブラハムならではの感動が描かれていました。

「契約と割礼」(創世記17章)や「イサクの誕生の予告/ソドムのための執り成し」(創世記18章)など、これまでバラバラに知っていた旧約聖書の内容が、この映画で一つにつながりました。レンタルもされていますので、一度ご覧になってはいかがでしょうか。

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2007/04/10

神様の約束 - 心のともしびTV -

心のともしびTVの第20回は「祈り」でした(インターネットからも見る事ができます)。この番組は要理教育が中心なので、知っていることも多いのですが、時々、目から鱗(うろこ)が落ちます。今回は二つの鱗が落ちました。

祈りは霊的な生活の中心です。特別な理由がない限り、日曜のミサ聖祭に与ることは教会の掟です。ミサで行われる祈りは、心を神様に捧げて対話をすることで、4種類あります。

  • 礼拝あるいは賛美:愛の祈り。何も頼まずに神を愛する
  • 感謝:恵みに感謝すれば恵みを大事にし、神を愛する
  • 悔い改め:きれいな心で願うため、許しをねがう
  • 願い:最後の祈り。神を愛し、感謝し、罪を痛悔した後、きれいな心で願う

【一つ目のうろこ】
ここで、礼拝あるいは賛美という祈りがありますが、これは「神様には役に立たない」そうです。神様に近づくために私たちに必要だそうです。確かにライバルがいない神様が褒め称えられても、嬉しくないかもしれません。それよりも、私たち自身の信仰が深まり、神様に近づくことが重要なのでしょう。

【一つ目のうろこ】
祈りで大事なことは「神様を信頼すること。祈りを聞き、必ずお応えになる」のです。これは神様が約束されています。

求めなさい。そうすればあたえられる。(ルカ11・9)

はっとさせられました。新約聖書は神様との契約です。しかし、いつの間にか神様の「教え」が書かれているように思っていました。三位一体の神を信じているのですから、イエスさまの言葉は「神様の約束」だったのです。

ハヤット神父はこう続けられます。

しかし、必ずしも恵みは来ません。願いが一番いいものではないからです。
神さまは一番必要なものを与えてくださるからです。

祈りの模範はイエスさまがゲッセマネで示されています。十字架にかけられる前の夜にイエスさまは言われました(ルカ22・42)。

もしもできることならこの杯を取り去ってください。

と祈られました。しかし最後に御父に

私の思うままではなくみ旨のままに

と御父が最も良いことをされるように祈られました。そして、イエス様の願いはかなわず、苦しみながら亡くなられました。祈りの通りにはなりませんでしたが、3日後に復活し、天国に昇って、父なる神とともに永遠の喜びを体験されています。

私たちも同じように、願っている恵みは来ないかもしれません。しかし、思うように行かなければ、復活のような何か良いことが変わりにもらえます。

「神様の約束」に希望を感じました。

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2007/03/27

サラフィナ!

サラフィナ!(リンク先はgoo映画)はアパルトヘイト(人種隔離政策、リンク先はWikipedia)時代の高校を舞台にしたミュージカル仕立ての映画です。

「アフリカの主の祈り」のコメントGood News Collectionのmrgoodnewsさんに教えていただいた映画です。教えていただいた朝礼での主の祈り、言葉は普通の主の祈りとほとんど同じでしたが、軽快な音楽とダンスが最高でした。祈りで喜びを感じると言うのはこういう感じなのかと思いました(以下、ネタバレ注意!)。

天使にラブ・ソングを・・・」のウーピー・ゴールドバーグが教師役で出ています。この先生は授業の中で生徒たちに、黒人のルーツと誇りを教えていました。しかし、その内容が反政府的であるとして授業中に捕らえられてしまいます。

代わりに来た先生の最初の授業で、生徒たちは反発し大きな声を出します。すると警備をしている軍人(なぜか学校内にいるのです)が大勢あらわれ、銃を乱射します。威嚇で十分だと思うのですが、逃げていく生徒たちを次々を撃ち殺します。ついさっきまで同じ教室にいた友達が、目の前でバタバタと倒れていきます。

生徒たちの葬儀のとき、牧師が自由への戦いを語ります。学生たちはデモを行い、暴動を起こします。そんななか、苦しみながらも友人を裏切らなかった仲間が痛めつけられ、痛々しい姿になります。サラフィナたちは「もう我慢できない」と、仲間を痛めつけた黒人の警官を、裏切り者として焼き殺します。

サラフィナは

「彼らが私をそうさせたの。憎しみでいっぱいに。」

と思いながらも

「でもまだ足りない。憎みきるほど憎まなければ憎しみが足りない。」

と苦しみます。

サラフィナは捕まり、拷問され、傷ついて、母の元に向かいます。サラフィナの母は白人の家で召し使いをしながら育ててくれていました。実は、サラフィナの父も解放運動で死んでいたのです。サラフィナは、父の命を奪った白人の召し使いをしている母が許せませんでした。しかし、捕らえられ、傷つき、心の痛みをも知って、そんな母の苦しみがわかるようになりました。そして、母に感謝しました。

争いたくなくても争わなければならない、争いたくても争えない、人々がそんな苦しみを感じながら、高校生たちの闘争は13年間続き、ようやくアパルトヘイトの時代は終わります。

葬儀の際に牧師さんが人々を奮い立たせるのは、ちょっといただけませんが、キリスト教によって、人々が尊厳を維持することができたようです。命が与えられたこと、死を迎えること、すべてに意味があり、すべての命は尊いものである。そして、今、目の前にある苦しみも、それを乗り越えれば、きっと新しい時代がやってくる。そんな印象を受けました。

ぜひ、アパルトヘイト(リンク先はWikipedia)を理解して、見られることをおすすめします。

この映画のDVDはなく、ビデオだけです。レンタルもされていますが、最近はレンタルビデオ店で貸していたものを中古ビデオとして売っている店があり、100円から500円程度で購入できるようです(私のものは100円でした)。

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2007/03/24

梅には梅のよさがあり、、 - 探偵ナイトスクープ -

笑いあり、人情あり、朝日放送政策の「探偵ナイトスクープ」という大阪らしい番組があります。依頼に応じて、探偵と称する芸人さんが人探しなどをする番組です。

今回は、引越しの際に出てきた手紙を書いてくれた看護学生さんを探してほしいと言う依頼でした。

依頼者のご主人は末期がんのため、モルヒネで痛みを和らげるだけの入院生活だったそうです。しかし、子供と変わらない年頃の看護学生さんが、看護実習の大変さにくじけそうな時に励まされていたそうです。末期の中にあって死を覚悟しながらも

看護婦はどんな状況にある患者さんにも、元気になろうと思う希望を持たせなあかんよ。

と話されていたそうです。それから、その看護学生だった方は、知識よりも希望を持たせる事が大事だと思って、看護にあたられてきたそうです。

依頼者が見つけた手紙には、ご主人が実習の最後に看護学生さんに贈った言葉が書かれていました。

梅には梅のよさがあり、桜には桜のよさがある、決して背伸びすることはない

この言葉を聞いて、勇気がわいてきたそうです。

今も苦しみの中におられる、すべての方に贈りたいと思います。

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2007/03/21

天使にラブ・ソングを・・・

天使にラブ・ソングを・・・」(リンク先はgoo映画)は、とても楽しめる映画です。ゴスペルブームの火付け役となった映画だそうですが、舞台はカトリックの修道会です。

「ゴースト/ニューヨークの幻」「サラフィナ!」「新スタートレック」で、霊媒師、教師、バーテンダー、などの味のある演技を見せてくれたウーピー・ゴールドバーグさんが主演です。

主人公のデロリスはカジノで歌うクラブ・シンガーですが、殺人現場を見てしまい犯人たちに追われます。そこで、警察の計らいで逃げ込んだのが修道院!お祈りを頼まれて、「人民の人民による」とか言い出したり、断食させられて修道院で作っているトマトを盗むなど、ドンデモないシスター(服装だけ)が誕生します。

沈黙の行があり、外部との関係を絶つなど、祈りと観想を中心にする観想修道会のようですが、主人公デロリスが聖歌隊に入ってから、大きく変わります。聖歌はポップなアレンジがされてシスターたちは踊り歌います。そして、修道院からフェンスを取り去り、奉仕活動や炊き出しも行うようになります。

カトリックらしいマリア様の歌も、アレンジでこんなに明るくなるのですね。教会周辺にいた悪ガキ達も楽しい歌声につられて集まってきます。そして、来る人もまばらだったミサもいつしか満員になります。

うわさは広がり、TVにも取材され、ちょうどアメリカに来られていた教皇さまが来られることになります。そのころ、犯人たちに主人公の居場所がバレて、大騒ぎに、、、、

アメリカ映画でカトリックを題材にしたものは、なぜか、どことなく風刺っぽいところが感じられますね。内容も、修道会によってそれぞれ特徴があるのに、まずありえない話だと思いますし、説教の後に聖歌隊だけの歌の時間がある、マグダラのマリアと姦通の女を同一視している、など、色々と気になる所もあります。でも、そんなことは気にせずに単純に楽しめば良い映画でしょうね。

そうそう、ソドムとゴモラ(リンク先はWikipedia)の「ゴモラ」という言葉も出てきます。ちょっと笑いました。

聖歌(特に答唱)があまり好きでなかった遠藤周作さんは見られたのでしょうか、、、。生きておられたら、コメントが聞いてみたいものです。

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2007/03/13

映画「ゴスペル」

ゴスペルというとGospel = Good Spellの意味で福音を意味しますが、この映画は同じくゴスペル(リンク先はWikipedia)と呼ばれているプロテスタントの教会音楽を中心に描かれます(以下、ネタばれ注意)。

主人公の父親は教会の主任牧師で、主人公と友人は聖職者になるべく神学校を卒業します。しかし、教会の仕事を優先して母親の死に目に会えなかった父がゆるせず、主人公は聖職を捨てます。そして年月が経ち、主人公はR&B歌手として成功を収め四つ星ホテル、リムジン、女も自由なスーパースターになります。そこへ、父親が倒れたとの知らせが届きます。

一方、友人は聖職者の道を歩み、主人公の父親の後継として主任牧師に選ばれます。しかし、この友人は牧師でありながら、愛を失っています。教会は自分のものだとでも言いたげな看板、演出、、、。他の牧師とも協調せず、教会の建て替えと拡大を目指します。しかし、その傲慢さから妻の愛も失ってしまい、ののしられます。

父の元に戻った主人公は父の教会のため、愛欲の歌ではなくゴスペルを歌います。しかし仕事を失いそうになって、ツアーに復帰すべく恋人を置いて町を離れようとしますが、教会への思いが断ち切れず、教会に戻ります。

こうして主人公と友人は、道を踏み外していたことに気づくのです。友人は力強い聖書のスピーチではなく自分の心を語りだし、主人公はゴスペルを歌います。そして、最後にあの福音が物語のように語られます。

そう、ゴスペルとは「神の言葉」だったのです。

有名なゴスペル歌手によるゴスペルも色々聞けて、アメリカの教会の様子もわかって結構楽しめる映画でした。しかし、(もちろん教会にもよるでしょうけど)プロテスタントの礼拝のにぎやかさには驚かされました。カトリックのフォークミサもなかなか楽しいですが、桁違いの派手さでした。ビジネスが盛り上がるはずですね。

#あんなに毎週騒いでいたら身体が大変でしょうね、、、

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2007/03/07

真理が剣、愛が盾 - ベン・ハー -

以前から気になっていた映画「ベン・ハー」に、キリストの時代の皮膚病の人が「汚れています。汚れています」というシーンがあると聞いて借りてみました。

良く確認せずに借りてびっくり!淀川長治さんが現れてMGMのベン・ハーには2つあるとのこと。もしかして古いほうを借りてしまったかと見ていると、なんと無声映画でした。

無声映画というと、多くのSF作家に影響を与えたという「メトロポリス」以来で、生まれていらい2本目です。気を取り直して見ると、白黒の画面が大半ながら、海賊との戦闘シーン、レースシーンなどなかなか楽しめました。

ユダヤ人のベン・ハーの半生と、キリストの半生を絡めながら話は進みます。この映画では馬車レースのシーンが有名ですが、キリストの御降誕と受難のシーンもなかなか良かったです。

御降誕のシーンでは、3人の学者が星を見てイエスさまのところに来るお話は、ヒンズー、ギリシャ、エジプトになっています。異端の宗教を表すと聞いていましたが、多神教の3カ国だったのですね。

ご受難のシーンでは、ベン・ハーはキリストが捕らえられたことを知って、救おうとします。

王よ 2軍団の戦士が駆けつけます
王への仕打ちに対し 幾千倍もの復習がなされましょう

すると

ある声が彼に届いた
"わが王国はこの世のものではない 剣をおさめよ
神の子は人々の命を破壊するのではなく救いに来たからだ"

このような感じで、キリストの教えを端的に示しています。このほかにも、ナザレの王がユダヤを救えるか?という井戸端会議でこんな話が出てきます。

真理が剣、愛が盾

この言葉はなかなか考えさせられます。武器によって平和をもたらさないことを表すだけでなく、御言葉を聞いて「やられた!」という感じと、苦しいときにすべてをゆだねて「ホッ」とする感じが表現されています。

ちなみに、はじめに書いた「汚れています」は"Unclean"で、字幕では「うつるわよ」になっていました。当時はライ病の人は魂も汚れているとされ、他の人にうつさないように、「汚れています」と宣言し、他の人にうつさないようにしなければならなかったようです。

このほかにも、寝ているベン・ハーを見つけたライ病の母親が、

彼は生きているけど、私たちは死んだ身よ

と言うシーンは、当時のライ病患者の社会的な立場も考えさせるような泣かせるシーンでした。

キリストの映画としてみるとちょっと物足りないものの、なかなかの娯楽大作でした。お時間のある方は、ぜひ一度ご覧ください。

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2007/03/04

あなたはできる! - ABC子ども未来プロジェクト -

ABC子ども未来プロジェクト」を見ました。大人の対場でなく、子供の目線で問題をとらえないといけないこと。社会のイライラが、学校でのいじめにつながること。親・友達といった縦横でなく利害関係を持たない斜めの関係が重要のので、学校の中に地域を作る、学校を核に地域を再生する。教育基本法のお話など、専門家によるお話の中、出番こそ少なかったですがナミねぇ(竹中ナミさん)の言葉は光っていました。

それは「あなたはできる!」と言うメッセージでした。ナミねぇはプロップステーションの活動を通じたコンピュータによる身体障害者の支援をされています。その活動を通して、一つ目のメッセージを語られました。

働けない、かわいそうと思われている人たちが、実は社会に貢献したい、稼ぎたい、(中略)と思っている。でも、世の中はその人たちをできない人と決め付けている。でも、決め付けられたときに、それを「そうじゃないよ」という力はその人の中にしかない。「あなたはできる!」と確信できる確信できる関係になれるかどうかと言う問題で、障害者だけでなく、大人と子供の関係でもある。

「できる」という力は必ずある。(中略)子供たちは、それをできないと思わされているけれども、その経験こそが「できる」と思える力になる。

ナミねぇは学校の問題は専門ではないですが、その人生経験から本質をつかんでいると思いました。ナミねぇは著書「ラッキーウーマン」(飛鳥新社)のカバーの略歴を引用すると、

小学生のころから家出をくり返し、15歳で同棲、高校除籍、16歳で結婚、ごんたくれな10代をおくる。

そんなナミねぇを変えたのは、24歳の時に生まれた長女麻紀さんの誕生です。麻紀さんは重度脳障害で34歳にしてナミねぇを理解できません。しかし、生後3か月分を24ヶ月かけて育っている麻紀さんの「すごさ」、その「すごさ」が学校にも警察にもできなかったナミねぇの更生をさせました。「そんな能力が誰にでもある」それが二つ目のメッセージでした。

私の知るかぎり、ナミねぇは宗教色のない方です。でも、そんなナミねぇの言葉に恵みを感じます。傍から見れば大変だったろう生活も、ナミねぇにかかると「ラッキーウーマン」になってしまいます。ナミねぇにとって麻紀さんは生きる力、恵みそのものなのでしょう。

番組の途中で、夜回り先生こと水谷修さんが、仏教、カトリック、プロテスタントと連携をすすめていると言われていました。傷ついている子供たちの居場所として、お茶とお饅頭だけを与え、祈りたいときに祈る空間を用意しようとされています。学校よりも宗教施設のほうが多く、日本では学校との連携が難しい面もあるものの、期待されているようです。

自分ひとりで幸せに生きられるなら、神様は要りません。宗教なしに「あなたはできる!」という信頼関係を築ける社会が正常なのでしょう。しかし「できる」自分を見失っているなら、「愛されている」と感じさせてくれる神さまの出番かもしれません。

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2007/03/02

ナミねぇテレビに登場!

以前紹介したプロップステーション竹中ナミさん(ナミねぇ)がテレビに出演されます(関西ローカルと思われます)。(感想はこちらに書きました)

トーク番組「ABC子ども未来プロジェクト
 放映日時 :3月2日 25:29~27:29(2日深夜)
 チャンネル:ABC朝日放送

 出演者 :義家弘介さん(ヤンキー先生)
       水谷修さん(夜回り先生)
       藤原和博さん(杉並区立和田中学校長)
       赤井英和さん(プロボクサー)       
       竹中ナミさん(ナミねぇ)
       東京都内の高校生40名 ほか

 テーマ  :「子どもたちの今」「教育現場の実態」「いじめの原因
      は?」「教育再生会議」「子どもたちを救うために」「マ
      スコミのありかた」など

詳しくはこちらのページを見てください。

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2007/03/01

苦しいのは自分だけじゃない - キリストに救われた理由 -

これまで、なぜ教会に通うようになったかを聞かれたとき、「遠藤周作の『キリストの誕生』でキリストの受難を知り、自分の苦しみなどは大したことがないと思い、頑張ろうと思った」と言っていました。でも、なにか違うと感じていました。

月曜日のYoshi原作翼の折れた天使たち 第1夜『衝動』(リンク先はフジTV)を見て、その理由に気づきました(以下、ネタばれ注意)。

石原さとみさん演ずる主人公ユリは親の愛情を感じられず、手首を切ったことがあり、ビルからの飛び降りを何度も試みています。そこに現れた裕紀。この青年は白血病でしたが、どうせ無駄だと薬物療法を避けていました。

命を大事にするように諭す裕紀は、逆にユリに言われます。

「神さまに恥ずかしくないぐらい、精一杯生きているの!」

このひと言で、裕紀は薬物療法を決意します。そんなことも知らないユリは、愛情表現の方法を知らない親の言葉に傷ついて、自殺しようと再びビルの屋上に昇ります。病室から見ていた裕紀はユリを救いますが、その直後にユリの目の前で倒れてしまいます。裕紀は亡くなりましたが、ユリはようやく現実に向かい合うようになります。

このドラマ、心療内科に通っているユリが、そんなに簡単に前向きになれるのかとも思いました。しかし、その理由を考えると、昔の私に近いような気がしました。

まず、こう考えました。裕紀が死を目の前にしても頑張った。それを知ったユリは自分の苦しみなど大したことはない、と思ったのではないかと考えました。しかし、これは納得できません。身体の病気と、心の病気、どちらが苦しいかなんて、本人でもわからないですよね。

そこで思い出したのが、北原怜子著「蟻の街の子供たち」に出てきたお話です。ある集落に住む貧しい家族は、家も職も失い心中することを決意していたそうです。そして、子供たちの最期の思い出にと隅田川のボートに乗りました。大はしゃぎの子供たちをみて、殺すことが忍びないと奥さんが思っていると、目の前に墨田公園の集落に立ち並ぶ掘立小屋が目に入ったそうです。

「ああやって立派に生きぬいている人が、あるじゃありませんか。私たちだって、死んだ気になれば、なんとか立ち直ることができるでしょう」

奥さんがそう言って、ご主人に取りすがったというお話です。

この奥さん、子供がかわいそうだという気持ちももちろんあったでしょうけど、目の前の人たちに共感したんだと思います。それまで自分達だけが苦しいと思っていたのに、同じように苦しんでいる人が他にもいる。苦しいのは自分だけじゃないんだ。と、思ったのではないでしょうか。

はじめに書いたドラマのユリも同じように自分ほど苦しい人間はいないと感じていたのではないでしょうか。そして裕紀のことを知って、苦しいのは自分だけじゃないと感じたと思います。同じ苦しみを感じている人を知ることで、苦しみが軽くなったと思います。

そこまで考えて、ようやくわかりました。キリストの受難、特に遠藤周作さんの描くキリストは、惨めです。弟子に裏切られただけでなく、理解さえもしてもらえなかったのです。私は、キリストの姿を見て苦しみが和らいでいたのです。

それは他の不幸なお話でも良かったかもしれません。でも、キリストは単に不幸なだけではありません。人々を救おうと十字架にかかったのです。もちろん、私のためだけではないですが、私のためにも十字架にかけられたのです。

それは、私が神さまを知る2000年前に用意されていました。まさに「神がまずわたしたちを愛してくださった」(一ヨハネ4・19)のです。

もし、あなたが苦しみを抱えているなら、遠藤周作著「キリストの誕生」をぜひ読んでください。苦しみがすこし軽くなるかもしれません。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/02/23

宮城まり子のチャリティーテレソン

以前、竹中ナミさん(ナミねぇ)を紹介しましたがゼノさんの本を読んでいて宮城まり子さん(リンク先はWikipedia)を思い出しました。ナミねぇと同じように身体障害者のために活動されているかたです。

ナミねぇはプロップステーションの活動を通じたコンピュータによる身体障害者の支援、ゼノさんは知的障害児施設「ゼノ」少年牧場(リンク先は「ゼノ」少年牧場)の設立、宮城まり子さんは日本で初めての肢体不自由児のための養護施設「ねむの木学園」(リンク先はねむの木学園)を設立されました。

Wikipediaによると宮城まり子さんは

貧しい母子家庭に出生、幼くして母、弟と相次ぎ死別するつらい少女時代を送った。1955年「ガード下の靴磨き」で歌手デビュー。その後女優業に進出 (中略)
また信心厚いクリスチャン(プロテスタント)でもある。

ということで、団塊の世代以上の方ならご存知の方も多いのではないでしょうか?

私が覚えているのは、1975年に当時の近畿放送(京都放送=KBS京都)のテレビ番組「宮城まり子のチャリティーテレソン」で身体障害者の社会参加を訴えられていたのを見たからです。

宮城まり子のチャリティーテレソン(リンク先はWikipedia)は日本で初のテレビチャリティーマラソンです。1975年と1981年に開催されています。Wikipediaによると

女優で、肢体不自由児の社会福祉施設「ねむの木学園」を主宰する宮城まり子が司会を務め、身体障害者の社会参加を呼びかける趣旨のもとで24時間のチャリティーテレビ番組を実施。その反響は凄まじく、視聴者から集められた浄財は4600万円を超えたという。

と書かれています。

もうすぐ24時間というころになっても目標額に今一歩届きませんでしたが、ポンと大金を寄付された方がおられたことを覚えています。髪を振り乱した宮城まり子さんが、「京のぶぶ漬けと言いますけど、京都は優しい方がたくさんおられる」といった内容のことを、目を輝かせながら言われていたのを覚えています。

(注:ぶぶ漬けとはお茶漬けのことで、居座るお客さんに早く帰ってほしいときに「ぶぶ漬けどうです」と言います。落語にもなっていたと思います)。

1975年といえば、ようやく一般家庭でもカラーテレビを見るようになった時代で、夜の1時ごろにはTV放送が終了していました。そんな中で、24時間のチャリティ番組を京都の地方局が放送していたことは、今にして思うと画期的な出来事だったと思います。

現代に比べるとまだまだ貧しかった時代ですが、心は豊かな時代だったのかもしれません。四旬節に少しだけでも貧しい思いをして、心を豊かにしたいと思います。

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2007/01/31

政治と教会

まずは、映画「ジャンヌ・ダーク」(リンク先はgoo映画)です。主人公は歴史で習ったジャンヌ・ダルク(リンク先はWikipedia)ですが、聖人とは知りませんでした。

100年戦争の中、ジャンヌ・ダルクは神さまのお告げを聞いて、衰退しつつあったフランスの勢力を伸ばし、シャルル7世を国王にしました。普通の少女が、軍隊を率い、鼓舞し、戦闘に勝ちました。

しかし、ジャンヌ・ダルクは政治的な動きの中で次第に孤立し、ついに極悪な司教のもとで異端審問裁判にかけられます。ジャンヌ・ダルクは一度は命を守るために異端であると認めようとしますが、信仰を捨てられず火あぶりになります。

なぜ神さまが戦争をするように言ったのか、正直なところ納得できないところもあります。しかし、強い信仰心によって戦いに勝ったときに見た多くの死者に涙する場面や、命を懸けて信仰を守ったことは聖女にふさわしいと思います。

Wikipediaによると、ジャンヌ・ダルクがいなければ「今日の自由主義はイギリスに存在しなかったかも知れない」とされており、神さまの御旨は計り知れません。

NHKの「その時歴史が動いた」で島原の乱をやっていました(2月に再放送予定)。当時、愛(エロースではなくアガペー)に相当する言葉がなく、「御大切」と呼ばれていたことは新鮮な驚きでしたが、ポルトガルの植民地政策に宣教師も関与していたのは、映画「ミッション」と同じような構図です。島原の人々は宗教をめぐる国家間の衝突に翻弄されながらも、信仰を守り続けたのです。

中世の教会は政治とのつながりが強く、どうも好きになれません。しかし、そのような時代だからこそ、アッシジの聖フランチェスコ聖イグナチオのような偉大な聖人が生まれたのでしょうけど、神さまの御旨は計り知れません。聖アウグスチヌスが言うように

あなたが理解し尽くせる方であれば、それは神ではない

(ベネディクト十六世 回勅「神は愛」p.76)

のでしょうか。「神は愛」(p.56)には次のような言葉もあります。

教会は、できるかぎり公正な社会を実現するための政治闘争を自ら行うことはできませんし、行うべきでもありません。教会が国家に取って代わることはできませんし、取って代わるべきでもありません。

やはり教会は直接的に政治に関わるべきではないのでしょう。さらに、こうも書かれています。

しかしながら、同時に教会は、正義のための戦いを傍観していることはできませんし、傍観するべきではありません。教会は理性に基づく議論を行い、また、霊的な力を呼び覚まさなければなりません。

直接的でなく、個人の霊的な力を守り育てることで愛のわざを実践しないといけないのでしょう。そこには、ジャンヌ・ダルクや島原の人々が味わった苦しみがあると思います。しかし、そのような中をキリストの道として歩まないといけないのでしょう。

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2007/01/18

感情にとらわれること - 悪霊と悪魔 -

映画「妖怪大戦争」を見ました。案内にはこう書かれています。

日本各地では、突然子供が消えたり、恐ろしい化け物が人間を襲ったりする事件が多発していた。それは、この世に恨みをもつ悪霊たちの仕業だった。黒幕は古代先住民族の怨念が蘇った魔人