2009/06/27

どんな傷だって大切な思い出にきっとできる

NHK連続TV小説「つばさ」。ようやくコメディタッチにもなれてきました。

今日は夫の昔好きだった人を知って傷ついたお話でした。つばさはラジオを通してこう語りました。

 許せないと思うなら痛い傷のままです。
 そのきずがあったからこそ、二人は出会えたのです。
 そう思うことができれば
 どんな傷だって大切な思い出にきっとできる

そして番組の最後のナレーションが入りました。

 傷を癒してくれるのは時間、家族、友達

確かにそうですね。傷があったからこそ、今がある。人生に無駄なものは何一つない。苦しみも悲しみも大切な宝物だと思います。そして傷を癒してくれるのは、時間と、家族や友達でしょう。

でも、本当の苦しみの中で、周りの人さえも信じられなくなった時、最後の希望は自分が生まれてきたことには意味があると言うことです。

自分の存在そのものに意味があり、乗り越えられない試練はない、そんな希望があるからこそ、どんな傷だって大切な思い出に必ずできると思えるのだと思います。

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2009/06/07

あなたが望まれずにこの世に生まれてきたわけではない

NHK連続テレビ小説「つばさ」は、やはりコメディタッチがなじめないものの、今回も良いお話でした。
斉藤由貴(なつかしい!)扮する紀菜子は、自分の名前をかわいいと思っていましたが、本妻の子供が加乃子であることを知り、「鹿の子」は主役だが「きなこ」は脇役だと思ってしまいます。そして、愛人の子供として生まれた自分は望まれない子供だと思い悩みます。

そんな紀菜子を思いながら父が作った菓子「千日草」がありました。それは離れて暮らす紀菜子を思い、その菓子を作ったのでした。そして、本妻は夫の浮気を憎みながらも、ラジオをとおしてこういいます。

「和菓子には必ずそれが世に出た由来がある。どんな菓子にも、生まれるべき理由がある。それは人間も同じこと。あなたが望まれずにこの世に生まれてきたわけではない(略)。そのことを決して忘れてはだめ(略)。」

この言葉、どこかキリスト教と通じるところがあります。世界の創造主である神は、世界の完成に向けて人間を作られました。そして、生まれてくるすべての人を愛されています。すべての人が望まれて生まれてきたのです。

人と人は、ついつい争ってしまいますが、神様はすべての人を愛している、すべての人が大切である。私はキリスト教を通してそう思います。しかし、すべての人がかけがえのないものであることは、宗教に関係なく生きていく上でとても大切なことだと思いました。

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2009/05/23

物語の続きはあなたの手の中にある

NHKの連続テレビ小説「つばさ」。時々コメディタッチ名ところがあって、ちょっと違和感を感じながら見ていましたが、今日のお話には、不覚ながら感動しました。

主人公の上司の子供は、亡くなった母親にまかせっきりでした。その子は上司(父親)が「あしたは帰ってくれるんじゃないか」と思い続け、さらにいつも大人たちから「あとで」と言われてはほったらかしでした。そして「『あとで』は『おしまい』なんだよ」と思っていました。

主人公のつばさは「『あとで』は『つづきがある』ということ」を教えるには、上司を子供に会わせるしかないと上司を説得します。この言葉がタイトルの言葉です。

  おきてしまった物語は変えられない

  けれど

  物語の続きはあなたの手の中にある

人生では色々なことが発生します。過去のことは変えられませんが、未来には様々な可能性があります。それは理想どおりの未来ではないかもしれません。でも、なるべく良くすることはできるはずです。絶望や義務感に囚われた苦しみではなく、より良く生きると言う希望に燃える未来があるのです。

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2009/03/02

喜びを感じることができれば自由になれる - ブルース・オールマイティ -

先日見たエバン・オールマイティが面白かったので、シリーズの最初の作品であるブルース・オールマイティ(リンク先はYAHOO!映画)を見ました(以下、ネタバレ注意!)。

うまくいかないと神さまに文句を言う、ジム・キャリー演じるブルースはそんな人間でした。あるとき、仕事の話だと思ったら神さまが現れて「不満があるなら君がやれ」と全知全能の力を与えられてしまいます。水の上を歩いたり、トマトスープを紅海に見立てて二つに割ったり、そんな聖書にある奇跡を楽しんだ後に、彼が行ったのは自分のための奇跡。

しばらくすると、人々の祈りがうるさいからと、すべての願いをかなえたものだから大騒ぎ。多くの人がくじに当選したり、落ち目の球団が優勝したり、そんなこんなで街では暴動さわぎになってしまいます。

途方に暮れるブルースに、「人間ののぞみはきりがない」「人間には奇跡を行う力がある」「自分で行わなければならない」と、神さまはどうあるべきかを説きます。そして、ブルースも神様の苦労を理解して、心を入れ替えるますが、彼は満たされません。様々な出来事の中で彼女を失ったからです。

全知全能ではあっても「人の愛はあやつれない」、その現実が重くのしかかります。ブルースは彼女が毎晩祈っていることを聞き、その祈りを調べます。彼女は、ブルースの幸せを祈っていました。ようやく、ブルースは自分のことではなく、人のことを祈れるようになりました。

彼女のことを祈ったブルースは、傲慢さの呪縛から離れ、ようやく自由になったように思いました。彼女の愛を知り、自由になったのです。そういえば、映画の最初の方で、神さまが神である証明として、ブルースの父親のことをこう語りました。

「彼は労働の喜びを知っていた。自由だった。」

ブルースは放送局で働いていましたが、不満だらけでした。傍から見れば幸せな生活であっても、現状を受け入れることができず、自分のことばかりを考えて、彼女の気持ちも考えていませんでした。

生きている中で、だれでも不満は感じます。しかし、現状を受け入れて喜びを感じられたなら、自分の心から解放されて自由になれるのだと思いました。

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2009/02/20

素直な気持ち - だんだん -

NHKの連続テレビ小説「だんだん」。今日は、双子の「めぐみ」と「のぞみ」の父親である「忠」とのぞみの育ての母「嘉子」の夫婦喧嘩が山場を迎えました。

嘉子は前妻の再婚話に心穏やかでない忠に嫉妬して、家出をして離婚を申し出ました。忠は嘉子を連れ戻したのですが、結局、離婚届にハンコを押しました。

気持ちが治まらない嘉子がさらに不満を言うと忠は、心の内を全部見せれば良いものではない、言えないこともある、それを思いやるのが夫婦、と言います。そして互いに気持ちを素直に語った後に、ようやく嘉子はすべてを受け入れる事を決意し、仲直りすることができました。

これを見ていて昔のことを思い出しました。それまでは、妻と夫婦げんかをして、離婚を口に出したとしても、離婚届をだれが取りに行くかでもめるところで終了して、真剣に別れることを考えたことはありませんでした。しかし、一度だけ、真剣に考えたことがあります。それまで、お互いにストレスが溜まっていたのでしょう、「こんなに苦しむなら別れた方がましだ」と思ったのです。

さんざん言い争ったあと、一人で何気なくテレビを見ていると、京都の東山にある詩仙堂(リンク先はぶらりと京都)が映っていました。静かな空間に、夏場にもかかわらず涼しい風が吹き抜ける様子を、一発屋の芸人さんは「大人の贅沢」と評していました。喧嘩のあとで気持ちが治まらない私は、家族を置いて一人で出かけることにしました。

とても素晴らしい空間でした。いやなことも忘れて、静寂を一人占めした幸せに浸りました。結婚してからこんな時間を持ったことはなかったなどと考えながら、調子に乗った私は、あらかじめ調べていた鷺森神社(さぎのもりじんじゃ)に行きました。紅葉が美しいことで有名なその参道は、左右から見事な木の枝が迫ってきて、秋の素晴らしい情景が目に浮かぶようでした。

そのときに、ふと思いました「秋には家族で来たい」と。その瞬間に素直になり、自分の気持ちに気付き、負けを認めることができたのです。

私は頑固者です。この時まで「素直」という意味が、よくわかりませんでした。人によっては従順になるという意味で使う人もいますが、それはちょっと違うと思います。やはり、自分の優しい心に従うことが「素直」なのだと思います。

夫婦に限らず、人が二人いれば、価値観も違い、思いも違います。その違いを受け入れなければ、互いを尊重することはできません。自分の心の奥にある仲良くしたいという気持ちに素直になれば、相手を受け入れることができて、新しい関係が始まるのです。

でも、どうしてもうまくいかないこともあります。そんな時は争うのではなく、争わなくてすむ「ほど良い距離」をとって関係を改善する必要があります。それもまた、ひとつの素直な行いだと思います。

しかし、この素直な気持ちにたどり着くことが難しい時があります。思い込みや執着心、自己愛や顕示欲が、素直な気持ちを見えなくさせて、惑わせるのです。そんな時は、その苦しみを神様に捧げれば、きっと素直な気持ちにたどり着けると思います。

「自分を捧げる」に続く(はず)

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2009/02/13

リセット

TVドラマの「リセット」。天使の手助けによって人生をリセットしてやり直すというドラマです。神さまの御旨には間違いはないので、天使と言いつつも堕天使ではないかと思うのですが、なるべく気にしないで楽しんでいます。

このドラマでは、人生の分岐点をやり直すと、もっと悲惨なことになって、再度やり直すと、さらにひどくなる。そんなブラックなストーリーが続きました。最近は2回目のリセットをしないというストーリが続いています。

人生の中で、誰でも「こうすればよかった」と思うことはありますが、過去のことを悔むより、現状を受け入れて前向きに生きる方が幸せになれる、そんな風に思いました。MAGISさんのブログに影響を受けたのかもしれません。

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2009/01/26

祈るとチャンスが与えられる - エバン・オールマイティ -

映画「エバン・オールマイティ」(リンク先は映画作品紹介)は、現代版「ノアの箱舟」のお話です。

主人公のエバンはキャスターから転身し、「世界を変える」と言って下院議員になります。そこに神さまが現れて、ノアの箱舟を作ることに、子どもたちは楽しんでいたのですが、周囲はおかしくなったのだと思い、「ニューヨークのノア」とからかいます。そして、ついに我慢が出来なくなった奥さんが子供を連れて出ていきます。

子どもをつれてファーストフード店でやけ食いをしている奥さんに、店員になった神さまが表れます。そしてノアの箱舟は神の怒りの話ではなく、愛の話だと語ります。信じあう心で動物がカップルで助け合い、ノアと家族も助け合い、みなが寄り添って箱舟に乗る。と語ります。

奥さんは「神が命じた」と夫が言うのは、どういうことかと尋ねます。そこで、神さまは「おそらくチャンスだ」と言います。「忍耐を」と祈れば神は「忍耐」ではなく「忍耐のチャンス」をくれる。「勇気を」と祈れば神は「勇気」ではなく「勇気のチャンス」をくれます。もし、「家族に絆を」と祈れば、神は「あったかい温もり」ではなく、「愛しあうチャンス」をくれると諭します。

私たちは日ごろ、色々な事を祈ります。しかしそれは祈りしかないと諦めるのではなく、祈ることでチャンスが与えられるのだと思えるなら、一歩前に進む勇気がもらえると思います。私の過去を振り返っても、心から祈った時には、その願いに素直に向き合うチャンスが与えられていた様な気がします。

映画そのものは、SFファンとしてはCGに若干不満がありますが、全体はコメディタッチで描かれていて、気軽に楽しめる良い映画だと思います。

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2009/01/04

あなたがたが赦すならその人の罪は赦される 「アポカリプス~黙示録~」

正月休みの締めくくりに「アポカリプス~黙示録~」を見ました。

難解と言われている黙示録(リンク先はWikipedia)を今まで避けてきましたが、映画なら挑戦できるかと思って見てみました。内容はヨハネが黙示録の啓示を受けていた時代のお話です。ドミティアヌス帝にキリスト教徒が弾圧されていた時代の物語部分は良かったのですが、黙示録の内容は、聞き覚えのある言葉がいくつか出てくる以外は、イメージ優先で、よくわかりませんでした。黙示録を読んだ人が見ると、具体化の手法に感動するのかもしれませんが、、、

物語部分では、ヨハネをはじめとする囚人のクリスチャンが、拷問やいじめをうける仲間を気遣うシーンが登場します。特にヨハネが拷問を受けることを顧み無い姿に、看守も止められなかったシーンは感動的でした。

また、秘密を隠していた恋人を許せないヒロインに、ヨハネがイエスの言葉として

あなたがたが赦すならその人の罪は赦される(ヨハネ20・23)

と述べるシーンがあります。 この言葉は、カトリックで司祭がゆるしの秘跡を行う際の裏付けになっている言葉です。これを私たち個人に当てはめると、すごく深みのある言葉になると思いました。主の祈りで

私たちの罪をお許しください。
私たちも人をゆるします。

と言いつつも、なかなかゆるせないのが現実だと思います。しかし、私がゆるすことで、神さまにもゆるされるなら、ゆるせるような気がしました。

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2009/01/02

すべての人のもの - マリア -

Maria2 1月1日は神の母聖マリアの祝日でした(写真はファティマの聖母)。実はミサの間、大晦日に見た映画「マリア」を思い出していました。

この映画では聖書の短いことばが、より具体的にあらわされています。マリアとエリザベトの話も興味深い表現でしたし、3人の博士もなかなか良い味を出しています。聖書では突然現れる3人の博士ですが、東の国からベツレヘムへの旅は砂漠を渡るなど命懸けだったのは、映像を見て初めて気付きました。

ヨセフがとても優しい人に描かれています。ナザレからベツレヘムまでの200kmという距離を、身重のマリアをロバに乗せ、ヨセフは4日間歩き続けます。途中のエルサレムでは、多くの商売人に辟易し、さらに盗みにも逢いかけます。ヨセフは「これが聖なる都か」と嘆きます。

食事も十分になく、ヨセフはパンを半分に分けて、大きい方をマリアに、そして自分の分は一口食べるだけで、残りをマリアを運ぶためのロバに与えました。川を渡るときには危うく流されかけるマリアを救い、荒れ地を歩着続けるうちにヨセフの足は泥にまみれ、血もにじんでいました。

そんなヨセフの足をふきながら、マリアはお腹の子に言います。

お前を育ててくれるのは善良な すばらしい人よ
自分より人のことを考える人

ヨセフは何も教えることがないかもしれないと言っていましたが、このような愛がイエスを育てたのでしょうね。

ベツレヘムの手前で、気になったのは羊飼いの話です。ヨセフいわく「羊飼いは生涯一人で暮らす」とのこと。それで神父やシスターが独身なのかもしれませんね。

ロバに揺られて体の冷えたマリアに、ある羊飼いが暖をとらせてくれました。ここでも「あなたのご親切を子供に話すわ」と、ここでも聖家族のあり方を垣間見せてくれました。この羊飼いが、こんな話をしました。

神はあらゆる人に授ける、贈り物を
あんたは お腹の中のものを授かった

と祝福の言葉を語ります。マリアが「あなたは何を?」と羊飼いに聞くと、

何も、贈り物を授かる希望だけ

とさびしげに語りました。その羊飼いは、天使に救い主の誕生を知らされるあの羊飼いでした。ミサの朗読では「思いを巡らしていた」(ルカ2・19)とされていたマリアは、飼い葉桶のイエスを抱きかかえて羊飼いにこう言います。

すべての人のものよ
私たちへの贈り物です。

最高のシーンでした。

そうそう「宿がなかった」のシーンは結構笑えます。ぜひ見てください。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/10/07

「夢をかなえるゾウ」とキリスト教の比較

「夢をかなえるゾウ」という本が売れているそうですが、これのTVドラマを見ました。ガネーシャという像の顔をしたいい加減な(ドラマ中の表現です)神様が、夢の実現を願う人間に、まさかと思う様々な課題を与えながら夢を実現させるというお話です。

このガネーシャというのはヒンドゥー教の神さまの一柱です(リンク先はともにWikipedia)。ドラマを見ているとキリスト教と異なるところがあります。

1)供え物が先
キリスト教では神さまの恵み(収穫)の一部を備えますが、ガナーシャは夢をかなえてもらうのだから、供え物をするように言います。

2)完全でない
イエス・キリストも人間ですから、苦しんだり、怒ったりもします。しかし、ガナーシャはとても人間味があります。パチンコで負けたり、人のお金で勝手に買い物したり、聖おにいさんも負けています。

微妙に似ているのは、

3)契約する
課題をじっししなければ、今後夢を抱かないという契約書を書かされました。キリスト教には洗礼志願の要旨はありますが、契約書は聖書だけです。そして、約束を破っても見守ってもらえます。

同じだと思えたのは、人間の本質に関するところです。

4)人の言うことをキカンと怒る
タラントンのたとえ

5)自分の考えにしがみつく
正しくないのは、お前たちの道ではないのか

傲慢な人間に幸せが訪れないのはおなじですね。

6)運が良かったと言う
いつも喜んでいなさい

7)人の成功を手伝うことが成功の近道
善いサマリア人

8)毎日、感謝する
重い皮膚病を患っている十人の人をいやす

こう見てくると、たしかに人間の解決すべき課題は共通のものかもしれません。しかし、神さま自らがお手本となって愛を分け与えたり、「互いに愛し合いなさい」などとは言ってくれませんでした。そして、いつもそばにいてくれる神、すべてをゆだねられる神ではありませんでした。

こうして、他の宗教(ドラマを通してですが)を見ると、キリスト教の本質が見えて着たように思いました。

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2008/08/23

あなたが大切 - 心のともしびTV -

「命の大切さを教える」という言葉がありますが、シスター渡辺和子の心のともしびTVの第6回「ごたいせつの愛(動画)」では、「命が大切でなく、あなたが大切」ということを伝えなくてはならない。と言われていました。

キリシタンの時代には「アガペー」という意味の「愛」の代わりに「ごたいせつ」という言葉を使ったそうです。「愛する」ということは溺愛することではなく、その人の自由を奪うことでもなく、その人そのものを大切にすること。良いことも悪いこともみんなその人の個性として大切に思うことなのでしょう。

親は子供のためにと言いながら、子供のためにならないことをついついしてしまいます。色々と失敗してしまう親ですが、いつ、どんな時でも「あなたが大切」というメッセージは送り続けたいと思います。

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2008/08/14

「幸い」とは絶対的な祝福の世界

ツッチーさんにいただいたコメントをきっかけに見つけた晴佐久昌英神父説教を読みました。この説教はいわゆる平地の説教の一部である「幸いと不幸」(ルカ6・17,20-26)という福音に対して話されています(良い説教なのでぜひ読んでください)。この中で、晴佐久神父はこんなことを言われています。

ちょっと幸せになったら「もっと幸せに」。もっと幸せになったら「でもまだ隣の家の方が幸せ」と。これでは、幸せなのになおも幸せを求めて苦しみ、不幸せを恐れるという「幸せ地獄」です。

イエス様の「幸い」っていうのは、どうもそういう世界とちょっと違うようですね。「幸い」っていう言葉は、日本語の語源は「さきわう」ですから、咲いて湧いてあふれ出てきて、豊かに満たされるということです。条件抜きに全てにおいて言える言葉です。これには「不幸い」っていう反対語はありません。

幸いは一方的に与えられてその人を満たしている祝福された状態で、「幸せであればもちろん幸い、不幸せであってもやっぱり幸い」、そう言えるような絶対的な祝福の世界です。そのまことの幸いの世界を信じられた時に私達は幸せ・不幸せという相対的な、いわば「幸せ地獄」から抜け出すことができます。

人というのは、ついつい不幸と思ってしまい苦しみますが、愛されていることを知っていれば、すでに幸せであったことに気付かされます。この説教を読んで、ハヤット神父のこころのともしびTVの初回「人生の目的(動画)」を思い出しました。

人は「もっと幸せに」とついつい思いがちですが、欲望を満たしたからと言って幸せとは限りません。ハヤット神父は、たまにいただくアイスクリームが好きで、いつかおなかいっぱい食べたいと思われていました。しかし、それが実現したとき、苦しいだけだったそうです。

晴佐久神父のいわれるように、貧しいから幸いではなく、「あなたがたは幸いだ」という祝福なのだと思います。満たされたなら恵みを感謝すれば良いし、満たされないなら少しの幸せが花のように咲くでしょう。今、満たされないこともやはり幸せなのだと思いました。

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2008/08/12

神さまが置かれたところで咲きなさい - こころのともしびTV -

シスター渡辺和子のこころのともしびTVは、前シリーズと違って、いかに人生を生きるかを語られています。第5回「置かれたところで咲く」は、ナウエンの本で重くなった心をほぐしてくれました。

シスター渡辺は修道会に入られてすぐアメリカに派遣され、帰ってくると岡山の大学に派遣され、翌年には学長をされることになったそうです。まだ終身請願前なのに、これまでのアメリカ人学長の半分の年齢(36歳)で、卒業生でもなく、地元出身でもないのに大役をまかされたそうです。当時は、周囲からの風当たりも強く、大変苦労されたそうです。

「こんなはずじゃなかった」と苦しんだ末に、二人の神父さまに相談されたそうです。知り合いの神父さまは慰めるでもなく、

「あなたが変わらなければ、どこへ行っても何をしても同じだよ」

と、ナウエンの本に書かれているような言葉を言われたそうです。そのころのシスターは、みんなは何もしてくれないという「人に求める思い」にとらわれていたそうです。そこで、自分から与える人、あいさつし、お礼を言い、お詫びをし、人を褒める人間に変わったとき、周りの人も受け入れてくれるようになったそうです。

もう一人のベルギー人の神父さまは「神さまがお植えになったところで咲きなさい」という英語の詩をくださったそうです(シスターは「お植えになった」を「置かれた」と以下のように訳されました)。

神様が置かれたところで咲きなさい

置かれたところで咲きなさい
仕方がないと諦めるのでなく咲くのです
咲くということは、自分が幸せになり
周囲の人を幸せにすることです
咲くと言うことは、私は幸せなんだということを
周囲に示して生きることなのです

咲くと言うことは大変だけれども、そこに置かれている間はそこで咲くのだと教えられたそうです。それは、決して見事な咲き方でなく、自分なりに一生懸命咲かせればそれで良いのだということです。

ナウエンの本で苦しくなった私は「いつも喜んでいなさい」(一テサロニケ5・16)という言葉を忘れていたのかもしれません。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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復讐心は人間を醜く変えてしまう - スパイダーマン3 -

今週は夏休みなのですが、女性陣はすでに里帰りを終え、息子は教習所通い、ということで、家の中でごろごろしています。それなりに風呂敷残業もあって暇と言うことでもないのですが、せっかくの夏休みなのでキリスト教的と言われている「スパイダーマン3」を見ました。

確かにキリスト教的で、復讐心と許しがテーマになっています。誰でも復讐心とまでいかなくても、誰かに「ムッ」とすることはあると思います。そんな時の心は、全然平和では無かったと思います。

スパイダーマンのおばさんは、これを「復讐心は人間を醜く変えてしまう」と表現しています。復讐心は相手のことを考える余裕をなくし、荒んだ自分の心を満たすことしか考えなくなります。しかし、逆に復讐心を乗り越えることができたなら、人の心は穏やかになり、他人にも優しくなれます。

この映画では、おじさんの死、友人の父親の死、彼女とのいさかい、仕事の奪い合い、を通して、復讐心にとらわれた人間の醜さ、哀れさを表しています。そして許しとその後の描写で、友情と愛を輝かせています。

スパイダーマンシリーズは原作がアメコミなので子供向きと思われがちですが、ハムナプトラのようなSFXもあり、気楽に楽しめる構成ですので、ぜひご覧ください。

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2008/07/22

あなたは時間を無駄にしています

ノートルダムつながりというわけでもありませんが、シスター渡辺のこころのともしびTV「絶えず祈りなさい」を紹介します。

修道院に入られた頃、ボストンの修練院では単純作業が多かったそうです。食器をテーブルに並べているときに、修練長から「何を考えながら仕事をしていますか」と聞かれ、「別に何も考えておりません」と答えると、「あなたは時間を無駄にしています」と言われたそうです。

言いつけどおり、仕事は手早くしているのに叱られ怪訝に思っていると、「同じ食器を並べるなら、一人一人のために祈りながら並べたらいかがですか」と言われたそうです。

仕事はただすれば良いのではなく、心を込めて、愛を込めてすることが大切だと教えられたそうです。機械的に仕事をしていては時間の無駄で、時間の使い方はそのまま人生の使い方になるということを教えられたそうです。

「雑用という用はなく、用を雑にしたときに雑用が生まれる」とも教えられたそうです。不機嫌で仏頂面で過ごすのでなく、意味のある時間を使う、時間の使い方は命の使い方だと教えられたそうです。

マザー・テレサが日本に来られた際、シスターは通訳として側におられました。マザーは疲れているはずなのに、多くのフラッシュを浴びながらもいつも笑顔で撮影に応じられていたそうです。「マザーは愛想の良い方だ、もしかするとカメラがお好きなのかしら」と思われたようです。

すると、マザーは「フラッシュがひとつたかれるたびに、今亡くなろうとしている人が神のみ腕に抱きとられますよう、私が笑顔を見せることでお約束しているのですよ」とおっしゃったそうです。マザーは時間を無駄にせず実行している方だとしみじみ思われたそうです。

私たちも誰かのために、何かのために、小さな死をささげることができる。それは絶えず祈ることではないかと、番組を締めくくられました。

これは、ちょっとショックを受けました。仕事をする時、ついついこなし仕事になっています。心を込めて、愛を込めて、意味のある時間を過ごさないといけないというのは、とても新鮮でした。今まで深く考えたことはなかったですが、実生活の中でのあかしというのは、こういうことなのでしょうね。

番組の最初と最後にマザーの言葉が紹介されていました。

祈りを唱える人でなく
祈る人
祈りの人になりなさい

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2008/07/21

ノートルダム

NHKの探検ロマン世界遺産でフランスのランス大聖堂を紹介していました。そのなかで、聖母マリアに捧げられたのでノートルダム(フランス語で我等の貴婦人)聖堂と呼ばれているとの説明がありました。

ノートルダムってパリじゃないの、などと思いましたが「聖母マリア」ということで納得しました。そういえば京都にも同名の大学があり、日本語にすると聖母に関する大学が京都に2つもあったとは知りませんでした。

Wikipediaでノートルダムを調べると、大学だけでも5団体あり、ノートルダム聖堂だと教会をなども入れて20以上あるのですね。

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2008/07/16

光の国からぼくらのために

mixiで、「ウルトラマンシリーズは聖書をモチーフにしたお話が多い」と言うことで盛り上がっているようです(参照にはmixiのIDが必要です)。

原作者の円谷英二さん脚本家の市川森一さんはカトリック信者で、ゴルゴ(ダ?)星で十字架につけられ超獣「バラバ」が暴れる話や、怪獣の名前では「ゴモラ」「ペテロ」「アロン」「カナン星人」など聖書からとった名前もあるようです。

そういえば、光の国の宇宙警備隊員のウルトラマンは、ハヤタに命を分け与えて地上に降り立ったのですし、セブンでは十字架の形に捉えられて後から復活するお話もありました。

キリスト教とは関係なく子供の頃をすごしていたつもりでしたが、こんな関わりがあったのですね。これもご計画なのでしょうか?

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2008/07/12

神の領域を映画・TVに見る

キリスト教を知ることで、欧米の文化への理解が深まることがあります。先日も動物と人間の違いを知ることで、欧米と日本のSF作品やホラー作品の違いがわかったような気がします。

ニュースなどで神の領域と聞くと、生命の誕生に関わることをイメージします。映画で言うと、フランケンシュタインの怪物のように新しい生命を生み出してしまうようなお話です。しかし、神様は命だけでなく、人間を神の似姿として作ることで、霊、すなわち自由な知性と感情を与えました。

日本のアニメだと、鉄腕アトム、ドラえもん、エイトマンのように、最初から知性や感情がある作品が多いです。もちろん、海外でもSFのAIやアンドロメダのような作品もありますが、スタートレックボイジャーのドクターやアンドリューNDR114のようにプログラムのトラブルや変化によって知性や感情を得たり(日本だとTV絶対彼氏がそうですね)、感情に関して何らかの問題が生じる例が多いです。

たとえば、ペット・セメタリー(リンク先はgoo映画)では、死んだものに命を与えることはできても凶暴になってしまいます。ゾンビも怪物ですね。日本だと帰って来たヨッパライ(リンク先はYahoo!ミュージック)のように何事もなく元に戻るんですけどね

新スタートレックに出てくるアンドロイドのデータ少尉(リンク先はWikipedia)は、感情を得るとトラブルを生じます。また、兄弟アンドロイドのローア(リンク先はWikipedia)も人間とうまくやって行けずに性格が歪んでしまします。

このように見てくると欧米で考えられている神の領域が生命だけでなく、知性や感情にあると考えられていることがわかります。これは、特に感情のバランスにおいてよく表れていて、最初にあげたフランケンシュタインもそんな作品ですね。

フランケンシュタイン(リンク先はWikipedia)というのは科学者の卵(学生)で、このフランケンシュタインが最高の人間を作ろうとしたお話です。「フランケンシュタインの怪物」などと呼びますが、「フランケンシュタインの創造物」という呼び方もあるそうです。この怪物は意識もきちんとあるのですが、最後には創造主である人間に絶望して復讐を始めます。

このように見てくると、感情を与えることができても、良いバランスを与えることは神のみが可能な「神の領域」であることが表現されていると思います。ということは、自分や他人の感情のバランスを崩すことは、神の御旨に逆らうことなのでしょうね。   

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2008/04/14

神さまの所為にした僕

心のともしびTV(番組の動画を見ることができます)の第20回「神の賜物の用い方」は、ここでも何度か紹介した「タラントンのたとえ」(マタイ25・14-30)でした。

これは、神さまからの賜物(能力)をタラントンと言うお金にたとえたお話です。ある人(神様)が僕(しもべ)にお金を預けます。人によって渡される金額は違うのですが、僕たちは頑張ってそれを増やしてほめられます。しかし、1タラントンだけ預けられた僕は、無くしては大変だと増やそうとせず、(天国から)追い出されてしまうというお話です。

この最後の能力を生かさなかった僕ですが、ちょっと理解に苦しむことを言っています。主(神さま)は怖い人だから無くしては大変だと思った、と言うのです。神さまを誤解してはいけないと言うお話かと思っていたのですが、心のともしびTVの井上神父によれば、これは「投影」で、自分の責任を神さまになすりつけているのだそうです。

Wikipediaによれば、投影は「欲求不満などによって適応が出来ない状態に陥った時に、不安が動機となって行われる自我の再適応のメカニズム」である防衛機制の一つで、「自己が抱いている他人に対しての不都合な感情を、相手が自分に対して抱いていると思うこと。」だそうです。自分の抱く不安感を神さまに当てはめ、だってあなたもなくしたら困ると思っていたでしょう、と責任逃れをしているのです。

考えてみると、人間が殺しあっているだけなのに「神さまはどうして平和を与えられないのか」とか、勉強しなかっただけなのに「不公平だ」などと考えてしまいがちです。

望みがかなわなくても「気が楽で良いや」と前向きに、どんなに苦しいことも恵みと考えて明るく生きてたいと思います。だって、そう信じることができれば「だいじょうぶ」なのですから、、

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2007/11/30

愛だけが憎しみを消す - 3年B組金八先生 -

今シーズンは昔のヒューマン路線に戻った金八先生、たまたま見ていると今回は差別のお話でした。会ったことのない黒人の父をもつ生徒が差別を受けます。そんなとき、英語の授業で、母親が子守歌代わりに聞かせてくれたキング牧師の"I have a dream"(リンク先はキング牧師の部屋)を聞きます。この演説は差別のない社会を訴えるもので、金八先生の授業によって差別を受けた生徒は自信を取り戻します。

そんなに素直な子供ばかりじゃないだろうとか、色々な意見もあるかと思いますが、差別を受けた子供が、父親に対する気持ちを英語弁論大会で語るところは、なかなか感動的でした。

さて、金八先生の授業では、こんな言葉も出てきました。

憎しみは憎しみを生む。愛だけが憎しみを消す。

これは、本当だと思います。人は憎しみを感じると、さらに憎しみが増し、普通にしていれば問題のないばあいでも、ついつい対立してしまいます。すると相手も対立によって憎しみを抱き、溝はどんどん深くなっていきます。

憎しみなんて持たない方が良いです。相手の人の個性をしみじみと感じながら、ほんの少しだけ優しい気持ちを抱けたなら、きっと気持ちが楽になるはずです。

人と人の関係は憎しみでは悪くなるだけ、でも、愛があれば悪くない関係への第一歩が始まるはずです(相手のことを考えて、踏み込まない、近づきすぎないというのも愛のうちです)。

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2007/07/11

しいたげられた人々「レ・ミゼラブル」

リノ・ヴァンチュラ主演「レ・ミゼラブル」(リンク先はamazon:もっと安ところもあるようです。私はレンタルしました:-)のDVDを見ました。

日本語では「ああ無情」などと訳されていますが、字幕によると「しいたげられた人々」という意味のようです。時代は皇帝の時代から民主主義に移ろうという時代で、自由との戦いが背景にあります。

主人公のジャン・バルジャンは元囚人で、泊まるところがありませんでした。人々に冷遇されたのち、ようやく教会に泊まることができました。当時は人々の信仰心が薄れていた時代ですが、神父は人につくすことに躊躇のない人でした。身の回りのものはどんどん人に与え、価値のあるものは銀の蜀台と食器ぐらいしかありませんでした。

ジャン・バルジャンは親切にしてもらいましたが、食器を盗みます。ジャン・バルジャンを捕らえた警官たちは、神父にジャン・バルジャンが盗んだことを告げます。すると神父は、食器は与えたもので、「どうして蜀台も持っていかなかったのか」と言い、ジャン・バルジャンは逮捕を免れます。

予想外の対応に驚くジャン・バルジャンは「この蜀台は人のために使いなさい」と神父に告げられ、その後の人生が大きく変わります。行き違いで再び追われる身になりますが、名前を変えて工場を興し財産を築き、市長と言う名誉も得ます。

そんなジャン・バルジャンでしたが、知らぬ間に人の人生を狂わせてしまいます。一つは別の人間がジャン・バルジャンとして逮捕されたこと、もう一つは娘の養育費を払うために働いていた女性を、ちょとしたトラブルでクビにし、転落の人生を歩ませてしまったことです。

ジャン・バルジャンは間違えられた男を救うために名乗り出ますが、娘を連れ戻すために逃亡します。しかし、女性が亡くなり、警察に追われながらもジャン・バルジャンは娘を引き取って、逃亡生活を送ります。

民主主義運動が活発になる中、ジャン・バルジャンを追う私服警官は革命グループにとらえられますが、ジャンバルジャンは私服警官を救います。敵であるはずの私服警官の命を救ったジャン・バルジャンは、ようやく心の自由を得ることができました。

このお話は、神父の優しさに救われ、蜀台という十字架を背負ったジャン・バルジャンが、自由への道を歩むドラマです。罪を犯したものは虐げられますが、心を改めることでやがて自由が得られるということなのでしょう。

このお話には、極悪な宿の主人が出てきます。この男は、娘を預かり、養育費として母親から金をむしり取ります。そして、引き取りにきたジャン・バルジャンからも金を出させます。さらに商売がうまくいかないときにジャンバルジャンを見つけると、殺して金を奪おうともします。最後の最後まで、金に汚い人生を歩みます。

この男は、人に優しくされても、その優しさに付け込むだけで、心を改めません。いつまでも、罪を犯し続け、心は荒み、自由が得られません。

回心したジャン・バルジャン、いつまでも回心できない宿の主人、あなたなら、どちらの人生を選びますか?そんな問いかけが、このドラマに隠れているように思いました。

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2007/06/30

運命ではなく神の摂理を信じる - こころのともしびYV -

先日の心のともしびYVでは、「神のはからい」でした。神は、宇宙万物を作り、治め、保つことを願われます。特に、人間に対して慈悲の心で心身に対するすべてのことをはからってくださります。これを「神の摂理」と呼びます。「神の摂理」の解説として「思い悩むな」(マタイ6・28-34)が読まれました。一部を抜粋します。

明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。
    :
『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
    :
明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

人はついつい将来のことを心配してしまいます。しかしそれは、無駄な心配、とりこし苦労なのでしょう。

「運命」という考え方はよくありません。運命観は「これは運命なのだから、、、」という諦めにつながります。得体のしれない、人間には逆らえない力だとあきらめ、悲観的な生き方をしてしまいます。

「神の摂理」を信じるなら、すべてを神に任せ、今日一日の義務を果たせば、生活の苦労を思い悩むことはありません。良い方向に進めてくださる神の御旨を信じれば良いのです。「あなた方に平和があるように」と言われたように、私たち自身も神の恵みである「平和」をいただく権利があるのです。

ローマの信徒への手紙8章28節には以下のように書かれています。

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

苦しい時にそれを喜ぶことは難しいですが、信仰のまなざしをもって見るならば、苦しみでさえ、悪いことでさえ、神様は素晴らしい善を引き出すことができると信頼することができるのです。そのことは、時がくればやがて知ることができます。人間は苦労して種をまき、作物を育てます。そして苦労が峠を過ぎて収穫の時になれば喜びを知り、神の計画であったと感謝するのです。

信仰のまなざしをもって、神の摂理を信じれば、耐え忍び、希望を持って生きることができるのです。神様は人間を愛されていますので、災いのための災いではありません、取り越し苦労をしてはいけないのです。

しかし、どんなに祈っても願いがかなわないことがあります。しかし、与えられなかったことが神の御旨なのです。願いがかなわないときは、知らず知らずのうちに神のみ旨を追求させていただいたことになるのでしょう。

「神の摂理」を信じる生き方の根本には、神様と人間との信頼関係があります。それは、信頼的信仰とでもいうべきものをもって生きることを意味しています。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/06/24

天ぷらを食べてキリストを思う

TVで天ぷらの特集をやっていました。この番組によると、

  • 天ぷらはポルトガル語の肉を食べない日の意味
  • この日に食べたものが、さつま揚げ(つけ揚げ)のようなものだった
  • これが東京で江戸前の海産物を揚げるようになり全国に伝わった

とされていました。肉を食べない日というと、四旬節の小斎日が頭に浮かびます。そこで調べてみると、ポルトガル語あるいはスペイン語の、斎時あるいは斎日、調味料、寺院(揚げ物を食べていたらしい)、などの諸説があるようです(知泉が詳しいです)。天ぷら屋さんのホームページでは、ポルトガル語の「四季の斎日」説が比較的多いようです。

四季の斎日というのは小斎日のことで、昔は季節の初め(6月、9月、12月、そしてレント(四旬節)の第1週目)の3日間に肉を断っていたようで、このときにワカサギなど魚介類の天ぷらなどを食べていたようです。

これ以外の説では、東京天ぷら料理会は「四旬節」(復活祭前の40日間)が語源だとして、以下のように書かれています。

「てんぷら」の語源ですが、キリスト教の宗教用語で四句節のことを、「クアトロ・テンプラシ」と言います。この四句節には、キリスト教の信者はキリストの受難をしのび、節食したり、肉を食べない習わしがありました。四句節に肉を避け、魚のフライなどを食べるこの習慣が、日本のキリシタンの間にも広まり、いつしか「クアトロ・テンプラシ」から転じて、魚の揚げ物料理のことを「てんぷら」と呼ぶようになったといわれています。

ちなみに、四季の斎日も「クアトル・テンポラ」で、どちらかというよりは、どちらにも含まれる「小斎日」が語源のようです。

天ぷらを食べるときは、キリストを思うときなのですね。

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2007/06/23

おれ田舎もんやけん、ようわからんけど

テレビで武田鉄矢さんとお母さんの故イクさんの特集をやっていました。なぜか小学生のころから武田さんが好きだったので、楽しく見ていました。そして、なんとなく金八先生の有名なシーンを思い出しました。

不良の子供に対して教頭たちが、腐ったミカンは外に出さないとみんな腐ってしまうと言います。それに対して、金八先生が子供たちはミカンじゃない、血の通った人間だと怒るシーンです。

当時の武田鉄矢さんは、「母に捧げるバラード」以降大きなヒットのない中、山田洋次監督に「幸せの黄色いハンカチ」の助演に抜擢されました。高倉 健さん、賠償 千恵子さん、桃井 かおりさんといったそうそうたる俳優との共演作を皮切りに、演技の道に入ってすぐのころでした。

「幸せの黄色いハンカチ」では、桃井かおりさんをナンパするときにチェーンに引っ掛かってこけるシーンがありました。このシーンでは山田洋次監督から、演技をしようとせずに思い切り転ぶようにと言われるほど、まさに体当たりの演技で、共感を呼ぶ俳優さんでした。

そんな武田さんが、子供たちはミカンじゃないというシーンをうまく言えなかったそうです。いつもなら「あんたねぇ~!」と思いっきり怒鳴るところなのでしょうけど、どうも納得いかなかったのでしょう、監督さんに言葉を追加させてもらったそうです。

それが

「おれ田舎もんやけん、ようわからんけど」

でした。このシーンでは、金八先生は涙目になりながら、思いを訴えかけたのです。

人は思いを伝えようとしても、横あるいは上からでは、うまく気持ちが出せない時があるのですね。そんな時は「自分は大したものではないけれども、どうかわかってください」というへりくだった、諦めにも似た気持ちになることで、ようやく本当の自分の思いを示せるのでしょう。深い思いというものはそうしなければ表に出ないのでしょうね。

祈りとつながるものを感じました。

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2007/06/04

後(のち)の世について - こころのともしびTV -

第24回を迎えた心のともしびYVで、ハヤット神父の「カトリックの教え」のシリーズが最終回を迎えました。タイトルは後の世についてです。

人は肉体と霊魂を持っています。霊魂は肉体の命の源です。霊魂が肉体から離れると、肉体は亡くなって腐敗しますが、霊魂は死んだり腐敗しません。霊魂が肉体から離れると、後の世で永遠に生きます。

天国は神の愛と永遠の幸せに満ちています。霊魂は神を愛し、み旨に従った、けがれのない霊魂だけが入れます。地獄はその反対で、憎しみと苦しみに満ちています。神のみ旨に背いて、愛を持たず、罪の汚れに満ちている霊魂です。

煉獄は苦しみのところですが、地獄でなく、永遠でもありません。神を愛しているがいくらかの罪の汚れがあって、天国にまだ入れないのです。煉獄の苦しみによって罪の汚れが清められ、清められてから天国に入ります。

後の世においては私審判と公審判(いわゆる最後の審判)と言われる2つの審判が行われます。死んだときに私審判を個人的に受けて、天国か地獄か煉獄に入ります。そして、世の終わりに公の審判があります。その時に煉獄は亡くなり、みな天国に入ります。

そしてイエスさまはすべての人々を集めて、公にお裁きになります。このときの様子を、イエスさまは羊と山羊にたとえられました。ユダヤでは羊と山羊を一緒に飼いますが、公審判のときには羊を右(救われる人)、山羊を左(救われない人)に分けられるのです。

「すべての民族を裁く」(マタイ25・31-46)にあるように、兄弟の困っているときに親切にした人は永遠の命に、困っているときに助けなかった人は火の国(地獄)に入ります

ハヤット神父は、天国でご両親と再会されること、そして視聴者の皆さんと会うことを楽しみにして、番組を終わられました(次回から所属教会の井上神父が「聖書に学ぶ」というシリーズを担当されます)。

わたしも教えに従って、羊さんチームに入りたいです。

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2007/05/26

正面から向き合い跪く - モリー先生との火曜日 -

跪く(ひざまずく)という行為は、膝をついて自らを低くしてかしこまる(相手を敬い、恐縮し感謝する)行為です。それは、正面から相手と向き合わなければできません。

「モリー先生との火曜日」をDVDで見ました。主人公のミッチはあくせく働くスポーツコラムニストです。結婚を望む彼女がいますが、なかなかその気になりません。

ある時、TVで大学の恩師であるモリー先生の姿をTVに見つけます。モリー先生は食べることとダンスが好きで、スポーツ観戦で「一番!一番!」とみなが声を合わせて応援していると、急に立ち上がり「2番じゃだめなのか?」と語りかけるような根っからの先生でした。

しかし、元気だったモリー先生は筋萎縮性側索硬化症にかかりました。足から順に動かなくなり、最後には命をなくす難病です。TVを見たミッチはすぐにでも会いたかったのですが、卒業以来いちども顔を出していなかったからです。いつもたくさんの電話をかけているミッチでしたが、モリー先生にはなかなか電話をかけられませんでした。

彼女に促され、ようやくモリー先生と再会したミッチは、先生、いや先生の死とどう向き合えば良いかわかりません。そんなミッチを見て、毎週火曜日にモリー先生の授業が始まりました。

「死を恐れるのは、幸せに生きていないから」と語るモリー先生に、死、恐れ、家族、結婚、許し、人生の意味などの様々な授業を受けます。そしてミッチは徐々に変わっていきました。「モモ」に出てくる灰色マントに追われていたミッチでしたが、やがて仕事よりも自分の人生に向き合うようになります。

モリー先生は難病で苦しんでいましたが、この映画は人の死でお涙をちょうだいするお話ではありません。死ぬことよりも今をどう生きるかを考えさせてくれます。死んでいくモリー先生よりも、新しい生き方を見つけるミッチの姿に涙が出ます。

この映画の中で最も美しいシーンは、ミッチが彼女にプロポーズするシーンです。結婚する気もなく、彼女をないがしろにしていたミッチは、「愛することを恐れるな」というモリー先生の言葉に従ったものの、時すでに遅く、一度はふられます。しかし、愛することを恐れないミッチは、彼女の愛を取り戻していきます。そして、ようやく海辺でのプロポーズにたどり着きます。

夕日の中でシルエットの二人、ミッチがひざまづき指輪を渡します。このときのミッチには、愛への恐怖などありません。彼女にきちんと向き合って、彼女に託したのです。

この彼女との関係に結構考えさせられました。生活を維持するということに必死になって、家族に向き合っていない自分が見えてきました。敬い、感謝しているだろうか、大事なことを見失って、愛することを怖がっているのではないか、幸せな生き方はしていないのではないか、そんな気がしました。

正面から向き合うことが大事なのは、何事も同じでしょう。愛を恐れることをやめ、正面から向き合ったとき、人は跪くことができるのだと思いました。

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2007/05/18

自分の気持ちに素直になる - 天使にラブ・ソングを2 -

前作が結構楽しめたので、「天使にラブ・ソングを2」(リンク先はYahoo!映画)を見ました。前作はコメディとして楽しめる映画でしたが、今回は青春映画です。前作でお世話になったシスターに請われて、デロリス(ウーピー・ゴールドバーグ)はシスター姿で高校の音楽教師として活躍します。

とんでもない生徒たちに、デロリスも手こずりますが、聖歌隊を作ることでクラスが落ち着きだします。しかし、歌が好きなリタ(ローリン・ヒル)は母親の反対もあって参加しようとしません。そこで、デロリスはリルケ「若き詩人への手紙」を手渡してこう言います。 

ある作家志望の男が彼に作品を送ったの。リルケの返事は“作家になれるかなど聞くな”、書くことが何より好きなら君はすでに作家だ。

母親に逆らえなかったリタでしたが、やがて自分の心に従って、聖歌隊に参加します。自分の気持ちに素直になることで、後悔のない未来が開ける、そんなメッセージをこの映画から感じました。

比較的単純なストーリですが、何といっても「歌が良い」です。自然を見て神をたたえる歌詞や、幸せを感謝する歌詞、そして透きとおる歌声、神を賛美するラップ。ちょっと疲れた時に、こういった映画はいかがでしょうか?

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2007/05/05

ホテル・ルワンダ

昨日は初金でした。でも、花粉か黄砂かわかりませんが、どうも体調が悪いのでホテル・ルワンダを見ながら自宅にいました。

この映画はル1994年にワンダ首都キガリで起きたフツ族とツチ族の内戦に巻き込まれたホテル支配人ポールのお話です。多数派のフツ族と少数派のツチ族には、あまり大きな違いはありません。ルワンダを支配したベルギーの入植者が、身長が高く上品な者をツチ族と呼び、鼻の幅と肌の色の薄いものを選んでツチ族として味方につけただけです(Wikipediaのルワンダ紛争の記事によると農耕民族と遊牧民族という違いがあるようです)。

当然のように支配者がいなくなると、フツ族(に分類されたもの)はクーデターを起こして政権をとります。そこでツチ族はルワンダ愛国戦線(RPF)を組織し、これに対してフツ族は政府軍とは別に民兵を組織します。3年間の内戦のあと、大統領はRPFと和平協定を結びますが、その直後に死亡します。

民兵たちはツチ族が大統領を殺したとして、ツチ族の虐殺を始めます。いわゆる「ルワンダ紛争」です。それまでののどかな風景が一変して、あちこちに死体が転がっています。民族紛争なので、治安維持に入っている国連軍も一方だけには加担できず、大量虐殺が横行します。映画「猿の惑星」で「猿は猿を殺さない」という言葉がありましたが、この映画の人間たちは、まさに猿以下です。

フツ族であるポールの妻はツチ族でした。ポールは家族だけを救うつもりでしたが、避難民を見捨てられず、ホテルはさながら難民キャンプのようになります。TVのレポータも入っていて虐殺の状況を伝えるのですが、誰も助けにきてくれません。世界の人たちは、「『恐いね~』と言って、ディナーを食べている」だけだったのです。

混乱する状況の中、唯一の希望は国連軍でしたが、ようやく来た国連軍は外国人だけを助け出そうとします。「助けて!娼婦にされるか殺されるだけ、、」という女性を助けることもできず、お金をすべて渡して詫びようとするレポータ。子どもとともに逃げるつもりだった外国人シスターから引き離される子供たち、、、。

この状況で、家族だけは救うと決心していたポールが、なかなかやるんですよね。カッコ良くはないですが、過去の人脈とわいろを駆使して、ホテルに残された人々をなんとか助けようとします。ポールを含む一部の人たちだけの出国許可が出た時も、妻を外国に脱出させて自分は残ろうとします。しかし、その車も襲われて、、、(以下自粛、ぜひ見てください)

映画の舞台となったルワンダは、Wikipediaによると82%がキリスト教徒で、聖母被昇天やイースターの祝日がある国です。キリスト教の国であっても、それが思想や行動に生かせなければ、人々は争い、殺しあう現実があるのですね。

「バベルの塔」(創世記11・1-9)では、天まで届く塔を造ろうとした傲慢な人間たちの言葉を、神さまはバラバラにされました。ルワンダ紛争は、支配者が意図的に作った民族対立がルーツになりました。傲慢な人間は神の心を理解しないまま、神のような行動をとって過ちを起こしたのです。おろかな人間は、いつになれば神の心に近づくことができるのでしょうか?

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2007/05/01

キリスト者は積み重ね

プロポーズ大作戦」という昔のバラエティのような名前のドラマは、高校の同級生である吉田礼(長澤まさみさん)の結婚式で、主人公の岩瀬健(山下智久さん)が妖精(三上博史さん)に出会って、吉田礼と結婚できるように高校生活をやり直すというお話です。教会で式を挙げるのだから、妖精でなく天使にしてほしいところですが、笑いあり、人情ありで、それなりに楽しめます。

毎回、披露宴の写真の場面に戻って、少しずつ人生をやり直すのですが、今回の妖精の「遠回りかもしれないが、確実に好感度は増した」という言葉は少し考えさせられました。まあ、一度のやり直しで結婚相手が変わってしまうとドラマが続かないからでもあるのでしょうけど、確かに人の心はそんなに簡単に変わるものではないと思いました。

教会に通いだして、誰もが言ってほしい言葉は「最近、変ったね」という言葉ではないでしょうか。教会に通い、洗礼を受けて、考え方は大きく変わったはずです。でも、本人が思うほどには、なかなか認めてもらえないのではないでしょうか。

キリスト者として生きていくことは、積み重ねなのでしょうね。教会で通って考えが変わったなんて、今までの人生を自分中心に突っ走っていたものが、ほんのちょっと、そう、せいぜい1度ぐらいでしょうか、ちょっと向きが変わったにすぎないのでしょうね。別の方向に向いたとほかの人にもわかるようになるには、何度も、何度も、本人にとって驚くような回心が必要なのでしょうね。

逆に教会の方から、驚くような言葉をかけられることがあります。「熱心」という言葉です。「敬虔」と言われるよりは恥ずかしくないのですが、これってなにか違うのですよね。見た目は熱心な人と変わらないかもしれませんが、心の中は「ダメダメ」です。

以前、聖書の分かち合いで「放蕩息子のたとえ」を分かち合ったとき「人はついつい兄になってしまう」と言われる方に、すかさずに「そうですか、私なんてダメダメですよ」と言ってしまったほどです。

この「ダメダメ」感があるからこそ、教会に行こうと思うんですよね。まだまで駄目だと思って神さまにゆるしを乞い、良い方向にちょっとだけ向きを変える。ミサのそのひとときが1週間の元気をくれるのですよね。今週はミサに行きます。

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2007/04/19

ソドムとゴモラ

ソドムとゴモラ」(リンク先は紀伊国屋書店)を見ました。この映画は原題が「アブラハム」とされているだけあって、ソドムとゴモラはあまり描かれておらず、アブラハムが神の召命を受けてカナンに旅立つところ(創世記19章)からイサクを生贄にしようとするところ(創世記22章)までが描かれています。

アブラハムの半生が描かれているのに、「ソドムとゴモラ」というタイトルにするのは、破壊されるソドムとゴモラの街を振り返ってしまったロトの妻が石になるシーン(創世記19章)が、日本人の神様のイメージだからなのでしょうか?

創世記の有名なシーンが描かれていて、何気なく見ていると、「あっ、知ってる、知ってる」で終わってしまう映画です。ミサと同じように、知っている内容でも、新しい発見をすべく、じっくり味わってください。

クライマックスは、アブラハムがサラとの間にようやく授かった息子イサクを、神さまの言葉に従って生贄にしようとするシーンです(創世記22章)。そこに至るまでの状況描写がよくできていて、クライマックスを盛り上げています。たとえば、女奴隷ハガルとの子供の出産のとき(創世記16章)には落ち着いていたアブラハムが、イサクのときにはそわそわして取り乱します。イサクが大きくなると、星座を教えては覚えが良いと喜びます。

また、羊を生贄にする手順をイサクに教えるシーンも効果的でした。まず、足を縛り、横たわらせておいて、ナイフで羊の首を切ります。これと同じようにイサクを生贄にするときにも、イサクの手をアブラハムが縛るのです。その時のイサクはじっとしていて、意味を理解してだまっているんですよね。

そして、いよいよ首にナイフを持って行った時に、神さまが止めます。その時のアブラハムはまさに歓喜、心から喜びました。神様にすべてをゆだねたアブラハムならではの感動が描かれていました。

「契約と割礼」(創世記17章)や「イサクの誕生の予告/ソドムのための執り成し」(創世記18章)など、これまでバラバラに知っていた旧約聖書の内容が、この映画で一つにつながりました。レンタルもされていますので、一度ご覧になってはいかがでしょうか。

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2007/04/10

神様の約束 - 心のともしびTV -

心のともしびTVの第20回は「祈り」でした(インターネットからも見る事ができます)。この番組は要理教育が中心なので、知っていることも多いのですが、時々、目から鱗(うろこ)が落ちます。今回は二つの鱗が落ちました。

祈りは霊的な生活の中心です。特別な理由がない限り、日曜のミサ聖祭に与ることは教会の掟です。ミサで行われる祈りは、心を神様に捧げて対話をすることで、4種類あります。

  • 礼拝あるいは賛美:愛の祈り。何も頼まずに神を愛する
  • 感謝:恵みに感謝すれば恵みを大事にし、神を愛する
  • 悔い改め:きれいな心で願うため、許しをねがう
  • 願い:最後の祈り。神を愛し、感謝し、罪を痛悔した後、きれいな心で願う

【一つ目のうろこ】
ここで、礼拝あるいは賛美という祈りがありますが、これは「神様には役に立たない」そうです。神様に近づくために私たちに必要だそうです。確かにライバルがいない神様が褒め称えられても、嬉しくないかもしれません。それよりも、私たち自身の信仰が深まり、神様に近づくことが重要なのでしょう。

【一つ目のうろこ】
祈りで大事なことは「神様を信頼すること。祈りを聞き、必ずお応えになる」のです。これは神様が約束されています。

求めなさい。そうすればあたえられる。(ルカ11・9)

はっとさせられました。新約聖書は神様との契約です。しかし、いつの間にか神様の「教え」が書かれているように思っていました。三位一体の神を信じているのですから、イエスさまの言葉は「神様の約束」だったのです。

ハヤット神父はこう続けられます。

しかし、必ずしも恵みは来ません。願いが一番いいものではないからです。
神さまは一番必要なものを与えてくださるからです。

祈りの模範はイエスさまがゲッセマネで示されています。十字架にかけられる前の夜にイエスさまは言われました(ルカ22・42)。

もしもできることならこの杯を取り去ってください。

と祈られました。しかし最後に御父に

私の思うままではなくみ旨のままに

と御父が最も良いことをされるように祈られました。そして、イエス様の願いはかなわず、苦しみながら亡くなられました。祈りの通りにはなりませんでしたが、3日後に復活し、天国に昇って、父なる神とともに永遠の喜びを体験されています。

私たちも同じように、願っている恵みは来ないかもしれません。しかし、思うように行かなければ、復活のような何か良いことが変わりにもらえます。

「神様の約束」に希望を感じました。

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2007/03/27

サラフィナ!

サラフィナ!(リンク先はgoo映画)はアパルトヘイト(人種隔離政策、リンク先はWikipedia)時代の高校を舞台にしたミュージカル仕立ての映画です。

「アフリカの主の祈り」のコメントGood News Collectionのmrgoodnewsさんに教えていただいた映画です。教えていただいた朝礼での主の祈り、言葉は普通の主の祈りとほとんど同じでしたが、軽快な音楽とダンスが最高でした。祈りで喜びを感じると言うのはこういう感じなのかと思いました(以下、ネタバレ注意!)。

天使にラブ・ソングを・・・」のウーピー・ゴールドバーグが教師役で出ています。この先生は授業の中で生徒たちに、黒人のルーツと誇りを教えていました。しかし、その内容が反政府的であるとして授業中に捕らえられてしまいます。

代わりに来た先生の最初の授業で、生徒たちは反発し大きな声を出します。すると警備をしている軍人(なぜか学校内にいるのです)が大勢あらわれ、銃を乱射します。威嚇で十分だと思うのですが、逃げていく生徒たちを次々を撃ち殺します。ついさっきまで同じ教室にいた友達が、目の前でバタバタと倒れていきます。

生徒たちの葬儀のとき、牧師が自由への戦いを語ります。学生たちはデモを行い、暴動を起こします。そんななか、苦しみながらも友人を裏切らなかった仲間が痛めつけられ、痛々しい姿になります。サラフィナたちは「もう我慢できない」と、仲間を痛めつけた黒人の警官を、裏切り者として焼き殺します。

サラフィナは

「彼らが私をそうさせたの。憎しみでいっぱいに。」

と思いながらも

「でもまだ足りない。憎みきるほど憎まなければ憎しみが足りない。」

と苦しみます。

サラフィナは捕まり、拷問され、傷ついて、母の元に向かいます。サラフィナの母は白人の家で召し使いをしながら育ててくれていました。実は、サラフィナの父も解放運動で死んでいたのです。サラフィナは、父の命を奪った白人の召し使いをしている母が許せませんでした。しかし、捕らえられ、傷つき、心の痛みをも知って、そんな母の苦しみがわかるようになりました。そして、母に感謝しました。

争いたくなくても争わなければならない、争いたくても争えない、人々がそんな苦しみを感じながら、高校生たちの闘争は13年間続き、ようやくアパルトヘイトの時代は終わります。

葬儀の際に牧師さんが人々を奮い立たせるのは、ちょっといただけませんが、キリスト教によって、人々が尊厳を維持することができたようです。命が与えられたこと、死を迎えること、すべてに意味があり、すべての命は尊いものである。そして、今、目の前にある苦しみも、それを乗り越えれば、きっと新しい時代がやってくる。そんな印象を受けました。

ぜひ、アパルトヘイト(リンク先はWikipedia)を理解して、見られることをおすすめします。

この映画のDVDはなく、ビデオだけです。レンタルもされていますが、最近はレンタルビデオ店で貸していたものを中古ビデオとして売っている店があり、100円から500円程度で購入できるようです(私のものは100円でした)。

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2007/03/24

梅には梅のよさがあり、、 - 探偵ナイトスクープ -

笑いあり、人情あり、朝日放送政策の「探偵ナイトスクープ」という大阪らしい番組があります。依頼に応じて、探偵と称する芸人さんが人探しなどをする番組です。

今回は、引越しの際に出てきた手紙を書いてくれた看護学生さんを探してほしいと言う依頼でした。

依頼者のご主人は末期がんのため、モルヒネで痛みを和らげるだけの入院生活だったそうです。しかし、子供と変わらない年頃の看護学生さんが、看護実習の大変さにくじけそうな時に励まされていたそうです。末期の中にあって死を覚悟しながらも

看護婦はどんな状況にある患者さんにも、元気になろうと思う希望を持たせなあかんよ。

と話されていたそうです。それから、その看護学生だった方は、知識よりも希望を持たせる事が大事だと思って、看護にあたられてきたそうです。

依頼者が見つけた手紙には、ご主人が実習の最後に看護学生さんに贈った言葉が書かれていました。

梅には梅のよさがあり、桜には桜のよさがある、決して背伸びすることはない

この言葉を聞いて、勇気がわいてきたそうです。

今も苦しみの中におられる、すべての方に贈りたいと思います。

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2007/03/21

天使にラブ・ソングを・・・

天使にラブ・ソングを・・・」(リンク先はgoo映画)は、とても楽しめる映画です。ゴスペルブームの火付け役となった映画だそうですが、舞台はカトリックの修道会です。

「ゴースト/ニューヨークの幻」「サラフィナ!」「新スタートレック」で、霊媒師、教師、バーテンダー、などの味のある演技を見せてくれたウーピー・ゴールドバーグさんが主演です。

主人公のデロリスはカジノで歌うクラブ・シンガーですが、殺人現場を見てしまい犯人たちに追われます。そこで、警察の計らいで逃げ込んだのが修道院!お祈りを頼まれて、「人民の人民による」とか言い出したり、断食させられて修道院で作っているトマトを盗むなど、ドンデモないシスター(服装だけ)が誕生します。

沈黙の行があり、外部との関係を絶つなど、祈りと観想を中心にする観想修道会のようですが、主人公デロリスが聖歌隊に入ってから、大きく変わります。聖歌はポップなアレンジがされてシスターたちは踊り歌います。そして、修道院からフェンスを取り去り、奉仕活動や炊き出しも行うようになります。

カトリックらしいマリア様の歌も、アレンジでこんなに明るくなるのですね。教会周辺にいた悪ガキ達も楽しい歌声につられて集まってきます。そして、来る人もまばらだったミサもいつしか満員になります。

うわさは広がり、TVにも取材され、ちょうどアメリカに来られていた教皇さまが来られることになります。そのころ、犯人たちに主人公の居場所がバレて、大騒ぎに、、、、

アメリカ映画でカトリックを題材にしたものは、なぜか、どことなく風刺っぽいところが感じられますね。内容も、修道会によってそれぞれ特徴があるのに、まずありえない話だと思いますし、説教の後に聖歌隊だけの歌の時間がある、マグダラのマリアと姦通の女を同一視している、など、色々と気になる所もあります。でも、そんなことは気にせずに単純に楽しめば良い映画でしょうね。

そうそう、ソドムとゴモラ(リンク先はWikipedia)の「ゴモラ」という言葉も出てきます。ちょっと笑いました。

聖歌(特に答唱)があまり好きでなかった遠藤周作さんは見られたのでしょうか、、、。生きておられたら、コメントが聞いてみたいものです。

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2007/03/13

映画「ゴスペル」

ゴスペルというとGospel = Good Spellの意味で福音を意味しますが、この映画は同じくゴスペル(リンク先はWikipedia)と呼ばれているプロテスタントの教会音楽を中心に描かれます(以下、ネタばれ注意)。

主人公の父親は教会の主任牧師で、主人公と友人は聖職者になるべく神学校を卒業します。しかし、教会の仕事を優先して母親の死に目に会えなかった父がゆるせず、主人公は聖職を捨てます。そして年月が経ち、主人公はR&B歌手として成功を収め四つ星ホテル、リムジン、女も自由なスーパースターになります。そこへ、父親が倒れたとの知らせが届きます。

一方、友人は聖職者の道を歩み、主人公の父親の後継として主任牧師に選ばれます。しかし、この友人は牧師でありながら、愛を失っています。教会は自分のものだとでも言いたげな看板、演出、、、。他の牧師とも協調せず、教会の建て替えと拡大を目指します。しかし、その傲慢さから妻の愛も失ってしまい、ののしられます。

父の元に戻った主人公は父の教会のため、愛欲の歌ではなくゴスペルを歌います。しかし仕事を失いそうになって、ツアーに復帰すべく恋人を置いて町を離れようとしますが、教会への思いが断ち切れず、教会に戻ります。

こうして主人公と友人は、道を踏み外していたことに気づくのです。友人は力強い聖書のスピーチではなく自分の心を語りだし、主人公はゴスペルを歌います。そして、最後にあの福音が物語のように語られます。

そう、ゴスペルとは「神の言葉」だったのです。

有名なゴスペル歌手によるゴスペルも色々聞けて、アメリカの教会の様子もわかって結構楽しめる映画でした。しかし、(もちろん教会にもよるでしょうけど)プロテスタントの礼拝のにぎやかさには驚かされました。カトリックのフォークミサもなかなか楽しいですが、桁違いの派手さでした。ビジネスが盛り上がるはずですね。

#あんなに毎週騒いでいたら身体が大変でしょうね、、、

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2007/03/07

真理が剣、愛が盾 - ベン・ハー -

以前から気になっていた映画「ベン・ハー」に、キリストの時代の皮膚病の人が「汚れています。汚れています」というシーンがあると聞いて借りてみました。

良く確認せずに借りてびっくり!淀川長治さんが現れてMGMのベン・ハーには2つあるとのこと。もしかして古いほうを借りてしまったかと見ていると、なんと無声映画でした。

無声映画というと、多くのSF作家に影響を与えたという「メトロポリス」以来で、生まれていらい2本目です。気を取り直して見ると、白黒の画面が大半ながら、海賊との戦闘シーン、レースシーンなどなかなか楽しめました。

ユダヤ人のベン・ハーの半生と、キリストの半生を絡めながら話は進みます。この映画では馬車レースのシーンが有名ですが、キリストの御降誕と受難のシーンもなかなか良かったです。

御降誕のシーンでは、3人の学者が星を見てイエスさまのところに来るお話は、ヒンズー、ギリシャ、エジプトになっています。異端の宗教を表すと聞いていましたが、多神教の3カ国だったのですね。

ご受難のシーンでは、ベン・ハーはキリストが捕らえられたことを知って、救おうとします。

王よ 2軍団の戦士が駆けつけます
王への仕打ちに対し 幾千倍もの復習がなされましょう

すると

ある声が彼に届いた
"わが王国はこの世のものではない 剣をおさめよ
神の子は人々の命を破壊するのではなく救いに来たからだ"

このような感じで、キリストの教えを端的に示しています。このほかにも、ナザレの王がユダヤを救えるか?という井戸端会議でこんな話が出てきます。

真理が剣、愛が盾

この言葉はなかなか考えさせられます。武器によって平和をもたらさないことを表すだけでなく、御言葉を聞いて「やられた!」という感じと、苦しいときにすべてをゆだねて「ホッ」とする感じが表現されています。

ちなみに、はじめに書いた「汚れています」は"Unclean"で、字幕では「うつるわよ」になっていました。当時はライ病の人は魂も汚れているとされ、他の人にうつさないように、「汚れています」と宣言し、他の人にうつさないようにしなければならなかったようです。

このほかにも、寝ているベン・ハーを見つけたライ病の母親が、

彼は生きているけど、私たちは死んだ身よ

と言うシーンは、当時のライ病患者の社会的な立場も考えさせるような泣かせるシーンでした。

キリストの映画としてみるとちょっと物足りないものの、なかなかの娯楽大作でした。お時間のある方は、ぜひ一度ご覧ください。

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2007/03/04

あなたはできる! - ABC子ども未来プロジェクト -

ABC子ども未来プロジェクト」を見ました。大人の対場でなく、子供の目線で問題をとらえないといけないこと。社会のイライラが、学校でのいじめにつながること。親・友達といった縦横でなく利害関係を持たない斜めの関係が重要のので、学校の中に地域を作る、学校を核に地域を再生する。教育基本法のお話など、専門家によるお話の中、出番こそ少なかったですがナミねぇ(竹中ナミさん)の言葉は光っていました。

それは「あなたはできる!」と言うメッセージでした。ナミねぇはプロップステーションの活動を通じたコンピュータによる身体障害者の支援をされています。その活動を通して、一つ目のメッセージを語られました。

働けない、かわいそうと思われている人たちが、実は社会に貢献したい、稼ぎたい、(中略)と思っている。でも、世の中はその人たちをできない人と決め付けている。でも、決め付けられたときに、それを「そうじゃないよ」という力はその人の中にしかない。「あなたはできる!」と確信できる確信できる関係になれるかどうかと言う問題で、障害者だけでなく、大人と子供の関係でもある。

「できる」という力は必ずある。(中略)子供たちは、それをできないと思わされているけれども、その経験こそが「できる」と思える力になる。

ナミねぇは学校の問題は専門ではないですが、その人生経験から本質をつかんでいると思いました。ナミねぇは著書「ラッキーウーマン」(飛鳥新社)のカバーの略歴を引用すると、

小学生のころから家出をくり返し、15歳で同棲、高校除籍、16歳で結婚、ごんたくれな10代をおくる。

そんなナミねぇを変えたのは、24歳の時に生まれた長女麻紀さんの誕生です。麻紀さんは重度脳障害で34歳にしてナミねぇを理解できません。しかし、生後3か月分を24ヶ月かけて育っている麻紀さんの「すごさ」、その「すごさ」が学校にも警察にもできなかったナミねぇの更生をさせました。「そんな能力が誰にでもある」それが二つ目のメッセージでした。

私の知るかぎり、ナミねぇは宗教色のない方です。でも、そんなナミねぇの言葉に恵みを感じます。傍から見れば大変だったろう生活も、ナミねぇにかかると「ラッキーウーマン」になってしまいます。ナミねぇにとって麻紀さんは生きる力、恵みそのものなのでしょう。

番組の途中で、夜回り先生こと水谷修さんが、仏教、カトリック、プロテスタントと連携をすすめていると言われていました。傷ついている子供たちの居場所として、お茶とお饅頭だけを与え、祈りたいときに祈る空間を用意しようとされています。学校よりも宗教施設のほうが多く、日本では学校との連携が難しい面もあるものの、期待されているようです。

自分ひとりで幸せに生きられるなら、神様は要りません。宗教なしに「あなたはできる!」という信頼関係を築ける社会が正常なのでしょう。しかし「できる」自分を見失っているなら、「愛されている」と感じさせてくれる神さまの出番かもしれません。

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2007/03/02

ナミねぇテレビに登場!

以前紹介したプロップステーション竹中ナミさん(ナミねぇ)がテレビに出演されます(関西ローカルと思われます)。(感想はこちらに書きました)

トーク番組「ABC子ども未来プロジェクト
 放映日時 :3月2日 25:29~27:29(2日深夜)
 チャンネル:ABC朝日放送

 出演者 :義家弘介さん(ヤンキー先生)
       水谷修さん(夜回り先生)
       藤原和博さん(杉並区立和田中学校長)
       赤井英和さん(プロボクサー)       
       竹中ナミさん(ナミねぇ)
       東京都内の高校生40名 ほか

 テーマ  :「子どもたちの今」「教育現場の実態」「いじめの原因
      は?」「教育再生会議」「子どもたちを救うために」「マ
      スコミのありかた」など

詳しくはこちらのページを見てください。

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2007/03/01

苦しいのは自分だけじゃない - キリストに救われた理由 -

これまで、なぜ教会に通うようになったかを聞かれたとき、「遠藤周作の『キリストの誕生』でキリストの受難を知り、自分の苦しみなどは大したことがないと思い、頑張ろうと思った」と言っていました。でも、なにか違うと感じていました。

月曜日のYoshi原作翼の折れた天使たち 第1夜『衝動』(リンク先はフジTV)を見て、その理由に気づきました(以下、ネタばれ注意)。

石原さとみさん演ずる主人公ユリは親の愛情を感じられず、手首を切ったことがあり、ビルからの飛び降りを何度も試みています。そこに現れた裕紀。この青年は白血病でしたが、どうせ無駄だと薬物療法を避けていました。

命を大事にするように諭す裕紀は、逆にユリに言われます。

「神さまに恥ずかしくないぐらい、精一杯生きているの!」

このひと言で、裕紀は薬物療法を決意します。そんなことも知らないユリは、愛情表現の方法を知らない親の言葉に傷ついて、自殺しようと再びビルの屋上に昇ります。病室から見ていた裕紀はユリを救いますが、その直後にユリの目の前で倒れてしまいます。裕紀は亡くなりましたが、ユリはようやく現実に向かい合うようになります。

このドラマ、心療内科に通っているユリが、そんなに簡単に前向きになれるのかとも思いました。しかし、その理由を考えると、昔の私に近いような気がしました。

まず、こう考えました。裕紀が死を目の前にしても頑張った。それを知ったユリは自分の苦しみなど大したことはない、と思ったのではないかと考えました。しかし、これは納得できません。身体の病気と、心の病気、どちらが苦しいかなんて、本人でもわからないですよね。

そこで思い出したのが、北原怜子著「蟻の街の子供たち」に出てきたお話です。ある集落に住む貧しい家族は、家も職も失い心中することを決意していたそうです。そして、子供たちの最期の思い出にと隅田川のボートに乗りました。大はしゃぎの子供たちをみて、殺すことが忍びないと奥さんが思っていると、目の前に墨田公園の集落に立ち並ぶ掘立小屋が目に入ったそうです。

「ああやって立派に生きぬいている人が、あるじゃありませんか。私たちだって、死んだ気になれば、なんとか立ち直ることができるでしょう」

奥さんがそう言って、ご主人に取りすがったというお話です。

この奥さん、子供がかわいそうだという気持ちももちろんあったでしょうけど、目の前の人たちに共感したんだと思います。それまで自分達だけが苦しいと思っていたのに、同じように苦しんでいる人が他にもいる。苦しいのは自分だけじゃないんだ。と、思ったのではないでしょうか。

はじめに書いたドラマのユリも同じように自分ほど苦しい人間はいないと感じていたのではないでしょうか。そして裕紀のことを知って、苦しいのは自分だけじゃないと感じたと思います。同じ苦しみを感じている人を知ることで、苦しみが軽くなったと思います。

そこまで考えて、ようやくわかりました。キリストの受難、特に遠藤周作さんの描くキリストは、惨めです。弟子に裏切られただけでなく、理解さえもしてもらえなかったのです。私は、キリストの姿を見て苦しみが和らいでいたのです。

それは他の不幸なお話でも良かったかもしれません。でも、キリストは単に不幸なだけではありません。人々を救おうと十字架にかかったのです。もちろん、私のためだけではないですが、私のためにも十字架にかけられたのです。

それは、私が神さまを知る2000年前に用意されていました。まさに「神がまずわたしたちを愛してくださった」(一ヨハネ4・19)のです。

もし、あなたが苦しみを抱えているなら、遠藤周作著「キリストの誕生」をぜひ読んでください。苦しみがすこし軽くなるかもしれません。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/02/23

宮城まり子のチャリティーテレソン

以前、竹中ナミさん(ナミねぇ)を紹介しましたがゼノさんの本を読んでいて宮城まり子さん(リンク先はWikipedia)を思い出しました。ナミねぇと同じように身体障害者のために活動されているかたです。

ナミねぇはプロップステーションの活動を通じたコンピュータによる身体障害者の支援、ゼノさんは知的障害児施設「ゼノ」少年牧場(リンク先は「ゼノ」少年牧場)の設立、宮城まり子さんは日本で初めての肢体不自由児のための養護施設「ねむの木学園」(リンク先はねむの木学園)を設立されました。

Wikipediaによると宮城まり子さんは

貧しい母子家庭に出生、幼くして母、弟と相次ぎ死別するつらい少女時代を送った。1955年「ガード下の靴磨き」で歌手デビュー。その後女優業に進出 (中略)
また信心厚いクリスチャン(プロテスタント)でもある。

ということで、団塊の世代以上の方ならご存知の方も多いのではないでしょうか?

私が覚えているのは、1975年に当時の近畿放送(京都放送=KBS京都)のテレビ番組「宮城まり子のチャリティーテレソン」で身体障害者の社会参加を訴えられていたのを見たからです。

宮城まり子のチャリティーテレソン(リンク先はWikipedia)は日本で初のテレビチャリティーマラソンです。1975年と1981年に開催されています。Wikipediaによると

女優で、肢体不自由児の社会福祉施設「ねむの木学園」を主宰する宮城まり子が司会を務め、身体障害者の社会参加を呼びかける趣旨のもとで24時間のチャリティーテレビ番組を実施。その反響は凄まじく、視聴者から集められた浄財は4600万円を超えたという。

と書かれています。

もうすぐ24時間というころになっても目標額に今一歩届きませんでしたが、ポンと大金を寄付された方がおられたことを覚えています。髪を振り乱した宮城まり子さんが、「京のぶぶ漬けと言いますけど、京都は優しい方がたくさんおられる」といった内容のことを、目を輝かせながら言われていたのを覚えています。

(注:ぶぶ漬けとはお茶漬けのことで、居座るお客さんに早く帰ってほしいときに「ぶぶ漬けどうです」と言います。落語にもなっていたと思います)。

1975年といえば、ようやく一般家庭でもカラーテレビを見るようになった時代で、夜の1時ごろにはTV放送が終了していました。そんな中で、24時間のチャリティ番組を京都の地方局が放送していたことは、今にして思うと画期的な出来事だったと思います。

現代に比べるとまだまだ貧しかった時代ですが、心は豊かな時代だったのかもしれません。四旬節に少しだけでも貧しい思いをして、心を豊かにしたいと思います。

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2007/01/31

政治と教会

まずは、映画「ジャンヌ・ダーク」(リンク先はgoo映画)です。主人公は歴史で習ったジャンヌ・ダルク(リンク先はWikipedia)ですが、聖人とは知りませんでした。

100年戦争の中、ジャンヌ・ダルクは神さまのお告げを聞いて、衰退しつつあったフランスの勢力を伸ばし、シャルル7世を国王にしました。普通の少女が、軍隊を率い、鼓舞し、戦闘に勝ちました。

しかし、ジャンヌ・ダルクは政治的な動きの中で次第に孤立し、ついに極悪な司教のもとで異端審問裁判にかけられます。ジャンヌ・ダルクは一度は命を守るために異端であると認めようとしますが、信仰を捨てられず火あぶりになります。

なぜ神さまが戦争をするように言ったのか、正直なところ納得できないところもあります。しかし、強い信仰心によって戦いに勝ったときに見た多くの死者に涙する場面や、命を懸けて信仰を守ったことは聖女にふさわしいと思います。

Wikipediaによると、ジャンヌ・ダルクがいなければ「今日の自由主義はイギリスに存在しなかったかも知れない」とされており、神さまの御旨は計り知れません。

NHKの「その時歴史が動いた」で島原の乱をやっていました(2月に再放送予定)。当時、愛(エロースではなくアガペー)に相当する言葉がなく、「御大切」と呼ばれていたことは新鮮な驚きでしたが、ポルトガルの植民地政策に宣教師も関与していたのは、映画「ミッション」と同じような構図です。島原の人々は宗教をめぐる国家間の衝突に翻弄されながらも、信仰を守り続けたのです。

中世の教会は政治とのつながりが強く、どうも好きになれません。しかし、そのような時代だからこそ、アッシジの聖フランチェスコ聖イグナチオのような偉大な聖人が生まれたのでしょうけど、神さまの御旨は計り知れません。聖アウグスチヌスが言うように

あなたが理解し尽くせる方であれば、それは神ではない

(ベネディクト十六世 回勅「神は愛」p.76)

のでしょうか。「神は愛」(p.56)には次のような言葉もあります。

教会は、できるかぎり公正な社会を実現するための政治闘争を自ら行うことはできませんし、行うべきでもありません。教会が国家に取って代わることはできませんし、取って代わるべきでもありません。

やはり教会は直接的に政治に関わるべきではないのでしょう。さらに、こうも書かれています。

しかしながら、同時に教会は、正義のための戦いを傍観していることはできませんし、傍観するべきではありません。教会は理性に基づく議論を行い、また、霊的な力を呼び覚まさなければなりません。

直接的でなく、個人の霊的な力を守り育てることで愛のわざを実践しないといけないのでしょう。そこには、ジャンヌ・ダルクや島原の人々が味わった苦しみがあると思います。しかし、そのような中をキリストの道として歩まないといけないのでしょう。

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2007/01/18

感情にとらわれること - 悪霊と悪魔 -

映画「妖怪大戦争」を見ました。案内にはこう書かれています。

日本各地では、突然子供が消えたり、恐ろしい化け物が人間を襲ったりする事件が多発していた。それは、この世に恨みをもつ悪霊たちの仕業だった。黒幕は古代先住民族の怨念が蘇った魔人・加藤保憲。加藤は、人間に捨てられた機械などの廃棄物の怨念と日本古来の妖怪たちとを、大怨霊ヨモツモノの力で混ぜ合わせ、新種の悪霊《機怪》を作り出していった。そして、加藤の手先となった鳥刺し妖女・アギによって、日本全国の妖怪たちは捕獲され、《機怪》に姿を変えていくのだった。

そして、東京を舞台として妖怪対悪霊の戦いが始まります。ここでのポイントは「うらみ」です。黒幕の魔神加藤とは、帝都大戦にも出てくる加藤保憲(リンク先はWikipedia)です。この加藤も、うらみにとらわれています。

日本の悪霊の特徴は、人が魔人になったり、機械が機怪になったり、変質するところですね。同じように感情にとららわれたものといえば、宮崎アニメにもよく出てきますし、変わったところでは、カネゴン(リンク先はWikipedia)という怪獣もいます。カネゴンはお金への執着から人間がガマ口ような顔を持つ怪獣になってしまうお話です。

聖書の中では、「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」(マルコ5・1-20)というお話があります。このお話に出てくる汚れた霊に取り付かれた人は、つながれた鎖を引きちぎり、足枷まで砕き、

彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。

とあります。そして、イエスさまが名をたずねると

「名はレギオン。大勢だから」

と言い、その霊は豚に移されるものの、豚の群れは湖に入って死んでしまいます。そして、

人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。

このお話は難解ですが、先日お会いした林神父が一つの解釈を教えてくださいました。 悪霊の名前「レギオン」は元々ローマ軍団(リンク先はWikipedia)をさします。すると、この人はローマ兵に家族あるいは大事な人を殺されるか、辱められたと考えられます。そして、悲しみや恨みにとらわれていたのではないかと考えられるのです。

当時は、悪霊の名前を言い当てて、たとえば「サタン!」というように叫ぶと、出て行くという考えがあったそうです。そして、イエス様はローマ軍団を悪霊として豚に移し、さらに追い出してしまったのです。だからこそ、ローマを恐れる人々に出て行くようにいわれたのです。

まるで歌舞伎のような風刺劇ですね。この中でも、やはり気になるのは感情にとらわれた人です。感情にとらわれて、叫んだり、自傷行為をしているのです。

キリスト教では悪魔という表現もあります。「堕天使」と言われるように、神様に特別の力を与えられたものの、神さまを裏切った天使です。キリスト教がヨーロッパに定着する際に、それまでにの異教の神々が悪魔になった(リンク先はWikipedia)ようです(一部の神は天使や妖精になりました)。

Fatima 悪魔に関してはファティマの聖母(リンク先は女子パウロ会)に触れなくてはなりません(写真は玉造教会)。 Wikipediaには聖母マリアのメッセージの一つとしてこう書かれています。

悪魔と地獄の現存:多くの人々が悪魔によって地獄へ導かれている。七つの大罪などの罪、特に肉欲の罪から回心しないままでいることにより人は地獄へ行く。ここには、悪魔の所作が働いている。

七つの大罪とは傲慢(高慢)、嫉妬、暴食(食欲)、色欲、怠惰、貪欲(強欲)、憤怒
で、七つの罪源とも呼ばれる感情です。さらにWikipediaの「悪魔」に出てくるファティマの聖母に関する説明には、こう書かれています。

21世紀初頭、ヨハネ・パウロ2世は、「ファティマの聖母の言葉は、悪魔のわなに陥らないよう、改心を求めて私たちの人間性に訴えかけている」と述べ、戦争・民族浄化・麻薬汚染・中絶など惨事が悪の犠牲者を多く生み出していること、善と悪の戦いは(20世紀だけのものではなく)今日も続いていることから、社会は破壊を免れるために伝統的な価値観に立ち戻る必要がある、と述べている。

最近の身勝手な戦争や悲惨な事件を見ていると、悪霊や悪魔として語り継がれてきた「感情にとらわれることは悪である」という伝統的な価値観が失われつつある気がします。

人は感情にとらわれると、他人や自分を色眼鏡で見てしまいます。客観的なつもりでも自分を中心に考えてしまいます。否定的でなく冷静に、自分を見直す必要があると思います。それこそが「愛(アガペー)」の始まりなのだと思います。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/01/17

手塚治虫の旧約聖書物語

サンパウロ書店でビデオを売っていて気になっていたアニメがありました。その「手塚治虫の旧約聖書物語」が、スカパー707chやケーブルTVの日本映画専門チャンネルで火曜日24時(水曜0時)から放送されています。

このアニメーションはイタリアの子供番組から“誰でも分かる聖書の入門アニメを”と依頼されたことをきっかけに製作されました。旧約聖書は、妙に簡単だったり、難しかったりで、なかなか読みにくいですが、30分の中にこれまでのダイジェストをいれるなどわかりやすくまとめられています。これまでにみた2回はこんな感じです。

ヤコブの子ヨセフは、ほかの兄弟よりもかわいがられていました。兄や両親がひれ伏す夢を話したことから、兄たちに井戸に捨てられ、隊商に売り飛ばされてエジプトに行きます。その後、ファラオの見た意味のわからない夢を解説したことから、高い地位を得ます。

ヨセフが夢を解釈したとおり、7年の豊作の後に飢饉がやってきます。その後色々あって、兄たちと仲直りしたときにヨセフは言います。「私をエジプトに来させたのは、兄さんたちでなく、神のご意思だったのです。エジプトにおこる飢饉を救うためだったのです」

若干、順序や表現が聖書と異なりますが、なかなか楽しめます。全26話のうち次回は第11話「モーセの誕生」です。視聴可能な方はぜひご覧ください。

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2007/01/06

信仰のちから - メル・ギブソン「サイン」-

以前、ここでも紹介した映画「サイン」を、TVで見ました。DVDを持っているので、別の時間に見ても良かったのですが、ついつい見てしまいました。

実は入門講座で、昔の聖書では「奇跡」と書かれていたものが、今は「しるし」つまり「サイン」と書かれていると聞いていたからです。DVDのケースには「サイン」とは兆候とされているのですが、このお話を聞いてから、神さまの「しるし」としてもう一度見てみたいと思っていました。

この映画はSFとしてみると、はっきり言ってあまり魅力がないのですが、人生の中で神さまの「しるし」を感じられるかどうかという観点で見ると、すごく迫力のある映画です。

映画の中で、妻を失ったショックで神を信じられなくなった元牧師は語ります。

お前は、どっちのタイプだ?
"神のサイン(signs)"とか"奇跡(miracles)"を信じるか
幸運を、ただの幸運と思うか
この世に偶然はないと考えるか

これが、この映画のポイントです。同じことを見ていてもそれを偶然と思うなら、なんとさびしい人生でしょう。しかし、神の愛を信じて生きられたなら、それは大きな恵みになります。

妻を失った悲しみで神をうらんでいた牧師でしたが、話が展開するうちに悲しい出来事の意味を見出し始めます。そして神への信仰を取り戻したときに、奇跡は起きました。

確かに、最後の奇跡的な出来事も偶然と考えられるかもしれません。しかし、信仰があったからこそ、それは起きたのです。

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2007/01/02

必死に生きる - ロゼッタ -

映画ロゼッタ(リンク先はgoo映画)をDVDで見ました。この映画はアルコール中毒の母親とトレーラで貧しく暮らすロゼッタのお話です。

仕事を失って必死に生きるロゼッタは、もらった古着を修繕してお金に代え、池でマスを釣って、なんとか生活をしています。

そんなロゼッタは激しい性格です。いわゆるキレる性格です。クビにされたら大暴れ、酒を飲むために男を連れ込む母親とも大喧嘩、古着を売るときもどこか怖いものがあります。

そんな、ロゼッタにも親切にしてくれる男性が現れます。友達ができて、苦しみの中でやっと光明が見えたかと思ったのもつかの間でした。ロゼッタは仕事を得るためにその男性を裏切ってしまいます。その愛にどう答えて良いかがわからなかったのでしょうか。

でも、本当はこのロゼッタは良い子なんですよ。親の愛情が受けられなかっただけ、貧しかっただけ、ただそれだけで、親思いの良い子です。悪いことは悪いとわかっているんですよね。

ヨーロッパらしいシンプルで重い映画でしたが、愛のある家庭の重要さを感じさせられました。

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2006/11/28

氷点 - 人の犯す色々な罪 -

TVで「氷点」をやっていました。面白かったですね。本は買っていたものの、内容が重くて積読(つんどく)状態でしたが、「氷点」「続・氷点」をまとめて見ることができました。

生まれながらに背負う罪、嫉妬や復讐心から犯す罪、思い違いから犯す罪、誤る機会がなくて犯す罪、知らず知らずに犯す罪、人の罪がたくさん描かれていました。

罪には意識して犯す「大罪」と、無意識で犯す「小罪」がありますが、これだけ並べられると、人間はなんて愚かなんだろうと思わされます。ミサのはじめに

兄弟のみなさんに告白します。わたしは、思い、行い、ことば、怠りによって、たびたび罪を犯しました。

と言いますが、洗礼を受けて罪を洗い流しても、罪に罪を重ねないように、振り返り、反省し、時にゆるしの秘跡を受けることでしか、より良く生きることはできないのでしょうね。

原作者の三浦綾子さんはプロテスタントのクリスチャンですが、キリスト教を知ってからも長期間、洗礼を受けられませんでした。しかし、あるとき自分かわいさから犯した罪に気づいてしまいました。そうなると、矢も楯もたまらずに洗礼を受けられました。その時の気持ちがあの作品を作ったのでしょうね。

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2006/11/17

聖トマス・モア - わが命つきるとも -

プロテスタントというとルターやカルヴァンから始まった教派が有名ですが、英国国教会からはじまる聖公会という教派があります。イギリスは元々カトリックの国でしたが、ヘンリ8世が離婚を認めさせるために、教会を国王の下に置いたことから始まったのが英国国教会です(そんな経緯からか聖公会は比較的カトリックに近い教派(リンク先は教派いろいろ対照表)です)。

その英国国教会が生まれるころに大法官を務めたトマス・モア(リンク先はWikipedia)を描いたのが「わが命つきるとも」(リンク先は歴史映画の部屋)です。トマス・モアは政治家と弁護士の守護聖人で、理想郷を描いた風刺作品「ユートピア」の著者としても知られ、空想的社会主義の一人とされることもあります。

このトマス・モアは、とても頑なにカトリックの教えを守った人です。子どもができないからと離婚して再婚しようとするヘンリ8世に対して、職を失っても、命を失っても認めようとしませんでした。

今でこそカトリックでも離婚に対して少しは寛容になりましたが、当時はまだまだ厳しかったこともあるのでしょう。しかし、ヘンリ8世の身勝手さもかなりひどいものです。はじめの奥さんは亡くなったお兄さんの奥さんで、当時は許されない結婚をローマ法王に特別に認めさせておいて、今度はそれを無効だと認めさせようとするなんて、今でも許されるべきものではないでしょう(結局6人もの王妃と結婚したようです)。

しかし、トマス・モアという人は頑固です。スパイのような人間を皆が捕まえろと言った時も「悪魔でも法を犯すまでは無罪だ!法による悪魔の保護は結局は君のためだ」と法律の遵守を主張します。また、いよいよ処刑されるときにも「私は王より神のしもべとして死ぬ」と教えを守ります。

マルクスの著書に「空想から科学へ」というものがあるように、空想的社会主義は批判的な言葉です。しかし、その理想を大切にする精神には、学生のころから惹かれるものを感じていました。そんなトマス・モアがカトリックの聖人であったとは、不思議な縁を感じています。

日ごろの生活を送るの中で、ついつい「このくらいなら」と罪を重ねがちですが、少しでも本来のあるべき姿を考えて、大切にしていきたいと思わせる映画でした。

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2006/11/15

JESUS 奇蹟の生涯

このDVDは映画として良くできています。キリストの生涯を描く他の映画では、聖書や歴史に忠実に描いたものが多いですが、「JESUS 奇蹟の生涯」(リンク先はアマゾン)はキリストを身近に感じられる作品です。聖書の話の組み合わせが巧みで、ここのところに持ってくるのか、というシーンが随所にあります。

聖書にない所を描いているのも特徴で、公生活前の聖家族の様子も描かれています。31歳になっても動こうとしないイエスに、ヨセフ「いつになったら、この苦しみから解放されるのだ?」、イエス「私がローマから解放するとでも?」(イエス走って外へ)、ヨセフ「いつのことやら?」、マリア「時がくればわかるわ」、ヨセフ「もういい年なのに兆候もない」といったやり取りがあります。それが背景になって公生活が始まります。とても良くできています。

ドラマとしてよくできているのは他にもいろいろあります。40日間の断食の際に現れる悪魔が、受難前のゲッセマネでも現れます。そこで悪魔がイエスに語りかけるとき、未来の話である十字軍が「イエスの御名において聖地を奪還せよ」と戦争する様子を見せて、イエスの心を揺さぶる所などは、なかなか考えさせるものがありました。

この映画は聖書のお話をしっかりしたドラマに、話を膨らませて描いています。受胎告知の後の話や、ユダの裏切りの話など、リアルに描かれています。聖書を少しは読まれた方に楽しんでいただける映画です。映画好きの方はぜひご覧ください。

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2006/11/01

デスノートに見る人間の傲慢さ

DEATH NOTE デスノート 前編(goo 映画)をTVで見ました。なかなか考えさせられる作品でした。

デスノートは、そこに名前を書くだけでその人間が死んでしまうノートです。死神が落としたデスノートを拾った主人公は、理想の社会をつくろうと法律で暴けない犯罪者をデスノートに書きます。

人々は主人公を「キラ」と呼び、社会の救世主として英雄のように扱いました。しかし、そんな「キラ」にも警察やFBIの手がのびてきます。それまで犯罪者だけをデスノートで殺し、地上に楽園を作ろうとしていた「キラ」でしたが、自身を正義とし、正義に反するものは悪であると、FBIの捜査官までも殺します。

そして、追っ手が迫る中、敵の目をそらすために、人を殺し、ついには大事な人までも殺してしまいます。

このお話は、想定のユニークなところ、「キラ」と探偵L(エル)の知恵比べ、死が目の前に迫るドキドキ感が売りなのだと思います。しかし、話の展開とともに変化する主人公「キラ」の心が気になりました。

最初のころの「キラ」は、犯罪者が裁かれないという社会の問題を解決しようとしていました。人を殺すことは良くないですが、自分の能力を社会に生かそうとする姿勢は、本人が言うように「正義」ではないとしても、そこには理解できるものがあります。

しかし、人の死を扱えるという一つの能力を使っているうちに、他の人間よりも優れていると思い、自分は「正義」で社会を支配するのだと考えます。そして、警察に追われるようになると、犯罪者以外も「正義」の敵として殺しだしました。これはいくら正当化しようとしても、偽善です。

探偵Lもキラを捕まえるために、死刑囚の命を利用します。お互いに「正義」といいながら人を殺す人間たちの姿を見て、死神は

「人間ておもしろ!」

と言います。お互いに自分こそが正しいと言い、相手は悪だと言う、自分を中心にしか見ることができない人間は、愚かな生き物に見えたのでしょうね。

そもそもやったことの善悪はあっても、それがその人間の善悪であるとは思えません。人間は間違いを犯すものです。過ちを犯した人に接するときに重要なことは、怒り、裁くことではなく、よく理解し、ゆるすことだと思います。

悪いことをするには理由があり、悪いことしかできない人にもその背景があります。人の善と悪を単純に決め付けるのではなく、お互いにより良く生きられるようにしていくべきだと思います。

また、人は自分が少しでも勝っている、あるいは、誰かが劣っていると、優越感に浸って偉い人になったつもりで行動してしまいがちです。そして、自分の悪いところは見ずに、他人の悪いことを非難してしまいます。

このように考えていて、暴君ネロを思い出しました。犯罪者にも暴君ネロのようにその理由があり、他人を裁こうとする人には暴君ネロのような傲慢さがあると思いました。

聖書にこのような言葉があります。

人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。(マタイ7・1)

誰の心にも死神はいます。いつでもデスノートを渡そうとしています。デスノートを開き人を裁こうとしたとき、そこにはきっと「おごり」があります。傲慢に生きる道ではなく、謙虚に生きる道を選び取りたいと思います。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/10/24

不幸も恵みに - カトリック長岡教会 -

日曜日はカトリック長岡教会で共同祭儀を捧げました。

実は寝坊をしてしまいました。朝起きたらいつもは電車を降りて教会に向かっている時刻でした。福音朗読にも間に合いそうにありませんでした。風邪だったので、前日は早く寝るつもりでしたが、寝付けないのでブログを書いていたら余計に遅くなってしまったのです。

ミサはもうやめようかと思いましたが、何事も恵みだと考えようと思いなおし、「カトリック教会・情報ハンドブック」を広げてみました。そこで見つけたのが長岡教会でした。すこし遅めの11時からなので、それからでも余裕で間に合いました。

聖堂内に靴を脱いであがると、2階まで吹き抜けていて聖堂内は明るく開放的でした(リンク先はHoly Ring、写真あり)。100席ほどの広さながら小さい子供さん用に親子礼拝室もありました。

聖堂内の右手には信徒の方が作られた聖歌番号を示す電光掲示板と、木彫りの優しいマリア様(ちょっと和風)、そして正面にはぐったりとした磔のイエスさまの十字架がありました。中ほどに座りながらきょろきょろしていると、おじさんは少ないので目立つのか「初めてですか?」と声をかけていただきました。なんだか家庭的な雰囲気で、なじんでしまいました。

Nagaoka_1声をかけていただいた方に教会の案内と写真入の葉書を頂きました。その中に、聖堂外の十字架の中央に描かれた模様の説明がありました。この模様が結構不思議で、万博公園の太陽の塔のデザインのようにも見えます。実はこれは、カトリックの教義をあらわしています(以下、案内より引用)。

聖霊の炎(赤い炎)が全世界の教会(金色の楕円形)に注がれ(金色の3本の線)復活のキリスト(XP)の救いの恵みがすべての人々に及び、最後の審判(金色のはかり)をへて神の国の完成にいたるのです。

これらのすべての恵みの源は、キリストの十字架上の犠牲死(下のシンボリックな十字架)であり、その十字架のかたわらに聖母マリア(緑色の像)をはじめ弟子や婦人(紫の像)がかこみ、それぞれの役割を象徴しています。

一番下は魚でイクトウス(ギリシャ語)つまり神の御子・救い主イエス・キリストをあらわしています。

そういえば、コンピュータ関係の用語でXP(リンク先はWikipedia)とつけられたものが最近多いのですが、救い主という意味もあったんですね。なるほど。

長岡京市は、平安京に都が移る前に平城京から遷都されていた長岡京のあったところです。また、先日のNHK「その時時代が動いた」で紹介された細川ガラシャ(リンク先はCUMC1972の広場)が嫁いだ勝龍寺城のあったところです。勝龍寺城公園につながる道はガラシャ通りと名づけられ、11月のガラシャ祭りでは行列が巡行します。

明智光秀の娘であった細川ガラシャ(玉)は本能寺の変のあと、幽閉され外にも出られませんでした。しかも、夫は側室を持つなど、耐え難い運命をたどります。そのような中で、ガラシャはキリスト教に出会い、前向きに生きました。

NHKの「その時時代が動いた」では「神はいかなるときも愛と慈悲の心で人々を見守っている」とキリスト教が説明されていました。細川ガラシャにとって、とんでもない不幸でしたが、その不幸もキリスト教によって恵みとなったのでした。

そんな長岡の地で、私の寝坊もこの日は恵みとなりました。(^_^;

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2006/10/20

大きな小罪 - ホロコースト -

DVD版「ホロコースト -アドルフ・ヒトラーの洗礼-」を見ました。主人公と一人の神父がナチスの悪行を止めようと奮戦する映画です。当時のナチスは、ユダヤ人を追放するといいながら、毒ガスで大量殺害を行っていました。それを知った主人公は、カトリック教会の力で何とか虐殺を止めようとしますが、門前払いにされます。それを見ていた一人の神父が、主人公と協力して、教会に働きかけます。

しかし、教会はまったく動いてくれません。その理由は、

  1. 証拠がない
  2. 戦争のどちらかに加担することはできない
  3. ナチスは一定の評価を受けていた

なんだか、教会のイメージが悪すぎです。特に3番目の理由は、ソ連と戦って共産主義を止めたというものです。共産主義が宗教を否定するからといって、敵の敵は味方という理屈で、単純に喜んで良いものでしょうか?教会を守る戦争なら誰が行っても正戦とでも言うのでしょうか?納得いきません。

山上の説教にこんな言葉があります。

しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(マタイ5・39)

敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5・39)

当時の教会が直接手を下したわけではありません。積極的に行為をゆるしたわけでもありません。しかし、イエスの教えでは敵という考え方が敵です。教会の利益になるかどうかではなく、良いことと悪いことを見極めるべきだったでしょう。

世の中の争いを見ていると、その多くが「保身」といえると思います。やられたからやり返す。身の危険を感じるから武器を用意する。そんな考えを持つ限り、いつまでたっても終わりません。

しかし、保身は絶対だめかということ考えると難しくなります。現実にはダメと言い切れないところもあります。自分だけならまだしも、自分の家族の命が危険にさらされたときは誰もが守ろうとするでしょう。どこまでがよくて、どこからがダメかその境界はかなり曖昧なものでしょう。

意識して犯す罪は、大罪です。意識せずに犯す罪は小罪といいます。より良く生きようと大罪を避ける生活をしていても、小罪を避けることは難しいのでしょうね。

リジューの聖テレーズ(小テレジア)が子供のころ、父親と散歩中に施しを求める人々に父のお金を渡すことがあったようです。あるとき、松葉杖でやっと歩いている人にお金を渡そうとすると、その人はお礼を言いながらも、施しはいらないと言いました。聖テレジアでさえも善意のつもりで人を傷つけたのでした。

人は、良いことをしようとしても罪を犯してしまう。ましてや、無意識のうちにも罪を犯してしまうこともあります。そのことを意識して、悔い改めながら生きるしかないのだろうか。そんな風に思わせる映画でした。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/09/19

ゴッドファーザー

ゴッドファーザーとは「代父」のことで、Wikipediaには、以下のように書かれています。

代父母 (だいふぼ、godparent) とは、キリスト教の伝統的教派において、洗礼式に立会い、神に対する契約の証人となる役割の者を言う。男性の場合代父(だいふ)、女性の場合代母という。
代父母は、洗礼の立会人となるばかりでなく、洗礼後も、教会生活における親として、信仰生活の導きをなることが求められている。(以下略)

もちろん、フランシス・コッポラ監督、マーロン・ブランドとアル・パチーノ主演の映画「ゴッドファーザー」(リンク先はgoo映画)も有名ですね。マフィアの抗争を描いたこの映画は、最後の場面でマフィアのボス(ゴッドファーザー)であるアル・パチーノが、代父(ゴッドファーザー)として幼児洗礼式に出ます(ややこしい)。そして、神父様から「悪魔を退けますか?」と問われ、、、(感動のシーンです。ぜひ映画をご覧ください)。

この映画をここで紹介するのは、自称映画好きの神父様に教えていただいたからです。先週の主日ミサの福音朗読「耳が聞こえず舌の回らない人をいやす」(マルコ7・31-37)で、キリストが「エッファタ(開け)」と言われました。その際にイエス様が「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられ」たのですが、その場面をもとに(簡略化される前の)昔の洗礼式では、口と耳に塩を入れて「エッファタ」と言っていたそうです。そのシーンが、この映画に出てきます。

映画中では、godfatherをマフィアのボスとして使うときは「ゴッドファーザー」、代父として使うときは「名付け親」と訳しています。エキサイトの新英和中辞典(研究社)で調べると

1 教父,名親; 代父 《★【解説】 生まれた子の洗礼式に立ち会って名を与え,霊魂上の親として宗教教育を保証する》.→
2 (人・事業の)後援育成者 《無名作家を育てる編集者など》.
3 [しばしば G] 《口語》 マフィア[組織暴力団]の首領,ゴッドファーザー.

とされています。日本語で名付け親と言うと、本名の名付け親のことですが、映画では洗礼名の名付け親と言うことのようです。ただ、カトリックの国では、本名が洗礼名となっている(ポール、ピーターとか)こともあるそうなので、実は区別がないのかもしれません。

ちなみに、幼児洗礼の代父母は「抱き親(だきおや)」という呼び方もあるそうです。洗礼の際に子供を抱いて、水をかけていただくからだそうです。

(引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/08/26

映画「タッチ」に見る祈りの心

映画のタッチをテレビで見ました。原作はあだち充さんの「タッチ」です。20年以上前に連載されていた漫画で、学生のころに「最後はタッチが事故にあって、パンチが投げる」とか馬鹿なことを言いながら、研究室の仲間と一緒に読んでいました。

双子の兄上杉達也(タッチ)は、交通事故でなくなった弟和也の遺志を継ぎ、長澤まさみさん演じる浅倉南を甲子園につれて行くお話しです。講師演出条項を決める最後の試合のときも、南は試合を見ると和也を思い出すからと試合を見に行かず、ラジオで聞いていました。しかし、達也が肩を痛めてしまったのを知ると、家を飛び出して球場に向かいます。ようやく球場に到着し、最後の一球のときに南がしたのは、「祈り」でした。

ラジオを聴いているときは、キャーキャー応援していたのですが、一番大事なときにしたのは「祈り」でした。何に祈っていたのでしょうね。亡くなった和也に応援するように祈っていたのでしょうか?私には、自分にできるすべてが達也の力になるように祈っているように見えました。

本当に大事なとき、最後には自分のすべてを委ねられるようになるのでしょうね。日々の迷い、苦しみ、悩みなど、色々なことがあっても、いずれは委ねる気持ちになれる、そんな希望を感じました。

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2006/08/18

わたしはある -心のともしびテレビ番組-

今回の心のともしびテレビ番組(リンク先で見ることができます)は「神の本性と特性」でした。

イスラエルの民がエジプトを脱出した後、モーセは神に名前を尋ねました。神の答えは「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト3・14:日本聖書教会 新共同訳)でした。この私はある、すなわち「ヤーウェ」が神の名前です。

神の本性は、このように神は存在そのもの、無限なものです。そして、その特性は、永遠、偏在、全知、全能です。つまり、変化せず、いつどこにでも神はおられ、すべてご存知で、なんでもできる存在です。

この神の特性は重要です。私たちは、常に神を意識して行動し、感謝し、反省できます。また、いつでも、恥ずかしがることなく、安心して、神に語り、祈り、ゆだねることができます。

番組の最後には、(使徒言行録17・27-28)から、以下の引用がされていました。

神は、私たちから遠く離れておいでになる方ではありません。
私たちは神の中に生き、動き、存在するものです。

この、「神が在る」ということは、私にとって重要です。ギリシャ神話に出てくるような人間的な神様が「いる」とは思えません。自然を見て、社会を見て、色々なことがあるものの、全体では見事に調和している様子から、そこに誰かがいる、というよりは、(神のような)何か(の働き)があるということなら感じることができるからです。

原始的な社会から、現在の高度な文明に至るまで、より良い方向に導いているものがあるとするならば、それは神と呼んでも良い存在でしょう。人間が色々と問題を起こしながらも「神がまずわたしたちを愛してくださった」(一ヨハネ4・19:日本聖書教会 新共同訳))からこそ、人類は生き延びているのではないでしょうか。

そして、三位一体の神であるイエス・キリストが「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」(ヨハネ8・58:日本聖書教会 新共同訳)と言われたように、キリストの言葉と生涯は、私たちを愛する神の言葉とはたらきです。西洋史に見られるように、現在に至るまで私たちを導いていると思います。

「神がある」とするなら、「神を信じる」ということは、すべては良いように進む、人生のすべてのことに意味がある、と期待すること、傲慢だから苦しむのだ、乗り越えられない苦しみは無い、と振り返ること、そして、明日はより良くしよう、より高められますように、と前向きに思うこと、になるでしょう。信じることはすばらしいことだと思います。

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2006/07/30

神が信じられない方へ

sky・AのTV「心のともしび」で、神を信じない人たちのための祈りが述べられました。

神よ もしもあなたが本当に
存在なさっているならば
私に信仰の恵みを与えてください

これを熱心に祈れば、本当に信仰の恵みを祈っているならば、神様は必ず恵みを下さる。愛する方が自分のお父さんになり、導いてくださいます。とのこと。

人類の文明が芽生えたころからある人間の宗教は、このような祈る心から生まれてきたものでしょうね。

この祈りの中に出てくる「恵み」は必ずしも求めているものではないでしょう。それは祈りの中で明らかになると思います。

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2006/07/10

ブラザー・サン シスター・ムーン

森の中の部屋でアフィリエイトされていたブラザー・サン シスター・ムーン(リンク先は懐かしの映画館:ネタばれ注意)の廉価版が発売されました。1972年公開の映画で、始めこそ時代を感じますが、話が進むにつれ引き込まれます。

主人公はアッシジのフランチェスコです。Wikipediaによるとアッシジのフランチェスコ(1181年或は1182年 - 1226年10月3日)は、フランシスコ会の創設者として知られるカトリックの修道僧、聖人。清貧を説き、中世イタリアにおける最も著名な聖人のひとりである。とされ、イグナチオ・デ・ロヨラやマザー・テレサに影響を与えたといわれています。

お話は十字軍として遠征したフランチェスコが病気で帰郷するところから始まります。フランチェスコは十字架に磔られたきらびやかなキリストの姿や、遠征をよろこび、利益で免罪符を買おうと言う父の姿が受け入れられないようです。反面、屋根でさえずるヒバリの姿や、恵まれない人に奉仕するクララ(クララ会の聖クララ:リンク先はWikipedia)や、崩れたサン・ダミアノ教会の十字架に磔られた貧しいキリストの姿に共感します。

フランチェスコは裕福な家庭から離れ、サン・ダミアノ教会を修復します。多くの仲間にも恵まれ、順風満帆に見えたのも束の間、教会は火事になり、仲間の命も失います。

キリストのように生きようとした自分の行動が正しいものかどうか、教皇に意見を求めようとします。しかし、それは教皇や、取り巻きの人々を批判する言葉でもありました。

  • 主イエスのように生きる
  • 神の前では誰もが貧しい
  • 宝は天国に積め

教皇の取り巻きは、フランチェスコを追い出します。しかし、教皇は感動して呼び戻し、「あなたたちの貧しさに私は恥じる」とフランチェスコの足に口付け、その活動を認めます。これがフランシスコ会が正式に認められた瞬間でした。

エルサレムをイスラム教徒から取り戻そうとした十字軍の遠征は、神の名の下で行った戦争です。元々どちらのものであったかを争い、殺しあう事はキリスト者として正当な行為ではないと思います。しかし、そのような戦争が、よりキリスト的で偉大な聖人を生んだことは、皮肉なことだと思います。まさに計り知れない神様の御旨のようです。

映画の途中で、女性への思いを捨てられないジオコンドは、自身を罪人だと苦しみます。フランチェスコが「私たちは神を愛する集まりにすぎない。それぞれの力の中でだ」「男が全部独身でいれば人は滅びる」「子を持てふやすのだ」「浮気は許さんぞ」と修道会を抜けさせます。

このシーン、先日見た恋する神父を思い出させました。神に生きるのも、人を愛するのも、すべて神さまの恵みなのだと思いました。

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2006/07/08

恋する神父

前から気になっていた「恋する神父」(映画の公式サイト)のDVD(DVD公式サイト)ですが、どことなく軽い感じがしてしばらく借りませんでした。しかし、撮影終了後に主役のクォン・サンウが正式に洗礼を受け、カトリックの信者になった(リンク先はgoo映画のあらすじ)と知ってレンタルしました。

簡単に言うと神父の叙階式(映画中では聖職授任式と訳されている)を間近に控えた神学生が女性と出会い、信仰を取るか恋を取るかというちょっとコミカルなれないドラマです。しかし、「本作ではリアルさを追求するために、ギュシク役クォン・サンウと、ソンダル役のキム・イングォンは実際に神学校の寮生活を体験。さらにドイツ人神父が聖職授任式などの監修をしたのだそう」(@woman)と書かれているように、宗教的な部分はまじめに描かれています。

神学生の朝は「ベネディカス・ドミノ」「デオ・グラシャス」ではじまります。この神をたたえる「デオ・グラシャス」という言葉がこの映画のキーになっています。叙階の際に生涯独身であることを誓う言葉もこの「デオ・グラシャス」、恋の相手がつぶやく言葉も「デオ・グラシャス」、主人公は二つの「デオ・グラシャス」の間で揺れ動きます(詳しくは映画を見てのお楽しみ)。

映画は叙階を1ヵ月後に控えたところから始まります。叙階前の1年は助祭を勤めることになっていますので、最初のミサのシーンは助祭としてミサをささげようとしているのでしょう。 監修を受けただけあって叙階式では、「司祭に選ばれる人は祭壇の前で寝て、自分が弱く、罪深いものであることを示す」というシーンがきちんとあり、ストーリだけでなく宗教的なシーンも楽しめました。

ところで、気になったのは酔っ払ったヒロインが御聖堂の聖水を飲むシーン。「塩っぱい」と言っていました。調べて見ると、聖水には塩が入っているようです(リンク先は信心の園)。なるほど。

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2006/07/04

四日間の奇跡

この「四日間の奇跡」は、「チルソクの夏」「半落ち」の佐々部清監督の作品です(実は知らずに借りました:-)。

それぞれに不幸な運命を背負った登場人物、脳に障害を持つ少女・千織(尾高杏奈)と療養センターで働く真理子(石田ゆり子)が外で遊ぶうちに事故に遭い、千織をかばった真理子は瀕死の重症に、、、

目をさました千織は、真理子の意識を持っていました。真理子は死にかけている自分の体を見つめ、このまま生きていたいと思います。しかし、意識が入れ替わっているのは千織が時間を与えてくれたと感謝するようになります。

真理子は療養センターの患者たちや元亭主が自分を心配してくれるのを見て、初恋の相手である元ピアニストの敬輔(吉岡秀)に語ります。

私の願いはみんな叶っていたんだわ、ただ気づかなかっただけ

真理子は、自分の死が迫る中、ようやく自分の人生に価値を見出したようです。そして、与えられた短い時間を悔いのないようにすごします。

感動の場面はほかにもありましたが、この自分の人生を幸せな人生だと思えた瞬間は、見ている人の不幸を幸せに変えてくれるような力強さを感じました。どんな苦しみであっても、どんな悲しみであっても、不幸とは限らない。そんな気持ちにさせてくれました。

この映画は、真理子が礼拝所で朝の祈りをするところから始まります。教会のつくりはプロテスタントのようなのですが、外に聖母子像があります。シスター元志願者の幸せ日記の記事「カトリックとプロテスタント」を読んで聖公会かと思ったのですが、公式サイトには

個人を完全な人格とし女性の独立を前提とする傾向にあるプロテスタントの教会にイメージされた。

とのこと、イメージだけだでつくっちゃたのですね。どうりで神父様も牧師の先生も出てこないのですね。

しかしこの文章、カトリックが女性を軽視しているように読めますね。確かに婚姻の秘蹟の説明で女性が男性に従うような聖書の箇所が読まれましたし、平日のお掃除は専業主婦の方が中心でしていただいていると思います。しかし、女性が中心になるのは掃除だけでなく典礼などの各活動も同様です。教会運営にしろ家庭にしろ、実態は軽視と言うよりは主導的立場だと思うのは私だけでしょうか、、、

最後に、医者である倉野(西田敏行)が、事実を受け入れかねている敬輔に言ったことばが心に残りました。

信じると言うことは人間の脳に与えられた偉大な能力の一つだよ

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2006/07/03

シックス・センス -カトリック的な見方-

森の中の部屋で紹介されていた「シックス・センス」(リンク先はgoo映画)を見ました。ホラー映画に分類されるようですが、なかなか感動的で、泣ける映画でした。

主演のハーレイ・ジョエル・オスメントはペイ・フォワードやA.I.に出ていた子役です。フォレスト・ガンプにも出ていたらしいですが知りませんでした。このシックス・センスが出世作なのでしょうね。

この映画の前半はホラー映画的なつくりになっていますが、実はたくさんのネタふりがあります。そして後半で、少年が死者の霊が見えることを告白してから、家族愛を描いたヒューマンドラマになっていきます。このあたり、構成が凝っていますので、2回見ても楽しめました。

この映画は、普通の日本人が素直に見ると、たぶんこの世に未練のある霊が悪さをしているように考えられると思います。しかし、霊の願いを聞くあたり、カトリックの煉獄の考えが背景にあると思いました。煉獄(リンク先はWikipedia)は「キリスト者として罪の贖いを受けて救いが約束されていながら、小罪および罰の償いが残っているため、浄化を必要とする者のためにある場所」です。

以前、ここで紹介したシスター・エマヌエル著「煉獄に居る霊魂の驚くべき秘訣」では、煉獄を、私たちの汚れによって課せられている猶予、神の抱擁の前にある猶予、強烈な苦しみを起こす愛の傷、待つこと、愛のノスタルジアと表現しています。このため、煉獄の霊魂はミサを求めることが多いようです。

シックスセンスに出てくる霊は、思いを伝えずに亡くなったために、知らず知らずのうちに娘を傷つけていたというような、「覚えざる罪」を犯してしまっています。そして、その罪を償おうとこの世に現れた霊が、少年に救いを求めているように思えます。

人は心ならずも罪を犯して生きています。しかし死を迎え、神の御前に向かうときに心に芽生えた強烈な愛から、罪を償いたいと思います。そんな人間の心の奥にある「愛」をこの映画は描いていると思いました。

すでにこの映画を見た方へ、
「シックス・センス」の謎に迫るは結構面白いと思いました(映画を見てないと楽しめません)。

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2006/07/01

死ぬまでにしたい10のこと

死ぬまでにしたい10のこと」というタイトルに惹かれていましたがいつもレンタル中で、気になる作品でした。今回、ようやく借りることができました。この映画は、余命が2,3ヶ月と言われた主人公アンが、死ぬまでにやりたい10のことを考えて、そのリストを実行するというお話です。

すごく素敵な映画だろうという予想に反して、アンの書いたリストには不倫の予定もあり、それを実行します。若いときに夫と知り合い、貧しい中で働きながら子どもを育ててきた23歳のアン。夫を愛し、子どもを愛しながらも不倫するアンに、引っ掛かるものを感じながらも不思議な共感を覚えました。

これまでアンは貧しいながらも幸せだったのでしょう。それだけに突然現れた悲劇は、彼女にとって大きすぎたのでしょうか。罪悪感を感じずに不倫するアンは、死ぬまでに自分の可能性を試してみたかった様にも思えます。

このアンの気持ちを考えていると、誰もがどこかに持っている宗教心を感じました。傍からは幸せに見えても、何かがあると心が乾き、頼れるものを探してしまう人間の弱さです。誰が悪いわけでもないのに、自分を満たしてやりたいという願い。そんな気持ちから信仰の道に入る人も多いのではないでしょうか?

この映画では主人公のアンの最期は描かれていません。病気のことを伝えないことで、家族の悲しみを最小限にして、静かに亡くなっていったのでしょう。アンは不倫をすることで自らを満たし、子供に毎日「愛してる」と言い、18歳の誕生日までのメッセージを残し、リストを一つずつこなしていきます。その淡々とした様子には、人は満たされたときにこそ心の平安が訪れる、そんな姿が描かれているように思えました。

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人生の目的は幸せになること-心のともしび-

今日から「心のともしび」のTV放送が始まりました。
日本語の堪能なハヤット神父が宗教について語られました。ホームページでも紹介されるようですが、以下に要約を書いておきます。

宗教は人生の目的に導くことです。人生の目的は幸せになることですが、この世のものには限界があります。欲しいもの、やりたいことが満たされたという、小さな幸せを積み重ねても満たされません。愛する人と一緒にいることは、最も優れた幸せですが、それさえも相手の欠点が気になって、幸せになれません。

人の目が見たこともなく
耳が聞いたこともなく
人の心に思い浮かんだこともなかったこと
これこそが神がご自分を
愛する者たちのために
用意してくださったもの

 (一コリント2・9)

信仰と愛に満ちた生活をおくれば、神様の愛の中に入り無限の幸せを感じます。それが私たちの人生の目的です。

目の前の幸せを追い求めても満たされず、愛する人さえも欠点が気になってしまう。本当にそうですね。そう思うと、心のともしびのオープニングの言葉が思い出されました。

暗いと不平を言うよりも
すすんで灯りをつけましょう

満たされない気持ちにとらわれず、心の中に幸せを満たす。それこそが、宗教の目的なのでしょう。次回は「神様の存在について」だそうです。

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2006/06/30

心の時間・心のともしび運動本部

心のともしびの新しいTV番組が始まります。心のともしび7月インターネットレターによると、

心のともしび運動では、7月1日から新しいテレビ番組を始めます。この新しい番組はスカイA(Ch.285、255)と全国298のケーブルテレビ、そして楽天ティービ-(Ch.216)で放送されます。放送日は、スカイAが毎週土曜日の朝8時45分から、楽天ティービ-は毎月第1、第3日曜日の9時と18時30分からです。

ということで、内容は

宗教の一番根本的なことについてお話しします。たとえば、始めに”人は何のために生きているのか”、それから”神様が存在するかどうか”、また、”神様がどういう方であるか”などについて話します。

だそうです。ゲストでなく、ハヤット神父ご自身による解説らしいので、今から楽しみです。なお、この番組は7月3日からインターネットの心のともしびホームページにも掲載されるそうです。

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2006/06/11

人をゆるす-息子のまなざし-

この「息子のまなざし」という映画は、誰にでもお勧めできる映画ではありません。全体が淡々としていて、ヨーロッパ的な重さと暗さを持っています。しかし、そこで描かれているテーマは、人をゆるすということです。

(ちょっとネタばれしてます)

自分の息子を殺した犯人が少年院を出て、教官をしている職業訓練校に来ます。主人公は避けようとしながらも、気になって自分のクラスで受け入れます。何気なさを装いながら少年に近づいていきます。

息子の事件のことを聞き出しますが納得できません。そして、ついに、殺されたのは自分の息子であることを告げます。

子供同士の喧嘩なら、殴り合って、最後に許しあい、仲良くなることもあるでしょう。しかし、相手が間違いなく悪い状況では、許すことは非常に困難です。でも、相手が反省し、社会的な制裁を受けていたならどうでしょう。許せるでしょうか?

この映画には答えはありません。

自分にも悪いところがあるなら、それを痛悔することで、ゆるす気持ちになれるかもしれません。しかし、自分は悪くない。そんな場合にできるのは、許すのではなく、現状を冷静に認識して受け止める、あるいは、あきらめる、といったところまででしょうか?

仕事や役割としての付き合いは、なんとか割り切れるでしょう。しかし、相手の気持ちを思いやれるかどうか、それは大きな試練だと思います。

でも、そんな風に思いながらも、相手を本当にゆるせたなら、新しい一歩が踏み出せて、幸せが得られるかもしれない。そんな気持ちがしました。

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2006/06/05

聖霊は愛です

今日は聖霊降臨の主日のミサでした。今日の朗読に共通する聖霊は「愛」です。キリストを信じるものにとって、愛のある行いはキリストと共に歩むことです。

「ダ・ヴィンチ・コード」が世の中を騒がせていますが、その著者はプロテスタントの信者だそうで、事実の断片をつなぎ合わせて、自分の考えを述べている。スキャンダルのように扱うその内容には、愛がありません。

キリスト者にとって、聖体拝領の恵みは重要で、それにつながる最後の晩餐も大事なものです。その意味をしっかりと理解しなければいけません。

今日のお説教で思ったのは、やはり、無視できないくらい映画が話題になっていることです。映画はまだ見ていませんが、ただの娯楽映画でないような描き方を、それこそが事実であると誤解したり、キリスト教を否定するために使わるような気がするのは私だけでしょうか?

スカパーやケーブルTVでやっているFOXチャンネルでは、このブームに乗って「黙示録」というドラマをやっています。終末に反キリストが現れて、それに子どもを失った教授とシスターが対抗するお話です。黙示録は未来を描いたものでなく、過去の歴史を描いたものであるというのが通説のようですが、ついに終末が訪れたとして描いています。ドラマ「ミレニアム」のように純粋娯楽ドラマとして楽しめると思います。

しかし、来週、たった7話で終わるようです。ドキッとするような聖書の引用があり、それなりに面白かったのですが、「ダ・ヴィンチ・コード」のように下世話な内容でないと受けないのでしょうか。異端的な内容を使わなくても、黙示録のように感動やドキドキ感は十分に表現できると思います。

まあ、聖霊の愛に満たされ、キリストと共に歩んでいるならば、どうでも良いことではあります。

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2006/05/31

天地創造

「天地創造」は旧約聖書の創世記の1章「天地創造」から22章「アブラハム、イサクをささげる」までを描いた映画です。約3時間の大作ですが、これだけの内容を知ることができるなら、見る価値はあるでしょう。

天地の創造
「初めに、神は天地を創造された」(創世記1・1)ところから始まります。世界の作られた様子が、描かれています。

このシーン、マグマや水流で表現されていて、なかなか良くできています。「初めに言(ことば)があった」(ヨハネ1・1)のイメージのためか、実際に作られた様子というよりも、言葉が順に定められた様子を描いているような気がしました。

アダムとエヴァ(イブ)
「我々に似せて、人を造ろう」(創世記1・26)と塵(ちり)から人間が作られます。蛇にだまされて善悪を知る木の実(リンゴ)を食べて、神の怒りを買います。そして、灰の水曜日に言われる「塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3・19)と言われます。

ここでエヴァをだました蛇は地面を這うものになります。最近、蛇は足が退化したことが化石で確認されたそうですが、その頃のお話なのでしょうか。

カインとアベル(創世記4章)
アダムとエヴァの子どもである、カインは土を耕し、アベルは羊を飼います。カインは自分の捧げた収穫に神が目を留められなかったのに、弟のアベルの羊に目を留められたことを怒り、殺してしまいます。そして、さすらうものとなります。

すでに、この頃から人を殺すことは神の怒りを買う行為だったのですね。また、映画ではカインは捧げ物をケチったので、神が喜ばなかった要に描かれていますので、神にはためらわず捧げる事も描いているのでしょう。しかし、羊を飼うことは良いことという考えも描かれているように思いました。

ノアの箱舟(創世記6-9章)
「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(創世記6・6)神は、神に従う無垢な人であるノアとその家族に箱舟を作らせ、全ての動物の一つがいを救われます。ここで、ノアはほかの人から、海もないのに船を造ると馬鹿にされます。家族が不平を言うと、妻がノアの言うことを聞くようにたしなめます。

しかし、ノアの妻は、箱舟がいつできるかを尋ね、終わったら家の屋根を直して欲しいと言います。このシーンは最高です。良く考えると、ノアの妻は洪水が起きるとは思っていません。ノアが家長だから従っているだけです。ノアも反論しかけて、「わかった」と言います。このころも、女性は強かったのでしょうね。

バベルの塔(創世記10-11章)
当時、人間は同じ言葉を話していました。クシの子ニロムデは権力を誇示するために、天に届く塔を作ろうとします。そして塔の上から、ニロムデが天に向かって矢を放つと、神は怒り、互いの言葉が聞き入れられないように、言葉を分け混乱させました。バベルというのは、主が言葉を「乱した(バラル)」という意味です。

バベルの塔という言葉は知っていましたが、こういう意味だったのですね。このお話は、言葉が分かれていることを説明しているようにも取れますが、中央集権や帝国主義を批判しているようにも取れますね。

アブラハム(創世記12-22章)
アブラハムの生涯に関して詳しく描かれています。ソドムとゴモラも描かれていますが、印象的だったのは「イサクの誕生」(創世記21章)と「アブラハム、イサクをささげる」(創世記22章)です。ようやく授かったわが子イサクを、神の声に従って捧げようとします。もちろん、苦しみ、偽りの神ではないかとも思うのですが、最後には神に従いイサクを殺そうとします。そして、今まさに刃物で葬ろうとしたとき、

「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

と神が言われます。どんな苦境にあっても、神を信じて従えば、最後には救ってくださるということなのでしょうね。

3時間の長編ですが、ぜひ見てください。聖書よりもわかりやすく、場所によっては聖書よりも詳しく描かれています。じっくり見て、じっくりと聖書の世界に浸ってください。

(引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/05/22

マグダラのマリア

最近、検索キーワードに「マグダラのマリア」が多い(実はタイプミスのマグラダのマリアの方が多い)ので、簡単にカトリック的(ただし個人的)な説明をしておきます(話題の映画や小説は、面白くなくなるかもしれません。ご注意ください)。

マグダラのマリアは、キリストの受難の前には1箇所しか出てきません。「婦人たち、奉仕する」(ルカ8・1-3)にキリストが各地を回られた際に世話をした婦人の一人として「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」と紹介されています。

この7つの悪霊と言うことから、ルカによる福音書の直前の章の最後にある「罪深い女」(ルカ7・36-50)であるとか、「私もあなたを罪に定めない」(ヨハネ8・1-11)ある石を投げられかけた娼婦として扱われた時期もあったようです。しかし、Wikipediaの解説にあるように第2バチカン公会議後は「罪深い女」とは区別されています。

また、遠藤周作は「聖書の中の女性たち」の中で「(キリストの足を涙でぬらした)あの娼婦の寂しさを、やや性急でしかし炎のように熱情的だった彼女のなかに認めることはあまり好みません」としています。少なくとも、小説家の目で見ると別の人格に見えるようです。

さて聖書の中で、このマグラダのマリアは、キリストの受難の際に十字架のそばや墓にいた(マタイ27-61、マルコ15・40-47、ヨハネ19・25)、復活後のキリストを最初に見てそれを告げる(マタイ28・1、マルコ16・1-9、ヨハネ20・1-18、ルカ24・10)といった場面に出ています。

はっきり書かれているのは、これだけです。これらは日本聖書協会のWebページで検索・参照できます。

さて、検索してこられた方が、気になるのは香油を足に注いだ場面(マタイ26・6-13、マルコ14・3-9、ヨハネ12・1-8)でしょうね。この場面で名前を書いているのは、ヨハネによる福音書だけで、マリアとだけ書かれています。当時マリアは非常にありふれた名前で「『良い女』というほどの平凡な意味」(遠藤周作著「聖書の中の女性たち)で、特定はかなり困難です。

この場面では、弟子たち(特にユダ)が「なぜ、こんな無駄遣いをするのか」と怒ります。これに対してキリストは「わたしを葬る準備をしてくれた」と受難の準備であると言います。だれも求婚とは思っていなかったようです。しかも、メシア(救世主)を「油を注がれし者」(ヨハネ1・41)と呼びますので、この場面は非常に宗教的に意味のある場面です。

聖書中のマグラダのマリアはこんな女性です。このようなことを常識として育ったなら、突飛な説を主張する映画の試写会で失笑するのも無理がないでしょうね。

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2006/05/21

ルルドの聖母マリア

最近「ダ・ヴィンチ・コード」が話題になっていますね。試写会で評判が悪かった、別の部屋では好評だった、よくわからない、本を読んでいたので良くわかった、など。神学的な内容に関しても、教育に悪いからとフィリピンでR指定になる反面、日本ではTV番組が放送されたりしていますね。ここでも、ナショナル・ジオグラフィックで放送されていた番組の紹介をしてから、アクセスが増えているようです。

さて、先日もフジ系列の地上波で関連番組がありました。取り立てて新しい内容はなかったのですが、CGを使って分析するあたりは力が入っていると思いました。また、ナショナル・ジオグラフィックでは事実の確認が中心でしたが、フジTV版では最初にキリスト教の奇跡を紹介してから、映画の内容を追うと言う比較的興味本位な構成でした。この辺は国民性なのでしょうね。

さて、番組ではルルドに現れた聖母マリア様のお話も紹介されていました(カトリック中央協議会の記事)。ルルド近郊でベルナデッタの前に現れたマリア様がロザリオを持って現れ、指示通りに地面を掘ると泉が沸いたと言うお話です。そして、その泉の水を飲むと多くの人の病気が癒され、ベルナデッタも祝福を受けたのでその遺体は今も腐敗していないようです。

この病気が治ったというお話は有名で、現実派クリスチャンの遠藤周作の著作の中でも、奇跡を信じない医師たちが行った調査で、逆に奇跡を証明することになったお話が紹介されています。

Sekiguchi2 番組では、ルルドの泉とその上にある教会の映像を見ることができました。東京カテドラル(関口教会)のルルド(写真)は実物大だと書かれていましたが、本当に実物とそっくりでした。実物も同じようにマリア像が置かれているのですね。泉の水がパイプで送られて、給水所ができているのはちょっと驚きでした。

番組そのものは娯楽番組なので、グノーシス派、外典聖書、女性蔑視、などもう少し触れて欲しかったですが、このルルドの映像と、科学とカトリックの対立というとらえ方は良かったです。

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2006/05/19

ミッション

映画「ミッション」(リンク先はやっぴらんど:時代背景の解説もあります)は、南米の未開の地で宣教活動を行ったお話です。時代が今とは違いますが、政治と宗教のあり方を考えさせられます。

前に送られた宣教師が十字架に貼り付けられて滝から落とされるような土地に、主人公は音楽を通して宣教活動を行って成功します。そして、滝の上から下に移住させて農作物を作らせるなど近代化が進められます。

そのころ、ポルトガルとスペインで領土の線引きが行われ、滝の下がポルトガル領になります。イエズス会の宣教師たちが開いた土地も、ポルトガルに明け渡さなければなりません。枢機卿から、再び滝の上に戻るように言われますが、住民たちは納得しません。

そして、ついにポルトガルとの戦いが始まります。神父たちは住民を見捨てることができず、あるものは戦い、あるものは武器を持たず十字架を持って行進し、住民と共に虐殺されます。

その戦いのあと、指示に従うように神父らにすすめた枢機卿が、教皇に手紙を送ります。

あなたの僧侶達は死に
私は生き残りました。
しかし、死んだのは私で
生きているのは彼らです。
つねにそうであるように
死せる者の魂はいつまでも
記憶に行き続けるのです。

宣教師らは愛に生き、愛に死にました。何が悪かったのでしょうか?神の愛を伝えることは良いことだと思います。しかし、彼らはそれと共に、ほかのもの、文化、産業、そして政治まで持ち込んでしまいました。

当時の宣教師たちの命がけの活動に心打たれ、その愛に感動しました。しかし、宗教が社会まで変えてしまい、政治に翻弄される様子には、答えのないもどかしさが残りました。

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2006/05/18

ぼくが天使になった日-父親を考える-

この映画(リンク先はアマゾン)は離婚した両親の間で、いじめられっ子の少年がスペリングコンテストを通して自分の道を歩んでいくお話です。

少年は女装好き、母親は大食漢、父親は自分の理想を押し付ける警察官、父親の恋人はお色気タイプ、友達は西部劇の格好をする黒人の女の子、通う学校はお堅いカトリック、この構成はまさにコメディです。

特に学校で生徒に行進させるシーンが最高でした。米軍の歌の替え歌で「カトリック学校はきびしいぞ♪、心身ともに鍛えます♪、父と子と聖霊と♪、御名のもとにちかいます♪(字幕と吹き替えを混ぜました)」と歌わせます。私はひっくり返りそうになりました。カトリック学校に通ったことはありませんが、さすがにこんな学校はないでしょう!?(あったら教えてください) 

この少年はスペリングが得意ですが、女装も好きなのでコンテストにドレスを着て出場します。お堅いシスターはおかんむりで、男らしい息子になって欲しい父親も認めようとしません。そんな中、母親と友達は応援します。そして父方の祖母も父親に対して犯した「好きなことをさせてやらない」という過ちを繰り返さないために応援します。

勝ち進むにつれて新聞にも写真入りで載り、応援派と反対派が会場前でデモまでします。しかし、最後に優勝した時には、これまで反対していたシスターたちも喜びます。

優勝しても父親はあまり喜んだ様子ではありませんでした。しかし、少年が優勝賞品で教皇に会うためにバチカン旅行に旅立つとき、父親は記者に囲まれる息子を遠目から見守ります。そして、最後に少年が近づくと、父親がひざを落として、子どもの目線でお話をします。このシーンが最高です。

親は、どうしてもその経験から子どもの将来を考えてしまい、子どもの自由を奪いがちです。この父親が最後に「誇りに思う」と言ったのは、ようやく子どもの目線に近づいたと言うことでしょう。

実は、大学で教職課程(数学)をとっていました(あと、函数論と教育実習で教員免許も取れたのですが、なる気もないのに実習は迷惑だろうとやめました)。このときの教育心理学の授業で「小さい子と手をつなぐとき、指を2本にしてつなぐ」と教わりました。手の小さい子どもには、手の大きさにあわせて指を2本にして普段はつなぎます。そして危ないときだけ、しっかりと手をつなぐのです。これは、少年が父親に求める姿にも重なると思います。

自分を振り返るとあまり良い父親ではありませんでした。今後は自分の理想を押し付けず、少しでも子どもの目線で話したいと思います。むずかしいですけど、、、

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2006/05/15

天使にさよなら

原題を"GABRIEL & ME"というこの映画(リンク先はgoo映画)は、親子愛のお話です。特典映像のインタビューでヨーロッパ的とされるように、その表現は直接的でなく、かなり遠回りしています(この辺は好みが分かれるところでしょう)。

主人公の少年は、天使が飛んでいるときのように、父親に高く投げられたことが忘れられません。そして、天使になろうと大天使ガブリエルにお願いします。そして天使になろうと努力すればするほど、病に侵された父親とぶつかり、病気をひどくしてしまいます。

この天使修行は、父への愛から来ていることに最初は本人も気づいていないようです。また、父親は「俺が病気だと言うのに」と思い、少年はわかってくれないと反発します。

でも、最後の時が近づいたとき、父は昔の出来事を話して少年への理解を示します。そして少年は感動して抱きつきます。そして最後のとき、大天使ガブリエルが現れて、、、、

この映画はちょっとコメディがかっていますが、かなり深いことを訴えています。少年は奇跡を望みますが、大天使ガブリエルは奇跡を起こせないと言います。また、神様が居るかどうかは機密事項だとも言います。

このように全能の神や奇跡の存在を確信させない設定は、少年が奇跡に頼らないように言いたいのではないかと思います。つまり大天使ガブリエルの言う

「できる事からやれ、やるべき事を。意外に難しいと分かるよ」

に全てが詰まっていると思います。

奇跡を求めても奇跡は起こらず、やるべきことに必死になることで願いがかないます。必死な行いこそが祈りであり、祈りはやがて通じる。そんなメッセージがこの映画には隠れていると思いました。

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2006/05/12

翼のない天使

映画「翼のない天使」(リンク先はアマゾン)は、亡くなったおじいさんが天国で幸せにしているのか、苦しんでいないのかを心配する少年のお話です。この少年は、いたずら好きなのですが、このミッションに関しては真剣です。神さまに確認するために、

  • 枢機卿に会おうとする
  • 強く祈る
  • 東に向いてひざまずいて祈る(イスラム教)
  • 座禅を組む(仏教)

と色々なことをします。

途中で何度か出てくる回想シーンが泣かせます。病気のおじいさんに短距離走を見せるのはこれが最後だと少年は頑張るのですが、すぐに転倒してしまい立ち尽くします。アナウンサ役のシスターはそのことに気づかないのか順位を発表しようとしますが、おじいさんは「まだ走っています」と止めます。このときのおじいさんの笑顔に少年は一生懸命に走って、ゴールの先にいるおじいさんの胸に飛び込みます。このシーン新幹線の中で涙ぐんでしまいました。

そんな大好きなおじいさんのために、神を探す少年の姿は祈りそのものだと思いました。どのような形であれ、人のために祈る姿は美しいものですね。

少年はカトリックの学校に通っているのですのが、ちょっと気になるシーンが出てきます。

  • ロザリオ行列あるいは聖母行列と思われるのシーン:日本だと普通の格好でゆりを捧げるようですが、レースの服に花輪をした少女たちが、順にマリアさまにバラを捧げる
  • 聖体拝領:神父さまが御聖体で十字を切って、信徒の口に入れる
  • 宗教の時間:洗礼を受けないと天国にいけないなら、隣のおじさんはどうなるの?という質問に、生徒たちが勝手に「じゃあ、XXさんも」と大騒ぎになる
  • 宗教の時間:「ピッチャー・ユダ、バッター・イエス、ここで三振したら次はだれか」とシスターが盛り上がる

ストーリも、カトリックの学校を除き見るという意味でも、色々と楽しめる映画でした。

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2006/05/07

ダ・ヴィンチ・コード ~真実と虚構の境界線

(ダ・ヴィンチ・コードに否定的なネタばれを含みます。本や映画に期待されている方はご注意ください)

最近話題になっているダ・ヴィンチ・コードの説を検証する番組(リンク先はナショナルジオグラフィックチャンネル)がありました。著者のダン・ブラウンや神父様など様々な人とのインタビューを織り交ぜながら、検証しています。

上のページから引用すると「ダ・ヴィンチ・コード」では

イエスキリストの妻として子供を産んだ存在にもかかわらず、娼婦として描かれ続けてきたマグダラのマリアに関する秘密を、ミステリアスな物語とともに暴いていく。おまけに小説では、イエスの血脈を受け継いだ子孫が現在も存在しているという驚きの結末を迎える。

結論から言うと、構成がうまい!というか頑張っています。でも、よく考えると、ダン・ブラウンがちょっとかわいそうです。特に、マグダラのマリアが船で南フランスに逃れた際にダン・ブラウンはイエスの子どもをつれていたと言うのですが、現地調査で言い伝えではエジプト人の色黒の召使である、と言うところなどは、インタビューはカットしてあげれば、、と思いました。

全体の構成として、正統的なの解釈のあとに「しかし、ダン・ブラウンは、、、」のように「しかし、、、」と無理につないでいるのが気になります。まあ、逆にすると当たり前の結論になってしまいますから、、、

さて、推理の基本は巨万の富を得た

  • テンプル騎士団
  • 2元論のカタリ派
  • ソニエール神父

がすべて上に挙げた秘密を知ったからだとしています。

テンプル騎士団は利息を得て良い権利を得たことから巨万の富をえたようです。彼らは修道士でありながら騎士となり、エルサレムを守ったとされています。

その際に聖杯を得たという言い伝えがあり、その聖杯が何であるかで諸説あるようです。フランス王フィリップ4世が、彼らへの借金をごまかすために彼らを異端として捕らえた際に、拷問を与えて無理やりさせた供述が、キリストの血を入れた聖杯、キリストを刺した矢先、洗礼者ヨハネの頭、を崇拝したと言ったことから、何が本当かよくわからないようです。

この聖杯(SAN GREAL)を一文字ずらすとキリストの血(SANG REAL)になることからイエスの子孫の秘密という説が考えられたそうです。

グノーシス主義の考え方である2元論のカタリ派はマグダラのマリアを崇拝していたとされていますが、グノーシス主義では現世を悪だとしているので、子どもを生む女性は悪のはずで、矛盾しているようです。

ソニエール神父は、急に裕福になり教会に変な装飾を施して、信徒に追い出されかけるもののローマの力で追い出されなかったようで、それがなぜかはよくわからないそうです。

これらの話をつなぐのはヘンリー・リンカーンの「聖なる血と聖杯」をはじめとする小説です。著者のリンカーンは信じてるかと聞かれて「仮説です」と答えています。この仮説では、マグダラのマリアによって南仏へ聖杯をもたらした。マグダラのマリアと血縁関係があるとされるメロヴィング朝には海の生き物がはらませたという言い伝えがあり、海の生き物は初期のキリスト教のシンボルである「魚」だというお話です。

「ドシエ・スクレ」にはシオン修道会という団体の系譜がかかれ、ダビンチも関わっていたように書かれているようです。このほかシンクレア家が、聖杯の一族と呼ばれていて、ロスリン礼拝堂はアーサー王と聖杯伝説の場所で、テンプル騎士団が聖杯を守った。など、など、諸説をうまく繋ぎ合わせたお話です。

シンクレア家の末裔が二人出てきて、イエスの子孫かと聞かれ、一方は「ありえない」と笑い、もう一方が「薄いですがね」と笑っていたのはご愛嬌でしょう。

このほか、グノーシス主義の文書であるナグ・ハマディ文書でイエス・キリストとマグラダマグダラのマリアの関係が色々書かれているようですが、キリスト教の勢力を取り込もうとした作文のようにしか思えないのは私だけでしょうか。

一連のインタビューの中で、神父様が仮説を否定しながらも「仮にそうだとしてもキリストの神性は変わらない」とされていたのは印象的でした。

では、なぜこんな仮説が注目されるかと言うと、キリスト教の過去の歴史と最近の動向に関係しているようです。番組中のコメントによると、女性蔑視する派閥による差別の歴史があったようです。その際に、崇敬の対象がマグダラのマリアから聖母マリアにかわり、マグラダのマリアに娼婦の汚名をかけられるようになったようです。それと性の罪悪視が絡み厳格な教義になっていったようです。現在、女性の立場の回復の流れの中で、マグダラのマリアの立場を向上する説が注目されているようです。

仮説の否定として面白かったのが、聖書によるものでした。パウロのコリント人への手紙で、

「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。」(一コリント9・5)

としているところに、キリストのことが書かれていないからだ。という説がありました。確かに妻を持ちたいというなら、使徒でなくキリストを引き合いに出す方が強力でしょうね。

ダン・ブラウンが「信仰の敵は無関心」と言われていました。確かにそうだと思います。たとえどんな形であれ、キリストの興味を持つことは良いことだと思います。

ただ、ブームに乗って、グノーシス主義の文書がキリスト教そのもの、あるいは事実であるかのように書いている記事があるのはいかがなものかと思います。今回の騒ぎは「一杯のかけそば」をノンフィクションとして、ニュースとして扱ったり、特別番組で現地調査するようなものだと思うのは私だけでしょうか?

まあ、それなりに面白かったですけど、、、
(引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/05/05

マザー・テレサ

オリビア・ハッセー主演のマザー・テレサ(リンク先はgoo映画:予告編あり)を見ました。日本ではミニシアター系のようです。

イスラム教とヒンズー教の内戦が絶えない中、ヒンズー教徒のけが人をミッションスクールの敷地に入れた事から、修道院を去ります。久しぶりに出たインドの町に出たマザー・テレサは、物乞いをすろ子どもや大人、そして行き倒れの人に動揺します。多くの人が気にも留めない、今にも息絶えそうな人を、マザーも一度は見過ごそうとしますが、戻ってそばにすわります。そのとき、その人は
    私は渇く
と言って息絶えます。その時からマザー・テレサは新しい道を歩み始めます。この「私は渇いた」は、ヨハネによる福音書19・28にある言葉です。

修道院を出てスラム街に暮らそうとするマザー・テレサには、多くの困難が待ち受けていました。ミッションスクールの保護者は、品位が下がると言い、司祭、大司教、バチカンも必ずしも賛成ではありませんでした。しかし、マザー・テレサの強い意志と誠実さにより、修道会の創設者ができなかった活動が行えるようになります。

しかし、その活動は困難なものでした。集まってきた貧しい子どもたちに、食事を用意しなければなりません。マザー・テレサは、市場で古くなった食べ物を必死に托鉢(というか物乞いに近い)して集めます。そんな、マザーのところに協力者も増えていきます。

マザーの活動はキリスト教徒に限らず、ヒンズー教徒やイスラム教徒に対しても、本人の意思を尊重した奉仕活動でした。多くの誤解や妨害にあいながらも、神の意思を信じて活動しました。寄付が集まったときも、自分たちの活動よりも必要なところに先に分配し、「神さまはせっかちじゃないわ」と次の寄付を待ちます。そして、いつも日ごとの糧を与えられ、多くの支援が得られました。

その活動が発展しても、マザー・テレサの気持ちは常に変わりませんでした。ノーベル平和賞の晩餐会の食事を見て「このお金を使えばもっと他のことができます」と言い、世界的な団体になった後も、会議に出された水(たぶんペリエ)が3ドルすることを聞いて「3ドルあれば子どもが1年間学校に通えるわ」と協会を解散してしまいます。

「わが兄弟たちにお前がした事はすべて、私にしたことだ」という神の言葉を信じ、「小さくて心のこもった行動」に徹したマザー・テレサは、自らの危険や外部の批判を恐れずに行動する人であったマザー・テレサに、言葉で言い表せない強い愛を感じさせます。

そんなマザー・テレサだからこそ、「ロミオとジュリエット」のオリビア・ハッセーに付け鼻をさせ、歩き方までそっくりの熱演をさせ、良い作品が作られたのだと思います。

遠藤周作著「深い河」に出てくる厳格なキリスト教になじめず、死者の宗教にこだわらずにガンジス川に運ぶ奉仕をしていた神父は、このマザーテレサのことを描いたのだと思いました。「深い河」もそうですが、キリスト教をこえた深い愛をこの映画は感じさせてくれました。

エンディングに流れる聖フランシスコの「平和の祈り」(リンク先は京都の聖母学院右下にあります)そのものをマザーテレサは実践されました。主を探すマザーに行き倒れの老人が言った「良い雇い主は決して忘れない、彼のために働く者を」は、まさに列福されたマザーテレサにふさわしい言葉だと思います。

最後にマザーの言葉を書いておきます。

私たちの行いは大海の一滴にすぎません。何もしなければその一滴も永遠に失われます。

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2006/05/03

リトル・ランナー -奇跡なんて、起こしてみせる!-

所属教会で映画リトル・ランナーの割引券(5月5日まで)を配っているので見てきました。ミニシアター作品らしい、ありがちなストーリーではありましたが、その辺に居そうな普通の少年が、母親のために奇跡を起こそうとする純粋な気持ちに感動しました。

主人公のラルフは、詳細に書くのがはばかられるような、とんでもない少年です。彼はカトリックの学校に通っていますが、いつも注意され、校長に双眼鏡で監視されるような問題児です。

そんなラルフには父親も親戚もなく、心の支えは入院中の母親でした。そんな母親が昏睡状態に陥り、奇跡でも起きないと目覚めないといわれます。そんな時、罰として入らされたクロスカントリー部の顧問から「ボストンマラソンで優勝したら奇跡だ」と言われ、(ちょっと短絡的ですが)なんとボストンマラソンでの優勝を目指します。

信仰、純潔、祈り、それが奇跡を起こす条件です。どれもラルフには難しいものでしたが、サンタクロース姿の神様や友人に応援され、祈り以外は達成します。そして、ついにマラソン中に祈ります「マリア様、もう少し走らせて」

結論はありがちですが、主人公の姿に影響されて変わった、友人と顧問(神父)の勇気ある行動がすばらしい。危険なことをしようとしなかった友人は放送室を占拠してマラソンのラジオ中継を流します。また顧問も、ボストンマラソンに出ることに反対している堅物の校長(神父)に

「実は彼に会うまでは何も信じていませんでした。でも、今は、こう思います。この世を去るとき、神がお尋ねになる"危険を冒したことは?先が見えずとも跳んだことは?目を閉じて運を天に任せたことは"。今の答えはこうです。"いいえ、ありません"だから目を閉じます」

というシーンは、信仰、勇気、そして、愛、について考えさせられました。

この映画は、レインマンのようにユーモアを交えながら、聖者暦に従って淡々と進みます。途中には、カトリックならではの赦しの秘跡でだまされる場面など、なかなか楽しませてくれました。最後の友達からも馬鹿にされていた少年が、日々努力を続け、ボストンマラソンでゴールを競う場面では、学校中、町中が、そして見ている私も応援していました。純粋に楽しみたい方にはおすすめの映画です。

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2006/04/29

ユダの福音書

スカパーやケーブルテレビのナショナルジオグラフィックチャンネルで、ゴールデンウィークにキリスト教関係の番組をやっています。「エルサレム」は3大一神教の聖地であるエルサレムの現代と歴史の紹介で、聖墳墓教会に教派ごとに聖堂があるなど興味深いことを紹介していました。聖墳墓教会の復活徹夜祭は大騒ぎのお祭りで、ちょっと驚きました。

以前、ここでも取り上げたユダの福音書解説番組(リンク先はナショナルジオグラフィックチャンネル)もやっていました。

ユダの福音書はナグ・ハマディ文書(リンク先はWikiPedia)と同じくグノーシス主義の文書と考えられています。グノーシス主義は、この世を作った神は信仰の対象ではなく、真実の神(キリスト)、人知を超えた存在を神聖であるとしています。

肉体は聖霊を閉じ込める牢獄で、イエスの死は良いことで、ユダはキリストの魂を解き放った英雄、イエスの贖罪は人々に救いをもたらし、イエスの命令に従いそれを実現したのはユダである。そして他の使徒たちはねたんだ。いう内容のようです

このユダの福音書は西暦180年リヨンで迫害があったころ、司教のエイレナイオスがキリスト教のメッセージを明確にするために当時30以上あった福音書から4つ(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)を司教らの意見や、人気で選んだようです。その際にナグ・ハマディ文書にあったトマスによる福音書やユダの福音書は捨てられただけでなく、異端書とされたようです。

なお、聖書の4福音書の中でも、ユダに関する記述は後のものになるほどユダを悪者に描いています。これは、キリスト教徒たちがユダを悪者にし、ユダヤ人を切り離し、自らの信仰を守り異邦人に広めようとしたからだそうです。

ここで、ユダはユダヤ人の象徴であることから、ナチスの時代にユダヤ人を迫害したドイツでは、ユダの名誉回復、聖人とするうごきがあるそうです。

このほか復元や確認の様子などが紹介されていました。

さて、番組中で、4福音書以降に書かれた福音書は信用できない。ユダの福音書はいつかかれたかわからない。としていました。キリスト教のグノーシス主義は、先にあったキリスト教にグノーシス主義が後から入ってきたものだ(リンク先はWikipedia)と思いますので、他の福音書と同じくユダの福音書も信用できないとされている後期のもののひとつだと思います。つまり、事実を書いたというよりは、グノーシス主義に合わせて福音書を書いたと考えるべきだと思います。とはいえ、

  • ユダの福音書はキリスト教初期の多様性を示している
  • グノ-シス主義の資料として貴重である
  • ユダの名誉回復の動きがある

ということは、興味深かったです。そういえば、パッションで、ユダに付きまとう悪魔の様子が、反ユダヤ的とされたという記事を思い出しました。

最近、いろいろな記事が出ていますが、普段興味を持たない人が少しでも興味を持ってくれるとうれしいですね。

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2006/04/22

我が道を往く-聖歌隊による教会の活性化-

500円のDVD「我が道を往く(GOING MY WAY)」を見ました。教会を立ち上げた老神父のところに、ビング・クロスビー扮する若い神父がやってきます。この二人の神父の関係や街の不良たちなど様々な人々が織り成すユーモアあふれるヒューマニズム映画です。アカデミー賞5部門獲得の映画です。

ほのぼのとする映画ですが、若い神父がなかなかユニークです。道路で子ども達と遊んで怒られたり、七面鳥を盗む不良を叱らず、不良が逃げ込んだ教会で老神父に見つかって仕方なしに寄付した七面鳥を平気な顔で食したり、なかなかユニークです。

しかし、この若い神父のすごいのは、不良を集めて聖歌隊を編成します。最初は老神父が顔をしかめるような歌を歌わせます。その中で、編成を決め、コーラスの楽しさを教えます。そして聖歌を歌うときには、不良たちの目は輝いていました。

どんな人も受け入れて、教会に居場所をつくる。今年90人が洗礼を受けた高円寺教会の活動につながるような映画でした(案内にはヤクザに演劇を教えるとありますが、カットされていたのが、ちょっと残念でした)。

いや~、教会って本当にいいもんですね。。。

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2006/04/11

私の頭の中の消しゴム

お勧めの映画です。宣伝ではアルツハイマーで記憶を失っていく奥さんとの純愛が強調されていましたが、運命を受け入れること、人を許すこともテーマになっていると思います。

この映画、とにかく泣けます。なんといってもチョン・ウソン演じるチョルスの荒々しさが話を盛り上げています。ソン・イェジン演じるスジンに諭されて、それまで許せなかった母親を許します。母親から罵声を浴びても借金を払って無一文になります。荒々しかった男が、こうも簡単に変われるのかと思わせます。奥さんがアルツハイマーで記憶を失うことがわかっても、自分の事を忘れたらはじめからやり直せばよいと優しい声をかけます。

しかし、アルツハイマーは新しいことから忘れていく病気でした。スジンはチョルスを昔の彼の名で呼び、愛してると言います。チョルスは苦しみながら僕もだよと言います。なんて美しい夫婦愛でしょうか。

しかし、昔の彼が現れたとき、スジンが間違えていることを理解しながらも、それまでの苦しみから、昔の彼に殴りかかります。今にも殺してしまうほどに。この場面、激しい場面なので、見ているときはそこまで殴らなくてもと思いますが、後から思うととても悲しい場面です。

人が人を許すことは難しいですよね。起きてしまった行為はあきらめることもできますが、それが相手の意思だと思ってしまうと、相手の人間を許すことはなかなかできないですね。そう感じる自分をいかに解き放すか、真の自由を得ることができるかどうかががポイントなのでしょう。とても重い十字架です。

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2006/04/07

物事には全て意味がある(サムソンとデリラ)

求道者の生活もあと一週間ほどになりました。映画もみるべきものが少なくなり、今回は旧約聖書(士師記13~16章)のサムソンとデリラ(リンク先はサンパウロショップ) を見ました。

神に背いた青銅器しか持たないイスラエル人は、鉄の武器を持つペリシテ人に支配され、迫害されます。その後、ようやくイスラエル人は偶像崇拝をやめたので、サムソン(太陽の子:Son of Sun)(リンク先はWikipedia)に力を与えます。

デリラ(欲望の意味)に迫るライオンを素手で殺したサムソンは、イスラエルのリーダーでした。しかし、肉欲と復讐心に負け、デリラと深い関係になります。デリラは1100枚の銀(ユダはたった30枚なのに!)をもらうため、愛するサムソンを裏切りサムソンの力を奪う方法を聞き出します。

デリラに髪を切られ、力を失ったサムソンは捕らえられ、視力も奪われます。そして、ようやく信仰に目覚めたサムソンは「神は赦しを与える方だ」と悟ります。髪も伸び、力が復活したサムソンは、見世物にするためにつながれた宮殿の柱を倒し、ペリシテ人と共に死んでいきます。

全てが終わり、「物事には全て意味がある」という言葉で映画は終わります。無駄に思えたサムソンの人生も、信仰を得る、イスラエル人を救う、という意味があったということだと思います。この最初と最後に語られる「物事には全て意味がある」は、遠藤周作の「人生に無駄なものは何一つない」とつながる言葉ですね。

さて、聖書の該当箇所を読むと、サムソンが若い頃、デリラではないと思われるペリシテ人の娘と結婚を望んだが、親に反対されたとあります。このとき、「父母にはこれが主の御計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった」(士師記14・4)とあり、無割礼の(ユダヤ教徒でない)民とイスラエル人を結び付けようとしたように読めます。旧約聖書では、ユダヤ教徒であること、割礼を行うことが重要視されていたと思っていたので少し驚きました。

(引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/04/05

KING OF KINGS

キリストの生涯を描いた約3時間の長編映画でです。この「KING OF KINGS」はドラマとしても楽しませてくれます。この映画ではユダがバラバ(ピラトがイエスとどちらを救うかを民衆に尋ねた犯罪者)の率いるテロ集団のメンバーになっています。

バラバが反乱を起こしてもイエスが立ち上がらないので、身に危険が迫れば今度こそイエスも立ち上がると考えて、ユダはイエスを大祭司カヤパに引き渡してしまいます。ユダの裏切りは、「パッション」は悪魔の仕業で「偉大な生涯の物語」はうらみでしたが、このような政治的な理由でリアルに描かれているのは驚きでした。

また、山上の説教がすばらしいのも特徴です。それ以外の教えや奇跡は簡略化され、群集に囲まれた山上の説教に多くの時間を割くことで、より効果的に教えを伝えています。この映画に描かれたように、人々と対話をしながら教えは伝えられたんでしょうね。

ドラマを楽しむなら「KING OF KINGS」、御言葉をたくさん聞きたいなら「偉大な生涯の物語」、マリア様とヨセフ様のお話も見たいなら「JESUS 奇蹟の生涯」、痛々しくもリアルな「パッション」と言ったところでしょうか。

なお、「KING OF KINGS」というのナポレオンの映画もありますのでお間違いなく。

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2006/03/30

偉大な生涯の物語

「はじめに言葉あり」から始まるこの「偉大な生涯の物語(リンク先はアマゾン)」はイエ・スキリストの生涯を描いています。イエスの生涯のお話としてはJesusもありますが、この映画は199分の長編で、Jesusが物語的だったのに対して、御言葉がたっぷり入った福音書的な映画でした。

政治的な背景も良く描かれています。特にヘロデ王の死後の暴動で、ヘロデ王の息子(ヘロデ・アンティパス)が権力が弱くなる様子、暴動を起こし十字 架にかけられた多くのユダヤの民が救世主を待ち望む様子、そしてそのそばをイエスさまを抱いたマリアさまとヨセフさま一行の姿は、その当時とその後を象徴 するようでした。

また、サドカイ派らしき人々の議論の様子や、そこで報告されるイエスの奇跡なども当時の状況をあらわしていて、なかなか興味深かったです。

キリストの生涯と教えが、御言葉で示されています。最も重要な掟が、唯一の主を愛すること、自分と同じように隣人を愛すること、であることなど、色々と読んでいるうちに忘れかけていたお話が満載です。

映像と音楽では、ガリラヤ湖周辺を弟子達を連れ、教えを述べながら歩かれる姿は、まねをされたのではないかと思うぐらいドラゴン・クエストのようで した。また、ラザロがよみがえった後の「ハレルヤ」は最高でした。その光景をみた人々が、神と信じ、賞賛する姿はもっとも晴れやかで(受難前の)最後の栄 光の姿そのものでした。

細かなところでJesusと比べて良かったのは、ロバに乗ってエルサレムに入城するシーンです。Jesusではロバが小さくて、そんなかわいそうなことはしないだろうと思いましたが、この映画ではしっかりしたロバで安心しました:-)

ここ1ヶ月半で5回も東京出張があってちょっとバテ気味ですが、長編のキリスト教の映画が見れたので良い四旬節になりました。実は1.5~2倍再生 で見たのですが、この映画だけは帰ってから標準の速度で見直しました。聖書を読みたいけど、読む気力がちょっとたりないときにはお勧めの映画です。

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2006/03/28

クォ・ヴァディス(いずこへ行きたもう)

以前、ここで紹介したクォ・ヴァディスリメイク版を見ました。以前紹介したものは、DVD1枚の恋愛映画で、パウロが活躍していましたが、このリメイク版は

  • DVD3枚(上中下巻各2話ずつ、合計4時間半!)
  • 恋愛だけではなく、赦しもテーマ
  • パウロよりペトロが多く出ている

という特徴があります。特にキリスト教的な赦しに関しては、金に汚く、恨みがましく、人を平気で裏切る(いかにも、これがユダだと言いたげな)キャラクタが出てきます。この人物は、悪いことを何度も行い、口先だけで赦しを請い、そのたびにキリスト教徒に赦してもらいます。でも、赦してもらってもすぐ後に裏切ります。

この裏切り者は「ローマに火をつけたのはキリスト教徒である」と偽証します。しかし、知り合いのキリスト教徒たちが、ライオンに食われ、十字架に貼り付けられ、最後に火あぶりにされる様子を見る中で、動揺し、またまた赦しを請います。そして、燃えていくキリスト教徒に赦されたとき、ついに回心し、洗礼を受けます。

人はなんと弱いものでしょう。ペトロも周囲に促され、危険なローマを去ろうとします。そのとき、光が現れてペトロが「キリスト、キリスト」「クォ・ヴァディス・ドミネ(主よ、いずこへ行きたもう)」と聞くと、「お前が私の民を見捨てるなら、私はローマでもう一度十字架にかかろう」と言われます。そして、共にローマから逃れてきた少年に、「クォ・ヴァディス(いずこへ行きたもう)」と問われ、再び、ローマへの道を歩みます。

この作品は、恋愛ドラマでありながら、キリスト教の考え、ローマのキリスト教国への道、暴君ネロとその周辺などが描かれています。時間と体力があるなら、じっくりと楽しめる作品だと思います。

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運命への道

映画版「いま、会いにゆきます」のDVDを見ました。TVドラマ版は見たことがあったのですが、今回は映画版です。

TV版のミムラさんの不思議感、成宮寛貴さんの優しそうな感じも良かったですが、映画版の竹内結子さんの自然かつ細やかな演技も良かったです。また、TV版のキャラクタとの違いから、はじめはちょっとなじめなかったですが、中村獅童さんもぼくとつな感じが良かったです。

さて、いきなりネタばれですが、このお話は子どもを生んでから健康がすぐれず亡くなった奥さん(澪:みお)の死後に、付き合う前の澪がタイムワープします。そして、帰ってきたと思っている家族との生活のあと、過去に戻った澪が、いずれ死ぬことを知りながら、その未来に向けて歩みだすと言うものです。運命がわかっていても、愛のためにその道を歩む、四旬節にぴったりの映画でした。

さて、主日のミサは「イエスとニコデモ」(ヨハネ3・14-21)でした。この中でイエス・キリストはニコデモに「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」と自らの死を述べられます。そしてその死が、信じるものに永遠の命を与えるものであるといわれます。(引用は日本聖書協会 新共同訳)

愛のために死ぬと言うことは、どちらも同じですが、その思いは大きく違います。澪は未来の家族に触れ、家族の愛を知り、その人生が幸せだったことを確信して、死への道を歩んだと思います。しかし、イエスは弟子たちが教えを理解せず、ついには一番弟子のペトロまで裏切ることを知っています。それは、愛されることのない、一方的な愛です。そして、いままでわかってくれなかった弟子たちが、やがて抱くことになる信仰を、強く信じて亡くなっていかれたのです。

「いま、会いにゆきます」を見た後、ほのぼのとした暖かい愛を感じました。それに対し、聖書の中のキリストを読むと、自分の罪深さを感じたり、一人だけの苦しみが救われたような気持ちになります。そんな偉大な神を思うとき、
ミサで聞いた「神を忘れて生きることが罪ではないでしょうか」という一言が思い出されます。

(2006年03月28日(火)7:00-13:00ココログのメンテナンスのため、コメント・トラックバックができません)

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2006/02/22

汚れなき悪戯(けがれなきいたずら)

FOOTPRINTSのコメントで話題に出ていた「汚れなき悪戯」のDVDを、イグナチオ教会から川をはさんだ向かいにあるサン・パウロ書店で見つけました。通販サイトでは高いと思って買わなかったのですが、実物を見てついつい買ってしまいました。

この映画は修道院の前に捨てられた子供のお話です。12人の修道士に育てられたマルセリーノは悪戯好きの純真な子供に育ちます。しかし、この少年のちょっとした悪戯から修道院が閉鎖の危機を迎えます。修道士たちに冷たくされた少年は、立ち入ることを禁止されていた2階にあがり、そこで十字架のイエス様に出会います。はじめは怖がっていたもののおなかが減っているみたいだからと、イエス様に食事を運びます。しばらくしたある日、イエス様が「お前は良い子だ」と、願いをたずねると「お母さんに会いたい」と言うマルセリーノ、マルセリーノはイエス様に抱かれて、天国に召されていきます。

この映画は悲しい映画ですが、少年のあどけなさが強烈で、神様の奇跡によって純真な子供がお母さんに会えてよかったかのような気持ちにもさせられます。しかし、修道士たちの側から見ると、すごく悲しい、苦しい映画に思えます。視点を変えて書くと

修道院に捨てられた赤ちゃん(マルセリーノ)は、修道士たちには可愛くてたまりませんでした。どこかの家庭に引き取ってもらうほうが、この子にとって幸せに違いないと、修道士たちは村中を歩きました。しかし、環境に問題があったり、家が貧しいなど、なかなか良い預け先がありませんでした。ようやく面倒を見てくれると言ってくれた家庭の父親は暴力的で、修道士の前で子供をぶっていました。しかたない、われわれで育てよう、そう思って修道士たちはなんとか育ててきました。

外に出て遊ぶことも大事だと、マルセリーノを外で遊ばせたこともありました。泥団子を投げて遊び、今は村長になったあの暴力的な父親にぶつけたときは少し困りました。また、あるときはサソリにさされて、修道士たちはひどく心配しました。それからは、修道院の中で遊ばせていました。以前、マルセリーノが外で遊んでいるときに子供を捜しているお母さんに会ったことが忘れられず、会ったこともないその子を友達として、一人で遊んでいる姿は、少しかわいそうでした。久しぶりに村に行ったときの悪戯では、村中が大騒ぎになって本当に困りました。あの村長が悪戯を口実に修道院を閉鎖しようとしたからです。

そんなとき、ときどきパンとぶどう酒が減っていることに気づきました。マルセリーノが、また悪いことをしているのではないかと、後を追いかけてみました。マルセリーノは、行ってはいけないと言っていた2階にあがります。ドアの割れ目から見ると、なんと十字架のイエス様が動いて、マルセリーノの運んだパンとぶどう酒を食べられています。信じられない光景に身動きが取れないままでいると、マルセリーノは母に会うことをイエス様に願い、イエス様に抱かれたまま天に召されてしまいました。

このとき、修道士たちは驚いたに違いありません。神様はなんてことをされるんだ。お願いです、マルセリーノを返してください。マルセリーノは私たちの子供です。こんな小さな子供の命をとらないでください。そんな願いもむなしく、マルセリーノは戻ってきませんでした。

しかし、しばらくして、そこにマルセリーノの悲しみ、寂しさを知る神の愛、があったことに気づいたでしょう。急に言いようのない悲しみが修道士たちを襲い、「もっと外で遊ばせるべきだった」、「完全な家庭を求めないで、母親のいる環境を与えるべきだった」、「いない友達の名前を呼んだときに、なぜマルセリーノの寂しさに気づかなかったんだろう」、「無邪気に遊んでいても、いつも我慢していたんだ」、「なぜ冷たくしてしまったんだろう」、「修道院が危機にあってもやさしくすべきだった」、「マルセリーノの命を奪ったのは私たちだ」、そんな思いが駆け巡ったでしょう。

この悲しい出来事で、修道院は存続することになりました。マルセリーノは、修道院を救った殉教者かもしれません。村の人たちは、奇跡を祝って祭りにしました。祭りの日に修道士が歩いていると、子供に祝福するように頼まれます。祝福するとき、修道士はマルセリーノを思いながら、神の祝福が子供たちにあることを願います。

遠藤周作の「キリストの誕生」をまねて、視点を変えて書くとこんな感じでしょうか。映画では、修道士の悲しみはあまり描かれていません。しかし、映画のはじめには、悲しげに祝福する姿が描かれていて、そこに修道士の深い思いを感じました。

父親の一人として色々と考えましたが、この映画は、もっと色々な見方ができるかもしれません。悲しみを感じたり、神の計り知れない愛に幸せを感じる方もあるでしょう。また、子供の気持ちを思って修道士に怒りまで感じる方もおられるかもしれません。神をどう思うか、子供をどう捉えるかで、感想が異なる映画だと思いました。

映画中に流れる「マルセ~リーノ♪、マルセ~リーノ♪」という歌は、どこかで聞いたことのある歌です。この映画も見たことがあったかもしれません。でも、以前の私は神様を知らなかったので、たぶんよくわかっていなかったでしょうね。感受性を高めてくださった、神に感謝!

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2006/02/20

然(しか)り

NHK連続テレビ小説「風のハルカ」の主人公ハルカは、婚約者に逃げられました。ハルカは子供のころを過ごした湯布院のお嫁さんになるのが夢でした。姑とも馬が合い、頼りないものの気が優しい温泉旅館の息子は、まさに理想の結婚相手でした。

しかし、元々夢を追いつつも、だめ息子だった彼には、旅館を継ぐことが苦痛だったようです。もちろん、逃げた彼が一番悪いのですが、ハルカは悲しみ、自分にも悪いところがあったかも知れないと苦しみます。

日曜日のミサの第二朗読は、「コリント訪問の延期」(Ⅱコリント1・18-22)でした。この中の『「然り」と同時に「否」』という言葉が、よくわかりませんでした。この章をはじめから読むと、人間的な考えによることで訪問が延期になったことだとわかりますが、どうもよくわかりませんでした。

彼に逃げられたハルカは、彼も悪いが、自分も悪い、なぜ、こうなったのだろうと苦しみます。これが、『「然り」と同時に「否」』であるような気がします。つまり、そうでもあるし、そうでもない、ただ悲しい現実がある、ということなのだと思います。

ハルカは、苦しみ、何も食べずに死んでしまおうとまで思います。しかし、悲しいかな、ハンバーグなど食事の夢ばかり見てしまいます。ハルカは部屋から出て冷蔵庫で食べ物を探します。探している間に、母と妹に見つかりました。母親は優しく言います「何か作ってあげましょう!」。身動きが取れないほど悲しいとき、最後に救ってくれたのは愛だったのです。

第2朗読の続きでは、イエス様のことをこう述べています(日本聖書教会、新共同訳)。

この方においては「然り」だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。

以前、3回ほど感想を書いた安岡章太郎氏と井上洋治神父の「我等なぜキリスト教徒となりし乎(か)」で、遠藤周作が「深い河」でキリストを玉ねぎとたとえたお話が出ていました。そのココロは「剥いても剥いても愛ばかり」とされていました。

母の愛がハルカにとっての「然り」であったと思います。しかし、母親とうまくいかないときもありました。母であっても人間である限り、ことごとく「然り」とはいきません。ことごとく「然り」であるとは、そんな神の愛のことも言っているのかな、とドラマを見て思いました。

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価値観の転換

ミサの福音朗読は「中風の人をいやす」(マルコ2・1-12)でした。

公生活を始められ、悪霊に取りつかれたひと、多くの病人、重い皮膚病の人を治されたイエス様が、再びカファルナウムに戻れれると、大勢の人が集まりました。そこに中風(不随)の人が運ばれてきます。イエスさまはその人をいやされました。

このお話で、イエスさまは2段階の行動をとられています。まず、「あなたの罪は赦される」と言われ、神から見放されたように感じている人に「神があなたをゆるし、受け入れてくださっている」といわれます。そして、律法学者の「神を冒涜している」という思いに対し、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われると中風の人は出て行きました。

この最初の段階で示されているのは価値観の転換によるいやしです。人は自分の境遇を不幸だとなげいてしまいますが、神の恵みによって前向きに考えることができます。耐え難い状況を受け入れ、前向きに生きていくことが重要でしょう。

先日のシグニスセミナーの帰りに、「聖衣(Robe)」をDVDで見ました。この映画は、男女の愛、奴隷との友情、キリストへの信仰を描いたものです。後に皇帝となったカリギュラとの諍いからエルサレムに送られた主人公は、キリストの処刑を担当させられます。処刑後にキリストのローブを手に入れ、雨をよけようと体にかけたときから主人公は不思議な苦しみを感じ、この苦しみをきっかけとして、長く苦しんだ後にキリスト教に目覚めます。そこには、ローブの秘密を解いた奴隷との友情、カリギュラとの諍いにも関係する幼馴染との愛が絡み、格闘シーンやカリギュラに棄教を迫られるシーンなど迫力シーンが描かれています。

キリスト教的なシーンでは、イエスを知る人々の町(ナザレ?)にペトロが出てきます。途中でユストという信者がローマ軍に殺されますが、年齢的に聖ユスト殉教者ではないようです(よくある名前だったんでしょうね)。あと、主人公が信仰を深める時に、キリストを歌う足の不自由な女性が出てきます。この女性に、主人公が、なぜイエスは治してくれなかったかをたずねます。これに対し女性は、足が悪くても幸せであることを示すために私はいると答えます。

これこそ、神の愛を感じることによる「価値観の転換」だと思います。目の前にある現実は、信仰の有無により違いはないかもしれません。しかし、どんな人であっても神は見捨てず、愛してくれている。だから、この苦しい状況には必ず意味がある。そう思えることは大きな神の恵みだと思います。

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2006/02/13

悲しみの暴君ネロ

以前、MAGISで紹介されていた「悲しみの暴君ネロ」がようやくNHK BS2で再放送されました。
このブログで紹介したことのある「クォ・ヴァディス」では、ネロは純粋な心の持ち主として描かれ、周りに持ち上げられた裸の王様のように描かれていました。この作品では、奴隷に育てられた経験から、民衆のための国家設立という高い志しを持っていたが、権力欲に取り付かれた母親に翻弄され、自らの理想の実現のために次々と人を殺すようになってしまった様子が描かれていました。

このネロのように、傍(はた)から見てとんでもない人でも、その人を中心に考えると心理的に追い込まれて、仕方なしに悪いことをしている場合があるということでしょう。それぞれ自分を中心に考えると、さまざまな衝突が生じます。そこで、もし、自分が一番である、正しいと考えると「あいつが悪い、やめさせなければ!」と、なってしまいます。それぞれが、僕(しもべ)である事を認識し、ほかの人に仕えていたならば問題はないはずなのに、うまくいきませんね。

今回の話の中で、母親が義弟に政権を与えようとしていると考えて、義弟を殺してしまう場面がありました。自身を一番に考えないなら、義弟と相談して二人でうまく運営する方法もあったと思うのですが、人を殺すような発想を持ちだすと、人のことは信用できないのでしょうね。

このお話には、パウロが登場していました。ローマの教会でパウロから届いた手紙を読むシーンがあり、聖書で確認するとすべて「ローマ人への手紙」の抜粋でした。この手紙にある神のもとの平等という考え方が、当時のローマの奴隷に対して、大きな救いになっていたようです。

途中で登場するパウロが、魚のペンダントをしていました。「クォ・ヴァディス」の記事に書きましたが、ギリシャ語で「イエス・キリスト」「神の一人子」「救い主」の単語の頭文字をならべると「イクスース(魚)」になることから、キリスト教信者をあらわすしるしだそうです。私も、魚のストラップを探してみようかと思っています。

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2006/01/04

不可算名詞の神と聖霊

英語で聖書を読んでいると、名詞が可算かどうかが気になります。
研究社の新英和中辞典によると、キリスト教では神(God)聖霊(Spilit)は不可算名詞です。このことは、内村鑑三のキリスト教問答集で三位一体の証拠とされています。

キリストの洗礼は聖霊によるとされ、堅信の元になったのはヨハネの洗礼を受けたものに聖霊を受ける行為です。また、ほかの秘跡も聖霊によるものです。すべての行為が人に聖霊を入れるものではないかも知れませんが、そんなにいくつも入るかどうかが気になっていました。でも、聖霊は不可算だと考えると、何回入れても良いのでしょうね。

このように考えていると、スタートレックDS9を思い出します。このSFには、可変種のオドーというクルーが登場します。この可変種は創設者とも呼ばれ、ある宇宙域を支配する組織を作った種族で、その組織のものにとっては神のような存在です。彼らは元々液体のような身体で、池のようなところに住んでおり、人類のような固形種と交流するときだけ形をつくります。神や聖霊を考えていると、この可変種のイメージがだぶります。クルーで可変種のオドーは、可変種からの攻撃から救う救世主のようだし、複数が一体化しているのでどのぐらいいるか数えられない、など。

話を戻すと、"God"は多神教の場合には可算名詞で、キリスト教では不可算名詞の神です。このことから、キリスト教の神は世界のすべてのようなイメージ、聖霊はくっついたり離れたりできる気体や液体のようなイメージを持っています。

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2006/01/02

クォ・ヴァディス

書店で「水野晴郎のDVDで観る世界名作映画」というシリーズが、期間限定500円で売っているのをご存知でしょうか?これは著作権の切れた映画を収めたもののようです。何気なくこのシリーズを観ていると暴君ネロのころを描いた「クォ・ヴァディス」(リンク先は「懐かしの映画館」)を見つけました。

このDVDはパッケージで観ていると、暴君ネロの話をもとに騎士と女性のラブ・ロマンスのように読めます。十字架の前での説教シーンの写真のほか、「キリストに問いかける」と書かれています。500円ならまあ良いかと買ってみました。

いや、この映画はアタリでした。ただの恋愛ものでなく、主役の女性はクリスチャンで、信仰の無い騎士との愛に苦しむお話でした。最初のほうで、いきなりパウロが出てくると思ったら、ペテロも出てきてお説教をします。しかも、暴君ネロが放火した責任をクリスチャンに押し付け、クリスチャンをライオンに食わせるわ、火で焼き殺すなど、殉教シーンまであります。しかも、殉教する直前に、神のお告げを受けたペテロが登場し、殉教者を神の国に迎えるべく言葉をかけ、信者たちは歌を歌い、微笑みすら浮かべながら死んでいきます。もちろん、結末は、、、

途中で、主役の女性が魚の絵を描くシーンが出てきます。これは迫害されているクリスチャンが信仰のしるしとして描くものだそうです。ギリシャ語で「イエス・キリスト」「神の一人子」「救い主」の単語の頭文字をならべると「イクスース(魚)」になるからだそうです。ちょっと勉強になりました。

上の紹介ページでは、あまり評価は高くないようですが、キリスト教の映画としてみるなら、結構楽しめると思います(この商品および発売元とはなんら関係ありません。念のため)。

(そういえば、パウロも"My son"と、軽い感じで言っていました。イエスもこんな感じだったのでしょうか?)

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2005/12/30

メル・ギブソン「サイン」

キリスト教にインスパイヤされた映画と知り、"signs"のDVDを見ました。
メルギブソン演ずる元牧師は、妻の死をきっかけに、神も奇跡も信じなくなっています。そして、農場に突如現れたミステリーサークル。それは宇宙人来襲のサインでした。
(以下、ネタばれ注意)

このsignという単語は研究社英和中辞典によると「神力[神威]のしるし,お告げ,奇跡」
という意味があるようです。インスパイヤされているとのことなので、途中まではキリストの再臨の話だと思っていました。(^_^;

この"sign"という単語、実は「奇跡」という意味でタイトルになっているようです。全体のお話は、主人公が妻の死に立ち会った際の場面と、宇宙人来週のお話が平行して進みます。神を信じていたはずなのに、最愛の妻に奇跡は起きませんでした。妻は「運命なのよ」と言って亡くなりますが、主人公は受け入れることができなったようです。

UFOが世界中に現れ、もうこれが最後の食事というときに、家族の希望する食事をそろえます。いつまで生きていられるかわからないので、子供たちはお祈りをせがみます。しかし、主人公は「そんな時間は無い」と大きな声で言い、泣きながら食事をします。神を失った牧師の悲しい姿です。

そして、なぜか宇宙人たちが去ったというニュースが入り、ほっとしたのも束の間でした。宇宙人が子供を連れ去ろうとします、格闘の末に子供を何とか取り返しますが、子供は毒ガスをかけられてぐったりしています。そして、主人公が奇跡を願いあきらめたときに、子供が息を吹き返します。主人公は言います「誰かが助けてくれた」。

この映画は、妻の死という運命を受け入れられずに信仰を失った牧師が、子供の奇跡的な生還で信仰を取り戻すお話です。キリスト教的な見方をしないと、宇宙人もへなちょこですし、大した奇跡でもなく、多分つまらないSFです。でも、このお話のポイントは、子供を取り返すきっかけになった妻の最後の言葉でしょう。主人公の妻は、ただ死んでいくだけでなく、子供を救うためのヒントを残して亡くなったのです。

すべては、「はかり知れない神様の御旨」ということを理解した主人公が、信仰を取り戻したんだと思います。神様の与えた「人生には何ひとつ無駄なものはない」ということでしょう。

(注:1/25に低価格版(\1,500)が出るようです。知らずに高く買ってしまいました。残念!)

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2005/12/13

PAY IT FORWARD

少し前の映画ですが、キリスト教にインスパイヤされていると聞いたので、ペイ・フォワードを見ました。
TVのCMでご存知の方も多いと思いますが、この映画は「世の中を変えるにはどうすれば良いか」と言う課題に、主人公の少年が

  • まず誰かが良いことを3人にする
  • 良いことをされた人は、お礼(payback)ではなく、別の3人に良いことをする
  • これをどんどん繰り返す

と言う方法を思いついて、それを実行するというお話です。少年の家庭が複雑で、課題をあたえた先生も複雑で、それぞれの人生が絡み合います。少年は失敗したと思っていたのですが、ペイ・フォワードは全米で大きなムーブメントとなり、これを追う記者の話と平行してストーリが展開します。そのまま終わるのかと思っていたのですが、最後にはしっかり感動させてくれる良い映画でした。

インターネットで調べると、この映画の訴えたいところは、隣人愛や、行いの重要さなどキリスト教的なところだと書かれています。しかし、良いところはそれだけではありません。ラストの盛り上がりからエンディングにかけては、「これはもしかすると聖書の」というシーンが出てきます。このもしかすると(感動が薄れるので書きません)というところに気づかないと、「ちょっと」と思う方もあるようですが、これに気づくと最後にすごく感動できます(エンディングの曲もそれらしくて、ばっちりです)。このほかにも、現状を変えるのは難しいけれども頑張る、許しがたいものを許す、と少年が語るところも、なかなか迫力があります。

さて、このペイ・フォワードは3人に幸せを分けていくので、N段階進むと3のN乗の人数、いわゆるねずみ算式にに膨らみます。マルチ商法、いわゆるねずみ講だと考えると21段階で100億人超になり、すぐに相手がいなくなります。しかし、ペイ・フォワードがねずみ講と違うのは、お礼は禁止ですが、他のフォワードされた人にフォワードするのはOKなので、重複してフォワードされた人はより幸せになる、そんな関係も描かれています(コミュニティ活動とも似ていますね)。

この映画は、「わかる人には、かなりお勧め」です。

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2005/11/23

パッション

今日は勉強会がないのでDVDでパッションを見ました。この映画は、名前の通りキリストの「受難」の12時間を描いています。

お話はゲッセネマの園で、イエスが祈っているシーンから始まり、逮捕、裁判、鞭打ち、2度目の裁判と続き、十字架を担ぎ、その十字架にかけられ、復活で終わります。各シーンの間には回想シーンがうまく挟まれていて、イエスやペトロ、聖母マリアの状況もうまくあらわしています。

一連の中で、印象的だったのが、悪魔の存在です。苦しむイエスやユダの横で、いつも不気味な顔で見ています。イエスが受難の恐怖に震えるときも、鞭を打たれるときも、十字架を担ぐときも不気味に付きまといます。また、ユダが銀貨30枚でイエスを売り渡した後も、悪魔に付きまとわれます。この悪魔は、イエスやユダを傷つけた人間の暗黒面を表すだけでなく、二人の苦悩を表しているようでした。

次に印象的だったのが、聖母マリアの表情でした。ほとんどセリフはないのですが、マグラダのマリアと共に悲しみ、十字架のそばで見守っている様子は、気が強いながらも心優しい様子が良く描かれていると思います。

この映画がアメリカでR指定を受けるほど過激なシーンがたくさんあります。しかし、誰もが目を背けたくなるそのシーンに、イエスの苦悩をより感じることができると思います。おとぎばなしでない、苦悩するイエスの姿はより深く聖書を読ませてくれるように思います。

この映画は脚本をラテン語、アラム語で書くなど、リアリティにこだわっている点もよくできています。以前に見たイエスの生涯を描いた映画では、小柄なロバに揺られる大柄なイエスのシーンがあり、ひっくり返りそうになりましたが、この映画ではイメージを大事にしているのでそれも良かったです(^_^;

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2005/10/14

なぜ神に救われるのか?(ドラマ熟年離婚から)

人には心があります。でも自分の側からしか見られないがゆえの苦しみがあります。
少し前にTVで熟年離婚を見ました。今まで仕事中心で頑張ってきた父が、定年の日に離婚を切り出されます。この父は昔ながらの厳格な父親ですが、本人なりに家族のことを考えています。しかし、この「本人なりに」と言うところが、人間の不完全さであり、罪だと思います。

自分の心に縛られたままに、どんなに相手の気持ちを考えても、考えれば考えるほど、苦しみが広がります。感謝の気持ちとして指輪を買おう、旅行をしよう、旅行のために英語を習おう、すべて、自分の心に縛られた自分本位の考えです。罪に覆われた優しさは、「私はそんなことは望んでいません!」その一言ですべて壊れてしまいます。

良かれと思ってしたことも罪になることがあります。生きるために当たり前のことも罪になることがあります。これを救うのは神による絶対の愛です。絶対の愛は人に自由をあたえ、許しをあたえます。遠藤周作私のイエスイエスの生涯キリストの誕生によると、イエスが十字架にかけられるとき、弟子たちはそれぞれに裏切ります。あるものは失望からわずかな金でイエスを売り、他のものも捕らえられそうになると一目散に逃げ、さらにはイエスの罪の認定と活動の制限を受け入れます。しかも、イエスが処刑されている間も隠れ続けます。

弟子たちの自分本位の振る舞いにイエスは絶対の愛で答えます。イエスは十字架を引きずり、痛みを和らげるぶどう酒をあえて断って、十字架に貼り付けられます。弟子たちへの不満をいっさい漏らさず、全能の神をたたえ、神に弟子たちの許しを願いながら息を引き取ります。

これこそ神の愛です。当初、弟子たちは理解できませんが、イエスを思い浮かべるうちにイエスが弟子たちの心に復活し、彼らの神となります。自己に縛られた心はどんなに考えても罪が増幅していきます。絶対的な神の愛に触れ、神の視点に立って考え始めたときに、感謝の心が生まれ、ようやく心が救われるのです。他の人を上からでも、下からでもなく、同じ神の子として心を開き、人と共感し、自らの罪を認識した時に初めて罪から逃れることができると思います。

ドラマの熟年離婚はどうなるのでしょうね。今は、自身のことを振り返りながらも、反省、後悔、悲しみ、怒りといった自己に縛られた気持ちだと思います。さて、この気持ちから、逃れることができるでしょうか?

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