(ダ・ヴィンチ・コードに否定的なネタばれを含みます。本や映画に期待されている方はご注意ください)
最近話題になっているダ・ヴィンチ・コードの説を検証する番組(リンク先はナショナルジオグラフィックチャンネル)がありました。著者のダン・ブラウンや神父様など様々な人とのインタビューを織り交ぜながら、検証しています。
上のページから引用すると「ダ・ヴィンチ・コード」では
イエスキリストの妻として子供を産んだ存在にもかかわらず、娼婦として描かれ続けてきたマグダラのマリアに関する秘密を、ミステリアスな物語とともに暴いていく。おまけに小説では、イエスの血脈を受け継いだ子孫が現在も存在しているという驚きの結末を迎える。
結論から言うと、構成がうまい!というか頑張っています。でも、よく考えると、ダン・ブラウンがちょっとかわいそうです。特に、マグダラのマリアが船で南フランスに逃れた際にダン・ブラウンはイエスの子どもをつれていたと言うのですが、現地調査で言い伝えではエジプト人の色黒の召使である、と言うところなどは、インタビューはカットしてあげれば、、と思いました。
全体の構成として、正統的なの解釈のあとに「しかし、ダン・ブラウンは、、、」のように「しかし、、、」と無理につないでいるのが気になります。まあ、逆にすると当たり前の結論になってしまいますから、、、
さて、推理の基本は巨万の富を得た
がすべて上に挙げた秘密を知ったからだとしています。
テンプル騎士団は利息を得て良い権利を得たことから巨万の富をえたようです。彼らは修道士でありながら騎士となり、エルサレムを守ったとされています。
その際に聖杯を得たという言い伝えがあり、その聖杯が何であるかで諸説あるようです。フランス王フィリップ4世が、彼らへの借金をごまかすために彼らを異端として捕らえた際に、拷問を与えて無理やりさせた供述が、キリストの血を入れた聖杯、キリストを刺した矢先、洗礼者ヨハネの頭、を崇拝したと言ったことから、何が本当かよくわからないようです。
この聖杯(SAN GREAL)を一文字ずらすとキリストの血(SANG REAL)になることからイエスの子孫の秘密という説が考えられたそうです。
グノーシス主義の考え方である2元論のカタリ派はマグダラのマリアを崇拝していたとされていますが、グノーシス主義では現世を悪だとしているので、子どもを生む女性は悪のはずで、矛盾しているようです。
ソニエール神父は、急に裕福になり教会に変な装飾を施して、信徒に追い出されかけるもののローマの力で追い出されなかったようで、それがなぜかはよくわからないそうです。
これらの話をつなぐのはヘンリー・リンカーンの「聖なる血と聖杯」をはじめとする小説です。著者のリンカーンは信じてるかと聞かれて「仮説です」と答えています。この仮説では、マグダラのマリアによって南仏へ聖杯をもたらした。マグダラのマリアと血縁関係があるとされるメロヴィング朝には海の生き物がはらませたという言い伝えがあり、海の生き物は初期のキリスト教のシンボルである「魚」だというお話です。
「ドシエ・スクレ」にはシオン修道会という団体の系譜がかかれ、ダビンチも関わっていたように書かれているようです。このほかシンクレア家が、聖杯の一族と呼ばれていて、ロスリン礼拝堂はアーサー王と聖杯伝説の場所で、テンプル騎士団が聖杯を守った。など、など、諸説をうまく繋ぎ合わせたお話です。
シンクレア家の末裔が二人出てきて、イエスの子孫かと聞かれ、一方は「ありえない」と笑い、もう一方が「薄いですがね」と笑っていたのはご愛嬌でしょう。
このほか、グノーシス主義の文書であるナグ・ハマディ文書でイエス・キリストとマグラダマグダラのマリアの関係が色々書かれているようですが、キリスト教の勢力を取り込もうとした作文のようにしか思えないのは私だけでしょうか。
一連のインタビューの中で、神父様が仮説を否定しながらも「仮にそうだとしてもキリストの神性は変わらない」とされていたのは印象的でした。
では、なぜこんな仮説が注目されるかと言うと、キリスト教の過去の歴史と最近の動向に関係しているようです。番組中のコメントによると、女性蔑視する派閥による差別の歴史があったようです。その際に、崇敬の対象がマグダラのマリアから聖母マリアにかわり、マグラダのマリアに娼婦の汚名をかけられるようになったようです。それと性の罪悪視が絡み厳格な教義になっていったようです。現在、女性の立場の回復の流れの中で、マグダラのマリアの立場を向上する説が注目されているようです。
仮説の否定として面白かったのが、聖書によるものでした。パウロのコリント人への手紙で、
「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。」(一コリント9・5)
としているところに、キリストのことが書かれていないからだ。という説がありました。確かに妻を持ちたいというなら、使徒でなくキリストを引き合いに出す方が強力でしょうね。
ダン・ブラウンが「信仰の敵は無関心」と言われていました。確かにそうだと思います。たとえどんな形であれ、キリストの興味を持つことは良いことだと思います。
ただ、ブームに乗って、グノーシス主義の文書がキリスト教そのもの、あるいは事実であるかのように書いている記事があるのはいかがなものかと思います。今回の騒ぎは「一杯のかけそば」をノンフィクションとして、ニュースとして扱ったり、特別番組で現地調査するようなものだと思うのは私だけでしょうか?
まあ、それなりに面白かったですけど、、、
(引用は日本聖書協会 新共同訳)
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