2017/02/20

映画「沈黙」 - ダメな自分を受け入れてたくましく生きる -

映画「沈黙 - サイレンス -」を見ました。遠藤周作さんの告解(赦しの秘跡、いわゆる懺悔)共言える原作を読んでいたので、過激なシーンがないかと少しドキドキしていましたが、良い感じで遠藤周作さんの思いが表現されていました。

ソフトウェア業界ではメンタル面で問題を抱える人が増えています。その根底には主人公のロドリゴの苦しみに繋がる問題があると思いました。

ストーリー

徳川の時代になって禁教令が出た頃、音信不通になった神父を追って日本に宣教に来た神父ロドリゴ、踏み絵を踏んでマニラに逃げ延びたキチジローを案内として神父ガルベと共に日本に忍び込み、隠れながら宣教活動をします。

しかし、キリシタンに対する弾圧は激しさを増し、最後には捕まってしまい、棄教を迫られます。ロドリゴは神に祈りますが神の声は聞こえず、棄教しないと他の人間が殺されていまいます。

踏み絵を踏む事を迫られてついに棄教しようとした時、ロドリゴは神の声を聞きます。

遠藤周作さんに必要だったもの

実話を元に描かれたロドリゴは、宣教師としては失格でしょう。この姿は自ら「ぐうたら」と称する遠藤周作さんの人生の写像の様です。教会からフランスに留学させてもらったものの、結核で帰国。しかも、フランスでは婚約者のいる女性と恋仲になるなど、自慢できない過去がありました。

そんな遠藤周作さんが求めたのは、ダメな自分をゆるして、次に進む力を与えてくれる優しい神様でした(注参照)。そのような信仰が遠藤周作さんに世界から賞賛される作品を生ませました。

これは自己肯定感と言われているものです。

次に進むための自己肯定感

信仰に関係なく、人には自己肯定感が必要です。もし自己肯定感が無いなら、理想の自分とのギャップに苦しむことになります。

その結果、自分の責任ではないと犯人探しをして責任転嫁や言い訳をするか、自分はダメだと自己嫌悪から落ち込む事になります。何れにしても現状を受け入れていないので次に進む事ができません。

職場をより危険な状態にしてしまう

自己肯定感は個人の問題ですが、その影響で職場の問題をさらに悪化させ、より危険な状況にしてしまいがちです。

責任転嫁をする人は自分は悪くないと思っていますので、批判しかしません。他の人にたしなめられても受け入れる事ができす、かたくなな姿勢で問題解決に向けた行動を取ろうとしません。

逆に落ち込む人は、迷惑をかけるとか、怒られるからと、問題を報告しないでもう少し自力で何とかしようとしがちです。でも、そもそも問題の原因があまり理解できていないことで問題が顕在化したのですから、問題は大きくなるばかりです。

自分は一人じゃない

「沈黙」の神様は最後の最後にならないと声を聞かせてくれませんでした。しかし、職場は会社という組織活動ですので、一人ではありません。

わからない事は聞けば良いですし、困った時は相談すれば良いはずです。それができないのは、自分や現実を肯定できないからです。

(もちろん、逃げ出さざるを得ない時もあるでしょうが、そのような状況なら、一人で努力するだけ無駄です)

より良い未来をめざす!

現実を受け入れた後の未来は、理想どおりではないかも知れません。しかし、合理的で、自分一人で悩むよりもより良い未来です。

人の助けを借りても負い目を感じる必要はありません。今度は他の人を助ければ良いのです。そうすれば、幸せの輪がどんどん広がります。責任逃れをしている自分、情けないほどにダメな自分を認めれば、人に優しく、社会に貢献できるのです。

ダメな自分を受け入れてたくましく生きましょう。映画「沈黙」を見て、その思いを強くしました。


遠藤周作さんまでのキリスト教は、明治時代の内村鑑三を初めとする厳しいキリスト教でした。キリスト者として生きる事が神の証であり、悪い事をせずに清く生きる事が求められました。

しかし、現実には戦時中に「父と子と聖霊と天皇陛下万歳!」と言わなければ、教会を存続できませんでしたし、闇市に依存するなど法律を破らなければ生きていけない時代だったようです。

そのように誰もが罪の十字架を背負っている時代を踏まえて、遠藤周作さんは傍にいる神の愛と赦しを信仰の中心としました。より愛を重視する考え方は世界的にも注目され、「沈黙」は多くの国で翻訳されて読まれることになりました。

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2014/05/06

放蕩息子はなぜ出て行ったか?- アナと雪の女王を見て -

アナと雪の女王(公式HPストーリ)を見てきました。ネタバレご注意ください。

この映画を見て初めにイメージしたのはシザーハンズ(リンク先はYahoo!映画あらすじ)です。傷つけるつもりがないのに傷つけてしまう、いわゆる小罪を犯してしまうお話だと思いました。

構成の類似

全体の構成を思い返して印象的だったのは、雪の女王である姉エルサが帰ってきて、皆が大喜びした最後のシーンです。すこし前まで街の季節を冬にしてしまい、大迷惑を受けたはずなのに、みんなの女王が帰ってきたと大喜びするのです。

なかには快く思わない人もいました。しかし、そこには愛がなく、自分勝手な欲望によるものでした。

この映画の構成は放蕩息子のたとえ(ルカによる福音書15章11-32節)に良く似ています。親の財産を分けてもらい、家を出て行ったのに財産を使い果たして一文なしになった放蕩息子。とんでもない息子なのに、父親は大喜びで迎え入れます。その陰で、兄はやっかんだお話です。

映画の特徴

構成的には良く似ていますが、映画ではなぜ出て行ったかが詳しく描かれています。エルサは全てを凍らせてしまう禁断の力をコントロールできずに妹アナを傷つけ、それをきっかけに外界とのつながりを断絶します。

やがて戴冠の時期になり、恐る恐る人前に出たエルサは失敗してしまい、山に逃げ込みます。一人になったアナは、これまで我慢をしていたエルサは気兼ねなく禁断の力を使い、氷の城を作って自由を謳歌します。

しかし、その自由な行動によって、夏なのに街は雪だらけの銀世界になってしまいます。誰にも迷惑をかけないところで自由を謳歌していたはずなのに、知らぬ間に罪を犯していたのです。その罪を赦すことができたのは、真実の愛でした。

放蕩息子に当てはめてみる

聖書の方はとんでもない息子です。

弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 (日本聖書協会新共同訳 ルカ15:12-13)

このように、ひどい息子だったのに後で赦される、そのようなお話だと思っていました。しかし、雪の女王エルサをあてはめるとイメージが変わります。

もしかすると、言い出すまでの息子には耐え切れない思いがあり、我慢ができなくなり、ついに家を出たのではないか、その後に放蕩の限りを尽くしたのはその鬱積から解放されて、自分一人で生きていけると思ったからではないでしょうか?

わかったつもりで見ていた自分に気付く

放蕩息子は本当に悪かったのか、それを判断できるのは神様だけです。人は、どんなに知っているつもりでも、どうしても一面的な見方をしてしまうからです。

知らず知らず犯してしまう小罪、犯していたのはエルサや放蕩息子だけでなく、わかったつもりになっていた自分だったのかも知れません。

人を裁くなと言いますが、それは禁じられているからではなく、わかっていないからなのかもしれません。

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2012/03/24

奇跡 - NHKカーネーション -

今週のNHK朝の円族テレビ小説カーネーションのテーマは「奇跡」。病院でファッションショーを開くことになり、モデルは看護婦と患者から希望者を募りました。患者の多くは病気の軽い人でしたが、一人だけ本人の強い希望で末期がんの女性患者が選ばれました。

この女性には二人の子供がいて、告知を受けた時はショックだったでしょう。でもそれを受け入れて、ファッションショーでは素敵な笑顔を見せました。それを主人公は「奇跡」と呼びました。

年をとると老いぼれるけれども、奇跡を起こすことができる。普通は仕事なんて大変なのでやめてしまうけれども、好きなことをやるだけで奇跡が起こせる。主人公はそう言いました。

末期がんの患者も同じです。病気の苦しみだけでなく、死を目前に感じる恐怖、家族と別れなければいけない苦しみ、私には想像がつかない苦しみです。でも、それを受け入れて前向きになれば、素敵な笑顔を見せることができます。それは「奇跡」です。

遠藤周作の描くキリストの最も大きな「奇跡」は受難と復活です。弟子や民衆に讃えられて救世主と呼ばれたイエス・キリスト。しかし、ユダの裏切りをきっかけに、身近な弟子たちにも裏切られ、大きな失望の中で辱めを受けます。しかし、鞭打たれ、十字架を引きずり、処刑されるという苦難の中にあっても、キリストはそれを受け入れ、最期の時まで弟子たちを守り抜きます。そしてそのようなイエスの愛の中に、弟子たちは「奇跡」を感じました。

人がどのように生きるべきか、愛とは何か、自分はなぜ命が与えられて、なぜ死んでいくのか、その答えは苦難の中にあるのかもしれません。耐えられない苦難の中で、現実を受け入れ、前向きになり、小さな奇跡を起こす。そんな小さいけれども、ほかの何よりも素晴らしい輝きのために、私たちは生きているのかもしれません。

昨日、娘が高校を卒業しました。多くの苦労があったけれども、ついに卒業しました。良く頑張りました。おめでとう!

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2012/03/18

ALWAYS 三丁目の夕日

ALWAYS 三丁目の夕日を見ました。

先日、「続」の方を見て良かったので見てみたのですが、こちらの方が良かったです。
貧しいけれども、心が満たされている、そんな状況が描かれています。

最も感動したのは、プロポーズのシーンです。

聖書にこんな言葉があります。

「見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20・29)

見えないものだからこそ、そこに大切な価値があるのでしょう。

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2011/10/02

みんな、それぞれ幸せだった - おひさま 最終回 -

NHK朝の連続テレビ小説「おひさま」。ずっと見ていましたが、作者の訴えたいことが何か、よくわかりませんでした。しかし、最後になってようやくわかると感動しました。

今回のシリーズは、ある主婦が道に迷ったことがきっかけで、主人公の昔話を聞くという形で話が進みます。主人公の子供のころからはじまり、友人とのきずな、初恋、夫との出会い、戦争、終戦、戦後、とその人生が語られていきます。その様な話を聞く中で、現状に不満を持っていた主婦が、現状を受け入れて家族を大切にするようになるお話でしした。

そして、主人公が最終回で語りました。

「みんな、それぞれ幸せだったと思うわ。」

たぶん、これが作者の言いたかったことなのでしょう。「おひさま」のような主人公「陽子」。「太陽の陽子です」という陽子は、様々な苦しい出来事の中でも、現実を素直に受け止め、周りの人や自分の気持ちを大切にしました。周りの人もそうでした。結婚する友人、好きな人を思いながら仕事に生きる友人、それぞれの境遇の中で苦しいことがあってもやはり幸せに生きました。

今回のシリーズの中で最も苦しんでいたのは、戦争で妻を失った兄の友人でした。自分が満州に連れて行ったために死なせてしまった。そんな風に自分を責め続けた人でさえ、実は奥さんが夫に必要とされることで大きな幸せを感じていたのでした。

人によって、贅沢をすることが幸せとか、健康で長生きすることが幸せとか、色々な価値観があると思います。でも、幸せを感じるには、「現状を受け入れる」ということがとても重要だと思います。どんなに贅沢をしようと、どんなに長生きしようと、現状に不満を持っていたのなら、幸せを感じることはできないでしょう。

そして、周りの人と自分を大切にすることも幸せを感じる条件です。もし、自分だけの幸せを追及する、他の人を尊重しない、自分を大切にしない、そういう人が現実を受け入れたとしても、決して心が満たされることはないでしょう。自分を大切にしつつ、人にも優しくすることで、なんだか幸せな気分になるのだと思います。

最終回で、主人公が

「みんな、それぞれ幸せだったと思うわ。」

そう思えたのは、人それぞれの人生をそれぞれ受け入れ、自分を大切に、人にも優しく、真摯に生きていたからだと思います。そのような生き方だからこそ感じられる「ほっこり」とした幸せを主人公は知っていたのです。だからこそ、言える言葉なのだと思いました。

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2011/01/09

だいじょうぶ

NHKの朝の連続TVドラマ「てっぱん」の中の言葉です。駅伝ランナーが足をけがして落ち込んでいるところを「だいじょうぶ」と主人公が励ましていました。

どうしようもない時に声をもらうなら、どんな言葉がうれしいでしょうか?

「頑張って!」そんな言葉をかける人もいるでしょう。少し前向きな時に言われたなら嬉しいかもしれませんが、どうしようもないときに言われるとつらいかもしれません。頑張りたくても頑張れないので苦しいのですから、、、。

「あなたなら大丈夫!」そんな言葉もあるでしょう。子供の時なら素直に聞けたかもしれません。でも、たとえ家族であっても「何がわかっているんだ!」そんな気持ちを抱いてしまうでしょう。

ドラマでは何も考えず「だいじょうぶ」そう言っていました。なぜとか、どうしてとか、そんなことは関係ありません。とにかく「だいじょうぶ」そんな脳天気な気持ちが落ち込んでいるときには必要なのです。

今日は河原町教会で久しぶりにミサに与りました。福音では、洗礼者ヨハネからイエス・キリストが洗礼を受け、

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3・17)

と言う声が、天から聞こえました。これは、イエスが救世主であることを示しているそうです。

晴佐久神父の「だいじょうぶだよ」という本がありますが、この「だいじょうぶ」という気持ちを抱けるのは、神様の恵みです。すべての物事には意味があり、世界を完成させるための神様の意思です。無駄に苦しいことはなく、それは喜びにつながるものです。

年をとるといろいろな苦しみがあり、ドラマの主人公のように純粋な気持ちで「だいじょうぶ」とは思えません。でも、神様の存在を認めることができるなら、ぎりぎりのところで「だいじょうぶ」と思えます。

たいした信仰ではありませんが、私にとっては大切な信仰です。

(聖書の引用は、日本聖書協会 新共同訳)

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2010/11/28

おまんにも必ずやるべきことがあるがぜよ。 - 龍馬伝 -

今日から待降節、大きな祝い事の前にはその準備のための期間が用意されていて、待降節のほかにも四旬節などがあり、待降節と四旬節では栄光の賛歌が歌われない、云々を書くつもりでした。

しかし、今日の龍馬伝を見て、そのことを書こうと思いました。

坂本龍馬は、番組中に出てきた

「世の中の人はなんとも言わば言え、我がなする事、我のみぞ知る」

という言葉で分かるように、クリスチャンではありません(クリスチャンなら、神様だけは分かってくれていると信じているはずです)。しかし、海外の文化も知っていた龍馬の思いは、西欧文化の背景にあるキリスト教の影響を受けていると思います。そのためか龍馬の甥の坂本直寛さんは牧師です。

今日の龍馬伝では、三菱財閥を起こした岩崎弥太郎さんに対して、竜馬が言いました。

「おまんにも必ずやるべきことがあるがぜよ。」

この言葉は、神様の恵みを表していると思います。

人それぞれの人生、それぞれに輝くことができるはずです。野に咲く花のように、誰もが栄華を極めたソロモンよりも、すばらしい人生が用意されています(マタイ6・25-34、リンク先は日本聖書協会)。それは人には分からない輝きかもしれません。でも、きっと見つかるあなただけの輝きです。

あなたにも、やるべきことが、きっと用意されているはずです。

「おまんにも必ずやるべきことがあるがぜよ」

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2010/11/06

苦労ないんが幸せなんじゃろか

NHK朝の連続小説「てっぱん」結構深いです。

子供が苦労しないようにと見合いを進める親に、主人公の母(安田成美さん)は

「苦労ないんが幸せなんじゃろか」

と言います。幸せと言うのは何だろうかと考えさせられました。
貧しくても、苦しくても、大切なものがある幸せ。それは何物にも変えられません。

世間的な幸せとか、世間体とか、色々な基準があると思いますが、自分の幸せは自分だけのもの、かけがえのないものだと思います。

苦労だろうが、何だろうが、幸せなときは幸せです。ほんのひととき「よかったぁ」と思えれば、それが幸せです。

明日も仕事ですが、くじけません。
すべてが備えられた試練。乗り越えられない試練は与えられないのですから。

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2010/11/03

ほんまのことじゃけん - 受け入れて強くなる -

NHK朝の連続TV小説「てっぱん」で出てきた言葉です。

主人公は養女で、大阪の実のおばあさんの所に住んでいますが、お盆に実家に帰ってきたときのことです。義理の兄が上司を殴ったと言って帰ってきます。そして、家業を守るために、信用金庫を辞めるとまで言っています。

実は、もらいっ子の妹がいて優しすぎるから仕事ができないと言われたからでした。聴くはずのない事実を聞いてしまった主人公が言いました。

「ほんまのことじゃけん」

と、自分がもらいっ子であることも、義兄が優しいのも、本当だからと言いました。

この主人公は、養女であることに苦しんだこともあったのですが、事実を受け入れて強くなりました。避けられない現実、耐え難い現実を受け入れ、前を向くことを知ったのです。

生きていく中で、色々な現実にぶつかります。苦しいこと、大変なこと、逃げてしまいたいこともありますが、それから逃げたり、怖がったり、誰かに責任転嫁しても何も変わりません。

この主人公のように、変えることのできない現実を受け入れることで、前向きに、強くなれるのだと思いました。

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2010/09/26

「なんだ、もう終わりか。面白かった!」by ゲゲゲの父さん

ゲゲゲの女房が終わりましたが、どうしても取り上げておきたい言葉があります。

水木しげるの父親が、最期のときを迎える前に自分の人生の映画を見る夢を見ます。そして、言った言葉が

「なんだ、もう終わりか。面白かった!」

です。今まで「幸せに死ぬ」ということを具体的に考えたことがありませんでした。あえて言うなら、坂本龍馬のように未来を考えながら、前向きに死にたいと思っていました。

しかし、この父親の言葉ほど、幸せな最期はないでしょう。人生に未練や後悔がなく、一言の幸せな言葉がいえるなら、どんなに幸せでしょうね。

私が洗礼を受ける前に神父に言われました。

「洗礼を受けたら幸せになると思ってはいけない。もっと苦しくなる」

そのときは、なぜ、そんな恐ろしいことを言われるのかと思いましたが、実際にそうでした。何が良いことで何が悪いことか分からなければ好き勝手に生きられますが、知ってしまえば良いことを行うのがあたり前で、知らずに悪いことをするだけでも苦しんでしまいます。

だからこそ、死を迎えたときに神の国に招かれて良いものかを考えてしまい煉獄に留まるのでしょうね。

でも、最近はこう思います。与えられた人生、色々な失敗をするだろうけど、正直に生きれば良いのだと。

すばらしい人生を義務感で押しつぶされたなら、つまらない人生になるでしょう。でも、常に喜んで、苦しくても未来に希望を持ち、感謝の気持ちを忘れずに生きれば、それでよいのだと。

色々な出来事に「おぉ、こんなこともあるのか」と素直に受け止め、くさらず、あせらず、「まあ、やれるだけやってみよう!」と生きればよいのだと思います。

落ち込んでも何も変わりません。あせって、無理なことや良くないことをしても、状況は悪くなるだけです。ただ、淡々とより良い道を選べば良いのです。

そうすれば、最期のときに言えると思うのです。

「なんだ、もう終わりか。面白かった!」

<')))><

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