2008/06/29

素敵な信仰

昔よく入門講座でお会いしたTさん。かなり高齢の方ですが、私より2年ほど先輩のお年寄りです。

日曜日も仕事があるので主日ミサには与れないようでしたが、休みの水曜日にはミサに出て、入門講座も3年ほど通われました。

休みの日なので晩酌をされているのか、お酒の匂いのする時もありました。要理的な内容が苦手なようで、1日分の内容を減らすようにお願いされるときもありました。

そんなTさんいわく、「私は良く分かっていませんが、ご聖体だけは良い」「いつまで生きるのかわかりませんが、朝起きると『あっ!生きてた』と思う」などと話されていました。なんか、素敵な信仰だと思われませんか?

ご聖体をいただいて喜びを感じ、毎朝、生きていることに幸せを感じる。年をとったら、Tさんのような信仰にたどり着きたいと思っています。

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2008/06/10

「神さま」と「カミさん」のちがい

ちょっと息抜きに、何となく似ている「神さま」と「カミさん」のちがいを考えました。本文中に具体的な表現が出てきますが、あくまでもフィクションです(と妻の名誉のために書いておきます)。

神さまは信仰のみで義とされますが、カミさんは行為によって義とされます。神さまにはすべてお見通しなので、疲れてミサに行けず、自宅で祈っているだけでも素晴らしい恵みが得られますが、カミさんは「皿も洗ってくれない」「XXさんのところはご飯も作ってくれるらしい」「いつも私がゴミを出している」と、私の深い愛情なんて関係ありません。亭主は行為によってのみ義とされるようです。

神さまとカミさんでは愛の種類が異なります。神さまの愛は「アガペー」と呼ばれ、キリシタン時代には「お大切に」と訳されたた無償の愛(博愛)、心を自由にする愛です。カミさんの愛は「エロース」です。これはエッチな意味ではなく、ギリシャ哲学由来の「愛」です。与えるのではなく、奪い合う愛(情愛)です。相手を自分のものにしあい、束縛する愛なのです。

お金の流れも異なります。神さまの場合は先に恵みがあり、感謝のしるしに一割(聖書ではそうなっていますが、日本のカトリックは3%程度とされている。一割に満たない分は社会に還元するという国もあるらしい)をささげます。

カミさんの場合はお金を出すのが先で、後から恵み(小遣い)が出てきます。一生懸命働いても、そのすべてが家の口座に振り込まれ、キャッシュカードのない亭主は、多くてその一割しかもらえません(私の場合は、小遣い分と交通費分は別の口座に振り込まれるので、出すのと同時に恵みが得られます:-)。

色々と違いのある神さまとカミさんですが、音以外にも似ているところがあります。それは、かけがえのない大切なものであること、いつも感謝していることです。

おあとがよろしいようで(^_^;

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2008/05/17

我が家の聖具(らしきもの)

これまでもロザリオメダイ魚(イクスス)のストラップ枝と羊を紹介していますが、今回はそれ以外のものを紹介します。

1_cross_2 我が家には祭壇がありません。そのかわりというわけではないのですが、ユビキタス(いたるところに偏在する)を具現化したような聖具の配置になっています。自宅に立ち寄っていただいたつもりで見ていってください。2_sheepa_2

まずは、リビングにどうぞ。ここには以前紹介した羊と枝のほか、正面には十字架、窓辺には良い羊飼いと聖母子像があります。

3_icon リビングとつながるキッチンには、クリスタルの十字架像、十字架付きのイエスさまの聖画、トイレに入られると、クリスタルの天使のベルがあります。2階の寝室には、小さな十字架、聖母子の置物と聖画(子供が学校で作った写真立てに入っています)があります。 4_angel_3

5_small_cross 台所の聖具と、寝室のの小さな十字架は、妻が教会に通い出した時に買い求めたものです。当時はキリスト教に興味がなかったので、「好きにしたら」という感じだったのでした。「やめてほしい」と言えばこんなに聖具(らしきもの)でユビキタス環境になることもなかったかもしれませんが、その頃からすでに導かれかけていたのかもしれませんね。6_maria_3

7_tumajpg お帰りの際には、妻飾りを見てください。家は建て売りなのですが、購入時期が早かったので希望を聞かれました。商品名からすると妖精らしいのですが、十字架みたいだからと選びました。家の教会のようになるかと期待したのですが、周りに家が多いのであまり目立たないんですよね。

そんな感じですが、ほかにも載せていない十字架やロザリオがあります。また、飾るところのない聖画(洗礼の時に頂いた)もあり、どこまで増えるかは神のみぞ知るところです。

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2008/05/04

日本文化の破綻

個人主義が進む中で、社会の何かが壊れているような気がしていました。以前、世界像の崩壊を知り、何となくわかったつもりでいました。しかし、どうも日本の状況はそれだけではないように、なんとなく感じていました。

先週のミサ後の「教理の時間」で、神父様がルース・ベネディクト(リンク先はWikipedia)の

キリスト教的欧米文化は「罪の文化」であり、日本の文化は「恥の文化」である。

という言葉を取り上げられました。「恥の文化」というのは「他の人に後ろ指を指されると恥ずかしい」という村のような横の関係である。「罪の文化」というのは神との関係における「罪」という縦の関係である。とされました。

この日本文化の捉え方には批判もあるようですが、私の思いに一つの説明を与えてくれました。この横の関係を評価の観点で考えてみると、「恥の文化」の評価の基本は「相対評価」だと思いました。私が子供のころ、学校の成績は相対評価でした。クラスの中で上位n%が「5」その次のm%が「4」といった感じです。クラスという村のように狭い環境の中で評価が決まっていたのです。

「相対評価」というのは、なかなか良かったような気がします。全国レベルでは大した成績でなくてもクラスで上位に入れたなら、その子はできる子でした。普段は苦手な科目でも、たまたまできる子の調子が悪いと良い成績がもらえる可能性がありました。みんなクラスメートに負けまいと、お互いに仲良く競っていました。

いつからか学校の成績は絶対評価になりました。全国で何位の成績かまでわかるようになり、クラスメートはライバルではなくなりました。良い成績をとるためには、クラスメートでなく自分に勝たなければなりません。そんなグローバルな絶対評価によって、より個人主義が進んだのかもしれません。

個人主義が進むと「恥の文化」は破綻します。「恥の文化」では、お互いに恥ずかしくないようにすることで、全体が高いレベルで保たれていました。しかし、絶対評価による個人主義が進むことで、自身を高めるための基準として他の人を見なくなったのです。

「恥の文化」の破綻は、倫理観を希薄にします。生きるための基準が全体の中での順位だけになり、より高い地位に上がることが行動の目的になりました。学校なら偏差値、会社なら給与のためなら何でもするようになりました。「あの人もやってるやん」と悪いことも平気になり、多くのトラブルや犯罪が生まれたのだと思います。

個人主義が進むと、人は絶対的な善悪の基準を必要とします。しかし、欧米の「罪の文化」と異なって真理を持たないので、それぞれが社会生活の中で自分勝手な基準を作ってしまいがちです。そして、いつの間にか自分を苦しめるようになるのです。

思い起こすと、昔の私がそうでした。会社に就職し、会社の仕組みを知ると、会社員としての価値観を構築しました。仕事が趣味に近かったこともあり、私はワーカーホリックだったと思います。家庭とか、社会貢献とか、周りの人への気配り、そんな価値観はどこかに忘れて、ただひたすら働いていたのです。仕事がうまくいっている間は良いのですが、何か問題があると大変なのですよね。目的を達成できないまま、努力だけが求められるからです。

人間が生きる上で重要なことはなにか、そんな発想を持たないと、うまく生きていけません。勝手な基準に従って、人を傷つけ、そして最後には、自分自身を苦しめることになってしまうのです。

昔は良かった。私もそう思います。しかし、時は戻りません。かつて海援隊の「母に捧げるバラード」という歌で、こんな詞がありました。教職課程をほとんど終えて、あと数カ月もすれば卒業できるという息子(武田鉄也さん)が、安定した未来を捨て音楽バンドのために東京に行く時、母は必死になって働けと息子に語ります。そして苦しいとか、休みたいとか思ったら、「そんときゃ鉄也、死ね!」と語るのです。

昔は、子供のことを思わない母親はいませんでした。その母親が「死ね!」と本気で言うわけがありません。海援隊が解散を決めた時、お母さんは「お疲れ様でした」とお母さんは言われたそうです。そんな人並みのねぎらいしか言えない母親が、「死ね!」と言ったのは、息子の不安な気持ちを知っていたのでしょうね。そして、不安な中でもあきらめず、がんばれ、とにかく頑張れ、そんな励ましの言葉が「死ね!」だったのでしょうね。

でも、時代は変わり、今は前提が崩れ、愛情表現としての「死ね!」なんて許されない時代になりました。子供の死を願う母親は勿論のこと、自分で死のうとする人も少ない時代でした。しかし、数値化された価値観の中で生きている現代人にとって、「死ね!」は文字通りの意味しか持たなくなりました。親子の関係を前提とした相対的な表現でなく、直接的て絶対的な表現が必要なのです。「夢を大切に!」「夢はかなう!」「応援しているよ!」などと言わないと伝わらなくなりました。それは、日本の文化が破綻したからだと思います。

かつての日本の文化が破綻した今、新たな文化が必要なのではないでしょうか。それは、絶対的な(罪の)文化、倫理観、愛、救い、だと思います(人によっては、信仰といわれるかもしれませんが、私は必要なものに信仰を含めません。愛の行為による救いの結果、付いてくるものだと思っているからです)。

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2008/04/27

はずかしい思い出

先日の聖書の分かち合いで、弟子たちは移動中パンを割かれるなど日常生活の中でイエスさまと再会したことから、日常が大切だという意見が出ました。

翌日のミサで「日常が大切か」などと思いつつ神父さまの司式を見ていて、昔のことを思い出しました。それは、高校の時の合宿です。

合宿といっても夏休みに書道教室(和室なので)に泊まるだけです。顧問が寝たのを見計らってトランプをして、ばれて怒られた翌朝の出来事です(ここまでで十分恥ずかしいですね)。人数を考えてパンと牛乳を買い出してあったのですが、食べざかりの男の集まりなので牛乳の取り合いが始まりました。

すると、顧問が間に入り「おまえらは『分ける』」ということを知らんのか!」と牛乳を分け出しました。人数分がきれいに取り分けられると、殺気立っていた雰囲気が、照れくさいような、それでいて穏やかな雰囲気になりました。

そんなことをミサ中に思い出して笑ってしまいました。もちろん平和の挨拶もいつもよりニコニコしていたと思います。なんだか、とても平和な気分でした

イエスさまが最後の晩餐でパンを分けられたのも、5つのパンと2匹の魚でみんなが満たされたのも、実はそんな基本的でとても重要な教えなのかも知れませんね。

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2008/04/17

今年の枝

Eda_03 今年の枝はテレビの上に置かれています(写真は頂いて1週間目のもので、かなり白くなっています)。横にある羊は羊年に雑貨屋さんで買ったものです。草原の羊をイメージしたのですがいかがでしょうか?

もっと小さい枝をもらって壁につけるつもりでしたが、知り合いの方とのやりとりで「もっと大きいのにしなさい」「いや、電車ですから」「見せびらかしなさいよ。良いのをあげるから」などと言われて、今年も立派な枝を頂きました。

当日はミサの後に照明器具を探したので、梅田、寺町(京都の電器街)、西院と透明な袋に枝を入れたまま、見せびらかしてきました。

Eda_04 現在は右の写真のように全体が白く、丸まってきました。この枝は来年の四旬節の前に回収され、灰になります。そして灰の水曜日(あるいは次の日曜日)に額につけていただきます。そして、枝の主日に新しい枝を祝福していただき、持ち帰ります。

Eda_01 枝の主日は、左の写真のように隣の幼稚園に枝を持って集合し、聖水で祝福を受けた後、枝をもって御聖堂まで行進します。イエスさまのエルサレム入城の様子を再現したミサなのですが、皆で歓迎するところがお気に入りです。

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2008/03/12

家の祝福

皆様ご無沙汰しています。実は先日引っ越しをしました(といっても100mだけ)。そんなにため込んだつもりはなかったのですが、大量の荷物とゴミでかなり大変でした(もうフラフラです)。

日本の伝統だと、地鎮祭や上棟式などをやるのでしょうけど、カトリックでは祝福をしていただきます。神父様によると、海外では家が完成した際に行うだけですが、日本では以下の3回出来るようです。

  定礎:土台の完成
  棟上:骨組みの完成
  新築:家の完成

Syukufuku 我が家の場合は、(少しは希望を聞いてくれるものの)建売なので、入居前に一度だけ祝福していただきました。各部屋を聖水で祝福していただいたあとに共同祈願があり、これまでの感謝と未来への祈りを祈りました(冊子を読んだだけです)。

小さな家ですけど、少し幸せになりました。

(祝福をお願いした時は、聖水を入れる器(コップなど)を用意しておいた方が良いようです)

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2007/10/12

カトリック手帳2008

来年用のカトリック手帳を買いました。去年は半額になってから買いましたが、福音朗読箇所や様々な祈りが載っているなど、思いのほか重宝しましたので、見つけてすぐに買いました。

来年用の手帳は少し構成が変わっています。前半にあった祈りが後半に移動し、教会・病院一覧などとともに資料編としてまとめられました。また、本体にもあったアドレス帳が、別冊のものだけになりました。

最もうれしいのは、「使徒信条」がミサ式次第の中に移動し、「ニケア・コンスタンチノープル信条」が資料編に入りました。ミサ式次第にあった「洗礼式の信仰宣言」はなくなりました。

注意が必要なのは上記変更のためか使徒信条に間違いがあります。修正用のシールが付いていますので、なくさないように貼ってから使ってください(初版だけかもしれません)。

これで、来年も良い一年がすごせそうです(気が早い!)。

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2007/09/16

変な信仰!?

ここのところ、入門講座や聖書の分かち合いでほかの方と意見が合わないことがあります。どうも私の信仰はちょっと変わっているようです。

1.がんばりたくない

信仰があるから頑張れるという方もおられるようですが、私は苦しい中で得た救いに感謝しているので、どうも「頑張る」という表現が苦手です。苦しい状況でもよろこびを感じられるというのが私の信仰です。

のどがかわいて水筒の水を飲もうとしたとき1cm程しか残っていない、そんなときどう感じるでしょうか?信仰がなければ「1cmしかない。もうだめだ、苦しい」と思うでしょう。しかし、常に恵みを与えてくださる神を信じているなら、「1cmもあった。これで助かった、これこそ恵みだ」と感じることができると思います。

どんなに苦しい状況になっても、「あせらずに最善を尽くせば道は開かれる、乗り越えられない試練はない」そう思います。信仰があるからと言って良いことばかり起こるようになるわけではありませんが、何事も良いことだと感じることができるようになりました。

「頑張る」という考えは、すべてが良いことだと思っていないような気がします。最善と思われることを、ただコツコツとやるだけで良いと思います。

2.回心によって得られる恵みは大きい

成人洗礼の私にとって、罪を感じ、回心したことが、信仰の根本にあります。自分の罪を感じたからこそ、神に近付き、受け入れ、洗礼を受けたのです。

神様は、どんなに罪深い人間も受け入れてくださると言われると、確かにそうだと思います。しかし、自分が神様に近づくために、罪を悔いあらためることは必須だと思っています。神様が「天国に入って良いよ」と言ってくださっても、「まだ、入れません」と煉獄にいるような感じでしょうか?

確かにザアカイは、キリストに恵みを受けたことで回心できました。しかし、ザアカイは自分からキリストに近づく気持ちになれたからこそ、恵みを受けたのです。自分の罪深さをきちんと認識できなければ、神様に向かうことはできません。

欧米でよくみられるように罪深いからと御聖体を拝領しないことは、確かに神様の恵みを拒絶することにつながり、人間の傲慢と言えるかもしれません。しかし、物事には時があり、神様に接するときにはキチンと心の整理がついてから接したいという気持ちは、私にはよくわかります。

儀礼的にいただく御聖体よりも、何日かかろうと、きちんと回心していただく御聖体の方が恵みが多いように思えるのです。回心するからこそ大きな恵みが得られると思うのです。

こんな信仰は、ちょっと変でしょうか?

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2007/06/06

「福音」を「宣言」する「力」

以前、晴佐久神父の言われている「福音宣言」をちょっと紹介しましたが、やはり本場、産地、とれとれ、ピチピチ(?)の記事をお読みください。

教会の行事に参加していると、どうでもよい町内会のような感じがするときがあります。しかし、教会というのは聖霊の働きであり、心のよりどころ、愛そのものなんですよね。

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2007/06/02

ペトロ岐部と187殉教者の列福、正式に決定

ペトロ岐部神父と187殉教者の列福が教皇に承認されました(リンク先はカトリック中央協議会)。今後、列福式をへて188人は正式に福者になります(列福については女子パウロ会のキリスト教マメ知識の解説を見てください)。

今回の承認については、新聞社のホームページにも載っていますので、一般紙にも乗っていると思われます(朝日新聞は2日の夕刊に出ていました)。朝日新聞は1980年から手続きが行われていたことが書かれ、読売新聞には天正遣欧使節(1585年)に参加したジュリアン中浦神父や、遠藤周作の小説「銃と十字架」に登場するペトロ岐部神父についても触れられています。

日ごろあまりなじみのない方に、カトリックのことを知っていただく良い機会かもしれませんね。良い機会なので、私も「銃と十字架」を読んで見ようと思います(と書きましたが、入手困難なようです。残念!)。

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2007/05/22

天使はオジサン!?

キリスト教の映画をみて、もっともショックを受けたのは、天使がオジサンなことです。

天使きいて思い浮かぶのは、エンゼルパイでイメージするかわいい天使、そう「フランダースの犬」の最終回に出てくるような天使です。仮に人間になっても、「リボンの騎士」のチンクのような、子供のイメージがありました。

でも、映画に出てくる天使は、「翼のない天使」の最後に出てくる天使が子供である以外は、どれもオジサンばかりです。神学的には中性とされ、中世の絵画などでは比較的美少年に描かれるのですが、どうも映画はいけません。さすらいのおじさん修道士のようです。天使にも階級があるので、大天使は年功序列のため、みんなおじさんなのかと思いました。

そんなことを考えていたのですが、Wikipediaの解説を見てびっくりしました。

初期のキリスト教では、天使は男子青年の姿で、翼を持たなかった。天使が有翼の姿で考えられるようになるのは、オリエント・ペルシアの天使・精霊のイメージなどが混合されて来たためである。

中世ヨーロッパにおいては、絵画から窺える限りでは、天使は有翼で、当時の西欧人の衣装をまとい、「天の聖歌隊」を構成する天使たちは美少年の姿に、大天使ガブリエルは優美な男性の姿に、また、悪と戦う使命を持ったミカエルなどは、鎧をまとい剣を帯びた、雄々しい戦士の姿で描かれていた。

近世以降、無垢な子供の姿や、女性的な姿、やさしい男性の姿を取って表現されるようになった。これはルネサンス期にローマ神話のクピド(女神ウェヌスの使い)からイメージを借りたとされる。

映画の天使は、初期のキリスト教に忠実だったのですね。納得!

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2007/05/02

隣人を自分のように愛しなさい

聖書の「最も重要な掟」に出てくる言葉である

隣人を自分のように愛しなさい(マタイ22・39)

という言葉は、なかなか難解です。高校の倫理社会でも「イエスの隣人愛」と習ったぐらいに、キリスト教を代表する言葉ですが、この「自分のように」というのがよくわかりません。

「隣人愛とは何か」と聞かれたら、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(ルカ6・27)や「善いサマリア人」(ルカ10・25-37)などの話で説明する方が多いと思うのですが、「自分のように」という説明にはなっていません。

残業で遅く帰ってくると、仕事で疲れた妻がうたた寝をしていることがあります。おこすのも悪いので、用意してある食事を一人で食べて流しに行くと、洗っていない皿が山盛りだったりします。「こっちも疲れているのに皿ぐらい洗ってくれよ」とも思いますが、「あいつも疲れてるんだろうな」とも思います。この差は、けっこう大きいですよね。

ここで、「はぁ~勘弁してよ~」とブツブツ言いつつも「敵を愛しなさい」(ルカ6・27-36)と言うからと皿を洗ったなら、ただでさえ疲れているのに、さらに疲れます。これが「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカ6・31)と思いつつ皿を洗えたのなら、疲れもまだましでしょう。でも、まだ「自分のように」という所まではたどり着いていないように思っていました。

先日、ふと気付いたのは、人の「ダメ」なところは「人間味」ではないのかということです。自分のことを「ダメダメ」と言いつつも、なぜか「自分なんかだめだ」と否定的には感じられないのです。人間だから仕方がないという表現もできますが、それもなにか違います。

「ダメダメ」な自分こそ、自分の「味」なんだと思うんですよね。この味があるからこそ、神さまが必要で、神さまに愛してもらえるんではないかと思うんですよね。「原罪」なんていうとすごく重々しいのですが、この「ダメダメ」があるからこそ人間なんだと思うのです。

この「ダメダメ」というのは、人それぞれに与えられたタラントンによってあらわれ方が違うのでしょうね。「ダメダメ」のあらわれ方によって、ゆるせなかったり、憎かったり、時にはいとおしかったり、するのではないかと思います。でも、不思議と自分の「ダメダメ」だけは、常にゆるしているんですよね。自分が「ダメ」であることは認めても、それを決して否定する気になりません。

正確に言うと、以前なら自分の「ダメダメ」から、自分を否定して落ち込んだり、苦しんでいたかもしれません。でも、苦しみの中から救われちゃったんですよね。その「ダメダメ」を愛されちゃったんだから、いまさら否定するわけにはいきません。

そんな風に考えていて、ようやく気付いたんですよね。「自分のように愛しなさい」という「自分のように」という言葉は、決して否定せず、「ダメダメ」を持ち味、いとおしいものだと思いなさい、ということだと。

昨日と今日は有給休暇なのですが、妻は仕事です。せっかくの休みなので、ブログでもしながらゴロゴロしたいところですが、皿だけでも洗っておくことにしましょう。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/05/01

キリスト者は積み重ね

プロポーズ大作戦」という昔のバラエティのような名前のドラマは、高校の同級生である吉田礼(長澤まさみさん)の結婚式で、主人公の岩瀬健(山下智久さん)が妖精(三上博史さん)に出会って、吉田礼と結婚できるように高校生活をやり直すというお話です。教会で式を挙げるのだから、妖精でなく天使にしてほしいところですが、笑いあり、人情ありで、それなりに楽しめます。

毎回、披露宴の写真の場面に戻って、少しずつ人生をやり直すのですが、今回の妖精の「遠回りかもしれないが、確実に好感度は増した」という言葉は少し考えさせられました。まあ、一度のやり直しで結婚相手が変わってしまうとドラマが続かないからでもあるのでしょうけど、確かに人の心はそんなに簡単に変わるものではないと思いました。

教会に通いだして、誰もが言ってほしい言葉は「最近、変ったね」という言葉ではないでしょうか。教会に通い、洗礼を受けて、考え方は大きく変わったはずです。でも、本人が思うほどには、なかなか認めてもらえないのではないでしょうか。

キリスト者として生きていくことは、積み重ねなのでしょうね。教会で通って考えが変わったなんて、今までの人生を自分中心に突っ走っていたものが、ほんのちょっと、そう、せいぜい1度ぐらいでしょうか、ちょっと向きが変わったにすぎないのでしょうね。別の方向に向いたとほかの人にもわかるようになるには、何度も、何度も、本人にとって驚くような回心が必要なのでしょうね。

逆に教会の方から、驚くような言葉をかけられることがあります。「熱心」という言葉です。「敬虔」と言われるよりは恥ずかしくないのですが、これってなにか違うのですよね。見た目は熱心な人と変わらないかもしれませんが、心の中は「ダメダメ」です。

以前、聖書の分かち合いで「放蕩息子のたとえ」を分かち合ったとき「人はついつい兄になってしまう」と言われる方に、すかさずに「そうですか、私なんてダメダメですよ」と言ってしまったほどです。

この「ダメダメ」感があるからこそ、教会に行こうと思うんですよね。まだまで駄目だと思って神さまにゆるしを乞い、良い方向にちょっとだけ向きを変える。ミサのそのひとときが1週間の元気をくれるのですよね。今週はミサに行きます。

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2007/04/21

不作為の罪 - 12年前の思い出 -

ビッグイシュー70号の「私の分岐点」は、作家で前長野県知事の田中康夫さんです。失礼な話ですが、私と体形が似ているからか、「なんとなく」好きではなかったのですが、このインタビュー記事を読んで、ちょっと変わりました。

記事によると田中康夫さんのターニングポイントは、小説家としてデビューしたとき、そして、阪神大震災でボランティアをした時だそうです。このボランティアがきっかけで、神戸空港反対の住民運動に関わられ、その後の長野県知事につながったそうです。

阪神大震災では、悲惨な映像を見ながら、何ができるかを考えられたそうです。医者でもないし、瓦礫を片付けるクレーン車の免許もない、でも、神戸と縁があったのでなにかしたいと、神戸市役所に電話をされましたが、埒があかなかったそうです。

そこで、教会ならボランティアを受け入れてくれるだろうと、西宮のカトリック教会(どこでしょうね?)に電話をされました。それから、水や野菜ジュースを手始めに必要なものをバイクで運ばれたそうです。

田中康夫さんいわく、「好きな女の子がたくさんいる神戸」が身近だったからと言われていますが、この言葉は関西人にはつらい言葉です。通勤圏にありながら、多くの人が何もできなかったからです。もちろん、ボランティアに参加した方もおられますが、経済を停滞させないことが善であるかのように、仕事を優先した人が多かったように思います。

私自身も、神戸のお客さんのところに通ったこともありました。そのころに通っていたビルには工事用のクレーンが突っ込み、知り合いの会社の入っていたビルは1フロアがつぶれて、ちょうど1階分が低くなりました。もちろん、会社の同僚にも色々な人がいました。マンションに住めなくなった人、実家の隣が倒れてきて建て替えをすることになった人、心労でお母さんが亡くなったひと。

当時の私は仕事が忙しい時期だったこともあって、何もしていませんでした。当時の職場の同僚(友人)のご両親は六甲アイランドの高層マンションに住んでいました。電気が止まっているので、長い階段を上って水を運んでいたそうです。多くのボランティアややじ馬で道路は混雑して流通事情が悪く、市街地から離れているために食料品もあまり手に入らなかったそうです。

私と友人の入っていたメーリングリストでも、ボランティアをしようという話題が出ました。みんなで行こうという話題の中、「何もしないでほしい」とその友人はコメントをしました。批判を浴びましたが、友人は言い訳をしませんでした。

今から思うと、私は何をしていたんでしょうね。田中康夫さんのように、何か役に立つこともできたかもしれません。メーリングリストは混乱したかもしれませんが、フォローのコメントを入れることもできたかもしれません。そんな風に考えると、当時の行いは「不作為の罪」のように思えてきます。

記事を読んで、いろいろと思い出しました。しかし、過去は過去、人生を後戻りすることはできません。素直に反省して、明日はよりよく生きていくしかないのでしょう。

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2007/04/19

受洗おめでとうございます

気づくのが遅れましたが、よたよたあるきの和泉さん、ウラジミールのurajimiruさんが復活徹夜際に洗礼を受けられました。おめでとうございます。

これからは神さまがそばにおられますから、「もうだいじょうぶ、安心して(by Luke8488)」ください。

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2007/04/15

心地よい苦しみ

4月15日で洗礼を受けて1周年です。長いような短いような、変わったような変わってないような、そんな感じです。

洗礼を受けても物理的には何も変わりません。ただ、以前より反省できるようになったような気がします。ミサのはじめに「全能の神と兄弟のみなさんに告白します。わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました」と回心をします。

洗礼を受ける前から、ここで反省をしていましたが、洗礼を受けてからはちょっと違います。洗礼を受けると御聖体をいただけるのですが、罪のある状態ではいただくことができません。本来はきちんとゆるしの秘跡を受けたほうが良いのですが、小罪(意識せずに犯した罪)であれば回心して御聖体をいただくことができます。

洗礼を受ける前は、思い浮かぶことだけを回心していましたが、最近は意識していなかったことも回心しています。家族や友人、知り合い、同僚、等々、生きている限りは、色々な人と関係を持ちます。ちょっとしたひと言、ちょっとしたコメント・トラックバック、日記の読み逃げ、仕事上の判断、など、その気はなくても多くの人に不快な思いをさせたり、傷つけているかもしれません。

昔は、そんなことを気にしていませんでした。自分を正当化する理屈を考えて、仕方がないとか、自分は悪くない、などと考えていました。いつも正当化しているのですから、うまくいかないことは「怒り」になり、相手を批判します。そして、いつしか怒りにとらわれて、苦しみが増していました。

今はいつも「あかんなぁ~」と考えてます。どんな状況でも、自分がもう少しこうしていればと言うことがあるものです。でも、悪いことがたくさんあるものの、うまく謝ることもできませんし、罪の思いが深くなります。これが、苦しいんですよね。ダメダメな自分がどんどん見えてきて、どうして良いかわからないくらい苦しいのです。

なので、ミサの回心の苦しいこと、苦しいこと。涙がにじむことも数知れずあります。でも、それも回心までの苦しみです。取り繕っても神様にはバレバレですから隠すこともありません。ミサでぜーんぶ反省してしまいます。反省するだけ反省してゆるしを請います。そして、御聖体で明日への力をいただきます。

過去を振り返っているよりも、前に進むことです。罪は罪であるとかみ締めた上で、未来を切り開くのです。うまくいかない関係もこれからの中で、反省した姿を見せていけば良いと思っています。ミサはそのための大きな力です。

御聖体をいただくと言うことはキリストそのものになるということです。しかし、そんなにうまくはいきません。少しずつキリストに近づく、いや、少しはましになっていく、そんな感じかもしれません。

洗礼を受けると、自分の罪がわかって苦しくなります。しかし、ミサに与ることで、心が清められ、温かくなります。神さまに包まれるような、そんな気分です。そして少しずつ*まし*な自分になっていきます。洗礼後の苦しみは、心地よい苦しみなのです。

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2007/04/03

ちょっとした幸せ

何度目かの紹介になるビッグイシュー、1日と15日が発売日なので昨日買いました。

前回買ったときにバックナンバーも買ったから覚えてくれたのか、発売日に買ったから常連さんと思われたのか、おじさんが最後にひと言こう言ってくれました。

「毎度、ありがとうございます。」

前回は「毎度」がなかったんですよね。顔見知りになったような感じで、うれしくなりました。

ビッグイシューには、販売員のおじさんの記事が載っています。なぜホームレスになり、どのようにして販売員になったのか、今どのような気持ちで売っているか、など。いつの号だったか、こんなことが書いていました。

日雇いの仕事もビッグイシューの販売員も収入はあまり変わらない。でも、人とのつながりがあるから頑張れる。自分一人で苦しむのは大変ですが、気にかけてくれる人がいる、売ることを喜んでくれる人がいる、だから売っている。そんな記事でした。

寄付するならもっと高い金額を出せば良いでしょう。かわいそうと思うなら優しい声をかければ良いでしょう。読みたいだけなら通信販売で買っても良いでしょう。でも、おじさんから買ったものを読みたくて買っています。それで、つながりを感じあいたいのです。

買うという、対等の関係で向き合って、つながることが大事なんだと思います。内向きな世界から、次のステップに踏み出すための、ちょっとした勇気になればと思います。

昨日の「毎度」のひと言で、おじさんから元気をいただきました。それなりに仕事も大変ですが、頑張ろうと思いました。そして、心の中でおじさんに「頑張って!」とつぶやきました。

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2007/03/21

おばちゃん、すわって!

今日はゴッドファーザ(といってもギャングではなく代父)の写真が美術館で展示されている(リンク先は玉田勇「大中判写真フォーラム」)ので見に行きました。

天気が良いためか、バスは超満員で「歩いたほうが良かったなぁ」と思っていたときに、この声は聞こえました。

ふと見ると、ギターか何かのハードケースを抱えた若者が、おばあさんと言うとちょっと失礼かと思うような女性に席を譲っています。後ろの席の彼女と話したかったのか、ちょっと良い所を見せたかったのか、ゆずるのは失礼か、などと悩んだのかはわかりません。でも、無言ではなく、キザな言葉ではなく、自然な感じで、

「おばちゃん、すわって!」

と、その若者は言いました。「年寄りは大事にしなければ」という律法的な考えでなく、「自分は若いのに可哀想だ」という上からの目線でもなく、心のままに言ったのです。いまどきの若い者は、などという言葉もありますが「ええ奴やないか」と思いました。

四旬節向けに配られた「ひびき」に本田神父さまのインタビュー記事が出ていました。その中に

「労働者がごみ箱をあさっている。ネトッとした歯形の付いたパンの食いちぎれを目にとめて、どうしようかなあと思案に暮れている。そこへパンの耳をビニール袋に入れて腰にぶらさげた別の労働者が通りかかり、しばらく見つめてから、『これ食えよ』と、袋を渡して去っていく。そんな光景にでっくわしたりすると、痛みを知っている仲間たちこそ、人を傷つけることなく、相手の痛みを軽くしてやれるんだと実感させられるんですね」

というお話が出ていました。若者は自宅あるいは近所ににおばあさんがいるのでしょうか、それとも、親切なだけなのでしょうか、とにかく彼は痛みがわかるかのように声をかけました。

人の温かさを感じ、きれいな写真も見ることができ、今日は良い一日でした。

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2007/03/16

ホームレス体験が生む新法 - ビッグイシュー日本語版67号 -

ビッグイシュー日本版をご存知でしょうか?街角でホームレスの方が売っている雑誌です。Good News CollectionSilent EMOTION@JUGEMでも紹介されていましたのでご存知の方も多いと思います。ホームレスの方の仕事をつくり、自立を支援するために発行されている雑誌です。

ちょっと前の67号は「フリーターの今と未来は?出口なき若者たち」と言う特集で、日雇いバイトをしながら、漫画喫茶に泊まるという新しいホームレスのことが書かれています。

最近はテレビでも取り上げられることが多くなった「ワーキング・プア」と言う言葉があります。働いているものの貧しい生活をしているワーキング・プアの人たちです。若く、親の家に暮らしているなら、それなりの生活が可能かもしれません。しかし、国の統計に表れない35歳以上で、何らかの理由で親元を離れた人たちは、抜け出せない泥沼に入り込んでいるようです。

日雇いバイトだと日給8000円でも、いろいろ引かれて手取りは5000円前後、毎日漫画喫茶の椅子で寝るには1500円を払わないといけません。その日に仕事があっても残金は3500円しかありません。

住み込みの仕事があっても足元を見られ、重労働かつ低賃金な仕事しかありません。身体をこわせば使い捨てで、住む場所もなくなって元の生活に戻ってしまいます。

ビッグイシュー日本版のWebページによるとホームレス自立への三つのステップとして、3段階が書かれています(収入への換算を追記しています)。

  1. 簡易宿泊所(1泊千円前後)などに泊まり路上生活から脱出(1日25~30冊(2750~3300円の収入)売れば可能に)
  2. 自力でアパートを借り、住所を持つ(月2回刊により、1日35~40冊売り(3850~4400円の収入)、毎日1,000円程度を貯金、7~8ヶ月で敷金をつくる)
  3. 住所をベースに新たな就職活動をする

販売員の多くの方は第2ステップに挑戦中だそうです。この金額を、さきほどの日雇いバイトと比べると、ビッグイシューの販売員よりも厳しい生活であることがわかります。しかも、明日は仕事があるか、食事ができるか、屋根の下で眠ることができるか、という生活の基本的な所に不安を抱きながら、厳しい生活を強いられているのです。

そう考えると、ビッグイシューの運動のすばらしさを実感すると共に、日本の現状の悲惨さに悲しくなってしまいます。

この号の別の記事では、フランスの新しい住宅法を生んだ運動について書かれていました。「ドンキホーテの子供たち」と名乗る団体が主催する運動で、パリのサン・マルタン運河のほとりにテント村を設営し、裕福なパリ市民に厳冬の一夜を過ごしてもらって、ホームレスの大変さを実感してもらうと言う運動です。

この運動によって、「人が住まいを得る権利と、それが得られない場合に政府を訴える権利がフランス国憲法に書き込まれる」ことになったそうです。そして、手ごろな住宅の提供とホームレスの防止と支援を定めたスコットランドの「ホームレス法」をモデルに新法が約束されているようです。このフランスの運動は、新法のモデルである「ホームレス法」にもプレッシャーを与えたそうです。

フランスでは、ホームレスの人たちの生活を体験し、その目線で憲法が改正され、新法ができます。日本でも、知ることからはじめないといけません。ビッグイシューを売っている方はバックナンバーも持っておられるので、ぜひ67号も買ってください。

(日本の憲法改正議論も、フランスのような内容だったら、、、)

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2007/03/14

宗教に求めるもの

とある関西ローカルの番組で、オーム真理教改めアーレフのことを議論していました。基本的に何でも言いたい放題の番組なので、

「馬鹿だから宗教が必要なんだ!」

などという言葉まで出ていました。

無宗教の人が多い日本ならでは意見ですが、この言葉は結構当たっています。一人で頑張れるならそれで良いですが、一人ではどうしようもなくなった時に宗教が必要となります。つまり、自分が馬鹿であることを認め、新しい価値観を取り入れることこそが信仰だと思います。

問題はカルト、つまり、反社会的であるかどうかです。宗教団体のための教義になっていないか、自由意志が認められているか、信仰の本質的なところが良いものであるかどうか、実態を欺いて本質的でない活動でごまかそうとしていないかどうか、そういったところが重要だと思います。

さて、番組の議論の中で、

御釈迦さんは『自分で足元を照らせ』と言っている

という意見もありました。調べてみると、確かに「お前が燈火、その明かりで足元を照らせ
(リンク先は「波 2003年7月号」新潮社)という言葉があるようです。このほかにも「自分の仏を持て」などという言葉があって、仏教はなかなか厳しいですね。

やっぱり、わたしには「あしのともしび」の方がお似合いです。頑張りすぎるのではなく、無理をせずにゆだね、現状を幸せだと感じて、ほんのりと足元を照らしてもらって、やさしく生きる。そんな感じが良いですね。

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2007/02/27

洗礼でかわること

洗礼を受ける人はすでに信仰心があるので、洗礼を受けたからといって、聖体拝領がうれしいとか、自分の罪深さを思い知るぐらいで、劇的に変わることはあまりありません。

でも、洗礼を受けて大きく変わることが、ひとつあります。それは、ほかの人の洗礼がうれしいことです。これだけは、洗礼を受けないとわからない恵みでしょう。

いつも読ませていただいているluke8488のブログの『「はい、そう思います。」』と言う記事を読んで、そう思いました。この記事では、それぞれの思いの中で洗礼志願をした方に

 「もう、だいじょうぶ。安心して。」

と書かれています。洗礼志願式に立ち会うと昔の自分が重なって、喜びや、ほっとしたような安堵の気持ちが湧いてくるのでしょう。

私が洗礼を受けたときを思い起こすと、スペイン人のシスター(日本語があまり得意でない)が「うれしい!うれしい!」と本人以上に喜ばれていたのを思い出します。受洗者は、心のどこかで自分と重ね、その喜びを分かち合っているのでしょうね。

洗礼志願は、それまでひとりで生きてきて、とうとうキリストに負けたという宣言です。この敗北宣言ほど、すがすがしく、心丈夫にしてくれるものはないでしょう。いろいろな事に耐えてきて、頑張って、頑張って、なげいて、苦しんで、どうにかこうにか生きていた、そんな自分との決別です。

もう、ひとりではありません。神さまがいる、兄弟がいる、聖人がいる。決して問題がなくなるわけではないけれど、ばら色の世界が広がるわけでもないけれど、いままでと違う心の平安への道が開かれようとしています。まだ1ヶ月と感じるかもしれませんが、そのときはもうそこまで来ています。

私もわくわくしてきました。

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2007/02/23

仮想エルサレム巡礼 - 十字架の道行き -

今日は四旬節最初の金曜日なので、所属教会で十字架の道行の信心をしました。

所属教会では四旬節の毎金曜日に十字架の道行きの信心があり、四旬節中に一度はするように言われています。とは言っても、実際は四旬節が始まったばかりと言うこともあって、有志一同ぐらいの人数です。日曜のミサには出るべきですが、全員が来られたら収まりがつかなくなるのと同じように、なるべくそうしましょうということなのでしょうね(ミサと違って、自宅でもできますし)。

上のリンクにも書きましたが、この十字架の道行きの信心は、元々エルサレム巡礼が起源です。カトリック桂教会の説明にある写真のようにイエス・キリストの足跡をたどっていたものが、今の形のような仮想(といってもコンピュータではない)巡礼になったようです。

去年十字架の道行きの信心をさせていただいた(ゼノさんが関わられたという)赤羽教会のように床がじゅうたんではないので、思い思いに跪く事はできませんが、14の絵を巡りながらイエス・キリストの受難に思いをめぐらし、祈りました。

十字架の道行はイエス・キリストの死に直面することです。信心が始まる前には、色々と考えてしまいます。病気の人、手術した人、怪我をした人、そして心が苦しい人、知るかぎりのたくさんの方々のことを祈りました。

そして、十字架の道行の信心が終わって、さらに祈りました。イエス・キリストの死が、多くの人たちの幸せにつながりますように、、、

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宮城まり子のチャリティーテレソン

以前、竹中ナミさん(ナミねぇ)を紹介しましたがゼノさんの本を読んでいて宮城まり子さん(リンク先はWikipedia)を思い出しました。ナミねぇと同じように身体障害者のために活動されているかたです。

ナミねぇはプロップステーションの活動を通じたコンピュータによる身体障害者の支援、ゼノさんは知的障害児施設「ゼノ」少年牧場(リンク先は「ゼノ」少年牧場)の設立、宮城まり子さんは日本で初めての肢体不自由児のための養護施設「ねむの木学園」(リンク先はねむの木学園)を設立されました。

Wikipediaによると宮城まり子さんは

貧しい母子家庭に出生、幼くして母、弟と相次ぎ死別するつらい少女時代を送った。1955年「ガード下の靴磨き」で歌手デビュー。その後女優業に進出 (中略)
また信心厚いクリスチャン(プロテスタント)でもある。

ということで、団塊の世代以上の方ならご存知の方も多いのではないでしょうか?

私が覚えているのは、1975年に当時の近畿放送(京都放送=KBS京都)のテレビ番組「宮城まり子のチャリティーテレソン」で身体障害者の社会参加を訴えられていたのを見たからです。

宮城まり子のチャリティーテレソン(リンク先はWikipedia)は日本で初のテレビチャリティーマラソンです。1975年と1981年に開催されています。Wikipediaによると

女優で、肢体不自由児の社会福祉施設「ねむの木学園」を主宰する宮城まり子が司会を務め、身体障害者の社会参加を呼びかける趣旨のもとで24時間のチャリティーテレビ番組を実施。その反響は凄まじく、視聴者から集められた浄財は4600万円を超えたという。

と書かれています。

もうすぐ24時間というころになっても目標額に今一歩届きませんでしたが、ポンと大金を寄付された方がおられたことを覚えています。髪を振り乱した宮城まり子さんが、「京のぶぶ漬けと言いますけど、京都は優しい方がたくさんおられる」といった内容のことを、目を輝かせながら言われていたのを覚えています。

(注:ぶぶ漬けとはお茶漬けのことで、居座るお客さんに早く帰ってほしいときに「ぶぶ漬けどうです」と言います。落語にもなっていたと思います)。

1975年といえば、ようやく一般家庭でもカラーテレビを見るようになった時代で、夜の1時ごろにはTV放送が終了していました。そんな中で、24時間のチャリティ番組を京都の地方局が放送していたことは、今にして思うと画期的な出来事だったと思います。

現代に比べるとまだまだ貧しかった時代ですが、心は豊かな時代だったのかもしれません。四旬節に少しだけでも貧しい思いをして、心を豊かにしたいと思います。

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2007/02/15

正しいかどうかわからないことを実現する

いつも読ませていただいているMAGISにこんなことが書かれていました。

正しいとわかっていることを学ぶのはつまらない。
寧ろ,正しいかどうかわからないことを考えるのが面白い。

確かにそうですね。わかりきったことを積み上げる喜びもありますが、これからの未来にわくわくしながら歩んでいく喜びも捨て難いものがあります。でも、正しいかどうかわからないことを、計画的に行うことは難しいのです。

ソフトウェア開発の世界にも同じようなお話があります。ソフトウェアを開発するときは、ゴールを定めて、設計し、開発し、確認する、というステップを踏んで開発することが一般的です。建物を建てるときに、外観から設計図を経て建設、確認となることをイメージしてもらえば良いと思います。これを、段々になった滝に見立てて、ウォータフォール開発と呼びます。

ウォータフォール開発では、ユーザは正解を知っている、開発者は正しく理解できる、技術が変わらないという前提で進められますが、これらの前提が成り立たないと滝の横から水がこぼれてしまいます。そんなときに幸せな結果を得るためには、前提が不安定な場合に適した方法が必要です。

そもそも、良くわからない状態で、すべての設計図を詳細に書くことが困難だったのです。建物を建てる場合でも、他の建物を見たり、ショウルームを見たりしないとイメージがわかないでしょう。要望をきちんと伝わらないと家が出来上がってから、「こんなはずじゃなかった」と言うことになりかねませんし、途中で法律が変わったら対応しなければなりません。

そこで、どういう方法をとるかと言うと、試してみる、少しずつやる、必要なことだけやる、変更はいつでも受け付ける、いつも良い状態を保つ、ということを繰り返します。

「百聞は一見にしかず」と言いますが、頭で考えているのと実物を見るのでは大きく違います。図面をみてXXcmあるから大丈夫と思っても、ショールームで見ると違うものです。思い悩んでいるだけでなく、やってみないとわからないのです。問題になりそうなところを見つけ出して、試してみるのです。これをプロトタイピングと言います。

では、何でもかんでもとりあえずやれば良いかというと、それも違います。将来に向けて、すでにわかっている大事なところを実現し、問題が生じそうなところは見極めなければなりません。いつかは達成したいゴールではなく、確実に実