2012/08/05

試練と希望

「死んだ方がましだった」そんなことがあるのでしょうか?
今日のミサの第1朗読ではエジプトから脱出した人たちがそう言います。空腹は人から希望を失うのでしょうか。「必要なものは与えられる」という言葉の通り「マナ」が与えられるのを人々は知らなかったのです。

福音朗読では、逆に満足した人たちに「まことのパン」が大切であることをイエスは説きます。それは、飢えることがなく、渇くことがないものです。

生きているといろいろな不満や欲望があります。それが満たされることはありません。どんなに努力しても決して満たされることはありません。それは「死んだ方がましだ」という試練なのだと思います。

神様に感謝するということは、現状に満足することです。美味いかどうかわからない、ただ飢えを満たすマンナに感謝することです。こんな自分に与えていただいて「ありがとうございます」と感謝するのです。

自分は頑張っている。他の人より良くできる。そんな思いを抱きがちですが、その多くは大した事ではないのです。人が人である限り、完璧ではありませんし、良くない事もしてしまうのです。ほんのちょっと良かったからと言っても、神様に比べれば、ほんののちっぽけな差にすぎないのです。

生きていけるという事は神様に愛されて、必要なものが与えられているのです。その事に感謝し、幸せを感じる事ができたなら、その人生はとても幸せなものになるでしょう。「幸せなやつだ」という言葉がありますが、幸せであればそれはとっても幸せな事に間違いないのです。

生きている幸せを、今こそ感じましょう!それは神の与えられた「希望」なのです。

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2012/03/04

四旬節の善行

「四旬節には善いことをしましょう!」などと言われることがあって、そういう季節なんだと思っていました。

先日、電車待ちの先頭に並んでいたのに運よく座れたときに、杖をついている人が同じ方向に来てあきらめた様子が視界に入りました。特に何も考えずにその肩に近づき、良かったらどうぞ、とお譲りしました。

そのとき、そういえば四旬節なのだと気付き、一つでも善行ができて良かったと思いました。

そうは思ったものの、何かがひっかかりました。別に善行をしようと思ってしたことではなく、当たり前の行いとして席を譲ったのです。

当たり前のことを善行と言い換えること、これは傲慢だと思いました。どちらかというと「罪」かもしれません。

神の求めることを当たり前に、四旬節を過ごしたいと思いました。

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2012/02/12

「あ~ぁ」

仕事がうまくいってなくて落ち込んでいるときに、なぜ落ち込んでいるか妻に聞かれました。

「仕事がうまくいっていない」

普通なら、「どうしたの?」とか、「大丈夫?」とか、「頑張って!」とか、言うのでしょう。しかし、妻の答えは違いました。

「あ~ぁ」

一瞬、耳を疑いました。

「なんやそれ!?」

妻は説明しました。

「だって『あ~ぁ』じゃない。だめだったんでしょ、そういう時は『あ~ぁ』って言うのよ」

脳天気な妻の言葉に、最初はふざけているとしか思えませんでしたが、良く考えると確かにそうです。原因を明らかにして失敗を繰り返さない努力は必要ですが、起きてしまったことは取り返しがつきません。現状を受け入れて、この後どうするかが大切なのだと思いました。

子供の頃、大切にしていたものを落としたとき、そういえば言っていました。その場で大声で泣くのではなく、

「あ~ぁ」

そう言うと、なぜか次に進めたんですよね。

「しょうがないや、新しいものを見つけよう!」

そんな風に思えたのは、「あ~ぁ」と言うことで現実を受け入れていたのでしょうね。何か不思議な言葉ですね。

その後、仕事はなんとかましになりました。あきらめるでもなく、いっぱいいっぱいになるでもなく、「やれるだけやればそれでいい」、肩の力を抜いてそんな気持ちに慣れたのも、

「あ~ぁ」

と言う言葉で、理想をあきらめて、現実を受け入れることができたからなのでしょう。

結婚して25年、妻の脳天気さまで神様は用意してくださったのですね。また負けてしまいました。

神に感謝!

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2012/02/06

福音を述べ伝えなさい

今日は一日お休みするつもりでしたが、5年ぶりにお会いできる方が遠方より来られたので、玉造教会で高山右近列福祈願ミサに与りました。

洗礼を受けてまだ5年足らず。洗礼を受けた当初に抱いていた宣教のイメージが変わりつつあります。当初は自分が救われたことを語ることで、キリストに触れる機会が増えて多くの人が救われるという思いを持っていました。しかし、神様に救われる形は人それぞれで、どう救われたかはあまり関係なく、他の人に語るなと言われてもついつい言いふらしてしまった人たちの様に、熱く語ることで大切な何かがあること伝わっていただけのように思います。また、学ぶたびに恵みを感じていたカテキズムを語ることも大切なことではありますが、そのことが頑なな人の心を開くものではないように思います。

最近思うのは、私自身がいかに生きるか、それにによってどう証するかだと思います。最後の審判のお話の様に、神様にするように誰にでも接する、誰もが大切な人として接する。それが大切なように思います。

今日はミサの後、とても幸せな時間を過ごしました。地元の人間としては案内に失敗したりなど、失礼なこともあったのですが、神様に向かい合う人間同志として素敵な時間が過ごせました。日頃、高山右近のことはあまり考えたりしない私ですが、お話しするうちに自然と葬儀の際に棺を担いだ右近を思い出し、その素晴らしさを語ることができました。それは、人が人を大切にすることが神様を証することであり、それこそが最高の宣教であると思えたからです。

年をとると、本当に色々と困難なことが起きます。しかし、どんな時もいい加減な行いをするのではなく、人を大切にすること、そうすれば、それがきっと証になるのだと思っています。

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2011/03/02

高槻教会の非公式Twitterを始めました

これまで教会の非公式ブログカトリック高槻教会の扉をしていましたが、今回、非公式Twitterをはじめました。IDは@ukons_doorです。

Twitterには、非公式ブログのページの更新情報のほか、管理人が気に入った「Tweet(つぶやき)」をリツィート(転載)します。興味のある方は、ぜひフォローしてください(これまでのつぶやきはツイログで見ることができます)。

Twitterは140文字以内で情報交換するミニブログとも呼ばれるもので、

  • TL(タイムライン)とよばれる一覧で、フォローしている人のつぶやきやRT(リツィート:転載)を見ることができます
  • TLで転載をみない設定もできます
  • フォローしてもらっている人を指定してつぶやいたり返信すると、その人のTLにつぶやけます
  • フォローしてもらっていない人を指定してつぶやくと「@関連」に表示されます
  • つぶやきは時間がたつと消えますが、TLの保存(ツイログ)や、TLの抜粋をまとめて保存(ツギャザー)することができます
  • 知らない人も、プロフィール画面を見たり、検索すれば、つぶやきを知ることができます

という機能を持ちます。これを使うとこのようなことができます。

  • フォローしている人、検索した人に教会の情報を伝えることができます。(お教えいただけた情報はRTします。ご協力ください)
  • フォローしている人、検索した人に福音や良いお話を伝達できます
  • 公開のQAができます。QAは転載しますので、管理人、フォロアー、検索した人など多くの人に相談できます(答えていただけるときに、@ukons_doorを入れていただえれば、転載します)

このように、みんなで福音を宣べ伝えることができる仕組みです。

既にTwitterをされている方は、ぜひ@ukonz_doorをフォローしてください。また、まだこれからという方も、とにかく簡単、携帯だけでもできますので、ぜひTwitterをはじめてみてください。

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2011/01/30

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(マルコ4・40)

世の中の変化が激しいですね。私のように会社勤めであっても、客先の組織変更で4月以降がどうなるかわからない状況です。

ソフトウェアの請負開発は建設業と似ていて、仕事がなくなってしまうという心配は日常茶飯事です。しかし、産業構造がそろそろ大きく変わるような気配もあり、ふと安心してはいられないような気がしてきます。

そんなおぼろげな不安を感じる中で、Twitterで流れたのがこの聖句でした。

 「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 (マルコ4・40)   

それは、京都の高島屋でマザーの写真展があったときの私のつぶやきから、フォローしていただいた片柳神父のつぶやきでした。

実は階下で水木しげる展もあったので、ついでというほどでもないのですが、一石二鳥のような感じで出かけたました。これもすべて用意されたことだったのでしょうね。

この「まだ信じないのか」という語りかけには、いつもドキッとさせられます。この聖句については以前にもこのブログで書きましたhttp://sakaba.cocolog-nifty.com/cocoro/2009/06/post-a385.htmlが、なにも恐れず、前向きに暮らすだけでよいのに明日のことに思い煩ってしまうことは、人間の弱さなのでしょうね。

どっちにしてもなるようにしかならないのですから、あせるだけ損ですよね。前向きに今できることを誠実に行うこと以外に、未来を切り開く方法はないのですから。

神に感謝!

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)
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2010/10/17

新しい挑戦 - 聖書はすごい! -

最近、新しいことを始めました。私はこのブログのほかに、所属教会を紹介するブログ、本業の技術関係のブログを持っています。仕事がやりにくくなるので、これまで本業のブログでは、キリスト教のことは書いていませんでしたが、最近チョットだけ書くようにしています。

ソフトウェア業界の名著の一つに「人月の神話」という本があります。聖書や格言を引用しながら、ソフトウェア開発の難しさの解説をしている本です。

最近、これをまねて、特定分野の記事の最後に聖書からの引用を載せるようにしてみたのです。知り合いから質問されて、マスタードの種と苗が「からしだね」だと説明するなどしています。

一般の方に少しでも興味を持ってもらえれば、と面白半分ではじめました。なので、いつまでも続かないと思っていたのですが、これが結構続いています。

芸人の「なぞかけ」ではありませんが、書いた内容に関連するキーワードを思い浮かべて、インターネットで検索して、聖書箇所から原文にあたって、ぴたっと来なければ翻訳を変えたり英語で探したり、と言った感じです。

今日は、プロジェクトファシリテーションと言われる分野で、みんなのやる気を出させて、作業を責任を持って(コミット)して実施するという内容でした。

まずは、神との契約だからと「聖書 新しい契約」で探しました。はじめに見つかったのはルカの、最後の晩餐のところでした。

食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。
(日本聖書協会 新共同訳 ルカ22・20)   

カトリックの信者にとって大切なところです。でも、ぴたっと来なかったので更に探すと、新しい契約について書かれたエレミヤの預言を見つけました。

しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
(日本聖書協会 新共同訳 エレミヤ31・33)   

なんとなくいけそうですが、一般人にはつらいので英語で探しました。そして、最終的に決めたのは、New Living Translationです。

I will put my instructions deep within them, and I will write them on their hearts.
Jeremiah 31:33 (New Living Translation)

必要な言葉はすべて聖書にあるのだと思いました。そして「すごい!」と思いました。

信仰に入るには「きっかけ」が必要だと思います。一般のブログの中で聖書に触れられたら素敵だと思います。聖書の勉強にもなりますし、皆さんも始めてみませんか?

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2010/07/11

プレゼントからのプレゼント

「子は宝」などと言いますが、本当に大きなプレゼントだと思います。

まずは、その小さな命に感動させられます。ポイと投げればすぐになくなってしまう命。体を洗う際に親指と小指で耳を押さえるも指の短い私には難しく、指が滑らないように気をつけました。基本的に片手だけでささえられるなんて、本当に小さな命でした。

そして夜鳴き、次の日も仕事なのに寝られなくて、でもそれが赤ちゃんなので仕方ありません。自分の親もこうした苦労をしたのかと、親の苦労と言うのをはじめて感じました。

大きくなると腹の立つこともたくさん出てきます。子供のためと思いつつ、注意でなく怒ってしまいます。その後に来る反抗期に、子供の人生は親のものでないことを思い知らされます。そのようにして、人と人として話をするようになっていくのでしょうね。

そんな子供たちももう大人です。この春はお兄ちゃんが就職して、初任給でボールペンを買ってくれました。私が就職したときにはそんなことしなかったのに、まさかこんなプレゼントがあるとは思っていませんでした。

Pen

そして、父の日には娘がクッキーを焼いてくれました。今年は親の日だそうで、母の日を兼ねていました。せっかく焼いてくれたのに、間違ってビスケットと言ってしまって怒られてしまいました。でも、とてもおいしかったです。

Fathersday

その存在だけでもありがたいプレゼントである子供から、今年は素敵なプレゼントをもらいました。とても幸せなことです。父親らしいことは大してしていませんが、二人ともとても優しい子に育ってくれました。勝ち組とか負け組みとか、そんな小さなことは気にしないで、どうか自分に与えられたスペシャルな人生を大切に生きてください。

神に感謝!

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2010/05/21

笑顔

シスターや神父に限らず、ニコニコされているクリスチャンは多い。

特別な出来事が会ったわけでもない。人に会うための作り笑顔でもない。人生そのものが大きな恵みであることを感じているからこそ、自然に出てくる笑顔なのだと思う。

苦しくて「もうだめだ!」と思ってしまいそうになることもあるだろう。実際、苦しいこともあったはずだ。でも、つい笑顔が出てしまうのは、苦しみのあとにはその苦しみを体験したからこそわかる「大きな喜び」が待っていることを知っているからだ。

世の中の景気が悪いからか、私にも大変な仕事が回ってくることが増えた。でも、とんでもない状況であっても、「もうすぐ、出エジプトだ!」と思えるのは、信仰のおかげだろう。

最近少し落ち着いて、あるクリスチャンの友人に「エジプトは出たけど、紅海はまだ渡れてないようだ」とぼやいたところ、「私はマナが降ってくるのを待っています」と返された。

お互いに苦労していても、笑い合えるのは素敵なことである。

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2010/04/28

帰天

カトリックでは、人が亡くなられたことを「帰天」と呼びます。永遠の命を得た信者は、肉体が滅びても神の元へ帰っていき続けることをそう呼ぶのだと思います。

このため、お悔やみの言葉は「ご冥福をお祈りします」のほか、「霊魂の永遠の安息をお祈りします」などとも言います。煉獄にとどまることなく神の元にで安らかにすごされますようにお祈りするのでしょう。

つい最近、お世話になった二人の方が帰天されました。

お一人は、入門講座でご一緒だったTさん。「私が洗礼を受けるとは、家族が一番驚いたでしょう」との言葉には、同じように思われたであろう私は共感を覚えていました。それまで一人で生きてきたからこそ、最後に依り頼むもののありがたさを感じておられたと思います。

カテキズムが苦手なようで、3年たっても「内容が多い」とぼやかれていました。その一方で「私は信仰のことは良くわかりません。でも、ご聖体は良い!」と、今から思えばとても率直で、とてもひたむきな信仰告白をされていました。

私はどちらかと言うと理詰めの信仰ですが、他のことは関係なく「ご聖体」を大切に思い、喜びを感じられるTさんの素敵な信仰の姿に、信仰は理屈ではないことを教えていただきました。

もう一人は、かつての上司です。異動になった子会社の社長でした。同じ信仰を持ちながらも、そのことをお話できないまま私は異動になりました。

やり手と言うよりは、協調型。温厚で、よく気を使う方でした。単身赴任の際にお世話になったクリーニング屋のおばさんにまで、お土産を持っていくような方でした。

1年前に退職されたばかりなのに、今日のお昼に突然の訃報が届きました。未だに信じられません。

でも、きっとお二人とも神様のもとにいかれたでしょう。お二人の霊魂の永遠の安息をお祈りしたいと思います。

もっとも悲しい時がその人にとって喜びにつながるというカトリックの教え。全ての苦しみは恵みにつながるという信仰の恵み。お世話になったお二人が帰天された寂しさを感じながらも、神に感謝したいと思います。

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