2007/06/05

幸せなひととき

いつも楽しい「かみさま とだらば」(神様ありがとうの意味)ですが、今回の記事はハッとさせられました。仕事帰りのひとときを教会で過ごされたという記事ですが、「そういえば、祈りを忘れていたなぁ」と思いました。

いや、それらしいことはしています。御聖堂に入るときに聖水をつけて十字を切ったり、寝る前に主の祈りの言葉を唱えたり、もちろんミサでも、、、形だけはしていました。

久しぶりにDVDを買って河島英五さんの「何かいいことないかな」(歌詞はYahoo!ミュージックで読めます)などを聞いて、そうだったな、苦しかったな、でも今は大丈夫!などと考えていいました。でも、それは今を幸せに生きようと、自分に対して今が幸せだと思いこませようとしていたのです。

わたしは仕事柄もあってか、ついつい理屈で物事を考えてしまいます。幸せというのは考えるのではなくて、感じるものなのですよね。神さまを信じて、何もかも忘れ、祈れば良い、心をさらけ出せば良いのですね。

職場ではお祈りすることなどなかったのですが、食事の前にこっそりとお祈りしました。お祈りの後のお弁当は、いつもより幸せな味がしました。

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2007/04/26

批判せず、怒らずに、しみじみと

批判したり、怒りの気持ちが湧くは、自信がないからではないかと思っています。自信といっても、すべてを成功させるというようなおごった気持ではなく、どんなことでもポジティブに受け入れることができる自信です。

人は一人で生きていかなければならないと思うと、苦しく、心配で、不安になります。不安になると独善的になって、自分は良いもので、ほかの人が悪いと思いたくなります。ついつい周りの人の欠点を見つけては、批判してしまいます。相手を批判することで、自分の価値を高めたいのです。

中には、本当に問題のある人もいるでしょう。自分は悪くないのに思い通りにならず、足を引っ張る人に対して、怒りの感情が湧いてきます。でも、怒る必要なんてないんです。

相手に怒る価値がないわけではありません。注意しても無駄というわけでもありません。ただ、感情を高ぶらせる必要が無いだけです。

この世のものはすべて被造物です。すべて良いものです。意味のないものはありません。目の前の気に入らない人も、足を引っ張るあの人も、すべて良しとされた(創世記1章)大事な被造物です。

タレント(技能、才能)という言葉の語源になったタラントンのたとえ(マタイ25・14-30)というお話があります。

ある人(神様)が僕(しもべ)にお金を預けます。人によって渡される金額は違うのですが、僕たちは頑張ってそれを増やしてほめられます。しかし、1タラントンだけ預けられた僕は、無くしては大変だと増やそうとせず、(天国から)追い出されてしまいます。

批判したり、怒ったりするときは、この1タラントンを預けられた僕のように守ることだけを考えているのではないでしょうか。

2タラントン、あるいは5タラントンを預けられた人は、それを元手にお金を増やしました。これは、無くしてしまわない自信があったからではないと思います。預かったタラントンをポジティブにとらえていて、仮に無くなってもその状況を受け入れる自信があったのではないでしょうか。

1タラントンを預かった人も「1タラントンしかない」ではなく、「1タラントンもあれば大丈夫」「必要なものは与えられる」と考えていれば、追い出されることもなかったでしょう。

必要なものは与えられます。失敗することも、受け入れ難い状況も、すべて意味があることです。怒りにとらわれたり、自分はだめだと思っていては能力が生かせません。何があってもしみじみと状況を受け入れることが大切なのでしょう。

この「必要なもの」というのが、実は難しいですよね。自分からみて「必要なもの」を考えると、ついつい神様に不満を抱きそうになります。でも、その思いをわがままと思えた瞬間に心の平和が訪れるのでしょうね。

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2007/03/17

それでおうてる、まちがいやない - ビッグイシュー日本語版68号 -

先日も紹介したTHE BIG ISSUE(リンク先はビッグイシュー日本版)の最新号の記事です。

特別号をのぞいて200円で売られています。このうち、110円が販売員さんの収入になるそうです。他のものに比べてかなり利益率が高く、大きな支援になりますね。薄い冊子ですが広告がほとんどなく、記事が満載です。特集記事のほか、社会のことを扱う記事、ホームレスのおじさんによる人生相談など、読み応えは十分です。

今回、タイトルにした言葉は、「私の分岐点」というリレーインタビュー記事です。毎回、有名人の人生の分岐点が書かれているのですが、今回は大西ユカリ(リンク先はオフィシャルサイト)さんです。

「平成のゴッドねーちゃん」として親しまれている大西さんは、ゴスペルシンガーを経て大西ユカリと新世界というバンドをされています。失礼ながら聞いたことはありませんが、お名前だけは知っていました。

20代は幸せな結婚生活を送られていたそうですが、阪神大震災をきっかけに、ご主人や義母との関係が悪くなり、離婚されました。多くの人が命の危険を感じて精一杯だったとき、最も信頼する人が予想外の行動を取ったことから、関係が悪化したようです。

その後、ニューオリンズでダウン症の人の歌う姿を見て、ちゃんと理解できる歌を歌おうと思われたようです。それから色々なことに対して理解しようとする力ができたそうです。記事では、離婚のことについても、今だったらうまくできるとしながらも、こう言われています。

でも、一度吐いた唾は絶対に飲まれへんのです。今、こうして生きていることが正しいんや思うて生きていかなアカンと思うてる。後悔とか普段の悩みやストレスやいうのは、生きて好きなことやらせてもうてる自分には贅沢なような気がするしな。いい大人にならなアカンとか、いい人にならなアカンとか、そんな人この世におるのかいなって話ですわ。人は自分が正しいと思うことをすればいい、それでおうてる、間違いやない、そう思うてるんですよ。

生きていると色々と反省することも多く、ついつい悔やんだり、くじけそうになったりします。しかし、過去は過去、それでよかったんです。これからより良く生きることが重要なんですよね。

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2007/03/04

あなたはできる! - ABC子ども未来プロジェクト -

ABC子ども未来プロジェクト」を見ました。大人の対場でなく、子供の目線で問題をとらえないといけないこと。社会のイライラが、学校でのいじめにつながること。親・友達といった縦横でなく利害関係を持たない斜めの関係が重要のので、学校の中に地域を作る、学校を核に地域を再生する。教育基本法のお話など、専門家によるお話の中、出番こそ少なかったですがナミねぇ(竹中ナミさん)の言葉は光っていました。

それは「あなたはできる!」と言うメッセージでした。ナミねぇはプロップステーションの活動を通じたコンピュータによる身体障害者の支援をされています。その活動を通して、一つ目のメッセージを語られました。

働けない、かわいそうと思われている人たちが、実は社会に貢献したい、稼ぎたい、(中略)と思っている。でも、世の中はその人たちをできない人と決め付けている。でも、決め付けられたときに、それを「そうじゃないよ」という力はその人の中にしかない。「あなたはできる!」と確信できる確信できる関係になれるかどうかと言う問題で、障害者だけでなく、大人と子供の関係でもある。

「できる」という力は必ずある。(中略)子供たちは、それをできないと思わされているけれども、その経験こそが「できる」と思える力になる。

ナミねぇは学校の問題は専門ではないですが、その人生経験から本質をつかんでいると思いました。ナミねぇは著書「ラッキーウーマン」(飛鳥新社)のカバーの略歴を引用すると、

小学生のころから家出をくり返し、15歳で同棲、高校除籍、16歳で結婚、ごんたくれな10代をおくる。

そんなナミねぇを変えたのは、24歳の時に生まれた長女麻紀さんの誕生です。麻紀さんは重度脳障害で34歳にしてナミねぇを理解できません。しかし、生後3か月分を24ヶ月かけて育っている麻紀さんの「すごさ」、その「すごさ」が学校にも警察にもできなかったナミねぇの更生をさせました。「そんな能力が誰にでもある」それが二つ目のメッセージでした。

私の知るかぎり、ナミねぇは宗教色のない方です。でも、そんなナミねぇの言葉に恵みを感じます。傍から見れば大変だったろう生活も、ナミねぇにかかると「ラッキーウーマン」になってしまいます。ナミねぇにとって麻紀さんは生きる力、恵みそのものなのでしょう。

番組の途中で、夜回り先生こと水谷修さんが、仏教、カトリック、プロテスタントと連携をすすめていると言われていました。傷ついている子供たちの居場所として、お茶とお饅頭だけを与え、祈りたいときに祈る空間を用意しようとされています。学校よりも宗教施設のほうが多く、日本では学校との連携が難しい面もあるものの、期待されているようです。

自分ひとりで幸せに生きられるなら、神様は要りません。宗教なしに「あなたはできる!」という信頼関係を築ける社会が正常なのでしょう。しかし「できる」自分を見失っているなら、「愛されている」と感じさせてくれる神さまの出番かもしれません。

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2007/03/01

苦しいのは自分だけじゃない - キリストに救われた理由 -

これまで、なぜ教会に通うようになったかを聞かれたとき、「遠藤周作の『キリストの誕生』でキリストの受難を知り、自分の苦しみなどは大したことがないと思い、頑張ろうと思った」と言っていました。でも、なにか違うと感じていました。

月曜日のYoshi原作翼の折れた天使たち 第1夜『衝動』(リンク先はフジTV)を見て、その理由に気づきました(以下、ネタばれ注意)。

石原さとみさん演ずる主人公ユリは親の愛情を感じられず、手首を切ったことがあり、ビルからの飛び降りを何度も試みています。そこに現れた裕紀。この青年は白血病でしたが、どうせ無駄だと薬物療法を避けていました。

命を大事にするように諭す裕紀は、逆にユリに言われます。

「神さまに恥ずかしくないぐらい、精一杯生きているの!」

このひと言で、裕紀は薬物療法を決意します。そんなことも知らないユリは、愛情表現の方法を知らない親の言葉に傷ついて、自殺しようと再びビルの屋上に昇ります。病室から見ていた裕紀はユリを救いますが、その直後にユリの目の前で倒れてしまいます。裕紀は亡くなりましたが、ユリはようやく現実に向かい合うようになります。

このドラマ、心療内科に通っているユリが、そんなに簡単に前向きになれるのかとも思いました。しかし、その理由を考えると、昔の私に近いような気がしました。

まず、こう考えました。裕紀が死を目の前にしても頑張った。それを知ったユリは自分の苦しみなど大したことはない、と思ったのではないかと考えました。しかし、これは納得できません。身体の病気と、心の病気、どちらが苦しいかなんて、本人でもわからないですよね。

そこで思い出したのが、北原怜子著「蟻の街の子供たち」に出てきたお話です。ある集落に住む貧しい家族は、家も職も失い心中することを決意していたそうです。そして、子供たちの最期の思い出にと隅田川のボートに乗りました。大はしゃぎの子供たちをみて、殺すことが忍びないと奥さんが思っていると、目の前に墨田公園の集落に立ち並ぶ掘立小屋が目に入ったそうです。

「ああやって立派に生きぬいている人が、あるじゃありませんか。私たちだって、死んだ気になれば、なんとか立ち直ることができるでしょう」

奥さんがそう言って、ご主人に取りすがったというお話です。

この奥さん、子供がかわいそうだという気持ちももちろんあったでしょうけど、目の前の人たちに共感したんだと思います。それまで自分達だけが苦しいと思っていたのに、同じように苦しんでいる人が他にもいる。苦しいのは自分だけじゃないんだ。と、思ったのではないでしょうか。

はじめに書いたドラマのユリも同じように自分ほど苦しい人間はいないと感じていたのではないでしょうか。そして裕紀のことを知って、苦しいのは自分だけじゃないと感じたと思います。同じ苦しみを感じている人を知ることで、苦しみが軽くなったと思います。

そこまで考えて、ようやくわかりました。キリストの受難、特に遠藤周作さんの描くキリストは、惨めです。弟子に裏切られただけでなく、理解さえもしてもらえなかったのです。私は、キリストの姿を見て苦しみが和らいでいたのです。

それは他の不幸なお話でも良かったかもしれません。でも、キリストは単に不幸なだけではありません。人々を救おうと十字架にかかったのです。もちろん、私のためだけではないですが、私のためにも十字架にかけられたのです。

それは、私が神さまを知る2000年前に用意されていました。まさに「神がまずわたしたちを愛してくださった」(一ヨハネ4・19)のです。

もし、あなたが苦しみを抱えているなら、遠藤周作著「キリストの誕生」をぜひ読んでください。苦しみがすこし軽くなるかもしれません。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/02/25

悪魔の誘惑をさけましょう

今日のミサの福音は「誘惑を受ける」(ルカ4・1-13)でした。四旬節の原型となった、洗礼を受けたキリストが荒れ野で悪魔の誘惑を受けるお話です。お説教も四旬節にふさわしいお話でした。

「もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」

悪魔はそんな言葉で誘惑しようとします。人は地位や名声を得ることを目標にしがちです。人よりも高い地位になりたい、人よりも有名になりたい、誰しもが心に抱くその先に何があるでしょうか?

戦国の世にあって、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、は天下を手に入れました。しかし彼らは幸せだったでしょうか?さらに欲望を満たすため、身を守るため、必ずしも心は平安ではなかったのではないしょうか。

人は会社や学校、地域、教会など、様々な団体に属します。そこに長くいると、ついつい「自分がいなければ成り立たない」という、思いあがった気持ちを抱いてしまいます。

人間はついつい傲慢になってしまいます。しかし、「塵のものは塵にかえる」と言われるように、私たちは死んでしまえば塵にかえります。欲に生きても、いつかはなくなってしまいます。

四旬節は回心の季節です。悪魔の誘惑をさけ、回心の道を歩みましょう。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/02/15

正しいかどうかわからないことを実現する

いつも読ませていただいているMAGISにこんなことが書かれていました。

正しいとわかっていることを学ぶのはつまらない。
寧ろ,正しいかどうかわからないことを考えるのが面白い。

確かにそうですね。わかりきったことを積み上げる喜びもありますが、これからの未来にわくわくしながら歩んでいく喜びも捨て難いものがあります。でも、正しいかどうかわからないことを、計画的に行うことは難しいのです。

ソフトウェア開発の世界にも同じようなお話があります。ソフトウェアを開発するときは、ゴールを定めて、設計し、開発し、確認する、というステップを踏んで開発することが一般的です。建物を建てるときに、外観から設計図を経て建設、確認となることをイメージしてもらえば良いと思います。これを、段々になった滝に見立てて、ウォータフォール開発と呼びます。

ウォータフォール開発では、ユーザは正解を知っている、開発者は正しく理解できる、技術が変わらないという前提で進められますが、これらの前提が成り立たないと滝の横から水がこぼれてしまいます。そんなときに幸せな結果を得るためには、前提が不安定な場合に適した方法が必要です。

そもそも、良くわからない状態で、すべての設計図を詳細に書くことが困難だったのです。建物を建てる場合でも、他の建物を見たり、ショウルームを見たりしないとイメージがわかないでしょう。要望をきちんと伝わらないと家が出来上がってから、「こんなはずじゃなかった」と言うことになりかねませんし、途中で法律が変わったら対応しなければなりません。

そこで、どういう方法をとるかと言うと、試してみる、少しずつやる、必要なことだけやる、変更はいつでも受け付ける、いつも良い状態を保つ、ということを繰り返します。

「百聞は一見にしかず」と言いますが、頭で考えているのと実物を見るのでは大きく違います。図面をみてXXcmあるから大丈夫と思っても、ショールームで見ると違うものです。思い悩んでいるだけでなく、やってみないとわからないのです。問題になりそうなところを見つけ出して、試してみるのです。これをプロトタイピングと言います。

では、何でもかんでもとりあえずやれば良いかというと、それも違います。将来に向けて、すでにわかっている大事なところを実現し、問題が生じそうなところは見極めなければなりません。いつかは達成したいゴールではなく、確実に実行できる短期間(イテレーション)ごとに目標を立て、目標を見直しながら、インクリメンタル(漸進型、スパイラルとも呼びます)に実現していきます。

この開発方法は、変化を許容する方法です。ユーザの要望を取り入れつつ、より良いソフトウェアを開発する方法です。社会の変化にも対応可能です。変化に機敏に対応することからアジャイル開発と呼ばれます。大きなソフトウェアの開発にはあまり向きませんが、ユーザが直接操作するような実現が困難なソフトウェアに適した開発方法です。

日本の木造住宅がこれに近いかもしれません。家庭を持つときは小さな家を建て、家族が増えるごとに、増築したり、離れを建てたりします。重要なのは木造であること、土地を少し広くしておくことです。わからない未来のために可能性を残すのです。立派なお城を建てることはできませんが、必要十分な幸せを得ることができます。

人生の目的は幸せになることです。あなたが夢に描くゴールは容易なものでしょうか?最終的なゴールまで見通して、詳細な計画ができるでしょうか?そのゴールは本当にあなたが求めているものでしょうか?

できないことを思い描いても、実現できません。もしゴールを見失いそうなときは、達成可能な目標を立てて、一歩ずつ、しっかりと、しかも楽しくやる、それが重要ではないでしょうか?そのうちに本当のゴール(幸せ)が見えてくるでしょう。

思い悩むことはないのです。あきらめから始まる未来もあるのです。

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2007/02/11

私がイエスを神とする理由

mixiのとあるコミュで書いたコメント(いわゆる使い回し)です(一部修正)。

私が洗礼を受けたのは、キリスト教が煩悩を捨てるのではなく、それを受け入れ、ゆるしてくれるからだと思います。

仕事がうまくいかずに苦しんでいたときに父親が亡くなって、まず、家の宗派(仏教)の本を読みました。確かに良いお話が書かれていたのですが、なにかピンとこない、自分とは関係がないような感じがありました。

そのころ妻が教会に通いだしていて、私が死んだときの葬儀が仏式だと気持ちが入らないと言いましたので、少しぐらいは読んでおこうかと本を読みました。昔、エッセイを読んでいた遠藤周作の入門書「私のイエス」を読みました。そして、引き込まれるように「イエスの生涯」「キリストの誕生」を読みました。そして、それまでの苦しみから逃れることができました。

仕事がうまくいかないのは自分にも責任があると、うすうす感じながらも、認めることができませんでしたが、「キリストの誕生」を読んでようやく認めることができたのです。

人々に見捨てられ、弟子にも裏切られ、十字架を背負ったイエスは、最期の時も人々のゆるしを父に願い、共に処刑された犯罪者も救いました。

良いところも、悪いところもすべて受けとめて、ゆるしてくださる、その完全な姿は弟子たちの心に残り、神として復活しました。それまで使徒たちは、イエスの教えを理解できませんでしたが、キリストの復活後、教えを積極的に広めるようになりました。

使徒たちと同じように、私はイエスの姿によって、自分の傲慢さに気づかされました。

イエスが神であるというのは、キリスト教の定義する神であるということです。その定義をアーメン(そのとおり、その通りでありますように)と思えるかどうかだと思います。私は遠藤周作の現実的な解釈によって救われ、聖書を読んでニケア・コンスタンチノープル信条をアーメンと思うようになりました。もちろん聖書は誰が読んでも良いことが書かれていると思いますが、救いを求める気持ちがあるからこそ、聖書の言葉に救われるのだと思います。

たしかに信仰はタイミングだと思います。学生のころに私が遠藤周作を好きだったこと、妻がカトリックの学校を出たこと、父が亡くなったこと、他にも色々な偶然がありました。その偶然を神様のしるし、すべて良いことだと思うことが回心たと思います。現実に苦しむよりも神の愛を感じて幸せに生きたい、それが私がイエスを神とする理由です。

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2007/02/08

ゆめ、現実、希望

子供のころ、誰しもが夢を抱きます。TVのヒーロー、スポーツ選手、大統領、パイロット。まあ、人それぞれで色々な夢があるでしょう。人によっては夢が実現しますが、多くの人は途中であきらめます。

働かないと生きていけませんから、どこかで妥協して現実にあわせるわけです。やりたいことではなく、できることをするとか、「割り切った」とか、「大人の判断」とか、色々なことばで自分を言いくるめるわけです。

でも、なんだかんだ言っても、やっぱり何かに期待しているもんですから、不満は溜まるわけです。これって何なんでしょうね。

実は求めているものが違うのでしょうね。カッコいいとか、ちやほやされるとかいう理由で選んだことでも、夢をあきらめてお金になるからとはじめたことでも、そのこと自体が目的でなく、きっと幸せになれると心のどこかで思ったから選んでいるのでしょうね。割り切ったとか言いながら、お金があれば幸せになると思っているのです。

でも、幸せはそこにないかもしれません。夢が実現したなら更なる夢を抱きます。割り切って仕事をしていても、昇格したいとか、同僚と仲良くしたいとか、なにか満たされないものがあって不満が溜まるのです。もっと、もっと、と人間の欲望は果てしなく、限りがありません。欲望は、人間が成長するための力にもなりますが、時には人間を束縛して苦しめます。

不幸だと思っている時も、幸せを捨てているだけなのかもしれません。もう希望がないというときも、まだまだ希望があるのに見ようとしていないのかもしれません。責任が自分にないと人を批判するときも、自分の原因に目をつぶっているのかもしれません。

キリストの受難と復活には、希望へのメッセージが込められています。あなたがどんなに不幸状況であっても、仲間に裏切られ、民衆に裏切られ、さげすまれ、犯罪者として亡くなったイエスは、その傷を癒し、近くにある幸せを探す力を与えてくれるでしょう。

あなたがもうだめだと思うときでも、処刑しようとする人々のゆるしを神に請い、共に処刑される犯罪者を天国に導いたイエスは、どんなに希望がなくなったときでも心は自由であり、人間は豊かな心を抱けるのだという希望を与えます。

あなたがすべてが終わったと思うときでも、死を迎えた後に復活し、使徒たちの心によみがえり、人類の希望の光として生き続けたキリストは、努力が実らなかったと思えることも無駄ではなく、すべてのことに意味があり、良き行いは人々を幸せにするという希望を示します。

本当に欲しいものが幸せであるなら、きっと信仰が救ってくれるでしょう。

参考:遠藤周作著「キリストの誕生」「イエスの生涯」「私のイエス」

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2007/01/18

感情にとらわれること - 悪霊と悪魔 -

映画「妖怪大戦争」を見ました。案内にはこう書かれています。

日本各地では、突然子供が消えたり、恐ろしい化け物が人間を襲ったりする事件が多発していた。それは、この世に恨みをもつ悪霊たちの仕業だった。黒幕は古代先住民族の怨念が蘇った魔人・加藤保憲。加藤は、人間に捨てられた機械などの廃棄物の怨念と日本古来の妖怪たちとを、大怨霊ヨモツモノの力で混ぜ合わせ、新種の悪霊《機怪》を作り出していった。そして、加藤の手先となった鳥刺し妖女・アギによって、日本全国の妖怪たちは捕獲され、《機怪》に姿を変えていくのだった。

そして、東京を舞台として妖怪対悪霊の戦いが始まります。ここでのポイントは「うらみ」です。黒幕の魔神加藤とは、帝都大戦にも出てくる加藤保憲(リンク先はWikipedia)です。この加藤も、うらみにとらわれています。

日本の悪霊の特徴は、人が魔人になったり、機械が機怪になったり、変質するところですね。同じように感情にとららわれたものといえば、宮崎アニメにもよく出てきますし、変わったところでは、カネゴン(リンク先はWikipedia)という怪獣もいます。カネゴンはお金への執着から人間がガマ口ような顔を持つ怪獣になってしまうお話です。

聖書の中では、「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」(マルコ5・1-20)というお話があります。このお話に出てくる汚れた霊に取り付かれた人は、つながれた鎖を引きちぎり、足枷まで砕き、

彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。

とあります。そして、イエスさまが名をたずねると

「名はレギオン。大勢だから」

と言い、その霊は豚に移されるものの、豚の群れは湖に入って死んでしまいます。そして、

人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。

このお話は難解ですが、先日お会いした林神父が一つの解釈を教えてくださいました。 悪霊の名前「レギオン」は元々ローマ軍団(リンク先はWikipedia)をさします。すると、この人はローマ兵に家族あるいは大事な人を殺されるか、辱められたと考えられます。そして、悲しみや恨みにとらわれていたのではないかと考えられるのです。

当時は、悪霊の名前を言い当てて、たとえば「サタン!」というように叫ぶと、出て行くという考えがあったそうです。そして、イエス様はローマ軍団を悪霊として豚に移し、さらに追い出してしまったのです。だからこそ、ローマを恐れる人々に出て行くようにいわれたのです。

まるで歌舞伎のような風刺劇ですね。この中でも、やはり気になるのは感情にとらわれた人です。感情にとらわれて、叫んだり、自傷行為をしているのです。

キリスト教では悪魔という表現もあります。「堕天使」と言われるように、神様に特別の力を与えられたものの、神さまを裏切った天使です。キリスト教がヨーロッパに定着する際に、それまでにの異教の神々が悪魔になった(リンク先はWikipedia)ようです(一部の神は天使や妖精になりました)。

Fatima 悪魔に関してはファティマの聖母(リンク先は女子パウロ会)に触れなくてはなりません(写真は玉造教会)。 Wikipediaには聖母マリアのメッセージの一つとしてこう書かれています。

悪魔と地獄の現存:多くの人々が悪魔によって地獄へ導かれている。七つの大罪などの罪、特に肉欲の罪から回心しないままでいることにより人は地獄へ行く。ここには、悪魔の所作が働いている。

七つの大罪とは傲慢(高慢)、嫉妬、暴食(食欲)、色欲、怠惰、貪欲(強欲)、憤怒
で、七つの罪源とも呼ばれる感情です。さらにWikipediaの「悪魔」に出てくるファティマの聖母に関する説明には、こう書かれています。

21世紀初頭、ヨハネ・パウロ2世は、「ファティマの聖母の言葉は、悪魔のわなに陥らないよう、改心を求めて私たちの人間性に訴えかけている」と述べ、戦争・民族浄化・麻薬汚染・中絶など惨事が悪の犠牲者を多く生み出していること、善と悪の戦いは(20世紀だけのものではなく)今日も続いていることから、社会は破壊を免れるために伝統的な価値観に立ち戻る必要がある、と述べている。

最近の身勝手な戦争や悲惨な事件を見ていると、悪霊や悪魔として語り継がれてきた「感情にとらわれることは悪である」という伝統的な価値観が失われつつある気がします。

人は感情にとらわれると、他人や自分を色眼鏡で見てしまいます。客観的なつもりでも自分を中心に考えてしまいます。否定的でなく冷静に、自分を見直す必要があると思います。それこそが「愛(アガペー)」の始まりなのだと思います。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/01/16

抱きしめる教会

佐々木正美著「抱きしめよう、わが子のぜんぶ - 思春期に向けて、いちばん大切なこと
」では、

『抱きしめる』ことは、どんな愛情表現よりも伝わります。(p.118)

とした上で、

子どもの話を聞いてあげることは、心を抱きしめるということ」(p.136)

と書かれています。そして、こんな風に書かれています。

人はだれかに全面的に受け入れてもらえることで安心して自立していけるのです。全面的に受け入れてもらえるということは、ありのままの自分を認めてもらうと言うことです。(p.156)

自分が信じている人から、愛されている、評価されているという実感を得られると、子どもは自信をもつことができます。(p.96)

この本は、思春期の子どもを持つ親に向けての本ですが、思春期にありがちな、不安、迷い、悩み、といった感情は、人である限り一生ついていくものではないでしょうか。

外で疲れて、「ただいま~」と帰ってきたとき、父から離れ疲れ果てた放蕩息子を迎える父のように、ありのままの自分を受けとめてくれるそんな場所が人には必要です。

洗礼を受ける前にSIGNIS Japanセミナーに参加したとき、少し驚く光景を見ました。ある女性が何年ぶりかのシスターを見つけて駆け寄ったのです。その女性とシスターは抱き合って、今にも泣きそうなぐらいに喜んでいました。そのときは、驚いたものの、今となってはうらやましく思います。

人には安らぎを感じられる家が必要です。家庭であるかぎり兄弟げんかもあるでしょうけど、疲れて帰ってきたときに抱きしめてもらえるのは、やっぱり家である教会なのでしょうね。

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2007/01/08

あきらめから始まる未来

ちょっとイメージしてみてください。

  • ナップザックに色々な大きさの荷物を詰めるとき、効率よく入るにはどうすればよいですか?
  • たくさんのお客さんを訪問するとき、効率よくまわるにはどうすればよいですか?

この二つの問題は、情報の世界では「ナップザック問題」「巡回セールスマン問題」といって、最適な答えを求めるには時間がかかると知られている問題です。

荷物を最も効率良く詰めるには、全ての組み合わせ(正確に言うと順列)を計算しないと最適なものがわからないからです。お客さんをまわる際もお客さんの順番によって、移動時間が異なるので全てを計算しないと最適な答えはわかりません。

組み合わせにならない問題だと数が増えても大丈夫ですが、上にあげたような問題だと荷物やお客さんの数が増えると計算しなければいけない数(計算量)が爆発的に増えます。でも、出発時間までには詰め込まないといけません。さあ、どうしましょう?

答えは「あきらめる」ことです。最適な答えをあきらめて、ほどほどであきらめることです。ナップザックなら大きいものから詰めるとか、セールスなら区域を分けてから、その中で答えを求めるのです。また、一人で計算しないで、手分けするのも良い方法ですね。

ここ何十年かでコンピュータの世界は急速に発達しました。その背景に、この「あきらめる」べき問題がわかったということがあります。オセロや将棋などのボードゲームや、通信のデータを守るための暗号化技術など、様々な発展がありました。

人間の苦しさの一つに理想が高すぎたり、自己解決にこだわりすぎるというものがあると思います。一度あきらめてみるのも良いかもしれません。

私がこのブログを始めたのも、自己解決を「あきらめる」ことから始まりました。

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星を見つけましょう - 意味のリフレーミング -

日曜日は「主の公現」のミサでした。福音朗読は「占星術の学者たちが訪れる」(マタイ2:1-12)でした。占星術の学者たちが、ユダヤ人の王の星に導かれ、エルサレムを経てベツレヘムでキリストに会い、ひれ伏したお話です。

この学者たちは星に導かれてキリストに出会いました。人生の中では色々なことが起きます。何があっても大丈夫と言えるそんな星を見つけましょう。それが説教の主旨でした。

ここで重要なのは、星に導かれたことです。学者たちは決して星をえらんだわけではありません。人生の中で、ついつい道を選び、夢が破れます。しかし、この学者たちは選んでいません。

与えられた状況を受け入れて、それを喜ぶことができるなら、そんな幸せなことはありません。しかし、つらいことも多く、神の愛を信じたくてもくじけてしまいそうなときもあります。

そんな風にマイナスに考えてしまいそうなとき、「リフレーミング」が役立ちます。「リフレーミング」はカウンセリングの一つの手法です。ブログMAGISのctさんは、マイナス面を考えがちな保護者の面談に「リフレーミング」を応用されています。

この「リフレーミング」には「意味のリフレーミング」と「状況のリフレーミング」の二つがあります(リンク先はカウンセリングと心理療法の勇気づけ)。このうち、ある状況に対する意味づけを変えることを「意味のリフレーミング」と言います。

むかし、信仰の道に入るということを、数学の公理にたとえてみましたが、神さまに愛されているという意味づけ(意味のリフレーミング)をすることが信仰の道なのだと思います。

何がっても大丈夫な星。じつは気づいていないだけで、あなたの中ですでに光っているのかもしれません。

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2007/01/06

信仰のちから - メル・ギブソン「サイン」-

以前、ここでも紹介した映画「サイン」を、TVで見ました。DVDを持っているので、別の時間に見ても良かったのですが、ついつい見てしまいました。

実は入門講座で、昔の聖書では「奇跡」と書かれていたものが、今は「しるし」つまり「サイン」と書かれていると聞いていたからです。DVDのケースには「サイン」とは兆候とされているのですが、このお話を聞いてから、神さまの「しるし」としてもう一度見てみたいと思っていました。

この映画はSFとしてみると、はっきり言ってあまり魅力がないのですが、人生の中で神さまの「しるし」を感じられるかどうかという観点で見ると、すごく迫力のある映画です。

映画の中で、妻を失ったショックで神を信じられなくなった元牧師は語ります。

お前は、どっちのタイプだ?
"神のサイン(signs)"とか"奇跡(miracles)"を信じるか
幸運を、ただの幸運と思うか
この世に偶然はないと考えるか

これが、この映画のポイントです。同じことを見ていてもそれを偶然と思うなら、なんとさびしい人生でしょう。しかし、神の愛を信じて生きられたなら、それは大きな恵みになります。

妻を失った悲しみで神をうらんでいた牧師でしたが、話が展開するうちに悲しい出来事の意味を見出し始めます。そして神への信仰を取り戻したときに、奇跡は起きました。

確かに、最後の奇跡的な出来事も偶然と考えられるかもしれません。しかし、信仰があったからこそ、それは起きたのです。

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2007/01/04

70年代の思い出 - 泣き虫ロポポ -

諸人こぞりての記事にいただいたコメントで、ちょっと昔を思い出しました。

私が小中高を過ごした70年代は、色々なドラマ、音楽、価値観がありました。男らしさ、ウーマンリブ、厳しさ、やさしさ、ナンセンス、そんなキーワードで語られる時代でした。

そんな中で、やさしさを最も感じた歌は「泣き虫ロポポ」です。この歌は関西を中心に活動していたザ・ムッシュというグループの歌です。思い出しながら歌詞を書くと

いつだって、しくじりばかり
恋人もできないロポポ。
だけど君はそのままが
背伸びしないで素敵だよロポポ。
        :
ねぇロポポ元気をお出し
今日もまた朝が始まる

どうでしょうか。昔はこんな風に、ありのままに人を愛する歌があったんですよね。TVの「ちびまる子ちゃん」(リンク先は公式ホームページ)のように、みんな個性が豊かで、それぞれがそれぞれの道を歩んでいました。

そう思うと、昔はバランスの取れた良い時代だったような気がします。しかし、昔に戻そうとしてもいまさら戻りはしません。仕組みだけ戻したり、昔の考え方を強制してもだめでしょう。

昔の良かったところがなぜ良かったか、今は何が欠けているか、良く見極める必要があるでしょう。そして、明日につなげなくてはならないのでしょうね。

最近は復刻版が出ている(リンク先はVAPのエレックレコードのページ)ようです。アマゾンの方が安かったので、ついつい注文してしまいました。

この曲を聴いて昔をなつかしみながら、思いをめぐらせて見たいと思います。

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2007/01/02

必死に生きる - ロゼッタ -

映画ロゼッタ(リンク先はgoo映画)をDVDで見ました。この映画はアルコール中毒の母親とトレーラで貧しく暮らすロゼッタのお話です。

仕事を失って必死に生きるロゼッタは、もらった古着を修繕してお金に代え、池でマスを釣って、なんとか生活をしています。

そんなロゼッタは激しい性格です。いわゆるキレる性格です。クビにされたら大暴れ、酒を飲むために男を連れ込む母親とも大喧嘩、古着を売るときもどこか怖いものがあります。

そんな、ロゼッタにも親切にしてくれる男性が現れます。友達ができて、苦しみの中でやっと光明が見えたかと思ったのもつかの間でした。ロゼッタは仕事を得るためにその男性を裏切ってしまいます。その愛にどう答えて良いかがわからなかったのでしょうか。

でも、本当はこのロゼッタは良い子なんですよ。親の愛情が受けられなかっただけ、貧しかっただけ、ただそれだけで、親思いの良い子です。悪いことは悪いとわかっているんですよね。

ヨーロッパらしいシンプルで重い映画でしたが、愛のある家庭の重要さを感じさせられました。

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2006/12/22

あなたはありのままでいい

ありのままに生きようとしたアリは,,,
ありのままに生きようとしたアリは,,,
ありのままに生きようとしたアリは,,,
アリのままだった!

と言うのは70年代の「あのねのね」の歌ですが、ありのままの自分を受け入れることは、とても重要なことです。人生には様々な苦しみがありますが、その苦しみの一つは「ありのままの自分を受け入れる」ことが必要とされる「基本的信頼」の問題だと思います。

村本邦子、窪田容子著「今からでもできる 人格の土台を作る子育て」では、人格の土台として、基本的信頼、自己コントロール、自発性をあげています.このうち、基本的信頼は人格の土台の土台となるものです.

基本的信頼とは、世界、他者、人生、命、自分への信頼で、

生まれてきてよかった!この世は信頼できる。人は信頼できる。私は、良い存在だし、大切に扱ってもらうに値する。生まれてきて、ああ嬉しい!

という気持ちを持てることです。基本的信頼があれば、いじめっ子の言いなりになることも、人をいじめることも少なくなります。逆に基本的信頼がなければ、自分をコントロールすることや、自発性も発揮できなくなります。

この本には、基本的信頼を育む方法として、以下の5つがあげられています。

  • 安心をたくさんあげる
  • 子どもの体を大切に扱う
  • ありのままの子どもを受け入れる
  • 子どもの個性を尊重する
  • 子どもをたくさんほめる

考えてみると、子供のためと言いながらこれらを破っていませんか?英語で苦労したから英会話教室にやるとか、受験で失敗したから良い塾に入れようとするとか、ついつい子どもに自分と似たところを見つけては「XXするのがあなたの悪いところ、なおしましょうね」とか、これが親の愛だと思って言っていませんか?

まあ、無理やりに通わせることはなくても、ついつい親の顔色を見る子どもに対して、思い通りになるように誘導しているような気がします。でも、そんなことを言っても、わたしたちも親からそうされたし、子どもにはもっと良い人生を歩んでほしいし、、そうなんですよね.

親だって、親の一回だけの人生経験しかないですし、自分の悪いところを知っていて、直せるなら直そうと思ってしまいます。でも、それじゃあダメなんですよね。ありのままの自分を受け入れることが大事なんです。こんな風にも書かれています。

あなたのままでいいんだよ。そのまんまでいいんだよ、、、」こんなメッセージが大切です。大人だって、何かうまくいかなくて落ち込んでいるときや、頑張りすぎてくたびれたとき、「無理しなくていいよ。そのままで十分いいんだよ。」と言ってもらえたらどうでしょう、ほっと肩の力が抜けるのではないでしょうか。

そうですよね。まず、親が喜びを感じ、自分を大切にし、人を愛さないといけないのでしょうね。でも、これは、結構難問です。戦後の苦しい中で必死に生活をしていた親を見て、自由社会だ、競争社会だ、人より頑張れ、自立しろ、と散々言われて育ってきたのだから、ありのままの自分を認めて、喜びを感じることはなかなか困難です。

しかし、わたしたちは理想的な親の姿を聖書の中に見ることができます。神さまは、我々を愛し、憐れみ、喜びを与えます。そして「隣人を愛せよ」と言われています。それを見習えば良いのです。自分が神さまにしてほしいようにすれば良いのしょう。

聖書(ルカ15・11-32)を元にヘンリ・ナウエンが「放蕩息子の帰郷」に描いた比較をしない父の愛、さらに聖書の毒麦のたとえ話(マタイ13・24-30)もあります。良い麦を蒔いた畑に毒麦を蒔かれたら、ありのまま育てるしかない。聖書には「あなたはありのままでいい」そんなメッセージが書かれています。

子どもだけではありません。人間の成長にはキリストの愛が必要なのです。

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2006/12/09

愛(アガペー)が欠けている現代社会

入門講座で,どんな人にもある3つの心を教わりました.

祈りの心(アガペー):相手優先の心です.一方通行でお返しを求めない心で,夫婦に必要なそれでも良いと言う心です.

商売の心(フィリアン):友情の心です.ギブ・アンド・テイクの商売のようなお互い様の心です.

強盗の心
(エロス):求める心です.自分中心に考える奪う心です.

愛にはアガペーとエロスがあると倫理・社会で教わった人も多いでしょう.神父様はキリストの受難で説明をされました.

「十字架につけられる」(ルカ23・39-43)では,キリスト(救い主:メシア)と共に十字架にかけられた犯罪人が,「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言います.すると,もう一人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました.するとイエス・キリストは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われます.

この犯罪人が救われたことに対して,犯罪者の家族のように愛のある人なら,好意的に「良かった」と思えるでしょう.これが祈りの心(アガペー)です.犯罪者なのにゆるされるなんて不平等だ「甘い」と思うなら,商売の心(フィリアン)です.また,被害者であるなら,犯罪を犯しておいて「ゆるせない」と思うでしょう.それが強盗の心(エロス)です.

このお話をうかがって,アダルト・チルドレンのことを思い出しました.アダルト・チルドレンは条件付きの愛情などによって心に傷を負った人です.アダルト・チルドレンを3つの心にあてはめて考えていると,現代社会の問題に気付きました.

私たちのように戦争を知らない世代は,自由や権利に敏感です.子どもと親の関係も上下関係から対等になり,友達のような関係になりました.そこでの心は,自然と商売の心になっているのではないでしょうか?

戦争が終わって欧米から自由と権利を輸入したときに,アガペーの輸入を忘れたような気がします.もちろん現代の欧米にも同じような病があります.それも元々あったアガペーが,ビジネス主義や形式主義によって失っているのだと思います.これまでになかった問題が多く発生する現代社会は,アガペーが欠けているんだと思います.

最近,かつての秩序ある日本を取り戻そうとする動きがあります.確かに昔の方が良い面もあったと思います.しかし,それは上下関係や思想が良かったのではありません.かつての上下関係にはアガペーがありました.師弟関係にあるなら,師匠は役割や仕事としてではなく優しさから面倒を見ていたでしょう.また,昔は知らない人であっても,苦しんでいるなら声をかける優しい文化がありました.取り戻すのは昔の仕組みや思想ではなく,そんなアガペーの心なのでしょう.

では,アガペーの心は何で取り戻せるのでしょうか?キリスト教のように苦しみを感じる人に対して,アガペーを与えられる宗教であるなら,それも一つの答えでしょう.しかし,欧米の状況を見るなら,それは原理主義に走る可能性のある信仰心を育てることではなく,愛(アガペー)を実践する心が必要なのだと思います.

このように考えると,映画の「ペイ・フォワード」のような愛(アガペー)を広める運動が,現代社会を変えるような気がしています.

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/12/01

「祈る」と「考える」

「祈る」と「考える」は似てますが違います。
祈る」と言うのは神様にお話をすることです。「天におられるわたしたちの父よ」と言いますが、空の上の宇宙におられるわけでもなく、私たちの心の中に神さまはいます。だから「祈る」というのは自分の心と語ることになります。

一方、「考える」というのも、自分で自分に問いかけることです。なので、言葉の意味は似ています。でも、すごく違うのですよね。

「考える」ときは、自分の思いの肯定から始まり、その思いを正当化しながら、理屈を展開するわけです。この「考える」と言うのは、危険な時もあります。自分の思いが正しいとは限りませんし、仮に正しくてもどんどん膨らんで行き過ぎてしまいます。

自分が間違ってないと思えば、問題が生じるのは周囲の責任になってしまい、反省と言うものを忘れて怒りが膨らみます。逆に、自分が悪いと思えば、どんどん自分を追いつめてしまって悩んだり苦しんだりしてしまいます。

これに対して「祈る」と言うのは、恵みにつながります。祈るときは、自分の心の中に神を感じ、思いのすべてを打ち明けます。お願いしたり、憐れみを求めたり、ゆだねたり、、、、。神さまにはお見通しなんだから隠す必要もありません。

すると、怒りでも、悲しみでも、苦しみでも、とがらなくなります。ピリピリした感じがなくなって、やさしく包まれたような、なでられたような、、、。そうすると、自分の思いを冷静に見ることができるようになります。「自分にも悪いところがあったなぁ」とか、「まあ、しょうがないから次はうまくやろう」、「苦しいのは自分だけじゃない」とか。

そんな風に心が落ち着いたとき、なんとなく神さまの存在を感じるんですよね。

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2006/11/23

成長に必要なキリストの愛

アダルト・チルドレンという言葉をご存知でしょうか?
Wikipediaの説明によると一般成人の6~7割が広義の意味でアダルト・チルドレンで、自覚もせず大して苦にもしていない人々が大多数だそうです。しかし、一部は心的ダメージが強くメンタルケアが必要とされます。メンタルケアの現場では、

幼少時代から親(血縁上の親とは限らない)から正当な愛情を受けられず、身体的・精神・心理的虐待を受け続けて成人し、社会生活に対する違和感があったり子供時代の心的ダメージに悩み、苦しみをもつ人々の総称

とされています。そして、条件付きの愛情、虐待、共依存が関連しています(詳細はWikipediaの説明をご覧ください)。

このうち、条件付きの愛情というのは親にとって耳の痛い話です。子どもを少しでも成長させようという親心から、「XXができたらYYしてあげるからね」と、にんじんを子どもの目の前にちらつかせて、頑張れ、頑張れとやってしまいがちです。

そのような状況が続くと、親に束縛されて育ち、疑いを持ちやすく、うそをつき、批判的で、人に評価されたがり、過剰な責任感と無責任、衝動的な行動、などの特徴を持つ人間になってしまいます。

ここでキリスト教を考えると、キリストは無条件の愛だと思います。啓示や契約を考えると、XXすれば恵みが得られるというようなものもありますが、キリストの公生活を振り返ると、無条件の愛を感じます。

前にここで書いたザアカイの回心もその一例でしょう。キリストを見ようとしただけで、キリストに言葉をかけかれ、回心することができました。

また、放蕩息子のたとえは、親の財産を生前贈与させておいて、使い果たして戻ってきた息子をやさしく迎える話です。勤勉な息子を愛するだけでなく、放蕩息子であっても、いや、放蕩息子だからこそ、やさしく迎えるのです。

かつてモンテッソーリ女史の成長するために愛が必要という言葉を紹介しましたが、アダルトチルドレンを知ったことで、その思いがより強くなりました。

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2006/11/19

「人生に無駄なものはない」理由

所属教会では日曜日のミサの後に、15分間のカトリック要理のお話があります。短時間で良いお話が聞けるので、ミサに与ったときはいつも聞いています。先日のお話の中では、「人生に無駄なものはない」という言葉が出てきました。遠藤周作さんの本にも『人生には何ひとつ無駄なものはない』という作品があり、前から気になる言葉でした。

これまでの人生を振り返って考えてみると、まさにそのとおりだと思います。人生には幸せなことだけではなく、苦しいこともたくさんあります。一見、人生の無駄に見えるそんな苦しみも、その苦しみを経験したからこそわかることもあります。

そんなことから、私はこの言葉の理由を神さまは私たちを愛してくださっているのからだと考えていました。私たちを愛してくださっているのだから、すべて良いことである。苦しみもまた、恵みである。そう思っていました。

今回の要理のお話では、創世記と黙示録はセットで読まないといけない。神さまが作られたこの世界は、画家が作品を描くときと同じである。画家が完成を目指す際に無駄なことをするわけがない。だから、私たちの「人生に無駄なものはない」とのことでした。

これまで、色々なことがあっても、それに耐えて、頑張らないといけないと思っていました。しかし、色々なことがあるからこそ、それを受け入れ、かみ締め、人生の糧にして生きていける。そういうことだと思いました。

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天地が滅びても希望はある

今日の聖書の分かち合いでは、いつものように明日の朗読箇所「人の子が来る/いちじくの木の教え/目を覚ましていなさい」(マルコ13・24-32)をわかちあいました。

太陽は暗くなり、/月は光を放たず、
星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。

から始まるこの朗読箇所は、この世の終わり、終末のお話です。選ばれた人、つまり、教えを信じるものが集められます。頑張る必要はなく、選び集めて下さるのです。そして、そのときに人の子が戸口に立つこと、そのときは父だけがご存知なことが語られます。

読んでいるうちに、このお話は人の苦しみを描いているように読めてきます。この世の光が全てなくなるような状況で現れる一筋の光、それは回心したパウロの目から鱗のようなものが落ちたように、新しい世界の始まりのようなものでしょう。

どんなに苦しい状況であっても、

はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。

とされているように、天地がなくなるようなとんでもない状況になるまで、まだまだ希望があります。そして、

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない

とあるように、天地がなくなっても神様の言葉だけはなくなりません。苦しみが深ければ深いほど、神さまの言葉は輝き、私たちを救ってくれるのだと思います。

おまけ:
ちょっと面白いのが、父なる神とキリストの関係です。父に遣わされた神であるキリストですが、世界の終わりの時を知りません。しかし、世界が終わるときまた遣わされのですね。三位一体の神の役割分担がちょっと垣間見れた気がしました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2006/11/03

祈りによる恵み -苦しみの中にも恵みはある-

人生の中には色々な苦しみがあります。信仰心があっても苦しいときは苦しいです。ただ、少しだけ違うのは、なにか問題がおきたときに心丈夫なのです。

信仰心がないときは、なかなか前向きに考えられず、何か憂さ晴らしをする、より不幸な状況と比較する、別のもので我慢する、といったことしかできませんでした。しかし、気分転換をしても、我慢をしても、現実は現実で変えようがありません。

神さまに出会ってから、少し変わりました。どんな苦しいことにも意味があり、乗り越えられない試練は与えられないのだから、この状況も何とか乗り越えられる。そう思うようになりました。

苦しいときは祈り、神さまとお話しします。お願いも一つの祈りですが、それだけではなくお話します。別に語りかけなくても元々ご存知なのですけど、とにかく思いのたけをお話します。人に対してお話しするのなら、知らず知らず身構えてしまって言わない事もありますが、元々ご存知の方にお話しするので、躊躇する必要はありません。

苦しみや悲しみ、そして願いをお話して、神さまと分かち合います。いろいろと話しているうちに、不思議と落ち着いてきます。今まで見えなかった現実が、徐々に整理され、現実をどう受け止めればよいかが少しずつ見えてきます。

時には、自分の思いが恥ずかしくなり、間違いに気づくこともあります。また、自分のことだけでなく、他の人のことをお願いしているうちに、自分が一緒になって苦しむのではなく、何かしないといけない気もしてきます。

どんなにお願いしても、かなわないこともたくさんあります。でも、祈り、ゆだねることで、苦しみに挫折せず、前向きに生きようとする心が芽生えてきます。それを私は祈りによる恵みだと思っています。