2010/04/04

人生に無駄な物はない

以前、このブログに書いたI君、実はあの後にとトラブルがあって、それをきっかけに休職してしまいました。トラブルの連絡をしたのは私で、あまり調子がよくないのはわかっていたので、やばいと思いながらも立場上は連絡をせざるを得ませんでした。

休職するとの挨拶のとき、私は大したことを言えませんでしたが、職場の女性が「せっかくの機会なのだから何か始めるといい」と声をかけていました。この女性、本人もうつ病の経験があり、あわないときの薬の調整方法などを相談にのってくれていました。私も精神的に苦しい時期はありましたが、通院した経験がなく耳学問しかありませんので、大いに助かりました。

そして1ヵ月後、I君は帰ってきました。まだ薬は飲んでいますが、ヨガをやるようになって薬が減り、楽になったようです。そして、今度はI君がその女性にヨガを教えるようになりました。

すごいことだと思いませんか?

人生に無駄な物はないと言いますが、私の苦しみも、女性の苦しみも、I君の苦しみも、それぞれがそれぞれに役立って、大きな恵みになったのです。何もないに越したことはないかもしれませんが、色々なことがあったからこそ感じられる幸せもあるものですね。

年を重ねると、色々なことがあるものだとつくづく思います。でも、それはその後に待っている幸せに向けての準備なのだと思います。あせらず騒がず前向きに向き合っていきたいと思います。

うまく行くかはわかりません。でも、失敗してもかまいません。きっとその苦しみを経験しないと得られない幸せが待っているのですから。

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2009/12/20

「頑張る」は「我を張る」

「頑張る」の語源には諸説あるようですが、「我を張る」という説があるそうです。自分の考えを曲げず、やり続けることを「頑張る」と言うようになったのでしょうね。

うつ病の人に「頑張る」という言葉は禁句だそうです。現実の状況を受け入れずに無理をすればするほど苦しいだけ、現実を受け入れて最善を尽くせばそれで良いのだと思います。

我を張って無理をしても、それが良い結果になるとは限りません。今を否定せず、今を大切に生きること。結果が良くても悪くても、素直に生きることが納得できる生き方ではないでしょうか。

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2009/09/17

自分に優しくしてあげたら?

職場のIくん。私の前任のリーダーでしたが、うつになってしまいました。でも、なんとか出勤しています。

不安が増したことから薬を変えてもらってからどうも調子が悪い様子です。強くて眠かったり、弱くて不安だったり、、、。どんなところに不安を感じるか聞いていると、きちんと仕事がこなせてないと言います。

でも、調子が悪いのをわかっていて仕事をさせているんだし、負荷が高ければ上司(私)の責任。人それぞれで、得手不得手があるんだし、みんなで助け合えば良いんじゃない。

でも、そんなことを言っても納得しない様子。

じゃあ、自分の子供が成績が悪かったり、入試に失敗したら、「お前はだめだ!」って追い出すわけ、そりゃ苦手なこともあるだろうけど、得意なこともあるだろうし、そんなことで見捨てないでしょ。

子供に対するように自分に優しくしてあげたら?自分を受け入れてあげたら?どうせ年をとったら思うようにできないんだし、その時々の自分を受け入れて、そこから考えたら良いんじゃない?

昔だったら全てを理解して仕事ができたけど、今はみんなで協力しないと仕事ができないでしょ。全てが完璧でなくても、得意なところがそれなりにできればいいんじゃない。

そんな話をすると、少し笑ってくれたけど、少しは元気になったかなぁ。

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2009/03/01

希望を失うか、希望を見出すか - 心のともしびと灰の授与 -

機関紙「心のともしび」3月のテーマは「希望」です。トップページの曽野綾子さんの「神に救いを求めれば」を読んで考えさせられました。

希望を失うのは、人間の運命はすべて自分の力の結果だと信じている人の特徴かもしれない。実は私たちが自分の運命について関与しているのは、ほんのわずかな部分だけである。

確かに私が生まれてきたことも、生まれながらに持っている長所や健康も、すべて与えられたもの、神様からの贈り物です。その神について曽野綾子さんはこう述べます。

ただし神は、不運や苦しみを与えることがある。一見残酷に見える苦しみによって、その人が以前には考えられなかったような見事な人に生まれ変わることを予測しているからである。

だから人はいつでも変わることができる。絶望から希望を見つけ出すことも不可能ではない。神に助けてくださいと救いを求め続けて、絶望が希望に変わった例は決して少なくないのである。

神から離れて自分一人で生きているつもりになるから、希望を失ってしまう。逆に、神を信じ追い求めれば、希望が見出せるようになるのですね。今日のミサの回心式では、灰の祝福と授与がありました。

「回心して福音を信じなさい」

という言葉が心に響きました。

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2009/01/10

生きてることが辛いなら

去年の話題ですが、森山直太朗さんの「生きてることが辛いなら」の歌詞(リンク先は歌ネット)に賛否両論(リンク先はJ-CASTニュース)だったようです。

「いっそ小さく死ねばいい」と言うのが1番にあって、確かにショッキングです。でも、歌詞全体を読むと、死ぬ、泣く、悲しみを見る、そして最後は「嫌になるまで生きるがいい」と変化していて、最初の言葉が逆説的に書かれているのがわかります。

この歌詞を聞いて、私が最初に思ったのは、「小さく死ぬ」なんてできないということです。誰かが亡くなったなら、親や恋人でなくてもとてもショックです。たまたま通りすがりに見かけた人でも、その人が暮らしたところや、仕事など、ほんの少しの共通点があるだけでも、自分に何かできたかもしれない、そう思ってしまいます。どんなに静かに死のうとしても大きくしか死ねません。言葉どおりに小さくなんて死ねないのです。

次に考えたのは、辛くなくなる意味の「小さく死ぬ」と言う意味です。気持ちを「押し殺す」などと言う言葉がありますが、余計に苦しくなってしまいますから、押し殺すのでは無いのでしょう。苦しい気持ちだけ死ななければなりません。自分は死なず、苦しい気持ちだけ死ぬ。そんな事が出来たら、どんなに幸せでしょう。でも現実を考えると、それは簡単なことではありません。

そこで思い浮かんだのは、キリスト教です。キリスト教は洗礼を受けて新しい命をいただく宗教です。苦しかった自分が死に、未来への希望が生まれるのでしょう。でも、キリスト教だけでなく、他の宗教も苦しみを死なせることができると思います。なぜなら、人間はもう何千年も苦しんできたからです。

苦しむ人は宗教をもてば良い。そんなことを言うつもりはありません。ただ、あなたの感じている苦しみは、あなただけじゃない。誰もが苦しんで生きているけれど、きっと助かる道がある。そう思うのです。

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2008/08/14

「幸い」とは絶対的な祝福の世界

ツッチーさんにいただいたコメントをきっかけに見つけた晴佐久昌英神父説教を読みました。この説教はいわゆる平地の説教の一部である「幸いと不幸」(ルカ6・17,20-26)という福音に対して話されています(良い説教なのでぜひ読んでください)。この中で、晴佐久神父はこんなことを言われています。

ちょっと幸せになったら「もっと幸せに」。もっと幸せになったら「でもまだ隣の家の方が幸せ」と。これでは、幸せなのになおも幸せを求めて苦しみ、不幸せを恐れるという「幸せ地獄」です。

イエス様の「幸い」っていうのは、どうもそういう世界とちょっと違うようですね。「幸い」っていう言葉は、日本語の語源は「さきわう」ですから、咲いて湧いてあふれ出てきて、豊かに満たされるということです。条件抜きに全てにおいて言える言葉です。これには「不幸い」っていう反対語はありません。

幸いは一方的に与えられてその人を満たしている祝福された状態で、「幸せであればもちろん幸い、不幸せであってもやっぱり幸い」、そう言えるような絶対的な祝福の世界です。そのまことの幸いの世界を信じられた時に私達は幸せ・不幸せという相対的な、いわば「幸せ地獄」から抜け出すことができます。

人というのは、ついつい不幸と思ってしまい苦しみますが、愛されていることを知っていれば、すでに幸せであったことに気付かされます。この説教を読んで、ハヤット神父のこころのともしびTVの初回「人生の目的(動画)」を思い出しました。

人は「もっと幸せに」とついつい思いがちですが、欲望を満たしたからと言って幸せとは限りません。ハヤット神父は、たまにいただくアイスクリームが好きで、いつかおなかいっぱい食べたいと思われていました。しかし、それが実現したとき、苦しいだけだったそうです。

晴佐久神父のいわれるように、貧しいから幸いではなく、「あなたがたは幸いだ」という祝福なのだと思います。満たされたなら恵みを感謝すれば良いし、満たされないなら少しの幸せが花のように咲くでしょう。今、満たされないこともやはり幸せなのだと思いました。

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2008/07/27

ニーチェに現代人の苦悩を見る - 「キリスト教は邪教です!」の感想 -

ニーチェ(リンク先はWikipedia)の「アンチクリスト」の現代語訳「キリスト教は邪教です!」を読みました。ニーチェと聞くと凄く難しいような気がしますが、この本は訳が読みやすくエッセイのように読むことができます。刺激的なタイトルと文体に興味を持って買ってしまいました。

この本を読む際には、時代背景を考慮すると良いと思います。フランス革命から100年がたち、フランスでは厳格な政教分離が確立していました。一方、ニーチェの生まれたプロイセン王国の国家宗教はキリスト教(ルター派)でした。このため、周辺国との戦争やカトリック教会への抑圧政策が行われていました。

当時はエキュメリズム(リンク先はWikipedia)といった考えもなく、宗教・教派間で対立していた時代です。また、非ユークリッド幾何学(リンク先はWikipedia)がようやく生まれた時代でした。

そんな時代のニーチェは、宗教、特にキリスト教に頼らずに生きていくことを勧めています。いわく、同情の宗教であり生き残れないはずの低レベルの人間を世の中にあふれさす。イエスの教えをゆがめ、うそで塗り固めた。敵に屈服する方が一番良い選択だと考えるようになったときに生まれた宗教。平等主義は悪魔の思想。科学と対立するので戦争を起こす。などなど、言いたい放題です(書ききれません)。

これらの思想は、ニーチェの「権力への意志」や実存主義につながる利己主義の肯定、向上心といった言葉で表せると思います。しかし、「坊主憎けりゃ袈裟までも」的な語り口は、それ以上の憎しみを感じさせます。

子供のころに牧師であった父を失った悲しみなのか、教会への失望なのか、持論へのこだわりなのか、尋常ではない必死さすら感じました。

実は、この作品を描いたあと、ニーチェはほどなく発狂します。その原因は、梅毒、脳腫瘍、狂気の哲学によってもたらされた精神的失調など、諸説あるようですが、私はその書きっぷりにニーチェの苦悩を感じてしまいました。

ニーチェは科学は正しいと思っているようです。しかし、答えは一つではありません。人はついつい科学的に証明されたものが正しく、唯一の答えだと思いがちですが、そんなことはありません。統計処理で判定したなら、一定の危険率(はずれの確立)を含みますし、ユークリッド幾何学は一つの答えですが、非ユークリッド幾何学という別の答えも存在します。ニーチェの「権力への意志」が答えだとしても真理ということはなく、唯一の答えではないと思うのです。

この本の巻頭の「訳者から」には、多くの戦争に関わった米国のことが、この本によって腑に落ちるだろうとされています。確かにそんな面もあるかと思いますが、原理主義的な宗教はキリスト教に限らず、危険なものではないでしょうか。

キリスト教には色々な教派、グループがあり、無教会主義などというものまで存在します。教会も持たない人たちまでが、戦争を求めると言うのでしょうか。カトリックや他の教派にも宗教的包括主義をとるものがあるのに、訳者の言葉もニーチェと同じく一面的だと思いました。

ニーチェの思想が社会を変えたことは間違いないと思います。間接・直接的にキリスト教と政治の癒着が少なくなり、個人の自由が尊重されるようになったのでしょう。実存主義の先駆者として、その後の哲学に大きな影響を与え、カトリックのエキュメニズムを宣言した第2バチカン公会議にも間接的に影響を与えたかもしれません。

しかし、ニーチェの考え方は厳しすぎます。(時代背景から必要だったのでしょうけど)神を否定し、聖書学によらないパウロ批判を行い、ルターまで否定しています。ニーチェの視点で向上心を持たないものをすべて敵視し否定する態度に、現代人の苦悩に通じるものを感じました。

現代社会は常に拡大成長が求められ、会社でも出世を目指すことが前提で仕組みが作られています。つねに頑張れ、頑張れ、負け犬になるな、そんな厳しさをこの本に感じました。人間は誰もが失敗を犯します。失敗したときは負けを認め、心の平安を求めたいというのが人間のありのままの姿ではないでしょうか?

人生の価値は一つではありません。人生には様々な答えがあり、それらのバランスを取って生きていくことが大事なのだと思いました。

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2008/07/19

私にとって神とは - だいじょうぶ -

人生を生きていく上で信仰が必要かと問われたら、あなたならどう答えますか?

たぶん、信仰を持たなくても生きていけると思います。少なくとも、私も40年以上は生きてきました。でも、人生の苦しみの中で「だいじょうぶ、なんとかなる」と安心して生きていくには、信仰がないとつらくなってしまいました。

信仰を持たずに一人で生きるには、プライドが必要なのですよね。自分の視点で世界を見て、すべてを判断しなければなりません。自分が正しいという変なプライドがなければ、自信を持って判断することができません。

しかし、人間は失敗をします。うまくいくと思っていたことが、うまくいかないこともあります。その時にプライドはズタズタになり、自分のことを批判してしまいます。あるいは、崩れかけたプライドを何とか守ろうと、犯人を捜し出して批判を始めます。でも、自分や他の人を批判しても、何も解決しません。苦しみはどんどん増していきます。

もちろん、そんなネガティブループに入らずに「まあ、そんなこともあるさ」と思える人もいるでしょう。色々なトラブルを楽しめる人もいるでしょう。私も普段はそんな感じでしたが、あるとき限界が来ました。

限界がきた私に必要だったのは「だいじょうぶ」という安心感でした。どんな苦しみの中でも、この苦しみにも意味があると思える安心感です。自分の思い抱く理想の状態ではないけれども、なんとか乗り切れる、人の役にも立つことができる、それでいいじゃないか、と自分に優しくなれる気持です。

それが信仰というものでした。神さまなんてファンタジーだと思っていましたが、その神さまが必要でした。今起きていることが偶然ならば、未来も確率的に発生します。しかし、今起きていることが必然ならば、未来は希望にあふれています。神さまを認めず、未来を悲観することも可能ですが、神さまを認めてポジティブに生きたかったのです。

神さまを信じることができても、その存在を証明することはできません。しかし、神さまの「だいじょうぶだよ」という言葉を感じながら、信仰をあかしすることはできると思っています。

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2007/06/05

幸せなひととき

いつも楽しい「かみさま とだらば」(神様ありがとうの意味)ですが、今回の記事はハッとさせられました。仕事帰りのひとときを教会で過ごされたという記事ですが、「そういえば、祈りを忘れていたなぁ」と思いました。

いや、それらしいことはしています。御聖堂に入るときに聖水をつけて十字を切ったり、寝る前に主の祈りの言葉を唱えたり、もちろんミサでも、、、形だけはしていました。

久しぶりにDVDを買って河島英五さんの「何かいいことないかな」(歌詞はYahoo!ミュージックで読めます)などを聞いて、そうだったな、苦しかったな、でも今は大丈夫!などと考えていいました。でも、それは今を幸せに生きようと、自分に対して今が幸せだと思いこませようとしていたのです。

わたしは仕事柄もあってか、ついつい理屈で物事を考えてしまいます。幸せというのは考えるのではなくて、感じるものなのですよね。神さまを信じて、何もかも忘れ、祈れば良い、心をさらけ出せば良いのですね。

職場ではお祈りすることなどなかったのですが、食事の前にこっそりとお祈りしました。お祈りの後のお弁当は、いつもより幸せな味がしました。

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2007/04/26

批判せず、怒らずに、しみじみと

批判したり、怒りの気持ちが湧くは、自信がないからではないかと思っています。自信といっても、すべてを成功させるというようなおごった気持ではなく、どんなことでもポジティブに受け入れることができる自信です。

人は一人で生きていかなければならないと思うと、苦しく、心配で、不安になります。不安になると独善的になって、自分は良いもので、ほかの人が悪いと思いたくなります。ついつい周りの人の欠点を見つけては、批判してしまいます。相手を批判することで、自分の価値を高めたいのです。

中には、本当に問題のある人もいるでしょう。自分は悪くないのに思い通りにならず、足を引っ張る人に対して、怒りの感情が湧いてきます。でも、怒る必要なんてないんです。

相手に怒る価値がないわけではありません。注意しても無駄というわけでもありません。ただ、感情を高ぶらせる必要が無いだけです。

この世のものはすべて被造物です。すべて良いものです。意味のないものはありません。目の前の気に入らない人も、足を引っ張るあの人も、すべて良しとされた(創世記1章)大事な被造物です。

タレント(技能、才能)という言葉の語源になったタラントンのたとえ(マタイ25・14-30)というお話があります。

ある人(神様)が僕(しもべ)にお金を預けます。人によって渡される金額は違うのですが、僕たちは頑張ってそれを増やしてほめられます。しかし、1タラントンだけ預けられた僕は、無くしては大変だと増やそうとせず、(天国から)追い出されてしまいます。

批判したり、怒ったりするときは、この1タラントンを預けられた僕のように守ることだけを考えているのではないでしょうか。

2タラントン、あるいは5タラントンを預けられた人は、それを元手にお金を増やしました。これは、無くしてしまわない自信があったからではないと思います。預かったタラントンをポジティブにとらえていて、仮に無くなってもその状況を受け入れる自信があったのではないでしょうか。

1タラントンを預かった人も「1タラントンしかない」ではなく、「1タラントンもあれば大丈夫」「必要なものは与えられる」と考えていれば、追い出されることもなかったでしょう。

必要なものは与えられます。失敗することも、受け入れ難い状況も、すべて意味があることです。怒りにとらわれたり、自分はだめだと思っていては能力が生かせません。何があってもしみじみと状況を受け入れることが大切なのでしょう。

この「必要なもの」というのが、実は難しいですよね。自分からみて「必要なもの」を考えると、ついつい神様に不満を抱きそうになります。でも、その思いをわがままと思えた瞬間に心の平和が訪れるのでしょうね。

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