2011/11/26

優しさは信仰の賜物

全知全能の唯一神を認めるということは、同時に「人間は決して完全ではない」ということも認めることだと思います。このことが苦しみを和らげて、優しさを与えてくれます。

もし、人間が完全になれるなら今の問題点を直し、完全な人間になるべく高みを目指すべきだと考えてしまいます。これはとても厳しい生き方です。

「向上心のないやつはバカだ」という言葉は、夏目漱石の小説だったと思いますが、自分の気持ちを捨てて、あるべき道を選べという義務感を感じさせようとする言葉です。

ルールを守っているなら、自分の気持ちに素直になることに何のためらいが必要でしょうか?自分に厳しくある必要はありません。もちろん、自分を甘やかすことが良いとは思いませんが、誠実に生きていればそれで十分だと思います。

もし、人間が完全になれると考えたなら、2つの問題があると思います。

一つ目は、自分が完全であると錯覚することです。完全になれないとすればそのような錯覚は生じないのですが、バリバリ仕事をしているとついつい勘違いしてしまいます。そして、強気に出たが故にたまたまうまくいくこともあって、さらに誤解してしまう。そして、それはいつかバベルの塔のように破綻して、大きな絶望感を味わうことになります。

二つ目は、人にも厳しくしてしまうことです。自分が完全な人間を目指すだけなら良いのですが、他の人にも完全を求めてしまいがちです。人を見るにつけ、ここがだめだ、あそこがだめだ、と減点法で見てしまいます。悪いところだけ見て、良いところは見逃してしまい、いつしか人格まで否定してしまうかもしれません。そうなると、人間関係がうまくいくはずがありません。

このようにうまくいかなくなるのは、自分やほかの人の能力や努力が不足しているからではありません。もちろんそういう側面もあるかもしれませんが、見方を変えたなら別の世界が見えてきます。

人間は誰しも完全に離れない。完全ではない代わりに、それぞれが生きていくために必要な能力が与えられている。その能力を生かして誠実に生きていけばよい。そう考えてみてはどうでしょう。

自分が完全になれないとすれば、自分一人でトップに立つことはできないでしょう。仮になれたとしてもそれは一時的なものでしょう。そこで、なすべきは自分の能力を伸ばすことと、他の人に協力してもらって物事を進めることです。

もちろんトップに立てるかどうかはわかりません。その組織にとってあなたがトップにふさわしいなら自然とその立場になるでしょうし、そうでないならそれなりでしょう。

その生き方はとても素敵だと思います。自分が上に立つために勝ち続ける必要もなく、人に推されて上に立つのです。追い落とされる心配もなく、皆の協力の下で物事を進められるでしょう。もし、上に立つことがなくても自分の能力を組織に生かすことができるのですから、それなりの充実感を感じられるでしょう。

そして、大きく変わるのは周りの人に対する見方です。自分が完全な人間になれないのですから、他の人に完全を求めるのはお門違いです。他人に欠けているところがあるなら、それを教えてあげるか手伝うかしかありません。

そう思うと、他人の失敗は自分の失敗にないます。うめく教えたり手伝うことができないから、その人は失敗するのです。その人が悪いのではなく、あなたのアシストに問題があったのです。

「XXできないとだめじゃないか」

という言葉が

「XXできなかったのは、私も悪かったね」

という言葉に変わります。

さらに、どうすればうまくいくかと考えることもできるでしょう。不完全な自分が、不完全な他人と共に、どのように協力すればうまくいくのだろうと考えてみてください。

自分ならこれはできる。あの人ならこれが得意そうだ。これは誰もわからないから、みんなで考えよう。そのように、自分を中心とした視点から、組織からの視点で見ることができるでしょう。その途端に、物事がうまくいきだすかもしれません。

今まで駒として見えていた人が、生き生きとした人に見えてくるかも入れません。短所として見えていたことが長所に見えるかもしれません。どう対応したらよいかわからなかったことに一筋の光明が見いだせるかもしれません。

でも、どうしてもうまくいかないこと、難しいことも当然あるでしょう。そんな時も落ち込む必要はありません。なぜなら、人間は完全ではないのです。失敗して当然で、うまくいくことが奇跡なのです。成功は喜び、失敗は次回の肥やしにすればよいのです。

神に感謝!

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2011/10/10

救われて6年

父の死をきっかけに遠藤周作さんの著作を通してキリストを知り、傲慢な自分の心が解き放たれて6年がたちました。

教会の入門講座を受ける中で、腑に落ちなかったのは

「洗礼を受けて楽になると思ったら大間違いだ!もっと苦しくなる。」

神父の言葉です。当時はその意味が良くわかりませんでした。今にして思えば、洗礼は神の国に入るよう努力する約束で、洗礼を受けたからと言ってそれがゴールではない。ということなのでしょう。

洗礼を受けることで罪は清められますが、罪を犯さない人にはしてもらえません。今まで通りただの人ですから、人のことをうらやましく思ったり、欲深かったり、他の人もしているのだから、などという思いは昔のままです。そんなときに、これはだめだ!これは神様の思いではない!などと気付いてしまうわけです。したくてもできないし、もし、判断を誤って罪を犯したなら、その時の自己嫌悪は相当なものです。

洗礼を受けて3年ぐらいはそんなことはありません。毎週教会に行って、いろいろ奉仕して、とにかくこれまでの生活を改めようとしますから、心配はありません。問題は3年を過ぎてからです。

かつて「信仰とは神様を1番におくことだ!」と教わったことがあります。もちろん、神様の思いは優先します。しかし、神様が与えられたチャンスと、共同体での奉仕を選ぶなら、どの内容にもよりますが私は前者を選びます。さらに、ミサに与ることや赦しの秘跡に与ることとなってくると、どんどん難しくなってきます。

また、自らの信仰告白をどうするかという問題もあります。人前で祈るがごとく常に表明するのか、周りの人を意識しながら、表明しないものの隠さないのか、人それぞれの状況や考え方によるでしょう。私は、普通に生きながらもキリスト者であること、表立っては信仰告白しないが遠慮もしないし、隠しもしないようにしています。

まあ、今までは自分の気持ち通りに生きていたものが、こんな風に色々と考えないといけなくなるのですから、そりゃ大変です。かつて、とあるシスターが「終身請願してしまったからしかたない」といった表現をされて、驚いたことがあります。でも、今ならなんとなくわかります。

私は、キリストの負けて洗礼を受けてしまったのです。私は「あなたに従いますと」神様と約束したのです。色々迷いや悩みがあっても、正しい道は神様の示す道だと知ってしまったのです。どんなに苦しくても、それ以外の道は選べないのです。なzなら、真理を知ってしまったのですから。

それは、楽な道ではありません。とても苦しい道です。でも、昔とは違う苦しみです。神様に負けた時のような、すがすがしい苦しみです。なんか損をした気持ちになることもありますが、その先に主の平和があることを知ってしまったのです。

人が神に従うことは苦しいですが、その先には喜びがあるのです。

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2011/01/09

だいじょうぶ

NHKの朝の連続TVドラマ「てっぱん」の中の言葉です。駅伝ランナーが足をけがして落ち込んでいるところを「だいじょうぶ」と主人公が励ましていました。

どうしようもない時に声をもらうなら、どんな言葉がうれしいでしょうか?

「頑張って!」そんな言葉をかける人もいるでしょう。少し前向きな時に言われたなら嬉しいかもしれませんが、どうしようもないときに言われるとつらいかもしれません。頑張りたくても頑張れないので苦しいのですから、、、。

「あなたなら大丈夫!」そんな言葉もあるでしょう。子供の時なら素直に聞けたかもしれません。でも、たとえ家族であっても「何がわかっているんだ!」そんな気持ちを抱いてしまうでしょう。

ドラマでは何も考えず「だいじょうぶ」そう言っていました。なぜとか、どうしてとか、そんなことは関係ありません。とにかく「だいじょうぶ」そんな脳天気な気持ちが落ち込んでいるときには必要なのです。

今日は河原町教会で久しぶりにミサに与りました。福音では、洗礼者ヨハネからイエス・キリストが洗礼を受け、

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3・17)

と言う声が、天から聞こえました。これは、イエスが救世主であることを示しているそうです。

晴佐久神父の「だいじょうぶだよ」という本がありますが、この「だいじょうぶ」という気持ちを抱けるのは、神様の恵みです。すべての物事には意味があり、世界を完成させるための神様の意思です。無駄に苦しいことはなく、それは喜びにつながるものです。

年をとるといろいろな苦しみがあり、ドラマの主人公のように純粋な気持ちで「だいじょうぶ」とは思えません。でも、神様の存在を認めることができるなら、ぎりぎりのところで「だいじょうぶ」と思えます。

たいした信仰ではありませんが、私にとっては大切な信仰です。

(聖書の引用は、日本聖書協会 新共同訳)

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2010/10/24

私の信仰

ある信者の方にコメントした内容です。
素直な気持ちが書けたので、残しておきます。

キリスト教が楽なのは、なんでも神様にゆだねてしまえば良いところです。
良いことも悪いこともすべて神様のご意思、ゆだねたのだから受け入れる。
きっと良いことにつながるのだと信じる。それでよいのです。
もちろん、常にひたむきでないと追い出されれてしまいますが、
「サイの角」のように一人で生きる必要はないのです。

犀(サイ)の角(ツノ)はこんな意味です。

  順心寺web: コラム:犀の角のように

(サイの角は「聖☆おにいさん」で知りました)

無理して歩むことなく、足のともし火を頼りに、明日のことを思い煩わず、
しかし、しっかり考えて、まじめに歩んでいれば、
良いこと(と思えること)が向こうからやってくるようになりますよ。

それは端から見れば何でもないことかもしれません。
でも、何でもないことを幸せと感じられる。ゆだねた結果だと信じられる。
そういった宗教なのだと思っています。

ちょっと、説教くさかったかな、、、

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2010/10/11

遠藤周作さんの魅力

私が洗礼を受けるきっかけは遠藤周作さんの作品でした。最初の出会いは、学生の頃にTVのCMで狐狸庵先生と紹介されていた頃です。「ぐうたら」という言葉が多用される多くのエッセイを読んでいました。

時は流れ、父が亡くなり仏式で葬儀を終えて、妻が言いました「仏教だと気持ちが入らない」と。死んでしまった後のことですから私は何でも良かったのですが、当時、妻がカトリック教会に通いだしていたので、ちょっと興味がわきました。

インターネットでちょっと検索して、遠藤周作さんの入門書、解説書があることを知りました。読んでみると、これまでのイメージが変わりました。カトリックというと

  • ハイソサエティ
  • 敬虔な
  • 凛とした

というイメージがあるのですが、なんとなく、深く考えず、洗礼を受け、ゆるしの秘跡(いわゆる懺悔:ざんげ)でも「あの喧嘩のことは覚えざる罪な」とか、なんか適当というか、まざにぐうたらな感じがあります。

なんじゃそりゃと思いながらも、わかった気がしないので「イエスの生涯」や「キリストの誕生」を読み進めて、ついに神様を感じてしまいました。

人間というのは大したもんじゃないのですね。自分勝手で、何も分かっていないし、悪いことばかりしているし、十二使徒と言われる聖人たちも、神様を感じるまでは最初は大した信仰を持っていなかったのです。

それに対比して、イエスははじめからキリスト(救世主)だった。最初から最期まで完全だった。その行いに勝る人間は誰一人いなかった。

そこで気付いたのです。自分ではしっかりやっているつもりでも、大してできていなかった。間違いを犯していた。でも、そんな私でも、最初から神は愛してくださった。

そのことにようやく気付いたのです。それは遠藤さんの信仰のありかたでした。誰がなんと言おうと譲れない信仰です。カトリックにしろ、プロテスタントにしろ、戦争のときはごまかしていたし、誰だって他人に言えないことがある。そのつもりがなくても、人を傷つけてしまうことがある。でも、神様はそばにいる。愛してくださる。

その信仰は、私を救いました。ついつい自分を守ろうとする自分の傲慢さに気付かされました。神と比べれば、私は何もできていなかった。とわかったのです。

人は色々な間違いをするが、どんなことも神様はゆるしてくださる、共に悲しんでくださる。それは、遠藤作品の主なメッセージです。それは遠藤さんの人生にもあった大きな過ち、人を傷つけずに生きられない人間の性、そのことを神を通して知ることによってのみ感じられる救い。カトリックとか、プロテスタントとかではなく、神との直接の関係がそこにあるのです。

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2010/08/28

見えんけど、おる

NHKの「ゲゲゲの女房」で、亡くなった兄弟を思って出てきた

「見えんけど、おる」

という言葉は、色々考えさせられました。

亡くなった人たちや目に見えないものが、そばにいて守ってくれているというお話でした。見えないものではなく、逆に見えるものを考えたなら、それはこのドラマに出てきた「妖怪いそがし」につながるものでしょう。

現代の合理主義の元になっている科学の基本は、観察です。見えるものから法則(仮説)を導き出し、実験によって実証します。見えるものは測定できるので、その量によって豊かさを計ろうとしてしまいます。そしていつしか、それは「豊かさ=幸せ」という考えにつながって、見えるもの、すなわち「お金のあることが幸せ」だという錯覚につながります。

この見えるものはキリスト教では「肉」と呼ばれ、見えない「霊」と対比されます。肉は人を苦しめますが、霊は人に安らぎを与えます。生きていく上での苦しみの多くは、この肉によるものです。物理的な幸せは幻影かもしれません。物理的な幸せは求めても、求めても、ゴールがありません。

心の安らぎは「霊」によるものです。霊を求めるだけで安らぎが得られます。霊は量ではなく、質だからです。物理的な豊かさを捨てることで、質の充実によって心が満たされるのです。

見えるものは物事の一面に過ぎません。見えるものがすべてではないのです。すべてではないものを求めるから満たされないのです。

見えないものの存在は、否定も証明もできません。でも、それで幸せになれるのであれば、存在することにしておけば良い。それで幸せになれるのです。

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2010/08/21

トイレの神様からミサの構成を考える

今日、いつもの病院の待合室で、植村花菜さんが「トイレの神様」を歌われるのを見ていて、ふと気付きました。順番は違うもののトイレの神様とミサの構成は似ています。まずはトイレの神様はこのような構成になっています。

  • おばあちゃんと住んでいたことの想起
  • おばあちゃんの言葉を思い出す「トイレをピカピカにしたら、女神がべっぴんさんにしてくれる」
  • 買い物のこと、責めたこと、ぶつかったこと、一人暮らししたこと
  • 人を傷つけ、大切なものをなくしたことの反省
  • おばあちゃんの病気、おばあちゃんを求める気持ち
  • 亡くなったおばあちゃんの気持ちを考える
  • ちゃんと育ててくれた、恩返ししていない、良い孫じゃなかったのに待ってくれた
  • 感謝、反省、真実への目覚め
  • そしておばあちゃんの言葉を信じてべっぴんさんになれるという希望
  • おばあちゃんのことばを守る気持ちと実践
  • 最後に感謝

これらを見ると、昔のできごとの想起から、感謝、反省、真実への目覚め、希望につながっています。そして最後に感謝で締めくくっています。

一方、ミサの構成は以下のようになっています。

ミサはすでに真理を知っている信者の集まりですので始めに反省をしていますが、大まかな流れは同じです。だからどちらも大切な人を思って感謝することで、感動して未来への希望を持つことができるのですね。

もし、ミサに与(あずか)られたことがないなら、ぜひ近くのカトリック教会行ってみて下さい信仰がなくてもかまいません。きっと恵みがあるはずです。

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2010/08/17

聖母マリア

Takatsukimaria815

日曜は聖母被昇天祭でした。Wikipediaによれば、もともと東方教会(正教会および東方諸教会)が起こりのようです。しかし、東方教会では、カトリックと違って魂のみが天に上げられたとされているようです。

聖母マリアに関しては、プロテスタント教会からは偶像崇拝と批判されたりもしたようです。しかし、カトリックが崇拝するのは三位一体の神だけで、神の母であるマリア様は聖人として崇敬します。

私はかつて「そんなことを言ったって、小さな子供は分かっていないだろう」と思っていました。しかし、所属教会の横にある幼稚園の教室にマリア像があり、「まりあさまにとりつぎをおねがいしましょう」と貼り紙がしてありました。

このように、決して神様ではない聖母マリアですが、遠藤周作さんは、神の母性を感じさせる東方教会に対して、カトリックは父性が強すぎるので聖母マリアでバランスをとっていると考えられていたようです。

実際、ゼノさんhがくじけそうになった時にコルベ神父がロザリオの祈りをすすめたように、厳しい修行をするためにはマリアさまが心の助けが必要だったのでしょう。

ミサでは「恵みあふれる聖マリア」の祈りとともにロザリオの祈りの元にもなった「マリアの賛歌」(ルカ1・46-55)でした。このような受け入れがたい状況の中にありながらも、信仰を貫いたことから聖人とされたという解釈が一般的でしょう。

私は、もう一つの面を感じました。イエス・キリストは人でありましたが、神でした。それは最初の異端で中国の景教になったネストリウス派(リンク先はWikipedia)の議論のように、イエス・キリストを神として高めていく中で被昇天が生まれたのではないでしょうか。

そう思うと「(主の)御名が聖とされますように」と聖母マリアに取次ぎをお願いしたくなりました(ちょっと変でしょうか?)。

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2010/05/14

チャンスがいっぱい!

わたしの仕事は技術の進歩が激しいので、新しいことを次々に学ばないといけません。

できることが前提の仕事が回ってきて、「どうしよう!」と思うことも少なくありません。

でも、ふと思うのです。

「これは、神様の与えたチャンスに違いない!」

そう思うと、不思議とやる気が出てきます。

「失敗しても当たり前、このチャンスを生かしてやる!」

そう思って、困難に向き合います。トラブると困るので、会社の人も、お客さんも味方です。何も怖がることはないのです。

わたしの人生はチャンスがいっぱいです。

いつもありがとうございます。他の人にも分けてあげてくださいね。>神さま

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2010/04/12

今日こそ神がつくられた日

日曜日は久しぶりに所属教会で主日のミサに与りました。

答唱は

「今日こそ神がつくられた日~♪」

でした。これは、主日、つまり日曜日のことでしょう。イスラエルの民がエジプトに居る時の労使交渉の結果、旧約聖書の創世記の記述に従って7日に1日は神様に祈りを捧げる日として認めてもらったのです。それが今の主日になっています。

(正確に言うと当時決められたのは、ユダヤ教の安息日である土曜日が休みになりました。その分派として発生したキリスト教が日曜日に定めたのです。ちなみにイスラム教は金曜日です。)

恥ずかしながら、私はこの歌の解釈を間違えたことがあります。

「今日こそ神(という概念)がつくられた日~♪」

上記からすると明らかに間違いですが、この解釈を発展させると興味深い結果が得られます。

宗教は唯心論に基づくものであり、そう思うことが真実になる世界です。神と言う概念は、人間が作ったものに間違いがないですが、そこで真実とされる神は永遠の存在です。神という概念が生まれる前、世界ができる前から存在しているのです。

つまり、神を否定する人に神は存在しませんが、神を認めた人には神は永遠に存在するのです。そうすると、私のように神の存在を否定した人にとって、神はある日突然、永遠に存在するのです。つまり、あらかじめ神が存在していたのに存在せず、ある日突然に永遠の存在として復活するのです。

キリスト教は復活信仰と呼ばれます。これはイエスの復活を信じるという意味ですが、そのことを信じると、壊れていた神との関係が復活するということなのかもしれません。それは、イエスの受難により復活したのであり、受難こそ、神から離れていたわたしたちの罪のあがないであるのです。

このように考えると、イエスの受難を通じて神さまの存在を認めること、それこそが神の復活であり、罪があがなわれることだといえるのです。だからこそ、洗礼で罪が清められるのでしょうね。

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