私にとって神とは - 聖霊とは何か -
前回、三位一体を書いた際に、聖霊がなぜ位階(ペルソナ)であるかがわからないと書きましたが、Wikipediaによると聖霊が神であるりゆうとして、
「聖霊が神の位格でないと考えると、特に新約聖書の宗教的権威性が失われてしまう。」
と書かれていました。確かに旧約聖書は神の言葉を預言者が書いたものであり、モーセの十戒などは、神が直接与えました。イエスさまの言葉を書いたものだとしても、それ以外の神学的な内容は弟子たちと言われている聖書記者が書いたものなので、神が霊的に感化させていないと、聖書でなくなってしまいますね。
今回は、この聖霊とは何かを考えてみたいと思います。正統な解釈は女子パウロ会の解説を読んでいただくとして、私がどのようにとらえているかを書いてみたいと思います。
聖霊は「真理の霊」(ヨハネ14・17)とも呼ばれますが、これが私のイメージに最も近い表現です。もっと言うなら、真理そのもの、あるいは、真理のインスピレーション、という感じでしょうか。
ヨハネによる福音書が、
「言は神であった」(ヨハネ1・1)
と始まるように、言(ことば)は神です。しかも、通常の言葉ではなく、真理の言葉が神だと思います。
そう考えると、聖書の2つの箇所のイメージが広がります。
◎聖霊降臨(リンク先はWikipedia)
「聖霊が降る」(使徒言行録2・1-13)に記されている聖霊降臨は、会堂に集まっていた弟子たちに聖霊が降り注ぎ、皆が様々な国の言葉で話しだした。というお話です。この聖霊降臨の後、弟子たちはイエスの教えをのべ伝えるようになります。
イエスの愛を感じていた弟子たちでしたが、イエスの受難の意味は分かっていませんでした。しかし、聖霊が降臨したとき、真理がわかったのです。生前にイエスさまが語られた言葉、復活後にイエスさまが語られた言葉、旧約聖書に書かれた預言者の言葉、様々な言葉が聖霊によって一つになり、イエスさまこそ救世主であり、神であることに気づいたのです。
相いれない二つの問題に悩んだとき、数学の難しい問題を解こうとして悩んでいるとき、スケジュールに収まりそうにない課題に悩んだとき、システムの構成に悩んだとき、とことん悩んだ後に、ふっと悩みが氷解する時があります。このときの弟子たちもそのような感じではなかったのでしょうか。
イエスが弟子の命を救いたいだけなら逃げれば良かったことです。人間イエスの愛を示すだけなら他の形もあったでしょう。しかし、救世主イエスは人類を救ったのです。
それは、凄い体験だったでしょう。マンガに出てくるように電球が光ったような、目の前が明るくなったような感じだったのでしょう。一度わかりだすと、「そうか、あれも、これも、、」というように、さまざまな事柄がどんどんつながっていったでしょう。異言と呼ばれる、さまざまな国の言葉というのも、色々なことが一つにつながる様子を現したのかもしれません。
弟子たちは、私と同じように愛され、導かれ、確信したのです。
「目からうろこ」の語源となった「サウロの回心」(使徒言行録9・1-19)にも、同じような状況が書かれてます。ユダヤ教の反乱分子であったイエスの弟子たちを、迫害する立場だったサウロ(のちのパウロ)は、主の言葉を聞いて目が見えなくなりました。しかし、アナニアから聖霊を受けると、目からうろこのようなものが落ちて、目が見えるようになりました。
律法学者であったパウロは、弟子たちを迫害するうちに何かを感じたのでしょう。パウロは神を信じていたので、迫害の当初は異端者を裁いているつもりだったでしょう。しかし、どうもおかしい。弟子の命を守っただけのイエスなのに、命を救われた弟子たちは、その命を投げ出してまでイエスが神であると言い続けたのです。
キリスト教の信者の多くは、もともとユダヤ教の信者でした。パウロにとっては、同じ教会に通っていた仲間でした。迫害しながらも、すっきりしないものがあったのかもしれません。できれば許してやりたいという気持ちもあったでしょう。
そのうちに、パウロはどうすればよいか、わからなくなったのだと思います。律法学者である自分の信仰は、本当に神の御旨に沿うものであるか、間違った行いをしていないのか、疑問に思いだすと迫害できなくなったのでしょう。それを聖書では「見えなくなった」と表現しているのではないでしょうか。
パウロは生前のイエスの話と(旧約)聖書の内容を照らし合わせたのでしょう。調べているうちに、疑問はどんどん確信に近くなったのでしょう。そして、ついにアナニアから最後の疑問を氷解させる言葉を聞いたのだと思います。
それは律法学者のパウロにとって、まさに目からうろこ、「そうだったのか!!」という思いに突き動かされ、今にも走り出しそうな衝撃だったでしょう。だからこそ、イエスの弟子になかなか受け入れられなくても、進んで宣教をしたのだと思います。
◎まとめ
聖霊を真理と考えると、私なりに聖書が解釈できました。この解釈は私の体験に基づきます。宗教を否定していた私も、2年前に入門講座で真理を知りました。
創世記のはじめ、人間と神は仲良く暮らしていました。しかし、アダムとイブ以来、人間は多くの罪を犯しました。神は預言者を通して人間を導こうとしましたが、神の思いは果たされませんでした。
そして父なる神は、ついにその一人子イエス・キリストを地上に送られました。イエス・キリストは3年間の公生活の中で神の教えを伝え、とりなしのため人類の罪を背負い、自らをささげられました。そして、神と人類の仲直りが果たされました。
十字架に架けられたイエス・キリストを見て、人々は愛を知りました。そして、それは神の愛であることも知りました。旧約聖書に描かれた救世主をイエス・キリストに重ねることで、神の姿を見たのです。
弟子たちは、イエスに愛され、導かれ、真理を確信しました。私も同じように、イエスに救われ、導かれ、確信しました。私は、私を愛し、救ってくださったイエス・キリストを神としました。
聖霊は真理だと思います。
(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)
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