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2010/10/31

あなたの恵みはいのちに優り

今日のミサの福音(ルカ19・1-19)は徴税人のザアカイがいちじく桑の木に登ってイエスたちを見ていると、イエスが「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 といわれたお話です。

説教では徴税人は人々から嫌われていたこと、そんなザアカイが一人で木に上ったこと、そんな孤独なザアカイに、「ぜひ」泊まりたいと声をかけられました。そんな孤独な状態から「急いで」抜け出しなさいと、愛を示されたのでした。

所属教会の拝領の歌は、典礼聖歌167番でした。この中で

「あなたの恵みはいのちに優り」(典礼聖歌)

と言う言葉がありました。詩編 63・4を元にしたこの歌詞は、ザアカイの受けた恵み、寂しい気持ちでいたザアカイに、批判を恐れず愛されたことを表しているようです。ザアカイは、自分のこれまでの行動を回心してこう言いました。

 「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」

コルベ神父聖マチアスら多くの聖人について、「自己犠牲」という言葉が使われることがあります。しかし実際は、ザアカイのようにイエスの恵みによって得た暖かい気持ちから、これまでの自分を捨てて「そうしないとたまらない」突き上げるような衝動があったのだと思いました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2010/10/24

私の信仰

ある信者の方にコメントした内容です。
素直な気持ちが書けたので、残しておきます。

キリスト教が楽なのは、なんでも神様にゆだねてしまえば良いところです。
良いことも悪いこともすべて神様のご意思、ゆだねたのだから受け入れる。
きっと良いことにつながるのだと信じる。それでよいのです。
もちろん、常にひたむきでないと追い出されれてしまいますが、
「サイの角」のように一人で生きる必要はないのです。

犀(サイ)の角(ツノ)はこんな意味です。

  順心寺web: コラム:犀の角のように

(サイの角は「聖☆おにいさん」で知りました)

無理して歩むことなく、足のともし火を頼りに、明日のことを思い煩わず、
しかし、しっかり考えて、まじめに歩んでいれば、
良いこと(と思えること)が向こうからやってくるようになりますよ。

それは端から見れば何でもないことかもしれません。
でも、何でもないことを幸せと感じられる。ゆだねた結果だと信じられる。
そういった宗教なのだと思っています。

ちょっと、説教くさかったかな、、、

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2010/10/17

新しい挑戦 - 聖書はすごい! -

最近、新しいことを始めました。私はこのブログのほかに、所属教会を紹介するブログ、本業の技術関係のブログを持っています。仕事がやりにくくなるので、これまで本業のブログでは、キリスト教のことは書いていませんでしたが、最近チョットだけ書くようにしています。

ソフトウェア業界の名著の一つに「人月の神話」という本があります。聖書や格言を引用しながら、ソフトウェア開発の難しさの解説をしている本です。

最近、これをまねて、特定分野の記事の最後に聖書からの引用を載せるようにしてみたのです。知り合いから質問されて、マスタードの種と苗が「からしだね」だと説明するなどしています。

一般の方に少しでも興味を持ってもらえれば、と面白半分ではじめました。なので、いつまでも続かないと思っていたのですが、これが結構続いています。

芸人の「なぞかけ」ではありませんが、書いた内容に関連するキーワードを思い浮かべて、インターネットで検索して、聖書箇所から原文にあたって、ぴたっと来なければ翻訳を変えたり英語で探したり、と言った感じです。

今日は、プロジェクトファシリテーションと言われる分野で、みんなのやる気を出させて、作業を責任を持って(コミット)して実施するという内容でした。

まずは、神との契約だからと「聖書 新しい契約」で探しました。はじめに見つかったのはルカの、最後の晩餐のところでした。

食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。
(日本聖書協会 新共同訳 ルカ22・20)   

カトリックの信者にとって大切なところです。でも、ぴたっと来なかったので更に探すと、新しい契約について書かれたエレミヤの預言を見つけました。

しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
(日本聖書協会 新共同訳 エレミヤ31・33)   

なんとなくいけそうですが、一般人にはつらいので英語で探しました。そして、最終的に決めたのは、New Living Translationです。

I will put my instructions deep within them, and I will write them on their hearts.
Jeremiah 31:33 (New Living Translation)

必要な言葉はすべて聖書にあるのだと思いました。そして「すごい!」と思いました。

信仰に入るには「きっかけ」が必要だと思います。一般のブログの中で聖書に触れられたら素敵だと思います。聖書の勉強にもなりますし、皆さんも始めてみませんか?

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2010/10/11

遠藤周作さんの魅力

私が洗礼を受けるきっかけは遠藤周作さんの作品でした。最初の出会いは、学生の頃にTVのCMで狐狸庵先生と紹介されていた頃です。「ぐうたら」という言葉が多用される多くのエッセイを読んでいました。

時は流れ、父が亡くなり仏式で葬儀を終えて、妻が言いました「仏教だと気持ちが入らない」と。死んでしまった後のことですから私は何でも良かったのですが、当時、妻がカトリック教会に通いだしていたので、ちょっと興味がわきました。

インターネットでちょっと検索して、遠藤周作さんの入門書、解説書があることを知りました。読んでみると、これまでのイメージが変わりました。カトリックというと

  • ハイソサエティ
  • 敬虔な
  • 凛とした

というイメージがあるのですが、なんとなく、深く考えず、洗礼を受け、ゆるしの秘跡(いわゆる懺悔:ざんげ)でも「あの喧嘩のことは覚えざる罪な」とか、なんか適当というか、まざにぐうたらな感じがあります。

なんじゃそりゃと思いながらも、わかった気がしないので「イエスの生涯」や「キリストの誕生」を読み進めて、ついに神様を感じてしまいました。

人間というのは大したもんじゃないのですね。自分勝手で、何も分かっていないし、悪いことばかりしているし、十二使徒と言われる聖人たちも、神様を感じるまでは最初は大した信仰を持っていなかったのです。

それに対比して、イエスははじめからキリスト(救世主)だった。最初から最期まで完全だった。その行いに勝る人間は誰一人いなかった。

そこで気付いたのです。自分ではしっかりやっているつもりでも、大してできていなかった。間違いを犯していた。でも、そんな私でも、最初から神は愛してくださった。

そのことにようやく気付いたのです。それは遠藤さんの信仰のありかたでした。誰がなんと言おうと譲れない信仰です。カトリックにしろ、プロテスタントにしろ、戦争のときはごまかしていたし、誰だって他人に言えないことがある。そのつもりがなくても、人を傷つけてしまうことがある。でも、神様はそばにいる。愛してくださる。

その信仰は、私を救いました。ついつい自分を守ろうとする自分の傲慢さに気付かされました。神と比べれば、私は何もできていなかった。とわかったのです。

人は色々な間違いをするが、どんなことも神様はゆるしてくださる、共に悲しんでくださる。それは、遠藤作品の主なメッセージです。それは遠藤さんの人生にもあった大きな過ち、人を傷つけずに生きられない人間の性、そのことを神を通して知ることによってのみ感じられる救い。カトリックとか、プロテスタントとかではなく、神との直接の関係がそこにあるのです。

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2010/10/04

信仰と熱心は違う

久々の桂教会のミサに与りました。ゆるすことが信者には課せられているというお話しでした。

その中で、使徒たちは熱心だったが、あまり信仰していなかったとのお言葉。たしかに昔に比べると熱心ではなくなった私ですが、信仰心は変わっていません。むしろ増したぐらいです。どちらかというと、昔は信仰と言えるぎりぎりだったので必死だったのかもしれません。

「信仰心を増してください」とどんなに願っても、人の力では信仰心は増しません。信仰心は神によって与えられるのです。信仰心が同じなら、それに反する傲慢な心を抑えることしかできないのかもしれません。だから、福音(リンク先は福音のヒント)にあるように、謙虚になることでようやく信仰が見えてくるのでしょうね。

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