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2010/09/26

良い耳

今日は久しぶりに所属教会のミサに預かりました。
ミサの中で歌われた典礼聖歌409番は、こんな歌です。

よばれていますいつも
きこえていますかいつも
はるかなとおいこえだから
よいみみを
よいみみをもたなければ

この歌を聴いて、マザーテレサを思い出しました。マザーは路上に行き倒れる人に主の姿を見たといいます。きっとマザーは良い耳を持っていたのでしょうね。

自分を振り返ってみると、あまり良い耳ではないかもしれません。そばにいるはずの神さまの声があまり聞こえてこない様に思います。自分の心、傲慢な心でしか見ていないからかもしれません。

もしかすると、あまり相性の良くない人、腹の立つ人、苦手な人、許せない人、みんな神様の言葉を話しているのかもしれませんね。

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「なんだ、もう終わりか。面白かった!」by ゲゲゲの父さん

ゲゲゲの女房が終わりましたが、どうしても取り上げておきたい言葉があります。

水木しげるの父親が、最期のときを迎える前に自分の人生の映画を見る夢を見ます。そして、言った言葉が

「なんだ、もう終わりか。面白かった!」

です。今まで「幸せに死ぬ」ということを具体的に考えたことがありませんでした。あえて言うなら、坂本龍馬のように未来を考えながら、前向きに死にたいと思っていました。

しかし、この父親の言葉ほど、幸せな最期はないでしょう。人生に未練や後悔がなく、一言の幸せな言葉がいえるなら、どんなに幸せでしょうね。

私が洗礼を受ける前に神父に言われました。

「洗礼を受けたら幸せになると思ってはいけない。もっと苦しくなる」

そのときは、なぜ、そんな恐ろしいことを言われるのかと思いましたが、実際にそうでした。何が良いことで何が悪いことか分からなければ好き勝手に生きられますが、知ってしまえば良いことを行うのがあたり前で、知らずに悪いことをするだけでも苦しんでしまいます。

だからこそ、死を迎えたときに神の国に招かれて良いものかを考えてしまい煉獄に留まるのでしょうね。

でも、最近はこう思います。与えられた人生、色々な失敗をするだろうけど、正直に生きれば良いのだと。

すばらしい人生を義務感で押しつぶされたなら、つまらない人生になるでしょう。でも、常に喜んで、苦しくても未来に希望を持ち、感謝の気持ちを忘れずに生きれば、それでよいのだと。

色々な出来事に「おぉ、こんなこともあるのか」と素直に受け止め、くさらず、あせらず、「まあ、やれるだけやってみよう!」と生きればよいのだと思います。

落ち込んでも何も変わりません。あせって、無理なことや良くないことをしても、状況は悪くなるだけです。ただ、淡々とより良い道を選べば良いのです。

そうすれば、最期のときに言えると思うのです。

「なんだ、もう終わりか。面白かった!」

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2010/09/19

[入門] カトリックとは

「カトリックとプロテスタント」を説明する予定でしたが、まずはカトリックの説明をします。

カトリックとは何かを考えると、

「叙階を受けた神父が聖変化させたご聖体を、ミサでキリストのからだとしていただく」

キリスト教の教派(仏教で言う宗派)といえるでしょう。

この中で、叙階、聖体というのは秘跡と呼ばれているものです。秘跡とは、目に見えないもの(秘)が、見えるしるし(跡)になるものです。カトリックには他にも秘跡がありますが、この二つは、最初に接するカトリックを特徴といえるでしょう。

キリスト教では、日曜日を主日(しゅじつ)、神さまの日として祝う日になっていて、信者はミサに与り(あずかり)ます。

ミサを司式するのは神父です。神学校(しんがっこう)で一定の教育を受け、神の僕(しもべ)として最も低い者になることを宣言した人です。

ミサでは、歌にあわせて神を賛美し、聖書を読みます。旧約聖書、手紙など福音書以外の新約聖書、イエスのことばと行動を記した福音書が順に読まれ、福音書について神父が説教をします。説教といっても、時代背景や教えのの解説、関連する経験談、などなど色々で、人生についての優しいお話が多いです。

その後に行われるのが、聖書にある風景の再現です。ダビンチコードであった「最期の晩餐」のシーンです。

「これは私のからだである」(マタイ26・26)

とイエス・キリストがいわれたパンを、本当のキリストであると信じていただきます。神父が下を向きながらキリストを思い出して、集まった会衆に見せて聖変化させて、ただのパン(というかウェハースのようなもの)をキリストのからだに変化させます。そして、皆でいただきます。もちろん聖変化によって物理的に何も変わりませんが、それを神様と信じることで、神様との一致をはかるのです。

聖体拝領はカトリックの大人の信者のみに許されています。聖書には、「5つのパンと2匹の魚」で有名なお話があります。イエスに従う人たちが増えたのに、「5つのパンと2匹の魚」しかなかった。でも、神さまが分けたらみんながお腹いっぱいになった、というお話です。

これからすると、けちなことを言わずに、誰とでも分け合っていただけば良いと思われるでしょうが、そうはいきません。ご聖体が秘跡であるということが関係しています。

ご聖体は、キリストのからだと信じるからこそ神そのものですが、信じない人にはただのパンです。信じない人にご聖体を与えることは信仰を否定することにつながるのです。だからこそ、聖体拝領の際に、「キリストのからだ」と言われて

「アーメン」(そう信じます)

と答えるのです。

カトリックというのは、キリストを信じるだけでなく、キリストと一致して生きていこうとする宗教なのです。だからこそ、信仰を誓う洗礼もミサ、結婚もミサ、葬儀もミサ、七五三も成人式もミサ、敬老の日だってミサなのです。

[入門]タグのついた記事は、カトリックに興味を持つ方へ、一信徒であるさかばの個人的な解説をしています。より詳しく知りたい方はお近くのカトリック教会を尋ねてください。[入門]タグの記事は、カテゴリ「やすらぎへの道」に保存されています。

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2010/09/15

「目の前のことだけを考えていた」

ドラマ「ホタルノヒカリ2」最終回で、主役のホタルが、おばあちゃんの愛に包まれていた子供の頃を思い出して言いました。

「目の前のことだけを考えていた」

聖書には

「明日のことまで思い悩むな。」(マタイ6・34)   

とありますが、これは

「愛を感じなさい。だいじょうぶ。目の前のことだけを考えなさい。」

ということなのだと思いました。

(聖書の引用は、聖書協会 新共同訳)

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2010/09/12

ゆだねることは受け入れること

今日のミサの答唱詩編のことば(詩編51・19)

  神よ、私のささげものは打ち砕かれた心。

この言葉は、日々苦しみを感じている信者の心に響いたのではないでしょうか。どうしようもない状況の中で、苦しみを神様に捧げる。きっとそれを神様は受け入れてくださり、私に元気を与えてくださる。そのような言葉なのでしょう。

それは自分の苦しみを神様にゆだねることだと思います。自分ではどうしようもない気持ちを神様に預けてしまい、お任せするのです。

ゆだねるというのは、直接判断せずに任せた方に従うということです。どうなってもかまいません、どうか私の気持ちを分かってください。そういう意味です。

ところで、私の人生は私のものですが、備えてくださるのは神様です。うれしいことも、悲しいことも、みんな神様が備えてくださったのです。苦しいときには試練のように感じることもあるでしょう。でも、それも私たちが乗り越えられる範囲で、神様が備えてくださったものです。

人生の苦しみを神様にゆだねること。それは、神さまの備えてくださった人生を受け入れることだと思います。あなたの与えた試練、私は受け入れます。だから、苦しみを分かち合ってください。そのような願いです。

きっと、神さまは「そうか、そうか」と分かち合ってくださるでしょう。そして共に苦しみながらも、喜んでくださるでしょう。それは、私たちは信じているからです。

与えられた苦しみから、決して逃げず、向かい合い、くさらず、乗り越えれば、それはきっと人生の糧となり、豊かな人生を歩めることを。

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2010/09/05

[入門] キリスト教とは

キリスト教とは三位一体の神を信じる宗教です。三位一体とは、神は創造主である「父」、父の「子」であるイエス・キリスト、昇天したイエス・キリストに代わって私たちのそばにいる「聖霊」という3つの位格(人格のようなもの)で統一された一つの神であるということです。

キリスト教は、イエス・キリストが神であるとするだけでなく、他の位格と完全に一致しているという一神教(唯一の神を信じている宗教)です。全知全能の唯一の神によって世界が作られ、完成に向かっていることを信じています。

このことは旧約聖書に書かれています。旧約聖書は、キリスト教だけでなく、ユダヤ教、イスラム教でも聖書とされています。旧約聖書は元々ユダヤ教の聖書として書かれていて、イエス・キリストの扱いによってキリスト教とそれ以外の宗教が分かれています。

イエス・キリストとは、ナザレにうまれたイエスがキリスト(救世主)であると言う意味です。旧約聖書に書かれた救世主がイエスであるとするのがキリスト教、イエスは預言者だとするのがイスラム教、ただの人、つまり救世主はまだ来ていないとするのがユダヤ教です。

この違いは、これらの宗教が「啓示宗教」であることによります。人間は神に作られ、様々な罪を犯していましたが、神の言葉を預かる「預言者」によって啓示を受けて、世界は完成に向かいます。イエスが神であるなら、それ以上の預言者はいないので、キリスト教のようにそこで解釈が終わります。もしイエスが預言者なら、イスラム教のように新しい預言者によって新たな啓示で新しい解釈が行われたり、ユダヤ教のようにそれまでの解釈が発展することになります。

キリスト教では、イエス・キリストを神とします。人の部分と神の部分があるのではなく、神であるイエス・キリストが人として生まれたとして、「受肉」と表現します。

イエス・キリストは、それまでの預言者が伝えてきた教えを完成させるため、そして神の教えを正しく理解しない人類を導き、救うために、「受肉」によって地上に降臨されました(もちろん、神の国が物理的に空の上にあるわけでなく、概念的な意味で降りてこられました)。

その教えは「福音」と呼ばれ、弟子たちの記した書物と共にまとめられています。それまでの神との契約を旧約(古い契約)として、新しい契約をまとめた書物なので「新約聖書」と呼ばれています。

福音はキリストを信じるものにとって、大切な神さまの言葉です。苦しみの中でもがくことの多い人間にとって、あしのともし火と言えるものです。このカテゴリ(やすらぎへの道)でも、多数紹介することになると思います。

次回は「カトリックとプロテスタント」について説明する予定です。

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[入門]タグのついた記事は、カトリックに興味を持つ方へ、一信徒であるさかばの個人的な解説をしています。より詳しく知りたい方はお近くのカトリック教会を尋ねてください。[入門]タグの記事は、カテゴリ「やすらぎへの道」に保存されています。

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「やすらぎへの道」始めます

神の恵みを感じて5年がたちました。その喜びからブログをはじめました。最初の頃は、入門講座の内容や、初心者だからこそ感じる事柄を書いていました。そして感動の洗礼のあとも続け、徐々に日々の出来事や新しく気付いたことを書くようになりました。

しばらくすると、自分がどのようにキリスト教と折り合いをつけるかが重要になり、私にとってのキリスト教を語りました。

そして最近は忙しくなり、信仰心はそのままのつもりですが、ミサに行くこともままならず、入門講座や分かち合いに参加することも難しくなりました。そのような中で、ブログの更新も少なくなっています。

少ない時間の中で、どう神さまの道具になるかを考えていたとき、マザーテレサの召命の話を思い出しました。シスターになるかどうかの悩んでいたときに、神父の「喜びを感じるならそれが召命」という言葉に従い、マザーは神の道具になりました。

私も所属教会の中で本来すべきことがありますし、日曜のミサや分かち合いも大切です。しかし、私だからこそできること、喜びを感じること、役に立てること、色々考えたところ、ある結論に至りました。

それは、私が喜びを感じたこと、学んだこと、生きる糧になったことを、他の人に伝えることが一番大切だということです。最初の頃のような新鮮なことは書けませんし、折り合いをつけようとしていた頃のオリジナリティも少ないと思います。しかし、いまだからこそ語れる「程よいキリスト教の説明」ができると思うのです。

もちろん、先輩方に比べると知識も大したことはありませんし、間違いもあるでしょう。でも、私は、読者に「もうだいじょうぶですよ」と伝えたいのです。

カテゴリの名前は「安らぎへの道」です。「あなたに話したい」 、とか「だいじょうぶだよ」という書名の利用や、「喜びへの道」あるいは「福音への道」など安らぎの先にあるものも考えました。しかし、私が伝えるべき大切なものは「安らぎ」だということで、ブログのサブタイトルである「安らぎへの道」をカテゴリ名にします。ほかの記事と区別すべく記事には[入門]とつける予定です。

ぼちぼちしか書けませんが、優しく見守ってください。

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