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2010/08/22

義という平和への戸口を狭くするのは自分自身

今日の福音は「狭い戸口」(ルカ13・22-30:リンク先は聖書協会)でした。

説教では「狭い戸口」ではなく、「戸口を狭くしたのは」という問いかけでした。第2朗読では、主の鍛錬が義という平和に満ちた実を結ぶとされ、救われることは厳しいという印象を持った後だったので、この問いかけはインパクトがありました。

義という平和を考えるなら、義であればよいのですね。自分の勝手な思いや欲望、満たされない気持ち、そんなものを捨てるのは難しいですが、そんなものに囚われない心を求めれば、案外戸口は広いのかもしれません。

3次元で考えるなら、正面から入れば広いのに、無理に斜めから入ろうとするから狭くなっているのかもしれませんね。やはり、神さまの言葉を正面から受け入れないといけないのでしょう。

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