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2010/08/28

見えんけど、おる

NHKの「ゲゲゲの女房」で、亡くなった兄弟を思って出てきた

「見えんけど、おる」

という言葉は、色々考えさせられました。

亡くなった人たちや目に見えないものが、そばにいて守ってくれているというお話でした。見えないものではなく、逆に見えるものを考えたなら、それはこのドラマに出てきた「妖怪いそがし」につながるものでしょう。

現代の合理主義の元になっている科学の基本は、観察です。見えるものから法則(仮説)を導き出し、実験によって実証します。見えるものは測定できるので、その量によって豊かさを計ろうとしてしまいます。そしていつしか、それは「豊かさ=幸せ」という考えにつながって、見えるもの、すなわち「お金のあることが幸せ」だという錯覚につながります。

この見えるものはキリスト教では「肉」と呼ばれ、見えない「霊」と対比されます。肉は人を苦しめますが、霊は人に安らぎを与えます。生きていく上での苦しみの多くは、この肉によるものです。物理的な幸せは幻影かもしれません。物理的な幸せは求めても、求めても、ゴールがありません。

心の安らぎは「霊」によるものです。霊を求めるだけで安らぎが得られます。霊は量ではなく、質だからです。物理的な豊かさを捨てることで、質の充実によって心が満たされるのです。

見えるものは物事の一面に過ぎません。見えるものがすべてではないのです。すべてではないものを求めるから満たされないのです。

見えないものの存在は、否定も証明もできません。でも、それで幸せになれるのであれば、存在することにしておけば良い。それで幸せになれるのです。

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2010/08/22

義という平和への戸口を狭くするのは自分自身

今日の福音は「狭い戸口」(ルカ13・22-30:リンク先は聖書協会)でした。

説教では「狭い戸口」ではなく、「戸口を狭くしたのは」という問いかけでした。第2朗読では、主の鍛錬が義という平和に満ちた実を結ぶとされ、救われることは厳しいという印象を持った後だったので、この問いかけはインパクトがありました。

義という平和を考えるなら、義であればよいのですね。自分の勝手な思いや欲望、満たされない気持ち、そんなものを捨てるのは難しいですが、そんなものに囚われない心を求めれば、案外戸口は広いのかもしれません。

3次元で考えるなら、正面から入れば広いのに、無理に斜めから入ろうとするから狭くなっているのかもしれませんね。やはり、神さまの言葉を正面から受け入れないといけないのでしょう。

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2010/08/21

トイレの神様からミサの構成を考える

今日、いつもの病院の待合室で、植村花菜さんが「トイレの神様」を歌われるのを見ていて、ふと気付きました。順番は違うもののトイレの神様とミサの構成は似ています。まずはトイレの神様はこのような構成になっています。

  • おばあちゃんと住んでいたことの想起
  • おばあちゃんの言葉を思い出す「トイレをピカピカにしたら、女神がべっぴんさんにしてくれる」
  • 買い物のこと、責めたこと、ぶつかったこと、一人暮らししたこと
  • 人を傷つけ、大切なものをなくしたことの反省
  • おばあちゃんの病気、おばあちゃんを求める気持ち
  • 亡くなったおばあちゃんの気持ちを考える
  • ちゃんと育ててくれた、恩返ししていない、良い孫じゃなかったのに待ってくれた
  • 感謝、反省、真実への目覚め
  • そしておばあちゃんの言葉を信じてべっぴんさんになれるという希望
  • おばあちゃんのことばを守る気持ちと実践
  • 最後に感謝

これらを見ると、昔のできごとの想起から、感謝、反省、真実への目覚め、希望につながっています。そして最後に感謝で締めくくっています。

一方、ミサの構成は以下のようになっています。

ミサはすでに真理を知っている信者の集まりですので始めに反省をしていますが、大まかな流れは同じです。だからどちらも大切な人を思って感謝することで、感動して未来への希望を持つことができるのですね。

もし、ミサに与(あずか)られたことがないなら、ぜひ近くのカトリック教会行ってみて下さい信仰がなくてもかまいません。きっと恵みがあるはずです。

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2010/08/17

聖母マリア

Takatsukimaria815

日曜は聖母被昇天祭でした。Wikipediaによれば、もともと東方教会(正教会および東方諸教会)が起こりのようです。しかし、東方教会では、カトリックと違って魂のみが天に上げられたとされているようです。

聖母マリアに関しては、プロテスタント教会からは偶像崇拝と批判されたりもしたようです。しかし、カトリックが崇拝するのは三位一体の神だけで、神の母であるマリア様は聖人として崇敬します。

私はかつて「そんなことを言ったって、小さな子供は分かっていないだろう」と思っていました。しかし、所属教会の横にある幼稚園の教室にマリア像があり、「まりあさまにとりつぎをおねがいしましょう」と貼り紙がしてありました。

このように、決して神様ではない聖母マリアですが、遠藤周作さんは、神の母性を感じさせる東方教会に対して、カトリックは父性が強すぎるので聖母マリアでバランスをとっていると考えられていたようです。

実際、ゼノさんhがくじけそうになった時にコルベ神父がロザリオの祈りをすすめたように、厳しい修行をするためにはマリアさまが心の助けが必要だったのでしょう。

ミサでは「恵みあふれる聖マリア」の祈りとともにロザリオの祈りの元にもなった「マリアの賛歌」(ルカ1・46-55)でした。このような受け入れがたい状況の中にありながらも、信仰を貫いたことから聖人とされたという解釈が一般的でしょう。

私は、もう一つの面を感じました。イエス・キリストは人でありましたが、神でした。それは最初の異端で中国の景教になったネストリウス派(リンク先はWikipedia)の議論のように、イエス・キリストを神として高めていく中で被昇天が生まれたのではないでしょうか。

そう思うと「(主の)御名が聖とされますように」と聖母マリアに取次ぎをお願いしたくなりました(ちょっと変でしょうか?)。

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2010/08/13

妖怪「いそがし」 - ゲゲゲの女房 -

「モダンタイムス」、「メトロポリス」、「モモ」の灰色マント、などのように時間に追われるようになったのは、産業革命以降のことだと思っていました。でも「いそがし」(リンク先はWikipedia)という妖怪がいるように、人間は昔から、仕事にとり憑かれ易かったのでしょうね。

そういえば日曜が休みになったのは、ユダヤ人がエジプトで虐げられていた頃に、週に一日を「主日」として、神様にお祈りする日としておやすみをもらったのでしたね。

このように仕事や時間に追いまわされるのはなぜなのでしょう。NHK朝の連続ドラマ「ゲゲゲの女房」では、売れない漫画家のころのトラウマで、仕事をすべて引き受けてしまい、忙しくなっているようです。

今の時代、仕事があるだけでも幸せです。なんとか評価してもらって、これからも仕事を続け、すこしでも良い生活をしたい。そんな思いはだれもが抱くものです。

でも、その仕事が人生のすべてなのか、自分にとって何が大切なのか、少し立ち止まってみることも必要ではないでしょうか?

寝る前のホンのひととき、一日を振り返って感謝の気持ちを持つことができたなら、妖怪「いそがし」にとり憑かれずに、良い道を選ぶことができると信じています。

神に感謝!

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