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2010/07/29

幸せを感じる力 - ブラインドネス -

映画ブラインドネスのDVDを観ました。

ある日突然世界中で、人々が順に視力を失っていきいます。感染性の病気と考えられて、失明した人は隔離されます。そこは外界と連絡もできない閉鎖された場所で、失明した人がどんどん送り込まれてきます。始めはみんなで協力し合っていたのですが、やがて事態がとんでもない方向に向かいます。

途中で観るのをやめようかと思うような内容もありましたが、最後は苦しみの中で小さな幸せを感じている姿に感動しました。だれも進んで苦しむ人はいないと思いますが、人が成長するために必要な苦しみと言うものもあるのでしょうね。

ネタばれするのであまり詳しくは書きませんが、最後まで観ていただければ、なぜここでご紹介したかを分かっていただけると思います。

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2010/07/25

「おっぱいバレー」を観て神と響きあう

レンタルするのが少し恥ずかしかった「おっぱいバレー」、面白い映画でしたが、ここで紹介する映画ではないだろうと思っていました。しかし、今日の河原町教会のミサに与って、紹介することにしました。

この映画は、やる気のないおバカな男子バレー部の顧問として、綾瀬はるかさん扮する新任教師 寺嶋美香子がやってきたところから始まります。

練習をせずに部室の壁に穴を開けて女子テニス部を覗くなど、どうしようもない部員です。寺嶋美香子はやる気にさせようと「あなた達が頑張ってくれるなら先生なんでもする」とついつい言ってしまいました。

もちろん「顧問として」とか「練習に付き合う」などという意味だったのでしょうが、おバカな生徒はそれを「試合に勝ったらおっぱいを見せてもらう」という約束にしてしまいます。

それからの部員たちは、本気になり、必死に頑張ります。人間的にも見違えるように成長し、最後には昭和の青春ドラマのような感動のエンディングを迎えます。

今日のミサの福音は「求めなさい。そうすれば、与えられる」(ルカ11・1-13、リンク先は日本聖書協会)でした。友人にしつように頼めば何でも与えられるように、神は求めるものに聖霊を与えられる。というお話です。

説教では、「求めて(たたいて)いるのは、人だけでなく神様も求められている」「響きあうことで大きな力になる」と言うお話でした。

私は、この神と響きあう「願い」を、答唱にある「作られたすべてのものを見捨てないでください」だと思いました。このような願いは、第1朗読のソドムとゴモラの話(創世記18・20-32)のように、きっと神が受け入れてくださると思いました。

しかし、現実の世の中はそんなに愛には満ちていません。人が良いことをするためにも、なんらかの動機が必要だからです。

そこで、ふと思いました。人や社会を良い方向に向かわせるためには、ある程度の競争も必要です。もちろん、再チャレンジができたいような社会はだめですが、努力に対して金銭でなくても、名誉であるとか、自負であるとか、そのような存在が必要なので、それが
用意されているのだと思いました。

寺嶋美香子は教師としては不謹慎なことをしたのかもしれません。しかし、そのことによって、生徒は変わりました。そして本気に生きるようになり、人として成長し、喜びと悲しみを知りました。それは、他の方法では、(少なくともそれまでは)成しえなかったことです。

社会の現状を考えると、神様なんて存在しないとも思えるような現実がたくさんあります。でも、それは人が成長するための「おっぱい」なのかもしれません。それはだれもが歓迎するものではないかもしれません。

でも、もしそうだとすると、社会の矛盾の中にあって、人は願うだけではいけないのかもしれません。神の願いに気付き、より良い生き方を知り、神と響きあい、成長することが必要なのかもしれません。

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2010/07/24

門真のイエス様

大阪モノレールで門真市に向かう途中、右手に白亜の像の後姿が見えます。

Kadoma
何だろうと調べてみると、門真教会の横に大阪愛徳幼稚園(リンク先はアクセスのページ)があります。

Kadomabord
たまたま仕事が速く終わり、まずは教会に行きました。門真市はたくさんの企業のあるところで、先客に年配のサラリーマンの方がおられました。仕事帰りに教会によって、お祈りができると言うのはとても贅沢ですね。


Kadomam
さて、気になるのは白亜の像です。モノレールからは後姿しか見えず、マリア像かイエス像か気になるところです。隣の幼稚園に行くと正面横にマリア像があり、期待が高まります。

怪しまれないかと思いながら、周辺を歩いてみると、、、、見えません。もう一周になると思う頃、ようやく見えました。間違いなくイエス様でした。

Kadomaj

このイエス像は、校舎の上から園庭を見守っているようです。できた頃は周りを見渡しておられたと思われますが、正面にマンションにができて今は子供たちに集中しておられるようです。子供たちはイエス様を独占しているのですね。

ちょっとうらやましいと思いました。

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2010/07/19

マルタが解放されるための本当の「福音」

主日の福音は、有名なマルタとマリアの話でした。

このお話は、自分はどちらだろうか、とか、どちらが良いか、という話題になりがちですが、福音のヒントの(3)には、こんなことが書かれています。

イエスの言葉はマルタにとって耳の痛いものであったかもしれません。しかし、固定化された男女の役割分担に縛られ、人と人との比較の中でしか自分や姉妹を見ることのできなかったマルタにとって、そこから解放されるための本当の「福音」だったのではないでしょうか。それはついつい他人との比較の中で自分を見てしまうわたしたちにとっても解放のメッセージなのではないでしょうか。

マリアの考え方も、マルタの考え方も、どちらも神に与えられた自由意志です。どちらも良いことをしているので、尊重されるべきです。しかし、マルタは心を乱しました。奉仕という良いことをしているのに、それでは台無しです。お互いを尊重してこそ、平和が現れるのでしょうね。

この福音では、マリアが聞いていたイエスの話は載っておらず、このマルタが救われたお話が載っています。それほど大切なお話ということなのでしょう。そのお話は、マルタの神に向かう率直な気持ちが、救いをもたらしたと言えるのでしょうね。

ところで、福音のヒントで一点だけ気になったことがあります。「祈りが形式的なきれい事になっているとしたら」と書かれていることです。形式的な祈りというものがあるとすれば、それは祈りを真似た「行為」であって、信仰によるものではないと思います。祈りは神と語るという信仰に基づく行為のはずです。形式的な儀式や行為を祈りと呼びたくありません。「祈りが表層的なきれい事になっているとしたら」と書いてほしかったと思いました。

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2010/07/11

プレゼントからのプレゼント

「子は宝」などと言いますが、本当に大きなプレゼントだと思います。

まずは、その小さな命に感動させられます。ポイと投げればすぐになくなってしまう命。体を洗う際に親指と小指で耳を押さえるも指の短い私には難しく、指が滑らないように気をつけました。基本的に片手だけでささえられるなんて、本当に小さな命でした。

そして夜鳴き、次の日も仕事なのに寝られなくて、でもそれが赤ちゃんなので仕方ありません。自分の親もこうした苦労をしたのかと、親の苦労と言うのをはじめて感じました。

大きくなると腹の立つこともたくさん出てきます。子供のためと思いつつ、注意でなく怒ってしまいます。その後に来る反抗期に、子供の人生は親のものでないことを思い知らされます。そのようにして、人と人として話をするようになっていくのでしょうね。

そんな子供たちももう大人です。この春はお兄ちゃんが就職して、初任給でボールペンを買ってくれました。私が就職したときにはそんなことしなかったのに、まさかこんなプレゼントがあるとは思っていませんでした。

Pen

そして、父の日には娘がクッキーを焼いてくれました。今年は親の日だそうで、母の日を兼ねていました。せっかく焼いてくれたのに、間違ってビスケットと言ってしまって怒られてしまいました。でも、とてもおいしかったです。

Fathersday

その存在だけでもありがたいプレゼントである子供から、今年は素敵なプレゼントをもらいました。とても幸せなことです。父親らしいことは大してしていませんが、二人ともとても優しい子に育ってくれました。勝ち組とか負け組みとか、そんな小さなことは気にしないで、どうか自分に与えられたスペシャルな人生を大切に生きてください。

神に感謝!

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キリスト教とは何か。 - pen別冊 -

ここのところ何かと忙しかったので、今日は家でゆっくりしています。

さて、昨日書店でコンピュータ雑誌を見ていると、横の棚に「キリスト教とは何か。」という大きな雑誌がありました。

中にはキリスト教の芸術品がたくさん載っています。

かつての主任司祭の入門講座で絵画を用いられていましたが、それを思い出します。マリアを崇拝するなどという表現もありますが(正しくは崇敬)、一般にどう見られているかを知るとか、あるいは気にせずに絵だけを楽しむと言うのもありだと思います。

ミサ与れなくても、こういう本があると癒されますね。

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