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2010/02/28

当たり前のことを当たり前に - 聖ヨセフ -

3月19日は聖ヨセフの祝日、3月は聖ヨセフの月です。私の霊名の成人でもあります。聖ヨセフは「沈黙の聖人」とも呼ばれているそうです。以前、もし私が母親だったらと娘に尋ねた際に「寡黙な母親はいやだ」と言われた私にとってふさわしい霊名ですね。当事、あまり知らなかったのに、よく選んだものです。

心のともしび機関紙3月のテーマは「聖ヨゼフ」。森田直樹神父の「聖ヨゼフの行き方に学ぶ」(リンク先の心のともしびで全文が読めます)という記事が載っていました。

「神の恵みは、特別な人や、特別な役割を背負った人たちにだけ与えられるのではなく、地道に自らの役割を黙々と果たし、当たり前のことを当たり前に行った、この聖人のような人たちにも、豊かに注がれていることを、聖ヨゼフの生涯は、現代の私たちに語りかけていると思う。

兎角、脚光を浴びる人たちだけが注目される現代社会であるが、人間としての生き様は、もっと地道なものであり、日常の何気ない生活の中に豊かに注がれている神の恵みとともに、当たり前のことを当たり前に果たす姿にあることを、この聖人は私たちに教えてくれている。」

当たり前のことをできているかと我が身を振り返ると、決してできていません。良かれと思ってすることが、人を傷つけたり、迷惑をかけていることもあります。何気ない一言や行動で、相手に不快感を与えていることもあるでしょう。

当たり前のこと。それは、とても難しいことのように思います。でも、そんな私であっても、心の中のあの方は見守ってくれているのです。恐れず、あせらず、ただ真摯に生きていくことが大切なのでしょうね。

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2010/02/23

荒れ野の40日

四旬節第一主日のミサの福音は、荒れ野の40日間のお話でした。悪霊が断食をしているイエスに、食べること、権力を得ること、飛び降りて神を試すという誘惑をします。

これは、食欲、権力欲、現実逃避あるいは自殺といった人間の欲望についてのお話なのだと思います。しかし、聖書の分かち合いをしていると、それ以外にも気付くことがありました。

イエスはすでに洗礼を受けていました。直前の章は洗礼者ヨハネのお話で、イエスは洗礼を受けています。神に原罪はありませんが、いくら洗礼で罪が清められても、原罪は消えず、誘惑を受けてしまうと言うことを示しているのだと思いました。

また、受難に向けてあらかじめ解説しているのだと思いました。イエスの受難に関しては外典福音書などに各種の説が書かれています。しかし、荒れ野の話はそれを否定しているのです。

つまり、イエスの受難は自分のためでなく、権力欲でもなく、神を試すためでもなかったし、死ぬことが良いことだとも思っていたからでもない。そのことを荒れ野の話は示しているのだと思いました。

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復活体験

今日は英神父を迎えての黙想会でした。明快な説明で、言葉がどんどん入り込んでいくようなお話でした。心に残ったキーワードを挙げると

悪霊は娘の姿
悪霊や悪魔と言うと怖いイメージがありますが、ある映画では優しい娘の姿で描かれていたそうです。人がついつい心を許し、安易な方向へ流れてしまう。そんな弱さに悪霊は入り込むのでしょう。


「義」という文字は「羊」と「我」からできていて、「我」はノコギリの意味があるそうで、全体でいけにえの意味があるそうです。正義とは犠牲になることだったのですね。

垂れ幕
イエス・キリストがなくなったとき、エルサレムの神殿の垂れ幕が真ん中から裂けましたが、それは神の領域と人間の領域の境界がなくなったことを示しているそうです。

エルサレムの神殿には定められたラビのみ、しかも年に1回しか入れない神の領域があるそうです。もしもの時も助けられないので、足に鈴を付け鈴が鳴らなくなったら体に結ばれたロープをひっぱってもらうというルールがあるほど、神聖な領域だそうです。しかし、その領域をさえぎっている垂れ幕が、イエスの死によって裂けたのです。

復活体験
キリストの死は、他の宗教でも認められている歴史上の事実です。キリスト教が他の宗教と異なるのは、復活を信じている点です。復活を事実だと示すことはできませんが、復活の前後で弱かった弟子たちがイエスの証人となる信じる弟子に変化していることがわかります。

この復活体験は私たち一人一人にもあります。イエスの復活によって、死、罪、孤独は滅ぼされ、代わりに命、恵み、神の同伴(仏教で言う同行二人)が与えられます。

この復活体験、私は洗礼を受ける前に感じました。苦しみが去り、安らぎが訪れ、勇気が与えられました。今も忘れられません

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2010/02/18

大斎・小斎

今日(もう昨日ですが)は灰の水曜日です。カトリック中央協議会の「四旬節 断食(大斎・小斎) カーニバル」を見るまでもなく、大斎・小斎を守る日です。食事を減らし、肉を避ける日です。

朝一番、妻が言いました「ごめん、普通にお弁当を作ってしまった。。。」おにぎりぐらいが良かったのですが、仕方ありません。さらに、こう言いました「ソーセージ入れてしまった。豚肉の、、、」

うーん。魚肉ソーセージもあっただろうに、、、。とやかく言ってる時間もなく、とりあえず職場に持って行ってから考えることにしました。

さて、お昼になって弁当箱のふたを開けると、その中央には皮がシャキッと鳴るようなソーセージが存在感を示していました。

残したところで意味がないし、食事に困っている人もいるというのに捨てるわけにもいきません。形式だけの行為よりも、心のある行為のほうが求められているはずです。ということで、妻がせっかく作ってくれた弁当なので、感謝しつつ食べました。

カトリックには色々なお約束があります。まあ、色々抜け道も用意されているのですが、ついついルールを守ることが信仰心だと思って、形式的になりがちです。

今回の小斎も上記のページに「肉類を食べないことですが、各自の判断で償いの他の形式、とくに愛徳のわざ、信心業、節制のわざの実行をもって替えることができ、満14歳以上の人が守ります。」 とありますし、病気の人や妊娠している人は免除されます。

形だけ守ろうと、肉を取り出したり、捨てたりすることはないのです。あの方のように、律法に囚われず本当に大切なことをすれば良いのだと思いました。

お弁当のソーセージに対して、そんな風に思いをめぐらすことができたのも、四旬節の恵みなのでしょう。

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2010/02/11

神の存在を受け入れる

水曜日から四旬節ですね。そして四旬節の旬は10日間を表しますので、その名前の通り40日後の4月4日には復活祭(イースター)です。今年も前夜の復活徹夜祭と復活祭には多くの方が洗礼を受けられるのでしょう。

洗礼は信仰を望む親の子や、すでに信仰の道を歩んでいる人が、それまでの罪を清められてクリスチャンとして歩みだす時です。

信仰」と言うと抵抗を感じる方もおられると思います。でも、神様の存在を受け入れるかどうかという話なら、少しは興味を覚える方もおられるのではないでしょうか?

かつては歴代の哲学者が神の存在証明を試みましたが、結論は出ませんでした。ということは、どのように判断するかは個人にまかされているのです。

私は、神が存在するかどうかという問題と、物事を「偶然」と考えるか「必然」と考えるかは同じことだと思います。

今の自分の生まれてきたことをたまたまと思うか、意味があることと思うか。それは、今日起きた良いことを、ラッキーと思うか、感謝するかということです。あるいは、突然の不幸に「もうだめだ」とあきらめるか「乗り越えられない試練は与えられない。きっと進むべき道があるはずだ」と思うかということです。

こう考えると、どんな場合でも、神様がいるほうが気が楽です。結局は証明できないのですから、「都合の良いほうをとる」というのが私の答えです。そんなので良いのかとも思いますが、個人にまかされているのですから、それで良いのです。

そりゃあ、苦しかったあのときが今の喜びにつながったことや、何気ない出来事がつながったときは「神様はすごいなぁ」と常々思っていますし、苦しいときも「大丈夫!」と思って乗り越えることができたことのはすごい恵みだと思います。でも、それを偶然で説明できないかと言えばできてしまいます。

大切なことは「神様は存在する」とした瞬間に、人生が豊かになるのです。傲慢が感謝に、苦悩が期待に、失望が希望に変わるのです。つまり、私が神の存在を受け入れたのは「幸せを求めた結果、おいしい話に乗った」ただ、それだけのことなのかもしれません。

その程度のことなのですが、だれも私の考えを変えることはできないのも確かでしょう。それには、「神様がいないほうが幸せであること」が証明されないといけないのですから、、、

こんなおいしい話はそうそうありません。自分に任された2択問題を選ぶだけ、とても簡単なことです。

洗礼を前にして、自分の信仰心に自信をなくしている方もおられるかもしれません。でも、どちらを選ぶか、それだけのことなのです。洗礼式では何度も「信じますか?」と問われるでしょう。そして毎回「信じます」と答えますが、実は2択問題を選択しているだけなのです。

どちらにされますか?ぜひ、幸せなほうを選んでください。

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2010/02/10

なぜならすでに - 「あるものさがし」と「君の可能性」 -

キリスト教はご利益宗教ではない。どんなに祈って神様に聞き入れてもらっても、わがままな思いが実現することはない。

Good News Collectionにこんな記事があった。

「ないものねだり」より「あるものさがし」

人は生まれたときからすでに神様に愛されている。たくさんの恵みも与えられている。自分は不幸だと嘆くのは、与えられている幸せに気付かないだけなのかもしれない。

そんなことを思っていると、障がい者が働く喜びを得られるように支援をしているプロップステーションのメールマガジン「メール de ナミねぇ 【第85号】
に、ナミねぇと原口総務大臣の対談が載っていた。

当時小学生の大臣に、ある先生が『君の可能性』(斎藤喜博著)という本をくださり、魂が乾いていた大臣は「私の中にも無限の可能性があるんだ」と教えられたそうである。

「ある」と言うことに気付けば、幸せが得られるのである。

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