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2009/11/30

人は考えた通りの人生を送ります

心のともしび機関紙に載っていた植村高雄さんの言葉です。

人は考えた通りの人生を送ります。
暗いと思えば暗い人生を、
明るいと思えば明るい人生を歩みます。

先日、このことを感じる出来事がありました。私の苦手なお客さん、どうもうまくいきません。その方とうまくいっている方からアドバイスをもらって、思い浮かべたのは「タラントンのたとえ」でした。

この「タラントンのたとえ」(マタイ25・14-30、リンク先は日本聖書協会)の中で、

『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

という言葉、まさにそのときの私でした。何も怖がる必要は無いのに、勝手に怖がってトラブルを起こしていました。

自分の人生は、自分で決めるものです。神の与えた人生をまじめに歩みさえすれば、何も不安に思う必要は無いのでしょうね。人生を決めるのは自分のなのですから。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/11/15

幸せな人

今日は所属教会のミサに与りました。いつもの場所で、聞きなれた歌声を聞きながらのミサは、とても恵みを感じました。答唱詩編も

「幸せな人♪神の恵みを受け、その喜びに生きる人♪」

と、私の気持ちを表しているようでした。

説教では、神の再臨をトンネルの先に見えた明かりにたとえられました。この例えは心に響きました。人生の暗闇の中でどのように進めば良いかがわからないとき、進むべき道を示してくださるのが神様なんですよね。

神様に出会って救われてから、自分が変わったようなつもりになっていました。たしかに腹を立てることが少なくなりました。でも洗礼を受けて3年になっても、やはり腹の立つことはあります。怒りで心が囚われて、どうしようもなくなります。

最近はそんな怒りを感じながらも、自分が現実を受け入れられていないと気づくようになりました。でも、そうは言っても怒りは続きます。そんな中で少しずつ、こんな風にすれば良かったかもとか、こんな方法もあったなぁ、などと別の見方で現実が見えてきました。

しかし、怒りは収まらず、自分は悪くないとの思いは消えません。今度は、そんな自分の未熟さを感じて、でも怒りはあって、時が過ぎていきます。そして、ようやく「次はもう少しうまくやろう」そう思えたら、怒りはあるものの、怒りに囚われることはなくなりました。

そして思いました。これが恵みなんだと。

神に感謝!

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2009/11/08

いつも喜んでいなさい

最近、思い浮かぶ言葉です。聖書のなかでは、こんな感じで書かれています。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(一テサロニケ5・16-18)

物事には感謝しなさい、喜びなさいと言う風に捕らえていました。でも考えてみると、人生は喜びそのものだということなのですよね。大変なことや、苦しいこと、色々なことが起こりますが、それも全て用意された道であり、喜びにつながるものなのだと思います。

ここのところは色々大変でしたが、今日は河原町でミサに与れました。遅刻ぎりぎりでしたが、久しぶりのミサは喜びにあふれたものでした。

福音は「やもめの献金」(マルコ12・41-44)でした。一人の貧しいやもめが全財産であるレプトン銅貨二枚を献金したお話です。このやもめは、きっと幸せだったのだと思いました。もちろん生活は苦しいし、色々な苦しい思いがあると思います。でも、そんな人生の全てを捧げることができる幸せを、このやもめは感じていたと思います。

話は変わりますが、ミサでの献金はどのようにされているでしょうか?インターネットで検索すると、平均は300円から400円ぐらいだそうです。とはいえ、それまでの一週間を振り返って金額を決めたり、ましてや説教に値段をつけるのも変な感じです。

私は500円硬貨があればそれを、無ければ100円としています。どちらも無ければ50円。それも無ければ1000円と決めています。特に考えずに機械的にしています。1000円を出すことはめったに無いのですが、「もったいない」と思わずに出せたときは、自分の神様に向かう気持ちが確認できたようで、幸せな気持ちになれます。

やもめが献金したときも、きっと幸せを感じていたのだと思います。日々の苦しみの中にあっても、希望をもてるのは神様のおかげ、精一杯の献金と共に苦しみや悲しみを神様に捧げたのだと思います。そうすれば、全てが喜びになり、希望を持って生きていくことができるのです。

世の中では「りあじゅう」という言葉がはやっているようです。「リアルの生活が充実している」と言うことで、彼氏がいるような幸せな状態を言うようです。

これって何か変だと思いませんか。たしかに彼氏がいて、日々デートができるなら幸せでしょう。でも、そうでなければ充実していないのでしょうか?人それぞれに違った幸せが与えられているのではないでしょうか?

だれの人生も、たった一つの人生です。人と同じ人生なんかありません。人と同じ幸せもありません。誰かにとって幸せなことが、他の人に幸せなこととは限りません。他の人から見て不幸なことも、必ずしも不幸とは限りません。

どんなに苦しい状況でも、どんな不幸な状況でも、幸せを感じる力が人にはあると思います。ほんの一瞬でも神様に向かうことで、緊張がほぐれ、ひと時の喜びを感じることができます。

第1朗読(列王記上17・10-16)のように、これで食事がなくなるからと自分のことだけを考えていたなら、死ぬことを待つ苦しみだけが残ったでしょう。でも、エリアと分けあったことで幸せが訪れました。自分のことだけを考えるのでなく、人に与えること、喜びを分けることができたなら、幸せを感じることができるのでしょう。

人と同じような幸せを求めるなら、いつまでも満足できません。でも神様に感謝したり、人に優しくするという幸せを求めるなら、どんなに苦しいときでも喜びを感じることができます。

感謝する心、優しくする心、それは神様が人間に与えたすばらしい能力です。だから、いつも喜んでいることができるのだと思います。

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