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2009/09/27

生活の中の信仰

とある方のブログにあった言葉です。
どういう意味なのか、しばらく考えてみました。

教会に通うこと、ミサに与ること、仲間と聖書を分かち合うこと、、、、
たぶん違うでしょうね。

普通に生活している中で神様を感じること。何も感じずに仕事をしているのだけど、いざとなったら神様がそばにいてくれること。苦しみの中で希望を失わないこと。

何よりも、過去のことを後悔せず、神様への感謝と未来への希望を失わないこと。

それが私にとっての「生活の中の信仰」です。

今日は疲れていたのでミサはお休みしました。でも神様はそばにおられました。

<')))><

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2009/09/21

いちばん先になりたい者 その2

毎月第3土曜日は、日曜の福音を使って聖書の分かち合いです。人それぞれに、細かなところにこだわったり、全体の流れにこだわったりしながら、分かち合っています。

私が気になったのは「いちばん先になりたい者」です。だれが一番かではなく、人に使えるものになる。そんなことを思い浮かべていると、ある一人の人が思い浮かびました。「ああいう人を言うのだろうな」そう思ったときに、自分がその人の上から見ていることに気付きました。

考えてみると子供だって競争しますし、幼子のようなのはその人のほうかもしれません。それに比べて、いつしか神様のようになってしまっていた自分にぞっとしました。

福音の構成にこだわった意見では、人々の手に渡されるイエスは、大人にされるがままの子供と同じ、と言う意見です。受難のように厳しい現実を受け入れることが、キリストを受け入れることであり、父なる神を受け入れるということなのですね。

このように考えて、心理学とキリスト教とのつながりを感じました。心理学において自分や現実を受け入れることはとても大切だとされています。自分を受け入れられなければ、他人も受け入れることができないからです。

神は無から有(世界)を生み出しました。イエスは2000年も前に、それまで確立していなかった愛(アガペー)や心の課題を生み出しました。イエスはやはり神なんだと再認識しました。

そのほかには「わたしの名のために」というのはどういうことかと言う質問がありました。議論の結果、名はそのものや本質をあらわすと言うことで理解をしました。なんとなく気になったので「イエス」に意味は何かが気になったので調べると、「ヤハウェは救い」(Wikipedia)でした。「ヤハウェは救い」という名のためにと考えると、神の救いのために働くと言う意味もあるのかもしれませんね。

最後に、すこし驚いたのは、イエスはいちばんになりたいという思いを否定していないという意見でした。確かに「いちばん先になりたい者は」と、その気持ちを肯定されているようにも読めます。人間の持つ様々な気持ちを受け入れたうえで、どのように生きるべきかを教えられていたのですね。

受け入れることが、とても大切なことだと思えた一日でした。

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2009/09/20

いちばん先になりたい者 その1

今日のミサはチョットお疲れだったので、いつもだったら別の教会に行くところでしたが、用事があったので所属教会に行きました。

20分も遅れたので、すでに説教が始まっていました。でも、何か様子が違います。侍者の女の子二人が妙に長いお箸を持って向かい合っています。お気づきの方もおられるかもしれませんね。これは有名な仏教の講話です。

地獄とは長い箸を渡されて、我先に食事をとろうと頑張っても、自分では食べられない状態です。しかし、食べ物を自分ではなくほかの人に食べさせてあげたなら、みんなが幸せになります。それが天国の状態です。

そのとき、侍者の女の子が食べさせようとしたお饅頭を落としてしまいました。女の子たちは目を合わせて笑っています。すると神父が、

「天国でも色々なことが起こります。でも、笑っています。」

そうです。色々なことを笑っていられる状態が天国なのでしょうね。

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2009/09/17

自分に優しくしてあげたら?

職場のIくん。私の前任のリーダーでしたが、うつになってしまいました。でも、なんとか出勤しています。

不安が増したことから薬を変えてもらってからどうも調子が悪い様子です。強くて眠かったり、弱くて不安だったり、、、。どんなところに不安を感じるか聞いていると、きちんと仕事がこなせてないと言います。

でも、調子が悪いのをわかっていて仕事をさせているんだし、負荷が高ければ上司(私)の責任。人それぞれで、得手不得手があるんだし、みんなで助け合えば良いんじゃない。

でも、そんなことを言っても納得しない様子。

じゃあ、自分の子供が成績が悪かったり、入試に失敗したら、「お前はだめだ!」って追い出すわけ、そりゃ苦手なこともあるだろうけど、得意なこともあるだろうし、そんなことで見捨てないでしょ。

子供に対するように自分に優しくしてあげたら?自分を受け入れてあげたら?どうせ年をとったら思うようにできないんだし、その時々の自分を受け入れて、そこから考えたら良いんじゃない?

昔だったら全てを理解して仕事ができたけど、今はみんなで協力しないと仕事ができないでしょ。全てが完璧でなくても、得意なところがそれなりにできればいいんじゃない。

そんな話をすると、少し笑ってくれたけど、少しは元気になったかなぁ。

<')))><

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2009/09/13

自分の十字架を背負う

今日の福音では、

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコ8・34)

とイエスが語りました。まず、自分を捨てなければなりません。それだけでなく十字架を背負わなければなりません。厳しい言葉です。マタイ福音書で

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11・28-30)

という優しいイエスの言葉と大きく異なります。そんなことを考えていたとき、第1朗読のイザヤの預言に描かれたイエスの受難で、イエスが十字架を担いだ様子を思い出しました。

「見よ、主なる神が助けてくださる。」(イザヤ50・9)

とあるように、厳しい鞭打ちの後に重い十字架を担いだイエスに、助けの手が差し伸べられました。顔が拭かれ、十字架をかわりに担ぎ、担ぎきれない重い十字架を担げるような助けがありました。だからこそ、イエスは最期の時を迎えることができ、復活の栄光に与ることができたのです。

そんなことを考えていて、先日ここに書いた「幸せのちから」を思い出しました。

神様の助けを過信してはいけませんが、あきらめてもいけません。神様の助けは必ずあります。自分の心と命を傷つけるほど無理に頑張る必要はありません。わがままを捨てて、生きるべき道を真摯に生きていくならば、きっと神の助けがあるに違いありません。

そう思い直して福音を読み直すと、最後に書いてありました。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ8・35)

神に感謝!

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2009/09/12

大切なものを失って得るものもある

NHK連続ドラマ小説「つばさ」に出てきた言葉です。

人は色々な期待を抱き、時に悲しい結果になります。
苦しくて仕方のない状況でも、そのことには意味があります。
人生に無駄なものは何一つないと言いますが、
過去の全ての出来事が自分の財産であるように、
今の苦しみも、きっと大切な財産に違いありません。

未来に希望が持てなくても、
不幸な出来事が待ち構えていることがわかっても
「大切なものを失って得るものもある」
だから今を大切にしたいと思います。

<')))><

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2009/09/06

神は自由を与えた - ジャングル大帝を見て -

ここのところお疲れで、今日は家で休むことにしました。いつもならミサの時間に起き出して、仕事をする元気もないので昨日の「ジャングル大帝」を見ました。

管理される側から見たジュラシックパークのようなこのアニメーションは、「偽りの創造主」などと呼ばれる人物が登場するなど、神になろうとする人間傲慢さを考えさせられるお話でした。「主は備えてくださる(ヤーウェイルエ)」と言いますが、本当ですね。

自然を守るという名目で、人間たちは滅び行くジャングルから動物を集めて人工的なジャングルを造りました。動物たちにとって楽園のはずが、実は自由のない管理された生活でした。

そのような環境で、レオの父であるジャングル大帝のパンジャは人間に勝てないことを知っていました。弱虫なレオは、父に似て臆病者だといじめられます。そんなレオにパンジャが言います。

「強さというのは守ろうとする心」

自然を支配できると考える偽りの創造主に対して、味方になる科学者もいました。その科学者が動物の味方なのかと聞かれてこういいます。

「味方でなく、仲間」

このアニメを見て、神の偉大さを感じました。傲慢に自分の思い通りに管理しようとすると破綻する。命ある全てのものは敵でもなく味方でもなく仲間とし、自由を与えて守ろうとするならば強さが与えられる。そう思いました。

自由という言葉が幕末に広がったとき、志士達は

「自らを由(ヨシ:よりどころ)とする」

という言葉に歓喜したようです。神に与えられた自由。自分のためにあるだけでなく、全ての人に与えられているものです。意見の違いがあっても仲間であり、その自由は守らなければなりません。人や自然と関わるときも神の心(アガペー)が大切だと思いました。

<')))><

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