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2009/08/09

「無」の先にあるもの

夏休みを利用して久しぶりに初金ミサに与りました。

始まるまでに少し時間があったので、近くのお寺で講和を読んだ為か、仏教の先にある「無」を突き抜けると非ユークリッド幾何学のように別の世界があり、それがキリスト教ではないか、などと考えていました。でも、無の反対は「全て」、全てを造った創造主とは少し違うとか、無の反対は「ある」なので、やはりつながっている、とか考えていました。

すると、不思議なことがあるもので、ミサの説教では、「無」がキリスト教徒関係あるとお話されました。外国人の神父様なので少し驚きました。

福音の「イエス、死と復活を予告する」(マタイ16・24-28)から

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 」

を引用され、自分を無くしキリストに出会うことを語られたのです。

自分にこだわる生き方、表面的な生き方、平和でない生き方、それらを捨てて「無」になることで、ようやくイエスに近づくことができるのでしょうね。裕福な生活や父親を捨てたアッシジのフランシスコを思い出しました。

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