« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »

2009/08/31

私に生まれてきてよかった

たまたま途中から見た映画『ただ、君を愛してる』の言葉です。宮崎あおいさん扮するヒロインの静流(しずる)が、人生の苦しみの中で、悲しい選択をした時に言いました。

「私は、私に生まれてきて良かった」

人生の様々な苦しみの中で、自分の人生を肯定的に捉えることができないこともあるかもしれません。でも、人生の中でほんの一瞬でも「良かった」と思えたなら、それはきっとすばらしい人生に違いありません。

どんなに恵まれた人生よりも、ほんの一瞬であっても心の底から「良かった」と思える人生のほうが、輝いていると思います。その一瞬を感じるために、様々な苦しみが用意されているとしたら、それは大きな恵みなのかもしれませんね。

映画はと有からしか見ていないので、いつか全編を見たいと思います。でも、内容を書くと面白くない映画なので、皆さんで見てください(主演は玉木宏さんです)。

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/08/30

神様に任せなさい

今日は河原町でミサに与りました。司教の霊名のお祝いもかねたミサでした。
司教は高齢なこともあって、これが最後のミサかもしれないと祈りを込めて捧げますと言われ、最近亡くなられた聖職者の方たちのことを語られていました。

実は私も、会社で同期入社だった女性が亡くなられたことを最近知り、ショックを受けていました。1年ほど前に子供を亡くした心労が大きかったのだろうと聞きました。今日のミサの中で、霊魂の平安をお祈りしました。

今日の福音「昔の人の言い伝え」(マルコ7・1-8,14-15,21-23)の最後に

「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

という言葉がありました。この福音を受けてか、イクトウスという機関紙にも、こんな言葉がありました。

 愛する皆さん
 決して自分で復讐してはいけない
 復讐は神様に任せなさい

人との関係の中で、私たちは様々な良くない思いを持ってしまいます。でも、そんなものは神様に任せておいて、主の平安のうちに生きろと言うことなのでしょう。

亡くなられた女性は、私のかつての上司と職場結婚しました。正直なところ、あまり好きな上司ではありませんでした。でも、そんな思いは神様に任せて、悲しみくれているかつての上司のために、心の平安が訪れますようにとお祈りしました。

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/08/29

おむすびの語源

「おむすび」の語源には諸説あるようです。関西では「おにぎり」ですが「きる」という言葉は縁起が悪いと言うことで、関東では結ぶの意味で「おむすび」となったという説、万物の生みの神「産霊(むすび)の神」と関係していて、日本の神様は山にいるとされているので、「おにぎり」はたる型、「おむすび」は山型だとか、色々あるようです。

この産霊(むすひ)とは、「天地・万物を生成・発展・完成させる霊的な働きのことである。」(Wikipedia)とされていて、聖霊のような存在のようです。

また、むすひが名前についているタカミムスビという神様は、アマテラスの孫に地上に降りて統治する(天孫降臨)ように命じたとされています。

どことなくキリスト教と似ているお話ですね。うちの娘はおむすび好きで、時々一人で作っています。たまには一緒におむすびを作って、創造主に思いをはせてみようかと思います。

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/08/26

「幸せのちから」と神様

DVD「幸せのちから」のカバーを見ると、父親と子供の写真が出ていることから、子供のために幸せを追求するお話かと思いました。実際、子供に対して「お前が幸せならパパも幸せだ」と言うシーンもあるのですが、それが主題ではないようです。

原題は「the PURSUIT of HAPPYNESS(幸せの追求:Yは原題どおり)」です。
トマス・ジェファソンの独立宣言に「生命、自由、幸福の追求、の権利」が書かれていて、幸せの権利ではなく、追求の権利となっています。主人公はこの言葉に苦しみながらも、次々と降りかかる不幸にくじけることなく、幸せを追求していきます。

このお話で印象的だったのが、父と歩きながら話した子供の話です。

ある日、男が溺れていました。
船が来て“助けようか?”
“いや 神を信じてる”
また別の船が来て“助けようか?”
“いや 神がお救いくださる”
彼は溺れ 天国へ
“神よ なぜ救わない”
“船を2隻 遣わしたぞ バカ”

神様はチャンスを与えているのに、幸せを追求していないと言うことなのでしょうね。

そういえば「働かざるもの食うべからず」という言葉がありますが、元々は聖書の言葉だそうです。

テサロニケの信徒への手紙二の「怠惰な生活を戒める」にこうあります。


「働きたくない者は、食べてはならない」(二テサロニケ3・10)

神に与えられた能力やチャンスを無駄にせず、

「あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。」(二テサロニケ3・13)

と、ひたむきに生きることが求められているのでしょう。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/08/24

永遠の命の言葉を信じ、従う

土曜日に与った茨木教会のミサの説教は、協同司牧である高槻教会の日曜の説教としてケファさんが記事にされていますので、ここでは土曜日の聖書の分かち合いで思ったことを書きます。

5000人にパンを分け与えたイエスは、先週の福音で

「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」(ヨハネ6・26)

そして

「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」(ヨハネ6・53)

といわれました。そして、今回は

「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(ヨハネ6・63)

と言われます。ここでの肉は、先週のキリストの体ではなく、霊と対立する言葉としての肉です。分かち合いで出た言葉で言うならば、「物理的な」という意味の肉です。

この「物理的な」という言葉で、ここまでの福音を振り返ると、大きな流れを感じます。イエスは5000人にパンを分け与えましたが、それは物理的な満足でなく、皆で分かち合うという心の満足を与えるつもりだったのでしょう。

そして、人の子の肉と血も物理的な意味ではなく、神の言葉(肉)を得て、そこに血を通わせるということなのでしょう。当時は血を取ることが禁じられていたにもかかわらず、人々の目を覚ますためにあえて言われたのかもしれません。

日本語の聖体はユーカリスチア、神を囲んで集まる、共同体という意味です。聖体拝領はコムニオン、集まっている、一致という意味だそうです。ついつい、聖変化したご聖体をいただく行為を喜んでしまいそうになりますが、そんな物理的なものではなく、神の元に集い、神と一致することが必要なのだ。そのように思いました。

今回の福音のタイトルは新共同訳では「永遠の命の言葉」、フランシスコ会訳では「ペトロの信仰宣言」です。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6・68-69)

と言ったペトロのように、神様から永遠の命の言葉を受け取り、信じ、従っていこうと思いました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/08/20

「人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないから」

フョードル・ドストエフスキー著『悪霊』に
人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないから」(リンク先は日経ビジネスオンライン)
という言葉が出てくるそうです(海外文学をほとんど読まない人なので、この言葉も、聖書が引用されていることも知りませんでした)。

みなさんはどんなときに幸せを感じるでしょうか?

私は、仕事を終えて暑い中を帰ってきて、シャワーを頭から浴びたときですね。人によっては、朝日を浴びたときとか、安売りの商品を買えたときとか、仕事の後のビールとか、子供の笑顔とか、甘いものを食べたときとか、何気なく買ったお弁当がおいしかったとか、色々あるでしょうね。

幸せって、そんな風に多様なものだと思います。自分で勝手に幸せだと思えばそれでよいのですが、ついつい別のものを気にしてしまいます。これで良いのだろうかとか、人に認められたいとか、色々と考えて幸せが見えなくなってしまいます。

特に近年は、価値観が単純になったがために幸せが感じられなくなっていないでしょうか?お金とか、人並みの生活とか、勝ち組とか負け組みとか、それが本当に求めている幸せなのでしょうか?

シャワーの幸せを感じられない時期がありました。仕事が忙しくて睡眠不足だったので、夜のシャワーをあきらめてシャワーを朝に変えていたからです。別に朝でも「ほっ」とできればよいのでしょうけど、遅刻しないように急いで浴びるので、どうもいけません。やっぱり、ほかの事を忘れて浴びないといけないようです。

最近は時間がないなら、体を洗わずにシャワーを浴びます。家族からはカラスの行水などと言われますが、これだけは譲れません。なぜなら、それが私の幸せだからです。人には無意味な一瞬でも、その一瞬の幸せで元気になれるからです。

だれもが愛されて生まれてきました。だれもの命に意味があります。人生に幸せがないはずはありません。きっと小さな幸せがいっぱいあるはずです。みなさんも見失いかけていた幸せを見つけ出してください。

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/08/16

食べたのに死んでしまった

土曜日の聖母被昇天祭は所属教会に、日曜日は桂教会でミサに与りました。

土曜日の説教は心理学者のエリック・フロム(エーリッヒ・フロム)のお話でした。彼は愛するには配慮、責任、尊敬、知識が必要だと述べているそうです。

相手との関わりの中で、配慮がなければ愛することはできません。大事な人に義務でなく、優しさや配慮する責任があります。尊敬とは「再び人を見る」という意味です。その人のユニークさを大事にしなければなりません。知らない人は大事にしにくいです。大事でなければ、知ろうと思いません。

アガペーは自己中心でなく、献身的で、奉仕の愛です。全てをゆるし、哀れみを持ち、母の優しさ、無償の愛です。

といったお話でした。日曜のミサでは、福音「イエスは命のパン」(ヨハネ6・51-58)から

「先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。」

という天からマンナが降ってきたお話を受けたと思われるみことばを取り上げられ、それは食べただけで奉仕しなかったからだとされました。

2つの説教を聞いて、

「言は神であった。」(ヨハネ1・1)

という言葉を思い出していました。パンが神の肉、言葉であるなら、それを食べるとは信じることだと思います。そして血は肉に通うものですから、血を飲むことは信仰に基づいて行うことではないかと思いました。

イエスの言葉をいただき、それに従う。それが永遠の命、すなわち愛だと思いました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/08/09

信じる者は永遠の命を得ている

今日のミサの福音は「イエスは命のパン」(ヨハネ6・41-51)でした。

  信じる者は永遠の命を得ている

という御言葉を受けて、神の言葉に従って生きることが永遠の命を生きることです。とされた説教に色々と思いが広がりました。

遠藤周作さんは、復活のことを心の中で生き返ることであると説明されました。それからすると、永遠の命は心の中でいき続けることなのかもしれません。

でも、説教のように神の言葉に従うということは、永遠の神と共にいることだと思います。イエス・キリストが人間に与えた愛(アガペー)の心に生きるなら、映画のペイ・フォワードのように、その愛は何倍にも、そしていつまでも永遠に広がり続けるのでしょう。

それは犠牲というよりは喜び、豊かに満たされた思いに違いないと思います。所有欲や独占欲、虚栄心などから大きくかけ離れたところにある心の豊かさ。それは、この世の命とは比べることができない永遠の喜びなのだと思います。

心から神を信じると、そんな永遠の命が得られるのだと思いました。

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「無」の先にあるもの

夏休みを利用して久しぶりに初金ミサに与りました。

始まるまでに少し時間があったので、近くのお寺で講和を読んだ為か、仏教の先にある「無」を突き抜けると非ユークリッド幾何学のように別の世界があり、それがキリスト教ではないか、などと考えていました。でも、無の反対は「全て」、全てを造った創造主とは少し違うとか、無の反対は「ある」なので、やはりつながっている、とか考えていました。

すると、不思議なことがあるもので、ミサの説教では、「無」がキリスト教徒関係あるとお話されました。外国人の神父様なので少し驚きました。

福音の「イエス、死と復活を予告する」(マタイ16・24-28)から

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 」

を引用され、自分を無くしキリストに出会うことを語られたのです。

自分にこだわる生き方、表面的な生き方、平和でない生き方、それらを捨てて「無」になることで、ようやくイエスに近づくことができるのでしょうね。裕福な生活や父親を捨てたアッシジのフランシスコを思い出しました。

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/08/04

後悔よりも感謝と希望

先週に引き続いて、日曜は河原町教会でミサに与りました。前のほうに座ると2階から噴出す冷風が寒いので、後ろのほうに座ると、ちょうど良い感じの涼しさでした。朗読の中では、第1朗読「マナ」(出エジプト16・2-4、12-15)に考えさせられました。

神さまに助けられてようやくエジプトから脱出できたましたが、人々は食事が少ないので「死んだ方がましだった」と不平を言いました。エジプトに居た頃なら肉やパンが食べられた、とモーセたちを責めます。神様は天からパンを降らせて、人々に与えました。

このときの人々は、エジプトから出てきたことを後悔し、それをモーセの責任にしました。この人たちはその後、どうしたのでしょうね。うずらの肉を食べ、マナ(パン)を食べ、それでも「腹いっぱい食べられたのに」と満足しなかったかもしれません。現実を受け入れず、過去をふりかえり、不満を言い続ける、、、そんな生き方は不幸だと思います。

一方のモーセは幸せです。現実のさまざまな苦難を受け入れて、感謝しているからです。あり余るほどの食事ではありませんが、必要な食事があることに感謝しました。そして神に感謝して、いつかたどり着くであろう約束の地に希望を抱きます。

人生の中で、色々なことが起こります。後悔することもあるでしょう。でも、現実を受け入れることができたなら、何とか生きていくことは可能だと思います。それは、とても厳しいことかもしれません。でも、そんなぎりぎりの恵みであっても、感謝することが未来につながります。

厳しい現実を変えることは難しくても、自分の心は変えることができます。どんな状況であっても、腐らず、あきらめず、ただ前に向かって生きることができたなら、いつか感謝の気持ちがわいてくるでしょう。そして、いつか希望の光が見えてくるのだと思います。

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »