« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

2009/06/28

世にある造られた物は価値がある

今日は久しぶりに所属教会でミサに与りました。少し時間があったので、近くのお寺の前を通ると、父の日に合わせてプレゼントの語源のお話が書かれていました。プレゼントの語源はプレゼンス(presence)、つまり「存在」であるとの記述がありました。あなたが目の前に存在していること、それこそが最高の贈り物なのだと。なかなかよいお話でした。

今年の父の日は、娘がケーキを作ってくれました。とってもおいしいバナナのケーキでした。とてもうれしかったのですが、それよりも娘が元気なこと、息子が元気なこと、それ以上にうれしいことはありません。

調べてみると、プレゼントは新英和中辞典 第6版 (研究社)によると

 ラテン語「前にいる[ある]」の意 (PRE‐+esse [ラテン語の be 動詞]+‐ENT)

と書かれています。さらにesseをしらべるとWikipedia

エッセ(ラテン語:Esse)は、キリスト教のスコラ哲学における神学用語で、神から事物に付与される「存在性」を意味する。ラテン語の動詞 essere(存在する・ある・コプラ動詞)の不定形である。ヘーゲルやハイデッガーの哲学用語としての「ザイン Sein(「存在する」という動詞の不定形)」は、エッセの概念を参照している。

とされています。自分の存在そのものが神様のプレゼントだし、神の前に存在存在できること、つまり信じることができることもまた、プレゼントだと思いました。

そんな気持ちを抱いて、ミサに与ると第1朗読にこんな言葉がありました。

「世にある造られた物は価値がある」

どうですか。すごいと思いませんか。まるで用意されたような聖句です。このような出来事、普通に言うと偶然が重なったとき、そこに神様のご計画を感じてしまいます。

そんな出来事に感動していると、さらに福音朗読ではこんな言葉が読まれました。

「恐れることはない。ただ信じなさい」

本当に神様には勝てません。私は神様に贈られたこの存在を感謝し、導かれる道をただ歩んでいくだけです。「主よお話ください。僕は聞いております。」そんな心境でした。

すると、奉納の歌は典礼聖歌184番「わたしは静かに神を待つ」でした。

 神は私のよりどころ、私の砦、私の救い
 私は決してゆるがない、私の希望は神のうちにある
 私は静かに神を待つ、私の救いは神から来る

わかりました。あせらずに神様を信じいれば良い。ただそれだけでよいのですね。


<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/06/27

どんな傷だって大切な思い出にきっとできる

NHK連続TV小説「つばさ」。ようやくコメディタッチにもなれてきました。

今日は夫の昔好きだった人を知って傷ついたお話でした。つばさはラジオを通してこう語りました。

 許せないと思うなら痛い傷のままです。
 そのきずがあったからこそ、二人は出会えたのです。
 そう思うことができれば
 どんな傷だって大切な思い出にきっとできる

そして番組の最後のナレーションが入りました。

 傷を癒してくれるのは時間、家族、友達

確かにそうですね。傷があったからこそ、今がある。人生に無駄なものは何一つない。苦しみも悲しみも大切な宝物だと思います。そして傷を癒してくれるのは、時間と、家族や友達でしょう。

でも、本当の苦しみの中で、周りの人さえも信じられなくなった時、最後の希望は自分が生まれてきたことには意味があると言うことです。

自分の存在そのものに意味があり、乗り越えられない試練はない、そんな希望があるからこそ、どんな傷だって大切な思い出に必ずできると思えるのだと思います。

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/06/21

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

昨日は分かち合いに参加しました。福音は「突風を静める」(マルコ4・35-41、リンク先は日本聖書協会)でした。

イエスに「向こう岸に渡ろう」といわれて、弟子たちは船で移動します。突風が起こり船は水浸しになりました。しかし、イエスは船の最後部で寝たままです。弟子たちが「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」とイエスを起こすと、イエスは「黙れ。静まれ」と風を止めました。そしてイエスは言います。

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

すごい言葉です。人生の荒波の中で、苦しいこと、大変なこと、つらいこと、色々あります。神に助けを求めたいこともたくさんあります。でも、神様は言われるのです。

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

いつもそばにおられる神様は、居眠りをして何もしてくれないと思うかもしれません。映画のブルース・オールマイティのようについつい神様に不満を感じます。そして、ついつい「急いで助けに来てください」と叫びそうになります。

でも、そんなことはないのです。信じていれば何も怖いことはありません。乗り越えられない試練は与えられないし、苦しいことも全て必要なことなのです。今日から、この言葉を自分に問いかけながら、力強く生きていこうと思います。

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/06/14

「子どもの祈り」と「十戒」

桂教会では、ミサや集会祭儀の時に「子どもの祈り」を唱えます。

とても長いお祈りです。どうしてこんなに長いのかと思っていたのですが、プリントをいただいて、モーセの十戒(リンク先はWikipedia)が中に含まれていることに気付きました。以前、MAGISさんが書かれていたようにカトリックでは置き換えられることの多い、第二戒の偶像崇拝もわかりやすい祈りになっています。子供たちにとってとても良いお祈りだと思いました。

   + 子どもの祈り +

イエス様、ごミサにあずかれたことを 感謝します。

世界の全ての人が 平和になるようにしてください。
病気の人、つらい気持ちでいる人を 助けてください。
私たちの家の人、ご近所の人、学校の皆に、お恵みをお与えください。
私たちが、神様のよい子になれるよう、導いてください。

私たちは、神様だけを 神様として 敬います。
私たちは、いつも神様に向かって お祈りします。
私たちは、神様のお名前を 大切にします。
私たちは、日曜日を 神様の日として お祈りと 人に親切にする日とします。
私たちは、お父さん お母さん おじいさん おばあさんを 大切にします。
私たちは、人を傷つけたり 人のいやがることをしません。
私たちは、からだを 神様の神殿として 大切にします。
私たちは、人の物を とったり こわしたりしません。
私たちは、うそをつきません。
私たちは、むやみに 物をほしがりません。

マリア様、今週も私たちが、あなたのように、美しい心で、よい子でいることができるよう、見ていてください。アーメン。

   +   +   +

いかがでしょうか?

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

流れのほとりの木のように - 桂教会の集会祭儀 -

今日は桂教会の集会祭儀に参加しました。集会祭儀と言うのは、ミサと違って神父様がおられず、信者たちだけで祈ります。このため聖変化がなく、もちろん御血の拝領もありません。信者たちで祝い、御言葉を味わい、あらかじめ用意された御聖体をいただくのです。なんとなくキリシタン時代の信者が信仰を守る姿を思い浮かべたりして、結構好きです。

集会祭儀の入祭の歌は典礼聖歌153番「流れのほとりの木のように」でした。

流れのほとりの木のように
神に従う人は実をむすぶ

神の定められた流れに従うならば、時が来れば実を結ぶことができる。認め難い現実も受け入れて、ただ誠実に生きることが実を結ぶことにつながる。そんな思いが浮かぶ歌でした。

神父の説教にあたるお話は「勧めのことば」になります。世の中に数多くある検定の中には聖書検定なるものもあるそうです。そして、その初級には、福音書の数や新約聖書の文書の数を問う問題があるそうです。

簡単な質問であってもついつい間違えてしまうもので、以前、奥村神父の黙想会で「主とは誰か?」と問われて「神さま」と答えてしまったお話をされました。ミサの中で「私たちの主、イエス・キリストによって」といつも言っているのに間違えてしまった。聖母マリアへの祈りも出てこないことがあったと、信仰の薄さを語られて謙遜されていました。

そして、あるミサの中で神父が真剣に祈られていたことを取り上げられ、「私たちの主、イエス・キリストによって」と祈ることの大切さを語られていました。

拝領の歌は典礼聖歌96番でした。所属教会では聖水による祝福を受ける際に良く歌うのですが、御聖体をいただいた後に

この水を受けた すべての人は 
救いの喜びに 声あげて歌う 
アレルヤ アレルヤ

と歌うのも良いものですね。救いの喜びを今日も感じることができました。

神に感謝!

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/06/07

お昼寝

仕事がたまっていたけれど、なぜかやる気がおきずにお昼寝。
やかましいTVは消して、ぎらぎら画面のパソコンも消して、
まあいいや、とお昼寝。

目をつぶると、当たり前だけど何も見えない。
聞こえるのは風鈴の音、感じるのは優しい風、
それ以外何も感じない。

ゆったりとしたひと時、
満たされた気持ち、幸せな時。

そっと耳を澄ますと子供の遊ぶ音がした。
アウグスチヌスは子供の歌が聞こえて回心したんだ。
そんなことを考えていると、すぐに聞こえなくなった。

聞こえるのは風鈴の音、感じるのは優しい風、
それ以外何も聞こえない、何も感じない。
満たされた気持ち、幸せな時。

そっと目を開けると、お日様がさしていた。
少し元気がわいてきた。

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

あなたが望まれずにこの世に生まれてきたわけではない

NHK連続テレビ小説「つばさ」は、やはりコメディタッチがなじめないものの、今回も良いお話でした。
斉藤由貴(なつかしい!)扮する紀菜子は、自分の名前をかわいいと思っていましたが、本妻の子供が加乃子であることを知り、「鹿の子」は主役だが「きなこ」は脇役だと思ってしまいます。そして、愛人の子供として生まれた自分は望まれない子供だと思い悩みます。

そんな紀菜子を思いながら父が作った菓子「千日草」がありました。それは離れて暮らす紀菜子を思い、その菓子を作ったのでした。そして、本妻は夫の浮気を憎みながらも、ラジオをとおしてこういいます。

「和菓子には必ずそれが世に出た由来がある。どんな菓子にも、生まれるべき理由がある。それは人間も同じこと。あなたが望まれずにこの世に生まれてきたわけではない(略)。そのことを決して忘れてはだめ(略)。」

この言葉、どこかキリスト教と通じるところがあります。世界の創造主である神は、世界の完成に向けて人間を作られました。そして、生まれてくるすべての人を愛されています。すべての人が望まれて生まれてきたのです。

人と人は、ついつい争ってしまいますが、神様はすべての人を愛している、すべての人が大切である。私はキリスト教を通してそう思います。しかし、すべての人がかけがえのないものであることは、宗教に関係なく生きていく上でとても大切なことだと思いました。

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/06/06

神の愛に希望を置く

今日は茨木教会のミサに与りました。
福音は「弟子たちを派遣する」(マタイ28・16)でした。説教ではイギリスの無神論者たちが行った広告のお話から始まりました。これは、Good News Collectionの「『たぶん神はいない』というイギリスのバスの広告」で書かれていたお話のようです。「神はいない、だから人生を楽しもう」という広告に対して、私たちは福音にあるように「父と子と聖霊の名によって洗礼」を受けました。私たちのそばには、いつも神さまがおられるのです。というお話でした。

このお話を聴きながら、答唱詩編を歌いながら涙を流してしまったことを思い出しました。

 神の注がれる目は神をおそれる者に
 神の愛に希望をおく者の上に

この歌詞を読んで、感動的とは思いませんか。神の愛に希望を置くものには神の目が注がれている、いつもそばにいる神が、苦しいときも悲しいときも、じっと見ていてくれている。だから、希望を失わない、だいじょうぶだ!そんな気持ちがこみ上げてくるのです。

実はその思いにも理由があります。今月号の心のともしび機関紙のテーマは「光」でした。良いお話ばかりなのですが、その中でも橋本勲神父の「あなたがたは世の光(リンク先で全文読めます)」に感動したからです。

聖書のはじめの「光あれ」という言葉は、世界の出発点出の光で、太陽や月の光でなく、世界の内側にともされた光だそうです。それはすべてのものが本来持っている光です。

ですから新約聖書も「あなたがたは明るく振る舞って、光る者になりなさい」というのではなく「あなたがたは世の光である」(マタイ5・14)と、明確に断言し、宣言しています。

これはエッセイストの三宮麻由子さんが「内なる光に気付けば(リンク先で全文読めます)」にも書かれています。ゲーテのように「もっと光を」と外から光を得ようとしなくても、一人一人の内なる光、神さまに与えられた光をしっかり見つめれば良いのだと思います。

でも言葉ではわかっていても、自信のないときもあります。そこで今日の答唱詩編です。自分の光を見失いそうなときでも、神の愛に希望をおけば神は見ていてくださる。そう歌いながら涙したのです。さらに説教では「いつもそばにいてくださる」とまで言われたのです。これだけ心強い言葉が揃えばもう何もいうことはありません。

「必要なものは与えられる」強くそう思ったミサでした。

神に感謝!

<')))><

| | コメント (0) | トラックバック (1)

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »