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2009/04/30

負けを認める

20年ほど前のことです。自動車事故に遭いました。
渋滞する4車線の道路にT字に接する細い道から右折しようとしていました。運良く譲ってもらって前に出たところに、ゼブラゾーンを走ってきた車が突っ込んできました。

先には大きな交差点があって、そこの右折レーン目指して車が走ってきたのです。相手は遠方かつ友人の車とのこと、自分の車は自分で修理するいわゆる「持ち持ち」で決着しました。せっかくのお出かけだったのに納得が行かない気持ちでしたが、相手が飲酒運転でないと、100%相手の責任と言うことはありません。

「俺の責任じゃないだろ!」そんなことは良くあります。交通事故なら判例も多く、第3者が入ることも多いのでしぶしぶ納得できます。しかし、人生には納得が行かないこともたくさんあります。

同じような表現に「神さまに負けた」があります。このブログでも何度か使いましたが、それは自分が完全ではないこと、一人で生きているのではないことを認めることです。

誰しも自分の生き方に何らかの自信を持っています。誰にも負けない人生とまではいかなくても、自分はついているとか、まじめに生きてきたとか、プライドのようなもを持っている方も多いのではないでしょうか。

自分はしっかりやっている、だからうまくいく、たまにうまくいかなくても、後悔もほどほどに、別の言い訳を求めがちです。でも、イエスの生き方に比べたなら自分のプライドや正しさなんて大したものではありません。だから、負けを認めることができるのです。

負けを認めれば自分の弱さが、自分のずるさが見えてきます。自分ひとりで生きている人はなく、間違いを犯さない人もいません。負けを認めると、もっと良い生き方が見えてくるはずです。

別の負け方もあります。自分はついていない、だめな人間だと落ち込むことがあります。何をやってもうまくいかず、なぜ自分だけがこんなに苦しいのかと思うこともあるでしょう。

一人で生きていることが、自分を追い詰めてしまいます。生きる意味さえ見失うかもしれません。でも、それはそれで自分勝手なんです。自分ひとりで生きている人なんていません。

誰もが神さまに愛されて、生まれてきました。いつだってそばで、共に苦しんで、共に悲しんでおられます。そして、イエスの生き方を通して、だいじょうぶだよ、わかっているからと語りかけているのです。

負けを認めて、自分がひとりではなく、神様がいるから満たされる、そのことが確認できたなら、たった一人の苦しみから逃れられます。愛のありがたみを感じられます。

自分で生きていると言うのは傲慢、自分ひとりだと思うのも傲慢なのです。誰しも負けは認めたくありませんが、負けを認めることでもっと大切な「希望」と「愛」が(もちろん信仰も)手に入るのです。

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2009/04/27

イエスを通して

今日のミサは、予想していなかったのですが、大司教司式でした(ちょっと驚きました)。
説教は「弟子たちに現れる」(ルカ24・35-48、リンク先は日本聖書協会)でした。説教では、少し前のエマオからの話を振り返られました。

エマオへ向かう道で弟子たちは聖書の話をイエスから聞きました。そして、今回の福音では、「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」聖書のことを語られます。

私たちが聖書を読むとき、人生を歩むとき、イエスを通して、イエスの生き方を通して考えなければなりません。そしてイエスとつながる枝として留まることが大切なのだ。と語られました。

このお話を聞いて、イグナチオの霊操を思い浮かべていました。今、「混沌の中の光り -信徒が歩んだ「霊操」の道」(リンク先はGood News Collection)という本を読んでいるのですが、ここに書かれている体験は、まさにイエスにとどまり、イエスを通して生きることだと思います(もう少し読み進んだら感想を書くつもりです)。

日々生活していると、さまざまな思いがあります。時にこだわったり、感情にとらわれたりしがちですが、イエスを通して見直してみることで、心の自由、心の平和が得られるのだと思いました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/04/23

あらゆる国の人々に宣べ伝えられる

昨日は入門講座のサポートチームのミーティングでした(お茶係りと演奏係を募集中です)。ミーティングと言いながらもそこは教会、次の日曜の福音を分かち合いました。

福音は「弟子たちに現れる」(ルカ24・36-48、リンク先の日本聖書教会で本文が読めます)でした。先週に引き続いて、イエスが現れて「あなたがたに平和があるように」と言われます。そして、今度は魚を食べて亡霊でないことを示されます。そして、旧約に書かれたキリストの復活が実現し、『罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と言われます。

この言葉にちょっと感動しました。イエスはこれまでもその救いが世界に広がると言われていましたが、復活の後にいよいよ宣言されたのです。このときまで、神の救いは(基本的に)ユダヤ人のものでした。しかし、この時から世界に広がり、やがて私のところにまで述べ伝えられたのですね。

神さまのご計画は「すごい!」と思いました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/04/21

「あなたがたに平和があるように。」

土曜日は茨木教会で主日のミサ、夜には高槻教会で聖書の分かち合いをしました。
福音は「イエス、弟子たちに現れる/イエスとトマス/本書の目的」(ヨハネ20・19-31)で、ミサの説教では鍵がかかっているにもかかわらず、真ん中にイエスが現れたことを取り上げられ、かたくなに拒否しても神さまが現れると言うことを話されました。分かち合いでは、イエスとの出会いが話題になり、色々な人のイエスとの出会いを分かち合いました。

この福音の中で、私は「あなたがたに平和があるように。」というイエスの言葉が響きました。この4月から異動になり、仕事がとんでもなく忙しいのですが、なぜか平和です。

以前だったらストレスがたまり、大きな声の一つも出していたでしょう。でも、いまは「しょうがないよね」とか、「気を使ってもらって悪い」などと考えています。体は大変でもなぜか心は平和です。どうしちゃったんでしょうね。とても幸せです。

「幸せ」というと、願いがかなうようなイメージもありますが、心が穏やかなこと、それに勝る幸せはありません。どんな仕事であっても、ありがたくさせていただく、そんな気持ちがあれば、自然と仲間が増えていきます。どれもこれも信仰のおかげだと思います。

この春、娘が新しい道を歩みだしました。緊張することや、ストレスを感じることもあるでしょう。でも、大丈夫だと思います。神様は超えられない試練は与えられません。

息子は、来春からの進路を決めようとしています。第一希望であっても理想の未来でないことが引っかかっているようです。でも、大丈夫だと思います。その時々を大切に生きていれば、必ず得るものがあるはずです。

どんなことがあっても大丈夫です。うまくいっても幸せだし、うまくいかなくても別の未来がある。意地を張ったり、腐ったり、人生を無駄にすることさえなければ、きっと良いことにつながります。

だって「あなたがたに平和があるように。」と神さまが言われているのですから、きっとそうなるに違いありません。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/04/15

見えないものを信じる

主の御復活おめでとうございます。
今年の復活徹夜祭は、2回目の代父をしました。急に仕事が忙しくなって、どうなることかと思いましたが、主が備えてくださった(ヤーウェ・イルエ)ようです。

復活徹夜祭では聖書の朗読が多く、所属教会では抜粋して読まれました。創世記からは天地創造と、アブラハムがイサクを捧げようとする所です。天地創造では「光あれ」と神の栄光を示され、7日目に休まれたこと。これは一週間の起源と言われています。

神の命令にしたがってアブラハムがイサクを捧げようとした話は、いよいよと言うときに神が止め、イエス・キリストを示すと言う身代わりの羊が用意されました。そして、その地は「ヤーウェ・イルエ」(神は備えて下さる)と名付けられました。

出エジプト記からは、神の取り計らいによってユダヤの民がエジプトから脱出したときのお話です。エジプト軍に追われていよいよだめかと言うとき、モーセが杖を高く上げると、が海が二つに割れて難を逃れたお話です。人々にかかった二つに割れた海の滴が洗礼を表していると言われています。

イザヤの預言からは、あがないの主が見捨てられることがないことが、パウロのローマの教会への手紙からは、我々が洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものになり、罪に対しては死んでいるが、神に対して生きているというお話でした。

福音では受難から3日目にマグダラのマリアらが墓を訪ねると、すでに墓の石がよけられていて、復活したイエス様の姿を見ることができなかったお話でした。

神様の姿を誰も見ることができません。世界を創造し、完成に導く神、その姿を誰も見ることができないのです。哲学の世界でも神の存在証明が試みられましたが、神は存在するともしないとも証明できませんでした。

しかし、私は神の存在を是とします。神の存在がなく、すべてが偶然であると仮定しても世界は存在しますが、私の存在理由が存在しなくなります。すべてが偶然であるなら、苦しみも偶然、喜びも偶然、すべてが偶然になってしまいます。

神の存在を是としたなら、すべての物事に意味が存在します。すべてのことが世界の完成には欠かせないのです。私が生まれたこと、あなたが生まれたこと、そしてあなたがこの文章をごらんになっていることもすべて意味があります。

人生にはさまざまな出来事が生じます。幸せなことばかりではありません。苦しいこと、つらいことがたくさんあります。偶然と思うなら自分に生じる不幸な出来事を不条理だと思うでしょう。人生の幸せに傲慢になり、不幸に落ち込むことでしょう。

神の存在を認めたなら、苦しい出来事に意味を考えることができます。すべてのことに意味があるのだからと、その時の自分にしかできないことや最善の策を考えます。幸せには感謝して、不幸な出来事もチャンスに変えることができます。神の存在が世界を変えるのです。

所属教会の復活徹夜祭では、21名もの方が神さまを是とされました。苦しみに負けない心を与えられたのです。
洗礼を受けられた皆さん、おめでとうございます。もうだいじょうぶですよ。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/04/06

泣く

近所のお父さんに見守られながら子供が遊んでいました。しばらくすると子供の大きな泣き声が聞こえてきました。きっと曲がろうとしたときに倒れてしまったのでしょう、子供が自転車にまたがったまま、お父さんによしよしとされていました。

子供は良く泣きますよね。怪我をしたときや迷子になったときも泣きます。とにかく、自分の思い通りにならないときに、すぐ泣きます。

でも、たまに迷子の子供などは、必死に親を探しているときは一切泣かずに、親の顔を見つけると、ほっとしたのか急に泣き出すときがありますよね。心理学的なことはわかりませんが、一人で頑張っているときは泣くどころではなく、心が開放されたときに感情がこみ上げてくるのでしょうね。

ミサに与っていると、なぜか涙が出てくることがあります。きっと日々の生活で緊張していた心が開放されて、涙が出てしまうのでしょうね。すべてをわかっている神様に、いまさら打ち明けたところで何も変わりません。しかし、そこでは何も頑張る必要がなく、無理に自分を取り繕う必要もなく、苦しみや悲しみ、すさんだ自分の心を解放して、神さまのよしよしを願うことで、ほっとして、心が開放されるのでしょう。

神に感謝!

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2009/04/05

棕櫚の葉を手に持って♪

Sakura今日は枝の主日、ミサ前に枝をいただいて行列するつもりが電車に乗り遅れてしまいました。妻と険悪な雰囲気になる中で、ふと思いついて河原町教会に行きました。

河原町教会は10時からなので、時間に余裕があります。少しだけ遠回りして高瀬川沿いを通りました。「人生の全てのことに意味がある」とは、こういうことを言うのでしょうね。4月から仕事が忙しくなったので花見はあきらめていたのですが、見事な桜、桜、桜、言うことなしです。妻の機嫌も直りました。

河原町教会は所属教会のような枝を持っての行進はありませんでした。入り口で枝をいただいて、司祭が水で祝福しながら入堂するというスタイルです。この枝、所属教会ではソテツなのですが、河原町は「棕櫚」でした。教会によって、ソテツ、棕櫚、オリーブのところがあると聞いていたのですが、初めての経験です。すばらしいお恵みです。人生には色々な問題が生じますが、その時々にベストを尽くせばきっと良いことに繋がると思いました。

さて、今日の福音は3人の朗読+会衆でイエスの裁判から受難までを描いたものでした。特に会衆の「十字架につけろ」という言葉は、自分たちのためにイエスの受難があったと思わせる言葉でした。

説教では、神の子が受難にあった理由を語られました。神の子でありながら、なぜ裁かれたか、それはその自由さえも与えるほど、神が愛されているからだ、との説明に、納得しながらも「『ぶどう園と農夫』のたとえ」(マルコ12・1-12)を思い出していました。

農夫たちは主の農地で得た収穫を自分たちのものにして、送られてきた僕たちを袋叩きにしたり、殺したりします。最後に『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』(日本聖書協会 新共同訳)と息子を送るのですが、愛する息子も殺されてしまいます。

この話は、イエスの受難を表していて、私たちが「十字架につけろ」といったのも、自分たちの傲慢さからだったのだと思いました。

また、カトリック生活の4月号の「マリアと共に歩む十字架の道行き」(pp.15-19)という記事も思い出しました。この記事は、聖母マリアの視点での十字架の道行きです。その第1留にはこう書かれています。

第一留 わが子は死刑を言い渡されます。
 わが子を見たのは、金曜の朝早くでした。昨夜、連れ去られて以来、初めて見るわが子でした。肌はあざに覆われ血を流していました。私の心は痛みの剣に刺し貫かれ、涙が頬を伝いました。
ピラトが、「なぜこの男を十字架につけたいのか」と群集に尋ねると、私の周りにいた人々は皆、叫びました。「十字架につけろ!」と。私はそこに立ったまま、静かに泣いていました。

黙想
 主イエスよ、あなたが宣告を受けたとき、あなたの母が感じられた苦悩は私の想像を超えています。今日、私が心の中に憎しみを抱き、人を裁くとき、私は、「十字架につけろ!」と叫んでいるのです。あなたとあなたの母に、悲しみの涙を流させているのです。
イエスよ、私をゆるしてください。


閉祭の歌「しゅろの葉を」の3番はこんな歌詞でした。

Eda2009
棕櫚の葉を手に持って 救いの主を迎えよ
喜びのほめうたを ホザンナと声高く

み苦しみの日近く われらの罪のために
いえにえとなり 献げたもう主


いよいよ来週は復活祭です。四旬節の残りの日々を大切にしたいと思います。

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