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2009/03/09

これはわたしの愛する子

今日のミサは色々な思いが重なり、とても良いミサでした。

まずは第一朗読。アブラハムが紙の声に従ってイサクを献げ物にしようとすると、神が止めて代わりに雄羊を献げたお話です。このお話に出てくる雄羊はイエス・キリストを表していると言われています。

そう思って読み直すと、このお話は人生の苦しみを表しているように思えます。イサクを献げると言うのは、どうしようもない人生の苦しみの中を表していて、それを神さまが止めたのです。苦しみを止めるためにキリストが犠牲になったのです。人間が、そして私たち一人一人が、キリストに救われる様子を描いた話のように思いました。

そして、福音は「イエスの姿が変わる」(マルコ9・2-10)でした。主の変容と呼ばれている場面です。3人の弟子たちの前でイエスの姿が輝いて、彼らを覆った雲の中から

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

と声がするお話です。説教は黙想会の指導に来て頂いた西経一神父(神言会)でした。

西神父の修道院では、若い修道士から前に座り、後ろの方に年配の方が座られるそうです(西神父は前から3列目あたり)。朝の5時半に起こされて、ついつい、うつらうつらとしていると、後ろから咳ばらいが聞こえてくるそうです。しかし、それが成熟したお祈りであるとのこと。

ミサに出ると安らぎを感じるとか、落ち着くとか、何らかの効き目を期待するのは、初心者やたまに来る人の恵みだそうです。そうでないと来なくなるからです(ちなみに、神さまの声が聞こえたなら、病院に行った方が良いそうです:-)。

朝早くから起こされて、ただ眠気を感じるだけで、それでも行くのが成熟した祈りです。祈っても苦労をするし、嫁と姑が仲良くなるわけでもない。それでも祈るのは、祈りとは何かを理解しているからです。

それは、毎日、朝早くから起きて、子供に食事を作るのと同じです。食事を作っても感謝されることはありません。子供を起こしてあげると機嫌が悪く、食事をしていても不機嫌です。それでも毎日作るのは、それが「愛」だからです。

祈りも同じです。何も得られなくても良いから祈るのが、神への愛です。

福音では、イエスが奇跡を起こしたからではなく、説教をしたからでもなく、単に

「これはわたしの愛する子」

と父なる神が言われます。

赤ちゃんのおむつを替えたり、泣いたら抱き上げて「よしよし」と言う。それと同じ「愛」です。子供が立派だからではなく、無力な子に「よい子だ」と言うのです。だから「私の愛する子」と父なる神が言ったのです。

良い行いをしたから救われるのではなく、「罪人」であるにも関わらず救われる。それが「福音」なのです。

黙想会の記事に続く

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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