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2009/03/30

一粒の信仰の種

日曜は久しぶりに河原町教会でミサに与りました。
福音は「ギリシア人、イエスに会いに来る/人の子は上げられる(ヨハネ12・20-33)」(リンク先は日本聖書協会、聖書が読めます)でした。説教では、

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

という言葉を取り上げられました。朝顔も種を植えただけでは大きくならない。水をあげ、肥料をあげることで、種の殻が死に、芽が出て大きくなり、やがていろいろな色の花が咲く。イエス・キリストの死という恵み、それによっていただいた一粒の信仰の種に水や肥料を与えましょう。というお話でした。

このお話を聞いて、確かに水や肥料が大切だと思いましたが、ふと妻のことを考えました。うちの妻は仕事で疲れるようで、いつもお祈りをしているからと、あまりミサに与りません。しかし、たまにミサに与ると、とても幸せそうな顔をしています。

考えてみると、人それぞれに、水はけが異なるのかもしれません。あまり熱くなりすぎて、肥料を与えすぎると根腐れすることもあるかもしれません。人付き合いと同じように、神さまとの程よい距離というのがあるのかもしれませんね。

そんないい加減で良いのかという気持ちもなくはないです。しかし、神さまはいつもそばにいてくださるし、すべてご存知、慈しみ深い神さまに対して何も心配することはありません。適度の水と、適度の肥料、うまく育てることが大切なのでしょう。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/03/28

人の子が栄光を受ける時

所属教会の入門講座に時々休みながらも3年半ほど通いました。仕事帰りに通っていたのですが、残念ながら4月からは仕事の関係で通えなくなりました。最後の入門講座も、日曜の福音「ギリシア人、イエスに会いに来る/人の子は上げられる(ヨハネ12・20-33)」(リンク先は日本聖書協会、聖書が読めます)を分かち合いました。

この福音には「時」という言葉が何度か出てきます。イエスの3年間の公生活の中で有名なのは、「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・14-20)にある

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)

ということばでしょう。また、「カナでの婚礼」の言葉も有名です。

イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2・4)

日曜の福音では、ついにこの時が近づきます。

イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12・23)

これは、主が上げられ復活される時です。不条理な運命を受け入れることで、永遠の生命に生きる時なのです。

ついに私の時も満ち、入門講座は卒業です。自らの運命を受け入れて社会に派遣されるのです。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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「貧者の一灯」と「やもめの献金」

仏教の説法に「長者の万灯より貧者の一灯(リンク先は日本辞典)」というものがあります。お釈迦さんが来られるからと金持ちは1万もの灯篭をともし、貧乏な老婆はなけなしの(物乞いしたとか、髪の毛を売ったという説もあります)お金で一つの灯篭をともしました。すると金持ちの明かりは明け方には燃え尽きていたのに、老婆の明かりはさらに輝きを増していたというお話で、わずかでも真心のこもったものが尊いというお話です。

このお話は、以前ここの勉強会の記録にも書いた「やもめの献金(リンク先は日本聖書協会、本文が読めます)」と似ています。こちらは、貧しいやもめ(未亡人)が献金する様子を見たイエス・キリストが、

「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12・43-44)

と言われるお話です。これは、福音のヒントにあるように生活のすべてを差し出したことを、神はわかられているのです。

このような目で貧者の一灯を読むと、キリスト教との違いに気づきます。貧者の一灯では、なぜ明け方でも灯りが灯っていたのかが書かれていません。聖書の中の話なら「カナでの婚礼」(ヨハネ2・1-12)のように、神さまの力によって奇跡がおきますが、貧者の一灯では書かれていません。たぶん、世の中の道理としてその事実を悟るのでしょうね。

これに対して「やもめの献金」では、全知全能の神が介在します。誰もわかってくれないほんの少しのお金ですが、「生活費を全部入れた」と神はわかってくださるのです。それは、どんな人間であっても、その存在を喜び、受け入れ、愛してくださる神です。

この二つの話は、ともに量ではなく、心だという点で一致しています。しかし、そのことを知るだけでなく、神に思いをめぐらして幸せに満たされるという点がキリスト教らしいと思います。

もちろん、仏教にも慈悲という言葉はありますし、慈悲によるという解釈も可能でしょう。一度、「貧者の一灯」という言葉で検索してください。そこには、さまざまな解釈があります。本来の意味と異なる解釈は容易に見つけることができますが、慈悲に結びつく言葉は、なかなかありません。それは、根底にあるメッセージが異なるからだと思います。

全知全能の神は世界を造られ、完成に導かれている。すべては良いもので、私もあなたも良いものである。神はすべてを受け入れて愛してくださる。だから私たちも他の人を大切にして受け入れ、愛し合うことができる。そんなキリスト教の根底にあるメッセージを、私は「福音(Good news)」だと思います。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/03/21

急いで助けに来てください

復活祭(イースター)前の四旬節に、一度はするようにといわれている十字架の道行きは、元々はエルサレムでイエスの受難の道のりをたどるという信心でした。それがエルサレムの治安の悪化に伴って、エルサレム以外の土地でも行われるようになりました。

洗礼を受けた年から十字架の道行きの信心をしていましたが、感じ方は毎年違うものですね。以前は「信仰の弱い私を助けてください。」という言葉が響いていました。信仰の入り口で、戸惑っていたのかもしれません。

今年は、最初の言葉が響きました。

「神よ、わたしを力づけ、」
「急いで助けに来てください。」

いつもそばにいてくださる神というのは理解しているつもりです。しかし、言いようのない気持ちで心がいっぱいになったとき、心が神様から離れています。この言葉は、神を擬人的に、素直な心の叫びを表現しています。

全知全能の神ですから、そんな私の気持ちなんてお見通しです。でも、気持ちを素直に表現すると、心の中につかえていたものが消えたような気がしました。

わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(マタイ11・29)

まだまだ学ぶことがあるようです。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/03/20

充実した人生を生きることができるように

このブログの管理人さかばは、カトリックの洗礼を受けていますが、このブログにはあまりカトリックの教えにはないことも書いています。特に気になる記事は「私にとって神とは」のカテゴリーに入っています。今回扱う聖書の翻訳は、かつてこのブログで議論になったように神学と強く結びつくもので、異なる意見をお持ちになるかもしれません。様々な個人の意見のひとつとしてお読みください。

今回紹介するのは、コンピュータサイエンスの研究や電子製版ソフトTeXで有名なドナルド・E・クヌース先生の「コンピュータ科学者がめったに語らないこと」(エスアイビー・アクセス)の一節です。この本はMIT(マサチューセッツ工科大学)の「神とコンピュータ」と題する講義の記録です。そこでは、ルーテル教会のクリスチャンであるクヌース先生が長期休暇を利用して行った、聖書のすべての3章16節を調べるという3:16プロジェクトのお話です。

このプロジェクトは、ランダムサンプリングの応用です。すべてを調べることが難しいとき、ランダム(乱数)にサンプルを抜き出すと、全体像を知ることができるというものです。TVの視聴率や政権の支持率なども同じような方法で算出されています。

サンプリングの際に純粋に乱数に従うと、ページ数の多い文書の内容に影響を受けます。そこで、各文章の3章16節を抜き出すという層化抽出方式がとられました。これは、アンケートなどでも年齢層ごとに一定人数を集めるなどされるのと同じ統計的手法です。

さて、なぜ3章16節かというと、序文でもなく、最後でもなく、多くの文書にあるという理由のほか、ヨハネによる福音書の3章16節の

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(日本聖書協会 新共同訳)

という聖句が有名であることから選ばれました。

クヌース先生は、サンプルの聖句に関する文献を可能な限り調べられたほか、聖書に関するリファレンスを利用して翻訳もされました。このヨハネによる福音書3章16節も当初は同じような翻訳をされました。

Yes, God loved the world so much that he gave his only chiled, so that all people with faith in him can escape destruction, and live forever.

大意:そう、神は世界を非常に愛されたので、その唯一の子をお与えになり、神を信じる人々すべてが滅亡を免れ、永遠に生きることができるようにした。

しかし、その後に

  • この福音書の執筆者が文の前方でなく後方をさす特殊な書き方を多用しているので、「神は世界を非常に愛されたので」というところは「神は世界をそのように愛した」とすべき
  • 欽定訳聖書で「永遠の命を持つ」と訳されるところを「永遠に生きる」としてしまった

という反省をされています。特に2番目はマタイ、マルコ、ルカの3福音書では、「永遠に生きる」という意味になっているのですが、ヨハネによる福音書の17章3節では

永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(日本聖書協会 新共同訳)

とされています。つまり、「永遠の生命」は「神の国」や「天国」に近い意味だそうです。これを、哲学者のパウル・ティリヒは

永遠の生命とは、「今現在」の贈り物である。つまり、キリストに耳を傾ける者は、すでに永遠を手にしているのだ。そういう人間は、もはや時間に駆り立てられることがない。

と述べ、さらに発展させて「永遠の現在」について

今日、永遠の生命を生きることができ、それが今も中断することなく続いている流れ-本質的に時間を超越したもの-である

という考えを示しているそうです。クヌース先生はこれがヨハネによる福音書で「永遠の生命」が意味している内容であり、「やがて」を意味するだけでなく、「現在も暗示する」とされています。

これらを踏まえて改定されたのが、以下の翻訳です。

Yes, this is how God loved the world: He Gave his Only Child; So that all People with faith in him can Escape destruction and Live a full life, now and forever.(カリグラフィーからの転記)

大意:そう、このように神は世界を愛された。その唯一の子をお与えになり、彼を信じる人々すべてが、破綻を逃れて、今も永遠も、充実した人生を生きることができるように。

私が神に出会ったこと、それは破綻から逃れ、充実した人生を送るためだと思うと、感動しました。

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2009/03/16

ほかに神があってはならない

日曜のミサは、第1朗読「十戒」(出エジプト20・1-17)の奉仕をしました。「聖書と典礼」を見るといつもより小さな字で、行間を詰めて何とか見開きに入っている長い御言葉です。

ミサが始まる前に朗読台の御言葉を確認しました。長文だけあって3ページに渡っていたものの、段落ごとに行間が開いていて読みやすくなっていました。朗読奉仕前の確認は重要です。翻訳が異なるときや、今回のようにページをめくらないといけないときもあります。あらかじめ確認しておくと、読み間違えたり、読み忘れたりすることなく、ページをめくるときにもあせることがないのでお勧めです。また、マイクのスイッチも確認しておきました。

十戒は

あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
あなたはいかなる像も造ってはならない。

という言葉から始まります。

私たちは、世界を完成に導く神を信じているのですが、ついつい別の神様を作ってしまいます。自分の願いがかなうような、そんな都合の良い神様を作ってしまいがちです。しかし、福音「神殿から商人を追い出す/イエスは人間の心を知っておられる」(ヨハネ2・13-25)に

イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

とあるように、私たちの弱い心はすでにお見通しです。自分のことだけを願っても、都合良くいくわけがありません。この春、いよいよ私は人生の転換点を迎えることになりました。こんなときは誰しもが不安を抱くものです。しかし、世界を完成に導く神の御心を信じて、一歩ずつ前に進みたいと思います。

思い起こせば、朗読奉仕を最初に頼まれたときも、入門講座でお世話になった方からあらかじめ確認しておくことを教わりました。世界の完成に向けて「神は備えてくださる」のです。明日のことまで思い悩むことなく(マタイ6・34)、神を信じて毎日を大切に生きたいと思いました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/03/10

おまえだから - 四旬節黙想会 -

今年の四旬節黙想会は神言会の西経一神父をお招きして、「回心と復活」というテーマで行われました。東京の晴佐久神父とならんでもっとも「説教」のうまい神父(リンク先はGood News Collection)と言われるだけあって、ミサの後の講話にも多くの方が参加されました。

失礼な表現かもしれませんが、武田鉄矢さんの母のイクさん、あるいは、綾小路きみまろさんを彷彿させる語り口で、何度も笑い、そして涙ぐみました。その良さを表現できるほどの文才がないのが残念ですが、内容をまとめておきます(長文なので見出しを付けました)。

◎「鳥」でなく「空の鳥」

「変わらないことを喜べるお話」と最初に述べられて、最初に語られたのは職場の中高生のお話です。西神父いわく「かわいい」学生たちにあいさつすると、入学当初は「おはようございます」ときちんと挨拶するのですが、そのうちに「ます」だけになり、最後は「す」だけになって、すれ違ったあとに陰口までたたくようになるそうです。

しかし、西神父は犬や猫じゃないからと、生徒たちを怒らないそうです。人間だけにそんな時期があるからです。

「空の鳥をよく見なさい。」(マタイ6・26、日本聖書協会 新共同訳)

とイエス・キリストは言われましたが、それは「鳥」ではなく「空の鳥」を見るのです。人だけでなくその背景を見るのです。

授業を終えて職員室に帰ってくるなり、教科書を机に「バン!」と置き、「ダメなクラスだ!」「ダメな生徒だ!」という先生がおられます。そんな先生には「生徒が寝るのは、疲れているか、授業がつまらないからだ」と諭されるそうです。良い授業は内職の手を止め、上を向き、口をポカンと開けさせることができます。眠っている子はおこさない。その背景があるのです。

勉強をするとその背景が見えてきます。「私はタヌキ、私はキツネ」それだけではわかりません。文章を読めばわかりますが、部分ではだめです。「今日、二人でうどん屋に行きました。 『私はタヌキ、私はキツネ』」うどん屋の話かもしれません(笑)。

西神父のお母さんが亡くなられたとき、工作の授業で手が進まなかったそうです。それを先生はとがめ、最後には「作れと言っているでしょ!」と髪の毛を掴んで怒られたそうです。西神父は家に帰って、亡くなった母親に訴えたそうです。そして、事実を知った先生は、翌朝、校門で出迎えて、謝られたそうです。

「鳥」でなく「空の鳥」、「花」でなく「野の花」を見るのです。

◎知ると背景がわかる、心が優しくなれる

そんな西神父のお話に、疑心暗鬼な学生たちから「実際に見せてください」と言われ、とあるカトリックの幼稚園で年長さんに研究授業をされたそうです。学生に見守られて行われた授業は、園児が大騒ぎして大変だったようです。幼稚園の先生の協力で園児が落ち着くと、ようやく授業が始まりました。

「雨が降るのはどうしてかな」そんな質問に子供たちはしばらく沈黙しました。そして、誰かが「くも」と言いだすと、全員で「く~も、く~も」とまた大騒ぎに、、、、。

でも雲は降った雨が上にいかないとできません。「じゃあ、雲はどうしてできるのかな」「年少さんならオニが上にあげると思うけど、年長の君たちはどう思う?」その瞬間に子どもたちは考えだし、授業が成立しました。冷たく見ていた学生さんも、顔色が変わるほどだったそうです。やがて子どもたちは「お日さまが水をあたためるから」という答えにたどり着きました。

それを知ると背景がわかる、心が優しくなれる。点数を取るためじゃない。見えない物を見る力があるから宗教がある。猫にはサンマを漁った漁師の苦労など過程は見えていない。でも、人間は背景を知ることができる。

このお話を聞いて、私はとても納得しました。西神父のおられる学校は、名古屋でも有名な進学校です。スパルタ的な厳しさでなく、このような心があるから、勉強ができるのでしょうね。

◎どうして、その人ですか?

西神父は卒業生たちの結婚式をされることがあるそうです。頼まれると「どうして、その人ですか?」と尋ねられるそうです。

すぐに答えられず、彼女にせかされて「髪が好きだから」と言う人がいますが、それは今だけです。「歯がきれい」「目がきれい」「スタイルがいい」も駄目です。髪は抜け、歯も抜け、目は白内障、重力で体の肉は下がる一方だからです(笑)。

こう言うときは、低い声で(甲高い声ではいけません(笑))

「だって、おまえだから」

と言いましょう。

子供もそうです。成績や頑張っているからでなく、「おまえだから」と泣き叫ぶ赤ちゃんに「よしよし」とする心で愛しましょう。

神さまは「おまえは愛する子」と言われました。神の似姿である私たちも愛されたのです。それがゆるしです。それに気づくのが回心です。

◎偶像を捨て本当の神を信じる

偶像崇拝とは比較と競争のことです。社会は競争だと言われます。年収や有給休暇の日数、会社の大きさ、何でも競い合っています。教会ではバザーでどれだけ働いたとか、病気になって入院しても薬の数や入院年数を競い合います。

美しさや貧しさも比較してしまいます。貧しいから救われるのではありません。ホームレスが天国に行き、社長が行かないのではありません。キリストは貧富の考えを壊すために言いました。それまではお金を納めれば天国に行けるという教えがあって、それを壊したのです。

神さまは祭壇に近いとか遠いとかではなく、「おまえだから」と愛されるのです。偶像を捨て、本当の神を信じる。それが回心であり、復活なのです。

◎取引でなく愛し続ける

西神父が電車で立っていると、席を譲ってくれる子供がいたそうです。周りを見渡して自分だと気づき、年寄りのそぶりで礼を言って座られたそうです。すると、その子が話しかけてきて、なんだかんだとうるさかったそうです。耐えきれずに次の駅で降りて、次の電車に乗り換えたそうです。

働いた後は「地の塩」(マタイ5・13)のように姿を消さないといけません。目立つためではありません。

逆におばあさんがバスに乗ってきて、周りを見渡した後に西神父の前に立たれたので、席を譲ろうとされたときのことです。おばあさんは意地になって座られなかったそうです。

席を譲るのもほどこしで、譲られた席を受けるのもほどこしです。その両方がそろって成立します。

愛はあなたと私です。おまえだからと神は愛されます。そして、あなただからと神を愛するのです。神と被造物は違いますが、愛においては対等です。右をぶたれて左をぶつというような取引ではなく、与え続けるのです。罵られても与えるのです。今日も明日も与えるのです。

ホスチアは小麦から作ります。つぶして、粉にされ、練られ、延ばされ、焼かれ、ちぎられ、そして食べられます。そこにありがたさがあります。

◎愛は大変

昼食の後、質問を受けて話を続けられました。

西神父はお年寄り神父の面倒を2年間見られていました。いわゆる下の世話もされていたそうです。仕事の後で疲れていたのにされました。その神父が他の人の言うことを聞かなかったからです。

できた人は損、苦労が多いのはできすぎた人です(笑)。修道会でも苦労が多いです。能力があるほど忙しいので(笑)。多く与えたものは、多く与えられます。笑顔で話すから聖人です(笑)。

愛は大変です。身を裂き、時間を割き、大変です。それができるのは「愛」ゆえです。そういうときは、信仰が大切です。

十字架は窒息死です。十字架に架けられると横隔膜が下がらなくなり、息が吸えなくなります。見ている人から「吸え!」と馬鹿にされて死ぬのです。

眠るように死んだから天国とか、苦しんで死んだから地獄行きだとか、それでは競争です。「わが神、わが神、なぜ見捨てたもうかと」言った神を信じるものが、天国だ、地獄だと言ってはいけません。

◎ちぎられたパンのように

昔、西神父が病気で入院されていた時、隣で死を目前にした男性がおられたそうです。そして、夜のお仕事をしている奥さんが看護に来られていたそうです。当時は職業に対する偏見もあったそうですが、その女性は仕事帰りに看護に来て、夜に出ていくような生活をされていたそうです。

病室には仮眠用のベッドもあったそうですが、その女性は男性が苦しんだときに気づかないといけないからと、イスにすわり、うつぶせで寝ていたそうです。

あるとき、入院すると費用もかかるので、その男性は

「もう、ブザーを押さなくて良い」

と、死んでも良いという意味のことを言われたそうです。すると女性は

「だいじょうぶ、私が働きます。それが子どもと私の支えです」

と言われたそうです。

人が役に立つから生きて良いとか、悪いとかというのはありません。

三位一体は唯一の神です。それに似せられた人も唯一です。神は「あなたは唯一だ」と言われているのです。

三位一体は、一つがちぎれたものです。クリスマスケーキも切れないといけません。結婚式のケーキカットも「初めての共同作業」と言って笑っていますが、「今日から私はこの人のために身を裂く」という意味です。誕生日のケーキも同じです。子が親に買って、親が身を裂いたことを感謝するのです。

私たちは神に似て作られた唯一のものです。自分を割いて神は与えられました。与えあうとうれしいのです。自分の命を得ようとすると失い、ちぎられたパンのように失おうとすると得るのです。信仰の目で見て捧げてください。

家族も他の人もみんな唯一の存在なんですね。お話を聞き終わったときには、「変わらないことを喜べるお話」とはどういう意味か良くわかりませんでした。しかし読み直すと、見た目や能力でなく、「おまえだから」という唯一の存在を愛すること、それが愛であり、喜べることなんだと気付きました。その心に立ち返ることが回心であり、それによってキリストが復活するのですね。

ミサの説教はこちらをご覧ください。

(この文章はメモを元に書きました。一部、表現が異なったり、聞き間違いがあるかもしれません。あらかじめお詫びします。)

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2009/03/09

これはわたしの愛する子

今日のミサは色々な思いが重なり、とても良いミサでした。

まずは第一朗読。アブラハムが紙の声に従ってイサクを献げ物にしようとすると、神が止めて代わりに雄羊を献げたお話です。このお話に出てくる雄羊はイエス・キリストを表していると言われています。

そう思って読み直すと、このお話は人生の苦しみを表しているように思えます。イサクを献げると言うのは、どうしようもない人生の苦しみの中を表していて、それを神さまが止めたのです。苦しみを止めるためにキリストが犠牲になったのです。人間が、そして私たち一人一人が、キリストに救われる様子を描いた話のように思いました。

そして、福音は「イエスの姿が変わる」(マルコ9・2-10)でした。主の変容と呼ばれている場面です。3人の弟子たちの前でイエスの姿が輝いて、彼らを覆った雲の中から

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

と声がするお話です。説教は黙想会の指導に来て頂いた西経一神父(神言会)でした。

西神父の修道院では、若い修道士から前に座り、後ろの方に年配の方が座られるそうです(西神父は前から3列目あたり)。朝の5時半に起こされて、ついつい、うつらうつらとしていると、後ろから咳ばらいが聞こえてくるそうです。しかし、それが成熟したお祈りであるとのこと。

ミサに出ると安らぎを感じるとか、落ち着くとか、何らかの効き目を期待するのは、初心者やたまに来る人の恵みだそうです。そうでないと来なくなるからです(ちなみに、神さまの声が聞こえたなら、病院に行った方が良いそうです:-)。

朝早くから起こされて、ただ眠気を感じるだけで、それでも行くのが成熟した祈りです。祈っても苦労をするし、嫁と姑が仲良くなるわけでもない。それでも祈るのは、祈りとは何かを理解しているからです。

それは、毎日、朝早くから起きて、子供に食事を作るのと同じです。食事を作っても感謝されることはありません。子供を起こしてあげると機嫌が悪く、食事をしていても不機嫌です。それでも毎日作るのは、それが「愛」だからです。

祈りも同じです。何も得られなくても良いから祈るのが、神への愛です。

福音では、イエスが奇跡を起こしたからではなく、説教をしたからでもなく、単に

「これはわたしの愛する子」

と父なる神が言われます。

赤ちゃんのおむつを替えたり、泣いたら抱き上げて「よしよし」と言う。それと同じ「愛」です。子供が立派だからではなく、無力な子に「よい子だ」と言うのです。だから「私の愛する子」と父なる神が言ったのです。

良い行いをしたから救われるのではなく、「罪人」であるにも関わらず救われる。それが「福音」なのです。

黙想会の記事に続く

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/03/02

喜びを感じることができれば自由になれる - ブルース・オールマイティ -

先日見たエバン・オールマイティが面白かったので、シリーズの最初の作品であるブルース・オールマイティ(リンク先はYAHOO!映画)を見ました(以下、ネタバレ注意!)。

うまくいかないと神さまに文句を言う、ジム・キャリー演じるブルースはそんな人間でした。あるとき、仕事の話だと思ったら神さまが現れて「不満があるなら君がやれ」と全知全能の力を与えられてしまいます。水の上を歩いたり、トマトスープを紅海に見立てて二つに割ったり、そんな聖書にある奇跡を楽しんだ後に、彼が行ったのは自分のための奇跡。

しばらくすると、人々の祈りがうるさいからと、すべての願いをかなえたものだから大騒ぎ。多くの人がくじに当選したり、落ち目の球団が優勝したり、そんなこんなで街では暴動さわぎになってしまいます。

途方に暮れるブルースに、「人間ののぞみはきりがない」「人間には奇跡を行う力がある」「自分で行わなければならない」と、神さまはどうあるべきかを説きます。そして、ブルースも神様の苦労を理解して、心を入れ替えるますが、彼は満たされません。様々な出来事の中で彼女を失ったからです。

全知全能ではあっても「人の愛はあやつれない」、その現実が重くのしかかります。ブルースは彼女が毎晩祈っていることを聞き、その祈りを調べます。彼女は、ブルースの幸せを祈っていました。ようやく、ブルースは自分のことではなく、人のことを祈れるようになりました。

彼女のことを祈ったブルースは、傲慢さの呪縛から離れ、ようやく自由になったように思いました。彼女の愛を知り、自由になったのです。そういえば、映画の最初の方で、神さまが神である証明として、ブルースの父親のことをこう語りました。

「彼は労働の喜びを知っていた。自由だった。」

ブルースは放送局で働いていましたが、不満だらけでした。傍から見れば幸せな生活であっても、現状を受け入れることができず、自分のことばかりを考えて、彼女の気持ちも考えていませんでした。

生きている中で、だれでも不満は感じます。しかし、現状を受け入れて喜びを感じられたなら、自分の心から解放されて自由になれるのだと思いました。

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2009/03/01

希望を失うか、希望を見出すか - 心のともしびと灰の授与 -

機関紙「心のともしび」3月のテーマは「希望」です。トップページの曽野綾子さんの「神に救いを求めれば」を読んで考えさせられました。

希望を失うのは、人間の運命はすべて自分の力の結果だと信じている人の特徴かもしれない。実は私たちが自分の運命について関与しているのは、ほんのわずかな部分だけである。

確かに私が生まれてきたことも、生まれながらに持っている長所や健康も、すべて与えられたもの、神様からの贈り物です。その神について曽野綾子さんはこう述べます。

ただし神は、不運や苦しみを与えることがある。一見残酷に見える苦しみによって、その人が以前には考えられなかったような見事な人に生まれ変わることを予測しているからである。

だから人はいつでも変わることができる。絶望から希望を見つけ出すことも不可能ではない。神に助けてくださいと救いを求め続けて、絶望が希望に変わった例は決して少なくないのである。

神から離れて自分一人で生きているつもりになるから、希望を失ってしまう。逆に、神を信じ追い求めれば、希望が見出せるようになるのですね。今日のミサの回心式では、灰の祝福と授与がありました。

「回心して福音を信じなさい」

という言葉が心に響きました。

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