おまえだから - 四旬節黙想会 -
今年の四旬節黙想会は神言会の西経一神父をお招きして、「回心と復活」というテーマで行われました。東京の晴佐久神父とならんでもっとも「説教」のうまい神父(リンク先はGood News Collection)と言われるだけあって、ミサの後の講話にも多くの方が参加されました。
失礼な表現かもしれませんが、武田鉄矢さんの母のイクさん、あるいは、綾小路きみまろさんを彷彿させる語り口で、何度も笑い、そして涙ぐみました。その良さを表現できるほどの文才がないのが残念ですが、内容をまとめておきます(長文なので見出しを付けました)。
◎「鳥」でなく「空の鳥」
「変わらないことを喜べるお話」と最初に述べられて、最初に語られたのは職場の中高生のお話です。西神父いわく「かわいい」学生たちにあいさつすると、入学当初は「おはようございます」ときちんと挨拶するのですが、そのうちに「ます」だけになり、最後は「す」だけになって、すれ違ったあとに陰口までたたくようになるそうです。
しかし、西神父は犬や猫じゃないからと、生徒たちを怒らないそうです。人間だけにそんな時期があるからです。
「空の鳥をよく見なさい。」(マタイ6・26、日本聖書協会 新共同訳)
とイエス・キリストは言われましたが、それは「鳥」ではなく「空の鳥」を見るのです。人だけでなくその背景を見るのです。
授業を終えて職員室に帰ってくるなり、教科書を机に「バン!」と置き、「ダメなクラスだ!」「ダメな生徒だ!」という先生がおられます。そんな先生には「生徒が寝るのは、疲れているか、授業がつまらないからだ」と諭されるそうです。良い授業は内職の手を止め、上を向き、口をポカンと開けさせることができます。眠っている子はおこさない。その背景があるのです。
勉強をするとその背景が見えてきます。「私はタヌキ、私はキツネ」それだけではわかりません。文章を読めばわかりますが、部分ではだめです。「今日、二人でうどん屋に行きました。 『私はタヌキ、私はキツネ』」うどん屋の話かもしれません(笑)。
西神父のお母さんが亡くなられたとき、工作の授業で手が進まなかったそうです。それを先生はとがめ、最後には「作れと言っているでしょ!」と髪の毛を掴んで怒られたそうです。西神父は家に帰って、亡くなった母親に訴えたそうです。そして、事実を知った先生は、翌朝、校門で出迎えて、謝られたそうです。
「鳥」でなく「空の鳥」、「花」でなく「野の花」を見るのです。
◎知ると背景がわかる、心が優しくなれる
そんな西神父のお話に、疑心暗鬼な学生たちから「実際に見せてください」と言われ、とあるカトリックの幼稚園で年長さんに研究授業をされたそうです。学生に見守られて行われた授業は、園児が大騒ぎして大変だったようです。幼稚園の先生の協力で園児が落ち着くと、ようやく授業が始まりました。
「雨が降るのはどうしてかな」そんな質問に子供たちはしばらく沈黙しました。そして、誰かが「くも」と言いだすと、全員で「く~も、く~も」とまた大騒ぎに、、、、。
でも雲は降った雨が上にいかないとできません。「じゃあ、雲はどうしてできるのかな」「年少さんならオニが上にあげると思うけど、年長の君たちはどう思う?」その瞬間に子どもたちは考えだし、授業が成立しました。冷たく見ていた学生さんも、顔色が変わるほどだったそうです。やがて子どもたちは「お日さまが水をあたためるから」という答えにたどり着きました。
それを知ると背景がわかる、心が優しくなれる。点数を取るためじゃない。見えない物を見る力があるから宗教がある。猫にはサンマを漁った漁師の苦労など過程は見えていない。でも、人間は背景を知ることができる。
このお話を聞いて、私はとても納得しました。西神父のおられる学校は、名古屋でも有名な進学校です。スパルタ的な厳しさでなく、このような心があるから、勉強ができるのでしょうね。
◎どうして、その人ですか?
西神父は卒業生たちの結婚式をされることがあるそうです。頼まれると「どうして、その人ですか?」と尋ねられるそうです。
すぐに答えられず、彼女にせかされて「髪が好きだから」と言う人がいますが、それは今だけです。「歯がきれい」「目がきれい」「スタイルがいい」も駄目です。髪は抜け、歯も抜け、目は白内障、重力で体の肉は下がる一方だからです(笑)。
こう言うときは、低い声で(甲高い声ではいけません(笑))
「だって、おまえだから」
と言いましょう。
子供もそうです。成績や頑張っているからでなく、「おまえだから」と泣き叫ぶ赤ちゃんに「よしよし」とする心で愛しましょう。
神さまは「おまえは愛する子」と言われました。神の似姿である私たちも愛されたのです。それがゆるしです。それに気づくのが回心です。
◎偶像を捨て本当の神を信じる
偶像崇拝とは比較と競争のことです。社会は競争だと言われます。年収や有給休暇の日数、会社の大きさ、何でも競い合っています。教会ではバザーでどれだけ働いたとか、病気になって入院しても薬の数や入院年数を競い合います。
美しさや貧しさも比較してしまいます。貧しいから救われるのではありません。ホームレスが天国に行き、社長が行かないのではありません。キリストは貧富の考えを壊すために言いました。それまではお金を納めれば天国に行けるという教えがあって、それを壊したのです。
神さまは祭壇に近いとか遠いとかではなく、「おまえだから」と愛されるのです。偶像を捨て、本当の神を信じる。それが回心であり、復活なのです。
◎取引でなく愛し続ける
西神父が電車で立っていると、席を譲ってくれる子供がいたそうです。周りを見渡して自分だと気づき、年寄りのそぶりで礼を言って座られたそうです。すると、その子が話しかけてきて、なんだかんだとうるさかったそうです。耐えきれずに次の駅で降りて、次の電車に乗り換えたそうです。
働いた後は「地の塩」(マタイ5・13)のように姿を消さないといけません。目立つためではありません。
逆におばあさんがバスに乗ってきて、周りを見渡した後に西神父の前に立たれたので、席を譲ろうとされたときのことです。おばあさんは意地になって座られなかったそうです。
席を譲るのもほどこしで、譲られた席を受けるのもほどこしです。その両方がそろって成立します。
愛はあなたと私です。おまえだからと神は愛されます。そして、あなただからと神を愛するのです。神と被造物は違いますが、愛においては対等です。右をぶたれて左をぶつというような取引ではなく、与え続けるのです。罵られても与えるのです。今日も明日も与えるのです。
ホスチアは小麦から作ります。つぶして、粉にされ、練られ、延ばされ、焼かれ、ちぎられ、そして食べられます。そこにありがたさがあります。
◎愛は大変
昼食の後、質問を受けて話を続けられました。
西神父はお年寄り神父の面倒を2年間見られていました。いわゆる下の世話もされていたそうです。仕事の後で疲れていたのにされました。その神父が他の人の言うことを聞かなかったからです。
できた人は損、苦労が多いのはできすぎた人です(笑)。修道会でも苦労が多いです。能力があるほど忙しいので(笑)。多く与えたものは、多く与えられます。笑顔で話すから聖人です(笑)。
愛は大変です。身を裂き、時間を割き、大変です。それができるのは「愛」ゆえです。そういうときは、信仰が大切です。
十字架は窒息死です。十字架に架けられると横隔膜が下がらなくなり、息が吸えなくなります。見ている人から「吸え!」と馬鹿にされて死ぬのです。
眠るように死んだから天国とか、苦しんで死んだから地獄行きだとか、それでは競争です。「わが神、わが神、なぜ見捨てたもうかと」言った神を信じるものが、天国だ、地獄だと言ってはいけません。
◎ちぎられたパンのように
昔、西神父が病気で入院されていた時、隣で死を目前にした男性がおられたそうです。そして、夜のお仕事をしている奥さんが看護に来られていたそうです。当時は職業に対する偏見もあったそうですが、その女性は仕事帰りに看護に来て、夜に出ていくような生活をされていたそうです。
病室には仮眠用のベッドもあったそうですが、その女性は男性が苦しんだときに気づかないといけないからと、イスにすわり、うつぶせで寝ていたそうです。
あるとき、入院すると費用もかかるので、その男性は
「もう、ブザーを押さなくて良い」
と、死んでも良いという意味のことを言われたそうです。すると女性は
「だいじょうぶ、私が働きます。それが子どもと私の支えです」
と言われたそうです。
人が役に立つから生きて良いとか、悪いとかというのはありません。
三位一体は唯一の神です。それに似せられた人も唯一です。神は「あなたは唯一だ」と言われているのです。
三位一体は、一つがちぎれたものです。クリスマスケーキも切れないといけません。結婚式のケーキカットも「初めての共同作業」と言って笑っていますが、「今日から私はこの人のために身を裂く」という意味です。誕生日のケーキも同じです。子が親に買って、親が身を裂いたことを感謝するのです。
私たちは神に似て作られた唯一のものです。自分を割いて神は与えられました。与えあうとうれしいのです。自分の命を得ようとすると失い、ちぎられたパンのように失おうとすると得るのです。信仰の目で見て捧げてください。
家族も他の人もみんな唯一の存在なんですね。お話を聞き終わったときには、「変わらないことを喜べるお話」とはどういう意味か良くわかりませんでした。しかし読み直すと、見た目や能力でなく、「おまえだから」という唯一の存在を愛すること、それが愛であり、喜べることなんだと気付きました。その心に立ち返ることが回心であり、それによってキリストが復活するのですね。
ミサの説教はこちらをご覧ください。
(この文章はメモを元に書きました。一部、表現が異なったり、聞き間違いがあるかもしれません。あらかじめお詫びします。)
<')))><
« これはわたしの愛する子 | トップページ | ほかに神があってはならない »
コメント
この記事へのコメントは終了しました。
さかばさん こんにちは。
西神父さんの黙想会講話の詳しい紹介をありがとうございます。
前にわたしが話を聞いたときと同じ話しがけっこうあったけれど、またこれを読んで感激してしまいました。
たしかに「日本で晴佐久神父とならんでもっとも説教のうまい司祭」でしょう?
あるとき、西神父のことを「西の晴佐久だ」といったら、名古屋の人が憤慨して「いや、晴佐久が東の西だ」と言われました。
大阪教区の小田神父(聖トマス大学学長)がいわれるには「もうひとり説教のうまい司祭がいるよ」とのこと。「あ、ご自分のことを言うのかな」と思ったのですが、そうではなかった。それは長崎教区の古巣神父さんだそうです。わたしはまだこの方の説教は聞いたことがない。
「あとイエズス会の瀬本神父と英神父も加えておいて」というのは、わたしの主観的な希望です。
それはともかく、この西神父の講話をわたしのブログでも紹介したいので、リンクを貼らせていただきます。
投稿: mrgoodnews | 2009/03/11 12:10
コメント&リンクありがとうございます。
説教のうまい方がたくさんおられるのですね。次回以降の黙想会の参考にさせていただきます。
投稿: さかば(管理人) | 2009/03/11 23:19
はじめまして。
西神父様を検索していてたどりつきました。
私は西神父様(西先生の方が馴染みがあります)の教え子です。かれこれ15年程経ちますが・・
先生のお話は授業内でも面白く分かりやすかった記憶があります。生徒からも先生からも慕われている素晴らしい方です。
先生のお話を久しぶりに聞きたいと思っていますが、妊娠中ということもあり外出できず、著書「君たちへ」を読んだり、ネットで説法を探したりしています。心のさかばさんのようにお話を載せていただいているサイトはとてもうれしいです。
これからもアクセスさせていただきます☆
投稿: | 2009/03/20 19:08
>教え子さん
コメントありがとうございます。
そうですか。あの語り口で授業をされたなら、きっと楽しい授業でしょうね。
これからも、ぜひお越しください。
安産をお祈りしています。
投稿: さかば(管理人) | 2009/03/20 20:18
こんにちは。
西神父さまの講演を録音したCDをお借りして聴いたことがありました。それ以来、とりこになっています。いつか直接お顔をみてお話を聞いてみたいものだと願っています。東の晴佐久神父さま。先月28日に東京多摩教会へ行って説教を聴いてきました。すばらしかったです。
投稿: 長谷妙子 | 2011/09/03 16:59