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2009/02/26

四旬節の食事

復活祭(イースター)前の40日間を四旬節と呼びます。日曜日を入れると46日間になりますが、イエス・キリストが公生活を始められる前の40日間荒れ野におられた(マタイ4・1-11)ことにならって復活祭前の40日間を四旬節と呼んで節制します(旬というのは10日間の意味です)。

この復活祭は2009年は4月12日、2010年は4月4日、2011年は4月24日というように年によって日が移動する移動祝日です。イエスキリストの受難がユダヤ教の過越の祭りの日であり、太陰太陽暦の14日であったことから春分の日の後の最初の満月の次の日曜日(リンク先はWikipedia)に行われます。

復活祭当日にミサが捧げられるほか、前日の夜に復活徹夜祭というミサが行われて多くの成人の方が洗礼を受けられます。ローソクを使ったきれいな式典で、徹夜とは言うもののせいぜい2~3時間です。クリスマスと並ぶキリスト教の大きなイベントですので、これまで経験のない方はぜひ一度ミサにあずかられてはいかがでしょうか。

四旬節には大斎・小斎(リンク先はカトリック中央協議会)というのがあって、軽い断食や肉食しないことが進められています。大斎・小斎の日は、四旬節の始まる日である灰の水曜日と復活徹夜祭前日の聖金曜日です。修道会などでは毎金曜日も小斎の日として肉食をさけているようです。

昔は、四旬節中は肉食が禁じられていたので、その前に謝肉祭(カーニバル)(リンク先はWikipedia)として肉をたくさん食べたようです。Wikipediaによるとカーニバルという言葉は、ラテン語のcarne vale(肉よ、さらば)から来たとも言われています。

同じような言葉で、四旬節直前の火曜日を指すFat Tuesdayという言葉があります。Wikipediaによると、マルティ・グラ(肥沃な火曜日)、パンケーキ・デイ、などとも呼ぶそうです。四旬節直前は、たらふく食べる、卵をかたづけるためにパンケーキを焼くようです。このほかにも、シュロブ・チューズデー(告悔火曜日)とも呼ばれ、ゆるしの秘跡(告悔)によって神からの赦しと和解を得るということが行われていたようです。

ところで、とあるところで断食(大斎)は何時から始めるべきかが議論になりました。いつも12時までに食べておくようにしていましたが、考えてみると教会暦では日没から翌日になります。もしかすると、夕食から始まるのかと疑問に思い、所属教会の神父に確認したところ、

「水曜日は0時から24時でしょ。だから0時からです。」

とのこと。つまり、日没後も12時までなら、Fat Tuesdayを楽しんで良いようです。その話の後、神父はこうも言われました。

四旬節は節制の時です。肉を食べないのは、肉が高価だからやめて、その分のお金を他の人のために使うのです。肉よりカニが高いのに、肉の代わりにカニを食べていては意味がありません。

なるほど、と思いました。四旬節を律法的にとらえてはいけなかったのですね。

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2009/02/23

ミサで自分自身をささげる - 目からウロコ ミサのあずかり方 -

よどみのない気持ちでミサにあずかり、感謝の気持ちで神を賛美できたなら、とても素晴らしいことだと思います。しかし、実際はそんなに心が穏やかなことは少なく、困った時の神頼みではありませんが、苦しくなった時だからこそミサに行くことの方が多いのではないでしょうか?

自分にもある反省点に気づいていたなら、ミサの初めにある回心の祈りで気持ちが楽になるときもあります。しかし、どうしようもない気持ちの時は、この「ミサで自分自身をささげる」ことが役に立つと思います。

この記事は、来住英俊神父の「ミサのあずかり方」(女子パウロ会)を中心に先日の養成講座の内容を元に書きました。この本の良いところはミサの捉え方について、まさに「目からウロコ」なところです。その説明の中で、来住神父のこだわりが書かれていますので、是非お読みください。

今回、書きたいのは8章の「ミサで自分自身をささげる」のところです。ミサというと、キリスト者にとってめぐみです。ミサの中でキリストが自身を捧げ、信者はミサでご聖体としてキリストを受けて力づけられ、派遣されるる。そして、日常の中で信者が社会に愛と奉仕の業をする、そのような恵みを中心とした理解が一般的だと思います。

しかし、実はミサで信者が捧げることもできるのです。ここでいう捧げるとは、自分の持っているもの、自分自身を神に一度預けてしまって、神の思いに従って使っていただくということです。それは、時には自分に降りかかる苦難を寛大な心で耐え忍び、明るく生きていくことかもしれません。また、もし選択が可能であるなら「神の御心にかなう道を選んで、困難があってもその道を進む」という意味になります。

この本では、2つのお話が出てきます。一つ目は今井美佐子さんの「捧げる」に出てくるお話です。 ここに登場する女性は思い通りにならないことの多い人生を「捧げんばね」という美しいことばを語り合いながら、元気に歩んでいくそうです。「どれもこれも、みんな、天国へん近道じゃと思うて捧げるとたい。捧げて、捧げて、生きとるたい。」そのような苦労の中でも明るく生きることのできる信仰は、ミサにあずかり自分自身を捧げ続けた実践の結晶なのでしょう。

もう一つは、恋人との関係をどうするか悩んでいたある男性が、「その人との関係」をミサの中で捧げたお話です。その人は、ミサの中で彼女と自分との関係を、神に一度預けました。迷っていることも含めて、自分の生涯を全部神に預けたのです。すると、ミサの後しばらくして、自由な気持ちで判断できたそうです。このように、ミサの中で自分自身を捧げることで自由になるのです。

ミサ全体を通して自分自身をささげるのですが、まず準備として、供え物としての献金の準備が大切です。それは自分の自由になるお金を犠牲にするのですから、金額は関係ありません。そして、その犠牲がささげられる奉納行列では、自分がそこにいるかのように心を合わせます。そして、奉献文にあるキリストの死と復活を思い起こし、その出来事の力にあずかります。そして、その後に自分を捧げるのだそうです。

ミサで自分を捧げることができたなら、自己中心の壁を破ることができます。不条理な出来事も、神はそのように用いられるのだと受け入れられるようになるのです。ミサの中で自分自身を捧げ、キリストに結ばれたなら、心の自由が得られます。だからこそ、社会のなかでも自身を捧げられるようになるのでしょう。

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2009/02/22

確かな信仰

今日は今月最後のミサでした。教会維持費を払っていなかったので所属教会で与りました。

今日の福音は「中風の人をいやす」(マルコ2・1-12)でした。大勢の人に取り囲まれるイエスの所に、四人の男が天井に穴をあけ、中風の人をつり下ろすお話です。

すごい信仰です。説教で言われたように天井に穴をあけたとき、下にいた人は大丈夫だったか、道を開けてこっちから入ればと言う人がいなかったか、気になるところではありますが、そんなことはお構いなしの確かな信仰だったのでしょう。

その信仰を見て、イエスは罪を赦されます。他の福音では「あなたの信仰があなたを救った」という言葉がありますが、自分の病気が罪によるものだと苦しんでいただろうその人は救われました。

このとき、律法学者は

「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」

と思うのですが、これも正しい信仰です。神以外は罪を赦せないからです。

イエスが語るみ言葉は、「福音のヒント」によれば神の国の福音(マルコ1・14-15)なので

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

ということのようです。これまでは父なる神と人間は離れていましたが、イエス・キリストとその受難によって神の国が近付くように、み言葉を語られていたのでしょう。

先日「8日目」という言葉を聞きました。復活したイエスがトマスに現れた(ヨハネ20・26)のは8日目だったそうです。これはミサが毎週日曜日、つまり8日目ごとに行われることを表しています。創世記では神さまは7日までしか描かれていませんが、7日目を超越した8日目にミサが行われているのです。旧約聖書の時代が終わり、新約聖書の時代になったのです。

そのイエスの復活を祝う復活祭を前にして、水曜から四旬節が始まります。説教では四旬節の行いは、祈り、断食、ほどこし、と言われました。このほどこしというのは、余ったものを与えるのではなく、身を痛めてより貧しい人にあたえるのだそうです。そして私たちも確かな信仰を持って、新しく生まれるのです。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/02/20

素直な気持ち - だんだん -

NHKの連続テレビ小説「だんだん」。今日は、双子の「めぐみ」と「のぞみ」の父親である「忠」とのぞみの育ての母「嘉子」の夫婦喧嘩が山場を迎えました。

嘉子は前妻の再婚話に心穏やかでない忠に嫉妬して、家出をして離婚を申し出ました。忠は嘉子を連れ戻したのですが、結局、離婚届にハンコを押しました。

気持ちが治まらない嘉子がさらに不満を言うと忠は、心の内を全部見せれば良いものではない、言えないこともある、それを思いやるのが夫婦、と言います。そして互いに気持ちを素直に語った後に、ようやく嘉子はすべてを受け入れる事を決意し、仲直りすることができました。

これを見ていて昔のことを思い出しました。それまでは、妻と夫婦げんかをして、離婚を口に出したとしても、離婚届をだれが取りに行くかでもめるところで終了して、真剣に別れることを考えたことはありませんでした。しかし、一度だけ、真剣に考えたことがあります。それまで、お互いにストレスが溜まっていたのでしょう、「こんなに苦しむなら別れた方がましだ」と思ったのです。

さんざん言い争ったあと、一人で何気なくテレビを見ていると、京都の東山にある詩仙堂(リンク先はぶらりと京都)が映っていました。静かな空間に、夏場にもかかわらず涼しい風が吹き抜ける様子を、一発屋の芸人さんは「大人の贅沢」と評していました。喧嘩のあとで気持ちが治まらない私は、家族を置いて一人で出かけることにしました。

とても素晴らしい空間でした。いやなことも忘れて、静寂を一人占めした幸せに浸りました。結婚してからこんな時間を持ったことはなかったなどと考えながら、調子に乗った私は、あらかじめ調べていた鷺森神社(さぎのもりじんじゃ)に行きました。紅葉が美しいことで有名なその参道は、左右から見事な木の枝が迫ってきて、秋の素晴らしい情景が目に浮かぶようでした。

そのときに、ふと思いました「秋には家族で来たい」と。その瞬間に素直になり、自分の気持ちに気付き、負けを認めることができたのです。

私は頑固者です。この時まで「素直」という意味が、よくわかりませんでした。人によっては従順になるという意味で使う人もいますが、それはちょっと違うと思います。やはり、自分の優しい心に従うことが「素直」なのだと思います。

夫婦に限らず、人が二人いれば、価値観も違い、思いも違います。その違いを受け入れなければ、互いを尊重することはできません。自分の心の奥にある仲良くしたいという気持ちに素直になれば、相手を受け入れることができて、新しい関係が始まるのです。

でも、どうしてもうまくいかないこともあります。そんな時は争うのではなく、争わなくてすむ「ほど良い距離」をとって関係を改善する必要があります。それもまた、ひとつの素直な行いだと思います。

しかし、この素直な気持ちにたどり着くことが難しい時があります。思い込みや執着心、自己愛や顕示欲が、素直な気持ちを見えなくさせて、惑わせるのです。そんな時は、その苦しみを神様に捧げれば、きっと素直な気持ちにたどり着けると思います。

「自分を捧げる」に続く(はず)

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2009/02/19

とらわれびとに解放を告げる

水曜日の入門講座では、カトリックのカテキズム(要理、教理、教えとも言います)を本とDVDで勉強した後に、日曜日の「聖書と典礼」を用いて御言葉を味わいます。

アレルヤ唱は歌わないのですが、ちょっと気になりました。

アレルーヤ♪アレルーヤー♪
貧しい人に福音を とらわれびとに解放を告げるため
神はわたしをつかわされたアレルーヤー♪アレールヤ♪

今日のカテキズムでは罪について学びました。そしてDVDのなかで「愛が平和をもたらす」という話がありました。人は悪いことをすると、心がとらわれて平和でなくなります。ミサの中で「思い、言葉、行い、怠りで」罪を犯したと言いますが、そのような時は荒んで、落ち着きがなく、重く、苦しい状態になります。

逆に良いこと、つまり神さまの思いである愛に従う行いをしたなら、やさしく、穏やかで、明るく、楽しい気持ちになります。愛によって、罪にとらわれた状態から平和な状態に解放されるのです。

日々、いろいろな出来事に心は穏やかでなくなり、ついつい罪を犯しそうになります。しかし、どんな時も神の愛を思い起こし、心の平和を取り戻したいと思います。

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2009/02/15

病の中で

今日のミサは桂教会で与りました。福音は「重い皮膚病を患っている人をいやす」(リンク先は聖書協会)でした。重い皮膚病の人がイエスに願って、皮膚病を治していただくお話です。

当時は、その人の罪によって病気になるとか、悪霊によって精神を病む、と考えられており、社会から隔離されていました。そのような病人との交わりは禁じられていましたが、イエスは手を差し伸べました。

キリストの奇跡を描いた福音を受けて、説教は病人について、そして神父さまのご病気について述べられました。元気な時は、幼子のような信仰を美しく思えるが、病気になると、ただただ「治りたい」、そう思うものだ。とお話しされました。

私は人の気持ちに鈍感なところがあって、これまで「わかってない」と言われることが何度もありました。たとえ想像をたくましくしても、当時の皮膚病の人や神父さまの気持ちはわからないのかもしれません。

しかし、日々の苦しみの中で神さまを良く思わないこともある、とされた後に言われた「でも翌朝になると、福音に生きようと思う」という一言は、私の心に響きました。

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2009/02/13

リセット

TVドラマの「リセット」。天使の手助けによって人生をリセットしてやり直すというドラマです。神さまの御旨には間違いはないので、天使と言いつつも堕天使ではないかと思うのですが、なるべく気にしないで楽しんでいます。

このドラマでは、人生の分岐点をやり直すと、もっと悲惨なことになって、再度やり直すと、さらにひどくなる。そんなブラックなストーリーが続きました。最近は2回目のリセットをしないというストーリが続いています。

人生の中で、誰でも「こうすればよかった」と思うことはありますが、過去のことを悔むより、現状を受け入れて前向きに生きる方が幸せになれる、そんな風に思いました。MAGISさんのブログに影響を受けたのかもしれません。

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2009/02/09

神はどのように生きるかを教えてくださる - 智に働けば角が立つ -

今日のミサは色々あった後の重苦しい気持ちでのミサでした。

来住神父の「ミサのあずかり方」にあるように、ミサでパンを割る場面は再現ではありません。「想起(アナムネーシス)」と言って、父なる神に向かって2000年前にあったことを語って、思い起こすのだそうです(司式者が下を向いているのはそのためです)。

そう思ってミサに与っていると、当時のユダヤのことを考えさせられました。エジプトやバビロンの苦しい時期を経て、ようやく自分たちの国を得たのにまたローマに支配され、自分たちのアイデンティティを失いつつあるときでした。誇りあるユダヤの国を求めて苦しむ人々に対して、現実を受け入れて互いに愛し合うことを教えられたのです。

そう思っていると、説教では広島の原爆の話をされていました。ヨブ記にでてくるような苦難の時にイエスに出会う、イエスは苦痛をいやしてくださる。イエスさまこそ、インマニュエル、いつも私たちと一緒にいてくださり、どのように生きるかを教えてくださる、というお話でした。

先日、娘に対して悪いことをしてしまいました。とあることがあって、本人はすっかり忘れていただけだったのですが、私はわざと悪いことをしたと思い込みました。そして、その延長で、決めつけちゃったんですよね。決めつけではありましたが、本人は論理の帰結だと思っていました。

私は、このような失敗を結構しているようです。知っている情報を並べて、こうに違いないと思ってしまうんですよね。夏目漱石もこんなことを書いています。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

色々と人間は思い込みで失敗を起こしてしまいますが、この言葉に集約できるかもしれませんね。そんなことを思っていると、今度は妻がある聖書の言葉を教えてくれました。「わたしの好きなみことば」という本に載っていた箴言3章5-6節でした。それは、今日のミサの説教につながる言葉だと思いました。そして、聖書教会のホームページで読んで驚きました。次の7節まで引用すると

心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず

常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば
主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。

自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。

(箴言3・5-7)

この言葉で、すべてがつながりました。住みにくい人の世の中で神はどのように生きるかを教えてくださるのですね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/02/04

ミサは参加することに意義がある

ここのところ地区の使徒養成講座に出ています。先日は「目からウロコシリーズ」の来住(きし)神父のお話を伺いました。

お話しの中で最も印象的だったのは「ミサは参加することに意義がある」という言葉でした。「参加することに意義がある」と聞くと、とにかく出れば良いと義務的な感じで考えてしまいます。しかし、近代オリンピックの提唱者であるクーベルダン男爵のこの言葉は、「take a point」つまり、役割を引き受ける、一役買う、という意味だそうです。

ミサに参加するときは、能動的に参加する必要があります。朗読や聖歌などの役を引き受けるだけでなく、会衆の一人として祈りを引き受ける必要があるのです。

昔のミサは背面ミサと言われ、神父が背中を向けていました。会衆の先頭、槍の穂先として神父は父なる神に祈っていたのです。それは今も変わりません。そして、聖霊の交わりの中で、私たちのイエス・キリストによってアーメンと言うように、聖霊と共に、イエス・キリストによって父なる神に祈ります。イエスが父に祈るとき、心を合わせると「父よ」と呼べます。聖霊によらなければ「父よ」と祈れないのです。

ついついミサに義務的に参加しがちです。しかし、積極的にミサという祈りの空間で、父への祈りの役割を担ったなら、きっと素晴らしいミサになるでしょう。自ら進んで準備をし、自らを捧げれば、神との契約は更新され、キリストとの絆はより強くなります。そして、日常生活の中で、キリスト者としての識別と選択の力が与えられるのです。
(後日、「自らを捧げる」について書く予定です)

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