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2009/01/29

自分を受け入れる

神さまに出会う前の自分を思い起こすと、自分を受け入れることができなくて苦しんでいたように思います。

もともと私は毒舌で、批判をする割に言い訳をするようなところがありました。どこかの元総理ではないですが、自分自身では物事を客観的に見ているつもりでした。

しかし、仕事がうまくいかなくなるとストレスがどんどん溜まって、自分が壊れていきました。聞くところによるとストレスがたまった時に人間は大まかに二つのタイプに分かれるそうです。一つは自分を責めて抑うつ状態になるタイプ、もう一つは責任を人の所為(せい)にするパーソナリティ障害(かつての人格障害)タイプです。私は後者のようでした。

実際、自分よりも他の人が原因でうまくいかなかったことも事実だったので、自分の対処が不十分なことには目をつぶり、その人が悪いという思いに囚われていました。

その時に、なんだかんだあってイエス・キリストの受難の話を読んで、ようやく、やるだけのことをやっていなかった自分を認めることができました。

一人で生きなければいけないという強迫観念が自分を追い込み、自分の悪いところを見ないようにしていなかったのだと思います。でも、それは自分のことを愛していなかったのだと思います。

愛するということは、すべてを受け入れることです。自分の良い面も悪い面も素直な気持ちで見つめるのです。自分のプライドが傷つくかもしれません。自分の大切にしていた考えを否定するかもしれません。でも、大丈夫なんです。

私が生まれる2000年前にもっと受け入れがたい現実を受け入れた人がいます。その人は自分のためでなく、他の人のために受け入れました。その人は私のためにも受け入れてくれました。だから、私は一人ではありません。だから、大丈夫なのです。

自分を受け入れることができて、愛するということがわかったように思います。家族というものについて、私はどうも役割という考えが強すぎました。父という役割、夫の役割、妻の役割、母の役割、子供の役割、そんな風に考えると、うまく愛せません。

自分も家族も同じです。「もっとこうすべきだ」とか、「今のうちに言っておかないと」、「言ってあげるのが本人のためだ」などという思いが強いと人が見えなくなります。ありのまま、素直にその人を見て、わかろうとする。現状を認めてあげる。それが大切なんだと思っています。

いまはとても楽な気持です。神様にも家族にも感謝しています。

 

(近年は、典型的うつ病やパーソナリティ障害のほか、適応障害等多くの病気がうつ病と診断されるようです。私は素人ですので、詳しくは専門サイトを確認してください。また、自分で変だと思われた方は専門家に相談してください。)

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2009/01/28

一度の出会いで従った

日曜の福音は「ガリラヤで伝道を始める/四人の漁師を弟子にする」(マルコ1・14-20)でした。今回もメモを元に説教の再現を試みます。

サブプライムローン以降の経済危機による人員削減は、企業にとって優秀な人材を得るチャンスです。イエスの弟子たちも同じように優秀な人材が選ばれたのでしょうか?

イエスの弟子たちは無作為に選ばれたように思えますが、ルカによる福音書6章12-16節によるとイエスは徹夜の祈りの後に12人を選ばれました。彼らは欠陥もあり、必ずしもふさわしい人とは限りません。それは不完全な我々の希望にもつながります。イエスは不完全な彼らを父から与えられたとして育てたからです。

福音によるとペトロとアンデレはイエスに出会った時、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。二人は、それに従い、細かなことを聞きませんでした。 イエスに魅せられたのでしょう。不思議な魅力にひかれたのでしょう。二人はひたすらついていきました。

二人が捨てた網は漁師が魚を獲るものです。網こそが生活の手段です。その網を捨ててイエスに付き従ったのです。12人の使徒のうち、イエスを裏切って自殺したユダ以外の弟子たちは、宣教師となり、イエスに命をささげたのです。

2000年後の現在、イエスは私たちを呼ばれました。そして、私たちはイエスを見たこともありませんが、付き従ったのです。

殉教者もイエスと直接会った事はありませんが、一度の出会いで従いました。イエスの語りかけに従いました。神の言葉を無視できず、教会に行き、洗礼を受け、ペトロとアンデレのように付き従ったのです。

イエスは、一人一人を招いてくださいました。聖書に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15・16)とあるように、私たちは選ばれました。

「どうして私のようなものを」と思いますが、天は地よりも高いのです。神の選びと人間の判断は異なります。神に付き従わなければいけません。

主よ、イエス・キリストよ。
最後の日までついて行ける力をください。
そして最後は受け入れてください。

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イエスとの出会い。私にとっても、とても大切な出来事でした。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/01/26

祈るとチャンスが与えられる - エバン・オールマイティ -

映画「エバン・オールマイティ」(リンク先は映画作品紹介)は、現代版「ノアの箱舟」のお話です。

主人公のエバンはキャスターから転身し、「世界を変える」と言って下院議員になります。そこに神さまが現れて、ノアの箱舟を作ることに、子どもたちは楽しんでいたのですが、周囲はおかしくなったのだと思い、「ニューヨークのノア」とからかいます。そして、ついに我慢が出来なくなった奥さんが子供を連れて出ていきます。

子どもをつれてファーストフード店でやけ食いをしている奥さんに、店員になった神さまが表れます。そしてノアの箱舟は神の怒りの話ではなく、愛の話だと語ります。信じあう心で動物がカップルで助け合い、ノアと家族も助け合い、みなが寄り添って箱舟に乗る。と語ります。

奥さんは「神が命じた」と夫が言うのは、どういうことかと尋ねます。そこで、神さまは「おそらくチャンスだ」と言います。「忍耐を」と祈れば神は「忍耐」ではなく「忍耐のチャンス」をくれる。「勇気を」と祈れば神は「勇気」ではなく「勇気のチャンス」をくれます。もし、「家族に絆を」と祈れば、神は「あったかい温もり」ではなく、「愛しあうチャンス」をくれると諭します。

私たちは日ごろ、色々な事を祈ります。しかしそれは祈りしかないと諦めるのではなく、祈ることでチャンスが与えられるのだと思えるなら、一歩前に進む勇気がもらえると思います。私の過去を振り返っても、心から祈った時には、その願いに素直に向き合うチャンスが与えられていた様な気がします。

映画そのものは、SFファンとしてはCGに若干不満がありますが、全体はコメディタッチで描かれていて、気軽に楽しめる良い映画だと思います。

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2009/01/24

王たるキリストカトリック伊丹教会

Itami1 今日は仕事で近くまで行ったので、カトリック伊丹教会に立ち寄りました。

他の教会を訪ねたとき、このブログでは「お出かけ&ミサ」か「ちょっと教会めぐり」に書いています。この「教会めぐり」には2種類あって、聖堂内で聖体訪問できたときと、中に入れない時があります。今回は残念ながら中に入れませんでした。

Itami2 まず驚くのが「王たるキリストカトリック教会」の文字です。そもそも壁に書かれていることも珍しいですし、たいていカトリックXX教会とか聖XX教会のところが、守護の名前の後にカトリックと入るのも珍しいのではないでしょうか?ホームページを見ると普通の表記なので、時数の関係でこうなったのでしょうね。

正面には十字架の上に王冠のしるしがありました。王たるキリストを表しているのでしょうね。そして道路のそばにはルルドのマリアさまと聖ベルナデッタの像がありました。

Itami3 この教会の近くを通ることはあまりないので、中に入れないのは本当に残念でしたが、中の様子はHOLY RING(一部リンク切れ)を見て我慢しておきます。

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2009/01/20

私にとって洗礼とは

入門講座で「私にとって洗礼とは」というタイトルで、レポートの宿題が出ました。私にとってはこんな感じですが、いかがでしょうか?

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私にとって洗礼とは

洗礼は自らのごう慢から生じる苦しみとの決別であり、喜びである。それは、より良い道を選択する苦しみの始まりでもある。

また、神の招きを受け入れる儀式であり、毎週のご聖体という恵みを頂いてキリストに近づくための許可証である。洗礼を受けた後に日々神を追い求め、死に至る時に神と一致していれば、この世を去った瞬間から永遠の神と共にいることができる。

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2009/01/18

イエス・キリストとの出会い

今日の福音は「最初の弟子たち」(ヨハネ・35-42:リンク先は聖書協会)でした。最初の弟子であるヨハネとアンデレ、そしてペトロがイエスと出会うお話です。特にヨハネとアンデレが「」出会ったのは「午後四時ごろのことである」とされています。説教では、この出会いについて話されました。

出会いは生きる上で大切なことです。それを忘れてはいけません。特に大切な人との出会いは、いつのことであるかまで忘れることはありません。ヨハネとアンデレが出会ったのは午後4時でした。

また、大切な人と出会ったなら、それを家族や友人に話すでしょう。イエスに出会ったヨハネはシモンに話しました。そして、シモンもイエスに出会い「ペトロ」という名前を与えられるようになりました。

サウロも復活されたイエスさまと出会い、「パウロ」という名前を与えられ、使徒と共に弟子になりました。

互いの出会い、幸せとの出会い、神の子であるイエス・キリストとの出会い。共に住み、学校のように学びました。私たちの学校は心にあります。

イエスの学校は教会です。秘跡を受け、聖霊を受け、ご聖体を受け、平和を分け合い、兄弟姉妹と分かち合います。イエスとの出会いの体験は、心の中で兄弟姉妹と分かち合い、共に祝うという体験ができるのです。それは宝くじに当たるよりも意味があります。教会にいるこの瞬間が、私たちの大切な生活です。

ヨハネとアンデレはイエスとの出会いを一生忘れませんでした。それは午後四時ごろでした。今でも覚えられています。

神よ、聖霊で満たし、世界が平和であるように、私たちをひとつにしてください。

(メモを元に再現したつもりですが、間違いがあればお許しください)
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私と神さまとの出会いは何度か書いてきました(最初2回目高円寺)が、やはり最初の出会いは忘れられません。

キリスト教に興味を持って何冊かの本を読んだ後、夜中に一人でキリストの誕生を読んでいました。すると、それまで苦しんでいたものが消えて、急に心が軽くなりました。辛くて、辛くて、押しつぶされそうだった心が、急に楽になりました。

自分の罪深さと言えば表現が美しすぎるかもしれません。自分の間違いをようやく認める事ができたのです。傲慢であることを当たり前のように考えていた自分を、ようやく理解できたのです。

神がまずわたしたちを愛してくださった」(一ヨハネ4・19)

私の大好きな言葉です。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/01/15

ハヤット神父 帰天

心のともしび運動のジェームス・ハヤット神父が2009年1月14日(水)午前7時21分に肺炎のため帰天されたそうです。ちょうどそのころ、京都では小さな地震がありました。

発生時刻:1月14日 7時18分
震源地:京都府南部
マグニチュード:M3.6

まるでイエスさまが亡くなられたとき(マタイ27・51)のようですね。

このブログでも何度か書かせていただきましたが、TVや機関紙、通信教育の冊子を通じて多くのことをハヤット神父に学びました。

感謝と共に、永遠の安息をお祈りします。

なお、お通夜は16日(金)19時から葬儀と告別式は17日(土)12時から、共にカトリック河原町教会で行われるようです。

過去記事

心の時間・心のともしび運動本部
人生の目的は幸せになること-心のともしび-
神様の約束 - 心のともしびTV -
後(のち)の世について - こころのともしびTV -
「幸い」とは絶対的な祝福の世界
愛する能力

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2009/01/12

洗礼 - イエスとの出会いと派遣 -

ピンチヒッターの松浦司教による堅信の勉強会の記録です(メモを元に再構成していますので間違いがあれば筆者であるさかばの責任です)。

堅信の勉強会では洗礼のほかいくつかの項目を学びますが、みんな救いというゴールに向かっているという大きな流れの中で理解することが大切です。聖書と言うのは、元々イスラエルの人によって神と人間との関係が書かれたものです。かつてのイスラエルでは神殿に神がいると信じられていました。しかし、侵略されてバビロンに強制的に移住させられてしまいました。

神さまのいると信じていた神殿から離れて、苦しんだイスラエルの人々は過去を振り返りました。そして、自分たちの苦しみがどこから来たのか、それは神が自分たちに与えた罰なのか、あるいは、何か悪い者から来たのか、などと考えました。そこで分かったのは、詩編の8章にあるように私たちが信じる神は、私たちを救おうとする神であったということです。

神は人が苦しむことを望まれません。親が子供を愛するように神は人間を愛されます。親は子を愛しますが、子は親から離れて苦しみ、親はそれを悲しみます。それが聖書の序文である創世記の1章から11章です。これは実際にあった事を書いたのではなく、いろいろな事を信仰の目で書いたものです。

人間は、子供が親から離れるように、自ら神の恵みから出たのです。地獄の表現として炎に焼かれるような描写がありますが、人間は自分から炎にはいったのです。そんな人間の苦しみに対して神は駆け寄ってくれると信じて、人々は救い主を待ちました。

しかし、人々は攻め込んでくる国から自分たちを守るという現世的な救いを考えていたので、救世主が送られるまでに時間がかかりました。救い主は神との距離を近づけるために現れたのです。

救世主であるイエス・キリストは、神と人の間にあった壁を取りました。聖霊降臨は神が地上に来たことを示します。イエスの昇天は、イエスが神の国に戻った事を示すのではなく、神と人の一致を示しています。洗礼は神との壁を取り去ったイエスと一つになることです。神の国への扉を開けるのです。

人に対して心を開くことが、神と一つになることです。神と人の関係は1対1ではありません。神と私(人)、そしてあなた(他の人)で三角形を作っています。人と人が近付けば神との距離も近付きます。そして一つになることができるのです。それが神の国に入ることであり、永遠の命を得ることです。

洗礼は7つの秘跡の一つです。秘跡とは「秘」見えないものが、「跡」見えるしるしになるものです。その秘跡には二つの意味があります。

松浦司教が司祭のころ、教会におられるとある女性が尋ねてきたそうです。その女性は事情があって中絶をしたそうです。本人も納得していたはずでしたが、小さな命を奪った自分には生きている意味がないと自殺しようとしたそうです。中絶は心も身体も傷つけたのです。

その女性は自分の罪がゆるされるかとたずねました。司教は

「人を赦すことができるのは神様だけで私にはわからないが、心の底から悲しみ、苦しんで『ごめんなさい』と言えば、神さまは必ず赦してくださる、そう信じている」

とお話しされたそうです。赦しと言うのは、あった事を無かったことにするのではない。命を、人を大切にする生き方が大切だと説明されると、その女性は少し前向きになったそうです。

ゆるしと言うものは世界にいっぱいあります。秘跡を通じて一歩踏み出すと、イエスと出会えるのです。秘跡の一つ目の意味は「イエスと出会う」という意味です。「洗礼」は、一生イエスと暮らすという意味です。

秘跡の二つ目の意味は「派遣」です。ゆるしてくれる神と出会い、人をゆるせるようになる、受け入れられるようになります。人を大切にすると、人が愛を感じます。それが派遣です。洗礼、堅信、結婚などすべて派遣です。

病者の塗油という秘跡があります。すべての人間が死にますが、死の直前に受けるのが病者の塗油です。信者だけがこの秘跡にあずかれるので、恵みを受けるだけだと思いがちですが、これも派遣です。

人には人間関係など多くの苦しみがありますが、人の苦しみの代表が病気なので、秘跡になっています。病者の塗油は、病人をゆるし、励まします。病者の塗油を受けるとき、隣のベッド人など、すべての人の苦しみと共に恵みを受けたなら、病者の塗油は派遣になります。

秘跡は、キリストと出会うこと、そして派遣されること、その二つの意味があるのです。

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2009/01/11

主の洗礼、成人式、堅信、その共通点

今日のミサは「主の洗礼」(マルコ1・7-11)、共同司祭が入院中のため、ピンチヒッターで補佐司教の司式でした。ミサ中には成人の方の祝福があったほか、ミサ後に堅信の勉強会の初回がありました。

説教では、主の洗礼、成人式、堅信、その共通点についてお話をされました。「主の洗礼」はイエス・キリストが公生活に向けて踏み出した時、「成人式」は大人としての旅立ち、「堅信」は洗礼を受けた人が踏み出す第一歩です。

降誕祭(クリスマス)から今日の主の洗礼の祝日までが降誕節で、イエス・キリストの誕生を祝う期間です。先週は主の公現の祭日でしたが、「主の公現」つまりイエス・キリストが公に現れたのには3つあります。

「主の公現」の一つ目は、先週の「主の公現」で、異邦人の3人の博士が来て、3つの贈り物、黄金、乳香、没薬を捧げました。これはイエス・キリストがひとつの民族だけでなく、すべての人の救いであることを示しています。

「主の公現」の二つ目は「カナの婚礼」です。それまでの30年間、マリアとヨセフと共に隠れて生活した後に、最初に行ったしるし(奇跡)です。これがイエスさまのデビューでした。

そして「主の公現」の三つ目が今日の「主の洗礼」です。イエス・キリストが準備のために、人々の前に姿を現したのです。

この3つで公現なので、今日までが降誕節です。

この公現とは、社会の一員となって出かけるという社会人の使命でもあります。また、神の救いの計画の中で、教会がすべての人のために働くというキリスト者の使命を生き方で示すこと、それが公現です。

その公現のために、聖霊が送られました。マリアさまは聖霊で身ごもったので、イエスさまはすでに聖霊で満たされていたはずです。しかし、今日の福音の洗礼の場面では聖霊に祝福されました。

これは、堅信でも同じです。聖霊で洗礼を受けた人がこれから歩み出す、一歩を踏み出すために、派遣の聖霊が送られて、押し出されるのです。色々な問題の中で、厳しい人生の一歩を踏み出す、その時に聖霊がそそがれるのです。

今日は5人の方が成人の祝福を受けました。社会人としてのための第一歩のために、聖霊が注がれて後押ししているようでした。

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2009/01/10

生きてることが辛いなら

去年の話題ですが、森山直太朗さんの「生きてることが辛いなら」の歌詞(リンク先は歌ネット)に賛否両論(リンク先はJ-CASTニュース)だったようです。

「いっそ小さく死ねばいい」と言うのが1番にあって、確かにショッキングです。でも、歌詞全体を読むと、死ぬ、泣く、悲しみを見る、そして最後は「嫌になるまで生きるがいい」と変化していて、最初の言葉が逆説的に書かれているのがわかります。

この歌詞を聞いて、私が最初に思ったのは、「小さく死ぬ」なんてできないということです。誰かが亡くなったなら、親や恋人でなくてもとてもショックです。たまたま通りすがりに見かけた人でも、その人が暮らしたところや、仕事など、ほんの少しの共通点があるだけでも、自分に何かできたかもしれない、そう思ってしまいます。どんなに静かに死のうとしても大きくしか死ねません。言葉どおりに小さくなんて死ねないのです。

次に考えたのは、辛くなくなる意味の「小さく死ぬ」と言う意味です。気持ちを「押し殺す」などと言う言葉がありますが、余計に苦しくなってしまいますから、押し殺すのでは無いのでしょう。苦しい気持ちだけ死ななければなりません。自分は死なず、苦しい気持ちだけ死ぬ。そんな事が出来たら、どんなに幸せでしょう。でも現実を考えると、それは簡単なことではありません。

そこで思い浮かんだのは、キリスト教です。キリスト教は洗礼を受けて新しい命をいただく宗教です。苦しかった自分が死に、未来への希望が生まれるのでしょう。でも、キリスト教だけでなく、他の宗教も苦しみを死なせることができると思います。なぜなら、人間はもう何千年も苦しんできたからです。

苦しむ人は宗教をもてば良い。そんなことを言うつもりはありません。ただ、あなたの感じている苦しみは、あなただけじゃない。誰もが苦しんで生きているけれど、きっと助かる道がある。そう思うのです。

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2009/01/05

隣人愛の実践!?

昔のビッグイッシューに、販売員さんにジュースなどをあげる話が出ていました(もらった話だったかもしれません)。気持ちはわかるのですが、対等の関係というビッグイッシューの意図に反しているような気がしていました。

しかし、寒い街角に立ち続けているおじさんを見ていると、チラシと一緒にもらった使い捨てカイロをあげたくなりました。でも、やっぱり自分が偉そうにしている気がして、カイロを手渡すことができませんでした。

そんな時にしばらくおじさんが休んでいました。新刊を購入する際に、休まれていた理由を尋ねると腰が痛かったそうで「もらいものですけど、良かったら」とカイロを手渡すことができました。もちろん、どこかで10個買ってあげることもできたのですけど抵抗があって、もらったカイロを残していました。

自分におごりの気持ちを少し感じつつも、「ありがとう」とほほ笑むおじさんに、こちらの方が幸せをもらったような気がしました。

(とあるmixiのコミュに書いた内容を元に書き直しました)

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2009/01/04

あなたがたが赦すならその人の罪は赦される 「アポカリプス~黙示録~」

正月休みの締めくくりに「アポカリプス~黙示録~」を見ました。

難解と言われている黙示録(リンク先はWikipedia)を今まで避けてきましたが、映画なら挑戦できるかと思って見てみました。内容はヨハネが黙示録の啓示を受けていた時代のお話です。ドミティアヌス帝にキリスト教徒が弾圧されていた時代の物語部分は良かったのですが、黙示録の内容は、聞き覚えのある言葉がいくつか出てくる以外は、イメージ優先で、よくわかりませんでした。黙示録を読んだ人が見ると、具体化の手法に感動するのかもしれませんが、、、

物語部分では、ヨハネをはじめとする囚人のクリスチャンが、拷問やいじめをうける仲間を気遣うシーンが登場します。特にヨハネが拷問を受けることを顧み無い姿に、看守も止められなかったシーンは感動的でした。

また、秘密を隠していた恋人を許せないヒロインに、ヨハネがイエスの言葉として

あなたがたが赦すならその人の罪は赦される(ヨハネ20・23)

と述べるシーンがあります。 この言葉は、カトリックで司祭がゆるしの秘跡を行う際の裏付けになっている言葉です。これを私たち個人に当てはめると、すごく深みのある言葉になると思いました。主の祈りで

私たちの罪をお許しください。
私たちも人をゆるします。

と言いつつも、なかなかゆるせないのが現実だと思います。しかし、私がゆるすことで、神さまにもゆるされるなら、ゆるせるような気がしました。

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3人の博士は探し求めた

Jesus 主日のミサは主の公現の祭日でした(写真は茨木教会のイエスさま)。福音は「占星術の学者たちが訪れる」(マタイ2・1-12)でした。

先日見た「マリア」のDVDでは、一人の博士が積極的で、一人はお付き合い、残りの一人は行かないつもりでしたが、他の二人を心配してついていく設定でした。そんな感じで、積極性に違いはありましたが、命がけで砂漠を越えたのですから、まさに必死で探し求め、神を見つけたのでしょう。

説教は、その博士達に触れられました。博士たちは神様を知らなかったが、必死で探し求め、ようやく見つけることができました。私たちは洗礼を受けていますが、博士達のように神の姿を追い求めているか、しばし黙想しましょう、とのこと。考えさせられる言葉でした。

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2009/01/02

すべての人のもの - マリア -

Maria2 1月1日は神の母聖マリアの祝日でした(写真はファティマの聖母)。実はミサの間、大晦日に見た映画「マリア」を思い出していました。

この映画では聖書の短いことばが、より具体的にあらわされています。マリアとエリザベトの話も興味深い表現でしたし、3人の博士もなかなか良い味を出しています。聖書では突然現れる3人の博士ですが、東の国からベツレヘムへの旅は砂漠を渡るなど命懸けだったのは、映像を見て初めて気付きました。

ヨセフがとても優しい人に描かれています。ナザレからベツレヘムまでの200kmという距離を、身重のマリアをロバに乗せ、ヨセフは4日間歩き続けます。途中のエルサレムでは、多くの商売人に辟易し、さらに盗みにも逢いかけます。ヨセフは「これが聖なる都か」と嘆きます。

食事も十分になく、ヨセフはパンを半分に分けて、大きい方をマリアに、そして自分の分は一口食べるだけで、残りをマリアを運ぶためのロバに与えました。川を渡るときには危うく流されかけるマリアを救い、荒れ地を歩着続けるうちにヨセフの足は泥にまみれ、血もにじんでいました。

そんなヨセフの足をふきながら、マリアはお腹の子に言います。

お前を育ててくれるのは善良な すばらしい人よ
自分より人のことを考える人

ヨセフは何も教えることがないかもしれないと言っていましたが、このような愛がイエスを育てたのでしょうね。

ベツレヘムの手前で、気になったのは羊飼いの話です。ヨセフいわく「羊飼いは生涯一人で暮らす」とのこと。それで神父やシスターが独身なのかもしれませんね。

ロバに揺られて体の冷えたマリアに、ある羊飼いが暖をとらせてくれました。ここでも「あなたのご親切を子供に話すわ」と、ここでも聖家族のあり方を垣間見せてくれました。この羊飼いが、こんな話をしました。

神はあらゆる人に授ける、贈り物を
あんたは お腹の中のものを授かった

と祝福の言葉を語ります。マリアが「あなたは何を?」と羊飼いに聞くと、

何も、贈り物を授かる希望だけ

とさびしげに語りました。その羊飼いは、天使に救い主の誕生を知らされるあの羊飼いでした。ミサの朗読では「思いを巡らしていた」(ルカ2・19)とされていたマリアは、飼い葉桶のイエスを抱きかかえて羊飼いにこう言います。

すべての人のものよ
私たちへの贈り物です。

最高のシーンでした。

そうそう「宿がなかった」のシーンは結構笑えます。ぜひ見てください。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2009/01/01

あけましておめでとうございます

いつもこのブログをご覧いただいてありがとうございます。今年もよろしくお願いします。

Fuji2 写真の富士山は去年の夏に新幹線から撮影したものです。雨上がりのはっきりした富士山もきれいですが、このように幻想的な富士山も良いものです。

明るい希望に満ちている時に喜ぶのは簡単ですが、暗雲が垂れこめてどうしようもない状況で喜ぶのは簡単ではありません。でも、聖書にはこう書かれています。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(一テサロニケ5・16-18)

今年も色々な出来事があると思いますが、写真の富士山のように雲に覆われた時にも、喜びを見出していきたいと思います。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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