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2008/12/28

ヨセフの背中のような愛

Seikazoku1_2 今日は聖家族の祝日でした。ヨセフとマリアの愛によって育てられたイエス。その家族のありようは、私たちの模範であり、私たちの救いなのです。

先日、キリスト教を避けている娘がふざけて、聖家族の像を反対に向けていました。その姿を見て、私は考えさせられました。聖家族は聖ヨセフの大きな外套に守られていました。そして、その隙間を埋めるように聖母マリアの外套がイエスを守っていたのです。

Seikazoku2_2 私の霊名でもあるヨセフは厳しい現実を受け入れて、大きな愛で家族を守っていました。そして、マリアも現実を受け入れた上で、ヨセフを助けてイエスを大きな愛で守っていたのでした。

子供は弱いものです。すぐに風邪をひいたり、病気をしたり、なかなか食べてくれなかったり、ぐずったり、、、。私が思春期の頃、本当は自分が食べたいくせに食べ物を譲ってくれる親が不思議でした。でも、私も子供を持つようになって、ようやくわかりました。自分よりも大切なものがあるのですね。

聖家族の愛、それは神から人間への愛でもあると思います。悲しんだり、苦しんだりしているときは共に悲しみ、喜び、笑っているときは共に喜び、微笑んでくださるのでしょう。そんな愛に包まれているからこそ、苦しい現実を受け入れつつ、希望を失わずに生きていけるのでしょう。

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2008/12/25

地には平和、御心に適う人にあれ

主のご降誕おめでとうございます。

今日はクリスマスのミサでした。    例年と違って天使ミサ(ラテン語ミサ)でちょっと戸惑いましたが、ロウソクの明かりで始まるミサはやはり良いですね。

今日の福音は「羊飼いと天使」(ルカ2・1-14)でした。今日は仕事で色々あって、あまり心が静かではなかったのですが、そんな私に

地には平和、御心に適う人にあれ

と言う言葉が響きました。平和が訪れるのは「御心に適う人」なのですね。私のために用意されたような言葉に心が洗われました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/12/23

カトリック豊中教会

Toyonaka 教会の御聖堂に初めて入ったとき、様々な感動があります。落ち着いた感じや、凛とした感じ、色々な教会があります。これまでに特に感動したのは、新潟のカテドラルとこの豊中教会です。

Toyonaka2 入り口の正面にあるイエスさまに迎えられて左手に聖堂があります。大きな棕櫚の木の影響でアジア圏の建物のようですが、中は和風です(中の様子はHolyRingで見てください)。

Toyonaka3 和風と言うと大津教会の瓦屋根を思い出しますが、ここは内装の木と壁、そして照明が和風な感じです。桂教会も和風な照明でしたが、桂はモダン、豊中はしっとりした温かみのある感じです。正面には大きな聖画がありますが、玉造教会のようなインパクトのある感じではなく、やさしい感じでした。兎にも角にも落ち着いた祈りの場でした。

Toyonaka4 祭壇の前には、クリスマス前なのでプレゼピオ(リンク先はLaudate)とアドベントクラウン(リンク先はLaudate)がありました。

Toyonaka5 帰りには聖堂前のマリアさまと掲示板前のプレゼピオにお見送りしていただきました。

Toyonaka6 クリスマスのミサは24日が18時と21時、25日は9時にミサがあるようです。近くの方はぜひどうぞ。

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2008/12/21

キリスト教の強さ - Let It Be -

聖書の分かち合いでは日曜の福音「イエスの誕生が予告される」(ルカ1・26-38)を分かち合いました。

この福音は、「おめでとう、恵まれた方」と現代で言うならあやしげなダイレクトメールかフィッシングサイトのような大天使ガブリエルの言葉に、おとめマリアが戸惑い、そして受胎告知を受け入れるというお話です。

聖書の4つの福音書の冒頭は、それぞれの特色を表しています。異邦人向けに書かれたマタイによる福音書は、悔い改めて罪を清めるための洗礼の話から始まります。神学的な内容が中心のヨハネによる福音書は、言葉が神であることから始まります。そしてマタイとルカの両福音書は、ヨセフとマリアが処女懐胎という受け入れがたい事実を受け入れる話から始まっています。

ニーチェはキリスト教を「同情の宗教」であるとして自然淘汰にさまたげていると述べましたが(「キリスト教は邪教です!」,p.23)、キリスト教の強さは神に従順になることで弱者が強者になれるところです。一人ぼっちで迷路を進むのではなく、不条理な現実を受け入れつつも未来の希望を神に託す。それは、様々な困難と向き合う際に生きる力となるものです。

聖書の分かち合いでいつも使わせていただいている「福音のヒント」には、受胎告知の場面で聖母マリアの「なりますように」という言葉がラテン語で「フィアットfiat」、英語で「Let It Be」であるとされていました。fiatといえばイタリアの車ですし、「Let It Be」といえばビートルズの名曲です。

もしやと思って「Let It Be」の歌詞(リンク先はなつメロ英語)を読むと、悩んでいるときにマリアさまが出てくるお話なのですね。意地を張ったり、悲しみにとらわれるのでなく御旨にまかせる。その信仰が、心の平安をもたらすのだと思います。

考えてみると日本らしい表現では、そのような言葉は見当たりません。「人生万事塞翁が馬」とか「なんくるないさ」は、「ケセラセラ」のように気楽に何も考えない感じですし、「仁慈を尽くし天命を待つ」というと潔くあきらめてる感じがしますね。

キリスト教の信仰に基づくなら、世界は完成に向かっているのです。すべてが良いことであると信じるなら、不条理なことも受け入れて、未来のために乗り越えることができます。

聖母マリアの処女懐胎に関して様々な説がありますが、聖書記者の伝えたかったキリスト教の強さを読み取れば、生きる力になると思います。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/12/20

神は慈しみ深く、人の命は掛け替えのないもの - 待降節黙想会 -

日曜日は待降節黙想会でした。東京教区の幸田和生補佐司教にお越しいただき、「良い知らせとは?」と言うテーマで行われました。講話は先日の列福式の様子とキリシタン時代についてのお話でしたが、殉教の悲しい歴史ではなく、生き生きとした時代について語られました。

日本26聖人の本などを読むと、信仰を守るために潔く殉教した姿が描かれていますが、キリシタン時代の殉教者は、みな命を大切にしており、少しでも生きながらえてイエスの教えを守ろうとしたと言われていました。

1614年に禁教令が出た際、宣教師は追放される者と、信者のために残る者に分かれました。殉教した司祭はその時に残られた方々なので、信者のために少しでも生きながらえようとされたそうです。もちろん、他の信者も少しでも伝えようとしました。殉教を免れたものは、踏み絵を踏んではコンチリサンという痛悔の祈りをして信仰生活を送り、その信仰を代々伝えました。

そのような信仰が明治になるまで伝えられたのは、共同体の力があったからです。誰か一人が裏切るだけでも信仰はそこで途切れてしまいます。共同体で支えあい、育まれた信仰がありました。殉教者は孤独なヒーローではなく、共同体という仲間がいたのです。

私たちは、当時の豊かな信仰生活に学ばなければなりません。殉教者ではありませんが、アルメイダという人がいます。アルメイダは貿易商として来日し、その後イエズス会に入会しました。彼の最初の活動は乳児院を作り、間引かれる子供を救うことでした。これはあまりうまく行かなかったようですが、その後の日本最初のホスピタル(病院)につながりました。この病院では、内科・外科のほか、ハンセン病も扱っていたようです。

戦国時代は下克上の時代です。人の命を奪うことで出世することが当たり前の時代に、アルメイダは病院を通して「神は慈しみ深く、人は掛け替えのない命を持っている」ということを実践しました。病気が治り、命が救われるという現世的なご利益だけでなく、アルメイダによる神の教えの実践によって布教は成功しました。

「人はかけがえのない命を持っている」この言葉は、先日のマザーテレサのTV番組を思い起こさせました。マザーテレサは、もっと効率良い方法があるのではないかとの問いに、一人一人を愛することが大切だと答えたそうです。アルメイダの行いも、同じ思いがあったのでしょう。だからこそ多くのキリシタンが生まれたのだと思います。

今回の黙想会では、新しい試みとして質問シートを使っての分かち合いを試みました。お昼休みに質問を集めて、昼食後に回答をしていただいて理解を深めるのです。直接質問するよりは、質問が出やすいこと、そして時間調整が可能なことで採用しました。

質問シートは講話と関係のあるものから分類して幸田司教にお渡ししました。その際に、講話に関するものからお答えいただいて、時間調整してくださいとお話ししました。つまり、すべてに答えなくても良いことを暗にお話ししました。

すると、幸田司教は重みづけはされましたが、時間内にすべての質問にコメントされました。私は恥ずかしくなりました。一人一人を大切にするお話を聞いておきながら、効率だけを考えて大切にすることを忘れていたのです。

キリシタン時代にはミゼルコルディア、聖体、聖母の3つの信徒団体があったそうです。ミゼルコルディアというのは病院、聖体は聖体奉仕、聖母は教育を行ったそうです。

当時の教育を受けた人には、福音がそのまま響いたそうです。貧しさや厳しさの中で、神の愛は素晴らしい恵みだったと思います。ミサの福音に「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」(ヨハネ1・26)とあるように、現実の中に神さまがおられたのです。

豊かな現代に生きる私たちは、当時のように福音が響きません。そこで、東京教区では「福音のヒント」を作られているそうです。この福音のヒントを通じて、現実の中に神さまがいることを知り、ともに信仰する仲間作りをし、長い目で霊的に成長してほしい。とのことでした。

黙想会を終えて、海外におられて日本語ミサに中々与れない方にも役立っていることをお話しすると、そういう思いもあって始めたのです。と言われていました。慈しみ深い神に習い、掛け替えのない命を大切にされているのだと思いました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/12/09

人生の荒れ野

日曜のミサは妻と娘と共に与りました。キリスト教にまったくと言ってよいほど興味を示してくれない娘が、河原町に出たかったのか、ミサについてきてくれました。祝福さえも受けてくれないのですが、久しぶりに家族で出かけられたことを素直に喜びました。

いただいた京都教区時報の表紙には、京都を訪ねたフランシスコ・ザビエルが、学問所を訪問することも天皇への謁見もかなわず、思うような活動ができなかったことが書かれていました。そういえば、パウロも宣教時に苦労したようなお話もありましたね。多くの宣教師のように、希望を捨てず、その時を待つことにします。

福音はマルコによる福音書の冒頭部「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」(マルコ1・1-8)でした。シンプルな福音でしたが、良いお話を聞くことができました。第一朗読にも出てくる「荒れ野」は暑くて乾いた印象がありますが、実はそれだけではなく人生の苦しみを表しているとのことでした。人生は、熱い時だけでなく、寒さ、あるいは厳しい雨や嵐などに匹敵する様々な苦労があります。そのような人生の中で、悔い改め、道を整えよと聖書では述べられているのです。

待降節はキリストが来られることを望み、準備するときです。それは単にクリスマスに示されるキリストの生誕だけでなく、週末のキリストの再臨をも待ち望み、準備するときです。

人生の荒れ野で悔い改めて道を整えること、それこそがキリストという希望の光につながるのでしょう。

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2008/12/05

正義と平和は抱きあう

入門講座では日曜のミサの「聖書と典礼」を用いてみ言葉を味わっています。答唱詩編は詩編85・9-14からでした。この中に

いつくしみとまことはめぐり合い、
正義と平和は抱きあう

という言葉がありました。また、「神は平和を約束される」と書かれた節の解説には、こう書かれています。

旧約聖書における「平和」は単に争いや戦いがない状態を指すのではなく、「欠けるもののない状態」を表す。不正な力によって表面的な平穏さが保たれているような状態は「平和」とは言えない。それゆえ、平和は「正義」と切り離すことができない。

満たされた状態、それが平和なのですね。信仰によって苦しみを耐えるのではなく、苦しみの中でもそれが正義であることを見出して、あるいは正義につながると信じることで満たされる。そのことを神様は約束されているのでしょう。

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2008/12/04

神の愛に深く信頼する - 静けき真夜中 -

心のともしび機関誌12月のテーマはクリスマスです。この中でシスター渡辺和子の「キリスト様が生まれた日」(リンク先で全文が読めます)が載っています。

クリスマスはイエス・キリストの生誕を祝う日です。その場所は馬小屋でした。そのことを神の身分でありながら、最もみすぼらしいところでお生まれになったと表現されることが多いと思いますが、シスター渡辺は「『こんなはずではなかった』ことが、実は、すばらしい結果をもたらす」という私たちの人生と重ね合わせて説明されています。

もし、ヨセフとマリアが宿屋に泊り、酒場の男どもが騒ぐ声が響く中でイエス・キリストが生まれたなら、静けき真夜中(いわゆる「きよしこの夜」)ではなくなってしまいますし、馬小屋の代わりに宿屋と飲み屋を作らなければなりません。すべては最も良い形で計画されたのでしょうね。

シスターのお話しの最後にこう書かれています。

自分が立てた計画が崩れるような時にも、神の愛に深く信頼することを、ご降誕の喜びの日に、あらためて思い起こしましょう。

心安らかに現実を受け入れ、より良い明日を目指したいと思いました。

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2008/12/01

気をつけて

今日から待降節です。イエス・キリストの生誕を祝うクリスマスを前にして、その時を待ちわびる期間です。

キリスト教で「その時」と言うのはクリスマス以外にもう一つあって、この世の最後の時、すなわち終末です。このとき、イエス・キリストが再臨し、神の国に入れるものと、入れないものを分けられるとされています。

今日の福音は「目を覚ましていなさい」マルコ(13・33-37)では、イエスがその再臨の時に向けてこう言われます。

気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。

この言葉、タイトルにもあるように目を覚ましていることができるかが気になりますが、今日はその前の「気をつけて」と言うところが気になりました。

気をつけて」ということは、人は気をつけていない状態に陥りやすいということでしょう。それは、気持ちが緩んだ、だらだらした状態だと思います。あるいは、何かに心がとらわれて、冷静でない状態かもしれません。とにかく、本来あるべき姿ではない状態だと思います。

そう考えると、「目を覚ましていなさい」と言うのは、人生を無駄にしないことではないかと思いました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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