« 神さまが置かれたところで咲きなさい - こころのともしびTV - | トップページ | 私にとって神とは - 聖母マリア - »

2008/08/14

「幸い」とは絶対的な祝福の世界

ツッチーさんにいただいたコメントをきっかけに見つけた晴佐久昌英神父説教を読みました。この説教はいわゆる平地の説教の一部である「幸いと不幸」(ルカ6・17,20-26)という福音に対して話されています(良い説教なのでぜひ読んでください)。この中で、晴佐久神父はこんなことを言われています。

ちょっと幸せになったら「もっと幸せに」。もっと幸せになったら「でもまだ隣の家の方が幸せ」と。これでは、幸せなのになおも幸せを求めて苦しみ、不幸せを恐れるという「幸せ地獄」です。

イエス様の「幸い」っていうのは、どうもそういう世界とちょっと違うようですね。「幸い」っていう言葉は、日本語の語源は「さきわう」ですから、咲いて湧いてあふれ出てきて、豊かに満たされるということです。条件抜きに全てにおいて言える言葉です。これには「不幸い」っていう反対語はありません。

幸いは一方的に与えられてその人を満たしている祝福された状態で、「幸せであればもちろん幸い、不幸せであってもやっぱり幸い」、そう言えるような絶対的な祝福の世界です。そのまことの幸いの世界を信じられた時に私達は幸せ・不幸せという相対的な、いわば「幸せ地獄」から抜け出すことができます。

人というのは、ついつい不幸と思ってしまい苦しみますが、愛されていることを知っていれば、すでに幸せであったことに気付かされます。この説教を読んで、ハヤット神父のこころのともしびTVの初回「人生の目的(動画)」を思い出しました。

人は「もっと幸せに」とついつい思いがちですが、欲望を満たしたからと言って幸せとは限りません。ハヤット神父は、たまにいただくアイスクリームが好きで、いつかおなかいっぱい食べたいと思われていました。しかし、それが実現したとき、苦しいだけだったそうです。

晴佐久神父のいわれるように、貧しいから幸いではなく、「あなたがたは幸いだ」という祝福なのだと思います。満たされたなら恵みを感謝すれば良いし、満たされないなら少しの幸せが花のように咲くでしょう。今、満たされないこともやはり幸せなのだと思いました。

<')))><

|

« 神さまが置かれたところで咲きなさい - こころのともしびTV - | トップページ | 私にとって神とは - 聖母マリア - »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/138594/42164574

この記事へのトラックバック一覧です: 「幸い」とは絶対的な祝福の世界:

« 神さまが置かれたところで咲きなさい - こころのともしびTV - | トップページ | 私にとって神とは - 聖母マリア - »