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2008/07/20

「毒麦のたとえ」と「ちりとてちん」

今日のミサの福音は「『毒麦』のたとえ/『からし種』と『パン種』のたとえ/たとえを用いて語る/『毒麦』のたとえの説明」(マタイ13・24-43)でした。

この一連のお話は、天の国のたとえ話です。毒麦のたとえでは、ある人が良い種を畑にまいたが、敵が毒麦をまいてしまいました。僕(しもべ)たちが毒麦を抜くか問うと、主人は良い麦も抜くかもしれないので、育つままにするように。そして、刈り入れの時に焼くために毒麦を集め、麦は集めて蔵に入れると言います。

あとに書かれている解説によると、主人はキリスト、刈り入れは世の終わりで、「つまずきとなるすべてと不法を行う者どもは燃え盛る炉の中に投げ込ませる」が、「正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」、と解説されます。

からし種とパン種はそれぞれ、小さな種が大きな気になる話、パン種は粉に入れると大きく膨らむというお話です。

説教では、毒麦はいつまでも毒麦だが、人間は変わるかもしれない。どんな人も愛さなければならない。その小さな愛が、からし種やパン種のように大きく広がるというお話をされました。

愛が大きく広がるというお話は、ペイフォワードを思い出させます。一人が三人に良いことをするということを繰り返すだけで、世界が大きく変わるお話です。からし種のような小さな愛でも、それは決して無駄にはならず大きく実ると思います。

昨日は、「麦まで一緒に抜くかもしれない」という記事を書きましたが、これに関して、「ちりとてちん」のDVDが「おしん」の販売数を抜いた(リンク先はMSN産経ニュース)というニュースを思い出しました。NHKの朝ドラでは視聴率が最低だったそうですが、販売では人気があったようです。

「ちりとてちん」はマイナス思考の主人公が同姓同名の友人に劣等感を抱くのですが、実はその友人も主人公に劣等感を持っていて、色々とアドアイスをしてくれていた別の友人も自分の人生には悩んでしまうお話です。人間が物事を考えるとき、自分の側からだけで考えてしまいがちです。毒麦と思えるような人であっても、実は違うのではないか、そんな気持ちをいつも持って、相手を認めたいと思います。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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