私にとって神とは - 導き -
救いというのは信仰のきっかけになりますが、信仰ではありません。信仰に至るには導きを認め、イエスが神であることを是とする必要があります。ここでは、私の経験から導きについて書こうと思います。
神さまに救いの業を受けても、それを恵みと感じなければ信仰にはなりません。「偶然」とか「ラッキー!」と思ったなら、それだけのことです。聖書の中でも「重い皮膚病を患っている十人の人をいやす」(ルカ17・11-19)というお話があります。
イエスさまに10人が皮膚病を癒されたのですが、そのうち一人のサマリア人だけが感謝してひれ伏しました。イエスさまは「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。皮膚病が治ったのは10人でしたが、本当に救われたのは神を賛美した一人だけだったのでしょう。
そもそも私がキリスト教の本を読んだのも偶然でした。父が亡くなって葬儀の後、カトリックの学校で育った妻が「仏式だと気持ちが入らない」と、私の葬儀は教会でしたい(先に死ぬことが前提です:-)とのこと。私が死んでからのことなので、別にどのような葬儀でもよかったのですが、親の宗派の本とともに遠藤周作さんの本を読んでみました。
その時は、仕事の苦しみが救われることは期待していなかったのですが、救われちゃいました。ひとりで必死になっていたのに、「負けました」という感じです。救われたことでキリスト教に対する興味は増しましたが、それは既存の宗教を受け入れることとは必ずしも一致していませんでした。
それまで宗教を否定していた私にとって、キリスト教を学ぶことに恐怖感を感じていました。高校の倫理社会の授業は結構好きでしたが、十字軍や宗教改革ぐらいの知識しかなく、また、大学の自治会ではカルト的な宗教などの危険性を教わっていました。そんなことから、暴走しがちで一度入ると抜けられないようなイメージがありました。
昔の記事を読んでいただくとわかりますが、そのころは信者じゃない方のキリスト教の解説本やプロテスタントの方の本などいろいろな本を読みました。そして、ある程度の知識を得たころ、どこかに通おうと思いました。
今はカトリックの信者ですが、その頃の候補はカトリックを含めてとりあえず3つほどありました。成人洗礼の方には割と多いようですが、わたしも教会を選ぶつもりでいました。そこで、2ちゃんねるで情報収集して、まずは「最も抜けやすい」とされていたカトリックに行こうと決めました。そのころ妻も通っていたので、こっそり行けるだろうというのもありました。
遠藤周作さんはミサ、特に音楽がいま一つなように書かれていたので、あまり期待していなかったのですが、はじめてのミサは感動的でした。私を救ってくれたイエスさまを皆が賛美していているのです。当時はミサの意味はよく分かっていなかったのですが、賛美していることだけはわかっていたのですね。
ミサ後に妻の知り合いに紹介されて神父さまにご挨拶すると、入門講座に誘われました。本当は行きたくて仕方がなかったのですが、まだ負けを認めるのが悔しくて、その時は黙っていました。でも、やっぱり行きたくて翌週の入門講座に出ました。
入門講座に出ると十字の切り方を教えていただくなど、結構うれしかったのですが、どうも細かなことが気になって、反論したくなったのを覚えています。教わる立場でしたが、教会を選ぼうとしていたので、神父さまを品定めしようとしていたのでしょう。
何度か入門講座に通ううち、教会を選ぼうとしているのではなく、神さまを選ぼうとしているような気がしてきました。神さまに負けたのに、いまだに負けを認めたくない自分に気づいたのでしょうか。
そんなころ教会の横にある修道院のシスターとご挨拶する機会がありました。妻がその修道会のやっている幼稚園に勤めていて、何か用事があると言うのでついていったのだと思います。翌週に東京に行かれるとのことで「私も出張するのでお会いするかも知れませんね」などと言いながら、「もし本当に会ったら教会を選ぶのをやめよう」と思っていました。
出張の当日、まあそんなことはないだろうと思って駅に行くと、見覚えのあるシスターが、、、思わず避けてしまいました(すみません)。そして、新幹線に乗り込むと同じ車両の何列か前にシスターが座られたのです。私は負けず嫌いですが、このときばかりは負けを認めて、ご挨拶にうかがいました。
そんな感じで偶然が重なり、私はそれを「導き」だと思いました。神さまのご計画というか神様に仕組まれたんですね。「必要なものは与えられる」と言いますが、必要な時に必要なものを神さまは与えられたのです。
神さまのご計画というのは、天地創造からこの世の最後の時まで、この世の完成に向けてより良くなっていくというものです。そのために行われる神さまの働きかけが「導き」で、気付かなかっただけで、私もご計画の中に組み込まれていたのでしょう。
私は、救われ、導きを認めました。信仰に至るには、あとはイエスを神とするかどうかだけでした。
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コメント
まったくあたらしい出会いの導き方でたいへん関心しています。
日本古来の宗教上の伝統的なものがないのにおどろいています。
たとえば親鸞には法然が、じかに師として必要というような人格依存を必要としていないあたらしい超越的原理をもとめる感性なのかな、と思いました。日本人は「究理をもとめず」(中江兆民)という殻を破った感じで
とても新鮮に映りました。次を楽しみにしています。ありがとうございました。
投稿 pinpinkorori | 2008/05/10 21:17
もしさしつかえなかったら
「候補はカトリックを含めてとりあえず3つほどありました。」の3つはなんだったのでしょうか?
しめしていただけますか?とても興味があります。私のまわりに原理教団の幹部からプロテスタンとの熱心な牧師さんになった方もホームレスから同じくプロテスタントの牧師さんになった方が複数おられます。エキメニックに多くのカトリック教会の修道会や信者さんがそのプロテスタント教会に援助しています。
投稿 pinpinkorori | 2008/05/11 06:38
「長血を患っていた女の場合には、最初積極的であったのは女のほうである。イエスは、自分の体から力が出て行ったのを感知して、女を探す。女は恐ろしくなって震えながら前に進み出て、真実を述べる。いじらしいまでの態度である。イエスは彼女に言う。「娘よ。あなたの真実・信頼(ピスティス)があなたを救ったのだ。平安(シャローム)のうちに行きなさい。病気から癒されて元気でいなさい」(マルコ3-34)と。慈愛に満ちたイエスの微笑みが見えるような描写である。…群衆のただなかにおいて彼らとともに彼らのために生き労するイエスへの信頼・真実(ピステス)に応じて・・この女に告げられる言葉、「あなたの真実・誠実さ・まごころ(ピステス)があなたを救ったのだ」において強烈な形で主張される」(高尾イエスとは誰か162)
さかばさんの示したのは、「恩知らず?」の発生の場面で恩知らずを強調すればたしかに信仰と訳したほうがよいと思うしむずかしいなあ判断するのは?それこそそれで信仰がかかっているとなるようだと私はないのかなと。(いいがかりにイエスへの信仰だとまだ死と復活がない場面なのに変だとか・・。創始者イエスがはじめから信仰の対象になっているから後から付け加えられた文であるとか・・いろいろいちゃもんがいえるのですがこういういいがかりは感動しないのですが。
本日は聖霊降臨で「聖霊により人を許す」というおっかない恵み(ゆるさないと神からお前も許さないといわれそうな賜物も)を頂ける日です。そんなたまものは、裁判員制度でいやいやながら裁判員にされたような気分になってしまいますがまあ判断停止してカッコに入れて真実を求め神さまにすべておゆだねしましょう。
投稿 pinpinkorori | 2008/05/11 08:02
すみません。わすれました。聖霊の働きかとおもわれるほど感動的なのは「本当は行きたくて仕方がなかった」のところです。「・・・したくてしかたがなかかった」と思うところです。
「したくてたまらない」と感じるのが聖霊の働きの身体やこころへのしるしと思います。否定しか働かない傾き、否定しかものごとをみない90%以上の無意識の人間の闇、その結果の神経症や心の病の鎧をとく言葉使いとおもいます。
「・・・ねばならぬではなく」当為を感じるとき、すぐ「したくてたまらないか」どうかをできるだけわたしの言葉と行動の指針にしています。
「・・・ねばならぬ」というすぐでてしまう思いをできるだけ避け、「したくてたまらないとおきかえています。司祭の説教でも「…ねばならぬ」という話が出るとき、「ご自分にどうぞ」と言い聞かせ、とりあわず避けてます。内容が良くとも限界をかんじます。
投稿 pinpinkorori | 2008/05/11 10:17
候補の教会は当時の勤務地の関係で前をよく通っていたプロテスタントの教会、ここは改革派だったので禁酒とか言われてやめていたかもしれません。もう一つは遠藤周作さんが好意的に書かれていた正教会です。こちらは、遠距離であること、書籍が出回っていないこと、ミサが長くて立ちっぱなし、などで続かなかったかもしれませんね。
「あなたの信仰があなたを救った」というのは、今まで苦しみの中で(日本人的に言うなら)神も仏もあるものかと頑なだった心が、神に感謝したことで自由になったということだと思います。
あと、私も教会で「義務」という言葉を聞くと躓きそうになります。
投稿 さかば(管理人) | 2008/05/11 12:26
ありがとうございます。よくわかりました。3つともすばらしくて選択にわたしなら全部といって迷いますが、ストレートに選択されたのはすごいですね。とても信仰が光っています。信仰も多種多様の力点をもって神をさんびしているようにも思えました。バラエティにとんで、修道会にそれぞれのカリスマがあるようにたぶん議論のよちのないようななんか、ちがいがいのちのようなものでないでしょうか。自分は桜の花として生きなさいと神からいわれて、ほかのチュウリープとして神から生かされているのを見てもすばらしいと思うけれど桜の花で十分開花すればそれでいい。他の花をみて、ばらとして、すみれとして、そのちがいが、それぞれの命の躍動となって神を賛美してその栄光をたたえていればよいのだと。しかしすばらしい信仰をおもちですね。「世界が完成にむけて・・」なんてとても私には思えず到達しそうもない。<神も仏もない>出発点にいつも戻りたたずんでいるよう。桜の花が、ほかの花と比べて何と自分は咲いている時間が短いのだろうと文句を言っているようなさえない感じ・・
投稿 pinpinkorori | 2008/05/12 02:26