私にとって神とは - 救い -
ここ何日かのpinpinkororiさんに頂いたコメントを読んで、私の思いを書くことがどなたかの役に立つこともあるのではと、少しずつ書いていこうと思います(あまり、コメントできなくてすみません。すべて読んでいます>pinpinkororiさん)。タイトルは遠藤周作さんの作品と同名ですが、作品とは関係ありません。まずは「救い」について書いてみたいと思います。
人が「救い」を感じるときは、こんなときだと思います。
(1) 不安が取り除かれたとき
特に死に対する不安は、誰しもが少しはあるのではないでしょうか?かつての私は、死ねばそれまでと思っていました。そんな私は、「生きている間は思いっきり生きて、前向きな状態で死にたい」などと思っていました。しかし、これも生きている自分を守ろうと必死になっていたのかもしれません。
また、今のように変化の激しい時代に生きていると、将来に対する不安というものもあります。転職しなくても、今の仕事が退職するまで変わら保障はないですし、転勤などの可能性もあります。大変な仕事が続くと健康への不安もあるでしょう。
そんなときに、この世は完成に向かっている。物事にはすべて意味がある。最初に神が愛された。ということが、未来に対する不安を取り除いてくれます。「なる様になる」ではなく「なるべき状態になる」と思えるのです。
(2)希望が見えた時
人は人と関わりを持たないと生きていけませんが、不完全な人同士が関わることで苦しみも生じます。他の人が信用できなかったり、孤独を感じたり、それは「絶望」という言葉にふさわしい苦しみかもしれません。
晴佐久神父の説教集で電話帳に教会の電話番号を載せるお話がありました。名前のほかに文章を入れることができるけれども、結婚式場みたいな宣伝ではなく、なにか福音的な言葉を載せたいということで、たしか「あなたも神さまに愛されている」というような言葉でした。すると、あるとき電話がかかってきて、お礼を言われたそうです。その方は、絶望のふちにあったが、何気なく電話帳を見て、その言葉に救われたそうです。
私が、ミサに行くのはこのためです。その方のように絶望には至らなくても、日常生活の中で押し殺している苦しみが誰にでもあると思います。ミサ中の聖句や聖歌にある、神さまの言葉に触れて、希望の光が見えることがあるからです。
(3)緊張がほぐれた時(思い込みからの解放)
とんでもなく大変な時、人は破裂寸前の風船のように緊張で張り詰めることがあります。そんな時は周りが見えず、周囲に迷惑をかけたり、人を非難したり、自分はだめだと決めつけたりします。自分が壊れてしまいそうな苦しみです。
私は洗礼を受ける前に、自分の背負った重責に心が押しつぶされそうになっていました。そんな時にイエスさまに出会いました。 イエスさまは孤独という苦しみの中で絶望せず、鞭打たれ、茨の冠を載せられ、十字架を背負い、手足を打たれながら、父なる神にとりなすという重責を果たされました。
遠藤周作さんの「キリストの誕生」で描かれたイエスさまは、がむしゃらになるのではなく、弟子に裏切られても苦言の一つも言わずに、淡々と人類の救済を行われました。その姿を知り、必死になっている自分を振り返ることができ、緊張がほぐれ、苦しみがら救われました。
なぜ、私の緊張がほぐれて救いを感じたのかはよくわかりません。まだまだ努力が足りないと思ったか、イエスさまの苦しみに共感したのか、イエスさまの優しさにほっとしたのか、それとも自分の小ささを感じたのかもしれません。とにかく、私は救われたのです。
人が救いを感じるとき、そこには「愛」があります。愛は希望の光です。希望の光に照らされた道を歩むこと、それが「信仰」なのだと思います。
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コメント
とてもこころ温まるお話をありがとうございます。ぬくもりをかんじます。
私は5年前に大病して死にそこなっています。(両親も相次いで死に親戚友人知人恩師も同時にかなり死んで、「信仰によるあの世での再会の希望」しか考えられない状態です。)その時からの主治医が、人間の身体はモーゼやアロンのように、125歳以上医学的に生きれる考えをもって、しかも「ぴんぴんころり」と死ぬのを(寝たきりで周りに世話の迷惑をかけないで)理想としてPPK(ぴんぴんころり)をとなえています。わたしは主治医の許可もなくpinpinkororiを名のっております。(私の洗礼名も聖人から許可をもらっていないように。)
「生きている間は思いっきり生きて、前向きな状態で死にたい」は図星です。そのとうりです。
神からの借り物の「身体」を「製造販売元」に十分活用して無傷でお返しすることを理想としています。したがって「自分を(製造元を)ダメだ」と思うとか(リストカット・自殺)は、「製造販売元」にケチをつけ(ダメージを与え)るので、考えないようにしています。わたしの主治医は「神様」をいつも口癖にしているが「何か偉大なものsomething grateの意で「まんだら」まで信じている。(奥さんが3,4人目なので私はグータラのカトリックをすすめている。)
おしゃられる「ミサ中の聖句や聖歌にある、神さまの言葉に触れて、希望の光が見えることがあるからです。」「遠藤周作さんの「キリストの誕生」で描かれたイエスさまは、がむしゃらになるのではなく、弟子に裏切られても苦言の一つも言わずに、淡々と人類の救済を行われました。その姿を知り、必死になっている自分を振り返ることができ、緊張がほぐれ、苦しみがら救われました。」
にふれてすごい人が世の中ほんとうにほんとうに信仰がある人がいるのですね。
まいりました。脱帽です。ありがとうございました。
投稿 | 2008/05/09 09:11
感謝。
紙出ししてくりかえし読んでいます。
「とんでもなく大変な時、人は破裂寸前の風船のように緊張で張り詰めることがあります。そんな時は周りが見えず、周囲に迷惑をかけたり、人を非難したり、自分はだめだと決めつけたりします。自分が壊れてしまいそうな苦しみです。
」
この5年間、ふりかえるとこのとうりでした。
「破裂寸前の風船のように緊張で張り詰める」
まったく自分の状態を言い表してくれています。
これを読んでがたがたと、こだわり・おもいこみ・気になること・心配・不安・恐怖・なやみ・苦しみ・煩悩・痛み・悲しみ・無明・重い何かがくずれて、すーと緊張がとけていきました。なにからふりまわされているのかわからず、(具体的に事柄は生じているのですが)試練にはちがいないのですが、解決方法はない。抽象的にもがいていた。神父や修道者やいろいろな偉い人々に相談しても答えはなかった。
今も苦しい状態は変わらないのですが、その状態を、聖霊がさかばさんをとうして言葉でふさわしく「再布置化」しリセットしてくださいました。また零からはじめられそうです。聖霊降臨の祝日の前のプレゼントだと思います。ありがとうございました。
投稿 | 2008/05/10 09:05
すみません。これまでで一番感動したところを書くのを忘れました。
「愛」というところです。「アイ」を再び発見できました。コリントの愛の定義を示しても「ああ、あれか」となってしまうし、なかなか思い出さないのですが、さかばさんの説明で生き生きとよくわかりました。いつの間にか風化していました。理解するのにコルベさんを出すのが一般的理解で「愛」社があるくらいですが、(何十年前にコルベさんについて執筆したことがあります)しかし神と人と他の人にあり、流れている。
もっとも中心的に感動しました。ありがとうございました。
投稿 | 2008/05/10 09:53
コメントありがとうございます。私の記事が少しでも救いになっていればうれしいです。
救いというのは信仰につながる重要な要素ですが、信仰そのものではないと思っています。次は、そのあたりを記事にする予定です。
投稿 さかば(管理人) | 2008/05/10 12:56