私にとって神とは - イエスは神か -
キリスト教は解釈によって、昔から分裂を繰り返してきましたが、イエスが神であるかどうかはかなり古い議論(リンク先はWikipedia)です。
しかし現代において、この議論はかなりナンセンス(死語?)です。あるAがBであるという議論をする場合、まずBを定義しなければなりません。つまり、イエスが神であるかどうかを議論するには、まず、神という言葉を定義しなければなりません。
神(God)という言葉を辞書で引くと、さまざまな定義が出てきます。英語の辞書では一神教では不可算名詞、多神教では可算名詞などと出てきます。さらに宗教によって神の定義は大きく異なります。
つまり神の定義によって答えが変わるということになります。「父と子と聖霊」の三位一体を神とするキリスト教ではイエスキリストは神そのもの、イスラム教なら預言者者、ユダヤ教なら偽メシア、ということになります。結局、どの定義を是(アーメン)とするかということになります。
私はキリスト教の教義に対して「アーメン」と言いました。この「アーメン」という言葉は、信仰の告白に用いられるのですが、「然り」、「はっきり言っておく」、「信じます」、「そのとおり」、「その通りでありますように」、というように訳されます。私のアーメンは「その通りでありますように」です。
哲学の世界では、神の存在証明が試みられたり、「神は死んだ」と書いたニーチェが発狂しました。行いで証をした人はいますが、神さまに会ってその存在を証明した人はいませんし、神さまのいる世界といない世界のどちらも成り立つと思います。
私も神様の働きを感じることはありますが、それも偶然とか思い込みという言葉で説明できるものです。でも、神様がいない世界は苦しすぎます。神さまがいるとすればすべてのことに意味があり、どんな苦しいことも良いことにちがいないと思えます。だから、わたしは「その通りでありますように」と言ったのです。
私の信仰はそんな弱いものです。でも信じるというのはもともとそういうものですし、苦しみを乗り越えて明るく生きていくために、私は信仰を捨てることはできません。
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コメント
神の存在証明について、多分究極の方法によるもの
http://blog.goo.ne.jp/i-will-get-you/
一般法則論
投稿 | 2008/05/11 03:24
「神様がいない世界は苦しすぎます。神さまがいるとすればすべてのことに意味があり、どんな苦しいことも良いことにちがいないと思えます。だから、わたしは「その通りでありますように」と言ったのです。」とても素晴らしい信仰告白で共感しました。
「神」という私達の「製造販売元」の「名刺」?をみると「あってあるもの」(出エジプト記)となっています。
この世のありとあらゆる存在は(人間も含めて)仮に火で燃やしてしまえばぜんぶなくなり「あってもない」存在です。移ろいゆくこの世のものはもともとはかないものです。ところが「神」だけは、燃えてなくならないシバのように永遠になくならない「あってあるもの」です。これがふつうの神の定義です。
そしてその「神」を具体的に示したものがイエスキリスト(「私を見たものは父を見たのである」)です。キリスト(聖書の各場面)を知れば神を知ることができる。モハメッドもブっタも「神の子」とはいわず、宗教の創始者として死ぬこともなかった。キリストの創始者としての特異性です。すべての人間の「あがない」(借金の返済の意)の「死」です。
三位一体の場面は、昔も今もキリストが洗礼を受ける場面で説明されます。鳩の「聖霊」とオン父の「わがこころにかなったわが愛する子」というオン父。そして「子」のきりすと。ここでわたしが感動するのは、ほんとうの父からの受容があったからこそ十字架まで(血の洗礼まで)遂行できたこと。父からのこの受容がなければ十字架の従順までいけたかどうか。キリストはここでこの世の父ヨゼフさんから天の父に「親替え」していること、それが「洗礼」。(そして天に各人の名前が永遠に記載される。)したがってこの地上の親に苦しみ「家庭内暴力」を繰り返す人たちに本当の父である神キリストに親がえをすること、ほんとうの母である「聖霊」のかたまり(めでたしせいちょうみちみてる)のマリア様に親がえをすることをすすめています。いっぺんにできなくとも、そばにいることを思って、憎たらしい?地上の親と替えることをすすめています。アシジの聖フランシスコが裸になって着ているものを父親にかえし、「今日から天の父を父とします」といって奉献生活(洗礼の深化?)をはじめたように。
投稿 pinpinkorori | 2008/05/12 04:21
コメントありがとうございます。
イエスさまの洗礼と聖フランシスコのあのシーンを重ね合わせられるとは思いませんでした。
聖フランシスコには父を捨てる悲しみがあったと思うのですが、イエスさまはどうだったのでしょうね。もっと深い覚悟があったかもしれませんね。
投稿 さかば(管理人) | 2008/05/12 22:15
そうですねこの点が修道院に入会する時の障害になるようです。あるところでは、司祭一人出すとその家は3代にわたり、修道者を出すと1代にわたりその家は救われるとしてその家族はなぐさめられるそうです。あるシスターは自分が入会することで先祖から家族全員もが救われることを条件に入会したとかたってくれたことがあります。神のはたらきとはいえこの世の家族と切る形を取り、あの世で全員会えるという希望で入会するようです。悲しみもささげ、あとで100倍?のめぐみをいただけるということを信じて。。。
投稿 pinpinkorori | 2008/05/13 21:04