信仰ではなく救いを求めて
私が教会に行ったのは、救いを求めていたからです。世の中には、良い死を迎えるために信仰を求められる方や、結婚相手の信仰を知るためや、興味から、など、さまざまな目的で教会に来られるでしょう。
しかし、教会というのは「信仰のための場」である前に「救いの場」でなければいけないと思います。教会に来て救われないなら、どこに行けば救われるというのでしょうか。マザー・テレサのように、信仰や思想に関係なく人格を認め、苦しみを和らげる行いが必要だと思います。
先日の黙想会での赦しの秘跡で、こんなことがありました。カトリックの洗礼を受けていない方が二人も来られたのです。もちろん、ゆるしの秘跡を受けることはできませんので、神父様にお話を聞いていただきました。多くの方のゆるしの秘跡でお疲れの神父さまに申し訳なかったのですが、教会の救いの業はそんなところから始まるのではないでしょうか?
私は神様を信じていませんでしたし、人間に信仰が必要だとも思っていませんでした。しかし、救われて、恵みを感じたことから、信仰に喜びを感じるようになりました。私のような人間に神の教えを広めるには、まず救われなくてはならないのです。信仰の形を押し付けるのではなく、受け入れることが大事だと思います。
でも、それが難しいのでしょうね。人によってバザーなどのイベントが好きだったり、教理が好きだったり、分かち合いが好きだったり、ただひたすら祈るなど、求めるものが人によって異なります。分かち合いが良いといっても、何げなく言った一言で、誰かを傷つけることもあります。
結局、神さまとの関係を大切にすること、神の教えを実践すること、そして、ミサと祈りをを大切にすることしかないのでしょうね。教会を一番に置くのではなく、自分と神さまの関係を一番に置くことが、教会を救いの場とするのではないでしょうか。
私信:放蕩娘さんお帰りなさい。いつでも戻ってきてください。
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コメント
[私が教会に行ったのは、救いを求めていたからです]
わたしもまったくどうかんです。そして「信仰」を「教義」と解するならおっしゃられていることもまったくそのとうりだとおもいます。
ただどうも「信仰」は、ギリシャ語で「ピスチス」といいそれは、もっと広がりのある言葉で「信頼」とか「誠実」とか「誠意」とか「まごころ」と訳します。キリストが癒しをおこなった場面でも「信仰があなたを救った」と訳すのでなく「あなたの信頼があなたを救った」と訳すことを高尾利数氏はすすめています。(ベストセラーのNHKブックス「イエスとは誰か」)
私は、「信仰が深い」とか「信仰がある」という場合の「信仰」とは、軽薄な「宗教をやっている」という意味ではもちろんなく、「信仰」は、それぞれの人の「イエスキリストとの距離」をいうのではないかとおもっています。距離がなく切れているのを「罪」とよぶわけです。信者はキリストがミサで御聖体のかたちでからだにきてはいってくれて(15分ぐらいで消化してしまいますが、)15分は、キリストを拝領することで文字どうり一体です。また聖体礼拝をする機会があれば、ふだんもそばにいるキリストがより御聖体の中におり、空間的にも具体的に身近に感じられます。
普段は、携帯電話とおなじように「各人のキリストと本人だけの暗証番号(つまり洗礼名)によっていつでも、天のキリストやマリア様とつながっています。
キリストやマリアさまのほうは24時間年中無休で私たちがかけてくれることをまっているのではないでしょうか?
私たちの助けを求める「叫び」はかならず聞かれます。ただ神からのこの世の限られた私たちへの返事は「すぐ」の場合もあれば「待つ」場合もあります。しかしそれは沈黙ではなく「すべて神のなさることは時にかなって美しい」(コヘレト伝道の書)とあるように神は人智不詳の「時」を選ぶのではないでしょうか。それでわたしたちには沈黙のように映る瞬間があるのではないでしょうか。
投稿 pinpinkorori | 2008/05/05 19:50
良いお話をありがとうございます。
なるほど「信仰」には、そういう意味もあったのですね。
私の書きたかった信仰は「教義」というよりは「信心業」ですね。毎週のミサに与っていると熱心だとか言われ、いろいろな事を頼まれて、そのうちに教会に行きづらくなる人がかなりの割合でおられると思います。でも、本当は救いを求めて、もがいているだけなんですよね。教会はそんな人のための場であって欲しいと思うのですよね。
投稿 さかば(管理人) | 2008/05/05 23:53
ありがとうございます。わたしは、おしゃられる「そのうちに教会に行きづらくなる人がかなりの割合でおられると思います。」のうちのひとりです。つまづいております。
教会のまじわりがいやで、とくに世間で十分尊敬されその延長で教会にくるご老人たちやおせっかいのご婦人たちと言葉をかわしてしまうだけで落ち込むのです。
「ゆるしのひせき」をうけて清められたい思います。罪びとをよんでいるのが教会だと言われても足が向かないのです。他人にほんとうに心を配らず、自分(世界)の延長と錯視し、思っているような教会役員やリーダーのひとびと、こういう人をみるだけでその日いちにち気分がすぐれないのです。
ミサやご聖体礼拝は、神父さまがいないとならないので教会に行きますが、家でミサをしてもらったりしています。信心業は他人ではなく神に向かうので大好きです。毎日御聖体やロザリオをしています。
投稿 pinpinkorori | 2008/05/06 06:14
最近のブログ、また一風変わって感じられ、
新鮮にも思いながら楽しく拝見させて
いただいています。
12使徒もそれぞれタレントがあり、役割が
違ったように、教会での私たちにもそれぞれ
の役割やタレントがあるのでしょうね。
(ぱっとしない私ですが遅咲きでいきます。)
それにしても、さかばさん、今年は
いよいよ福音宣教の年になりそうな予感?
投稿 チキータ@放蕩より帰省中 | 2008/05/11 07:15
>チキータさん
コメントありがとうございます。
「福音宣教」ですか、そんなんできません。見たり、聞いたり、感じたことをだらだら書いてるだけです。パウロの聖書引用がいい加減だったように、気にせず(元気な時は)語り続けようと思っています。
結果的に福音宣教になればうれしいですが、「躓かせたらごめんなさい」と思っています。好きなことを書くことで、遠藤周作の奥さんのように「あなたがクリスチャンなら私もなれる」なんて人がいればうれしいです。
投稿 さかば(管理人) | 2008/05/11 12:38