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2008/05/29

私にとって神とは - ご聖体 -

ご聖体というのは、ミサの中で信者に配られるパン(ウェハースのようなもの)です。ミサは最後の晩餐を模して行われるので、信者たちで食事をしていることになるのですが、そこには、深い意味が隠れています。

この深い意味を知るには、キリスト教の聖典である旧約聖書の内容と新約聖書の内容が「相似形」(似たような内容)を構成していることを理解する必要があります。旧約聖書というのは天地創造(世界の始まり)からのユダヤ人(イスラエルの民)と神の契約が書かれたものです。新約聖書というのはイエスさまの誕生から弟子たちの時代までのことを書いた神さまとの契約です。新約聖書を読むときには、旧約聖書に書かれた相似形の内容を知ることで、より深く理解することができます。

ミサ
相似形はミサ中の聖書朗読にも表れます。ミサでは第1朗読で旧約聖書、第2朗読で使徒書(弟子たちの書いた手紙など)、第3朗読で福音(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによるイエスさまの誕生から復活までの話)が主に読まれます。この3つの朗読が実は同じような内容のものが選ばれ、相似形になっています。

先日の「キリストの聖体」ミサでも第1朗読が「神の賜る良い土地/主を忘れることに対する警告」(申命記8・2-3,14b-16a)で、神さまから与えられたマナのお話で、ご聖体はマナと同じように神さまからの恵みであることを示しています。

最後の晩餐(リンク先はWikipedia)
第3(福音)朗読「イエスは命のパン」(ヨハネ6・51-58)にあるように、最後の晩餐の中でイエスさまはご聖体(パンと葡萄酒)がキリストの体と血であることとされました。これはイエスさまが十字架にかけられる前、過越し祭のことでした。

過越し祭(リンク先はWikipedia)
イエスさまの時代のユダヤでは、過越し(すぎこし)の日に羊を屠りいただくのですが、これは神様への感謝のしるしでした。かつてイスラエルの民がエジプトで奴隷として働いていた時、神さまがエジプト脱出を手助けするため、エジプトの子供(初子)を殺されたのです(恐ろしい話ですが、そこまでイスラエルの民は追い込まれていました)。

その際に、イスラエルの民を区別するために「家の戸口に羊の血を塗るように」と神さまは指示されました。神がすべての初子の命を奪われるとき、戸口に羊の血が塗られていれば神さまが過ぎ越されました。このことを祝って過越し祭では、羊を屠り、神の恵みが祝われたのです(出エジプト記12章)。

パンと葡萄酒
過越し祭では羊とパンをいただきますが、イエスさまと弟子たちには羊はなく、パンと葡萄酒をいただきました。そして、そのパンはキリストの体であり、葡萄酒はキリストの血であると言われたのです。ミサで「神の子羊、世の罪を除きたもう主よ」と歌いますが、キリストは過ぎこしに屠られる羊だったのです。

アブラハムと羊
聖書の中には羊の話はたくさんありますが、受難のキリストをもっともよくあらわしているのは、最初の預言者で「信仰の父」とも呼ばれるアブラハムの話に出てくる犠牲となった羊(創世記22・13)だと思います。

神はアブラハムの信仰を試されました。ようやく得た妻との息子イサクを神にささげろと言われたのです。アブラハムは神への愛の証としてイサクを捧げるため、イサクと共に命じられた山に登りました。いよいよ、刃物でイサクの命を奪おうとした時、神はアブラハムを止められました。そして傍らにいた雄羊が犠牲となり、ささげられました。この雄羊はイエス・キリストを表しているそうです。

神は、アブラハムが子供をささげることは止められましたが、その代りに神のひとり子が捧げられました。神は愛のあかしとしてイエス・キリストをささげられたのです。まさに

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。(ヨハネ3・16)

のです。

罪の贖(あがな)い
その神の子であるイエスは、人間の罪を贖いました。旧約聖書を読むと、よくこんなことができるものだと思うような、ひどい行いを人類はしてきました。人類は神に作られ、初めは神と共に暮らしていました。しかし、アダムとエヴァ(イヴ)以来、人類は罪に罪を重ねてきました。

自分の背負っている罪を十字架と呼ぶことがありますが、キリストの担いだ十字架は人類の罪だったのです。父なる神から送られた救世主イエスは十字架上で、

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23・34)

と、人類の罪を贖ったのです。人間であるイエスが十字架にかかることによって、罪はゆるされ、遠ざかっていた神との距離は近づきました。

まとめ
このようにキリストの受難は神の愛の証であり、人類の救済でした。十字架に架けられたキリストそのものであるご聖体をミサで頂くことは、神の愛をみとめ、受け入れることです。

ご聖体、それは私にとって、一週間のパワーの源なのです。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/05/25

ご聖体のよろこび

今日は「キリストの聖体」の祭日です。
福音朗読は「イエスは命のパン」(ヨハネ6・51-58)でした。この中で、

生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。

とキリストの体、つまりご聖体が天から降ってきたパンであると言われます。これに合わせて第1朗読は「神の賜る良い土地/主を忘れることに対する警告」(申命記8・2-3,14b-16a)で、モーセがエジプトから脱出し食糧不足に陥った際にマナが与えられたことを振り返るお話でした。

ご聖体は明日を生きるための命の糧です。説教では、神父さまが病者の塗油をされた際のお話でした。死を目前にされたお年寄りがご聖体をいただいた時、お釈迦さんのようなきれいな顔をされたそうです。最後の時であっても幸せを感じられるご聖体は、その方にとって恵みそのものだったのでしょうね。

昔書いた詩「あの方と共に」を思い出しました。家族には評判が良くなかったのですが、良かったら読んでください(ちょっと恥ずかしいですけど)。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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信じない者はすでに裁かれている

先週の主日ミサの福音は妙に短かったですが、深い言葉でした。前日の聖書の分かち合いで読んだ際は、最後の

御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。(ヨハネ3・18)

という一節は心に響きました。高校の倫理社会で習っていましたから、キリスト教という言葉も、イエス・キリストという名前も知っていましたし、キリストがメシア(救世主)であることも知っていました。しかし、自分が救われるまでは、そのことを信じることができませんでした。

人を愛し、世を完成に導く神、苦しい出来事であってもすべてのことに意味がある。そう思えるまでの人生は、厳しいものでした。人生は自分で切り開くもの、どんなことがあっても自分で守るしかない。そう思っていると、苦しみはどんどん増して、もがき苦しみました。信じないことで、すでに裁かれていたのでしょう。

その前の節にはこうあります。

神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3・17)

ありがとうございます。神よ、あなたは万物の作り主、あなたを置いて誰の所に行きましょう。神に感謝!

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/05/23

私にとって神とは - 神の愛 -

神がまずわたしたちを愛してくださった」(一ヨハネ4・19)この言葉ほど神の愛を表わす言葉はありません。

キリスト教は博愛主義といわれ、無償の愛、すなわちアガペーが特徴といわれています(そういう風に高校の倫理社会でも教わりました)。このアガペーは単なる優しさでは無いと思います。そうせざるを得ないような魂の底からくる強い愛がアガペーなのです。

イエス・キリストが十字架に架けられた時(このことを受難と言います)まで、弟子たちはアガペーについてイエスさまから教えを受けていました。善いサマリア人放蕩息子のたとえ、そして、山上の説教、など、アガペーとは何かを弟子たちは聞いていましたが、本当の意味はわかっていなかったようです。

受難の話は裏切りの話でもあります。イエスを売り渡したイスカリオテのユダはもちろんのこと、ペトロをはじめとする弟子のほとんどがイエスから離れ、死を迎える瞬間に立ち会うことはありませんでした。

ユダの裏切りで兵隊がイエスをとらえに来た時、弟子は剣を抜きました。山上の説教で「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5・39)と教えられていたのに、兵隊の耳を切り落としてしまいました。この弟子は敵を愛することができなかったのです。

ペトロは、最後の晩餐で「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22・33)と言っていました。しかし、イエスが捕えられた時に「イエスの仲間だ」と言われると3度も否定しました。このとき、ペトロは連れ去られるイエスが気になっていたので、後をつけたはずです。しかし、身の危険を感じるうちに主を否定し、最後には自分のことだけを考えて

ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。(マルコ14・71)

のでしょう。この呪いの言葉というのは別の訳によると「神に誓っても」と言ったようです。

しかし、ひどい話です。イエスさまの思いも知らず、弟子たちは、えらい者はだれかと議論していました(ルカ22・24)。きっと遠藤周作さんの言われるように、イエスさまをイスラエルの国を救う現世的な救世主と思い、高い地位をねらっていたのでしょう。また、ゲッセマネで死の恐怖と闘いながらイエスさまが祈られた時、傍らで寝てしまいました(マルコ14・37)。

そして、イエスさまが処刑される時には、弟子たちは聖書に出てきません。イエスさまが自分たちのことを悪く言ったり、刑を逃れるために自分たちのことを言うのではないかと、どこかに隠れていたのでしょうね。とんでもない弟子たちです。

しかし、救世主イエスは裏切りませんでした。弟子たちを本当に愛していたイエスさまは弟子を守りました。そして傍らの罪人や命を奪おうとする者に対しても祈ったのです(ルカ23・34)。

ペトロは竹を割ったような性格で、弟子たちの兄貴分です。イエスさまに足を洗ってもらった時、初めは恐縮していたのに「主よ、足だけでなく、手も頭も。」(ヨハネ13・9)と言い出すようなお調子者です。最後の晩餐で「死んでもよい」(ルカ22・33)と言ったのも少し調子に乗っていたのでしょう。

そんなペトロですが、イエスさまを愛しているつもりでした。もちろん、愛という言葉の意味もイエスさまの教えで理解しているつもりでした。でも、実践できませんでした。そして3度も裏切りました。やはり彼も人間、自分がかわいかったのでしょう。

イエスさまは愛を実践しました。人は愛されたなら、その人を愛することができますが、愛してくれない人を愛することは困難です。でも、イエスさまは弟子たちに裏切られながらも常に愛されたのです。

イエスさまを愛し続けることができなかったへなちょこなペトロですが、その後の力強い宣教活動を見ると、まるで別人のようです。遠藤周作さんは、これこそ奇跡だと書かれました。私も「これぞ神の業」だと思います。

ペトロはイエスさまの愛を確信していなかったのでしょうが、受難によってイエスさまはその愛を証明されました。その愛は「優しさ」などというようなものではありません。「私にはそれしかできない」というような強い思いです。人がイエスさまを愛したからではなく、最初に神が愛されたのです。

遠藤周作の「キリストの誕生」を読む間に私は救われました。裏切られようが、命を奪われようが、弟子を、兵士を、人類を愛されたイエス・キリスト。その姿に触れることで、自分の傲慢さ、自己中心的な考えをこえて次に進むことができたのです。

イエスさまは弟子のために亡くなられたのかもしれません。人類のために亡くなられたのかもしれません。でも、私には、はるか2000年前に私のためにも亡くなられたような気がしています。

私はペトロのように愛を知らなかったのかもしれません。それとも社会に揉まれて忘れてしまったのかもしれません。人と人の間に愛がなければいけないのに、損だとか得だとか、自分の仕事じゃないとか、おいしいところを持っていかれたとか、しみったれた傲慢な人間だったのです。

もっときれいな心にならなければ人を愛することは難しいかもしれません。でも、先に神が愛されたので、きっと私も人を愛することができるはずだと信じています。メルセス会のように力強い愛の実践はできなくても、きっと私にふさわしい愛し方があると思っています。

神に感謝!

参考:遠藤周作の「キリストの誕生」

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/05/18

私にとって神とは - 救いの三位一体 -

今日は三位一体の祭日のミサでした。祝祭日のミサでは関連する福音が読まれますが、今日はどうも片手落ちです。三位一体なのに聖霊が出てきません。しかし、福音のヒントには、今まででもっとも受け入れやすい説明が書かれていました。

今までは、バランスの悪い三位一体のイメージがありました。父と子が一致していることは聖書に記述がありますが、聖霊は神が弁護者として送られたとされているものの、聖霊が神と一致しているイメージ無いからです。

今日のミサの福音のヒントには、こんな風に書かれていました。

神の人間に対する決定的な救いの働きが、「イエスの派遣」「聖霊の派遣」という二通りの仕方でなされた

とイエスさまと聖霊の派遣を同列に説明し、さらに

イエスの父である神が、子であるイエスと聖霊を通してわたしたちに決定的な救いの働きかけをしてくださった。ここに「救いの三位一体的な構造」が現れてきます。

と三位一体を救いの構造で説明されています。これまでは、3つのペルソナの「あり方」を考えてバランスが悪いと考えていました。しかし、「救い」という観点で考えると、

  • 父なる神が預言者を通して人間を救おうとされた時代
  • 御子であるイエスさまを地上に送って神の言葉を直接伝えられた時代
  • 聖霊降臨によって人々を救いに導かれている現代

という3つの時代に分かれ、それぞれのペルソナによって救いの業が行われているのですね。救いの観点で見ることで、ようやくバランスの良い三位一体のイメージを抱くことができました。

今日のミサの説教で「愛の聖霊」という言葉を聞きました。愛の神は、聖霊として我々の傍らで救い、力付け、導いてくださるのでしょう。

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2008/05/17

我が家の聖具(らしきもの)

これまでもロザリオメダイ魚(イクスス)のストラップ枝と羊を紹介していますが、今回はそれ以外のものを紹介します。

1_cross_2 我が家には祭壇がありません。そのかわりというわけではないのですが、ユビキタス(いたるところに偏在する)を具現化したような聖具の配置になっています。自宅に立ち寄っていただいたつもりで見ていってください。2_sheepa_2

まずは、リビングにどうぞ。ここには以前紹介した羊と枝のほか、正面には十字架、窓辺には良い羊飼いと聖母子像があります。

3_icon リビングとつながるキッチンには、クリスタルの十字架像、十字架付きのイエスさまの聖画、トイレに入られると、クリスタルの天使のベルがあります。2階の寝室には、小さな十字架、聖母子の置物と聖画(子供が学校で作った写真立てに入っています)があります。 4_angel_3

5_small_cross 台所の聖具と、寝室のの小さな十字架は、妻が教会に通い出した時に買い求めたものです。当時はキリスト教に興味がなかったので、「好きにしたら」という感じだったのでした。「やめてほしい」と言えばこんなに聖具(らしきもの)でユビキタス環境になることもなかったかもしれませんが、その頃からすでに導かれかけていたのかもしれませんね。6_maria_3

7_tumajpg お帰りの際には、妻飾りを見てください。家は建て売りなのですが、購入時期が早かったので希望を聞かれました。商品名からすると妖精らしいのですが、十字架みたいだからと選びました。家の教会のようになるかと期待したのですが、周りに家が多いのであまり目立たないんですよね。

そんな感じですが、ほかにも載せていない十字架やロザリオがあります。また、飾るところのない聖画(洗礼の時に頂いた)もあり、どこまで増えるかは神のみぞ知るところです。

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2008/05/15

私にとって神とは - 三位一体 -

キリスト教にとって最も特徴的で、最も難解な教えは三位一体(父と子と聖霊は一体の神である)でしょう。ちなみに、一つの神が3つの姿(キリスト教では位格(ペルソナ)と呼ぶ)をとるというのはキリスト教だけのオリジナルではなく、ヒンズー教や古代エジプト神話にもあるようです。

三位一体は聖アウグスチヌスでさえも難解だったようで、神さまの化身と思しき少年に「全部わかろうなんて、無理な話さ」と言われてしまいます(リンク先は話の森)。

聖書ではイエスさまと父なる神は同一であるという記述もありますが、具体的なイメージはよくわかりません。

ここでは、逆に三位一体でなければ、どのような問題があるかを考えてみます。山野上 純夫著「入門キリスト教の歴史」によれば、ヤーヴェを神とするユダヤ教からキリスト教が生まれた当時の弱点と関係あるようです。

それは父なる神ヤーヴェを崇拝する一神教であるはずが、イエス・キリストを崇拝することで二神教のようになってしまったからです。キリスト教ではユダヤ教と同じく旧約聖書も聖典の中に入れていますが、その中のモーセの十戒に

あなたは、わたしのほか神があってはならない

とあるからです。ユダヤ教徒からは神以外を神としていると批判され、キリスト教アリウス派からもキリストは人であるとの批判を受けました。その苦境の中、すべての市況の集まりである公会議がニケアで開かれ、三位一体が確立しました(ミサ中で唱えられるニケア・コンスタンチノープル信条というのは、別の公会議で定められたものです)。

歴史的にはそのような流れなのですが、神さまが一つ出ないなら信仰の上でどのような問題が生じるかを考えてみます。

まずは、神さまの意思です。天地を創造し「良し」とされた神は、絶対的な力を持ちながら、私たちを愛し、世を完成させようとされています。そんな絶対的な神が二人いて、意見が異なることがあるなら、何を信用すればよいのでしょうか。二つの姿をもつにしても、意見は完全に一致していないと困ります。苦しい時に、その苦しみにも意味がある、無駄なことは何もないと思いたいのに、神さまの間で意見が食い違って、無駄なことがあるなんて考えたくありません。

神ではないですが、仏教の世界には多くの仏様がおられるようです。浄土宗を開いた法然は、当時の仏教の教えに疑問を抱き、ついに万人を救うことのできる阿弥陀仏の経典を見つけました。そんな風に、いままでの教えよりもより良い教えの存在があるなんて想像したくありません。神さまの言葉は絶対的な「真理」でないと困ります。

この絶対的な真理を大切にするには、キリストのは神でなければなりません。もし、神でないとすると、別の預言者がイエスさまの言葉を上書きしたりできます。聖書に関しても同じです。キリスト教の聖典以外を聖書とすると別の宗教になってしまいます。神の直接言われた言葉が記された聖書、それ以上の神の言葉は無いとしなければ、よりどころが無くなってしまいます。

ということで、聖霊に位格(人間でいえば人格に当たる)がなぜ必要かは、良く説明できていないのですが、やはり、父(ヤーヴェ)と子(イエス)は神として一体でないと困るのです。だから、三位一体に「アーメン」と言っています。

おまけ:
神は唯一絶対とする思想は、他の宗教に対して排他性を持ちます。しかし、世の中には良い宗教もあり、私はほかの宗教を否定することはできません。そこで、私はアブラハムの宗教の歴史にならって、他の宗教の神仏は天使だと思うようにしています(Wikipediaの解説参照)。

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2008/05/11

父や母と話すように

今日のミサは子供とともに捧げるミサなので、入祭の歌は「神さまがわかるでしょ」(リンク先は聖歌・賛美歌・ゴスペルソングMIDI)でした。一番は自然から神さまを感じるという歌詞なのですが、先日の妻との会話を思い出しました。引っ越して少し日あたりが良くなった喜びを感じた妻が、「神さまのおかげね」と言ったのです。

確かに神さまのお陰で良い家に巡り合えたと思います。でも、妻が出張のついでに実家に帰っている間に、販売開始を見つけて資料をもらい、どの家が良いかを検討し、写メールで妻と連絡を取り合い、申込金を銀行からおろして、誰よりも早く申し込んだのは私です。「まず俺に感謝しろよ!」と思ったのをふと思い出して微笑んでいました。

すると、そのすぐ後に神父様が言われました。「皆さん、神聖な祭りを祝う前に、私たちの犯した罪を認めましょう。」 また、神様にやられました。傲慢な私ですが「わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。」といつもの回心の言葉に気持ちが入りました。

今日は聖霊降臨の主日で、神さまが復活後に聖霊が弟子たちに降り注ぎ、教会が始まった日とされています。第一朗読は「聖霊が降る」(使徒言行録2・1-11)で、炎のような舌が分かれ分かれに現れて聖霊に満たされたお話です。

以前、こころのともしびTVで見た解説によれば、舌の形は「しゃべる」、火は「愛」を現し、愛の心を持って弟子たちがイエスさまのみ教えを人々に伝えることができる恵みを、聖霊によって与えられられたということを意味しているそうです。

説教の中では、神父さまの経験を話されました。クリスマスの頃に教会に来ている子どもに神父さまが「おりこうさんですね」と言われると、子供が「心が咲いた!」と言ったそうです。思いもよらない素敵な言葉に神父さまは驚かれたそうです。クリスマス前で神さまのために良い行いをしようとしていて嬉しかったので、そんな言葉が出たようです。

その後、神父さまが各地を異動され、またその教会に戻られた際に、大きくなった当時の子供と合われたようです。そして、その方は「子供のころに覚えていたたくさんのお祈りの言葉を失くしてしまいました。」と言われたそうです。教会に長い間行かない間に、お祈りの言葉を忘れてしまったのです。

神父さまは「お父さんやお母さんにお話しするときは、何も考えないでしょう。お父さんやお母さんにお話しするように、神様にお祈りすれば良いのですよ」と言われたそうです。すると、その方は聖母子像の前で涙を流しながら20分間祈られたそうです。

きっと色々なことがあったのでしょうね。「あしあと」(リンク先はMAGIS)の詩の神さまのように、聖霊はいつもそばで応援してくれているのでしょうけど、ついつい頑張ってしまうのですよね。でも、心を開けば、いつでも神さまは答えてくださるんだと思いました。

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私にとって神とは - イエスは神か -

キリスト教は解釈によって、昔から分裂を繰り返してきましたが、イエスが神であるかどうかはかなり古い議論(リンク先はWikipedia)です。

しかし現代において、この議論はかなりナンセンス(死語?)です。あるAがBであるという議論をする場合、まずBを定義しなければなりません。つまり、イエスが神であるかどうかを議論するには、まず、神という言葉を定義しなければなりません。

神(God)という言葉を辞書で引くと、さまざまな定義が出てきます。英語の辞書では一神教では不可算名詞、多神教では可算名詞などと出てきます。さらに宗教によって神の定義は大きく異なります。

つまり神の定義によって答えが変わるということになります。「父と子と聖霊」の三位一体を神とするキリスト教ではイエスキリストは神そのもの、イスラム教なら預言者者、ユダヤ教なら偽メシア、ということになります。結局、どの定義を是(アーメン)とするかということになります。

私はキリスト教の教義に対して「アーメン」と言いました。この「アーメン」という言葉は、信仰の告白に用いられるのですが、「然り」、「はっきり言っておく」、「信じます」、「そのとおり」、「その通りでありますように」、というように訳されます。私のアーメンは「その通りでありますように」です。

哲学の世界では、神の存在証明が試みられたり、「神は死んだ」と書いたニーチェが発狂しました。行いで証をした人はいますが、神さまに会ってその存在を証明した人はいませんし、神さまのいる世界といない世界のどちらも成り立つと思います。

私も神様の働きを感じることはありますが、それも偶然とか思い込みという言葉で説明できるものです。でも、神様がいない世界は苦しすぎます。神さまがいるとすればすべてのことに意味があり、どんな苦しいことも良いことにちがいないと思えます。だから、わたしは「その通りでありますように」と言ったのです。

私の信仰はそんな弱いものです。でも信じるというのはもともとそういうものですし、苦しみを乗り越えて明るく生きていくために、私は信仰を捨てることはできません。

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2008/05/10

私にとって神とは - 導き -

救いというのは信仰のきっかけになりますが、信仰ではありません。信仰に至るには導きを認め、イエスが神であることを是とする必要があります。ここでは、私の経験から導きについて書こうと思います。

神さまに救いの業を受けても、それを恵みと感じなければ信仰にはなりません。「偶然」とか「ラッキー!」と思ったなら、それだけのことです。聖書の中でも「重い皮膚病を患っている十人の人をいやす」(ルカ17・11-19)というお話があります。

イエスさまに10人が皮膚病を癒されたのですが、そのうち一人のサマリア人だけが感謝してひれ伏しました。イエスさまは「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。皮膚病が治ったのは10人でしたが、本当に救われたのは神を賛美した一人だけだったのでしょう。

そもそも私がキリスト教の本を読んだのも偶然でした。父が亡くなって葬儀の後、カトリックの学校で育った妻が「仏式だと気持ちが入らない」と、私の葬儀は教会でしたい(先に死ぬことが前提です:-)とのこと。私が死んでからのことなので、別にどのような葬儀でもよかったのですが、親の宗派の本とともに遠藤周作さんの本を読んでみました。

その時は、仕事の苦しみが救われることは期待していなかったのですが、救われちゃいました。ひとりで必死になっていたのに、「負けました」という感じです。救われたことでキリスト教に対する興味は増しましたが、それは既存の宗教を受け入れることとは必ずしも一致していませんでした。

それまで宗教を否定していた私にとって、キリスト教を学ぶことに恐怖感を感じていました。高校の倫理社会の授業は結構好きでしたが、十字軍や宗教改革ぐらいの知識しかなく、また、大学の自治会ではカルト的な宗教などの危険性を教わっていました。そんなことから、暴走しがちで一度入ると抜けられないようなイメージがありました。

昔の記事を読んでいただくとわかりますが、そのころは信者じゃない方のキリスト教の解説本やプロテスタントの方の本などいろいろな本を読みました。そして、ある程度の知識を得たころ、どこかに通おうと思いました。

今はカトリックの信者ですが、その頃の候補はカトリックを含めてとりあえず3つほどありました。成人洗礼の方には割と多いようですが、わたしも教会を選ぶつもりでいました。そこで、2ちゃんねるで情報収集して、まずは「最も抜けやすい」とされていたカトリックに行こうと決めました。そのころ妻も通っていたので、こっそり行けるだろうというのもありました。

遠藤周作さんはミサ、特に音楽がいま一つなように書かれていたので、あまり期待していなかったのですが、はじめてのミサは感動的でした。私を救ってくれたイエスさまを皆が賛美していているのです。当時はミサの意味はよく分かっていなかったのですが、賛美していることだけはわかっていたのですね。

ミサ後に妻の知り合いに紹介されて神父さまにご挨拶すると、入門講座に誘われました。本当は行きたくて仕方がなかったのですが、まだ負けを認めるのが悔しくて、その時は黙っていました。でも、やっぱり行きたくて翌週の入門講座に出ました。

入門講座に出ると十字の切り方を教えていただくなど、結構うれしかったのですが、どうも細かなことが気になって、反論したくなったのを覚えています。教わる立場でしたが、教会を選ぼうとしていたので、神父さまを品定めしようとしていたのでしょう。

何度か入門講座に通ううち、教会を選ぼうとしているのではなく、神さまを選ぼうとしているような気がしてきました。神さまに負けたのに、いまだに負けを認めたくない自分に気づいたのでしょうか。

そんなころ教会の横にある修道院のシスターとご挨拶する機会がありました。妻がその修道会のやっている幼稚園に勤めていて、何か用事があると言うのでついていったのだと思います。翌週に東京に行かれるとのことで「私も出張するのでお会いするかも知れませんね」などと言いながら、「もし本当に会ったら教会を選ぶのをやめよう」と思っていました。

出張の当日、まあそんなことはないだろうと思って駅に行くと、見覚えのあるシスターが、、、思わず避けてしまいました(すみません)。そして、新幹線に乗り込むと同じ車両の何列か前にシスターが座られたのです。私は負けず嫌いですが、このときばかりは負けを認めて、ご挨拶にうかがいました。

そんな感じで偶然が重なり、私はそれを「導き」だと思いました。神さまのご計画というか神様に仕組まれたんですね。「必要なものは与えられる」と言いますが、必要な時に必要なものを神さまは与えられたのです。

神さまのご計画というのは、天地創造からこの世の最後の時まで、この世の完成に向けてより良くなっていくというものです。そのために行われる神さまの働きかけが「導き」で、気付かなかっただけで、私もご計画の中に組み込まれていたのでしょう。

私は、救われ、導きを認めました。信仰に至るには、あとはイエスを神とするかどうかだけでした。

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2008/05/08

私にとって神とは - 救い -

ここ何日かのpinpinkororiさんに頂いたコメントを読んで、私の思いを書くことがどなたかの役に立つこともあるのではと、少しずつ書いていこうと思います(あまり、コメントできなくてすみません。すべて読んでいます>pinpinkororiさん)。タイトルは遠藤周作さんの作品と同名ですが、作品とは関係ありません。まずは「救い」について書いてみたいと思います。

人が「救い」を感じるときは、こんなときだと思います。

(1) 不安が取り除かれたとき

特に死に対する不安は、誰しもが少しはあるのではないでしょうか?かつての私は、死ねばそれまでと思っていました。そんな私は、「生きている間は思いっきり生きて、前向きな状態で死にたい」などと思っていました。しかし、これも生きている自分を守ろうと必死になっていたのかもしれません。

また、今のように変化の激しい時代に生きていると、将来に対する不安というものもあります。転職しなくても、今の仕事が退職するまで変わら保障はないですし、転勤などの可能性もあります。大変な仕事が続くと健康への不安もあるでしょう。

そんなときに、この世は完成に向かっている。物事にはすべて意味がある。最初に神が愛された。ということが、未来に対する不安を取り除いてくれます。「なる様になる」ではなく「なるべき状態になる」と思えるのです。

(2)希望が見えた時

人は人と関わりを持たないと生きていけませんが、不完全な人同士が関わることで苦しみも生じます。他の人が信用できなかったり、孤独を感じたり、それは「絶望」という言葉にふさわしい苦しみかもしれません。

晴佐久神父の説教集で電話帳に教会の電話番号を載せるお話がありました。名前のほかに文章を入れることができるけれども、結婚式場みたいな宣伝ではなく、なにか福音的な言葉を載せたいということで、たしか「あなたも神さまに愛されている」というような言葉でした。すると、あるとき電話がかかってきて、お礼を言われたそうです。その方は、絶望のふちにあったが、何気なく電話帳を見て、その言葉に救われたそうです。

私が、ミサに行くのはこのためです。その方のように絶望には至らなくても、日常生活の中で押し殺している苦しみが誰にでもあると思います。ミサ中の聖句や聖歌にある、神さまの言葉に触れて、希望の光が見えることがあるからです。

(3)緊張がほぐれた時(思い込みからの解放)

とんでもなく大変な時、人は破裂寸前の風船のように緊張で張り詰めることがあります。そんな時は周りが見えず、周囲に迷惑をかけたり、人を非難したり、自分はだめだと決めつけたりします。自分が壊れてしまいそうな苦しみです。

私は洗礼を受ける前に、自分の背負った重責に心が押しつぶされそうになっていました。そんな時にイエスさまに出会いました。 イエスさまは孤独という苦しみの中で絶望せず、鞭打たれ、茨の冠を載せられ、十字架を背負い、手足を打たれながら、父なる神にとりなすという重責を果たされました。

遠藤周作さんの「キリストの誕生」で描かれたイエスさまは、がむしゃらになるのではなく、弟子に裏切られても苦言の一つも言わずに、淡々と人類の救済を行われました。その姿を知り、必死になっている自分を振り返ることができ、緊張がほぐれ、苦しみがら救われました。

なぜ、私の緊張がほぐれて救いを感じたのかはよくわかりません。まだまだ努力が足りないと思ったか、イエスさまの苦しみに共感したのか、イエスさまの優しさにほっとしたのか、それとも自分の小ささを感じたのかもしれません。とにかく、私は救われたのです。

人が救いを感じるとき、そこには「愛」があります。愛は希望の光です。希望の光に照らされた道を歩むこと、それが「信仰」なのだと思います。

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2008/05/05

信仰ではなく救いを求めて

私が教会に行ったのは、救いを求めていたからです。世の中には、良い死を迎えるために信仰を求められる方や、結婚相手の信仰を知るためや、興味から、など、さまざまな目的で教会に来られるでしょう。

しかし、教会というのは「信仰のための場」である前に「救いの場」でなければいけないと思います。教会に来て救われないなら、どこに行けば救われるというのでしょうか。マザー・テレサのように、信仰や思想に関係なく人格を認め、苦しみを和らげる行いが必要だと思います。

先日の黙想会での赦しの秘跡で、こんなことがありました。カトリックの洗礼を受けていない方が二人も来られたのです。もちろん、ゆるしの秘跡を受けることはできませんので、神父様にお話を聞いていただきました。多くの方のゆるしの秘跡でお疲れの神父さまに申し訳なかったのですが、教会の救いの業はそんなところから始まるのではないでしょうか?

私は神様を信じていませんでしたし、人間に信仰が必要だとも思っていませんでした。しかし、救われて、恵みを感じたことから、信仰に喜びを感じるようになりました。私のような人間に神の教えを広めるには、まず救われなくてはならないのです。信仰の形を押し付けるのではなく、受け入れることが大事だと思います。

でも、それが難しいのでしょうね。人によってバザーなどのイベントが好きだったり、教理が好きだったり、分かち合いが好きだったり、ただひたすら祈るなど、求めるものが人によって異なります。分かち合いが良いといっても、何げなく言った一言で、誰かを傷つけることもあります。

結局、神さまとの関係を大切にすること、神の教えを実践すること、そして、ミサと祈りをを大切にすることしかないのでしょうね。教会を一番に置くのではなく、自分と神さまの関係を一番に置くことが、教会を救いの場とするのではないでしょうか。

私信:放蕩娘さんお帰りなさい。いつでも戻ってきてください。

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2008/05/04

いつもあなたがたと共にいる

24 先日、上牧にある二十四節記というところに行きました。ロハスというのはこういう雰囲気を言うのでしょうか、欧州の田舎をイメージした建物には、雑貨屋さん、喫茶店、レストランなどがありました。窓辺の席でフレンチプレス(コーヒープレスともいうらしい)でいれたコーヒーをいただくと、やさしい香りとさわやかな風で幸せな気分になりました。

Frenchpress 何もかも忘れてボーっとしていましたが、ふとイスを見ると十字のマークが目に入りました。

今日のミサの福音朗読は「弟子たちを派遣する」(マタイ28・16-20)、マタイによる福音書の最後のところです。イエスさまが昇天される前に弟子たちに

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」

と弟子たちを派遣されました。そして、最後にこう言われます。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

これは、ヘブライ語で「インマニュエル」というそうです。椅子の十字架のように、私たちが気がつかないだけで、神さまはいつもそばにいてくださるのですね。

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日本文化の破綻

個人主義が進む中で、社会の何かが壊れているような気がしていました。以前、世界像の崩壊を知り、何となくわかったつもりでいました。しかし、どうも日本の状況はそれだけではないように、なんとなく感じていました。

先週のミサ後の「教理の時間」で、神父様がルース・ベネディクト(リンク先はWikipedia)の

キリスト教的欧米文化は「罪の文化」であり、日本の文化は「恥の文化」である。

という言葉を取り上げられました。「恥の文化」というのは「他の人に後ろ指を指されると恥ずかしい」という村のような横の関係である。「罪の文化」というのは神との関係における「罪」という縦の関係である。とされました。

この日本文化の捉え方には批判もあるようですが、私の思いに一つの説明を与えてくれました。この横の関係を評価の観点で考えてみると、「恥の文化」の評価の基本は「相対評価」だと思いました。私が子供のころ、学校の成績は相対評価でした。クラスの中で上位n%が「5」その次のm%が「4」といった感じです。クラスという村のように狭い環境の中で評価が決まっていたのです。

「相対評価」というのは、なかなか良かったような気がします。全国レベルでは大した成績でなくてもクラスで上位に入れたなら、その子はできる子でした。普段は苦手な科目でも、たまたまできる子の調子が悪いと良い成績がもらえる可能性がありました。みんなクラスメートに負けまいと、お互いに仲良く競っていました。

いつからか学校の成績は絶対評価になりました。全国で何位の成績かまでわかるようになり、クラスメートはライバルではなくなりました。良い成績をとるためには、クラスメートでなく自分に勝たなければなりません。そんなグローバルな絶対評価によって、より個人主義が進んだのかもしれません。

個人主義が進むと「恥の文化」は破綻します。「恥の文化」では、お互いに恥ずかしくないようにすることで、全体が高いレベルで保たれていました。しかし、絶対評価による個人主義が進むことで、自身を高めるための基準として他の人を見なくなったのです。

「恥の文化」の破綻は、倫理観を希薄にします。生きるための基準が全体の中での順位だけになり、より高い地位に上がることが行動の目的になりました。学校なら偏差値、会社なら給与のためなら何でもするようになりました。「あの人もやってるやん」と悪いことも平気になり、多くのトラブルや犯罪が生まれたのだと思います。

個人主義が進むと、人は絶対的な善悪の基準を必要とします。しかし、欧米の「罪の文化」と異なって真理を持たないので、それぞれが社会生活の中で自分勝手な基準を作ってしまいがちです。そして、いつの間にか自分を苦しめるようになるのです。

思い起こすと、昔の私がそうでした。会社に就職し、会社の仕組みを知ると、会社員としての価値観を構築しました。仕事が趣味に近かったこともあり、私はワーカーホリックだったと思います。家庭とか、社会貢献とか、周りの人への気配り、そんな価値観はどこかに忘れて、ただひたすら働いていたのです。仕事がうまくいっている間は良いのですが、何か問題があると大変なのですよね。目的を達成できないまま、努力だけが求められるからです。

人間が生きる上で重要なことはなにか、そんな発想を持たないと、うまく生きていけません。勝手な基準に従って、人を傷つけ、そして最後には、自分自身を苦しめることになってしまうのです。

昔は良かった。私もそう思います。しかし、時は戻りません。かつて海援隊の「母に捧げるバラード」という歌で、こんな詞がありました。教職課程をほとんど終えて、あと数カ月もすれば卒業できるという息子(武田鉄也さん)が、安定した未来を捨て音楽バンドのために東京に行く時、母は必死になって働けと息子に語ります。そして苦しいとか、休みたいとか思ったら、「そんときゃ鉄也、死ね!」と語るのです。

昔は、子供のことを思わない母親はいませんでした。その母親が「死ね!」と本気で言うわけがありません。海援隊が解散を決めた時、お母さんは「お疲れ様でした」とお母さんは言われたそうです。そんな人並みのねぎらいしか言えない母親が、「死ね!」と言ったのは、息子の不安な気持ちを知っていたのでしょうね。そして、不安な中でもあきらめず、がんばれ、とにかく頑張れ、そんな励ましの言葉が「死ね!」だったのでしょうね。

でも、時代は変わり、今は前提が崩れ、愛情表現としての「死ね!」なんて許されない時代になりました。子供の死を願う母親は勿論のこと、自分で死のうとする人も少ない時代でした。しかし、数値化された価値観の中で生きている現代人にとって、「死ね!」は文字通りの意味しか持たなくなりました。親子の関係を前提とした相対的な表現でなく、直接的て絶対的な表現が必要なのです。「夢を大切に!」「夢はかなう!」「応援しているよ!」などと言わないと伝わらなくなりました。それは、日本の文化が破綻したからだと思います。

かつての日本の文化が破綻した今、新たな文化が必要なのではないでしょうか。それは、絶対的な(罪の)文化、倫理観、愛、救い、だと思います(人によっては、信仰といわれるかもしれませんが、私は必要なものに信仰を含めません。愛の行為による救いの結果、付いてくるものだと思っているからです)。

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2008/05/03

恐れるな。語り続けよ。黙っているな。

今日は所属教会で初金ミサでした。神父様お二人の共同司式によるちょっと贅沢なミサでした。

福音朗読は「悲しみが喜びに変わる」(ヨハネ16・20-23a)でした。イエスさまの受難で悲しむが、復活によりその悲しみは喜びに変わると宣言されたお話です。どんな悲しみの中にあっても「喜びに変わる」という期待があれば、前向きに生きていくことができます。日常の苦しみが大きければ大きいほど、喜びもきっと大きなものであるというキリスト者への希望の言葉だと思います。

ところで、第一朗読は、「コリントで/パウロ、アンティオキアに戻る」(使徒言行録18・9-18) でした。朗読の最初はこんな言葉から始まります。

ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。(略)」

ブログネタは あるのに身構えてしまい、なかなか書けない時があります。また、入門講座や聖書の分かち合いでお祈りする時も、祈りの言葉は浮かんでいるのに、うまく言えなかったりもします。

神さまが、そんな私に直接語られたような気がしました。もっと素直に、神様にゆだねればよいのでしょう。身構えたり、思い悩むことなく、もっとストレートに自分の思いを語れば良いのでしょうね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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