土曜日は久しぶりの聖書の分かち合いでした。日曜のミサの福音「イエスは父に至る道」(ヨハネ14・1-12)を分かち合いました。すこし難しいお話でした。
いつもながら、イエス様のことを分かっていない弟子たちは、おとぼけを繰り返しています。イエスさまが「あなたがたは道を知っている」と言われれば、「わからない」と言い、「あなたがたは既に父を見ている」と言われれば、「お示しください」と言います。
確かにイエスさまの言われることも難しいです。三位一体の説明であるとされるこの福音では、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」つまり「イエスさま∈父」かつ「イエスさま∋父」、つまり「イエスさま=父」といわれているのです。のちの時代のアウグスチヌスも苦しんだという三位一体は弟子たちにも難しかったのでしょうね。
イエスさまのことばで最も気になるのは7節です。
「あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」
という言葉は、一見、言いなおしたようですが、父(でありイエスさま)である神を知るのは未来だけど、父(でありイエスさま)である神はすでに見ている。つまり、イエスさまが神であることを分かっていないと言われているのです。
そんな、神学的に重要なことが述べられている箇所で、なぜ、弟子たちはこうも理解が無いように描かれているのでしょうか。私には遠藤周作さんの解釈が思い出されました。つまり、イエスさまは、弟子たちに理解されないまま、耐えがたい孤独の中で亡くなられたことを聖書作家は強調しているのです。
かみさまとだらばにS神父様のラジオのお話が出ていました。イエスさまは神様であるのに、上からでなく我々のところ、谷間の下に降りてきてくださったというお話です。
「この世の現実に密着し一人一人の人生を見つめ出会いを求め
新たな人生を指し示すために、イエスは谷間に降り立ちました。
谷間に降り立つ十字架は永遠の命であり、「道」であるのです。」
これほど、イエスさまを表したことばはないでしょう。イエスさまは、肉体的にも精神的にも傷つき、苦しまれることで、苦しみ、もがいている私たちの所に降りてきてくださったのです。小さな子供に話しかけるように、しゃがんで、私たちの目を見て語られたのです。
神であるイエスさまが多くを語られていたにもかかわらず、弟子たちはわかっていませんでした。イエスさまがユダヤの国を救う救世主と誤解し、ある時はお調子者のように、ある時は自分勝手で、時には「知らない」とまで言いました。受難の時でさえも、自分たちの身を守るために、どこかに隠れていたことでしょう。
しかし、受難後に復活されたイエスさまに出会うと、そんな弟子たちも変わりました。へなちょこだった弟子たちは死をも恐れず、世界中にイエスさまの教えを宣べ伝えたのです。遠藤周作さんは、これを復活の奇跡と呼んでいます。
現実的な解釈をされる遠藤周作さんは、奇跡はあったかもしれないし、比喩的な表現かもしれないと考えておられたようです。しかし、頼りない弟子たちが受難の後になると、突然力強く宣教を始めたのは間違いなく、それこそ奇跡だとされています。そのことを人々に知らせるためには、すでに使徒として尊敬されていた弟子たちであっても、過去のたよりない様子を描かざるを得なかったのでしょう。
この復活の奇跡のきっかけとなったイエスさまとの再会は、漁、移動、食事 といった日常的な行いの中での出来事です。わたしたちが日常の苦しみの中でイエスさまと出会ったように、弟子たちも日常生活の中で、本当のイエスさまに再会したのでしょう。
私たちは、すでに出会ったつもりではありますが、
「わたしは道であり、真理であり、命である」
と言われたイエスさまを見ているだけでなく、イエスさまの道を歩いていきたいと思います。
その道の基本は、復活祭の福音にあるようです。イエスさまが復活されたとき、墓の中は「空(カラ)」でした。復活信仰であるキリスト教の基本は、なんと「カラ」なんです。自分に対するこだわりを捨て「カラ」になってこそ、キリストの道に入ることができる、つまり「捨てることで得られる」ということなのでしょう。
(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)
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