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2008/04/29

わたし自身を現す

日曜のミサの続きです。ミサの第1朗読は堅信の元になったお話でした。先週、今でいう助祭に選ばれた7人のうちの一人であるフィリポ(リンク先はWikipedia)がサマリアで洗礼を授け、エルサレムからやってきたペトロとヨハネが手をかざすと人々は聖霊を受けました。

この手をかざす(按手)というのは聖霊を授ける意味があり、洗礼式で代父母が肩に手を置くのも聖霊が働くようにしているそうです(知らずにやっていました:-)。ちなみに、Wikipediaによると、ミサで祝福を受けるのは神に祈っている(祝福)のだそうです。

福音朗読は「聖霊を与える約束」(ヨハネ14・15-21)でした。この中でイエスさまは、「みなしごにはしておかない」、ご自身の代わりに新しい弁護者として聖霊を一緒にいるようにしてくださると約束されます。そして、最後に

「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

と言われます。この言葉を聞いて、私が救われた時のことを思い出しました。当時、仕事に苦しんでいた私は責任逃れをしていました。もっと私自身にもうまくやる方法があったのに、主たる原因ではないこともあってそれを認めていなかったのです。

遠藤周作さんの「イエスの生涯」や「キリストの誕生」を読む中で、私はイエス・キリストと弟子たちに共感し、愛しました。すると、かたくなだった私の心がほぐれたのです。

パパ(教皇)の回勅にあるように「神は愛」だったのです。救いを求めていた私は、神を知り、愛し、愛されることで救われたのです。私の中に何かが入ってきたような感じがして、私はそれを勝手に聖霊だと思っています。神さまが自身を現してくださったのです。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/04/28

善をおこなって苦しむほうが、悪を行って苦しむよりはよい

今日のミサの第2朗読は「正しいことのために苦しむ」(一ペトロ3・15-18)でした。このなかの17節が心に響きました。

神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。

洗礼を受ける前に神父様に言われた言葉を思い出しました。

洗礼を受けたら楽になると思ってはいけない。もっと苦しくなる。

その時はよくわからなかったのですが、今なら何となくわかります。人間は、いや、少なくとも私はダメダメです。普通に生きているだけで、いろいろな罪を犯してしまいます。良いことをしたつもりでも、自分の中にある傲慢な気持ちが見えてしまいます。

でも、苦しくても洗礼を受けて良かったと思っています。少しでもより良い方向が見えるからです。ほんの少しだけ、ちょっとだけ良いことをする。そこには苦労が伴うかもしれませんが、良いことをしたという喜びがあります。

洗礼を受けることで楽になるわけではありませんが、みこころに従った時は暖かいような、幸せな気持ちになるんですよね。やっぱり、洗礼良いですよ~

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/04/27

はずかしい思い出

先日の聖書の分かち合いで、弟子たちは移動中パンを割かれるなど日常生活の中でイエスさまと再会したことから、日常が大切だという意見が出ました。

翌日のミサで「日常が大切か」などと思いつつ神父さまの司式を見ていて、昔のことを思い出しました。それは、高校の時の合宿です。

合宿といっても夏休みに書道教室(和室なので)に泊まるだけです。顧問が寝たのを見計らってトランプをして、ばれて怒られた翌朝の出来事です(ここまでで十分恥ずかしいですね)。人数を考えてパンと牛乳を買い出してあったのですが、食べざかりの男の集まりなので牛乳の取り合いが始まりました。

すると、顧問が間に入り「おまえらは『分ける』」ということを知らんのか!」と牛乳を分け出しました。人数分がきれいに取り分けられると、殺気立っていた雰囲気が、照れくさいような、それでいて穏やかな雰囲気になりました。

そんなことをミサ中に思い出して笑ってしまいました。もちろん平和の挨拶もいつもよりニコニコしていたと思います。なんだか、とても平和な気分でした

イエスさまが最後の晩餐でパンを分けられたのも、5つのパンと2匹の魚でみんなが満たされたのも、実はそんな基本的でとても重要な教えなのかも知れませんね。

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2008/04/26

なぐさめる神

久しぶりに入門講座に出ました。入門講座では日曜日の「聖書と典礼」を用いて分かち合いをしています。

日曜の福音の中で、「弁護者」という言葉が出てきますが、「聖書と典礼」によると弁護者とは言語(アラム語)で「パラクレートス」そばに呼ばれたものという意味だそうです。

神父様によると、これはギリシャ語なら「PARACLASE」、ラテン語なら「PARACLITUS」、これらはラテン語の「CONSOLATOR」と同じ意味で「なぐさめる」という意味だそうです。

神さまはいつもそばにいてくれるだけでなく、慰めてくれていたのですね。

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2008/04/21

見ていたが知らなかった弟子たち

土曜日は久しぶりの聖書の分かち合いでした。日曜のミサの福音「イエスは父に至る道」(ヨハネ14・1-12)を分かち合いました。すこし難しいお話でした。

いつもながら、イエス様のことを分かっていない弟子たちは、おとぼけを繰り返しています。イエスさまが「あなたがたは道を知っている」と言われれば、「わからない」と言い、「あなたがたは既に父を見ている」と言われれば、「お示しください」と言います。

確かにイエスさまの言われることも難しいです。三位一体の説明であるとされるこの福音では、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」つまり「イエスさま∈父」かつ「イエスさま∋父」、つまり「イエスさま=父」といわれているのです。のちの時代のアウグスチヌスも苦しんだという三位一体は弟子たちにも難しかったのでしょうね。

イエスさまのことばで最も気になるのは7節です。

「あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」

という言葉は、一見、言いなおしたようですが、父(でありイエスさま)である神を知るのは未来だけど、父(でありイエスさま)である神はすでに見ている。つまり、イエスさまが神であることを分かっていないと言われているのです。

そんな、神学的に重要なことが述べられている箇所で、なぜ、弟子たちはこうも理解が無いように描かれているのでしょうか。私には遠藤周作さんの解釈が思い出されました。つまり、イエスさまは、弟子たちに理解されないまま、耐えがたい孤独の中で亡くなられたことを聖書作家は強調しているのです。

かみさまとだらばにS神父様のラジオのお話が出ていました。イエスさまは神様であるのに、上からでなく我々のところ、谷間の下に降りてきてくださったというお話です。

「この世の現実に密着し一人一人の人生を見つめ出会いを求め
新たな人生を指し示すために、イエスは谷間に降り立ちました。
谷間に降り立つ十字架は永遠の命であり、「道」であるのです。

これほど、イエスさまを表したことばはないでしょう。イエスさまは、肉体的にも精神的にも傷つき、苦しまれることで、苦しみ、もがいている私たちの所に降りてきてくださったのです。小さな子供に話しかけるように、しゃがんで、私たちの目を見て語られたのです。

神であるイエスさまが多くを語られていたにもかかわらず、弟子たちはわかっていませんでした。イエスさまがユダヤの国を救う救世主と誤解し、ある時はお調子者のように、ある時は自分勝手で、時には「知らない」とまで言いました。受難の時でさえも、自分たちの身を守るために、どこかに隠れていたことでしょう。

しかし、受難後に復活されたイエスさまに出会うと、そんな弟子たちも変わりました。へなちょこだった弟子たちは死をも恐れず、世界中にイエスさまの教えを宣べ伝えたのです。遠藤周作さんは、これを復活の奇跡と呼んでいます。

現実的な解釈をされる遠藤周作さんは、奇跡はあったかもしれないし、比喩的な表現かもしれないと考えておられたようです。しかし、頼りない弟子たちが受難の後になると、突然力強く宣教を始めたのは間違いなく、それこそ奇跡だとされています。そのことを人々に知らせるためには、すでに使徒として尊敬されていた弟子たちであっても、過去のたよりない様子を描かざるを得なかったのでしょう。

この復活の奇跡のきっかけとなったイエスさまとの再会は、漁、移動、食事 といった日常的な行いの中での出来事です。わたしたちが日常の苦しみの中でイエスさまと出会ったように、弟子たちも日常生活の中で、本当のイエスさまに再会したのでしょう。

私たちは、すでに出会ったつもりではありますが、

「わたしは道であり、真理であり、命である」

と言われたイエスさまを見ているだけでなく、イエスさまの道を歩いていきたいと思います。

その道の基本は、復活祭の福音にあるようです。イエスさまが復活されたとき、墓の中は「空(カラ)」でした。復活信仰であるキリスト教の基本は、なんと「カラ」なんです。自分に対するこだわりを捨て「カラ」になってこそ、キリストの道に入ることができる、つまり「捨てることで得られる」ということなのでしょう。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2008/04/17

今年の枝

Eda_03 今年の枝はテレビの上に置かれています(写真は頂いて1週間目のもので、かなり白くなっています)。横にある羊は羊年に雑貨屋さんで買ったものです。草原の羊をイメージしたのですがいかがでしょうか?

もっと小さい枝をもらって壁につけるつもりでしたが、知り合いの方とのやりとりで「もっと大きいのにしなさい」「いや、電車ですから」「見せびらかしなさいよ。良いのをあげるから」などと言われて、今年も立派な枝を頂きました。

当日はミサの後に照明器具を探したので、梅田、寺町(京都の電器街)、西院と透明な袋に枝を入れたまま、見せびらかしてきました。

Eda_04 現在は右の写真のように全体が白く、丸まってきました。この枝は来年の四旬節の前に回収され、灰になります。そして灰の水曜日(あるいは次の日曜日)に額につけていただきます。そして、枝の主日に新しい枝を祝福していただき、持ち帰ります。

Eda_01 枝の主日は、左の写真のように隣の幼稚園に枝を持って集合し、聖水で祝福を受けた後、枝をもって御聖堂まで行進します。イエスさまのエルサレム入城の様子を再現したミサなのですが、皆で歓迎するところがお気に入りです。

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2008/04/14

神さまの所為にした僕

心のともしびTV(番組の動画を見ることができます)の第20回「神の賜物の用い方」は、ここでも何度か紹介した「タラントンのたとえ」(マタイ25・14-30)でした。

これは、神さまからの賜物(能力)をタラントンと言うお金にたとえたお話です。ある人(神様)が僕(しもべ)にお金を預けます。人によって渡される金額は違うのですが、僕たちは頑張ってそれを増やしてほめられます。しかし、1タラントンだけ預けられた僕は、無くしては大変だと増やそうとせず、(天国から)追い出されてしまうというお話です。

この最後の能力を生かさなかった僕ですが、ちょっと理解に苦しむことを言っています。主(神さま)は怖い人だから無くしては大変だと思った、と言うのです。神さまを誤解してはいけないと言うお話かと思っていたのですが、心のともしびTVの井上神父によれば、これは「投影」で、自分の責任を神さまになすりつけているのだそうです。

Wikipediaによれば、投影は「欲求不満などによって適応が出来ない状態に陥った時に、不安が動機となって行われる自我の再適応のメカニズム」である防衛機制の一つで、「自己が抱いている他人に対しての不都合な感情を、相手が自分に対して抱いていると思うこと。」だそうです。自分の抱く不安感を神さまに当てはめ、だってあなたもなくしたら困ると思っていたでしょう、と責任逃れをしているのです。

考えてみると、人間が殺しあっているだけなのに「神さまはどうして平和を与えられないのか」とか、勉強しなかっただけなのに「不公平だ」などと考えてしまいがちです。

望みがかなわなくても「気が楽で良いや」と前向きに、どんなに苦しいことも恵みと考えて明るく生きてたいと思います。だって、そう信じることができれば「だいじょうぶ」なのですから、、

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2008/04/13

私たちは羊飼い

今日は時間がないので、近くの桂教会で共同祭儀に与ってきました。京都ではブロック単位の共同司牧が行われていて、毎月の第何週かによって、ミサ、共同祭儀、ブロックミサが行われています。

共同祭儀では神父さまがおられず、信者だけで祭儀を行います。このため、聖変化(パン->御聖体、葡萄酒->御血の変化)がなく、すでにあるご聖体が用いられます。両形態(葡萄酒もいただける祭儀)ではないので少しさびしいですが、手作り感と、説教の代わりに行われる講和が率直で親しみやすい場合が多く、ミサ同様に恵みを感じます。

今日の講話は福音朗読の「『羊の囲い』のたとえ」(ヨハネ10・1-10)について話されました。ミサの中でもよく歌われるような内容ですが、良く読むと2つのことに気が付きます。

一つ目はイエスさまが、ファリサイ派に話されていたことです。私たちは、神さまの教えにしたがっているつもりで、知らない間にファリサイ派になっていないか、振り返る必要があります。

もう一つは、イエス・キリストが門であることです。ずっと、イエス・キリストは良い羊飼いだと主ていましたが、羊飼いでなく門なのです。この答えは、第2朗読の「召し使いたちへの勧め」(2・20b-25)の最後にあります。

あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

私たちは羊でなく羊飼いだということです。

日頃の生活の中で神様に救いばかりを求めてしまいますが、人を救うことが求められていたのですね。

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2008/04/11

合理性に勝る大切なもの

 心のともしび第600号に渡辺和子シスターが「美しい光景(リンク先は心のともしび)」というマザーテレサのお話を書かれています。

 助かりそうな人ではなく、助かりそうにないホームレスに手当をすることを問われ、マザーは生きている間じゅう邪魔者扱いを受けた人が、生まれて初めて優しい看護を受け、感謝して亡くなっていく様子を語られます。中にはほほえみさえ浮かべるその姿は、「それはそれは美しい姿」だそうです。

  誰もが均等に一度だけ与えられる死という大切な時、「愛された」という経験で尊厳を取り戻すことに役立った薬や人手は、「美しいもの」を生み出すために役立ったのです。たとえ薬や人手が不足しがちであっても、それは大切なことなのでしょう。

  災害時の医療技術としてトリアージという治療の優先度を決定する方法があります。限られた時間と資材・人材の中でなるべく多くの人命を救うための方法です。そこでは、助からない人に治療をすることは許されず、助かる人にのみ治療が行われます。マザーの行為は、一見それに反する非合理的な行為に思えます。

  しかし、マザーの行為が間違っているとは思えません。誰もが幸せになるために命が与えられたはずです。その最後のチャンス、もっとも緊急に手当てが必要な人にマザーは手当をしていたのです。

  世の中は、どんどん合理化が進んでいます。すべてのことがお金を中心に回ってしまいがちです。どんな手段を使ってもお金を得らればよいような風潮があります。しかし、それが本当に大事なことか、それのためにはすべてを捨てて良いのか、しっかりと考えなければなりません。幸せとは何か、忘れていることはないのか、たとえ薬を与えられなくても、そばにいることはできないか、単純な合理性を考えるだけでは見失ってしまいがちな、大切なものを見失わないようにしたいと思います。

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2008/04/06

キリストの復活

復活節第3主日だった今日は「エマオで現れる」(ルカ24・13-35)が読まれました。イエスさまが復活されたからこそ、聖書を知って心が燃えるのだと思いました。

ミサが進み聖変化でホスチアがご聖体になったとき、ふと「ご聖体はキリストのからだ、つまりキリストそのものになるのだから、聖変化でいつもキリストは復活しているのではないか」と思いました。

そのすぐあと、神父さまが「信仰の神秘♪」と歌われ、皆でこう歌いました。

主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるま~で~♪

イエスさまは2000年前に復活されただけでなく、ミサのたびに復活されていたのだとおもいました。だから、私たちの心は燃えるのですね。

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