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2007/12/31

聖家族は模範

昨日のミサは聖家族の祝日でした。福音朗読は「エジプトに避難する/エジプトから帰国する」(マタイ2・13-15,19-23)、私の霊名の聖ヨセフが出てくる数少ないお話の一つです。

聖ヨセフにあらわれた天使のお告げに二度従うお話で、まずイエスさまとマリアさまを連れてエジプトに逃れ、次にヘロデ王の死後にナザレに戻ります。聖ヨセフは血の繋がっていないイエスさまを子供として愛し、思いやりと優しさで家族を守ったのです。

閉祭の歌はカトリック聖歌集291番「かなしみうれいhttp://hosanna.romaaeterna.jp/hymn/seika200/sei291.html」(リンク先はカトリック教会の祈りとしらべ)でした。

悲しみ憂いに イエズス マリア ヨゼフ♪
慰めを賜え イエズス マリア ヨゼフ♪
痛み患らいに イエズス マリア ヨゼフ♪
み力を賜え イエズス マリア ヨゼフ♪

と聖家族に祈る歌です。家族を守るためイスラエルの民のように移り住んだ聖家族。悲しみや憂い、痛みや患いも、聖家族にならって家族の愛で乗り切りたいものです。

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2007/12/26

ボクシング・デー

26日は聖ステファノ殉教者の祝日は、キリスト教の国ではボクシング・デーと呼ぶそうです。Wikipediaによると、

元々は、教会が貧しい人たちのために寄付を募ったクリスマスプレゼントの箱を開ける日であったことから"Boxing Day"と呼ばれる。

とのこと(スポーツのボクシングとは関係ないようです)。休日になっている国も多いようです。

大人になると箱を開けるときにわくわくするようなことは少なくなりましたが、洗礼を受けてからはクリスマスそのものが素敵なプレゼントになりました。今日一日は、クリスマスにいただいた恵みをゆっくりと味わいたいと思います。

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2007/12/25

キリストのミサ

Xmas2 主のご降誕おめでとうございます。

今日のミサは「ご降誕祭」。ミサ中で洗礼式も行われ、まさにキリストのミサ(Christ mas)でした。

ミサでは、第2朗読「健全な教え」(テトス2・11-14)が心に残りました。

実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。

どうしても捨てられない現世的な欲望、それを改めさせるためにイエスさまは生まれました。日々の苦しみから救うのは、イエス・キリストなのです。毎年、ろうそくの煙にむせながらも、キリストのミサに与るのは、この恵みを感じたからなのでしょう。

説教の中では「平和とは、秩序の静けさ」という言葉がありました。傲慢な気持ちを捨て、秩序を守ることができればそこに平和が訪れるのでしょう。人生の苦しみを感じ、絶望の淵に会った時、それを救ってくれたのはキリストでした。秩序は人を苦しめますが、それを認めることで苦しみは和らぎ、新しい道が見えてくることもあるのです。

クリスマスなので、もっと色々と書きたいです。しかし、先ほどまで仕事をしていたので、今日はこれぐらいにしておきます。皆様、良いクリスマスをお過ごしください。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/12/24

ともにおられる神

今日のミサの福音は「イエス・キリストの誕生」(マタイ1・18-24)でした。主人公は、私が霊名をいただいたヨセフです。ヨセフの夢に天使があらわれ、マリアと結婚して子供にイエスと名付けなさい、その名は「インマヌエル」つまり「神は我々とともにおられる」と呼ばれる、と言います。

説教を聞いて気づきましたが、マタイの福音書は、今日の「神は我々とともにおられる」から始まり、

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28・20)

で終わっています。イザヤ書に予言されたとおり、神のひとり子は生まれ、罪をあがない、いたる所に偏在する存在となり、われわれとともにおられるのです。

Xmas1_3 4つのアドベントキャンドルに火がともりました。いよいよ明日は降誕祭ですね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/12/23

救い主を確認して喜ぶ

先週「喜びの主日」のミサの福音朗読は「洗礼者ヨハネとイエス」(マタイ11・2-11)でした。「喜びの主日」は、福音にあるようにイエスさまが救世主であることを確認し、お生まれになることを喜ぶ日です。

福音は、洗礼者ヨハネが弟子を介してイエスさまに尋ねるお話と、イエスさまが洗礼者ヨハネを預言者以上のものとされるお話でした。聖書の分かち合いで色々な意見が出たのは、この前半のところです。

洗礼者ヨハネはヘロデ王の結婚を非難したために捕らえられています。政治犯であるヨハネが連絡を取るのですから、イエスさまにも被害が及ぶ可能性があったのでしょう。

「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」

この言葉は、聖書に書かれた「来るべき方」すなわち救世主であるかを尋ねているのですが、よく考えると普通に「来るのは誰?」と聞いているだけなんですよね。それに対するイエスさまの答えもなかなか遠まわしな表現です。

「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

イザヤ書の内容に沿った言葉で、決して救世主とは言っていません。洗礼者ヨハネが、死を前にして「あなたこそ救世主なのですね」「そうだ」それだけのやり取りなのに、この長さです。これは、いつものイエスさまのことばのようにわかりやすくというよりも、敵の存在を意識した言葉なのでしょうね。そう思うと、ドキドキしませんか。

さて、なぜ洗礼者は確認したのでしょう。福音のヒントによれば、「自分の弟子たちの目をイエスに向けさせ、イエスのもとへ導くため」という説と、旧約の神のイメージを持っていたので「やはり洗礼者ヨハネは疑問に思った」の二つが挙げられています。

しかし、分かち合いでうかがった解釈が私には納得できます。人は最期の時に自分を振り返り、確認するというものです。イエスさまがゲツセマネで

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26・39)

と祈られたように、洗礼者ヨハネも道を整えたことを確認した上で、死を迎えたかったのだと思います。弟子を通して自分の理解が間違っていなかったと知った洗礼者ヨハネは、まさに「成し遂げられた」(ヨハネ19・30)という思いで死を迎えたのでしょう。

洗礼者ヨハネは知らせを聞いた時は、どんな気持ちだったのでしょう。第一朗読の

「歩けなかった人が鹿のように躍り上がる」(イザヤ35・6)

ように、また、映画「偉大な生涯の物語」で死んだラザロが生き返ったのを見て走り出した人のように、これまでにない喜びを感じたのだと思います。戯曲「サロメ」の題材といわれる不幸な死を迎える洗礼者ヨハネですが、最後は救世主を喜び、死を迎えたのでしょうね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/12/21

あなたはわたしの支え

久しぶりに入門講座に参加しました。入門講座では初めに「聖霊への祈り」(リンク先はLaudate「聖霊の続唱」) を祈ります。比較的長い祈りなので、これまでは淡々と唱えていただけでした。しかし、一か月以上も休んでいたのに温かく迎えていただいたあとに最後のこんな言葉を読んでいたら、目頭が熱くなりました。

あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。
あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、
終わりなく喜ぶことができますように。
アーメン。

そして、いつものように日曜の福音「イエス・キリストの誕生」(マタイ1・18-24)の説明をうかがっていると、イエスさまの名前が二つ出てきます。

イエス(ヘブライ語でヨショア):主は救う
インマヌエル:神は我々とともにおられる

忙しかったり、疲れていたり、心はなかなか神様に向きませんでしたが、神様はいつもそばにいて、応援してくださっていたのですね。

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2007/12/11

待降節は準備の時 - お腹を見て反省 -

日曜のミサの福音朗読は、「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」(マタイ3・1-12)でした。
洗礼者ヨハネは、イエス・キリストの公生活の前に道を整えて準備しました。クリスマスまでの期間、私たちもその準備をしなければなりません。

洗礼者ヨハネは人々に洗礼を授け、人々を悔い改めさせました。自分中心の生活を見直して、神様中心の生活を遅らせたのです。人はともすれば自分中心に暮らしてしまいます。正しいことをするだけで良いのに、人によく思われようと人の目を気にしてしまいます。

神は世界の完成に向けて、ひとり子をこの世に使わせてくださいました。その喜びの時に向けて今一度、生活を見直す必要があります。

「主の祈り」には、「日ごとの糧をお与えください」という言葉があります。もちろん、自分が生きていくための「糧」を望むのですが、貧しい人のために祈るという面もあります。

心のともしびの先月のラジオの、阿南孝也さんの「日々のつとめ」を読んで、私は心苦しくなりました。悪いことをしているつもりはなかったのですが、知らず知らずのうちに犯していた罪を反省しました(詳しくはリンク先を読んでください)。

クリスマスまでの期間、暴飲暴食を慎みたいとは思うのですが、忘年会やら何やらでどうもいけません(明日もカラオケが、、、)。せめて、お腹を見て反省したいと思います。

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関係は愛 - 待降節黙想会 -

所属教会ではクリスマス前の待降節と、復活祭(イースター)前の四旬節に黙想会があります。午前中に講話をうかがって、午後からはゆるしの秘跡を受けます。今回はイエズス会の林神父に講話をお願いしました。

以前もお話をうかがいましたが、以前にも増して年齢を感じさせない軽快な語り口、サービス精神旺盛なお話は多くの方がメモを取り、かつてない盛り上がりでした。

お話は今年の流行語から始まりました。その中で、特に取り上げられたのは、「そんなの関係ねぇ」です。神父さまいわく、「そんなの関係ねぇ」は福音的でない要素を含むそうです。

ある生徒が先生に、「心はどこから来るのでしょう?」と尋ねたそうです。先生はそれを宿題にして何とか逃れた、いや、指導されたそうです。中高一貫校だったので、高校に上がってから、その生徒は先生に答えたそうです。「心は人と人の間にある」と。

聖書にも同じことが書かれています。「神の国はあなたがたの間にある」と。訳によっては「あなたたちの中にある」とも言われますが、人と人の関係の中にこそ、心があり、愛があり、神の国があるのです。

差別的なことに対して「そんなの関係ねぇ」という勇気は大事ですが、人と人の関係は大事にしたいものだと思いました。

お話のすべては書ききれませんが素晴らしい時間を過ごさせていただきました。

#お寺の掲示板で見られたこんなお話もありました。

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2007/12/06

カトリックは優先席

先日のミサの福音は「目を覚ましていなさい」(マタイ24・37-44、リンク先は聖書協会)で、黙想会に来られたイエズス会の林神父の司式でした。少し前に事故にあわれて、松葉杖をついての説教は「サンキュー事故」の説明で始まりました。

神父さまは、信号をあまり見ずに車が止まってくれたので、渡ろうとされたようです。すると、車の横からバイクが来てぶつかられたそうです。車に「サンキュー」と言って轢かれるので、「サンキュー事故」と呼ぶそうです。

福音とは少しずれていましたが、飛び出したら危険だと、経験を元に子供たちに注意されたので、小さな子供たちも真剣に聞いていたようです。林神父にとっては、事故も意味のあることだったのでしょう。

事故から少し日が経っていたものの、移動される前日は足がひどく痛かったそうです。ほかのお祈りを御受難会に依頼される際に、自分のことで申し訳ないがと言いつつ、神父さまの足のこともお願いされたところ、キャンセルしたいほどの痛みが朝にはひいていたそうです。御受難会のお祈りは通じたようです。

そんな林神父がこられる途中の電車で、松葉杖をついているからと席を譲ってくれる方がおられたそうです。しかし、そばにおじいさんがいたので二人で譲り合われたようです。すると、そばに程よい年頃の女性がいて、一瞬譲ろうとしたものの、なんとその女性は眠りだした、というか狸寝入りを決め込んだそうです。

このことを通じて、林神父は思われたそうです。

「カトリックは優先席」

カトリックにいることで神の国に入れる。しかし、福音に

「目を覚ましていなさい」

とあるように、常に愛を実践しなければならないとのこと。こんなお話は、はじめてです。ユーモアのあるとても楽しい説教でした。

実は、その翌日のこと。私が電車に乗っているとお年寄りが二人乗ってこられました。はじめの方は、元気そうなおばあさん。この人なら譲らなくてもよいだろうとやり過ごし、次のキャスター付きのカバンを重そうに持つ、おじいさんに席を譲ろうとしました。まさに、福音の実践のつもりでした。

すると、おじいさんのそばに立っていたおばあさんが何も気にせずに、軽く礼を言って座っちゃいました。「あなたじゃなくて、おじいさんに」とでも言いたいところでしたが、あっけにとられて何も言えませんでした。

電車を降りられる様子では、どうも夫婦だったようです。電車の席を自分のもののように考えて、誰が座るかを決めようとした私が傲慢だったのでしょうか?それとも、どこの夫婦も同じようなもの、、、という神様のメッセージだったのでしょうか?

はかり知れない神さまの御旨が分かるわけありませんが、福音は生活の中で生きるものなのだと思いました。

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