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2007/11/30

愛だけが憎しみを消す - 3年B組金八先生 -

今シーズンは昔のヒューマン路線に戻った金八先生、たまたま見ていると今回は差別のお話でした。会ったことのない黒人の父をもつ生徒が差別を受けます。そんなとき、英語の授業で、母親が子守歌代わりに聞かせてくれたキング牧師の"I have a dream"(リンク先はキング牧師の部屋)を聞きます。この演説は差別のない社会を訴えるもので、金八先生の授業によって差別を受けた生徒は自信を取り戻します。

そんなに素直な子供ばかりじゃないだろうとか、色々な意見もあるかと思いますが、差別を受けた子供が、父親に対する気持ちを英語弁論大会で語るところは、なかなか感動的でした。

さて、金八先生の授業では、こんな言葉も出てきました。

憎しみは憎しみを生む。愛だけが憎しみを消す。

これは、本当だと思います。人は憎しみを感じると、さらに憎しみが増し、普通にしていれば問題のないばあいでも、ついつい対立してしまいます。すると相手も対立によって憎しみを抱き、溝はどんどん深くなっていきます。

憎しみなんて持たない方が良いです。相手の人の個性をしみじみと感じながら、ほんの少しだけ優しい気持ちを抱けたなら、きっと気持ちが楽になるはずです。

人と人の関係は憎しみでは悪くなるだけ、でも、愛があれば悪くない関係への第一歩が始まるはずです(相手のことを考えて、踏み込まない、近づきすぎないというのも愛のうちです)。

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2007/11/27

回心すればゆるされる

典礼暦の最後の主日ミサは「十字架につけられる」の後半(ルカ23・35-43:リンク先はJBS日本聖書協会)でした。

十字架につけられたイエスさまは、民衆、兵士、そして、隣で十字架にかかる在任からも侮辱され、笑われました。そのとき、もう一人の罪人が、たしなめたあと、

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」

といいました。

説教を聞いて気づいたのですが、この男は罪を犯して処刑を受ける身です。「罪を犯した者は神の国には入れない」と言われても仕方のない身です。しかし、イエスさまは神に対して謙虚なこの男に対し、

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

と罪をゆるし神の国に招かれたのです。

このお話を聞いて、先週のミサ後に行われた司教さまとの質疑応答を思い出しました。信徒との交流を図るために司教さまが自由な質問を受けられたのです。

そこで出た質問にこんなものがありました。それは、ミサに出られなかったベトナムの人をミサに連れてくると、ミサを休んだあとは赦しの秘跡をうけないとご聖体をいただけないと、その人は祝福を受けていた。私たちはそんな風に考えずにご聖体を受けて恵みを頂いている。ぜひ、ベトナムの人にもご聖体の恵みを受けさせたいが、どうすればよいか?というものでした。

司教さまの回答は、

昔は日本も、「ミサに出ないという大罪を犯した」ということで、ゆるしの秘跡をうけなければご聖体を頂かなかった。ゆるしの秘跡は神さまに許していただくという非常にありがたい恵みであるが、ミサでご聖体を頂くためにゆるしの秘跡を受けるということは、ゆるしの秘跡をミサの準備の手続きという低いものにしてしまう。

そこで、第2バチカン公会議以降、ミサの初めに回心することでご聖体にあずかることができるようになった。ぜひ、ベトナムの方の気持ちを大切にすると共に、回心の祈りで良いと伝えてあげてください。神さまは、ご聖体を頂くことで一致できることを、喜んでくださいます。

といった内容でした。

罪人であってもゆるしてくださる神は、回心すればゆるしてくださいます。そう思うと、幸せな気持ちになりました。

(おまけ)
司教さまによると、ミサに遅刻しそうなときは電車の中ででも「全能の神と、兄弟の皆さんに告白します、、、、」と回心すればよいとのこと。実はこの日、たまたま遅刻して、電車の中で同じことをしていたので、ホッとしました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/11/25

人生の目的

たしか、アリの町のマリアと呼ばれた北原怜子さんが信仰の道に入ったきっかけになったシスターのことばにも「人生の目的」という言葉がありました。これまで「幸せになること」が人生の目的だと思っていたのですが、先日のミサで新しい定義を知りました。

体調を崩して2週間ぶりのミサは松浦悟郎補佐司教の司式でした。福音朗読は「神殿の崩壊を予告する/終末の徴」(ルカ21・5-19)でした。終末についてのイエスさまの説教を記した福音を受けた説教は、終末と聞いて起こしてしまう二つの(まちがった)行動についてのお話から始まりました。

一つ目は「恐怖を感じて不安になる」という、カルト的な宗教にありがちな終末観によるものです。カルト的な宗教はXXに最後の時が来ると言って人々の恐怖をあおり、何とか自分だけでも救われたいと思う人々を集めます。

司教が学校でミサをささげられていた頃、突然、学生さんたちが増えたそうです。理由を聞くと、XXに世界が終るといわれているのでミサに来たとのこと。そんな自己中心的な理由はともかく人の増えたことを喜んでおられたそうですが、その時期を過ぎるといつもの人数に戻ったそうです。

もう一つは、どうせ救われないならと自暴自棄になるというもののです。死んだら終わりと考えて、今が良ければよいと好き勝手な行動をとってしまうのです。

しかし、キリスト教の考え方は違います。終末というのは完成のときなのです。たとえこの世が終わっても、なにも恐れることはありません。この世が終わっても命は終わらず、神のもとで生き続けます。神の作られたこの世がようやく完成の時を迎えるのです。何も恐れることはありません。

神様の目的がこの世の完成であるように、人生の目的は「神との関係の完成」です。人間は神様から離れて罪深い生活をしてきましたが、神様の意志に従い、神さまとの関係を完成するのです。

冒頭で「新しい定義」と書きましたが、「幸せになること」と「神との関係の完成」は、同じことを別の表現で表しているだけなのかもしれません。人の幸せは傲慢な生き方にあるのではなく、愛のある生き方こそ幸せなのですから、、、

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2007/11/06

金持ちのザアカイは必死に救いを求めていた

日曜の福音は「徴税人ザアカイ」(ルカ19・1-10)でした。以前にも記事を書きましたが、今回は新しいイメージが広がりました。

説教では、神父様が「ザアカイはお金持だったが、財産の半分を貧しい人に与え、神の愛を実践して救われた」という主旨のことを言われました。この言葉を聞いて、ザアカイは最初から必死であったことに気付きました。

背が低く、罪深い人ということからみすぼらしいイメージを持っていましたが、ザアカイがお金持であると考えると、イメージが変わります。きっと良い服を着て、良い靴を履き、立派な革のベルトや貴金属を身につけて、税金を払わない人に高慢な態度をとっていたのでしょうね。そんなザアカイが、イエスさまを一目見ようとイチジクの木に登ったのです。

作業服ならいざ知らず、高価なものを身につけた人が、普通なら木に登るなんてしないですよね。せいぜい何かを台にする程度で、なりふり構わずに木に登るというのは相当な思い、救われたいという思いがあったのでしょうね。

そんなふうに必死に救いを求めるザアカイだからこそ、神様の目にとまり、救いを得ることができたのでしょうね。

求めなさい。そうすれば、与えられる。
(ルカ11・9、日本聖書協会 新共同訳)

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