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2007/10/31

神さまを必要としない人

先日のミサは「『ファリサイ派の人と徴税人』のたとえ」(ルカ18・9-14)でした。このお話では、ファリサイ派の人と徴税人の二人が祈るために神殿に上ります。ファリサイ派の人は自分の正しさを述べ、清い生活が送れていることを感謝します。一方、徴税人は『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と神に自分への憐れみを求めます。イエスさまは、へりくだった徴税人を義とされます。

散髪をしてジョージ・マイケル(古すぎ?)のように精悍になった神父さまの説教では、「ファリサイ派の人は神を必要としなかった」と語られました。この言葉はショッキングでした。ファリサイ派の人は神様への感謝を語りながらも、ルールを守ればよいと決め付け、他人を裁き、自分は正しいと考えて、一人で生きていたのです。

思い起こすと、神さまに出会う前の私はファリサイ派の人とあまり変わりませんでした。自分は頑張っている、うまくいかないのは人の責任、私は正しい、そんな感情がいつの間にかありました。しかし、そんな考え方はいつまでも続きません。

物事に「良いこと」と「悪いこと」があるなら、それは同じことの表裏にすぎません。きっと、いつか反対のことが起こります。ある確率でラッキーな出来事が起こるなら、同じ程度の確率でアンラッキーなことが起こるはずです。良いことがあった時に神に感謝するなら、悪いときには神さまを恨むのでしょうか?

世界の完成に向かって計画されているなら、すべては良いこと、恵みに違いありません。ものごとには意味があり、人は簡単に物事を判断すべきではありません。徴税人のように人に批判され、苦しみながら生きることにも意味があるに違いありません。それを知らずに人を裁くことは、知らず知らずのうちに神さまを裁いているかもしれません。

禁じられたことをしないだけでなく、幼子のように純粋な心を持たなければなりません。定められた行いの実践よりも、神の愛を感じ、愛に生きることが重要です。自分を中心において世界を見るのではなく、神さまの愛を中心に世界を見なければならないのでしょう。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/10/25

冷静に見ていなかった - 働きマン -

このブログを書き始めて2年(と1ヶ月)になります。そのきっかけを何度か書きましたが、どことなく納得していないものがありました。それが先週のTVドラマ「働きマン(リンク先は公式サイト)」をなにげなく見ていてようやくわかりました。

「働きマン」はどことなく「アリーmyラブ(リンク先はFOX)」をほうふつさせるような働く女性のお話です。菅野美穂さん演ずる松方は「働きマン」になって一生懸命に働きますが、人とぶつかってばかりいます。一方、釈由美子さん演ずる野川は、女性らしくうまくやって仕事をこなしています。そんな野川を松方は批判的に見ます。

一見、ちやほやされているように見える野川ですが、実は陰で人並み以上に努力していました。そのことを知った松方は

「人のせいにして、努力していなかった」

と、反省します。ふたりはようやく打ち解けたとき、野川は自分のことを振り返って、自分の過去を振り返って、こう言います。

「ぶつかってばかりいて、冷静に見ていなかった」

この言葉は考えさせられます。努力するだけではだめなんですよね。

人は客観的・合理的に物事を考えているつもりでも、いつのまにか感情にとらわれてしまいます。推論に過ぎないことを「そうに違いない!」などと思い込み、自分で自分を追い込んでしまいます。

「働きマン」の松方は頑張ることが必要だと、思い込んでいるんですよね。でも、頑張るだけではだめなんです。いくら頑張ったってダメなときはダメ、どうにもならない。そこで、どんなに頑張ってもどうにもなりません。思い込みをやめて、冷静に物事をとらえないとだめなんですよね。

私が信仰の道に入ったのは、こんなことが原因だったと思います。遠藤周作さんの「イエスの生涯」「キリストの誕生」を読んで、今までの自分が傲慢であったことに気付きました。そこには「自分の苦労なんて大したことはない」「自分の一方的な見方だった」という2つの思いがありました。

「自分の苦労なんて大したことはない」というのは、イエスさまの受難との比較です。人類を救うための運命とはいえ、誰にも理解されないまま、十字架にかかられました。その苦しみを考えれば、どんな苦労も大したことはありません。それをこの世の終わりのように、誰かに怒ったり、自分を責めたりすることはないのです。

「自分の一方的な見方だった」というのは、遠藤周作さんの著作ならではの恵みだったと思います。捕えられたイエスさまの身を案じつつも自身の安全を考え、十字架に架けられたときにも自分たちのことを何と言われるかを心配する。誰しもの心にある暗い部分を持つ弟子たちと、それをわかった上で愛されたイエスさまとの対比は、自分の考えが一方的であることに気づかせてくれました。

そんな弟子たちにも3日後に変化がおこりました。心の中にイエスさまが復活し、弱虫だった弟子たちが、死をも恐れぬ使徒に生まれ変わります。それこそ、奇跡というべき変化です。そのような変化は、聖書では聖霊降臨まで間となっていますが、遠藤さんはしばらくかかったと書かれています。

ここのところは、あまりよくわかっていなかったのですが、最近、何となくわかるようになりました。私は、遠藤さんの本でキリストに出会い、復活と聖霊降臨のような衝撃を受けたつもりでした。しかし、私の実態は、たいして変わっていないのですよね。

少しずつ、少しずつ、あっちに行ったり、こっちに行ったり、苦しんだり、悲しんだり、そして喜びを感じながら、神様に近づいていくのでしょうね。苦しみもいつか恵みと感じられると信じて、批判せず、怒らずに、しみじみとやっていこうと思います。

色々なことがありましたが、いや、色々なことがあったからこそ、神さまのご計画に感謝しています。

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2007/10/23

聖モニカは祈り続けた

昨日のミサの福音朗読は「『やもめと裁判官』のたとえ」(ルカ18・1-8)でした。説教では、聖アウグスチヌスの母である聖モニカ(リンク先はWikipedia)のお話をされました。

聖モニカの亭主は異教徒、息子のアウグスチヌスもマニ教を信じていました。そのような中で、モニカは息子の時が来るまで祈り続けました。ようやく、モニカが亡くなる1年前にアウグスチヌスは洗礼を受けました。モニカが亡くなった後、アウグスティヌスは司教、そして教会博士になり、その後のキリスト教・欧州に多大な影響を与えました。子供のための絶え間ない祈りは神に届き、やがて大きな力になったのですね。

ところで、昨日の福音には「神など畏れない」が2回も出てきます。ユダヤ教国家であるので、きっと裁判官は律法に基づいて判決を出していたはずです。信仰を持たないまま律法で裁くとは、ファリサイ派以上にとんでもない裁判官ですね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/10/21

気を落とさずに絶えず祈る

今日は聖書の分かち合いでした。「『やもめと裁判官』のたとえ」(ルカ18・1-8)はイエスさまがエルサレムに近づく中で、弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」を教えられます。

内容はルカ11章の「祈るときには」(ルカ11・1-13)と少し似ています。はじめは断られても、しつこく言うと根負けして願いがかなうというお話です。しかも、神さまは選ばれた人(神の助けを待ち望む人)のために「速やかに裁いてくださる」のです。神さまの裁きは死んだ時と最後の審判だけだと思いましたが、昼も夜も叫び求めていれば速やかに裁いてくださるのですね。

ところで、「気を落とさずに絶えず祈る」というのは、なかなか深い言葉ですね。気を落とさないというのは、受難に向けての言葉とも取れますが、素直にとると希望を失わずに祈るということなのでしょうね。

苦しくて祈りたいときは希望を失った時のようにも思います。しかし、それではだめなのでしょうね。どんな苦しみもいつかは恵みにつながるご計画である、祈りはきっと届く、そんな思いで絶えず祈ることが重要なのでしょうね。

「祈る」というのは「唱える」という言葉とは違います。念仏のように単に祈りの言葉を発するのではだめなのです。神を信じ、心から叫ばなければ、祈りは届かないのです。それは言葉を唱えるだけではありません。「生活即祈り」というように、生活そのものも祈りとしてささげることができるでしょう。

祈りが届いたとき、願ったことがそのままかなうとは限りません。しかし、必要なものは与えられ、「求めるものは何でも得られる」のです。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/10/16

苦しみは恵み、感謝は救い

日曜の福音朗読は、さらっと読むと、わかったような、わからないようなお話でしたね。
皮膚病(かつてらい病と呼ばれたハンセン氏病らしい)の人たちをイエスさまは癒されたのですが、サマリア人だけが感謝して帰ってきました。

イエスさまは

「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」

といわれますが、サマリア人に対して

「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

と言われます。この言葉は、イエスさまが奇跡をおこなわれた際によく言われる言葉ですが、信仰によって皮膚病が治ったのでしょうか?ほかの人(ユダヤ人)も皮膚病が治っているのですからどうもおかしいです。救われたというのは皮膚病のことではないように思います。

自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来たサマリア人は、イエスさまの足もとにひれ伏して感謝しました。実はこの感謝こそが救いなのではないでしょうか?

サマリアはアッシリアに征服されて異教を強制されました。その様子は「イエスとサマリアの女」(ヨハネ4・1-32)で5人の夫(宗教)とたとえられ、今の連れ添っている男も本当の夫(宗教)ではないとイエス様に言われるようです。

本当の神様を知らないサマリア人は、皮膚病を直してもらった喜びだけでなく、本当の神様に出会った喜びから、大声で神を賛美し、感謝したのでしょうね。

日曜日の説教では、運動会での親のお話を二つされました。一つ目は障がいを持つ子供の学校の親です。普通の子供と比べて何らかの問題を持つ子供ですが、学校に入ってからのほんの少しの成長に親御さんは涙されたそうです。もう一つは普通の学校で、子供に対して厳しく、親に恥をかかせないように「頑張れ」と言って、子供にプレッシャーを与える親です。

神に感謝できるのはもちろん障がいをもつ子供の親御さんです。「だめな子ほど可愛い」などと言いますが、だめだと思っているのは周りの人で、親はありのままの子供を受け入れているのだと思います。現実をありのままに受け入れることで、少しの恵みに感謝して涙できる。それこそが、救われた状況なのでしょう。

人はついつい我儘な気持ちを持ちます。現実を受け入れず、ほかの人を批判してしまいます。それはなんと不幸なことでしょうか。

どんな苦境にあっても、その現実を受け入れることができれば、苦しみは恵みに変化します。ほんの些細な出来事も喜びに変わります。物事に対する感謝の気持ちが生まれ、神の愛を感じることができるからです。

ここのところプライベートな事でバタバタしていて、少しだけ神さまとの距離ができていたかもしれません。しかし、ちょっとしたことで恵みを感じたとき、サマリア人のように神を賛美したくなりました。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/10/14

神の似姿 - 聖フランシスコ「太陽の賛歌」 -

神の似姿というと(創世記1・26)で

神にかたどって創造された(日本聖書協会 新共同訳)

とされる人間のことが思い浮かびます。この表現、以前から違和感がありました。ギリシャ神話か日本神話にあるような、多神教的なイメージを抱いてしまったり、進化した宇宙人が遺伝子操作で作りだすといったSF的なイメージを抱いてしまいます。

このようなイメージは多神教的です。Good News Collectionにあるように神様が唯一絶対でないと、欠点をイメージしてしまい、どうもいけません。では、この「似姿」とはなにか?それが以前からの疑問でした。

川下勝著「アッシジのフランチェスコ」(清水書院、pp.167-172)に「太陽の賛歌」(リンク先はLaudate)が載っています。この太陽の賛歌はGood News Collectionにあるように、晩年の聖フランシスコが「死」というものを「姉妹」として讃えている点が特徴的です。この賛歌の中にも「似姿」という言葉が出てきます。

太陽は美しく、
  偉大な光彩を放って輝き、
  いと高いお方よ、
  あなたの似姿を宿しています。

これには衝撃を受けました。「太陽が似姿を宿している」という神って何なのでしょう。内部で核融合を起こしている「光源」や「熱源」あるいは「磁気嵐」が神だというのでしょうか?きっと、そんな物理的なことは決して表していないのでしょう。すると、何だというのでしょうね。

色々と思いを巡らしていると、ある言葉が思い浮かびました。

「神は愛」

すなわち、「似姿」とは、愛を実体化したものと考えることにしたのです。

神を信じるというのは、この世の出来事は偶然ではなく、完成に向けた神のご計画によるものであるとすることです。世の中を科学的にどんどん分解していけばいくほど、よくできていることがわかってくるといいます。最先端の科学者は神の姿を感じるといいます。

陽子の周りを電子がまわって原子になり、原子が集まり分子になり、分子が集まって物質ができ、色々な物質があつまって星になり、そして大きな星を小さな星が回ってまるで原子のように惑星系や恒星系になっています。すべてのことがよくできているのです。

私が生まれたことも、妻と結婚したことも、父が亡くなったことも、遠藤周作に出会ったことも、洗礼を受けたことも、すべてのことに意味があり、すべては良い方向に向かっているのです。

すべての物が被造物で、被造物は神の愛を実体化しているのです。

鳥や自然を愛した聖フランシスコは、すべての被造物に、いや、死をも含めたすべてのものに、愛そのものである神を感じていたのでしょう。

(この記事を考えているうちに、遠藤周作さんの「深い河」に出てくる神父さまは、聖フランシスコがモチーフなのではないかと思うようになりました)

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2007/10/12

カトリック手帳2008

来年用のカトリック手帳を買いました。去年は半額になってから買いましたが、福音朗読箇所や様々な祈りが載っているなど、思いのほか重宝しましたので、見つけてすぐに買いました。

来年用の手帳は少し構成が変わっています。前半にあった祈りが後半に移動し、教会・病院一覧などとともに資料編としてまとめられました。また、本体にもあったアドレス帳が、別冊のものだけになりました。

最もうれしいのは、「使徒信条」がミサ式次第の中に移動し、「ニケア・コンスタンチノープル信条」が資料編に入りました。ミサ式次第にあった「洗礼式の信仰宣言」はなくなりました。

注意が必要なのは上記変更のためか使徒信条に間違いがあります。修正用のシールが付いていますので、なくさないように貼ってから使ってください(初版だけかもしれません)。

これで、来年も良い一年がすごせそうです(気が早い!)。

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2007/10/11

安心して行きなさい

入門講座で、日曜日の第一朗読箇所のある「列王記下巻」の5章を読みました。朗読箇所はエリシャの言葉に従ってヨルダン川に身を浸して皮膚病がいやされたナアマンが感謝し、贈り物をしようとしたものの断られ、今後、主ヤーヴェ以外に捧げものをしないと誓うお話です。

5章全体を読むと、このあと従者ゲハジがナアマンを追いかけ、贈り物を自分のものにしたところ、エリシャはお見通しでゲハジと子孫は皮膚病になってしまうというお話です。ここのところは以前にも読んだことがあるのですが、今回は気になるところを見つけました。

「僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。
ただし、この事については主が僕を赦してくださいますように。わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。そのとき、わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません。わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように。」
エリシャは彼に、「安心して行きなさい」と言った。

このお話を読んで、少し感動しました。第2バチカン公会議以降、他の宗教を尊重するようになったとはいえ、葬儀以外でほかの宗教施設に出向くことには何となく抵抗がありました。しかし、すでに旧約聖書において、他の宗教施設での儀礼的な行為は、ゆるされていたのですね。

今後は初詣に誘われても、安心して行けますね(ちょっと気が早い?)。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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