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2007/09/27

デウス=ゼウス - キリシタンの言葉 -

きょうの入門講座の余った時間で、長崎の教会のビデオを見ました。途中で、キリシタンのお話が出てきて、遠藤周作さんの本などで見たことのある「デウス」「オラショ」などの言葉が出てきました。そこで、ポルトガル人でヨーロッパの言葉に堪能な神父様が、言葉の解説をしてくださいました。

オラショ(ORATIO)
ラテン語の「祈り」。ポルトガル語ならORACAO。

パードレ(PADRE)
ポルトガル語の「神父」。父の意味なので英語のfatherと同じですね。

デウス(DEUS)
ポルトガル語の「神」。何となく似ているので確認すると、ギリシャ神話に出てくる「(大神)ゼウス」と同じだそうです。多神教のある神の名前が「神」を表すとは少し驚きです。フランシスコ・ザビエルが日本に来た際に、このデウスを仏教用語の「大日(如来)」と訳して混乱したそうですが、定義の異なる「ゼウス」が語源なら「大日」でも良かったのではないかと言うのは暴言でしょうか?

日本語になったポルトガル語には、ビードロ(VIDRO)、天ぷら、コップなどがあります(このほかにもカステラ、金平糖、カルタもそうですね)。

また、ギリシャ語は他の言語の語源になっていることが多く、biology(生物学)、philosophy(哲学)などもそうです。philosophyはフィロ(友)+ソフィア(知識)という意味で、このフィロ(友)とポ(馬)で12使徒のフィリポという言葉ができているそうです。

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2007/09/24

薄くても恵みがいっぱい

今日はひさしぶりに河原町でミサに与りました。河原町教会のホスチアは少し薄めなのですが、恵みはたっぷり詰まっていました。

福音の朗読箇所はショート版の「『不正な管理人』のたとえ」(ルカ16・10-13)でした。短く読まれたとはいえ、やはり難しい内容です。説教では福音が難しい時の対処法を話されました。「聖書と典礼」にある「集会祈願」「奉納祈願」「共同祈願」を嫁とのことでした。たしかに「まことの豊かさ」「恵みを味あわせてください」「真理と正義をたえず求めながら、行動することができますように」と書かれていて、よくわかります。

今回の所は、入門講座でも分かち合いました。やはり、前半が気になります。「福音のヒント」によると、不正な管理人は主人のお金を貸すときに借用証書に多めの金額を書かせて差額を自分のものにしていたようです。割引債(リンク先はWikipedia)のようなものですね。

これは金利分を先に払っているだけで、利息を取っていることに違いはないのですが、当時のユダヤでは利息を取ることができないので、方便としてこうしていたようです。イスラム(リンク先は教えて!gooイスラム銀行とは)や宗教改革前のキリスト教(リンク先はキリスト教と利息取得)も同じようです。

この不正な管理人はばれそうになって、うまくやるんです。利息を取っていないように証書を書きなおさせます。それは、

管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。

という思いからでしたが、主人は「抜け目のないやり方をほめ」ました。これは、

神と富とに仕えることはできない。

というお話です。

「いつも目を覚ましていなさい」と言われますが、「あとから来た者に追い越され」とも言われます。そして、今日の福音は「やばい!」と思ってやり直して褒められる。というものです。どんなに悪いことをしていても、改めれば赦されるというのは、神の愛の大きを示しているのでしょう。

このお話は、なんとなく「天国泥棒」という言葉を思い出させます。これはアウグスチヌスの時代にもあったもので、自由気ままに生きておいて、死の直前に洗礼を受けるというものです。死に瀕したアウグスチヌスに家族は洗礼を受けさせようとしましたが、病気が治ると洗礼をやめちゃったのですよね。そして、真理に目覚めるまでアウグスチヌスの洗礼はお預けになります。

でも、本当に自分の罪深さに気づいたなら、三浦綾子さんのように洗礼を受けたくて居ても立ってもいられなくなるんですよね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/09/16

変な信仰!?

ここのところ、入門講座や聖書の分かち合いでほかの方と意見が合わないことがあります。どうも私の信仰はちょっと変わっているようです。

1.がんばりたくない

信仰があるから頑張れるという方もおられるようですが、私は苦しい中で得た救いに感謝しているので、どうも「頑張る」という表現が苦手です。苦しい状況でもよろこびを感じられるというのが私の信仰です。

のどがかわいて水筒の水を飲もうとしたとき1cm程しか残っていない、そんなときどう感じるでしょうか?信仰がなければ「1cmしかない。もうだめだ、苦しい」と思うでしょう。しかし、常に恵みを与えてくださる神を信じているなら、「1cmもあった。これで助かった、これこそ恵みだ」と感じることができると思います。

どんなに苦しい状況になっても、「あせらずに最善を尽くせば道は開かれる、乗り越えられない試練はない」そう思います。信仰があるからと言って良いことばかり起こるようになるわけではありませんが、何事も良いことだと感じることができるようになりました。

「頑張る」という考えは、すべてが良いことだと思っていないような気がします。最善と思われることを、ただコツコツとやるだけで良いと思います。

2.回心によって得られる恵みは大きい

成人洗礼の私にとって、罪を感じ、回心したことが、信仰の根本にあります。自分の罪を感じたからこそ、神に近付き、受け入れ、洗礼を受けたのです。

神様は、どんなに罪深い人間も受け入れてくださると言われると、確かにそうだと思います。しかし、自分が神様に近づくために、罪を悔いあらためることは必須だと思っています。神様が「天国に入って良いよ」と言ってくださっても、「まだ、入れません」と煉獄にいるような感じでしょうか?

確かにザアカイは、キリストに恵みを受けたことで回心できました。しかし、ザアカイは自分からキリストに近づく気持ちになれたからこそ、恵みを受けたのです。自分の罪深さをきちんと認識できなければ、神様に向かうことはできません。

欧米でよくみられるように罪深いからと御聖体を拝領しないことは、確かに神様の恵みを拒絶することにつながり、人間の傲慢と言えるかもしれません。しかし、物事には時があり、神様に接するときにはキチンと心の整理がついてから接したいという気持ちは、私にはよくわかります。

儀礼的にいただく御聖体よりも、何日かかろうと、きちんと回心していただく御聖体の方が恵みが多いように思えるのです。回心するからこそ大きな恵みが得られると思うのです。

こんな信仰は、ちょっと変でしょうか?

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2007/09/10

十字架を背負ったお地蔵様

今日のミサの福音朗読は「弟子の条件(ルカ14・25-33)」(リンク先はJBS日本聖書協会)でした。エルサレムに近くなるにつれて、自分の十字架を背負う、途中で挫折しない、自分の持ち物を一切捨てる、というようにお話がどんどん厳しくなってきました。

信仰の道が途中で挫折しないためには、神に祈り、御旨を知り、喜びに生きることが重要なのでしょう。そのようなことを思っていると、大阪カトリック時報の記事を思い出しました。

記事によると、兵庫県加西市では背中に十字架が刻まれたお地蔵さまが見つかっているそうです。それも複数の場所から千体以上見つかっているようです。十字架地蔵研究のホームページによれば、明治時代のクリスチャンの分布と十字架地蔵の分布が一致していて、十字架地蔵は隠れキリシタンによるものと考えられているようです。

今の日本では少数派であるものの、命がけでなくとも信仰を維持できます。しかし、使徒の時代や、隠れキリシタンの時代には、すべてを捨てる覚悟でなければ信仰を守ることができなかったのですね。信仰のしるしである十字架をお地蔵様の背中に隠し、自らの背負った十字架を守り抜いたのでしょう。

当時の人たちはどんな気持ちだったのでしょうね。日々命の危険を感じながらも、「今日も一日無事に過ごせました」と感謝と喜びの中で祈っていたのでしょうか。きっと、何もかも捨てて、信仰に生きたからこそ、その喜びが得られたのでしょうね。

以前、神父様からうかがった言葉を思い出しました。

「信仰とは、神様を一番に置くこと」

この言葉が、少しわかったような気がします。

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2007/09/09

よし、よし

晴佐久昌英神父の「生きるためのひとこと」は、苦しみの中で救いを求める方に書かれたエッセイ集ですが、私にとって最も福音的だったのが「よし、よし」(pp.154-156)です。

泣き叫ぶわが子に笑いながら「よし、よし」という母親は、すぐに泣きやむこと、今はつらくてもすぐに幸せが来ること、いずれ人生の喜びを知ること、そして生まれてきて良かったと思える日が来ることを伝えたいのです。

「おお、よし、よし。(中略)これからも痛いこと、怖いことがたくさんあるけれど、生きることは本当にすばらしい。だいじょうぶ、心配ない。おまえを愛しているよ、おお、よし、よし」

と苦しんで、不安がいっぱいの子供に対する親の愛を書かれています。人間は弱いので、苦しいときに抱きしめて欲しくなります。いつも「よし、よし」を求めているのでしょうね。

創世記の1章には、こんな言葉が何度も出てきます。

「神はこれを見て、良しとされた」

晴佐久神父はこれを、全存在にほほえんで呼びかける、宇宙最初の「よし、よし」とされています。

聖書の中に出てくる「良し」は男性的で、これまで仕事をこなしたような、職人的な感じがしていました。しかし繰り返すだけで、こんなにやさしい言葉になるんですね。ちなみに英語で「良し」は「good」になっています。これこそ、まさにgood news(福音)ですね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/09/02

高慢な者が被る災難は、手の施しようがない

今日のミサの福音朗読は「客と招待する者への教訓」(ルカ14・1、7-14)でした。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

という言葉に代表されるように、自ら上席につくような傲慢な態度を改め、上席を譲って自ら末席につくような、へりくだることが必要なのでしょう。

この福音にあわせて第一朗読は「謙遜/心のかたくなな者」(シラ3・17-18、20、28-29)でした。この最後のところにある

高慢な者が被る災難は、手の施しようがない。彼の中には悪が深く根を下ろしている。

という言葉を聞いて、晴佐久昌英神父の「生きるためのひとこと」という本の「ありえない」(pp.96-98)というエッセイを思い出しました。そこには、ポンペイの遺跡で有名なイタリアのベスビオス火山の近くにある新市街が遺跡よりも山側にある様子を見て驚かされたと書かれています。そして、繰り返す火山の噴火や津波による被害について

「ありえない」と思うのは人間が傲慢なだけ

むしろ神は、そんな災害から守るためにこそ、人間に愛と知恵を授けたのではないか

と書かれています。苦しみの中にある人への「命の言葉」を書かれたこの本の中で、唯一厳しいことが書かれています。しかし、それは神の絶対的な愛を信じている晴佐久神父だからこそ、書くことができる言葉だと思います。

乗り越えられない試練は与えられません。また、「ヤーウェ・イルエ(神は備えて下さる)」(リンク先はカトリック高円寺教会ANNEX)のです。

苦しみは必ず乗り越えられるものであり、いつか幸せな気持ちで振り返ることができます。そして、「ああ、これも恵みである」と感じられるときがきっと来るのです。そう思えるからこそ、苦しみの原因は自らの行いにあることを認め、傲慢が悪であり、へりくだることが重要であるという言葉を受け入れることができるのでしょう。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/09/01

苦しみを神に捧げる

先週のミサの福音朗読は「狭い戸口」(ルカ13・22-30、リンク先はJBS日本聖書協会)でした。

「狭い戸口から入るように努めなさい」

というこの福音は、神の御旨に従うことは困難で、誰もが簡単に救われるものではないことを示しています。説教でも「克己」(おのれに勝つ)という言葉がでるなど、戸口の狭さが語られました。誰もが救いを求めているのに、必ずしも叶わない、という厳しい言葉に、すこしさびしい様な気持がしました。

しかし、主任司祭のミサの後に行われる15分間の要理のお話は、そんな寂しさから私を救ってくれました。

この日のお話は、たまたま「心貧しきものは幸いである」でした。貧しい異邦人のためにも書かれたルカ福音書では「貧しきもの」とされていますが、ユダヤ人のために書かれたマタイ福音書に書かれたこの言葉は謙虚な人を指すとなっています。

ミサでは神の国に入ることが困難でしたが、心貧しきものや貧しきものは神の国に入れます。病苦に苦しむ人もおなじです。苦しみの中で神様のことをついつい忘れてしまいがちですが、苦しみを神に捧げれば良いのです。

人生の中で生じる様々な苦しみを、一人で抱える必要はないのです。神様に苦しみをささげ、御旨に従うことで神の国に入れるのです。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)
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