少し前になりますが、年間第16主日の福音朗読は「マルタとマリア」(ルカ10・38-42)でした。直前の入門講座、聖書の分かち合い、そしてミサ説教のすべてが同じ個所で、さらにこの箇所は遠藤周作さんの「イエスに邂った女たち」にも解説されています。
自分はマルタだとか、あるいはマリアだとか、分かち合うことが多いかと思いますが、今回のお話はそれぞれ興味深かったので、まとめておきます。
1.マルタは裁いていた
お説教では、マルタがマリアに手伝うようにイエスさまにお願いしたことを、マルタはマリアのことを裁いていたとされました。マルタはイエスさまに話す前に、マリアのことを「少しは手伝って当然だ」と裁いていたのです。人と人は分かち合うことが大事なのです。
マルタは自分勝手な思いからマリアを裁きました。神様を信じながらも、その心は神さまの御心からはなれていたのでしょう。
2.勇気を出したマルタ
朗読箇所の最初にこう書かれています。
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
この「すると」と言うのは、原著からの直訳なら「だがしかし」と言う意味だそうです。当時、男性が人を家に招くことがあっても、マルタのように女性が、男性を招くことはまれであったようです。そこで、原著では女性であるにもかかわらず、マルタは招いたと書いているようです。
だれが何と言おうとイエスさまを家に招きたかったマルタは、勇気を振りしぼって、イエスさまを招いたのでしょうね。そして、彼女なりに必死にもてなそうとしたのでしょう。
3.もっとも恵みをいただいたのはマルタ
このお話では、マリアが正しくてマルタが間違っているように読めます。しかし、マルタの行動を考えると、
- (イエスさまこそ神であるとして、)勇気を出してイエスさまを招いた
- 自分の気持ちをありのままにイエスさまに伝えた
- 神さまの声を聞くことができた
となります。
この流れは、私たちの祈りの姿に似ています。身勝手な思いから、本来とるべき行動がとれず、神に祈ります。それは、わがままな願いに違いないのですが、神さまを信じて祈ります。すると、そのうちに自分の間違いに気付きます。これこそが、信仰の恵みではないでしょうか?マルタは、私たち信者の姿なのかもしれません。
4.一生懸命に働くマルタ
入門講座で神父さまは、マルタの中に働く人たちの姿を映されました。マルタの神への思いは間違っていなかったはずです。しかし、一生懸命に働くなかで、いつしかその思いは薄れ、いつも間にか働くことが目的になっていました。
神父さまはそれは、会社であくせくと働く私たちの姿であると言われました。
「働くことは悪いことではない。しかし、そこに神様がいなければ空しい」
心に響く言葉でした。
5.困り果てていたイエスさま
最後に、遠藤周作さんの「イエスに邂った女たち」の、ちょっと変わった解釈を紹介します。それは、イエスさまが困り果てていたというものです。
マルタがもてなしの用意をしているのに、マリアは手伝おうとしない。そこで、マルタとマリアの言い争いが始まったというのです。そして、それはイエスさまを巻き込むようになってしまいました。そして、マルタは「手伝うように言ってください!」とあてつけがましく言うのです。
そして、間に挟まれて困ったイエスさまは、口やかましいマルタに辟易しながらも、マルタをなだめるために言われたというのです。この解釈が思い浮かんだ時、遠藤さんは噴き出したそうです。そりゃあ、気の強そうな二人の女性の言い争いに巻き込まれたら、イエスさまもたまりませんよね。
(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)
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