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2007/08/21

ピカソの長~い洗礼名

大抵の洗礼名は、聖書の中の名前を一人、多い人で二人いただくものだと思っていましたが、世の中にはとんでもなく長い人もおられるようです。

独特の作風と、青の時代のように時期によって作風が変化したことで知られるパブロ・ピカソはスペイン生まれで、こんなに長い洗礼名だったようです。

パブロ、ディエーゴ、ホセー、フランシスコ・デ・パウラ、ホアン・ネポムセーノ、マリーア・デ・ロス・レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、デ・ラ・サンティシマ・トリニダード

Wikipediaによると、2回の結婚をしたほか、愛人もいたようです。また、平和主義者でしたが、60歳を過ぎてから共産党に入党し、生涯共産党員でした。

洗礼名の長さと信仰の深さはあまり関係がないようです。

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2007/08/19

目を覚まして社会の洗礼を受ける

昨日は茨木教会でミサに与り、そのあとに同じ個所を所属教会で分かち合いました。

福音は「分裂をもたらす(リンク先はJBS日本聖書協会)」(ルカ12・49)でした。説教では、海外から来られている神父さまと高山右近のお話をされました。海外から来られている神父さまは、神の御旨に従って骨をうずめる覚悟で日本に来られていますが、その親御さんは、必ずしも喜ばれているわけではありません。神父さまが海外に行くと言われたとき、引きとめたり、悲しまれることが多いようです。神の御旨に従うことは、愛する家族との間にも対立を生むものなのです。

高山右近の場合は豊臣秀吉と対立しました。2度にわたる禁教令によって、領地を捨てて小豆島に移り住み、さらには日本を捨ててマニラに移り住みました。信仰を捨てれば領主として残ることができましたが、神の御旨に従う道を選んだのです。対立を恐れずに御旨に従うことが必要なのです。

短い福音でしたが、聖書の分かち合いでは色々な色々なお話をすることができました。特に「対立」と言う言葉と「火」という言葉について、多くの意見を交換しました。

「対立」と言うとまるでアウグスティヌスの思想(リンク先はWikipedia)にはじまる「正戦論」のようにとらえてしまいそうになりますが、どうも違うようです。福音書はこのあと「時を見分ける」「訴える人と仲直りする」と続き、戦うのではなく、対立を生むことを覚悟するような意味合いのようです。

「火」は、ソドムとゴモラのイメージから、神さまに焼き尽くされるようなイメージを持ちがちです。しかし、福音にある「火」は、洗礼式のローソクのようなあたたかい「火」です。

その「火」は平和をもたらすための「火」ですが、異なる信仰をもつ人と妥協していれば平和を得ることはできません。対立を恐れずに常に目を覚まして置かなければなりません。そして時を待ち、平和の輪を広げていく、そのような教えが書かれているのだと思います。

先週の朗読箇所の最後のところには、こう書かれていました。

しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。(ルカ12・48)

真理を知らない人たちは罪深くはありませんが、真理を知ったものは、御旨にそむくことは許されないのです。

少数派の信仰者は社会の中で孤立しがちです。また、成人洗礼であるなら家庭の中でも孤立することもあるでしょう。しかし、どのような時も常に目を覚まし、イエスさまのように社会の洗礼を進んで受けることも必要なのかもしれません。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/08/16

聖母被昇天祭

昨日は生れてはじめての聖母被昇天祭(リンク先はカトリック中央協議会)でした。主任司祭と助任司祭の共同司式でミサが捧げられました。

入祭の歌は「とこしえに」(リンク先は典礼聖歌)でした。

とこしえにかみとともにさかえあれ
ははマリア アレルヤ

最初から良い感じです。そう、マリアさまは「神の母聖マリア」なんですよね。

福音朗読は「マリア、エリサベトを訪ねる/マリアの賛歌」(ルカ1・39-56:リンク先はJBS日本聖書協会)でした。聖母マリアがエリザベトをたずねると、胎児の洗礼者ヨハネが喜んでおどり、エリザベトはマリアに

「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」

と言います。そこで、マリアさまは身分の低いご自身に目をとめてくださった主をたたえ、「マリアの賛歌」述べられました。

その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。

この主の憐れみこそ、私たちの希望なのでしょうね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/08/14

恐れるな!

先日のミサで、ポルトガルから来られた神父さまが初めて高槻に来られた時のことをお話しされました。

言葉もたどたどしいのに、たった一人で見知らぬ教会に派遣されときのお話でした。神父さまには聖句が聞こえたそうです。

それは福音朗読にある「恐れるな」(ルカ12・32)と言う言葉です。この言葉は聖パウロがコリントで聞いた主の言葉でもあります(使徒18・9)。聖パウロがコリントの街に入ったとき、コリント人になったような気がしたそうです。そして聖霊が「わたしはこの町の住民の一人です」心の中でささやいたそうです。

神父さまは、このような引用をされて当時の気持を語られました。はじめての町への不安もあったと思われますが、聖霊の導きに従い、心穏やかに高槻の住民となられました。そんな神父さまの信仰の強さが、心に響きました(くわしくは神父さまが「教会だより」に書かれていますので、可能な方は是非ご覧ください)。

閉祭の歌は典礼聖歌408番でした。何度も聞いた歌ですが、いつもより身近に感じました。

ゆけ~ゆけ~地の果てまで
すくいのおとずれを告げるために♪

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2007/08/06

神よあなたの平和のうちに

ここのところ色々と忙しくて入門講座はお休みしましたし、先日のミサも時間ぎりぎりにでした。ミサの前の「ユスト高山右近の列福を求める祈り」の途中から何とか駆け込んで、気持ちが落ち着かないままにミサが始まりました。

入祭の歌は典礼聖歌91番(リンク先は典礼聖歌)でした。

こころしずかにわたしはいこう
かみよあなたのへいわのうちに

それまでの落ち着かない気持ちが、一気に落ち着きました。信仰をもたないなら、いつまでも心が静まることなく、バタバタ、イライラ、プリプリとしているのでしょうね。

ちなみに、この聖歌は詩編の4編9節がもとになっているようです。

平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです。

きょうは早めに切り上げて、ゆっくり休むことにしましょう。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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2007/08/05

そこに神様がいなければ空しい - マルタとマリア -

少し前になりますが、年間第16主日の福音朗読は「マルタとマリア」(ルカ10・38-42)でした。直前の入門講座、聖書の分かち合い、そしてミサ説教のすべてが同じ個所で、さらにこの箇所は遠藤周作さんの「イエスに邂った女たち」にも解説されています。

自分はマルタだとか、あるいはマリアだとか、分かち合うことが多いかと思いますが、今回のお話はそれぞれ興味深かったので、まとめておきます。 

1.マルタは裁いていた

お説教では、マルタがマリアに手伝うようにイエスさまにお願いしたことを、マルタはマリアのことを裁いていたとされました。マルタはイエスさまに話す前に、マリアのことを「少しは手伝って当然だ」と裁いていたのです。人と人は分かち合うことが大事なのです。

マルタは自分勝手な思いからマリアを裁きました。神様を信じながらも、その心は神さまの御心からはなれていたのでしょう。

2.勇気を出したマルタ

朗読箇所の最初にこう書かれています。

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。

この「すると」と言うのは、原著からの直訳なら「だがしかし」と言う意味だそうです。当時、男性が人を家に招くことがあっても、マルタのように女性が、男性を招くことはまれであったようです。そこで、原著では女性であるにもかかわらず、マルタは招いたと書いているようです。

だれが何と言おうとイエスさまを家に招きたかったマルタは、勇気を振りしぼって、イエスさまを招いたのでしょうね。そして、彼女なりに必死にもてなそうとしたのでしょう。

3.もっとも恵みをいただいたのはマルタ

このお話では、マリアが正しくてマルタが間違っているように読めます。しかし、マルタの行動を考えると、

  1. (イエスさまこそ神であるとして、)勇気を出してイエスさまを招いた
  2. 自分の気持ちをありのままにイエスさまに伝えた
  3. 神さまの声を聞くことができた

となります。

この流れは、私たちの祈りの姿に似ています。身勝手な思いから、本来とるべき行動がとれず、神に祈ります。それは、わがままな願いに違いないのですが、神さまを信じて祈ります。すると、そのうちに自分の間違いに気付きます。これこそが、信仰の恵みではないでしょうか?マルタは、私たち信者の姿なのかもしれません。

4.一生懸命に働くマルタ

入門講座で神父さまは、マルタの中に働く人たちの姿を映されました。マルタの神への思いは間違っていなかったはずです。しかし、一生懸命に働くなかで、いつしかその思いは薄れ、いつも間にか働くことが目的になっていました。

神父さまはそれは、会社であくせくと働く私たちの姿であると言われました。

「働くことは悪いことではない。しかし、そこに神様がいなければ空しい」

心に響く言葉でした。

5.困り果てていたイエスさま

最後に、遠藤周作さんの「イエスに邂った女たち」の、ちょっと変わった解釈を紹介します。それは、イエスさまが困り果てていたというものです。

マルタがもてなしの用意をしているのに、マリアは手伝おうとしない。そこで、マルタとマリアの言い争いが始まったというのです。そして、それはイエスさまを巻き込むようになってしまいました。そして、マルタは「手伝うように言ってください!」とあてつけがましく言うのです。

そして、間に挟まれて困ったイエスさまは、口やかましいマルタに辟易しながらも、マルタをなだめるために言われたというのです。この解釈が思い浮かんだ時、遠藤さんは噴き出したそうです。そりゃあ、気の強そうな二人の女性の言い争いに巻き込まれたら、イエスさまもたまりませんよね。

(聖書の引用は日本聖書協会 新共同訳)

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